「短歌」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 短歌とは

2026-01-10

anond:20260110004920

20代後半の、短歌なんかやらなくても生きていける人間

増田自身が書いてる通り、30近くになってやんなくてもいい短歌に関してこれだけの思いを込めた長文書ける情熱があるって凄いことだよ、大真面目に

まらん思いは増田に書き捨ててぐっすり寝て忘れよ

anond:20260110002935

現代正岡子規みたいな増田やん

その怒りや情念短歌にぶつけろ

そんなツマラン奴らに拘泥する必要はないよ

短歌書いてるやつってやなヤツ多いね!!!

書き殴る

2年前ぐらいか短歌に興味を持って、歌集を買って読むようになった

最近タイムラインカクヨム短歌賞の中間審査レポートが流れてきて、それも楽しく読んでいた

けどもうやんなってきたわ

俺は浅いなりに短歌が好きだったし、芸術だと思っていたけど、カクヨム短歌賞に対する短歌書いてる人たちの反応がみんな閉鎖的で、言っちゃえば性格悪いのかなって思う

もうほんとにアホらし、悪いけど現代における短歌なんてめちゃくちゃ小さなカルチャーだろ

青松輝の文化を守っていくために、文化を強くしていくために短歌を広めていく姿勢ってマジで普通というか、称賛されるものだと思ってたけど、みんなそれが嫌みたい

20代後半の、短歌なんかやらなくても生きていける人間が、わざわざ短歌を広めようとしていて、そこには確実に悪意なんてないのに、みんなしてそれを叩いて、本当にこの人たちって月の美しさとか分かるのかって思うわ

明らかにライン越えの暴言が書かれたnoteも、この人の言うことももっとも!みたいに支持するやつ多くて、恥ずかしくないの普通

こいつらマジでなんのために短歌を書いてんの?

歌集出版するのに、短歌賞を作るのに、どれだけたくさんの大人がどれだけたくさんのお金が動いてるか想像したことあんのかな

自分1人で短歌書いてると思ってるだろ

お前が短歌出会えたのも、素晴らしい短歌今日読めるのもいつだってその文化を守ってきた奴らのおかげだとなぜ分からない

誰にも読まれずに短歌を続けられる奴もいるだろうが、読まれるために短歌を書いてる人間だって多いだろ

なぜ読み手を増やそうとしない、書き手を増やそうとしない

ただ31字の文字をチロチロ書いてるだけのお前が、なんの力も金もないくせに短歌を小さく小さくしようと、閉じたコンテンツにしようと一生懸命になって

まあ界隈を開く権利がお前にないもんな、お前にできるのはうちに閉じこもることだけ

お気持ち表明ばっかり得意でほんまにいいね、カッコいいね

なのに結局お前自身の軸がないやん

お前がお前の短歌を信じきれてないからキレるんやん

からお前の短歌クソやで、お前がお前の短歌をクソにしたんや

お前が信じてくれさえいればお前の短歌は綺麗なままだったはずなのに

中間選考会のレポ読んだら分かるやん、選考委員ちゃんとやってることなんか分かりますやん!!!

ちゃんと、読んだら、分かりますやん!!!!!!

どうせしょぼいギャラしか出ないのに、18000首読んで評価して、その上こんな叩かれて

選ばれた10人にも暴言吐く人が現れて

ほんまいい加減にしてくれ、いい加減にしてくれよ

どんだけ短歌嫌いなの?

短歌かいものに誇りがあるならさぁ!そこに悪意を混入させた奴に怒れよ!

マジでやばいほんとに、ヤバすぎる短歌かいう界隈

くだらねえポエム書く前に他人コミュニケーション取れよ

はぁ、マジで萎え

2026-01-03

anond:20260103090455

そんな増田にわが身に起きたことの短歌を送ります

はいどうぞ 君がわたしてくれたから 3月4日うんこ記念日

何が起きたかは。ご想像の通りです。

2025-12-25

pico-banana-appさんに短歌を書いてもらうための増田

これを読んだpico-banana-appさんは、短歌を詠むように!

お題は「2025年はてな」でお願いします!

