はてなキーワード: 骨身とは
追記:この増田がホッテントリに入った直後にはてなのサーバがダウンしたようだ。理由はわからないが、、、。
昔、輸入業者をやっていた。本社は東京、商材は雑多だったが、中東案件は特に多かった。市場調査もかねてカタール、サウジ、イスラエル、ヨルダンと出張を繰り返した時期がある。
だが、ある日、違和感を覚えた。現地で何度も顔を合わせる「偶然の知り合い」が出てきた。イスラエル絡みの商談会で、必ず現れるスーツ姿の「ビジネスマン」。名刺も交換したが、会社の登記データベースを見てもヒットしない。肩書きも業種もあいまいで、会話も当たり障りなく、本人は妙にこっちの動きを気にしていた。どのレストランに入っても、数分後には彼がいた。ホテルのロビー、空港ラウンジ、なぜか同じ便。
こっちはビジネスで動いているだけだが、イスラエルは輸出入品や人的流動の管理が異常に厳しい。何度も出入りしてるとパスポートにびっしりと記録がつく。「今回は何の目的?」と入国カウンターでしつこく聞かれ、営業先に「事前に情報が回ってる気がする」こともあった。おかしいなと思ってたら、例の「ビジネスマン」が近づいてきた。コーヒーを奢ってくれた。会話はごく普通なのだが、途中途中で「日本から他のバイヤーは来ていないのか」「どんなルートで製品を動かしているのか」みたいな具体的な質問が混ざる。返事をすると、わざとらしく「そうか、なるほど。ところで…」と別の話題に切り替える。完全に情報収集の型だった。
明言はしないが、滲み出る「ただの商社マンではない感」。視線、質問の角度、油断すると設定してあるマイクで何かを録られそうだと直感が働く。イスタンブールの展示会でもまた彼。ドバイの空港でもまた彼。もはや「追われてる」としか思えない頻度だった。
一番怖かったのはホテルの部屋が勝手に掃除されて何も盗まれていなかった日だ。そんなことはザラにある国だが、念のため現地の日本大使館に相談したら、「きみの旅程は特定国でマークされてる可能性が高い」とやんわり言われた。
結局、大事にはならなかった。荷物検査で「たまたま持ち物が徹底的に洗われる」「検問所で足止めされる」ということは何度もあったが、「私はただの中小企業の輸入業者です」を貫けば日常が続いた。しかし、後になって冷静に考えると、あれはたぶんモサドだったんじゃないかと思う。現地の情報ネットワークは抜け目がないし、怪しい相手には「友好的な皮を被った圧力」をかけてくる。日本人の中東ビジネスは、思ったよりはるかに“見られている”環境だったことを、骨身に染みて理解した。
まあ、普通に働いている分には表沙汰にならないし、今はもう何の接点もない。ただ、あの定期的に出くわしていた「ビジネスマン」の視線は、今でもふいに思い出して少しだけ背筋が冷たくなる。
「いやぁ〜、やっぱり天ぷらはこうして天つゆにどっぷり浸けて、大根おろしを山ほど混ぜて食べるのが一番うまいですなぁ!」
山岡(ジロッと睨んで)
「……そんな食べ方してるようじゃあ、天ぷらを食べる資格はないね。」
富井(箸を止めて青ざめる)
「何を言うかぁ〜!山岡!」
栗田(慌てて)
「山岡さん、またそんな言い方……!」
山岡(吐き捨てるように)
「アンタらは天ぷらを食べる資格がない。断言するね。普段食ってるのは天ぷらじゃない、“天ぷらの形をした何か”だ。」
山岡「昨日だってそうだ。新橋の老舗で見かけたサラリーマン、席につくなりスマホで写真を撮って、天つゆをドボドボ大根おろしにかけて、揚げたての海老天をベチャッと浸して食べやがった。あれで“天ぷらを食べた”気になってるんだから救いようがない。」
「でも、順番なんて決まってるんですか? 好きなものから食べればいいじゃないですか。」
「バカ言うな! 天ぷらはまず海老だ。海老の甘みと衣のサクサク感で職人の調子を測るんだ。次に白身魚で油の温度管理を見極める。野菜は最後。ナスもシシトウもカボチャも油を吸うから、先に食べたら舌が麻痺するんだよ!」
栗田(小さく頷きながら)
「なるほど……だから順番があるのね。」
「で、でも天つゆに浸けるのが普通じゃ……」
山岡(バッサリ)
「海老天に天つゆなんて邪道だ! 海老は塩で食え。粗塩で十分だ。天つゆを使うのは野菜のときだけだ。それも、軽くちょんとつける程度だ。」
新聞部員A
「へぇ〜……衣や油にもこだわりがあるんですか?」
「当然だ。水は氷水。衣は混ぜすぎない。油は胡麻油とサラダ油を八対二。海老は一七〇度、魚は一六〇度、葉物は一八〇度。温度計なんていらない、衣を落として泡で見極めろ。それができない奴に天ぷらを作る資格はない。」
新聞部員B(感心して)
「……そんなに違うんですか、家の天ぷらと。」
山岡「違うに決まってるだろう。だが世の中は偽物ばかりだ。回転寿司やコンビニで出てくる冷凍食品を“天ぷら”だとありがたがってる。あれは天ぷらじゃない。油で揚げただけの安物だ。」
富井(冷や汗をかきながら)
「うう……もう回転寿司で天ぷら食べられなくなるじゃないか……」
山岡(冷たく言い放つ)
「本物の天ぷらを一度でも食べたら、もう偽物には戻れない。チェーン店もコンビニも、プラスチックの味にしか感じなくなるだろうな。それでも構わないなら、本物を口にしてみろ。今まで食べてきたものが“天ぷらじゃなかった”と、骨身に染みて分かるはずだ。」
文化部の面々(全員でごくりと唾を飲み込む)
「…………。」
海原雄山(フッと笑いながら突然登場)
「くだらん……。そんな戯言を並べて“天ぷら”を語ったつもりか、山岡。」
(場の空気が一変し、全員が振り返る)
つづかない(作:ChatGPT)
人間ってなくそうとするよりも別のもので置き換えるほうが圧倒的にやりやすいみたいなことを言うけれど...
例えば、「見るなの禁」みたいなのは「見るな」と言うから耐えられないけど、そこに物理的に見られなくするタスクでも挟んでおくと気が付いたら見てないってことになるんじゃないかな。
「前もいったけど」じゃなくて、「大事なことだから何度でも言うよ!」とか「これは何回でも聞いてかみしめてね!」とかもっとポジティブ感がある別の言葉で言えばいいと思うんだよな。
と、書きながら大事なことは何度も言って部隊に浸透させろ!はTurn the ship around!(邦題:
米海軍で屈指の潜水艦艦長による「最強組織」の作り方)みたいだなって思った。
「前にも言ったけど」という状況は「何度もいうほど大事なこと」か「自分の説明が悪かったこと」かの二つくらいしかなくない?とは思う。
「机の上に乗らないで」というのは、多分何度でも言い聞かせる価値がある大事な注意事項で、それが相手の骨身となるまでに時間を要するから何度も言って聞かせないといけないやつ。
何かの説明を繰り返させられるというのは、多分前回の自分の説明が相手に理解できるようなものではなかったか、相手に残るものではなかったかだと思うので、これは自分の表現力・説明力を伸ばすチャンスだと思って「ちょうどいい!これに他の説明がつけられるか訓練しているんですよ」って発想で行ってしまえばいいと思う。
森エルフ
山エルフ
海エルフ
谷エルフ
闇エルフ
黒エルフ
地下エルフ
脱法エルフ
森の奥深くで、豪快な森エルフたちが青々とした樹の間に集まり、軽やかな歌声を響かせていた。
岩と雲に囲まれた頂では、山エルフが悠然と険しい石段を登り、大地の力を骨身に感じていた。
波間にたゆたう海エルフは、水しぶきをまといながら潮騒と共に舞い踊る。
谷エルフは虹がかかる渓谷の底で、涼風に揺れる花を手に、仲間と語らう。
広がる草原で、平野エルフたちは陽光を浴びながら疾風のごとく駆けまわる。
天空エルフは柔らかな雲と共に飛翔し、空の彼方から静かに下界を見守る。
闇エルフは月明かりだけに照らされて、影の中から鋭い眼差しを送る。
黒エルフは秘めし魔法と深い知恵を持って、沈黙のまま集団を見つめている。
地下エルフは鉱石と地下水の香りに包まれながら、洞窟の奥でそっと息をひそめる。
その傍ら、脱法エルフが密かに現れ、独自のルールと奇抜な装いで皆を驚かせる。
こうして全エルフ大集合の宴が始まり、多種多様なエルフが互いの文化や技を披露し合う。
森には歌が、山には太鼓が、海には舞が、谷には花が、平野には勝負が、天空には光が、闇には秘密が、黒には知恵が、地下には鉱石が、脱法には笑いが満ちていた。
しかし、事態は、実に思いがけなく、もっと悪く展開せられました。
「やめた!」
と堀木は、口をゆがめて言い、
「さすがのおれも、こんな貧乏くさい女には、……」
閉口し切ったように、腕組みしてツネ子をじろじろ眺め、苦笑するのでした。
自分は、小声でツネ子に言いました。それこそ、浴びるほど飲んでみたい気持でした。所謂俗物の眼から見ると、ツネ子は酔漢のキスにも価いしない、ただ、みすぼらしい、貧乏くさい女だったのでした。案外とも、意外とも、自分には霹靂へきれきに撃ちくだかれた思いでした。自分は、これまで例の無かったほど、いくらでも、いくらでも、お酒を飲み、ぐらぐら酔って、ツネ子と顔を見合せ、哀かなしく微笑ほほえみ合い、いかにもそう言われてみると、こいつはへんに疲れて貧乏くさいだけの女だな、と思うと同時に、金の無い者どうしの親和(貧富の不和は、陳腐のようでも、やはりドラマの永遠のテーマの一つだと自分は今では思っていますが)そいつが、その親和感が、胸に込み上げて来て、ツネ子がいとしく、生れてこの時はじめて、われから積極的に、微弱ながら恋の心の動くのを自覚しました。吐きました。前後不覚になりました。お酒を飲んで、こんなに我を失うほど酔ったのも、その時がはじめてでした。
眼が覚めたら、枕もとにツネ子が坐っていました。本所の大工さんの二階の部屋に寝ていたのでした。
「金の切れめが縁の切れめ、なんておっしゃって、冗談かと思うていたら、本気か。来てくれないのだもの。ややこしい切れめやな。うちが、かせいであげても、だめか」
「だめ」
それから、女も休んで、夜明けがた、女の口から「死」という言葉がはじめて出て、女も人間としての営みに疲れ切っていたようでしたし、また、自分も、世の中への恐怖、わずらわしさ、金、れいの運動、女、学業、考えると、とてもこの上こらえて生きて行けそうもなく、そのひとの提案に気軽に同意しました。
けれども、その時にはまだ、実感としての「死のう」という覚悟は、出来ていなかったのです。どこかに「遊び」がひそんでいました。
その日の午前、二人は浅草の六区をさまよっていました。喫茶店にはいり、牛乳を飲みました。
「あなた、払うて置いて」
自分は立って、袂たもとからがま口を出し、ひらくと、銅銭が三枚、羞恥しゅうちよりも凄惨せいさんの思いに襲われ、たちまち脳裡のうりに浮ぶものは、仙遊館の自分の部屋、制服と蒲団だけが残されてあるきりで、あとはもう、質草になりそうなものの一つも無い荒涼たる部屋、他には自分のいま着て歩いている絣の着物と、マント、これが自分の現実なのだ、生きて行けない、とはっきり思い知りました。
自分がまごついているので、女も立って、自分のがま口をのぞいて、
「あら、たったそれだけ?」
無心の声でしたが、これがまた、じんと骨身にこたえるほどに痛かったのです。はじめて自分が、恋したひとの声だけに、痛かったのです。それだけも、これだけもない、銅銭三枚は、どだいお金でありません。それは、自分が未いまだかつて味わった事の無い奇妙な屈辱でした。とても生きておられない屈辱でした。所詮しょせんその頃の自分は、まだお金持ちの坊ちゃんという種属から脱し切っていなかったのでしょう。その時、自分は、みずからすすんでも死のうと、実感として決意したのです。
その夜、自分たちは、鎌倉の海に飛び込みました。女は、この帯はお店のお友達から借りている帯やから、と言って、帯をほどき、畳んで岩の上に置き、自分もマントを脱ぎ、同じ所に置いて、一緒に入水じゅすいしました。
女のひとは、死にました。そうして、自分だけ助かりました。
自分が高等学校の生徒ではあり、また父の名にもいくらか、所謂ニュウス・ヴァリュがあったのか、新聞にもかなり大きな問題として取り上げられたようでした。
自分は海辺の病院に収容せられ、故郷から親戚しんせきの者がひとり駈けつけ、さまざまの始末をしてくれて、そうして、くにの父をはじめ一家中が激怒しているから、これっきり生家とは義絶になるかも知れぬ、と自分に申し渡して帰りました。けれども自分は、そんな事より、死んだツネ子が恋いしく、めそめそ泣いてばかりいました。本当に、いままでのひとの中で、あの貧乏くさいツネ子だけを、すきだったのですから。
下宿の娘から、短歌を五十も書きつらねた長い手紙が来ました。「生きくれよ」というへんな言葉ではじまる短歌ばかり、五十でした。また、自分の病室に、看護婦たちが陽気に笑いながら遊びに来て、自分の手をきゅっと握って帰る看護婦もいました。
自分の左肺に故障のあるのを、その病院で発見せられ、これがたいへん自分に好都合な事になり、やがて自分が自殺幇助ほうじょ罪という罪名で病院から警察に連れて行かれましたが、警察では、自分を病人あつかいにしてくれて、特に保護室に収容しました。
深夜、保護室の隣りの宿直室で、寝ずの番をしていた年寄りのお巡まわりが、間のドアをそっとあけ、
「おい!」
と自分に声をかけ、
「寒いだろう。こっちへ来て、あたれ」
と言いました。
自分は、わざとしおしおと宿直室にはいって行き、椅子に腰かけて火鉢にあたりました。
「やはり、死んだ女が恋いしいだろう」
「はい」
彼は次第に、大きく構えて来ました。
「はじめ、女と関係を結んだのは、どこだ」
ほとんど裁判官の如く、もったいぶって尋ねるのでした。彼は、自分を子供とあなどり、秋の夜のつれづれに、あたかも彼自身が取調べの主任でもあるかのように装い、自分から猥談わいだんめいた述懐を引き出そうという魂胆のようでした。自分は素早くそれを察し、噴き出したいのを怺こらえるのに骨を折りました。そんなお巡りの「非公式な訊問」には、いっさい答を拒否してもかまわないのだという事は、自分も知っていましたが、しかし、秋の夜ながに興を添えるため、自分は、あくまでも神妙に、そのお巡りこそ取調べの主任であって、刑罰の軽重の決定もそのお巡りの思召おぼしめし一つに在るのだ、という事を固く信じて疑わないような所謂誠意をおもてにあらわし、彼の助平の好奇心を、やや満足させる程度のいい加減な「陳述」をするのでした。
「うん、それでだいたいわかった。何でも正直に答えると、わしらのほうでも、そこは手心を加える」
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
ほとんど入神の演技でした。そうして、自分のためには、何も、一つも、とくにならない力演なのです。
夜が明けて、自分は署長に呼び出されました。こんどは、本式の取調べなのです。
ドアをあけて、署長室にはいったとたんに、
「おう、いい男だ。これあ、お前が悪いんじゃない。こんな、いい男に産んだお前のおふくろが悪いんだ」
