はてなキーワード: 弱虫とは
ね?
「面白いよ」ってわざわざ紹介したくせに同意されなかったら逃げ一辺倒だろ
要するにお前は自分が推薦したものの面白さすら自分の言葉や文に出来ないわけよ
自分が好きなものを具体的にきちんと語って文に出来たことなんか生涯一度もない
当たってるだろ?
オルクセンなんちゃらもそういうレベルの奴が好きそうだなーって思うもん
全体の構成もなんもありゃしない
ディテールと設定の羅列だけなんだけどそれすら脈絡もないし下敷きの知識もたいしたもんじゃない
ないないない、なーんもない
っていう風にバカにされてもお前は具体的な反論を言葉にする力も意気地もないわけ
「ならいい!」とか言って逃げていくだけ
お前はどうせ肉体的にも弱虫なんだろうと思うけど
まず脳髄が弱虫なんだよ
それを一生直すこともないわけ、奮起することもないから
タイトル通り
一時期はデモに参加したりSNSで反戦や政治について発信するアカウントを作ったりしていたが、NOWAR界隈にうんざりしてコミュニティを抜け一部以外の人間関係も切った 本当に仲良くなった人とはこれからもたくさん戦争や政治について話す
これからは活動したり人間関係を広げたりせず普通にちゃんとした機関に毎月自動引き落としの寄付をするのみにする
以下、嫌だと思ったこと
「政治の話しない人は大人としてダサい」「自民党に投票してる人、頭大丈夫?」「スタバやマックに行く人は人殺しに加担している」と普通に言う
平和とはなんぞや?ってなる 人にはいろんな事情がありいろんな考え方がある
「政治の話をしないのはあなた相手だからだと思うよ、自分の意見を押し付けて馬鹿にしてくる人と話しても意味ないから」をオブラートに包んで言うと「その人が弱虫でバカなんでしょ」みたいに返されてもういいわってなった
私は小学校のころから政治(特に外交)オタクであり、政治の話をしたくて界隈に足を踏み入れたというのもあるのだけど
こう言うと界隈には「知ろうとすることが大切。知識マウント取るとかニホンヒトオス?」とか言われそうだが、何かを語る時に最低限の知識を持たないって一体なんのために語るんだろうかと思ってしまう
とりあえず現政党を批判すればいいと思ってるし、ツイッター速報やニュースシェアリングなどのインプ稼ぎの釣りタイトルに騙されてひたすら怒っているし自分の間違いを認めようとしない
戦争に関しても、とりあえず敵を決めつけて敵のやることはなんでも悪い、庇いたい側のやることはなんでも良いとして庇いたい側を批判する者は敵とみなしている
生活の全てに絡めて反戦、政治の話をしてくるめんどくさい人間が多すぎる
こう言うと「ハア…だから政治は生活と繋がってんだって」と界隈に言われそうだが、もはやそういうレベルではない ほとんどがただのイチャモンだし普通の意識の人から見たらただの異常者
あちらこちらに噛み付いてストレス発散をしているとしか思えないレベル
NOWAR界隈にはアダルトチルドレン、愛着障害に悩む人、ADHD、ASD、うつ病患者などが本当にめちゃくちゃいる
あとツイフェミ(というかミサンドリスト)と反出生主義者もめちゃくちゃいる
出産したロシア人に対して「人殺し遺伝子を持った人間がこの地獄に子供をひり出すとか正気か?」と言ってる人もいた もう平和願ってないだろ
私の体感では恵まれている(余裕がある)ゆえに意識が高い人:人生に何らかの問題がある人=1:10くらいの感じ
それが悪いというのではなく、本当に真剣に反戦や政治について考えているのではなく自分の問題から目を逸らすために利用しているように見える人ばかりだったのだ
それって本当にいいことなのだろうか、戦争の被害にあっている人、今苦しんでる人に失礼なのではないか?と私は思ってしまった
NOWAR界隈には私の考えは下劣ととられるんだろうけど、まず自分の人生に集中して幸せな人間の総数を増やすほうが平和につながるのではないかと思った
仕事から帰ると妻はソファに寝そべり、両手でスマホを持って見つめていた。
ソファの片隅にはブランド品の紙袋。クリスチャン・ディオール。
晩御飯に吉牛を頼まれ、テイクアウトの袋をテーブルに起きながらコートを脱いだ。
妻は顔を上げない。
「晩飯、買ってきたよ」
「…ん? ああ、おかえり」
妻はスマホから目を離さない。ちらりと覗くとメルカリの画面が目に入る。
微かな舌打ち。SOLDの赤白文字。
「クリスチャンディオールはもう死んだよ」
「はっ?」
妻は初めてこちらを見た。
「デザイナーのクリスチャンディオールはとっくに死んでるってこと」
妻は微笑を浮かべる。
「だから何?」
「クリスチャンディオールはとっくにもう死んでるんだよ」
僕は妻が聞こえないほどの小声で繰り返した。暗唱するように。
それでも妻は再びクリスチャン・ディオールの紙袋を並べるだろう。
無地の袋から吉牛二つを取り出すと、割り箸が入っていないことに気が付いた。
仕方がないのでキッチンへと向かう。
子供の頃、母ががんになった
酷い泣き虫でとても一人にはしておけない娘を前に、母は何がなんでも生き残らねばと決意した、と聞いた
無事手術は成功したが、その後も長く放射線治療と検査を受けていた
他にも腫瘍ができ、これが悪性だったら余命はもう数えるほどだと宣告されたこともある
それでも母は苦しい治療を受け続けていた
主治医に完全寛解と経過観察の終了を告げられた時、私はもういい大人になっていた
つい数年前のことだ
今日で長い病院通いもおしまいになったよ、と聞いた時、私は最初に「生きていてくれてありがとう」と言おうとした
母がそばで生きて育ててくれたから、泣き虫で弱虫な私は一応の大人になれたのだ、それは当然じゃない、母の決意に支えられた私の幸運だったのだ
でも、まるでそれは「あなたの人生は私のためにあった」と言っているみたいで
母の生は母だけのもののはずで、生きようとしたのもそれは彼女個人の決意とその結果であって、そこに他者である私が感謝を表明するのは筋違いでは、と思ってしまったのだ
ただでさえ、まだ女性が自由にはライフプランを選べなかった時代の人に、「母として生きてくれてありがとう」というのは失礼なのではないか、と
そして「生きててくれてありがとう」ということで、私はこの先の彼女の人生の自由もやんわりと縛ってしまうのではないか、と
結局私は、「私は、お母さんがこれまで生きていてくれて本当に助けられた」という、謎に突き放したような感想を表明したのみだった、母はリアクションに困った顔をしていた
なにか贈り物なんかもしなかった
某SNSで似た言葉を見かけ、自分のそのことを思い出して、もっとちゃんとお祝いすれば良かったと後悔しているような、でもやっぱり私にとってはあれで正しかったと思うような、割り切れない気持ちでいる
正解はなんだったんだろうか
今だって母にはこれからも元気に長生きしてほしいが、それを彼女が望んでいるかはわからないし
人をおもうというのは難しいことだ