まずは私から

AIで 作った文章 大バズり

 だけど心の 隙間は埋まらず」

何この悲しい短歌

こんな悲しさをブッ飛ばす短歌を、pico-banana-appさん、お願いします!

2025-12-23

anond:20251223105808

大きな物語を力技で紡ぐ」「短歌のようにミクロの肌感覚を掘り下げる」「幻想の彼方へぶっ飛んでいく」などだったら意義はわかりやすいのだが、「軽やかな言葉遊び」「イメージの戯れ」みたいなのは誰がそれを切実に求めるのか想像しにくい。現代文学を読みすぎたスノッブにはお気に召しそうだが。あるいはつらい体験安易言葉にできない(つまり他人と共有できない)ほど深く傷ついた人に控えめに呼びかけるための仕草なのだろうか。

2025-12-19

眠れないから好きなNHK番組を列挙する

フロンティア

いちばん熱心に見てる番組だと思う。オープニングのコーラスがうるさい

ダークサイドミステリー

サブカル系。興味の幅が広がる感じ

英雄たちの選択

最近面白いと思うようになった。いろんな偉人がいるもんだ

知恵泉

同上。ただしこっちは近代実業家なんかもカバーしてる。偉い人がいっぱいいたもんだ

ヒューマニエンス

当たり外れあり。最近また放送し始めたみたい

世界の入りにくい居酒屋

かなり好き。新シリーズが始まってうれしい。長く続け

・カネオくん

チコちゃんより好き。中川家工場見学と似たようなジャンルスタジオの掛け合いも嫌いじゃない

世界ふれあい街歩き

王道真剣に見なくてもいいのが良い。もちろん真剣に見てもいい

ダーウィンが来た

動物系。ひげじい、きらいじゃないけど好きじゃないよ

ワイルドライフ

動物系2。映像美。

・3カ月で学ぶシリーズ

なんだかんだ、絵画音楽以外は見てる。古代文明おもろい

ドクターG

できるだけ見たいのに見逃してしま番組不定期なのが悪い

空港からあんまり出歩かないやつ

街歩き枠。最近になって始まったのかな? 気軽につけてられる

美の壺

街歩き枠。街歩きじゃないけど。気軽につけてられるのは同上。

あとは魚スターとか、俳句短歌番組とか。世界研究者日本研究してる番組結構見てたなあ。

この間やってた世界社交ダンス大会番組面白かった。

BS世界のドキュメンタリーも興味があって、イスラエルパレスチナ問題を扱った番組をいくつか録画してたけど、削除しちゃった。

ちょっとねー、気合いが必要なんすよ、あそこらへんの番組。溜まる一方だし、気分は乗らないしで、消してしまった

さなきゃよかった

2025-12-17

飯田一史の批判三宅香帆の反論は、それぞれどこが間違っているのか

表題のとおりです。

事の発端は、12月12日飯田一史さんは記事「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はどこが間違っているのか(抄)」 https://ichiiida.theletter.jp/posts/0aa160a0-d70f-11f0-aa07-8582de6095b5 (以下、飯田批判)において、三宅香帆さんの著作『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1212-b/ (以下、三宅本)の誤りを指摘したことでした。

これに対し、翌日の13日に三宅香帆さんは記事「「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はどこが間違っているのか」はどこが間違っているのか」https://note.com/nyake/n/na2d317b47bc5 (以下、三宅反論)を投稿し、飯田批判に対する反論を試みました。

このエントリでは、両者の主張に対する見通しを良くすることを目的に、飯田批判三宅反論論点を整理したのち、それぞれの問題点を指摘していきます

まとめたのは人文系の話には疎い人間のですので、誤りも多いかと思いますので、まあ話半分で読んでもらえればと思います

なお、飯田批判は、飯田一史さんの新著『この時代に本を売るにはどうすればいいのか』(星海社新書https://ji-sedai.jp/book/publication/konojidaini.html から抜粋であることを念の為補足しておきます