色の浅黒い、大学出みたいな感じのまだ若い署長でした。いきなりそう言われて自分は、自分の顔の半面にべったり赤痣あかあざでもあるような、みにくい不具者のような、みじめな気がしました。
この柔道か剣道の選手のような署長の取調べは、実にあっさりしていて、あの深夜の老巡査のひそかな、執拗しつようきわまる好色の「取調べ」とは、雲泥の差がありました。訊問がすんで、署長は、検事局に送る書類をしたためながら、
「からだを丈夫にしなけれゃ、いかんね。血痰けったんが出ているようじゃないか」
と言いました。
その朝、へんに咳せきが出て、自分は咳の出るたびに、ハンケチで口を覆っていたのですが、そのハンケチに赤い霰あられが降ったみたいに血がついていたのです。けれども、それは、喉のどから出た血ではなく、昨夜、耳の下に出来た小さいおできをいじって、そのおできから出た血なのでした。しかし、自分は、それを言い明さないほうが、便宜な事もあるような気がふっとしたものですから、ただ、
「はい」
と、伏眼になり、殊勝げに答えて置きました。
署長は書類を書き終えて、
「起訴になるかどうか、それは検事殿がきめることだが、お前の身元引受人に、電報か電話で、きょう横浜の検事局に来てもらうように、たのんだほうがいいな。誰か、あるだろう、お前の保護者とか保証人とかいうものが」
父の東京の別荘に出入りしていた書画骨董こっとう商の渋田という、自分たちと同郷人で、父のたいこ持ちみたいな役も勤めていたずんぐりした独身の四十男が、自分の学校の保証人になっているのを、自分は思い出しました。その男の顔が、殊に眼つきが、ヒラメに似ているというので、父はいつもその男をヒラメと呼び、自分も、そう呼びなれていました。
自分は警察の電話帳を借りて、ヒラメの家の電話番号を捜し、見つかったので、ヒラメに電話して、横浜の検事局に来てくれるように頼みましたら、ヒラメは人が変ったみたいな威張った口調で、それでも、とにかく引受けてくれました。
「おい、その電話機、すぐ消毒したほうがいいぜ。何せ、血痰が出ているんだから」
自分が、また保護室に引き上げてから、お巡りたちにそう言いつけている署長の大きな声が、保護室に坐っている自分の耳にまで、とどきました。
お昼すぎ、自分は、細い麻繩で胴を縛られ、それはマントで隠すことを許されましたが、その麻繩の端を若いお巡りが、しっかり握っていて、二人一緒に電車で横浜に向いました。
けれども、自分には少しの不安も無く、あの警察の保護室も、老巡査もなつかしく、嗚呼ああ、自分はどうしてこうなのでしょう、罪人として縛られると、かえってほっとして、そうしてゆったり落ちついて、その時の追憶を、いま書くに当っても、本当にのびのびした楽しい気持になるのです。
しかし、その時期のなつかしい思い出の中にも、たった一つ、冷汗三斗の、生涯わすれられぬ悲惨なしくじりがあったのです。自分は、検事局の薄暗い一室で、検事の簡単な取調べを受けました。検事は四十歳前後の物静かな、(もし自分が美貌だったとしても、それは謂いわば邪淫の美貌だったに違いありませんが、その検事の顔は、正しい美貌、とでも言いたいような、聡明な静謐せいひつの気配を持っていました)コセコセしない人柄のようでしたので、自分も全く警戒せず、ぼんやり陳述していたのですが、突然、れいの咳が出て来て、自分は袂からハンケチを出し、ふとその血を見て、この咳もまた何かの役に立つかも知れぬとあさましい駈引きの心を起し、ゴホン、ゴホンと二つばかり、おまけの贋にせの咳を大袈裟おおげさに附け加えて、ハンケチで口を覆ったまま検事の顔をちらと見た、間一髪、
「ほんとうかい?」
ものしずかな微笑でした。冷汗三斗、いいえ、いま思い出しても、きりきり舞いをしたくなります。中学時代に、あの馬鹿の竹一から、ワザ、ワザ、と言われて脊中せなかを突かれ、地獄に蹴落けおとされた、その時の思い以上と言っても、決して過言では無い気持です。あれと、これと、二つ、自分の生涯に於ける演技の大失敗の記録です。検事のあんな物静かな侮蔑ぶべつに遭うよりは、いっそ自分は十年の刑を言い渡されたほうが、ましだったと思う事さえ、時たまある程なのです。
自分は起訴猶予になりました。けれども一向にうれしくなく、世にもみじめな気持で、検事局の控室のベンチに腰かけ、引取り人のヒラメが来るのを待っていました。
背後の高い窓から夕焼けの空が見え、鴎かもめが、「女」という字みたいな形で飛んでいました。
[#改頁]
第三の手記
一
竹一の予言の、一つは当り、一つは、はずれました。惚ほれられるという、名誉で無い予言のほうは、あたりましたが、きっと偉い絵画きになるという、祝福の予言は、はずれました。
自分は、わずかに、粗悪な雑誌の、無名の下手な漫画家になる事が出来ただけでした。
鎌倉の事件のために、高等学校からは追放せられ、自分は、ヒラメの家の二階の、三畳の部屋で寝起きして、故郷からは月々、極めて小額の金が、それも直接に自分宛ではなく、ヒラメのところにひそかに送られて来ている様子でしたが、(しかも、それは故郷の兄たちが、父にかくして送ってくれているという形式になっていたようでした)それっきり、あとは故郷とのつながりを全然、断ち切られてしまい、そうして、ヒラメはいつも不機嫌、自分があいそ笑いをしても、笑わず、人間というものはこんなにも簡単に、それこそ手のひらをかえすが如くに変化できるものかと、あさましく、いや、むしろ滑稽に思われるくらいの、ひどい変り様で、
「出ちゃいけませんよ。とにかく、出ないで下さいよ」
そればかり自分に言っているのでした。
ヒラメは、自分に自殺のおそれありと、にらんでいるらしく、つまり、女の後を追ってまた海へ飛び込んだりする危険があると見てとっているらしく、自分の外出を固く禁じているのでした。けれども、酒も飲めないし、煙草も吸えないし、ただ、朝から晩まで二階の三畳のこたつにもぐって、古雑誌なんか読んで阿呆同然のくらしをしている自分には、自殺の気力さえ失われていました。
ヒラメの家は、大久保の医専の近くにあり、書画骨董商、青竜園、だなどと看板の文字だけは相当に気張っていても、一棟二戸の、その一戸で、店の間口も狭く、店内はホコリだらけで、いい加減なガラクタばかり並べ、(もっとも、ヒラメはその店のガラクタにたよって商売しているわけではなく、こっちの所謂旦那の秘蔵のものを、あっちの所謂旦那にその所有権をゆずる場合などに活躍して、お金をもうけているらしいのです)店に坐っている事は殆ど無く、たいてい朝から、むずかしそうな顔をしてそそくさと出かけ、留守は十七、八の小僧ひとり、これが自分の見張り番というわけで、ひまさえあれば近所の子供たちと外でキャッチボールなどしていても、二階の居候をまるで馬鹿か気違いくらいに思っているらしく、大人おとなの説教くさい事まで自分に言い聞かせ、自分は、ひとと言い争いの出来ない質たちなので、疲れたような、また、感心したような顔をしてそれに耳を傾け、服従しているのでした。この小僧は渋田のかくし子で、それでもへんな事情があって、渋田は所謂親子の名乗りをせず、また渋田がずっと独身なのも、何やらその辺に理由があっての事らしく、自分も以前、自分の家の者たちからそれに就いての噂うわさを、ちょっと聞いたような気もするのですが、自分は、どうも他人の身の上には、あまり興味を持てないほうなので、深い事は何も知りません。しかし、その小僧の眼つきにも、妙に魚の眼を聯想れんそうさせるところがありましたから、或いは、本当にヒラメのかくし子、……でも、それならば、二人は実に淋しい親子でした。夜おそく、二階の自分には内緒で、二人でおそばなどを取寄せて無言で食べている事がありました。
ヒラメの家では食事はいつもその小僧がつくり、二階のやっかい者の食事だけは別にお膳ぜんに載せて小僧が三度々々二階に持ち運んで来てくれて、ヒラメと小僧は、階段の下のじめじめした四畳半で何やら、カチャカチャ皿小鉢の触れ合う音をさせながら、いそがしげに食事しているのでした。
三月末の或る夕方、ヒラメは思わぬもうけ口にでもありついたのか、または何か他に策略でもあったのか、(その二つの推察が、ともに当っていたとしても、おそらくは、さらにまたいくつかの、自分などにはとても推察のとどかないこまかい原因もあったのでしょうが)自分を階下の珍らしくお銚子ちょうしなど附いている食卓に招いて、ヒラメならぬマグロの刺身に、ごちそうの主人あるじみずから感服し、賞讃しょうさんし、ぼんやりしている居候にも少しくお酒をすすめ、
「どうするつもりなんです、いったい、これから」
自分はそれに答えず、卓上の皿から畳鰯たたみいわしをつまみ上げ、その小魚たちの銀の眼玉を眺めていたら、酔いがほのぼの発して来て、遊び廻っていた頃がなつかしく、堀木でさえなつかしく、つくづく「自由」が欲しくなり、ふっと、かぼそく泣きそうになりました。
自分がこの家へ来てからは、道化を演ずる張合いさえ無く、ただもうヒラメと小僧の蔑視の中に身を横たえ、ヒラメのほうでもまた、自分と打ち解けた長噺をするのを避けている様子でしたし、自分もそのヒラメを追いかけて何かを訴える気などは起らず、ほとんど自分は、間抜けづらの居候になり切っていたのです。
「起訴猶予というのは、前科何犯とか、そんなものには、ならない模様です。だから、まあ、あなたの心掛け一つで、更生が出来るわけです。あなたが、もし、改心して、あなたのほうから、真面目に私に相談を持ちかけてくれたら、私も考えてみます」
ヒラメの話方には、いや、世の中の全部の人の話方には、このようにややこしく、どこか朦朧もうろうとして、逃腰とでもいったみたいな微妙な複雑さがあり、そのほとんど無益と思われるくらいの厳重な警戒と、無数といっていいくらいの小うるさい駈引とには、いつも自分は当惑し、どうでもいいやという気分になって、お道化で茶化したり、または無言の首肯で一さいおまかせという、謂わば敗北の態度をとってしまうのでした。
この時もヒラメが、自分に向って、だいたい次のように簡単に報告すれば、それですむ事だったのを自分は後年に到って知り、ヒラメの不必要な用心、いや、世の中の人たちの不可解な見栄、おていさいに、何とも陰鬱な思いをしました。
「官立でも私立でも、とにかく四月から、どこかの学校へはいりなさい。あなたの生活費は、学校へはいると、くにから、もっと充分に送って来る事になっているのです。」
ずっと後になってわかったのですが、事実は、そのようになっていたのでした。そうして、自分もその言いつけに従ったでしょう。それなのに、ヒラメのいやに用心深く持って廻った言い方のために、妙にこじれ、自分の生きて行く方向もまるで変ってしまったのです。
「真面目に私に相談を持ちかけてくれる気持が無ければ、仕様がないですが」
「どんな相談?」
自分には、本当に何も見当がつかなかったのです。
「それは、あなたの胸にある事でしょう?」
「たとえば?」
「働いたほうが、いいんですか?」
「いや、あなたの気持は、いったいどうなんです」
「そりゃ、お金が要ります。しかし、問題は、お金でない。あなたの気持です」
お金は、くにから来る事になっているんだから、となぜ一こと、言わなかったのでしょう。その一言に依って、自分の気持も、きまった筈なのに、自分には、ただ五里霧中でした。
「どうですか? 何か、将来の希望、とでもいったものが、あるんですか? いったい、どうも、ひとをひとり世話しているというのは、どれだけむずかしいものだか、世話されているひとには、わかりますまい」
「すみません」
「そりゃ実に、心配なものです。私も、いったんあなたの世話を引受けた以上、あなたにも、生半可なまはんかな気持でいてもらいたくないのです。立派に更生の道をたどる、という覚悟のほどを見せてもらいたいのです。たとえば、あなたの将来の方針、それに就いてあなたのほうから私に、まじめに相談を持ちかけて来たなら、私もその相談には応ずるつもりでいます。それは、どうせこんな、貧乏なヒラメの援助なのですから、以前のようなぜいたくを望んだら、あてがはずれます。しかし、あなたの気持がしっかりしていて、将来の方針をはっきり打ち樹たて、そうして私に相談をしてくれたら、私は、たといわずかずつでも、あなたの更生のために、お手伝いしようとさえ思っているんです。わかりますか? 私の気持が。いったい、あなたは、これから、どうするつもりでいるのです」
「ここの二階に、置いてもらえなかったら、働いて、……」
「本気で、そんな事を言っているのですか? いまのこの世の中に、たとい帝国大学校を出たって、……」
「いいえ、サラリイマンになるんでは無いんです」
「それじゃ、何です」
「画家です」
思い切って、それを言いました。
「へええ?」
自分は、その時の、頸くびをちぢめて笑ったヒラメの顔の、いかにもずるそうな影を忘れる事が出来ません。軽蔑の影にも似て、それとも違い、世の中を海にたとえると、その海の千尋ちひろの深さの箇所に、そんな奇妙な影がたゆとうていそうで、何か、おとなの生活の奥底をチラと覗のぞかせたような笑いでした。
そんな事では話にも何もならぬ、ちっとも気持がしっかりしていない、考えなさい、今夜一晩まじめに考えてみなさい、と言われ、自分は追われるように二階に上って、寝ても、別に何の考えも浮びませんでした。そうして、あけがたになり、ヒラメの家から逃げました。
また、犯人意識、という言葉もあります。自分は、この人間の世の中に於いて、一生その意識に苦しめられながらも、しかし、それは自分の糟糠そうこうの妻の如き好伴侶はんりょで、そいつと二人きりで侘わびしく遊びたわむれているというのも、自分の生きている姿勢の一つだったかも知れないし、また、俗に、脛すねに傷持つ身、という言葉もあるようですが、その傷は、自分の赤ん坊の時から、自然に片方の脛にあらわれて、長ずるに及んで治癒するどころか、いよいよ深くなるばかりで、骨にまで達し、夜々の痛苦は千変万化の地獄とは言いながら、しかし、(これは、たいへん奇妙な言い方ですけど)その傷は、次第に自分の血肉よりも親しくなり、その傷の痛みは、すなわち傷の生きている感情、または愛情の囁ささやきのようにさえ思われる、そんな男にとって、れいの地下運動のグルウプの雰囲気が、へんに安心で、居心地がよく、つまり、その運動の本来の目的よりも、その運動の肌が、自分に合った感じなのでした。堀木の場合は、ただもう阿呆のひやかしで、いちど自分を紹介しにその会合へ行ったきりで、マルキシストは、生産面の研究と同時に、消費面の視察も必要だなどと下手な洒落しゃれを言って、その会合には寄りつかず、とかく自分を、その消費面の視察のほうにばかり誘いたがるのでした。思えば、当時は、さまざまの型のマルキシストがいたものです。堀木のように、虚栄のモダニティから、それを自称する者もあり、また自分のように、ただ非合法の匂いが気にいって、そこに坐り込んでいる者もあり、もしもこれらの実体が、マルキシズムの真の信奉者に見破られたら、堀木も自分も、烈火の如く怒られ、卑劣なる裏切者として、たちどころに追い払われた事でしょう。しかし、自分も、また、堀木でさえも、なかなか除名の処分に遭わず、殊にも自分は、その非合法の世界に於いては、合法の紳士たちの世界に於けるよりも、かえってのびのびと、所謂「健康」に振舞う事が出来ましたので、見込みのある「同志」として、噴き出したくなるほど過度に秘密めかした、さまざまの用事をたのまれるほどになったのです。また、事実、自分は、そんな用事をいちども断ったことは無く、平気でなんでも引受け、へんにぎくしゃくして、犬(同志は、ポリスをそう呼んでいました)にあやしまれ不審訊問じんもんなどを受けてしくじるような事も無かったし、笑いながら、また、ひとを笑わせながら、そのあぶない(その運動の連中は、一大事の如く緊張し、探偵小説の下手な真似みたいな事までして、極度の警戒を用い、そうして自分にたのむ仕事は、まことに、あっけにとられるくらい、つまらないものでしたが、それでも、彼等は、その用事を、さかんに、あぶながって力んでいるのでした)と、彼等の称する仕事を、とにかく正確にやってのけていました。自分のその当時の気持としては、党員になって捕えられ、たとい終身、刑務所で暮すようになったとしても、平気だったのです。世の中の人間の「実生活」というものを恐怖しながら、毎夜の不眠の地獄で呻うめいているよりは、いっそ牢屋ろうやのほうが、楽かも知れないとさえ考えていました。