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

📰 0. 三行要約(問題点

飯田批判は、特に三宅本は(出版流通における)「書籍」と「雑誌」を分けていないかダメだ」という主張に相当問題があると思う。

三宅反論は、そもそも反論」できてない。言い換えると、飯田論理展開をあまり追えておらず、誤読を基に論理を展開するため実のある話があまりない。

三宅反論は、三宅本の議論の前提に基づく問題を、あたか飯田データ処理の問題すり替えていて、個人的にあまり心象が良くない。

以下、飯田批判三宅反論についてより詳細に検討していきます

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

📚 1. 飯田批判論点

飯田批判の主張とその根拠、主張を正当化する論証について整理を行います

理屈が明晰な箇所もある一方、煙に巻くような箇所もあって、議論を追うのはすこし大変だったような印象です。

まあ私の読解力の問題のような気もします。

読みやすくするため、飯田批判の主張のうち、

三宅本への指摘に該当するものには「◎」

・直接的には指摘ではないものには「◯」

という記号を付けておきます

また、論拠を準備していない主張には大括弧[]で囲っておきます

--------------------

(「・働き始める前から読書量は減り、働き始めた後も日本人読書量は減らない」の節)

◎主張1-1. 三宅本は、労働により読書量が減少することを前提にする。

しかし、これは誤りであり, 読書量は労働が始まってから変化してはいない。

<主張1-1の論証>

根拠1-1-1. データ書籍の月間平均読書冊数

根拠1-1-2. データ:1ヶ月に読む本の冊数の割合

根拠1-1-1および1-1-2は, 読書量の低下は, 労働が始まる前の現象で、それ以降では起きていないということを示す。

これは、三宅本の前提を棄却するデータであり、ゆえに主張1-1が示される。

<論証おわり>

--------------------

◯主張1-2. 書籍における「買う」(=出版売上)と「読む」(=読書量)の間の関係は明白ではない。

<主張1-2の論証>

根拠1-2-1. 「積ん読」という言葉存在

根拠1-2-2. データ: 紙の書籍推定販売金額と月の平均読書冊数

根拠1-2-3. アメリカイギリスでの調査.

根拠1-2-1, 1-2-2, 1-2-3のいずれも、書籍に関しては、「買う」の増減から「読む」の増減を帰結することやその逆を主張することは難しいことを表している。

<論証おわり>

--------------------

(「・「雑誌」と「書籍」も別の話」の節)

◯主張2-1. 雑誌における「買う」(=出版売上)と「読む」(=読書量)の間の関係は明白である

<主張2-1の論証>

根拠2-1-1. データ: 紙の雑誌推定販売金額と月の平均読書冊数

根拠2-1-1は、雑誌に関しては、「買う」と「読む」の間に相関があることを示している。

<論証おわり>

---------------------

◎主張2-2. 三宅本では、書籍雑誌区別ができていない。

<主張2-2の論証>

根拠2-2-1. 三宅本のp.38の記述

根拠2-2-1は、三宅本において雑誌書籍区別できていないことを示している。

<論証おわり>

--------------------

[◎仮設2-3. 三宅本は、「読書離れ」を論ずる際には雑誌書籍区別するべきである。]

(これは明示的に飯田批判にあらわれていないが、以下の主張2-4の論証において機能する暗黙の前提である、と私は思う。)

---------------------

◎主張2-4 三宅本は、『読書世論調査』における「読書時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張する。しかし、これは不適切である

<主張2-4の論証>

根拠2-4-1. 「読書時間」は「書籍+雑誌との接触時間である。主張2-1から雑誌接触時間は減少傾向であると推察されるので、

読書時間」の減少は(書籍ではなく)雑誌との接触時間の減少と解釈するのが自然である

根拠2-4-2. そもそも読書時間」もそれほど減っていない。

根拠2-4-3. 『読書世論調査』の総括では, 読書率はあまり変化がない.

根拠2-4-1, 2-4-3から、 「読書時間」の減少は書籍との接触時間の減少を導くのは難しい。

[仮設2-3]から, 「読書離れ」は特に書籍読書時間減少を意味すると解釈するべきであり、

三宅本のやり方では書籍読書時間減少を導くことはできない。

また, 根拠2-4-2の存在は、特に読書時間の減少が生じていないことを示唆する。

<論証おわり>

--------------------

(「・労働時間は減り、自己啓発時間も減っている」の節)

◎主張3-1. 三宅本は、日本人現在長時間労働であることを前提にしている。

しかし、労働時間を「全産業平均」の観点で見たとき、この前提は不適当である

<主張3-1の論証>

根拠3-1-1. 厚生労働省「わが国の過去50年間(1973年2023年)の労働時間の推移についての考察

<論証おわり>

--------------------

◎主張3-2. 三宅本は、次の(i), (ii), (iii), (iv)を主張する:

(i) 1990年代から自己啓発市場が拡大した.

(ii) 自己啓発労働による自己実現)のための読書(=「情報摂取型、「ノイズを除去する」「〈社会〉を遠ざける」)時間が増加した.

(iii)代わりに、人文書小説などのための読書(=「アンコントローラブル」な「ノイズ」や「他者文脈」を含む)時間が減少した

(iv) 読書離れと自己啓発書の伸びはまるで反比例グラフを描く

しかし、(ii), (iii), (iv)は誤りである

<主張3-2の論証>

根拠3-2-1. 黒田山本論文

根拠3-2-2. グラフを書くだけの定量的根拠はない(提示されていない)

根拠3-2-1から労働者の 「自己研鑽」 = 「学習自己啓発・訓練(学業以外)」の時間は減少している。

これは(ii)を否定する。

主張1-1および(ii)より(iii)は成り立たない。((iii)が成り立つためには(ii)が成り立つ必要があるため。)

根拠3-2-2は、(iv)を否定する。(少なくとも、(iv)の主張を肯定するだけの理由はない。)

<論証おわり>

--------------------

◎主張3-3. 三宅本では、自己啓発市場の拡大から自己啓発書のほうが文芸よりも市場が大きいかのように解釈する。

言い換えれば、次の(1),(2)を主張する:

(1)自己啓発市場は拡大している

(2)(1)が正しいのであれば、「自己啓発書のほうが文芸よりも市場が大きい」は正しい。

しかし、これは誤りである

<主張3-3の論証>

根拠3-3-1 牧野論文.

根拠3-3-2. データ: 日本出版市場推定発行金額

根拠3-3-1は、「年間ベストセラーにおける自己啓発書の冊数割合は増大している」ことを主張する。

これは(1)の根拠としている。これ自体問題はない。

しかし, 根拠3-3-2は 自己啓発本の市場小説市場よりはるかに小さいということを意味する。

これは、(1)が正しいのに「自己啓発書のほうが~」が間違っているので、(2)は正しくない。

以上から、これは誤りである

<論証おわり>

--------------------

[◎主張3-4, 三宅本は, 上の(1), (2)が成立するとしていたことが原因で、(i)から(ii)および(iii)を導いた]

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

🧠 2. 飯田批判の怪しい箇所

以下で、飯田批判を読んでいたときに、個人的に気になった点を列挙します。

飯田主張2-4について:「書籍」と「雑誌」の区別本質的か?

主張2-4の背後には「書籍雑誌分別するべきである」という暗黙の前提(仮設2-3)があるように思う。

三宅本の「読書から雑誌」を除外することは本当に妥当かを考えたい。

・「書籍」と「雑誌」の違いを整理しておく。

といっても自分出版業界人間ではないので正しい理解かは怪しいのだが、調べた範囲のことをまとめておく。

(間違ったこと言ってたらごめんなさい)

書籍」「雑誌」の辞書的な定義はたとえば布川ほか編『出版事典』(出版ニュース社)のp.217およびp.167にある。

ざっくりまとめると「書籍」と「雑誌」の違いは一定編集方針の下で定期的に刊行されているかどうかという部分のようである

これは、1985年ユネスコ出版統計上の「図書」と「新聞及び定期刊行物」の違いともおおむね合致しているように見える。

("図書新聞及び定期刊行物出版及び配布についての統計国際的標準化に関する改正勧告". 文部科学省. https://www.mext.go.jp/unesco/009/1387396.htm

より実際的な取り扱いは, "既存雑誌が「創刊」とは、これ如何に". 出版科学研究所オンライン. https://shuppankagaku.com/column/20070111/

によれば、

そもそも本というのは「書籍」と「雑誌」に大別されますが、出版業界では「雑誌コード」が付されたものを厳密に「雑誌」と区分しているのです。

一見雑誌のように見える本も、このコードがなければ「雑誌」ではなく「書籍」ということになります

ということらしい。(しかし、これはあくまコラムの中の記述でありカチッとした話ではないことに注意)