父は、桜木町の別荘では、来客やら外出やら、同じ家にいても、三日も四日も自分と顔を合せる事が無いほどでしたが、しかし、どうにも、父がけむったく、おそろしく、この家を出て、どこか下宿でも、と考えながらもそれを言い出せずにいた矢先に、父がその家を売払うつもりらしいという事を別荘番の老爺ろうやから聞きました。
父の議員の任期もそろそろ満期に近づき、いろいろ理由のあった事に違いありませんが、もうこれきり選挙に出る意志も無い様子で、それに、故郷に一棟、隠居所など建てたりして、東京に未練も無いらしく、たかが、高等学校の一生徒に過ぎない自分のために、邸宅と召使いを提供して置くのも、むだな事だとでも考えたのか、(父の心もまた、世間の人たちの気持ちと同様に、自分にはよくわかりません)とにかく、その家は、間も無く人手にわたり、自分は、本郷森川町の仙遊館という古い下宿の、薄暗い部屋に引越して、そうして、たちまち金に困りました。
それまで、父から月々、きまった額の小遣いを手渡され、それはもう、二、三日で無くなっても、しかし、煙草も、酒も、チイズも、くだものも、いつでも家にあったし、本や文房具やその他、服装に関するものなど一切、いつでも、近所の店から所謂「ツケ」で求められたし、堀木におそばか天丼などをごちそうしても、父のひいきの町内の店だったら、自分は黙ってその店を出てもかまわなかったのでした。
それが急に、下宿のひとり住いになり、何もかも、月々の定額の送金で間に合わせなければならなくなって、自分は、まごつきました。送金は、やはり、二、三日で消えてしまい、自分は慄然りつぜんとし、心細さのために狂うようになり、父、兄、姉などへ交互にお金を頼む電報と、イサイフミの手紙(その手紙に於いて訴えている事情は、ことごとく、お道化の虚構でした。人にものを頼むのに、まず、その人を笑わせるのが上策と考えていたのです)を連発する一方、また、堀木に教えられ、せっせと質屋がよいをはじめ、それでも、いつもお金に不自由をしていました。
所詮、自分には、何の縁故も無い下宿に、ひとりで「生活」して行く能力が無かったのです。自分は、下宿のその部屋に、ひとりでじっとしているのが、おそろしく、いまにも誰かに襲われ、一撃せられるような気がして来て、街に飛び出しては、れいの運動の手伝いをしたり、或いは堀木と一緒に安い酒を飲み廻ったりして、ほとんど学業も、また画の勉強も放棄し、高等学校へ入学して、二年目の十一月、自分より年上の有夫の婦人と情死事件などを起し、自分の身の上は、一変しました。
学校は欠席するし、学科の勉強も、すこしもしなかったのに、それでも、妙に試験の答案に要領のいいところがあるようで、どうやらそれまでは、故郷の肉親をあざむき通して来たのですが、しかし、もうそろそろ、出席日数の不足など、学校のほうから内密に故郷の父へ報告が行っているらしく、父の代理として長兄が、いかめしい文章の長い手紙を、自分に寄こすようになっていたのでした。けれども、それよりも、自分の直接の苦痛は、金の無い事と、それから、れいの運動の用事が、とても遊び半分の気持では出来ないくらい、はげしく、いそがしくなって来た事でした。中央地区と言ったか、何地区と言ったか、とにかく本郷、小石川、下谷、神田、あの辺の学校全部の、マルクス学生の行動隊々長というものに、自分はなっていたのでした。武装蜂起ほうき、と聞き、小さいナイフを買い(いま思えば、それは鉛筆をけずるにも足りない、きゃしゃなナイフでした)それを、レンコオトのポケットにいれ、あちこち飛び廻って、所謂いわゆる「聯絡れんらく」をつけるのでした。お酒を飲んで、ぐっすり眠りたい、しかし、お金がありません。しかも、P(党の事を、そういう隠語で呼んでいたと記憶していますが、或いは、違っているかも知れません)のほうからは、次々と息をつくひまも無いくらい、用事の依頼がまいります。自分の病弱のからだでは、とても勤まりそうも無くなりました。もともと、非合法の興味だけから、そのグルウプの手伝いをしていたのですし、こんなに、それこそ冗談から駒が出たように、いやにいそがしくなって来ると、自分は、ひそかにPのひとたちに、それはお門かどちがいでしょう、あなたたちの直系のものたちにやらせたらどうですか、というようないまいましい感を抱くのを禁ずる事が出来ず、逃げました。逃げて、さすがに、いい気持はせず、死ぬ事にしました。
その頃、自分に特別の好意を寄せている女が、三人いました。ひとりは、自分の下宿している仙遊館の娘でした。この娘は、自分がれいの運動の手伝いでへとへとになって帰り、ごはんも食べずに寝てしまってから、必ず用箋ようせんと万年筆を持って自分の部屋にやって来て、
「ごめんなさい。下では、妹や弟がうるさくて、ゆっくり手紙も書けないのです」
と言って、何やら自分の机に向って一時間以上も書いているのです。
自分もまた、知らん振りをして寝ておればいいのに、いかにもその娘が何か自分に言ってもらいたげの様子なので、れいの受け身の奉仕の精神を発揮して、実に一言も口をききたくない気持なのだけれども、くたくたに疲れ切っているからだに、ウムと気合いをかけて腹這はらばいになり、煙草を吸い、
「女から来たラヴ・レターで、風呂をわかしてはいった男があるそうですよ」
「あら、いやだ。あなたでしょう?」
「ミルクをわかして飲んだ事はあるんです」
「光栄だわ、飲んでよ」
早くこのひと、帰らねえかなあ、手紙だなんて、見えすいているのに。へへののもへじでも書いているのに違いないんです。
「見せてよ」
と死んでも見たくない思いでそう言えば、あら、いやよ、あら、いやよ、と言って、そのうれしがる事、ひどくみっともなく、興が覚めるばかりなのです。そこで自分は、用事でも言いつけてやれ、と思うんです。
「すまないけどね、電車通りの薬屋に行って、カルモチンを買って来てくれない? あんまり疲れすぎて、顔がほてって、かえって眠れないんだ。すまないね。お金は、……」
「いいわよ、お金なんか」
よろこんで立ちます。用を言いつけるというのは、決して女をしょげさせる事ではなく、かえって女は、男に用事をたのまれると喜ぶものだという事も、自分はちゃんと知っているのでした。
もうひとりは、女子高等師範の文科生の所謂「同志」でした。このひととは、れいの運動の用事で、いやでも毎日、顔を合せなければならなかったのです。打ち合せがすんでからも、その女は、いつまでも自分について歩いて、そうして、やたらに自分に、ものを買ってくれるのでした。
「私を本当の姉だと思っていてくれていいわ」
そのキザに身震いしながら、自分は、
「そのつもりでいるんです」
と、愁うれえを含んだ微笑の表情を作って答えます。とにかく、怒らせては、こわい、何とかして、ごまかさなければならぬ、という思い一つのために、自分はいよいよその醜い、いやな女に奉仕をして、そうして、ものを買ってもらっては、(その買い物は、実に趣味の悪い品ばかりで、自分はたいてい、すぐにそれを、焼きとり屋の親爺おやじなどにやってしまいました)うれしそうな顔をして、冗談を言っては笑わせ、或る夏の夜、どうしても離れないので、街の暗いところで、そのひとに帰ってもらいたいばかりに、キスをしてやりましたら、あさましく狂乱の如く興奮し、自動車を呼んで、そのひとたちの運動のために秘密に借りてあるらしいビルの事務所みたいな狭い洋室に連れて行き、朝まで大騒ぎという事になり、とんでもない姉だ、と自分はひそかに苦笑しました。
下宿屋の娘と言い、またこの「同志」と言い、どうしたって毎日、顔を合せなければならぬ具合になっていますので、これまでの、さまざまの女のひとのように、うまく避けられず、つい、ずるずるに、れいの不安の心から、この二人のご機嫌をただ懸命に取り結び、もはや自分は、金縛り同様の形になっていました。
同じ頃また自分は、銀座の或る大カフエの女給から、思いがけぬ恩を受け、たったいちど逢っただけなのに、それでも、その恩にこだわり、やはり身動き出来ないほどの、心配やら、空そらおそろしさを感じていたのでした。その頃になると、自分も、敢えて堀木の案内に頼らずとも、ひとりで電車にも乗れるし、また、歌舞伎座にも行けるし、または、絣かすりの着物を着て、カフエにだってはいれるくらいの、多少の図々しさを装えるようになっていたのです。心では、相変らず、人間の自信と暴力とを怪しみ、恐れ、悩みながら、うわべだけは、少しずつ、他人と真顔の挨拶、いや、ちがう、自分はやはり敗北のお道化の苦しい笑いを伴わずには、挨拶できないたちなのですが、とにかく、無我夢中のへどもどの挨拶でも、どうやら出来るくらいの「伎倆ぎりょう」を、れいの運動で走り廻ったおかげ? または、女の? または、酒? けれども、おもに金銭の不自由のおかげで修得しかけていたのです。どこにいても、おそろしく、かえって大カフエでたくさんの酔客または女給、ボーイたちにもまれ、まぎれ込む事が出来たら、自分のこの絶えず追われているような心も落ちつくのではなかろうか、と十円持って、銀座のその大カフエに、ひとりではいって、笑いながら相手の女給に、
と言いました。
「心配要りません」
どこかに関西の訛なまりがありました。そうして、その一言が、奇妙に自分の、震えおののいている心をしずめてくれました。いいえ、お金の心配が要らなくなったからではありません、そのひとの傍にいる事に心配が要らないような気がしたのです。
自分は、お酒を飲みました。そのひとに安心しているので、かえってお道化など演じる気持も起らず、自分の地金じがねの無口で陰惨なところを隠さず見せて、黙ってお酒を飲みました。
「こんなの、おすきか?」
女は、さまざまの料理を自分の前に並べました。自分は首を振りました。
「お酒だけか? うちも飲もう」
秋の、寒い夜でした。自分は、ツネ子(といったと覚えていますが、記憶が薄れ、たしかではありません。情死の相手の名前をさえ忘れているような自分なのです)に言いつけられたとおりに、銀座裏の、或る屋台のお鮨すしやで、少しもおいしくない鮨を食べながら、(そのひとの名前は忘れても、その時の鮨のまずさだけは、どうした事か、はっきり記憶に残っています。そうして、青大将の顔に似た顔つきの、丸坊主のおやじが、首を振り振り、いかにも上手みたいにごまかしながら鮨を握っている様も、眼前に見るように鮮明に思い出され、後年、電車などで、はて見た顔だ、といろいろ考え、なんだ、あの時の鮨やの親爺に似ているんだ、と気が附き苦笑した事も再三あったほどでした。あのひとの名前も、また、顔かたちさえ記憶から遠ざかっている現在なお、あの鮨やの親爺の顔だけは絵にかけるほど正確に覚えているとは、よっぽどあの時の鮨がまずく、自分に寒さと苦痛を与えたものと思われます。もともと、自分は、うまい鮨を食わせる店というところに、ひとに連れられて行って食っても、うまいと思った事は、いちどもありませんでした。大き過ぎるのです。親指くらいの大きさにキチッと握れないものかしら、といつも考えていました)そのひとを、待っていました。
本所の大工さんの二階を、そのひとが借りていました。自分は、その二階で、日頃の自分の陰鬱な心を少しもかくさず、ひどい歯痛に襲われてでもいるように、片手で頬をおさえながら、お茶を飲みました。そうして、自分のそんな姿態が、かえって、そのひとには、気にいったようでした。そのひとも、身のまわりに冷たい木枯しが吹いて、落葉だけが舞い狂い、完全に孤立している感じの女でした。
一緒にやすみながらそのひとは、自分より二つ年上であること、故郷は広島、あたしには主人があるのよ、広島で床屋さんをしていたの、昨年の春、一緒に東京へ家出して逃げて来たのだけれども、主人は、東京で、まともな仕事をせずそのうちに詐欺罪に問われ、刑務所にいるのよ、あたしは毎日、何やらかやら差し入れしに、刑務所へかよっていたのだけれども、あすから、やめます、などと物語るのでしたが、自分は、どういうものか、女の身の上噺ばなしというものには、少しも興味を持てないたちで、それは女の語り方の下手なせいか、つまり、話の重点の置き方を間違っているせいなのか、とにかく、自分には、つねに、馬耳東風なのでありました。
侘びしい。
自分には、女の千万言の身の上噺よりも、その一言の呟つぶやきのほうに、共感をそそられるに違いないと期待していても、この世の中の女から、ついにいちども自分は、その言葉を聞いた事がないのを、奇怪とも不思議とも感じております。けれども、そのひとは、言葉で「侘びしい」とは言いませんでしたが、無言のひどい侘びしさを、からだの外郭に、一寸くらいの幅の気流みたいに持っていて、そのひとに寄り添うと、こちらのからだもその気流に包まれ、自分の持っている多少トゲトゲした陰鬱の気流と程よく溶け合い、「水底の岩に落ち附く枯葉」のように、わが身は、恐怖からも不安からも、離れる事が出来るのでした。
あの白痴の淫売婦たちのふところの中で、安心してぐっすり眠る思いとは、また、全く異って、(だいいち、あのプロステチュウトたちは、陽気でした)その詐欺罪の犯人の妻と過した一夜は、自分にとって、幸福な(こんな大それた言葉を、なんの躊躇ちゅうちょも無く、肯定して使用する事は、自分のこの全手記に於いて、再び無いつもりです)解放せられた夜でした。
しかし、ただ一夜でした。朝、眼が覚めて、はね起き、自分はもとの軽薄な、装えるお道化者になっていました。弱虫は、幸福をさえおそれるものです。綿で怪我をするんです。幸福に傷つけられる事もあるんです。傷つけられないうちに、早く、このまま、わかれたいとあせり、れいのお道化の煙幕を張りめぐらすのでした。
「金の切れめが縁の切れめ、ってのはね、あれはね、解釈が逆なんだ。金が無くなると女にふられるって意味、じゃあ無いんだ。男に金が無くなると、男は、ただおのずから意気銷沈しょうちんして、ダメになり、笑う声にも力が無く、そうして、妙にひがんだりなんかしてね、ついには破れかぶれになり、男のほうから女を振る、半狂乱になって振って振って振り抜くという意味なんだね、金沢大辞林という本に依ればね、可哀そうに。僕にも、その気持わかるがね」
たしか、そんなふうの馬鹿げた事を言って、ツネ子を噴き出させたような記憶があります。長居は無用、おそれありと、顔も洗わずに素早く引上げたのですが、その時の自分の、「金の切れめが縁の切れめ」という出鱈目でたらめの放言が、のちに到って、意外のひっかかりを生じたのです。
それから、ひとつき、自分は、その夜の恩人とは逢いませんでした。別れて、日が経つにつれて、よろこびは薄れ、かりそめの恩を受けた事がかえってそらおそろしく、自分勝手にひどい束縛を感じて来て、あのカフエのお勘定を、あの時、全部ツネ子の負担にさせてしまったという俗事さえ、次第に気になりはじめて、ツネ子もやはり、下宿の娘や、あの女子高等師範と同じく、自分を脅迫するだけの女のように思われ、遠く離れていながらも、絶えずツネ子におびえていて、その上に自分は、一緒に休んだ事のある女に、また逢うと、その時にいきなり何か烈火の如く怒られそうな気がしてたまらず、逢うのに頗すこぶるおっくうがる性質でしたので、いよいよ、銀座は敬遠の形でしたが、しかし、そのおっくうがるという性質は、決して自分の狡猾こうかつさではなく、女性というものは、休んでからの事と、朝、起きてからの事との間に、一つの、塵ちりほどの、つながりをも持たせず、完全の忘却の如く、見事に二つの世界を切断させて生きているという不思議な現象を、まだよく呑みこんでいなかったからなのでした。
十一月の末、自分は、堀木と神田の屋台で安酒を飲み、この悪友は、その屋台を出てからも、さらにどこかで飲もうと主張し、もう自分たちにはお金が無いのに、それでも、飲もう、飲もうよ、とねばるのです。その時、自分は、酔って大胆になっているからでもありましたが、
「よし、そんなら、夢の国に連れて行く。おどろくな、酒池肉林という、……」
「カフエか?」
「そう」
「行こう!」
というような事になって二人、市電に乗り、堀木は、はしゃいで、
「おれは、今夜は、女に飢え渇いているんだ。女給にキスしてもいいか」
自分は、堀木がそんな酔態を演じる事を、あまり好んでいないのでした。堀木も、それを知っているので、自分にそんな念を押すのでした。
「いいか。キスするぜ。おれの傍に坐った女給に、きっとキスして見せる。いいか」
「かまわんだろう」
「ありがたい! おれは女に飢え渇いているんだ」
銀座四丁目で降りて、その所謂酒池肉林の大カフエに、ツネ子をたのみの綱としてほとんど無一文ではいり、あいているボックスに堀木と向い合って腰をおろしたとたんに、ツネ子ともう一人の女給が走り寄って来て、そのもう一人の女給が自分の傍に、そうしてツネ子は、堀木の傍に、ドサンと腰かけたので、自分は、ハッとしました。ツネ子は、いまにキスされる。
惜しいという気持ではありませんでした。自分には、もともと所有慾というものは薄く、また、たまに幽かに惜しむ気持はあっても、その所有権を敢然と主張し、人と争うほどの気力が無いのでした。のちに、自分は、自分の内縁の妻が犯されるのを、黙って見ていた事さえあったほどなのです。
自分は、人間のいざこざに出来るだけ触りたくないのでした。その渦に巻き込まれるのが、おそろしいのでした。ツネ子と自分とは、一夜だけの間柄です。ツネ子は、自分のものではありません。惜しい、など思い上った慾は、自分に持てる筈はありません。けれども、自分は、ハッとしました。
自分の眼の前で、堀木の猛烈なキスを受ける、そのツネ子の身の上を、ふびんに思ったからでした。堀木によごされたツネ子は、自分とわかれなければならなくなるだろう、しかも自分にも、ツネ子を引き留める程のポジティヴな熱は無い、ああ、もう、これでおしまいなのだ、とツネ子の不幸に一瞬ハッとしたものの、すぐに自分は水のように素直にあきらめ、堀木とツネ子の顔を見較べ、にやにやと笑いました。
「お化けの絵だよ」
いつか竹一が、自分の二階へ遊びに来た時、ご持参の、一枚の原色版の口絵を得意そうに自分に見せて、そう説明しました。
おや? と思いました。その瞬間、自分の落ち行く道が決定せられたように、後年に到って、そんな気がしてなりません。自分は、知っていました。それは、ゴッホの例の自画像に過ぎないのを知っていました。自分たちの少年の頃には、日本ではフランスの所謂印象派の画が大流行していて、洋画鑑賞の第一歩を、たいていこのあたりからはじめたもので、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、ルナアルなどというひとの絵は、田舎の中学生でも、たいていその写真版を見て知っていたのでした。自分なども、ゴッホの原色版をかなりたくさん見て、タッチの面白さ、色彩の鮮やかさに興趣を覚えてはいたのですが、しかし、お化けの絵、だとは、いちども考えた事が無かったのでした。
自分は本棚から、モジリアニの画集を出し、焼けた赤銅のような肌の、れいの裸婦の像を竹一に見せました。
「すげえなあ」
竹一は眼を丸くして感嘆しました。
「地獄の馬みたい」
「やっぱり、お化けかね」
「おれも、こんなお化けの絵がかきたいよ」
あまりに人間を恐怖している人たちは、かえって、もっともっと、おそろしい妖怪ようかいを確実にこの眼で見たいと願望するに到る心理、神経質な、ものにおびえ易い人ほど、暴風雨の更に強からん事を祈る心理、ああ、この一群の画家たちは、人間という化け物に傷いためつけられ、おびやかされた揚句の果、ついに幻影を信じ、白昼の自然の中に、ありありと妖怪を見たのだ、しかも彼等は、それを道化などでごまかさず、見えたままの表現に努力したのだ、竹一の言うように、敢然と「お化けの絵」をかいてしまったのだ、ここに将来の自分の、仲間がいる、と自分は、涙が出たほどに興奮し、
と、なぜだか、ひどく声をひそめて、竹一に言ったのでした。
自分は、小学校の頃から、絵はかくのも、見るのも好きでした。けれども、自分のかいた絵は、自分の綴り方ほどには、周囲の評判が、よくありませんでした。自分は、どだい人間の言葉を一向に信用していませんでしたので、綴り方などは、自分にとって、ただお道化の御挨拶みたいなもので、小学校、中学校、と続いて先生たちを狂喜させて来ましたが、しかし、自分では、さっぱり面白くなく、絵だけは、(漫画などは別ですけれども)その対象の表現に、幼い我流ながら、多少の苦心を払っていました。学校の図画のお手本はつまらないし、先生の絵は下手くそだし、自分は、全く出鱈目にさまざまの表現法を自分で工夫して試みなければならないのでした。中学校へはいって、自分は油絵の道具も一揃そろい持っていましたが、しかし、そのタッチの手本を、印象派の画風に求めても、自分の画いたものは、まるで千代紙細工のようにのっぺりして、ものになりそうもありませんでした。けれども自分は、竹一の言葉に依って、自分のそれまでの絵画に対する心構えが、まるで間違っていた事に気が附きました。美しいと感じたものを、そのまま美しく表現しようと努力する甘さ、おろかしさ。マイスターたちは、何でも無いものを、主観に依って美しく創造し、或いは醜いものに嘔吐おうとをもよおしながらも、それに対する興味を隠さず、表現のよろこびにひたっている、つまり、人の思惑に少しもたよっていないらしいという、画法のプリミチヴな虎の巻を、竹一から、さずけられて、れいの女の来客たちには隠して、少しずつ、自画像の制作に取りかかってみました。
自分でも、ぎょっとしたほど、陰惨な絵が出来上りました。しかし、これこそ胸底にひた隠しに隠している自分の正体なのだ、おもては陽気に笑い、また人を笑わせているけれども、実は、こんな陰鬱な心を自分は持っているのだ、仕方が無い、とひそかに肯定し、けれどもその絵は、竹一以外の人には、さすがに誰にも見せませんでした。自分のお道化の底の陰惨を見破られ、急にケチくさく警戒せられるのもいやでしたし、また、これを自分の正体とも気づかず、やっぱり新趣向のお道化と見なされ、大笑いの種にせられるかも知れぬという懸念もあり、それは何よりもつらい事でしたので、その絵はすぐに押入れの奥深くしまい込みました。
また、学校の図画の時間にも、自分はあの「お化け式手法」は秘めて、いままでどおりの美しいものを美しく画く式の凡庸なタッチで画いていました。
自分は竹一にだけは、前から自分の傷み易い神経を平気で見せていましたし、こんどの自画像も安心して竹一に見せ、たいへんほめられ、さらに二枚三枚と、お化けの絵を画きつづけ、竹一からもう一つの、
「お前は、偉い絵画きになる」
という予言を得たのでした。
惚れられるという予言と、偉い絵画きになるという予言と、この二つの予言を馬鹿の竹一に依って額に刻印せられて、やがて、自分は東京へ出て来ました。
自分は、美術学校にはいりたかったのですが、父は、前から自分を高等学校にいれて、末は官吏にするつもりで、自分にもそれを言い渡してあったので、口応え一つ出来ないたちの自分は、ぼんやりそれに従ったのでした。四年から受けて見よ、と言われたので、自分も桜と海の中学はもういい加減あきていましたし、五年に進級せず、四年修了のままで、東京の高等学校に受験して合格し、すぐに寮生活にはいりましたが、その不潔と粗暴に辟易へきえきして、道化どころではなく、医師に肺浸潤の診断書を書いてもらい、寮から出て、上野桜木町の父の別荘に移りました。自分には、団体生活というものが、どうしても出来ません。それにまた、青春の感激だとか、若人の誇りだとかいう言葉は、聞いて寒気がして来て、とても、あの、ハイスクール・スピリットとかいうものには、ついて行けなかったのです。教室も寮も、ゆがめられた性慾の、はきだめみたいな気さえして、自分の完璧かんぺきに近いお道化も、そこでは何の役にも立ちませんでした。
父は議会の無い時は、月に一週間か二週間しかその家に滞在していませんでしたので、父の留守の時は、かなり広いその家に、別荘番の老夫婦と自分と三人だけで、自分は、ちょいちょい学校を休んで、さりとて東京見物などをする気も起らず(自分はとうとう、明治神宮も、楠正成くすのきまさしげの銅像も、泉岳寺の四十七士の墓も見ずに終りそうです)家で一日中、本を読んだり、絵をかいたりしていました。父が上京して来ると、自分は、毎朝そそくさと登校するのでしたが、しかし、本郷千駄木町の洋画家、安田新太郎氏の画塾に行き、三時間も四時間も、デッサンの練習をしている事もあったのです。高等学校の寮から脱けたら、学校の授業に出ても、自分はまるで聴講生みたいな特別の位置にいるような、それは自分のひがみかも知れなかったのですが、何とも自分自身で白々しい気持がして来て、いっそう学校へ行くのが、おっくうになったのでした。自分には、小学校、中学校、高等学校を通じて、ついに愛校心というものが理解できずに終りました。校歌などというものも、いちども覚えようとした事がありません。
自分は、やがて画塾で、或る画学生から、酒と煙草と淫売婦いんばいふと質屋と左翼思想とを知らされました。妙な取合せでしたが、しかし、それは事実でした。
その画学生は、堀木正雄といって、東京の下町に生れ、自分より六つ年長者で、私立の美術学校を卒業して、家にアトリエが無いので、この画塾に通い、洋画の勉強をつづけているのだそうです。
「五円、貸してくれないか」
お互いただ顔を見知っているだけで、それまで一言も話合った事が無かったのです。自分は、へどもどして五円差し出しました。
「よし、飲もう。おれが、お前におごるんだ。よかチゴじゃのう」
自分は拒否し切れず、その画塾の近くの、蓬莱ほうらい町のカフエに引っぱって行かれたのが、彼との交友のはじまりでした。
「前から、お前に眼をつけていたんだ。それそれ、そのはにかむような微笑、それが見込みのある芸術家特有の表情なんだ。お近づきのしるしに、乾杯! キヌさん、こいつは美男子だろう? 惚れちゃいけないぜ。こいつが塾へ来たおかげで、残念ながらおれは、第二番の美男子という事になった」
堀木は、色が浅黒く端正な顔をしていて、画学生には珍らしく、ちゃんとした脊広せびろを着て、ネクタイの好みも地味で、そうして頭髪もポマードをつけてまん中からぺったりとわけていました。
自分は馴れぬ場所でもあり、ただもうおそろしく、腕を組んだりほどいたりして、それこそ、はにかむような微笑ばかりしていましたが、ビイルを二、三杯飲んでいるうちに、妙に解放せられたような軽さを感じて来たのです。
「いや、つまらん。あんなところは、つまらん。学校は、つまらん。われらの教師は、自然の中にあり! 自然に対するパアトス!」
しかし、自分は、彼の言う事に一向に敬意を感じませんでした。馬鹿なひとだ、絵も下手にちがいない、しかし、遊ぶのには、いい相手かも知れないと考えました。つまり、自分はその時、生れてはじめて、ほんものの都会の与太者を見たのでした。それは、自分と形は違っていても、やはり、この世の人間の営みから完全に遊離してしまって、戸迷いしている点に於いてだけは、たしかに同類なのでした。そうして、彼はそのお道化を意識せずに行い、しかも、そのお道化の悲惨に全く気がついていないのが、自分と本質的に異色のところでした。
ただ遊ぶだけだ、遊びの相手として附合っているだけだ、とつねに彼を軽蔑けいべつし、時には彼との交友を恥ずかしくさえ思いながら、彼と連れ立って歩いているうちに、結局、自分は、この男にさえ打ち破られました。
しかし、はじめは、この男を好人物、まれに見る好人物とばかり思い込み、さすが人間恐怖の自分も全く油断をして、東京のよい案内者が出来た、くらいに思っていました。自分は、実は、ひとりでは、電車に乗ると車掌がおそろしく、歌舞伎座へはいりたくても、あの正面玄関の緋ひの絨緞じゅうたんが敷かれてある階段の両側に並んで立っている案内嬢たちがおそろしく、レストランへはいると、自分の背後にひっそり立って、皿のあくのを待っている給仕のボーイがおそろしく、殊にも勘定を払う時、ああ、ぎごちない自分の手つき、自分は買い物をしてお金を手渡す時には、吝嗇りんしょくゆえでなく、あまりの緊張、あまりの恥ずかしさ、あまりの不安、恐怖に、くらくら目まいして、世界が真暗になり、ほとんど半狂乱の気持になってしまって、値切るどころか、お釣を受け取るのを忘れるばかりでなく、買った品物を持ち帰るのを忘れた事さえ、しばしばあったほどなので、とても、ひとりで東京のまちを歩けず、それで仕方なく、一日一ぱい家の中で、ごろごろしていたという内情もあったのでした。