書籍」と「雑誌」の実際上の取り扱いの違いは、「雑誌コード」の有無、つまり流通上の取り扱いの違いから生まれてくるという。

日本では、「書籍」はISBNコードを持ち、「雑誌」はISSNコード雑誌コードを持っている。

その中間にあたるムック本では、ISBNコードだけでなく雑誌コードも付随しているようなものは「雑誌」の対象とするようである

("「雑誌」の定義出版統計". 出版科学研究所オンライン. https://shuppankagaku.com/column/20060911/

ともかく、「書籍」と「雑誌」を分けるのは明らかに内容やジャンルではない。定期的に刊行するかどうかであったり、それを根拠雑誌コードが付いているかどうかだったりである

コミック誌を除外したとしても、『anan』のようなファッション誌もあれば『文學界』や『オール読物』のような文芸誌も、また『Nature』や『ナショナルジオグラフィック』のような理工系雑誌もまとめて「雑誌」にカテゴライズされる。

さらに言えばサイエンス社の『SGCライブラリシリーズ書物は, それぞれ内容的に全く独立しており実質的単行本ではあるのだが、『SGCライブラリ151』までは『数理科学』の臨時別冊という扱いだったのでそのカテゴリは「雑誌」になっている。(なお『SGCライブラリ152』以降は「書籍である

一方、書肆侃侃房の『文学ムック たべるのがおそい』は確かにムック本ではあるが、雑誌コードを取得しておらず取り扱いは「書籍」であった。

このように「書籍」と「雑誌」の区分そもそも出版流通上の区分であり内容面での区分ではないばかりか、その区分出版物の実情と必ずしも合致しているわけでもない。

この区分はかなり表面的、形式的ものであると見るべきだろう。

・以上を踏まえて、飯田批判、つまり書籍」や「雑誌」という出版流通における区分の不徹底でもって三宅本を批判したこと妥当性ついて吟味してみよう。

飯田批判とはなんだったのか。

それは、「「書籍+雑誌との接触時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張するのは不適切である」(主張2-4)という批判である

そして、なぜ飯田が「不適切である」と主張するかといえば、「書籍」と「雑誌」は分けて考えるべき(仮設2-3)だからと考えているからであり、

特に三宅本の「読書離れ」の定義としては「書籍読書量(≒読書時間)の低下」を採用するほうがより妥当である、という飯田が信念を持っているかである

ここで注意したいのは、主張1-2, 2-1は「「書籍+雑誌との接触時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張するのは不適切である」(主張2-4)の根拠ではない。

飯田はその直前に「「書籍読書量と出版売上」の相関は弱い(主張1-2)一方で、「雑誌読書冊数と出版売上」が正の相関関係にある(主張2-1)という事実を指摘してはいものの、飯田はこれらを「読書量を測定するにあたって「書籍」と「雑誌」を区別するべきである」(仮設2-3)の根拠にはしていない。主張2-4は仮設2-3からは出てくるものの、主張1-2, 2-1には立脚していない。三宅反論で大いに誤読したのは、主張1-2, 2-1があたかも主張2-4の根拠になっているかのような書きぶり、配置の魔術ゆえであろう。

ともかく、飯田批判妥当性を吟味する際はこの信念「三宅本の「読書離れ」の定義としては「書籍読書量(≒読書時間)の低下」を採用すべきである」という部分に注目すればよい。

三宅本で対象としている「読書」は、大方「人文書小説などのような(「ノイズ」や「他者文脈」を含む)書物を読む行為」と解釈するのが妥当だろう。

したがって「読書離れ」は「人文書小説などの書物を読む頻度が減ったり、そのために費やす時間が減少している」ということだろう。たとえば理工書や技術書ファッション誌、ゴシップ誌などを読むことは端から三宅本の「読書」に含まれていないと見るべきである

転じて言えば、たとえば「雑誌」であっても文芸誌を読む場合は「読書」に含まれるべきだろうし、「書籍」であっても理工書を読むことは「読書」に含まれない(と三宅本では考えている)かもしれない。