それが、堀木に財布を渡して一緒に歩くと、堀木は大いに値切って、しかも遊び上手というのか、わずかなお金で最大の効果のあるような支払い振りを発揮し、また、高い円タクは敬遠して、電車、バス、ポンポン蒸気など、それぞれ利用し分けて、最短時間で目的地へ着くという手腕をも示し、淫売婦のところから朝帰る途中には、何々という料亭に立ち寄って朝風呂へはいり、湯豆腐で軽くお酒を飲むのが、安い割に、ぜいたくな気分になれるものだと実地教育をしてくれたり、その他、屋台の牛めし焼とりの安価にして滋養に富むものたる事を説き、酔いの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはないと保証し、とにかくその勘定に就いては自分に、一つも不安、恐怖を覚えさせた事がありませんでした。
さらにまた、堀木と附合って救われるのは、堀木が聞き手の思惑などをてんで無視して、その所謂情熱パトスの噴出するがままに、(或いは、情熱とは、相手の立場を無視する事かも知れませんが)四六時中、くだらないおしゃべりを続け、あの、二人で歩いて疲れ、気まずい沈黙におちいる危懼きくが、全く無いという事でした。人に接し、あのおそろしい沈黙がその場にあらわれる事を警戒して、もともと口の重い自分が、ここを先途せんどと必死のお道化を言って来たものですが、いまこの堀木の馬鹿が、意識せずに、そのお道化役をみずからすすんでやってくれているので、自分は、返事もろくにせずに、ただ聞き流し、時折、まさか、などと言って笑っておれば、いいのでした。
酒、煙草、淫売婦、それは皆、人間恐怖を、たとい一時でも、まぎらす事の出来るずいぶんよい手段である事が、やがて自分にもわかって来ました。それらの手段を求めるためには、自分の持ち物全部を売却しても悔いない気持さえ、抱くようになりました。
自分には、淫売婦というものが、人間でも、女性でもない、白痴か狂人のように見え、そのふところの中で、自分はかえって全く安心して、ぐっすり眠る事が出来ました。みんな、哀しいくらい、実にみじんも慾というものが無いのでした。そうして、自分に、同類の親和感とでもいったようなものを覚えるのか、自分は、いつも、その淫売婦たちから、窮屈でない程度の自然の好意を示されました。何の打算も無い好意、押し売りでは無い好意、二度と来ないかも知れぬひとへの好意、自分には、その白痴か狂人の淫売婦たちに、マリヤの円光を現実に見た夜もあったのです。
しかし、自分は、人間への恐怖からのがれ、幽かな一夜の休養を求めるために、そこへ行き、それこそ自分と「同類」の淫売婦たちと遊んでいるうちに、いつのまにやら無意識の、或るいまわしい雰囲気を身辺にいつもただよわせるようになった様子で、これは自分にも全く思い設けなかった所謂「おまけの附録」でしたが、次第にその「附録」が、鮮明に表面に浮き上って来て、堀木にそれを指摘せられ、愕然がくぜんとして、そうして、いやな気が致しました。はたから見て、俗な言い方をすれば、自分は、淫売婦に依って女の修行をして、しかも、最近めっきり腕をあげ、女の修行は、淫売婦に依るのが一ばん厳しく、またそれだけに効果のあがるものだそうで、既に自分には、あの、「女達者」という匂いがつきまとい、女性は、(淫売婦に限らず)本能に依ってそれを嗅ぎ当て寄り添って来る、そのような、卑猥ひわいで不名誉な雰囲気を、「おまけの附録」としてもらって、そうしてそのほうが、自分の休養などよりも、ひどく目立ってしまっているらしいのでした。
堀木はそれを半分はお世辞で言ったのでしょうが、しかし、自分にも、重苦しく思い当る事があり、たとえば、喫茶店の女から稚拙な手紙をもらった覚えもあるし、桜木町の家の隣りの将軍のはたちくらいの娘が、毎朝、自分の登校の時刻には、用も無さそうなのに、ご自分の家の門を薄化粧して出たりはいったりしていたし、牛肉を食いに行くと、自分が黙っていても、そこの女中が、……また、いつも買いつけの煙草屋の娘から手渡された煙草の箱の中に、……また、歌舞伎を見に行って隣りの席のひとに、……また、深夜の市電で自分が酔って眠っていて、……また、思いがけなく故郷の親戚の娘から、思いつめたような手紙が来て、……また、誰かわからぬ娘が、自分の留守中にお手製らしい人形を、……自分が極度に消極的なので、いずれも、それっきりの話で、ただ断片、それ以上の進展は一つもありませんでしたが、何か女に夢を見させる雰囲気が、自分のどこかにつきまとっている事は、それは、のろけだの何だのといういい加減な冗談でなく、否定できないのでありました。自分は、それを堀木ごとき者に指摘せられ、屈辱に似た苦にがさを感ずると共に、淫売婦と遊ぶ事にも、にわかに興が覚めました。
堀木は、また、その見栄坊みえぼうのモダニティから、(堀木の場合、それ以外の理由は、自分には今もって考えられませんのですが)或る日、自分を共産主義の読書会とかいう(R・Sとかいっていたか、記憶がはっきり致しません)そんな、秘密の研究会に連れて行きました。堀木などという人物にとっては、共産主義の秘密会合も、れいの「東京案内」の一つくらいのものだったのかも知れません。自分は所謂「同志」に紹介せられ、パンフレットを一部買わされ、そうして上座のひどい醜い顔の青年から、マルクス経済学の講義を受けました。しかし、自分には、それはわかり切っている事のように思われました。それは、そうに違いないだろうけれども、人間の心には、もっとわけのわからない、おそろしいものがある。慾、と言っても、言いたりない、ヴァニティ、と言っても、言いたりない、色と慾、とこう二つ並べても、言いたりない、何だか自分にもわからぬが、人間の世の底に、経済だけでない、へんに怪談じみたものがあるような気がして、その怪談におびえ切っている自分には、所謂唯物論を、水の低きに流れるように自然に肯定しながらも、しかし、それに依って、人間に対する恐怖から解放せられ、青葉に向って眼をひらき、希望のよろこびを感ずるなどという事は出来ないのでした。けれども、自分は、いちども欠席せずに、そのR・S(と言ったかと思いますが、間違っているかも知れません)なるものに出席し、「同志」たちが、いやに一大事の如く、こわばった顔をして、一プラス一は二、というような、ほとんど初等の算術めいた理論の研究にふけっているのが滑稽に見えてたまらず、れいの自分のお道化で、会合をくつろがせる事に努め、そのためか、次第に研究会の窮屈な気配もほぐれ、自分はその会合に無くてかなわぬ人気者という形にさえなって来たようでした。この、単純そうな人たちは、自分の事を、やはりこの人たちと同じ様に単純で、そうして、楽天的なおどけ者の「同志」くらいに考えていたかも知れませんが、もし、そうだったら、自分は、この人たちを一から十まで、あざむいていたわけです。自分は、同志では無かったんです。けれども、その会合に、いつも欠かさず出席して、皆にお道化のサーヴィスをして来ました。
好きだったからなのです。自分には、その人たちが、気にいっていたからなのです。しかし、それは必ずしも、マルクスに依って結ばれた親愛感では無かったのです。
非合法。自分には、それが幽かに楽しかったのです。むしろ、居心地がよかったのです。世の中の合法というもののほうが、かえっておそろしく、(それには、底知れず強いものが予感せられます)そのからくりが不可解で、とてもその窓の無い、底冷えのする部屋には坐っておられず、外は非合法の海であっても、それに飛び込んで泳いで、やがて死に到るほうが、自分には、いっそ気楽のようでした。
日蔭者ひかげもの、という言葉があります。人間の世に於いて、みじめな、敗者、悪徳者を指差していう言葉のようですが、自分は、自分を生れた時からの日蔭者のような気がしていて、世間から、あれは日蔭者だと指差されている程のひとと逢うと、自分は、必ず、優しい心になるのです。そうして、その自分の「優しい心」は、自身でうっとりするくらい優しい心でした。
また、犯人意識、という言葉もあります。自分は、この人間の世の中に於いて、一生その意識に苦しめられながらも、しかし、それは自分の糟糠そうこうの妻の如き好伴侶はんりょで、そいつと二人きりで侘わびしく遊びたわむれているというのも、自分の生きている Permalink | 記事への反応(1) | 20:27
自分は、金持ちの家に生れたという事よりも、俗にいう「できる」事に依って、学校中の尊敬を得そうになりました。自分は、子供の頃から病弱で、よく一つき二つき、また一学年ちかくも寝込んで学校を休んだ事さえあったのですが、それでも、病み上りのからだで人力車に乗って学校へ行き、学年末の試験を受けてみると、クラスの誰よりも所謂「できて」いるようでした。からだ具合いのよい時でも、自分は、さっぱり勉強せず、学校へ行っても授業時間に漫画などを書き、休憩時間にはそれをクラスの者たちに説明して聞かせて、笑わせてやりました。また、綴り方には、滑稽噺こっけいばなしばかり書き、先生から注意されても、しかし、自分は、やめませんでした。先生は、実はこっそり自分のその滑稽噺を楽しみにしている事を自分は、知っていたからでした。或る日、自分は、れいに依って、自分が母に連れられて上京の途中の汽車で、おしっこを客車の通路にある痰壺たんつぼにしてしまった失敗談(しかし、その上京の時に、自分は痰壺と知らずにしたのではありませんでした。子供の無邪気をてらって、わざと、そうしたのでした)を、ことさらに悲しそうな筆致で書いて提出し、先生は、きっと笑うという自信がありましたので、職員室に引き揚げて行く先生のあとを、そっとつけて行きましたら、先生は、教室を出るとすぐ、自分のその綴り方を、他のクラスの者たちの綴り方の中から選び出し、廊下を歩きながら読みはじめて、クスクス笑い、やがて職員室にはいって読み終えたのか、顔を真赤にして大声を挙げて笑い、他の先生に、さっそくそれを読ませているのを見とどけ、自分は、たいへん満足でした。
お茶目。
自分は、所謂お茶目に見られる事に成功しました。尊敬される事から、のがれる事に成功しました。通信簿は全学科とも十点でしたが、操行というものだけは、七点だったり、六点だったりして、それもまた家中の大笑いの種でした。
けれども自分の本性は、そんなお茶目さんなどとは、凡およそ対蹠たいせき的なものでした。その頃、既に自分は、女中や下男から、哀かなしい事を教えられ、犯されていました。幼少の者に対して、そのような事を行うのは、人間の行い得る犯罪の中で最も醜悪で下等で、残酷な犯罪だと、自分はいまでは思っています。しかし、自分は、忍びました。これでまた一つ、人間の特質を見たというような気持さえして、そうして、力無く笑っていました。もし自分に、本当の事を言う習慣がついていたなら、悪びれず、彼等の犯罪を父や母に訴える事が出来たのかも知れませんが、しかし、自分は、その父や母をも全部は理解する事が出来なかったのです。人間に訴える、自分は、その手段には少しも期待できませんでした。父に訴えても、母に訴えても、お巡まわりに訴えても、政府に訴えても、結局は世渡りに強い人の、世間に通りのいい言いぶんに言いまくられるだけの事では無いかしら。
必ず片手落のあるのが、わかり切っている、所詮しょせん、人間に訴えるのは無駄である、自分はやはり、本当の事は何も言わず、忍んで、そうしてお道化をつづけているより他、無い気持なのでした。
なんだ、人間への不信を言っているのか? へえ? お前はいつクリスチャンになったんだい、と嘲笑ちょうしょうする人も或いはあるかも知れませんが、しかし、人間への不信は、必ずしもすぐに宗教の道に通じているとは限らないと、自分には思われるのですけど。現にその嘲笑する人をも含めて、人間は、お互いの不信の中で、エホバも何も念頭に置かず、平気で生きているではありませんか。やはり、自分の幼少の頃の事でありましたが、父の属していた或る政党の有名人が、この町に演説に来て、自分は下男たちに連れられて劇場に聞きに行きました。満員で、そうして、この町の特に父と親しくしている人たちの顔は皆、見えて、大いに拍手などしていました。演説がすんで、聴衆は雪の夜道を三々五々かたまって家路に就き、クソミソに今夜の演説会の悪口を言っているのでした。中には、父と特に親しい人の声もまじっていました。父の開会の辞も下手、れいの有名人の演説も何が何やら、わけがわからぬ、とその所謂父の「同志たち」が怒声に似た口調で言っているのです。そうしてそのひとたちは、自分の家に立ち寄って客間に上り込み、今夜の演説会は大成功だったと、しんから嬉しそうな顔をして父に言っていました。下男たちまで、今夜の演説会はどうだったと母に聞かれ、とても面白かった、と言ってけろりとしているのです。演説会ほど面白くないものはない、と帰る途々みちみち、下男たちが嘆き合っていたのです。
しかし、こんなのは、ほんのささやかな一例に過ぎません。互いにあざむき合って、しかもいずれも不思議に何の傷もつかず、あざむき合っている事にさえ気がついていないみたいな、実にあざやかな、それこそ清く明るくほがらかな不信の例が、人間の生活に充満しているように思われます。けれども、自分には、あざむき合っているという事には、さして特別の興味もありません。自分だって、お道化に依って、朝から晩まで人間をあざむいているのです。自分は、修身教科書的な正義とか何とかいう道徳には、あまり関心を持てないのです。自分には、あざむき合っていながら、清く明るく朗らかに生きている、或いは生き得る自信を持っているみたいな人間が難解なのです。人間は、ついに自分にその妙諦みょうていを教えてはくれませんでした。それさえわかったら、自分は、人間をこんなに恐怖し、また、必死のサーヴィスなどしなくて、すんだのでしょう。人間の生活と対立してしまって、夜々の地獄のこれほどの苦しみを嘗なめずにすんだのでしょう。つまり、自分が下男下女たちの憎むべきあの犯罪をさえ、誰にも訴えなかったのは、人間への不信からではなく、また勿論クリスト主義のためでもなく、人間が、葉蔵という自分に対して信用の殻を固く閉じていたからだったと思います。父母でさえ、自分にとって難解なものを、時折、見せる事があったのですから。
そうして、その、誰にも訴えない、自分の孤独の匂いが、多くの女性に、本能に依って嗅かぎ当てられ、後年さまざま、自分がつけ込まれる誘因の一つになったような気もするのです。
つまり、自分は、女性にとって、恋の秘密を守れる男であったというわけなのでした。
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第二の手記