要するに、「読書」といったときに、読まれるべき書物を分類できていないと批判するならば、むしろそのジャンル文芸歴史書哲学書・理工書・サブカルゴシップファッションなど)の違いに着目するべきなのであり、出版流通における「書籍」「雑誌」という区分は、少なくとも直接的には重要でないだろう。もしこれが重要なのであれば、それは驚くべきことなので、別でこれを論証すべきである

もちろん、おそらく「雑誌」の出版売上の中でファッションゴシップ支配的で文芸誌や理工系雑誌は影が薄いだろうから、その意味で「書籍」「雑誌」の区分で売上を観測することがジャンルの傾向をよく記述するとは言えるかもしれない。言い換えれば、「ジャンルによる読書量の違い」を捉えるにあたって「出版流通におけるPermalink | 記事への反応(0) | 20:21

2025-12-07

短歌(57577)俳句川柳(575)に比べて注目度の低い「都々逸(7775)」

都々逸(どどいつ)ってのは7・7・7・5のリズムのやつね。

立てば芍薬 坐れば牡丹 歩く姿は 百合の花 とか

結構毛だらけ 猫灰だらけ ケツの周りは クソだらけ みたいなやつ

都々逸ってノリがよくてかっこいいと思うんだけどあまりにもアンダーレーテッドだよな

リズムが頭にスッと入ってくるのがいいんだよな。

たとえば標語とかで7・7は圧倒的に多いけどあまりにもありふれてるじゃん?

時間は有限 能力無限」みたいな。

これをもうひと工夫して都々逸にしたらより頭に残りやすくなるんじゃない?

2025-11-19

傑作漫画は大体4巻以内に終わる

俺的傑作の定義=描かれていたキャラの考え方やセリフ自分の中に残っていて、自分を形作る一部になっている作品

 

21エモン』:藤子F不二雄の最高傑作相対的価値観。意外とカネの話ばかりするところ。木星編は最高。

スローニン』:吉田聡最高傑作。どのエピソードもいいが「スクラムトライ」は何度でも泣ける。「どうしてそんなにいつも強くなきゃいけないんですか?」

グリーンヒル』:古谷実最高傑作宇宙人を追って屋根を走る彼を見て「私は彼が好きだ」のシーン。あれ以上の恋愛漫画存在しない。

レベルE』:冨樫義博最高傑作。彼が生み出したキャラの中で一番狂っているのが王子。あれを超えるキャラクターは前にも後にもいない。

花田少年史』:一色まこと最高傑作。泣かせにきてる作品だがきっちり泣かされる。5巻は番外編なので実質4巻まで。

プラネテス』:幸村誠最高傑作宇宙日常として描き、それを成立させる画力。2話目が出色。ハチマキはわりとどうでもいい。

度胸星』:山田芳裕最高傑作ではない。残念だよね。これが連載続けられない世界。『望郷太郎』は納得のラストを迎えてほしい。

呪文世界を覆せ』:最近ではこれ。短歌×芸人って、界隈ではありそう感のあるテーマだが、中身は全然違う。さすが認知症の著書が多い著者。

2025-11-16

anond:20251115193909

どうだろうな、昭和の昔はアマチュア無線オーディオ電子工作界隈とか鉄道模型ジオラマ界隈とかヨットカヤック界隈(モーターボートは除く)、セスナパラグライダー気球界隈、登山キャンプ界隈、旧車いじり界隈、天文(鳥、昆虫、花、建築寺社風景写真界隈(鉄道は除くw)、囲碁将棋チェス茶道華道香道、謡、詩吟小唄都々逸短歌俳句とかある程度知性的創造的で迷惑をあまりかけない趣味世界で「同好の士が集う趣味」ってあったと思うんだけど。いま、「いい感じにクラス感があって知的上品趣味サークル」ってあるんかな。大体うぇーい系がやってきてお金儲けとセックスの狩り場になって無茶苦茶になっているような気がする。

2025-11-13

過度な頻度でAI松やブクマをする行為はお控えください

いつもはてな匿名ダイアリーをご利用いただきありがとうございます

投稿利用に際しての注意事項をお知らせします。

過度な頻度ではてな匿名ダイアリーAI松やブクマを行うことはお控えください。

「過度な頻度」とは、通常の増田活動では考えられないような膨大な量を短期間で投稿する行為を想定しています

例えば、短期間で大量のAI松やブクマが行われると、増田が新しい価値観出会う場である「新着エントリ」が機能しなくなってしまう等、他の利用者にとって不利益が生じてしまます

そのような事態を防ぐため、ご利用の皆さまには常識的な頻度・量で投稿していただくことをお願いいたします。

自身体験日記トラバ投稿等でこれらのケースに当てはまる行動を確認した場合は、AI作品公開停止やアカウント利用停止など運営として然るべき対応を行わせていただいております

なお、過去に他のサイト投稿されていた作品転載であることが確認できる場合、あるいは、俳句短歌作品投稿場合などは、本事由に該当いたしません。

ユーザーの皆さまが心地よく創作読書に取り組める環境づくりのため、ご理解いただけますと幸いです。

2025-10-08

短歌集作ってなろうで投稿したら30pv中ユニーク15で

毎日夜中の3時に1pvが続いてるんだけどbotかなんか回ってんの

2025-09-22

短歌ってたった31文字しかないって言うわりにそのうち5文字枕詞かいうそ自体意味のないお約束で埋めてるのアホみたいだよ

2025-09-21

最近自作短歌とその反省

しりだえおおきなとらっくのゆうひだえいなほだえすてきだえ

単純に意味が分からないし、だねをだえにしてみる必要性もない。ていうかこれはひどすぎる


あざしたくさんの傘を買った翌朝に止む雨のことじっと見るきみのこと

長い。翌朝に止む雨それからきみのこと

にした方が良かったか




超えられぬ壁をシール一枚に記され穴開け機空を眺めて何思う

越せぬ壁記されたにした方がよかったか

越せぬ壁記された穴あけ機…?

大人さなりたての牙で噛み付こう九月のぴんと晴れたこの日に


やたら評判がよかったうた。自分でも確かに良いとは思うが、下の句がちょっとね。

降る雨や転んで泣いて寝転ぶも人と呼べるもの通らぬ道に降る雨や

降る雨を繰り返してみたけれどあまり良くはなかった。ていうかうまく思いつかなかった


なんで歯はなにかと触れないといたいと言えないのだろう気づけばあなかなしい

あなは「穴」と古語の「あな」と被っているが実はこれ偶然である投稿してから気づいた。

上の句がくどい♡♡

2025-09-04

カクヨム短歌

十首連作が1783作、単純に17830の短歌があるってことだからそりゃまあ審査も大変だとは思うんだけど、一次の結果が出る前から審査員が(良い連作10しかないはすがない)とか言っちゃうの、どうなん?と思ってしま

漫画ラノベコンテストだったらもっともっと応募数多いだろうし、読むのも大変だろうし…

言いたいことは分からないでもないけど、結果出る前から「みんなでこ場所を育てましょう」って言われてもな

2025-07-26

お前らの好きな俳句(ただし1945年以降に発表されたものに限る)ってなに

授業でしか俳句を知らないし、普段短歌ばっかり勉強してるし、近大特に戦後俳句)を全然知らないわけよ。だからこの機会に知りたいなって

で?なに?好きな俳句

2025-07-25

寺山の修ちゃん高校生時代wwwwww

海を知らぬ
少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり


教科書でも見かけるこの歌は寺山修司歌集によれば高校生時代-1957年以前に作られたという。

ぱっと見では分かりにくいが、これは変な歌だ

そもそも「海を知らぬ少女」とはなにか?

なぜ「麦藁帽のわれ」が「両手をひろげている」のかの理由は全て読み手想像に任せている

穂村弘

冒頭の引用歌では「少女」という他者が「海を知らぬ」と内面から規定され「われ」の方が「麦藁帽の」とまず外側から捉えられているのだ。
これはは一見ささやかしかし、一人称視点原則とするこの詩形においては得意な逆転現象である