海の、波打際、といってもいいくらいに海にちかい岸辺に、真黒い樹肌の山桜の、かなり大きいのが二十本以上も立ちならび、新学年がはじまると、山桜は、褐色のねばっこいような嫩葉わかばと共に、青い海を背景にして、その絢爛けんらんたる花をひらき、やがて、花吹雪の時には、花びらがおびただしく海に散り込み、海面を鏤ちりばめて漂い、波に乗せられ再び波打際に打ちかえされる、その桜の砂浜が、そのまま校庭として使用せられている東北の或る中学校に、自分は受験勉強もろくにしなかったのに、どうやら無事に入学できました。そうして、その中学の制帽の徽章きしょうにも、制服のボタンにも、桜の花が図案化せられて咲いていました。
その中学校のすぐ近くに、自分の家と遠い親戚に当る者の家がありましたので、その理由もあって、父がその海と桜の中学校を自分に選んでくれたのでした。自分は、その家にあずけられ、何せ学校のすぐ近くなので、朝礼の鐘の鳴るのを聞いてから、走って登校するというような、かなり怠惰な中学生でしたが、それでも、れいのお道化に依って、日一日とクラスの人気を得ていました。
生れてはじめて、謂わば他郷へ出たわけなのですが、自分には、その他郷のほうが、自分の生れ故郷よりも、ずっと気楽な場所のように思われました。それは、自分のお道化もその頃にはいよいよぴったり身について来て、人をあざむくのに以前ほどの苦労を必要としなくなっていたからである、と解説してもいいでしょうが、しかし、それよりも、肉親と他人、故郷と他郷、そこには抜くべからざる演技の難易の差が、どのような天才にとっても、たとい神の子のイエスにとっても、存在しているものなのではないでしょうか。俳優にとって、最も演じにくい場所は、故郷の劇場であって、しかも六親眷属けんぞく全部そろって坐っている一部屋の中に在っては、いかな名優も演技どころでは無くなるのではないでしょうか。けれども自分は演じて来ました。しかも、それが、かなりの成功を収めたのです。それほどの曲者くせものが、他郷に出て、万が一にも演じ損ねるなどという事は無いわけでした。
自分の人間恐怖は、それは以前にまさるとも劣らぬくらい烈しく胸の底で蠕動ぜんどうしていましたが、しかし、演技は実にのびのびとして来て、教室にあっては、いつもクラスの者たちを笑わせ、教師も、このクラスは大庭さえいないと、とてもいいクラスなんだが、と言葉では嘆じながら、手で口を覆って笑っていました。自分は、あの雷の如き蛮声を張り上げる配属将校をさえ、実に容易に噴き出させる事が出来たのです。
もはや、自分の正体を完全に隠蔽いんぺいし得たのではあるまいか、とほっとしかけた矢先に、自分は実に意外にも背後から突き刺されました。それは、背後から突き刺す男のごたぶんにもれず、クラスで最も貧弱な肉体をして、顔も青ぶくれで、そうしてたしかに父兄のお古と思われる袖が聖徳太子の袖みたいに長すぎる上衣うわぎを着て、学課は少しも出来ず、教練や体操はいつも見学という白痴に似た生徒でした。自分もさすがに、その生徒にさえ警戒する必要は認めていなかったのでした。
その日、体操の時間に、その生徒(姓はいま記憶していませんが、名は竹一といったかと覚えています)その竹一は、れいに依って見学、自分たちは鉄棒の練習をさせられていました。自分は、わざと出来るだけ厳粛な顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛び、そのまま幅飛びのように前方へ飛んでしまって、砂地にドスンと尻餅をつきました。すべて、計画的な失敗でした。果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう囁ささやきました。
「ワザ。ワザ」
自分は震撼しんかんしました。ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。自分は、世界が一瞬にして地獄の業火に包まれて燃え上るのを眼前に見るような心地がして、わあっ! と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。
表面は相変らず哀しいお道化を演じて皆を笑わせていましたが、ふっと思わず重苦しい溜息ためいきが出て、何をしたってすべて竹一に木っ葉みじんに見破られていて、そうしてあれは、そのうちにきっと誰かれとなく、それを言いふらして歩くに違いないのだ、と考えると、額にじっとり油汗がわいて来て、狂人みたいに妙な眼つきで、あたりをキョロキョロむなしく見廻したりしました。できる事なら、朝、昼、晩、四六時中、竹一の傍そばから離れず彼が秘密を口走らないように監視していたい気持でした。そうして、自分が、彼にまつわりついている間に、自分のお道化は、所謂「ワザ」では無くて、ほんものであったというよう思い込ませるようにあらゆる努力を払い、あわよくば、彼と無二の親友になってしまいたいものだ、もし、その事が皆、不可能なら、もはや、彼の死を祈るより他は無い、とさえ思いつめました。しかし、さすがに、彼を殺そうという気だけは起りませんでした。自分は、これまでの生涯に於おいて、人に殺されたいと願望した事は幾度となくありましたが、人を殺したいと思った事は、いちどもありませんでした。それは、おそるべき相手に、かえって幸福を与えるだけの事だと考えていたからです。
自分は、彼を手なずけるため、まず、顔に偽クリスチャンのような「優しい」媚笑びしょうを湛たたえ、首を三十度くらい左に曲げて、彼の小さい肩を軽く抱き、そうして猫撫ねこなで声に似た甘ったるい声で、彼を自分の寄宿している家に遊びに来るようしばしば誘いましたが、彼は、いつも、ぼんやりした眼つきをして、黙っていました。しかし、自分は、或る日の放課後、たしか初夏の頃の事でした、夕立ちが白く降って、生徒たちは帰宅に困っていたようでしたが、自分は家がすぐ近くなので平気で外へ飛び出そうとして、ふと下駄箱のかげに、竹一がしょんぼり立っているのを見つけ、行こう、傘を貸してあげる、と言い、臆する竹一の手を引っぱって、一緒に夕立ちの中を走り、家に着いて、二人の上衣を小母さんに乾かしてもらうようにたのみ、竹一を二階の自分の部屋に誘い込むのに成功しました。
その家には、五十すぎの小母さんと、三十くらいの、眼鏡をかけて、病身らしい背の高い姉娘(この娘は、いちどよそへお嫁に行って、それからまた、家へ帰っているひとでした。自分は、このひとを、ここの家のひとたちにならって、アネサと呼んでいました)それと、最近女学校を卒業したばかりらしい、セッちゃんという姉に似ず背が低く丸顔の妹娘と、三人だけの家族で、下の店には、文房具やら運動用具を少々並べていましたが、主な収入は、なくなった主人が建てて残して行った五六棟の長屋の家賃のようでした。
「耳が痛い」
竹一は、立ったままでそう言いました。
「雨に濡れたら、痛くなったよ」
自分が、見てみると、両方の耳が、ひどい耳だれでした。膿うみが、いまにも耳殻の外に流れ出ようとしていました。
「これは、いけない。痛いだろう」
「雨の中を、引っぱり出したりして、ごめんね」
と女の言葉みたいな言葉を遣って「優しく」謝り、それから、下へ行って綿とアルコールをもらって来て、竹一を自分の膝ひざを枕にして寝かせ、念入りに耳の掃除をしてやりました。竹一も、さすがに、これが偽善の悪計であることには気附かなかったようで、
「お前は、きっと、女に惚ほれられるよ」
と自分の膝枕で寝ながら、無智なお世辞を言ったくらいでした。
しかしこれは、おそらく、あの竹一も意識しなかったほどの、おそろしい悪魔の予言のようなものだったという事を、自分は後年に到って思い知りました。惚れると言い、惚れられると言い、その言葉はひどく下品で、ふざけて、いかにも、やにさがったものの感じで、どんなに所謂「厳粛」の場であっても、そこへこの言葉が一言でもひょいと顔を出すと、みるみる憂鬱の伽藍がらんが崩壊し、ただのっぺらぼうになってしまうような心地がするものですけれども、惚れられるつらさ、などという俗語でなく、愛せられる不安、とでもいう文学語を用いると、あながち憂鬱の伽藍をぶちこわす事にはならないようですから、奇妙なものだと思います。
竹一が、自分に耳だれの膿の仕末をしてもらって、お前は惚れられるという馬鹿なお世辞を言い、自分はその時、ただ顔を赤らめて笑って、何も答えませんでしたけれども、しかし、実は、幽かすかに思い当るところもあったのでした。でも、「惚れられる」というような野卑な言葉に依って生じるやにさがった雰囲気ふんいきに対して、そう言われると、思い当るところもある、などと書くのは、ほとんど落語の若旦那のせりふにさえならぬくらい、おろかしい感懐を示すようなもので、まさか、自分は、そんなふざけた、やにさがった気持で、「思い当るところもあった」わけでは無いのです。
自分には、人間の女性のほうが、男性よりもさらに数倍難解でした。自分の家族は、女性のほうが男性よりも数が多く、また親戚にも、女の子がたくさんあり、またれいの「犯罪」の女中などもいまして、自分は幼い時から、女とばかり遊んで育ったといっても過言ではないと思っていますが、それは、また、しかし、実に、薄氷を踏む思いで、その女のひとたちと附合って来たのです。ほとんど、まるで見当が、つかないのです。五里霧中で、そうして時たま、虎の尾を踏む失敗をして、ひどい痛手を負い、それがまた、男性から受ける笞むちとちがって、内出血みたいに極度に不快に内攻して、なかなか治癒ちゆし難い傷でした。
女は引き寄せて、つっ放す、或いはまた、女は、人のいるところでは自分をさげすみ、邪慳じゃけんにし、誰もいなくなると、ひしと抱きしめる、女は死んだように深く眠る、女は眠るために生きているのではないかしら、その他、女に就いてのさまざまの観察を、すでに自分は、幼年時代から得ていたのですが、同じ人類のようでありながら、男とはまた、全く異った生きもののような感じで、そうしてまた、この不可解で油断のならぬ生きものは、奇妙に自分をかまうのでした。「惚れられる」なんていう言葉も、また「好かれる」という言葉も、自分の場合にはちっとも、ふさわしくなく、「かまわれる」とでも言ったほうが、まだしも実状の説明に適しているかも知れません。
女は、男よりも更に、道化には、くつろぐようでした。自分がお道化を演じ、男はさすがにいつまでもゲラゲラ笑ってもいませんし、それに自分も男のひとに対し、調子に乗ってあまりお道化を演じすぎると失敗するという事を知っていましたので、必ず適当のところで切り上げるように心掛けていましたが、女は適度という事を知らず、いつまでもいつまでも、自分にお道化を要求し、自分はその限りないアンコールに応じて、へとへとになるのでした。実に、よく笑うのです。いったいに、女は、男よりも快楽をよけいに頬張る事が出来るようです。
自分が中学時代に世話になったその家の姉娘も、妹娘も、ひまさえあれば、二階の自分の部屋にやって来て、自分はその度毎に飛び上らんばかりにぎょっとして、そうして、ひたすらおびえ、
「御勉強?」
「いいえ」
と微笑して本を閉じ、
或る晩、妹娘のセッちゃんが、アネサと一緒に自分の部屋へ遊びに来て、さんざん自分にお道化を演じさせた揚句の果に、そんな事を言い出しました。
「なぜ?」
いつでも、こんな乱暴な命令口調で言うのでした。道化師は、素直にアネサの眼鏡をかけました。とたんに、二人の娘は、笑いころげました。
当時、ハロルド・ロイドとかいう外国の映画の喜劇役者が、日本で人気がありました。
自分は立って片手を挙げ、
「諸君」
と言い、
と一場の挨拶を試み、さらに大笑いさせて、それから、ロイドの映画がそのまちの劇場に来るたび毎に見に行って、ひそかに彼の表情などを研究しました。
また、或る秋の夜、自分が寝ながら本を読んでいると、アネサが鳥のように素早く部屋へはいって来て、いきなり自分の掛蒲団の上に倒れて泣き、
「葉ちゃんが、あたしを助けてくれるのだわね。そうだわね。こんな家、一緒に出てしまったほうがいいのだわ。助けてね。助けて」
などと、はげしい事を口走っては、また泣くのでした。けれども、自分には、女から、こんな態度を見せつけられるのは、これが最初ではありませんでしたので、アネサの過激な言葉にも、さして驚かず、かえってその陳腐、無内容に興が覚めた心地で、そっと蒲団から脱け出し、机の上の柿をむいて、その一きれをアネサに手渡してやりました。すると、アネサは、しゃくり上げながらその柿を食べ、
「何か面白い本が無い? 貸してよ」
と言いました。
自分は漱石の「吾輩は猫である」という本を、本棚から選んであげました。
「ごちそうさま」
アネサは、恥ずかしそうに笑って部屋から出て行きましたが、このアネサに限らず、いったい女は、どんな気持で生きているのかを考える事は、自分にとって、蚯蚓みみずの思いをさぐるよりも、ややこしく、わずらわしく、薄気味の悪いものに感ぜられていました。ただ、自分は、女があんなに急に泣き出したりした場合、何か甘いものを手渡してやると、それを食べて機嫌を直すという事だけは、幼い時から、自分の経験に依って知っていました。
また、妹娘のセッちゃんは、その友だちまで自分の部屋に連れて来て、自分がれいに依って公平に皆を笑わせ、友だちが帰ると、セッちゃんは、必ずその友だちの悪口を言うのでした。あのひとは不良少女だから、気をつけるように、ときまって言うのでした。そんなら、わざわざ連れて来なければ、よいのに、おかげで自分の部屋の来客の、ほとんど全部が女、という事になってしまいました。
しかし、それは、竹一のお世辞の「惚れられる」事の実現では未だ決して無かったのでした。つまり、自分は、日本の東北のハロルド・ロイドに過ぎなかったのです。竹一の無智なお世辞が、いまわしい予言として、なまなまと生きて来て、不吉な形貌を呈するようになったのは、更にそれから、数年経った後の事でありました。
竹一は、また、自分にもう一つ、重大な贈り物をしていました。
「お化けの絵だよ」
いつか竹一が、自分の二階へ遊びに来た時、ご持参の、一枚の原色版の口絵を得意そうに自分に見せて、そう説明しました。
おや? と思いました。その瞬間、自分の落ち行く道が決定せられたように、後年に到って、そんな気がしてなりません。自分は、知っていました。それは、ゴッホの例の Permalink | 記事への反応(1) | 20:25
ワイは一生彼女いたことない40代男性やが特にもうしんどさは感じてないやで。
鬱で大学を留年中退コンボ決めてドロップアウトしてからは世間体とか人生とかどうでもよくなって、親元で家事を手伝いながらずっと職歴なしのままネトゲして生きてるわ。
親も太いわけやなくどちらも平均以下の工場労働者やったから年金の10万そこらで3人暮らすべく節約レシピで工夫したりして生きることはできとる。
地方で完済済みの持ち家やからギリギリ可能なことやろな。そういう恵みを享受しつづけられとるって点だけでも相当に幸福な人間なんやろ。
10年前親にインフルうつされてゲロが肺に入って以後、常時肺が押しつぶされるような息苦しさのある喘息気味で外に出る気も起きんのやが。
特に診断のつかなかった老人並の肺活量に衰えてるとこ以外は健康やし、親も一応健康。とはいってもワイ自身はもう20年くらい健康診断の類はしとらんから、死に直結しかねん病巣を隠しもってる可能性はあるけども、せやったら仕方ないわ。
現状に何かあったらすぐにでも瓦解する暮らしやということは理解しとるうえで、それでも社会や自分の人生というものに何の期待も希望も興味も持っとらんから、足掻く気にならんのよな。なんとかならなくなったらその時考えよ、としか思えんのよ。
おそらく強烈なコンプレックスや欲望を持っとる人やったら、それを足がかりに人生を展開していけるんやろうが、ワイにはそれほどの原動力になる思いは何もないんや。
容姿も自分ではそこまで醜いとは思っとらんし、頭もよくある中学までは優秀だったパターンで、自称パソコンの大先生やから、なんでもやろうと思えば出来てしまう自信はあるんや。やる必要がないならやらずにいたほうが生きやすいやろ。
一生なにも大事は成さないんやろうけど、細々としたことを楽しめる頭があって、どうやら孤独に適正があるっぽいからヘビーな劣等感には至らなかったことが奏功しとるんやろな。それが幸か不幸かは知らんけど。
働いたことはないけども大学のときに委員会で色々やっとった経験から、資料作って会議でプレゼンして実務で店舗や企業を回るなんていう経験も半端にしとるから、組織で働くことや人を扱うことの大変さは骨身に沁みとるし、「社会経験」に対する未練みたいなもんもないんや。
人付き合いも大学のころや20代のネトゲ交流経験から、どれも恋人やセックスみたいな関係までは行かなかったけども、ネトゲ上で結婚したことやネトゲ上で色んな催しを企画運営したことは何度もあって、中にはオフで1:1でデートしてくれる人もいたことで個人的にはもう十分なんや。
性欲なんて2次元キャラで発散できるし誰も傷つかんからな。それに最近の2次元ゲームの作り込みはすごくて、それをリアルタイムに追ってるだけですごく充実感を得られるんよ。
自分の人生を前進させるのと並行しながらこういうコンテンツを追って行ける人は偉すぎるが、ワイは人生をほっぽってコンテンツの方を複数並行しとる。単純に生きる活力を貰うって点だけで見れば、それも一つの配分なんやないか?良し悪しの判断は人によるんやろうけど。
そういうわけでワイの活力になっとるのはそうした素晴らしいコンテンツ郡の続きを見ることなんやが、お金や労働といった人生を埋める、あるいは満たす要素に心を乱されて、心を豊かにするものに目を向ける余裕すらなくなってしまう、って人がたくさんおる現実は30年のネット歴からしてもよく分かる。
ワイが学生時代に鬱って散々ポエムった経験からいうと、人が生きるために本当に重要なのはお金とかイキれる肩書とかやなくて、精神的に安定できる、できれば満たされる場所を見つけて維持することやと思う。それから周りの人にも精神的な充足を与えること。
それを体現するために金も世間体も捨て去って内向的な充足に人生全振りした、なんてカッコつけることはできんし後付のギャグみたいなもんやが、でもその証拠として世間的にはド底辺やけどワイは自殺したくなることはなくなった。
ワイの器用さでは死なんためにはこのへんが限界ってことやろ。ワイより不器用な生き方しとるやつそうおらんやろけど、性格が運命を決めるっていうし、ワイのような天邪鬼マンはこう生きる定めなんやろ。
おそらく君は彼氏を持てていて社会とも繋がっていることで、世間体を捨てきれずに不幸や虚無を感じとるのやろ。
親元が避難場所になる可能性を排除してしまったことがワイとの違いやし、そこに恵まれ度の差はあるかもしれんけど、生死がちらつくほどまいっとる時は何にでもすがってみればええと思うで。
自分を苦しめとるものが、他人や上を見るせいで生じとるものなのか、一部を投げ捨ててもどうにかして生きていける可能性はないか、一旦常識抜きにして考えてみてもええと思うで。
妥協点を極限まで低くしてみたら気楽になることもあるんじゃないかとワイは思うやで。ポジティブな諦めというか。諦めの果てにも幸福を感じられるかどうかは、性格によるのかもしれんけど。
まあ偉そうに何か言える立場にワイはおらんのやが、そう思ったらわろてええで。
自分は昔からパラグラフ・ライティングを心がけているのだが、最近は特にアホな無教養層からそれを「AIの書いた文章みたい」と言われることが多くなった。馬鹿馬鹿しい話だ。パラグラフがAIみたいなのではなく、AIがパラグラフ・ライティングに則った文章を学んでいるだけだ。それだけ、海外ではパラグラフで文章を書くことがあたりまえに出来ているということだ。これを何故日本人だけができないのか。それは増田に言わせれば、根本的に「文章というものの考え方」に問題があるからだ。
日本人にいつまで経ってもパラグラフ・ライティングが出来ないのは、根本的にその本質を捉え損なっているからだ。それは「主張(トピック)を先に言う」という論述のルールとは実は関係がない。欧米人の書いたものにも結論を先に言わないものなどいくらでも存在するが、それでもパラグラフの構造は保っている。では実際には何がパラグラフのより本質的な性質なのかと言えば、それは「論点の整理」にある。
日本人はほとんどそこに注意していないが、機能的な文章には無駄があってはならない。それは完全なる「伝えたいこと」の羅列でなければならない。ここで注意しておきたいのは、機能的な文章というのはもちろん創造的な文章とはまたルールが違うということである。創造的な文章は、どのような順序で書いても良いし、どのように無駄なことを書いても良い。
しかし機能的な文章は娯楽のためにあるのではないので、読み味や驚きを求める必要はない。機能的な文章の究極は『表』『箇条書き』、つまり、「データや論点を出来るだけピックアップしやすくまとめたもの」だ。パラグラフもまた、『表』や『箇条書き』のように、必要なデータや論点がどこにあるのかを見やすくし、整理して並べるための機能にすぎない。
つまり、そのためにまず必要なことは「何が必要な内容で、何が不要な装飾なのか」をきちんと峻別することだ。日本人は感想文等の作文教育の影響で、「中身のないものをとにかく膨らます、引き延ばす」ことを文章力だと思い込んでいる。骨身にしみ込まされている。だから、文章をセンテンスの単位に切り刻んだときに、まったく要らない、話と話のつなぎでしかないものが大量に紛れ込んでいる。これがまずいけない。パラグラフ・ライティングにまず必要なことは、センテンス単位で箇条書きにしても無駄が出ないほど「伝えたいこと」でないものを排除することだ。(この文章をセンテンスで区切ってみなさい。レトリックのためにあえて複数文に区切ったもの以外、箇条書きで並べても無駄がないから。)
さて、そうやって伝えたいこと以外をオミットすると(というより、最初から読書感想文のような無駄を膨らます習慣なんか身につけないと)文章は小間切れの主張やデータの羅列になり、それを見やすくするために整理するルールのひとつがいわゆる「論理(論述)」の「結論:根拠、根拠、…」となる。
しかし、文章を整理するルールはそれだけではない。そもそも機能的な文章の多くは、特に主張など含んではいない。政府機関や民間のレポート、研究論文、プレスリリース、そのほとんどは誰かを「論理的に説得する」ようなものではなく、ただ必要な事実をまとめただけのものだ。そのデータをもとに何かしらを判断するのは読んだ人である。「説得的な文章」などと言うものは、テストの小論文以外ではほとんど出てこないのが現実である。こんなものから「パラグラフ」の本質を学べると思っている時点でだいたいの教育者はおかしい。
実用的、機能的な文章を整理するルールには、例えば、「大枠から詳細に入るように説明する」「時間軸に沿って整理する」「手順をステップバイステップで指示する」などの形式がある。実用的な面ではこちらの方が圧倒的に「結論から根拠へ」などというものより多く、より意識して学ばねばならない。
ところで増田は、このように『ロジカルな文章』のタイプを細かく気にするよりも、次のような構造を守れば常にパラグラフの構造を守れるという感覚で書いている。
それは『韻文、散文、データ、データ、データ、…』という表現の粒度で構成するということである。
ここで注意しておきたいのは、『韻文』とはあくまで惹句的な、内容の少し曖昧な表現という程度の意味で使っているのであり、もちろん五七五などの決まりきった標語にする必要はない。
パラグラフの「トピック・センテンス」は「結論」でなどある必要はなく、データ(あるいは具体例など)をまとめるためのタイトルくらいに考え、その次にリードのような、トピックを少し詳細にしただけの文を書く。これが出来ていると、後は事実や主張の羅列でも文章が綺麗に整うのだ。実例を見てみよう。
与作の朝は早い。彼の一日は、まだ日も明ける前から寝床を這い出し、いっぱいの水を飲むところから始まる。それから家の前を掃除し、雨戸をしまい、離れの仕事場へ行く。釜に火を入れ、暖をとりながらゆっくりと手をほぐしてまずは一仕事する。郵便物が届くと、配達人に軽く挨拶をして一旦仕事をやめ、朝日を拝みながら裏山を一回りして、散歩がてら見回りをする。「今日は暖かくなりそうだな」などと考えながら、ようやく朝飯をいただくのである。
この例文は完全なパラグラフの構造を持っているが、もちろん結論も何もない。しかしこのような時系列で行動を描写するだけの文章でも、『韻文、散文、データ』のパターンを使うと構造的にまとまるのである。
このパターンに当てはまる例がすべてではないが、ほとんどの場合ノーシンキングでパラグラフをまとめられる手法なので、頭に入れておくと良い。
ネットバンクの口座名義を旧姓で利用したくて、手続きをすることにした。
すると、チャットでは受け付けられないというので電話で窓口に問い合わせを行い、手続きの説明とともに理由などを確認され、封書が送られてきて、19ほどのサービス名が連ねられた書類に「これは旧姓口座では利用できません」「収納機関によりご利用いただけない場合があります」「旧姓口座利用を行っていても利用はできるが新姓での利用となります」などと書かれていた。
そして念書が添えてあって
・旧姓ではサービスのうち一部を利用できないものがあることを理解し、これに何ら意義を述べません。
・旧姓の使用により私に不都合、不利益その他紛議が生じた場合であっても、貴行に対して一切責任を追求いたしません。
また同時に印鑑証明書の提出を求められた。これは無かったので新たに作った。
旧姓利用を受け付けてくれていることはめちゃくちゃありがたい。
一方で、私は私の名前で銀行口座を使いたいだけなのにどうしてこんな思いを……?という気持ちになる。
マネロン防止とか、そんなことは重々承知している。しかし、今までずっと使ってきた私の名前なんですけど……?
姓を変えた皆さんは骨身までご存知であろうが、2025年現在になっても旧姓の銀行口座を持つことのハードルは高いと言わざるを得ない。
最新情報を調べ直した結果、令和4年の調査で①旧姓による新規口座開設、②既存口座の旧姓維持の双方に対応している銀行が7割との金融庁調査があったが
https://www.fsa.go.jp/news/r4/ginkou/20220906/01.pdf
もともと自分が口座を持っている銀行で旧姓での口座利用継続が可能かどうか問い合わせるまでわからない事自体が意味がわからないと思っている。
銀行口座が旧姓で維持できないと携帯の契約もクレカの契約も全部芋づる式に新姓に切り替えることになる。
だから一市民目線での旧姓利用推進の一番のハードルは銀行だと思っている。
「問い合わせが来たら面倒」みたいな理由で「よくあるご質問」からも存在を消されがち、対人窓口で押し問答が前提になっているのはまぁまぁ削られる。
議員名として旧姓利用していつつ夫婦別姓を推進したくない女性議員なんかが一番やるべきところだと思うんだが。夫婦別姓推進派に餌を与えたくないなら。
自民党を支持していないがこの一派の筆頭である高市議員に要望を送ったことがある。特になにも起きなかった。
シンプルにつれぇ〜なんとかしてくれ〜〜
田中一哉
@moriya_law
「なんでやろなあ」も何も、あなたその事件の被告ですよね。刑事処分を受け、裁判所から多額の賠償金の支払いを命じられても、まだ粘着を続けますか。20歳も年上の男性から10年間も付き纏われる被害者の苦痛が分かりませんか?分からないのであれば、こちらとしても相応の措置をとらざるを得ません。
【亜現代人】うい
@ui_inkyo
春名風花母娘って「控訴」してるはずなんだけど続報ないのなんでやろなあ
毎度毎度自分たちに都合の悪いことはいやに報道したがらない傾向あるから今回もそうかもね
春名風花母娘の異様さは春名風花母娘と過去に接点のあった業界人の反応を見ても明らかじゃないか?
自分たちも悩まされているであろう誹謗中傷に関して光が差したはずの春名風花の裁判報告に言及している業界人なんて碌に見たことないし、新たに仕事を振ったりすることも全然ないじゃん
春名風花ことはるかぜちゃんは今で大人しくなったが、昔は盛んに炎上しており今でいう暇空茜とかへづまりゅう的なポジションだった
「はるかぜちゃんにおちんちん見せたい人はハチ公前にあつまれ!」と小学生の時に呼びかけて実際は誰も来なかったが指定した日時にちんちんを待機して親はなにやってんだと炎上したり、
「近所に障害者施設ができたせいで家の地価が下がった」と発言して障害者差別ではないかと炎上したり、
まだ17歳なのに18禁舞台で裸になることをにおわせて警視庁から降板を命じられたりと、10代の頃は話題になることが多かった
当時はまだyoutubeが盛んではなく炎上芸で儲けるスキームは発明されておらず、はるかぜちゃんはむしろ数々の炎上によって芸能人として失ったものの方が多すぎたのが骨身にしみて今は大人しいのだろう
はるかぜちゃんには多くのアンチがつき、その中に「ぬこちゃん」という男性がいた
ぬこちゃんははるかぜちゃんが炎上に身を捧げた10年間にはるかぜちゃんの発言をチクチク批判してアンチ専用アカウントをツイッターでやっていた
訴訟ブームだった頃にはるかぜちゃんはアンチ数十人を訴えたがほぼ示談や10万以下の少額で終わっていた
しかしぬこちゃんは10年間同じアカウントでアンチをやっていたので対象発言が1000件を突破し、3千万円を求め訴えられ、2年以上訴訟を続けた末に、300万円の支払い命令が出た
1発言につき3千円ではとても足りないとはるかぜちゃんは控訴したと言うが、その後音沙汰なし
今回、そのことに亜現代人という人が触れたところ、田中弁護士が「おめーぬこちゃんだろ」とキレたのである
ぬこちゃんについては訴訟開始後に縦覧した程度なので人となりをそんなに知らないが、亜現代人はなんか普通のオタクっぽい
はるかぜちゃん批判は複数あるが、アンチ専用アカウントでもない
増田のはるかぜちゃん記事に言及してたりするのでこれも捕捉されるだろうか。見てる~?
田中弁護士は亜現代人を開示してイコールぬこちゃんだと確信しているのか、2年ぐらいぬこちゃんを見つめ続けたことで人となりを把握して認知プロファイリングしたのか、「控訴したっていうけど報告がないのは思い通りにいかなかったからw」という発言にムカッときてキレてるだけなのか
実際のところぬこちゃんかはわからないのだが、田中弁護士はムカッとしてはいるだろう
上手くいってたなら「控訴うまくいきましたけど~?ニチャア」とドヤれるところだ
うまくいかなかったのでしょう
20歳以上年上のおばさんに数年粘着されてる(元)女子大生の気持ちも田中弁護士は考えてみればいいよ
はるかぜちゃん及びその母は、かつて女子大生に粘着し嘘で誹謗中傷し、数年経ってからも掘り返して懲りずに嘘ついてその子を叩いた
その女子大生は捨て猫を拾って奈良県の保健所の譲渡会に預け、「誰か引き取って」とツイッター上で呼びかけ、「私が引き取りにいきます」と保護猫活動家が返信し、実際に引き取り報告もされ、ただのイイハナシで終わるはずだった
しかし、前後のやりとりを見ないまま中川翔子が「猫を保健所に連れて行くな!」と女子大生に噛みついたことで「殺処分させるために猫を保健所に連れて行った」と誤認したファンネルが女子大生を猛烈に叩くようになった
当時中川翔子の子分だったはるかぜちゃんも噛みつき、「保健所に連れて行って他人に殺させるぐらいなら、あなたの手で猫を絞め殺せ」とまで女子大生に呼びかけた
譲渡会に預けただけだと説明されたはるかぜちゃんは「奈良県の保健所に譲渡会はないとママが言ってる。女子大生は嘘をついてるだけ」と反論
しかし普通にググれば奈良県の保健所に譲渡会はあるとわかるので、はるかぜちゃんは完全に女子大生を潰すためにデマに走っただけだった
その炎上は結局女子大生が消失したことで終わったが、その数年後にはるかぜちゃんの母親がツイッターを始め、また懲りずに譲渡会はないとデマを流して女子大生を叩き出して軽く燃えた
20歳以上年上のおばさんが、捨て猫を見殺しにできずに譲渡会に預けて保護活動家につなげただけの心優しい女子大生への憎悪を何年も引きずって攻撃せずにはいられなかった
別にその女子大生は中川翔子もはるかぜちゃんも叩いてない普通の日常アカウントだったのに
その被害にあった人たちが裁判芸に走って「相応の処置」を取らずに身を引いてくれただけで、お前らは倫理を説ける側なんかじゃないぞ
はるかぜちゃんママは数年前にシュナムルにはるかぜちゃんを批判されたからと粘着して、暇空がターゲットにした時は一緒になってデマ拡散してたし「被害者の苦痛」をまずは自分たちが理解したほうがいい
ある老僧が屠殺場を通りかかった際、涙が流れるのを禁じえず、深い哀しみを覚えた。
人々はとても不思議に思い、なぜ哀しんでいるのか、老僧に尋ねた。
すると、老僧は次のような話を始めた。
「話せば長くなるのですが、私は、自分の二つ前の前世まで記憶しています。
私が初めて人に転生した際は屠殺人で、三十過ぎで死にました。
死後、その魂は、数人に縛り上げられ、閻魔大王の前に連れて行かれました。
閻魔大王は、私の殺生が過ぎたのを責めたて、悪の報いをもって判じました。
そのときの私は、恍惚朦朧としており、醒めているような夢の中にいるような、頭部が熱くてたまらなかったのですが、突然一陣の涼しさを覚え、気がついてみると、豚小屋の中の子豚に生まれ変わっていました。
私は乳離れしてわかったのですが、人は豚たちに見るからに汚い餌を与えているのです。
ただ、とてもお腹が減っていたので、私はやむなくその餌を食べました。
その後、私は次第に豚語を解するようになり、仲間とおしゃべりができるようになりました。
前世のことを憶えている仲間もたくさんいましたが、人に説明する術がありませんでした。
それゆえ、いつも呻き声を挙げ、将来を憂えていたのです。
私たちの目と睫毛は、常に涙で濡れていましたが、それは、自分たちの運命を知っていたからです。
私たちはまるまると肥えていたので、夏の暑さには耐えがたく、泥水の中に身体を浸けては、いくばくの涼しさを覚えていました。
わたしたちの毛は、まばらで硬く、冬になると寒さに耐え切れませんでした。
そして、十分な大きさまで肥えると屠殺されるのです。
人に捕まえられると逃げられない、と内心分かっていても、命が惜しくて逃げようとするのです。
捕まえられると、私たちの四肢は紐で縛り上げられますが、紐がきつくて骨身に滲みるようで、鋸で切られているようでした。
肋骨は折れそうになり、百脈は塞がり、腹は裂けそうです。
時には、竹ざおに吊るして運ばれるのですが、犯人が挟み上げの刑に処せられるよりも辛いものでした。
あるものはすぐに屠殺されるのですが、あるものは数日間待たされます。
私は怖くて頭がくらくらし、全身から力が抜け、目を閉じて死を待つほか仕方ありませんでした。
屠殺人はまず、私の喉を切り裂き、体を揺すって血をバケツの中に入れました。
そのときの苦しみは、ことばで言い表すことのできるようなものではなく、死ぬにも死に切れず、ただ咆えるばかりでした。
この時、魂が解放され、再び覚醒したかと思うと、すでに人として転生していました。
閻魔大王は、私がその前世でわずかながら善行をしたことを知っていたので、人に転生させてくれたのです。
今しがた私は、この豚が殺される苦しみを受けているのを目にして、思わず自らが前世で受けた苦しみを思い出しました。
人間が采配するテーブルトークRPGをやると戦闘とかで体の一部を欠損したけど金が無くて治療(再生)できないとか普通にあるからな
もちろん能力に大幅な制限が加わって単なる能力値ダウン以上にプレイが厳しくなったりする
PCゲーでもテーブルトークを出来るだけ再現しようとしてる物が多々あるけど前述の通りマニア受けで終わる
そういうゲームを最近はRPGじゃなくてサバイバルゲームに分類することが多い
飢えや渇き、栄養状態や精神状態に病気、寄生虫などにも気を配りながら生活拠点を構築しなければならないGreenHellが極地かもしれない
渇きを凌ぐために汚い水だと分かっていても飲まなきゃいけないとか薬が無いから傷口に蛆虫を這わせて抗菌するとかそういうゲーム
この脚本家の話とかもそうだけどさ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2303488
自分は専門家のような知識はないし、あるいは専門家であっても当事者でない限り個別の状況に関して知ってることは限定的なわけで「自分は知らない」ってことを骨身に染ませるべきだよな
ネットで聞きかじった話にいっちょ噛みしたくなるのは「自分には一言言うだけの見識がある」ってのが無意識にあるわけじゃんやっぱり
自分は無知であると心底わかっていたら簡単に腹を立てられないはず
今はネットという当事者も見る公の場に自分の言葉をつい簡単に垂れ流しちゃうけど、本当はそれって結構責任のあることなはずで、自分の知をいまいちど謙虚に疑って見るべきなんじゃないだろうか
2年前、元カノに振られた。
昨日また振られた。
良い意味の方でサバサバ系。化粧はせずファッションも力を入れないが、着飾らず大学時代と全く変わらない雰囲気であり、誰とでも隔たりなく接する。
元カノとは大学時代に部活で知り合い、ずっと一緒に遊んできた。
元カノも実家に戻り地元企業で就職し、俺の地元から近いので年1回程度、部活OB/OGで集まって遊んでいた。
この転職が実現すると、俺は将来的に地元に戻れること、元カノを東京に連れてくる選択肢が発生することから、結婚を見据えた関係が現実味を帯びたため、結婚を前提にと匂わせつつ元カノに告白した。
元カノはウダウダ言って受け入れてくれた。子供は何人とか家とか専業主婦とか話していた。流石に気が早すぎると思いつつ、浮かれているのを見て微笑ましかった。
転職の成功後は元カノとデートした。元カノが東京に来てくれて一緒に観光したり、俺が地元に戻ってキャンプしにいった。互いに連絡不精なのでLINEは1ヶ月に一度程度だったけど。
出社しても広いフロアに数人、仕事以外は1人、プライベートで友達はいなかった。
俺の元より低いコミュニケーションスキルは著しく低下していく。
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1人でいる時は、常に元カノのことを考えていた。
LINEの他にもお土産とか誕生日プレゼントとか送り合ってはいたけど、元カノとの繋がりを欲していた。
元カノは行動というボールを投げたら投げ返してくれるけど、決して能動的に動く性格ではない。
常にボールを投げ始めるのは俺。元カノは本当に一緒にいてくれるのか愛情表現を欲していた。
デートは友達の延長線上で今までの関係と何ら変わりない。恋人として手を繋いだり2人で遊びに行く機会は増加したけど、俺は特別感を感じられなかった。
最初は全く反応がなく喪失感を感じていたが、最後の方は達成感と満足感を得ていた。
俺の認知は歪んだ。
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転職して1年、俺は彼女の地元に引っ越すことに決めた。リモートワークなら問題ないと気付いたから。
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ある日、誘いを断られた。そういう日もあると理性で理解する。
またある日、仕事中に強いストレスを感じ、元カノとセックスしたくなった。風俗ではなく元カノとだ。
俺は衝動的に元カノを呼び出そうとする行動を観測した。理性ではとんでもない行為と理解するため、実行しないよう耐えた。
それでも衝動がおさまらない。苦しくて窓から飛び出しそうになる。死んでしまいたくなる。クローゼットに入り暗闇の中でうずくまって耐えた。
〜〜〜
調べを進めると、性依存症に辿り着いた。
当時は精神科に行ったり、自分の思考を言語化して書き殴ることで脳内のモヤモヤを解消したり、コミュニティ活動することで自分の居場所を作ってコミュニケーションを積極的にできるよう頑張った。
実家にいる時は気づけなかったけど、本当に1人になって初めて、人間は社会的動物なんだと骨身に沁みた。
〜〜〜
否定されること、嫌われることが怖かった。
荒療治の一環として、元カノに好きって言葉をセックス中にしか言えてなかったので、改めてデートの時に伝えた。もちろん戸惑いもあったが、元カノも「お前とずっと一緒に過ごすと思ってる」と伝えてくれた。
その数週間後、別れたいと言われた。
嫌なところもあれば治すと言いつつも、決意を感じたため、別れるしかなかった。
1〜2ヶ月に一度、俺から誘って2人で遊びに行く程度の関係性。
リモートワークで通話が限られており、今の居住地に元カノ以外友達はいない状況である。
これでは日常的に人と会話できない。この状況が続くとコミュニケーションスキルは上達しない。
ボランティアやコミュニティに入ったり、人と会話する状況に身を置いた。
復縁の希望を持って、元カノをコミュニティに誘いみんなと一緒に遊ぶ。
関係性を自然消滅したくないから、俺の成長を近くで見定めて欲しいから誘った。
コミュニティで中核になりつつ、元カノ含めメンバー皆が楽しめる集まりを企画して遊んだ。
結果、俺は元カノだけに愛情や善意を提供するのではなく、多くの人に善意を提供するようになった。相手を人間として隣人として接するようになった。
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善意の提供配分で思い悩むこともあった。善意は提供配分が多いほど、返ってこない時に心理的負荷が高まる。少しも返してくれない人に悩むこともあった。
しかし、それはきっと、多くの人が経験してきたことなのかと思う。
俺は今までの人生において、人間とのコミュニケーションを避けてきたから、誰かに与える行為を積極的にしなかったから、「今」壁にぶつかったのだと思う。
人間関係において、頭では自分と他人の境界線に気を付けてきたつもりだった。
それでも感情は、少しも返してくれない人に残念な思いを抱く。
だから善意を提供する時、自分が辛くならない程度だけ配分するよう変えた。分散投資するイメージで。
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マッチングアプリも始めた。
最初はメッセージのやり取りがおぼつかなかった。距離感、食事の誘い方や進め方、何もかも分からなかった。
ネットで調べつつ失敗しつつ、女性との関係性の築き方を学んでいった。
俺はコミュニケーションスキルを向上というより、一から人間関係を学び始めていた。
高校時代は、誰ともコミュニケーションを取らなかった。中学時代のコミュニケーションスキルを喪失した。この頃は友達0人だ。
大学時代は、自分を変えようと思って入った部活で人に恵まれ、人と関わることは悪くないと思い始めた。お世話になった先輩や、部活の友達とは今でも会いに行ける関係を築けた。
今では、新しいコミュニティに優しく受け入れられ、自分が人を受け入れる立場になった。他コミュニティにも繋がりが広がり友達が増えた。自分から関わることで友達のネットワークが増大した。
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結果、断られた。
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人生のパートナーになりたいのだと思うこともあるが、おそらくそうではない。
しかし、ふと元カノのことを考えてしまい、否定を繰り返し、結局元カノに思考が奪われる。
元カノのことを意識的に考えないようにするのではなく、無意識的に他に楽しいことや、熱中することを見つけるのが正解とわかっている。
コミュニティで遊ぶ時、
元カノのことは忘れられる。
しかし、疲れている時、何も思考したくない時、ふと元カノのことがよぎってしまう。
だから、今の変わった俺ならと淡い期待を抱き、振られても次に進めると思い、告白した。
ただ、コミュニティで築いた人間関係を捨て去ることになるので、優先度は低い。
マッチングアプリを再開したが挫けそうだ。
マッチングまでいいねを投げ続けることや、マッチング後に会うまでのメッセージやり取りが辛い。相手の温度感が低いのか、それとも会話を投げない性質なのかわからないけど、会話に熱量を投げてくれない人を相手取るのは辛い。
自分の中のコミュニケーションとは、自分と相手と共同で火起こしするイメージを持っている。
だから、自分が1人で火起こしして相手は何もしないだけの状況は、精神的にまいる。
やはり結婚相談所も挑戦してみるかの心境に至る。
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俺は以前から元カノと遊ぶ時に戦々恐々としていた。こちらの選択肢で合っているか?嫌われないか?と顔色を窺っている。
仕事も結婚も合う合わないがあることを、今度こそ感情で理解したい。
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自分が仕事も元カノと合わないからといって、自分が全部ダメなわけではない。
理解度が低すぎて効率が改善できるところとできないところを分けられない、だからこそ見積もりが狂いまくってる奴
まぁいわんとすることも分からなくはないけど、その2つは違う問題だよっていうことだけ言いたかった
自分がよく理解できてない対象で楽観的な見積もりを使おうとするタイプのバカは根本的に性格も終わっているので、そもそも相手にしないのが一番だとは思うけど、どうしようもないときは同じくらいの能力に到達するまでやらせて骨身に染みさせるくらいしかないだろうな
同じだけの(一定以上の)能力が最初からあるならそういうこと起こらんっていうのはそうなんだけど、同じ能力でも2人のバカ同士がつるんでたら多分バカがバカにポテサラ作ってよって言い出すだけでたぶんそこは変わらん
5万円もするのね
大学生のとき個別指導塾で働いていて英語を教えてたんだけど、中学生がみんなあまりにも辞書を引かなくて、塾長に、みんな保護者が電子辞書買い与えるように啓発した方がいいんじゃないですかね、って雑談ついでに軽く言ったことがあった
塾長は、でも電子辞書は高価だから塾側から言うのは難しい、って言ってて、なるほどねってなった
でも内心、大学生の私は、個別指導塾に通わせるような教育ママなら電子辞書に投資すればいいのにとか思ってた
自分自身は中学入学時に伯母に電子辞書買ってもらって、英語から国語(文章書くときに引きまくってた)、第二外国語の中国語、果ては青空文庫で小説読むのまで電子辞書を使い倒してたから
紙の辞書はやっぱりスマホ世代の中学生には馴染みづらいみたいだったし、かといってスマホ検索は気が散るし
でも確かに5万はきついな、って社会人数年目の今なら骨身に染みてわかる そんな大金ぱって出せないよ 世間知らずでごめんなさい
そう書くと短いけど、満足感とストレス的にはこれ以上だと逆にしんどいからマジでこんくらいでよかった
正直クリアあきらめようかと思ったくらい、音ゲーと横スクロールアクションへたくそな人間には地獄だった
不定期なアクションを要求される横スクロールアクションとリズムゲーの相性は悪いということが骨身にしみてわかった
ステージがSIMPLEな序盤はまだいいんだけど、後半っつか終盤が地獄
でも攻略動画見たり、自分なりにやりなおしたりしてなんとか突破
アクションがなあ・・・ロックオンから敵を倒した後、ジャンプ→ダッシュしたらロックオンできないってのが罠すぎるわ・・・
ジャンプ連打でロックオンと攻撃ならそのまま連続してジャンプ押しちゃうのが普通でしょうよ・・・マリオとかスーパードンキーコングとかさあ・・・
壁のぼりとかもいまいちうまく思ったようにアクションしてくれなかったりしてもやもやすることが多かった
リズムゲー重視するなら方向キーとボタンをリズムよく押すくらいで勘弁してほしかったなあ・・・
音ゲーと違って全部ハメなくていいってことにきづくとこれ音ゲーじゃなくていいじゃんってなるし
落ちたり触れたりしたら一発アウトのエリアずっと続くかんじの
基本ワンミス即死ばっかでしょっちゅう音楽止めて巻き戻してーってのがいまいちだったな
まあそれが特徴ではあるんだけど、それ前提の難易度になってるからなあ
しょっちゅう初見殺しがあるのと、後ろから追っかけてくるやつがほんまストレスだった
無理やりリズムに合わせて高評価とるとこまでが攻略だって言われたらそうかもだけど
まあシューティングゲームといっしょで1周が短くてやりこむタイプなんだろうな
はまる人はめっちゃはまるらしいしわからなくもないけど、音ゲーなら音ゲー、アクションならアクションに集中したいってのがわかった
せっかくいい音楽もおちおちきいてらんないし