解説している。

教科書高校生の作った歌(多分)が乗っていることよりもこのハイレベル過ぎる一首を恐らくは高校生時代作成している修ちゃんマジで怖い


まだ生まれざるおとうとが暁の曠野の果てに牛呼ぶ声ぞ

田園に死す 子守唄より引用

なんということだろうか、海を知らぬ少女の前で手をひろげていたあの高校生は何年か経ち、これほどまでに変わってしまったのである

そう言えば理由説明していないと私は言ったが

その前後の歌はこうある

わが通る果樹園小屋いつも暗く父と呼びたき番人が棲む



果樹園の中に明日あり木柵に胸いたきまで押しつけて画く


うーん…これが高校生の作る歌なのか。というのは置いといて

やはり前後の歌を見ても「海を知らぬ少女」については説明していない事がわかる。

だが、そうでありながら読み手脳内にはこの場所は海なんだろうなとかいや野原なんじゃないかとか勝手に浮かぶものであってそれがこの歌のまたすごいところである

かに少女が「海を知らぬ」理由もわれが「両手をひろげている」理由説明できなくはない。

ただ、説明してしまうと歌の世界では「言葉にしすぎ」「くどい」と嫌われてしまものだ。

ちゃん高校生にしてこの嫌われてしまう点を避け、かつこんなにみずみずしく思想を感じない歌を作っている。だからすさまじいのだ

先日、短歌誌で高校生短歌をいくつか読んだ

どれも素晴らしかったのだが、やはり寺山修司には一歩及ばずといった感じだった。

本来高校生というのは伝えたいことが溢れて溢れて治まらない、そんな生物だと思っている。

そんな生物がこうして31文字の中で読み手に任せているというのはすごいことなんじゃないか

2025-07-23

恋の短歌

蝉しぐれ きみの背中を 見送って

なにも言えずに 日が暮れていく

触れた指 いまも覚えて 眠れない

風鈴けが 夜を鳴らして

呼びかけた 声にかぶせて 風が吹く

届かぬままの きみの名前

忘れたい 忘れられない その笑顔

春が来るたび また呼び戻す

2025-07-08

百人一首というアンチ知性的存在と、新しいかるたについての考察

百人一首が嫌いだ、と会社から帰りの電車で「ちはやふる」の新テレビシリーズの吊り広告を見ながら思った。

私は百人一首が嫌いだ。中学高校時間に学んだ短歌はむしろ好きだった。

しかし、あの、百首の歌を暗記して冒頭の数文字に基づいてカードを奪い合うあの百人一首というのはともかく下品だ。あれは古典に親しむ教養の反対の存在であり、反射神経だけを競う実にアタマの悪いものだと思っている。

また覚える対象が、藤原定家が選んだ百首の短歌、というのもよくない。特定歌人が選んだもの盲目的に覚え尽くすという所業自体、実に権威的であり、この点でもアタマが悪いと思うのである

私はもっと短歌をしみじみと楽しみたい。その楽しみの中に百人一首のようなゲーム性が入るのは構わないが、ゲーム性目的と化してしまった今の百人一首には別れを告げたい。そんなふうに考えて、和歌を使った新しいかるたを考えてみたいと思った。

対象とする歌は、定家が選んだ百人一首から外れて、古代から現代にいたる各種の名作を選びたい。結果として百人一首から60ぐらいは入ってくるだろうとは思う。百人一首万葉集の詠み人知らず系が入ってないのが以前から不満があった。例えば、「 防人に行くは誰が背と問ふ人を見るがともしさ物思ひもせず」とか。万葉集百人一首にないものでは額田王も欲しい。「熟田津船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」とか。

現代だと啄木とか入れたい。「たはむれに母を背負ひて/そのあまり軽(かろ)きに泣きて/三歩あゆまず」とか。そんな感じでたぶん300ぐらいの有名どころの短歌を選べるのではないか

下の句を見せられて何かをするという、百人一首の大枠は残してもいいかと思う。例えば300首の中からランダムに5枚選んで、上の句が何かを2人でニヤニヤと当てあう、みたいな酒の肴的な楽しみ方ができればいい。「ほうほう、これは確か高校国語で習った歌で、子規が病床で何々がどうたらな話でしたよね」みたいなトークネタにするような楽しみ方である。案外、最初百人一首かるたにした人も、今のような脳筋反射神経ゲームにする気はなくて、そういうのんびりした楽しみ方を想定してたんじゃないかなとも思った。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん