はてなキーワード: 封書とは
これは自分のライフハック的なもので、特に公言するものでもないと思ってたんだけど、もしかしたら人の役に立つかもと思ったので書きます
タスクに関係あるものを目に付くところか、自分が気にかけるだろうところに前もって置いておく
これです
例えば、ゴミ出しを明日しないといけないなら玄関に出しておくし、ポストに入れてこないといけない封書は靴の上に置いておく
これだけ書くと何当たり前のこと言ってんのと思うかもしれないけど、自分の場合は洗濯物は廊下に置いておくとか、洗剤をトイレの前に置いておくとかになっていく
読みたい本や確認しないといけない郵便物は机の上に置いておかないと存在を忘れるから積まれていく
片付けないといけない箱とか、わざと自分の邪魔になるところに置いておく
数日後にやらないといけない予定に関わるものやそれを連想させるものも、目に付くところに置いておく
机の上は意外と山になっていても平気になってしまう
というわけで全然片付かないんだけど、むしろ片付けちゃいけないって感じなんだよね
でもこれのおかげで忘れることを防げている
まさにライフハック
みんなも忘れっぽかったらやってみてね
1105 追記
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夫
子
1歳 天使
つわりがひどかったが、何とかフル在宅にしてもらい、リモート会議中も吐きながら耐えて、産休までフルタイムで仕事をした。
夫もフルタイムの正社員(会社は別)だったが、早く帰ってきてくれて、身重の私のことを支えてくれていた。
出産予定日の1日前、「子が生まれてきてくれるのは大変嬉しいけど、夫と2人の生活が今日で終わるのはとても寂しい」と私は泣いた。
夫は慰めてくれた。
夫は1ヶ月の育休を取ってくれた。
はずだった。
両親・義両親ともに遠方、かつ里帰り出産もしなかったため、2人での育児がスタートした。
幸いにも育てやすい子だったので、何とか2人でも回っていった。
1ヶ月間の夫の育休が終わり、夫が会社に復帰した。
はずだった。
私の体調が悪いなぁと思う日も頑張って夫を送り出し、一人で子を見た。
自分の希望で異動したてにもかかわらずすぐに妊娠してしまったので、罪悪感もあり早く復職したかった。
月1回で上司とオンラインで面談させてもらい、会社の様子をキャッチアップしていた。
職場に迷惑もかけたくない。仕事もうまくやりたい。保育園に入れる分、一緒にいる時間は子供にもきちんと向き合いたい。
とにかく何かと必死だった。
半年が過ぎた頃、子と家で遊んでいると、インターフォンが鳴った。
書留郵便だった。心当たりがなかった。夫の会社からの封書だった。
よくない胸騒ぎがした。
育休中の私はともかく、何故夫の会社から書留が届く?会社のデスクに届ければ良いのに?
結婚してからこのようなことがなかったので、悪いと思いながらも封書を開けてしまった。
封書の内容を要約すると
「あなたは1年半休んでるので、会社からの休業中の給与支給はもう終わります。健保からの休業補償に切り替えるので、手続きをしてください。
健保から休業手当が出るのは最長1年半なので、それをすぎても復職の目処が立たなければ、解雇です」という内容だった。
何かの間違いだと思った。
別の人に送るはずの封書がうちに来ているのでは?
一刻も早く「間違えてますよ」と言いたい気持ちと、本当だったらどうしよう、という気持ちが入り混じり、
担当者を呼び出し、妻であることを説明し、封書の内容について問うと
「奥様、かけてくれてよかったです。夫さんの社用スマホにかけても、私用の携帯にかけても、ずっと繋がらなかったので。
そろそろお宅に訪問するところだったんですよ」
目の前が真っ白になった。
夫は会社に行っていないということですかね、と問うと、そうです、と言われた。
夫に連絡を取り、「まっすぐ帰ってきてください」と言うと、すぐに帰ってきた。
封書を開けて見てしまったこと、会社に電話して事実を知ってしまったことを伝えると
「ごめん」と言われた。
夫は1年半会社に行っていなかった。
夫の言い分はこうだった。
・この休職の前に、3ヶ月ほど休職をしていた(私も知っている)。その休職から明けて会社に行こうとしたが、行けなかった。
・会社に行けなくなってからすぐに私の妊娠が発覚し、つわりもひどそうだったので言い出せなかった。
・この1年半は電車に乗ったり、カフェに行ったり、家(マンション)の外階段に座ったりしていた。
・1ヶ月の育休も嘘。家にいただけ。
・もう貯金はほとんどない。(私の産休中も生活費は折半していた。出産費用などは私が自分で出した)
・申し訳ないと思っている。
そこからはよく覚えていないけれど、とにかく一緒にいたくなくて夫を実家に帰した。
確かに、この1年半、私も「なんかおかしいな」と思ったことがあった。
その時、「会社に行っていないからそれでもいいから、全部言って家にいなよ」と言ったことがあった。
このことを思い出して絶望した。
夫は社会不安障害と診断されていた。
かわいそうだと思う。辛そうだと思う。
でも、どうしても裏切られたと感じてしまう。
嘘をつき続ける体力や気力があるなら、助けを求められたのではないか。
別にそれでもよかったのに。
子供が生まれる前に、貯金がなくなる前に、一緒に方法を考えたのに。
私がその1年半もらえれば、仕事できたのに。
私が働いて稼いでこられたのに。
思っても仕方のないことが次々浮かんでは消えていく。
なあなあで同居を再開した。
通院の予定も自分で立てられない。
復職予定(と夫が思っていた)前日に、会社から一切の連絡もなく不安になった私が
「さすがにここまで連絡がないのはおかしいので、会社に一度電話してみなよ」と促し、夫が会社に電話したところ
さらなる段取りがあるので明日から復職する調整はしていない、と言われていた。
復職日すら調整できていない。
こんなにも人生に責任感がない人と、残りの人生を一緒に過ごしていいのかわからない。
出産予定日の前日に「二人の生活が終わるのが寂しい」と涙を流した自分を、白けた気持ちで思い返してしまう。
カップルカウンセリングに行ったが、「あなたが怒りすぎ。借金や犯罪や浮気じゃないんだから、過去は水に流してこれからどうすればいいか考えなさい」と言われた。
そうなのか。私が考えを改めなければならないのか。
辛いのは夫なのか。
私が支えなければならないのだね。
じゃあ私は?
あれからもうずっと夫とうまく接することができない。
夫はトイレに籠る癖がある。
きょうは、風邪を引いて病院に行き寝込んでいる私に、泣いている子の世話を放り出してトイレで麻雀ゲームをやっていた。
「今の状況を見て、やめようと思って欲しい」と伝えても2時間後に同じことをやっていた。
ブチ切れてトイレの扉を叩いたら、出てきて「もう無理」と言っていた。
もうずっと怒ってばかりでしんどい。
なんで好きだったのかも、なんでこの人と結婚したのかも思い出せない。
フルタイムで働いて、育児もして、家事もして、お金の管理や、家庭のあらゆる決定も私がしている。
これは完全に私が悪いのだが、夫と義母のやり取りを見てしまったところ
義母から「嫁も精神病院行けば?私はあんたの味方だけど。あ、今月の生活費振込んでおいたよ」という旨のメッセージがあった。
子の笑顔を見て思いとどまる。
音信不通の親が孤独死した時、どのようなことが起こるのかについて記録する。
昨年、父が死んだ。
父とは30年近く会っていない。母は離婚後も父と連絡を取っていたようだが、父に私の連絡先を決して伝えないようにとお願いしていた。
5月頃、母のところに、父の知り合いから父が死んだようだとの連絡があった。
その人も遺体は見ておらず、父の住まいを尋ねたら大家さんから死んだと伝えられたとのこと。
私はそれを聞き、一番最初に思ったのは、相続放棄の手続きを一刻も早く終えたいとのことだった。
市の無料法律相談に行き、相続放棄の手続きの仕方や困ったことが生じるおそれがないか等を確認した。相続放棄の手続きは、家庭裁判所によって若干違うので、事前に確認してから行く方がよいとアドバイスを受けた。
孤独死した人間の特定をしなければならないので、DNA検査をするとのこと。
これは兄が対応してくれた。
父の死はまだ確定していない。
DNA検査をする費用が出ないため、兄の顔を見て特定することにしたと連絡。
父が孤独死した場所と母の家は新幹線で1時間ほど離れているため、出張のついでに寄るので少し先になるとのこと。
兄が取った唾液はなんだったんだ。そんなことを市民にお願いする前に、予算があるかどうかの確認はできるだろうに。警察っていい加減なところなんだなあ、という印象を持つ。
11月 兄から戸籍抄本にて父の死亡が確認できたと連絡をもらう。父はおそらく5月に亡くなっているのに、書類上の死亡は11月になっている。
12月 有給を使って家庭裁判所に行き、相続放棄の手続きをする。郵送でも手続きできるが、不備があると嫌だったので、窓口で手続きした。窓口の人は手慣れた様子で、相続放棄したい理由の書き方等を教えてくれた。
12月末 手続き完了の封書が届いた。この半年間の気持ちの重りが取れて、ほっとした。
まとめ
・事件性が薄い孤独死に対して、警察は費用を割かない。そのため、最寄りがない人間が孤独死すると、死が確定するまでに時間がかかる。
この文章を書こうと思ったきっかけは、下記の文章を読んだからである。
https://inukawatama.com/father/
読んでまず、うらやましいと思った。
私は父が死んだことに対しては、特に何の感慨もない。
馬鹿な生き方しかできなくてかわいそう、まともに生きていれば子どもや孫の成長を見ることもできたのに、という一般的なことを思うだけである。
父との思い出は記憶のどこかにあるのだろうが、思い出したくないことばかりであり、考えるのを停止するようにしている。
相続放棄の手続きを一刻も早く終わらせて、父と無関係になりたいという思いは、母を呆れさせ、くだらない喧嘩に発展した。
大人になって、母に感情的に声を荒げたのは初めてで、お互いにダメージを受けた。
母に対してはいろいろと思うことがある。
父に対する思いの欠如は、私の人間としての欠如なんだろうと思う。
私は、父と自分を切り離さないと、「普通」の枠の中で生きていくことができなかった。
毎回、どうしてこの人たちは、「毒親」と縁を切らないのだろう?と思う。
結局のところ、この人たちは「毒親」と詰りながらも、親のことを愛しているんだろう。
急に寒くなってきたって夜よ夜!
お布団が寒いわ。
さすがに毛布だけじゃしのげないので、
また冬のお布団干して出さなくっちゃってそう思っている矢先のころ。
早いと思うわー。
あっと言う間よ。
もらったら返信するタイプで
まあ何通かはくるかも知れないし
お年賀だけでのやり取りって人も1年に1回のやり取りしてるぐらいなのよね。
そんでこっちから先手で出すと話題が行き交って返信にならないので、
一旦もらったものの内容に近況を書いてある人はそのお返事内容するってところかしら。
でもさ
うーん
出すにもさすがに躊躇するわよね。
もうお餅何個食べた?とかお餅食べ過ぎ注意!なんてくだらないことを書くのに100円とか使うわけ?
100円と言ってるのは
そういうアバウトな感じでいう100円って記号的な意味で言っているわ。
だいたいそんなもんでしょ?
でももうすっかり手紙やハガキを個人的に書くことも年に1回も無くなっちゃったわ。
以前は近所でのど自慢の観覧募集の往復葉書をせっせと近所で開催するときは送っていたけれど、
あれ超絶競争率高いのよ!
しってた?
なんか10回ぐらいいや256回ぐらい送ってるけど
ぜんぜん当日の観覧当たんないの!
全日の予選は誰でも入場観覧好きなときに入退場できるスタイルではやっているものの、
やっぱり本番みたいじゃない!
もうそれ以降のど自慢の観覧希望へ応募する往復葉書すら買って送ることは無くなったわ。
そんな思い出ぐらいかしら?
でも今はもうPayPalとか個人でもカード決済できるツールがあるので
特にPayPalは海外送金も楽勝!少額でわりと手数料も多くないし、
だから小為替を買う事もなくなって郵便局に行く用事すら無くなってきたわ。
あ!
思い出したけれど、
ゆうパックで届いた荷物を近所の郵便局で受け取れるようにして受け取りに行くだけだわ。
なぜか
PUDOで受け取れる設定もゆうパックしたのに
郵便局に取りに行くのが億劫なので近所の事務所の近所の郵便局に転送してもらってるのよ。
いま郵便局をマックスで活用してる人って誰なのかしら?って思ってしまうわ。
簡単な封書で送れる郵便のやつはプリンターでシールを印刷して貼ってポスト投函したらオーケーだし、
まるで、
いかに郵便局はお客さんが郵便局に来ないようにするようなことしか考えてないみたいよ。
郵便局の数ってたくさんあって中の職員もたくさんいるので成り立ってるのかしら?ってそこも心配になるけれどそんなよそのお城の心配をしても仕方が無いことこの上ない山脈に向かってヤッホー!って叫ぶしかないわよね。
とはいえ、
たまに郵便局のパワーを感じる時があって
遠方に速達は意地でも翌日に到着するってその課金しておくる速達はマジ速達!って感じで速達なのよ。
これには驚くわ。
北海道の先の何もないでお馴染みの襟裳岬に送った速達がもう翌日には届いていたのよ!
何もないと言っておきながら襟裳岬には郵便局があったってことが分かったので、
何もないことはない襟裳岬に改称した方がいいのかしら?って
そこも心配になるけれど、
何もないところですっていう記述に変更がないことにしておくことにしたわ。
ただ
上がっていく郵便代にはなんとかしてほしいものだわってのもあるし、
なぜ速達は速く届くのか!って謎も解き明かして欲しいわ。
うふふ。
めちゃ早起きしてニケと思ったけど
メンテ中だったので
時間が余った分
ポタージュスープをお湯を沸かして最近ハマっている豆乳でわるのが美味しくて、
それをゴクゴク飲んできたわ。
起きてお湯を沸かしている間にニケ!って思ったらそのメンテ中だったので
お湯だけ沸かして白湯、
つまるホッツ白湯ストレートウォーラーを作って飲んだってわけ。
朝は飲むのに忙しいわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
「あの女は君にほれているのか」
二人のあとから続々聴講生が出てくる。三四郎はやむをえず無言のまま梯子段を降りて横手の玄関から、図書館わきの空地へ出て、はじめて与次郎を顧みた。
「よくわからない」
「そういうこともある。しかしよくわかったとして、君、あの女の夫になれるか」
三四郎はいまだかつてこの問題を考えたことがなかった。美禰子に愛せられるという事実そのものが、彼女の夫たる唯一の資格のような気がしていた。言われてみると、なるほど疑問である。三四郎は首を傾けた。
「野々宮さんならなれる」と与次郎が言った。
「野々宮さんと、あの人とは何か今までに関係があるのか」
「知らん」と言った。三四郎は黙っている。
「また野々宮さんの所へ行って、お談義を聞いてこい」と言いすてて、相手は池の方へ行きかけた。三四郎は愚劣の看板のごとく突っ立った。与次郎は五、六歩行ったが、また笑いながら帰ってきた。
「君、いっそ、よし子さんをもらわないか」と言いながら、三四郎を引っ張って、池の方へ連れて行った。歩きながら、あれならいい、あれならいいと、二度ほど繰り返した。そのうちまたベルが鳴った。
三四郎はその夕方野々宮さんの所へ出かけたが、時間がまだすこし早すぎるので、散歩かたがた四丁目まで来て、シャツを買いに大きな唐物屋へはいった。小僧が奥からいろいろ持ってきたのをなでてみたり、広げてみたりして、容易に買わない。わけもなく鷹揚にかまえていると、偶然美禰子とよし子が連れ立って香水を買いに来た。あらと言って挨拶をしたあとで、美禰子が、
「せんだってはありがとう」と礼を述べた。三四郎にはこのお礼の意味が明らかにわかった。美禰子から金を借りたあくる日もう一ぺん訪問して余分をすぐに返すべきところを、ひとまず見合わせた代りに、二日ばかり待って、三四郎は丁寧な礼状を美禰子に送った。
手紙の文句は、書いた人の、書いた当時の気分をすなおに表わしたものではあるが、むろん書きすぎている。三四郎はできるだけの言葉を層々と排列して感謝の意を熱烈にいたした。普通の者から見ればほとんど借金の礼状とは思われないくらいに、湯気の立ったものである。しかし感謝以外には、なんにも書いてない。それだから、自然の勢い、感謝が感謝以上になったのでもある。三四郎はこの手紙をポストに入れる時、時を移さぬ美禰子の返事を予期していた。ところがせっかくの封書はただ行ったままである。それから美禰子に会う機会はきょうまでなかった。三四郎はこの微弱なる「このあいだはありがとう」という反響に対して、はっきりした返事をする勇気も出なかった。大きなシャツを両手で目のさきへ広げてながめながら、よし子がいるからああ冷淡なんだろうかと考えた。それからこのシャツもこの女の金で買うんだなと考えた。小僧はどれになさいますと催促した。
二人の女は笑いながらそばへ来て、いっしょにシャツを見てくれた。しまいに、よし子が「これになさい」と言った。三四郎はそれにした。今度は三四郎のほうが香水の相談を受けた。いっこうわからない。ヘリオトロープと書いてある罎を持って、いいかげんに、これはどうですと言うと、美禰子が、「それにしましょう」とすぐ決めた。三四郎は気の毒なくらいであった。
表へ出て別れようとすると、女のほうが互いにお辞儀を始めた。よし子が「じゃ行ってきてよ」と言うと、美禰子が、「お早く……」と言っている。聞いてみて、妹が兄の下宿へ行くところだということがわかった。三四郎はまたきれいな女と二人連で追分の方へ歩くべき宵となった。日はまだまったく落ちていない。
三四郎はよし子といっしょに歩くよりは、よし子といっしょに野々宮の下宿で落ち合わねばならぬ機会をいささか迷惑に感じた。いっそのこと今夜は家へ帰って、また出直そうかと考えた。しかし、与次郎のいわゆるお談義を聞くには、よし子がそばにいてくれるほうが便利かもしれない。まさか人の前で、母から、こういう依頼があったと、遠慮なしの注意を与えるわけはなかろう。ことによると、ただ金を受け取るだけで済むかもわからない。――三四郎は腹の中で、ちょっとずるい決心をした。
「ぼくも野々宮さんの所へ行くところです」
「そう、お遊びに?」
「いえ、すこし用があるんです。あなたは遊びですか」
「いいえ、私も御用なの」
両方が同じようなことを聞いて、同じような答を得た。しかし両方とも迷惑を感じている気色がさらにない。三四郎は念のため、じゃまじゃないかと尋ねてみた。ちっともじゃまにはならないそうである。女は言葉でじゃまを否定したばかりではない。顔ではむしろなぜそんなことを質問するかと驚いている。三四郎は店先のガスの光で、女の黒い目の中に、その驚きを認めたと思った。事実としては、ただ大きく黒く見えたばかりである。
「どうして御存じ」
三四郎は返答に窮した。女は頓着なく、すぐ、こう言った。
「いくら兄さんにそう言っても、ただ買ってやる、買ってやると言うばかりで、ちっとも買ってくれなかったんですの」
三四郎は腹の中で、野々宮よりも広田よりも、むしろ与次郎を非難した。
二人は追分の通りを細い路地に折れた。折れると中に家がたくさんある。暗い道を戸ごとの軒燈が照らしている。その軒燈の一つの前にとまった。野々宮はこの奥にいる。
三四郎の下宿とはほとんど一丁ほどの距離である。野々宮がここへ移ってから、三四郎は二、三度訪問したことがある。野々宮の部屋は広い廊下を突き当って、二段ばかりまっすぐに上がると、左手に離れた二間である。南向きによその広い庭をほとんど椽の下に控えて、昼も夜も至極静かである。この離れ座敷に立てこもった野々宮さんを見た時、なるほど家を畳んで下宿をするのも悪い思いつきではなかったと、はじめて来た時から、感心したくらい、居心地のいい所である。その時野々宮さんは廊下へ下りて、下から自分の部屋の軒を見上げて、ちょっと見たまえ、藁葺だと言った。なるほど珍しく屋根に瓦を置いてなかった。
きょうは夜だから、屋根はむろん見えないが、部屋の中には電燈がついている。三四郎は電燈を見るやいなや藁葺を思い出した。そうしておかしくなった。
「妙なお客が落ち合ったな。入口で会ったのか」と野々宮さんが妹に聞いている。妹はしからざるむねを説明している。ついでに三四郎のようなシャツを買ったらよかろうと助言している。それから、このあいだのバイオリンは和製で音が悪くっていけない。買うのをこれまで延期したのだから、もうすこし良いのと買いかえてくれと頼んでいる。せめて美禰子さんくらいのなら我慢すると言っている。そのほか似たりよったりの駄々をしきりにこねている。野々宮さんはべつだんこわい顔もせず、といって、優しい言葉もかけず、ただそうかそうかと聞いている。
三四郎はこのあいだなんにも言わずにいた。よし子は愚な事ばかり述べる。かつ少しも遠慮をしない。それがばかとも思えなければ、わがままとも受け取れない。兄との応待をそばにいて聞いていると、広い日あたりのいい畑へ出たような心持ちがする。三四郎は来たるべきお談義の事をまるで忘れてしまった。その時突然驚かされた。
「そうか」
「うれしいでしょう。うれしくなくって?」
野々宮さんはかゆいような顔をした。そうして、三四郎の方を向いた。
「ぼくの妹はばかですね」と言った。三四郎はしかたなしに、ただ笑っていた。
「ばかじゃないわ。ねえ、小川さん」
三四郎はまた笑っていた。腹の中ではもう笑うのがいやになった。
「美禰子さんがね、兄さんに文芸協会の演芸会に連れて行ってちょうだいって」
「里見さんといっしょに行ったらよかろう」
「御用があるんですって」
「お前も行くのか」
「むろんだわ」
野々宮さんは行くとも行かないとも答えなかった。また三四郎の方を向いて、今夜妹を呼んだのは、まじめの用があるんだのに、あんなのん気ばかり言っていて困ると話した。聞いてみると、学者だけあって、存外淡泊である。よし子に縁談の口がある。国へそう言ってやったら、両親も異存はないと返事をしてきた。それについて本人の意見をよく確かめる必要が起こったのだと言う。三四郎はただ結構ですと答えて、なるべく早く自分のほうを片づけて帰ろうとした。そこで、
「母からあなたにごめんどうを願ったそうで」と切り出した。野々宮さんは、
「なに、大してめんどうでもありませんがね」とすぐに机の引出しから、預かったものを出して、三四郎に渡した。
「おっかさんが心配して、長い手紙を書いてよこしましたよ。三四郎は余儀ない事情で月々の学資を友だちに貸したと言うが、いくら友だちだって、そうむやみに金を借りるものじゃあるまいし、よし借りたって返すはずだろうって。いなかの者は正直だから、そう思うのもむりはない。それからね、三四郎が貸すにしても、あまり貸し方が大げさだ。親から月々学資を送ってもらう身分でいながら、一度に二十円の三十円のと、人に用立てるなんて、いかにも無分別だとあるんですがね――なんだかぼくに責任があるように書いてあるから困る。……」
野々宮さんは三四郎を見て、にやにや笑っている。三四郎はまじめに、「お気の毒です」と言ったばかりである。野々宮さんは、若い者を、極めつけるつもりで言ったんでないとみえて、少し調子を変えた。
「なに、心配することはありませんよ。なんでもない事なんだから。ただおっかさんは、いなかの相場で、金の価値をつけるから、三十円がたいへん重くなるんだね。なんでも三十円あると、四人の家族が半年食っていけると書いてあったが、そんなものかな、君」と聞いた。よし子は大きな声を出して笑った。三四郎にもばかげているところがすこぶるおかしいんだが、母の言条が、まったく事実を離れた作り話でないのだから、そこに気がついた時には、なるほど軽率な事をして悪かったと少しく後悔した。
「そうすると、月に五円のわりだから、一人前一円二十五銭にあたる。それを三十日に割りつけると、四銭ばかりだが――いくらいなかでも少し安すぎるようだな」と野々宮さんが計算を立てた。
「何を食べたら、そのくらいで生きていられるでしょう」とよし子がまじめに聞きだした。三四郎も後悔する暇がなくなって、自分の知っているいなか生活のありさまをいろいろ話して聞かした。そのなかには宮籠りという慣例もあった。三四郎の家では、年に一度ずつ村全体へ十円寄付することになっている。その時には六十戸から一人ずつ出て、その六十人が、仕事を休んで、村のお宮へ寄って、朝から晩まで、酒を飲みつづけに飲んで、ごちそうを食いつづけに食うんだという。
「それで十円」とよし子が驚いていた。お談義はこれでどこかへいったらしい。それから少し雑談をして一段落ついた時に、野々宮さんがあらためて、こう言った。
「なにしろ、おっかさんのほうではね。ぼくが一応事情を調べて、不都合がないと認めたら、金を渡してくれろ。そうしてめんどうでもその事情を知らせてもらいたいというんだが、金は事情もなんにも聞かないうちに、もう渡してしまったしと、――どうするかね。君たしかに佐々木に貸したんですね」
三四郎は美禰子からもれて、よし子に伝わって、それが野々宮さんに知れているんだと判じた。しかしその金が巡り巡ってバイオリンに変形したものとは、兄妹とも気がつかないから一種妙な感じがした。ただ「そうです」と答えておいた。
「ええ」
よし子はまた大きな声を出して笑った。
「じゃ、いいかげんにおっかさんの所へそう言ってあげよう。しかし今度から、そんな金はもう貸さないことにしたらいいでしょう」
三四郎は貸さないことにするむねを答えて、挨拶をして、立ちかけると、よし子も、もう帰ろうと言い出した。
「さっきの話をしなくっちゃ」と兄が注意した。
「よくってよ」と妹が拒絶した。
「よくはないよ」
「よくってよ。知らないわ」
兄は妹の顔を見て黙っている。妹は、またこう言った。
「だってしかたがないじゃ、ありませんか。知りもしない人の所へ、行くか行かないかって、聞いたって。好きでもきらいでもないんだから、なんにも言いようはありゃしないわ。だから知らないわ」
三四郎は知らないわの本意をようやく会得した。兄妹をそのままにして急いで表へ出た。
人の通らない軒燈ばかり明らかな路地を抜けて表へ出ると、風が吹く。北へ向き直ると、まともに顔へ当る。時を切って、自分の下宿の方から吹いてくる。その時三四郎は考えた。この風の中を、野々宮さんは、妹を送って里見まで連れていってやるだろう。
下宿の二階へ上って、自分の部屋へはいって、すわってみると、やっぱり風の音がする。三四郎はこういう風の音を聞くたびに、運命という字を思い出す。ごうと鳴ってくるたびにすくみたくなる。自分ながらけっして強い男とは思っていない。考えると、上京以来自分の運命はたいがい与次郎のためにこしらえられている。しかも多少の程度において、和気靄然たる翻弄を受けるようにこしらえられている。与次郎は愛すべき悪戯者である。向後もこの愛すべき悪戯者のために、自分の運命を握られていそうに思う。風がしきりに吹く。たしかに与次郎以上の風である。
三四郎は母から来た三十円を枕元へ置いて寝た。この三十円も運命の翻弄が生んだものである。この三十円がこれからさきどんな働きをするか、まるでわからない。自分はこれを美禰子に返しに行く。美禰子がこれを受け取る時に、また一煽り来るにきまっている。三四郎はなるべく大きく来ればいいと思った。
https://anond.hatelabo.jp/20241001221236
八
このあいだの晩九時ごろになって、与次郎が雨のなかを突然やって来て、あたまから大いに弱ったと言う。見ると、いつになく顔の色が悪い。はじめは秋雨にぬれた冷たい空気に吹かれすぎたからのことと思っていたが、座について見ると、悪いのは顔色ばかりではない。珍しく消沈している。三四郎が「ぐあいでもよくないのか」と尋ねると、与次郎は鹿のような目を二度ほどぱちつかせて、こう答えた。
「じつは金をなくしてね。困っちまった」
そこで、ちょっと心配そうな顔をして、煙草の煙を二、三本鼻から吐いた。三四郎は黙って待っているわけにもゆかない。どういう種類の金を、どこでなくなしたのかとだんだん聞いてみると、すぐわかった。与次郎は煙草の煙の、二、三本鼻から出切るあいだだけ控えていたばかりで、そのあとは、一部始終をわけもなくすらすらと話してしまった。
与次郎のなくした金は、額で二十円、ただし人のものである。去年広田先生がこのまえの家を借りる時分に、三か月の敷金に窮して、足りないところを一時野々宮さんから用達ってもらったことがある。しかるにその金は野々宮さんが、妹にバイオリンを買ってやらなくてはならないとかで、わざわざ国元の親父さんから送らせたものだそうだ。それだからきょうがきょう必要というほどでない代りに、延びれば延びるほどよし子が困る。よし子は現に今でもバイオリンを買わずに済ましている。広田先生が返さないからである。先生だって返せればとうに返すんだろうが、月々余裕が一文も出ないうえに、月給以外にけっしてかせがない男だから、ついそれなりにしてあった。ところがこの夏高等学校の受験生の答案調べを引き受けた時の手当が六十円このごろになってようやく受け取れた。それでようやく義理を済ますことになって、与次郎がその使いを言いつかった。
「その金をなくなしたんだからすまない」と与次郎が言っている。じっさいすまないような顔つきでもある。どこへ落としたんだと聞くと、なに落としたんじゃない。馬券を何枚とか買って、みんななくなしてしまったのだと言う。三四郎もこれにはあきれ返った。あまり無分別の度を通り越しているので意見をする気にもならない。そのうえ本人が悄然としている。これをいつもの活発溌地と比べると与次郎なるものが二人いるとしか思われない。その対照が激しすぎる。だからおかしいのと気の毒なのとがいっしょになって三四郎を襲ってきた。三四郎は笑いだした。すると与次郎も笑いだした。
「まあいいや、どうかなるだろう」と言う。
「先生はまだ知らないのか」と聞くと、
「まだ知らない」
「野々宮さんは」
「むろん、まだ知らない」
「金はいつ受け取ったのか」
「金はこの月始まりだから、きょうでちょうど二週間ほどになる」
「馬券を買ったのは」
「受け取ったあくる日だ」
「それからきょうまでそのままにしておいたのか」
「いろいろ奔走したができないんだからしかたがない。やむをえなければ今月末までこのままにしておこう」
「今月末になればできる見込みでもあるのか」
三四郎は立って、机の引出しをあけた。きのう母から来たばかりの手紙の中をのぞいて、
「金はここにある。今月は国から早く送ってきた」と言った。与次郎は、
「ありがたい。親愛なる小川君」と急に元気のいい声で落語家のようなことを言った。
二人は十時すぎ雨を冒して、追分の通りへ出て、角の蕎麦屋へはいった。三四郎が蕎麦屋で酒を飲むことを覚えたのはこの時である。その晩は二人とも愉快に飲んだ。勘定は与次郎が払った。与次郎はなかなか人に払わせない男である。
それからきょうにいたるまで与次郎は金を返さない。三四郎は正直だから下宿屋の払いを気にしている。催促はしないけれども、どうかしてくれればいいがと思って、日を過ごすうちに晦日近くなった。もう一日二日しか余っていない。間違ったら下宿の勘定を延ばしておこうなどという考えはまだ三四郎の頭にのぼらない。必ず与次郎が持って来てくれる――とまではむろん彼を信用していないのだが、まあどうかくめんしてみようくらいの親切気はあるだろうと考えている。広田先生の評によると与次郎の頭は浅瀬の水のようにしじゅう移っているのだそうだが、むやみに移るばかりで責任を忘れるようでは困る。まさかそれほどの事もあるまい。
三四郎は二階の窓から往来をながめていた。すると向こうから与次郎が足早にやって来た。窓の下まで来てあおむいて、三四郎の顔を見上げて、「おい、おるか」と言う。三四郎は上から、与次郎を見下して、「うん、おる」と言う。このばかみたような挨拶が上下で一句交換されると、三四郎は部屋の中へ首を引っ込める。与次郎は梯子段をとんとん上がってきた。
「待っていやしないか。君のことだから下宿の勘定を心配しているだろうと思って、だいぶ奔走した。ばかげている」
「そうかな、それは間違いだろう。もう一文も取るのはない」
「なに、前借りをしようと言ったのだ。ところがなかなか貸さない。ぼくに貸すと返さないと思っている。けしからん。わずか二十円ばかりの金だのに。いくら偉大なる暗闇を書いてやっても信用しない。つまらない。いやになっちまった」
「じゃ金はできないのか」
「いやほかでこしらえたよ。君が困るだろうと思って」
「そうか。それは気の毒だ」
「ところが困った事ができた。金はここにはない。君が取りにいかなくっちゃ」
「どこへ」
「じつは文芸時評がいけないから、原口だのなんだの二、三軒歩いたが、どこも月末でつごうがつかない。それから最後に里見の所へ行って――里見というのは知らないかね。里見恭助。法学士だ。美禰子さんのにいさんだ。あすこへ行ったところが、今度は留守でやっぱり要領を得ない。そのうち腹が減って歩くのがめんどうになったから、とうとう美禰子さんに会って話をした」
「野々宮さんの妹がいやしないか」
「なに昼少し過ぎだから学校に行ってる時分だ。それに応接間だからいたってかまやしない」
「そうか」
「それで美禰子さんが、引き受けてくれて、御用立て申しますと言うんだがね」
「そりゃ、どうだか知らない。しかしとにかく大丈夫だよ。引き受けたんだから。ありゃ妙な女で、年のいかないくせにねえさんじみた事をするのが好きな性質なんだから、引き受けさえすれば、安心だ。心配しないでもいい。よろしく願っておけばかまわない。ところがいちばんしまいになって、お金はここにありますが、あなたには渡せませんと言うんだから、驚いたね。ぼくはそんなに不信用なんですかと聞くと、ええと言って笑っている。いやになっちまった。じゃ小川をよこしますかなとまた聞いたら、え、小川さんにお手渡しいたしましょうと言われた。どうでもかってにするがいい。君取りにいけるかい」
「電報はよそう。ばかげている。いくら君だって借りにいけるだろう」
「いける」
これでようやく二十円のらちがあいた。それが済むと、与次郎はすぐ広田先生に関する事件の報告を始めた。
運動は着々歩を進めつつある。暇さえあれば下宿へ出かけていって、一人一人に相談する。相談は一人一人にかぎる。おおぜい寄ると、めいめいが自分の存在を主張しようとして、ややともすれば異をたてる。それでなければ、自分の存在を閑却された心持ちになって、初手から冷淡にかまえる。相談はどうしても一人一人にかぎる。その代り暇はいる。金もいる。それを苦にしていては運動はできない。それから相談中には広田先生の名前をあまり出さないことにする。我々のための相談でなくって、広田先生のための相談だと思われると、事がまとまらなくなる。
与次郎はこの方法で運動の歩を進めているのだそうだ。それできょうまでのところはうまくいった。西洋人ばかりではいけないから、ぜひとも日本人を入れてもらおうというところまで話はきた。これから先はもう一ぺん寄って、委員を選んで、学長なり、総長なりに、我々の希望を述べにやるばかりである。もっとも会合だけはほんの形式だから略してもいい。委員になるべき学生もだいたいは知れている。みんな広田先生に同情を持っている連中だから、談判の模様によっては、こっちから先生の名を当局者へ持ち出すかもしれない。……
聞いていると、与次郎一人で天下が自由になるように思われる。三四郎は少なからず与次郎の手腕に感服した。与次郎はまたこのあいだの晩、原口さんを先生の所へ連れてきた事について、弁じだした。
「あの晩、原口さんが、先生に文芸家の会をやるから出ろと、勧めていたろう」と言う。三四郎はむろん覚えている。与次郎の話によると、じつはあれも自身の発起にかかるものだそうだ。その理由はいろいろあるが、まず第一に手近なところを言えば、あの会員のうちには、大学の文科で有力な教授がいる。その男と広田先生を接触させるのは、このさい先生にとって、たいへんな便利である。先生は変人だから、求めてだれとも交際しない。しかしこっちで相当の機会を作って、接触させれば、変人なりに付合ってゆく。……
「そういう意味があるのか、ちっとも知らなかった。それで君が発起人だというんだが、会をやる時、君の名前で通知を出して、そういう偉い人たちがみんな寄って来るのかな」
与次郎は、しばらくまじめに、三四郎を見ていたが、やがて苦笑いをしてわきを向いた。
「ばかいっちゃいけない。発起人って、おもてむきの発起人じゃない。ただぼくがそういう会を企てたのだ。つまりぼくが原口さんを勧めて、万事原口さんが周旋するようにこしらえたのだ」
「そうか」
「そうかは田臭だね。時に君もあの会へ出るがいい。もう近いうちにあるはずだから」
「そんな偉い人ばかり出る所へ行ったってしかたがない。ぼくはよそう」
「また田臭を放った。偉い人も偉くない人も社会へ頭を出した順序が違うだけだ。なにあんな連中、博士とか学士とかいったって、会って話してみるとなんでもないものだよ。第一向こうがそう偉いともなんとも思ってやしない。ぜひ出ておくがいい。君の将来のためだから」
「どこであるのか」
「たぶん上野の精養軒になるだろう」
「ぼくはあんな所へ、はいったことがない。高い会費を取るんだろう」
「まあ二円ぐらいだろう。なに会費なんか、心配しなくってもいい。なければぼくがだしておくから」
三四郎はたちまち、さきの二十円の件を思い出した。けれども不思議におかしくならなかった。与次郎はそのうち銀座のどことかへ天麩羅を食いに行こうと言いだした。金はあると言う。不思議な男である。言いなり次第になる三四郎もこれは断った。その代りいっしょに散歩に出た。帰りに岡野へ寄って、与次郎は栗饅頭をたくさん買った。これを先生にみやげに持ってゆくんだと言って、袋をかかえて帰っていった。
三四郎はその晩与次郎の性格を考えた。長く東京にいるとあんなになるものかと思った。それから里見へ金を借りに行くことを考えた。美禰子の所へ行く用事ができたのはうれしいような気がする。しかし頭を下げて金を借りるのはありがたくない。三四郎は生まれてから今日にいたるまで、人に金を借りた経験のない男である。その上貸すという当人が娘である。独立した人間ではない。たとい金が自由になるとしても、兄の許諾を得ない内証の金を借りたとなると、借りる自分はとにかく、あとで、貸した人の迷惑になるかもしれない。あるいはあの女のことだから、迷惑にならないようにはじめからできているかとも思える。なにしろ会ってみよう。会ったうえで、借りるのがおもしろくない様子だったら、断わって、しばらく下宿の払いを延ばしておいて、国から取り寄せれば事は済む。――当用はここまで考えて句切りをつけた。あとは散漫に美禰子の事が頭に浮かんで来る。美禰子の顔や手や、襟や、帯や、着物やらを、想像にまかせて、乗けたり除ったりしていた。ことにあした会う時に、どんな態度で、どんな事を言うだろうとその光景が十通りにも二十通りにもなって、いろいろに出て来る。三四郎は本来からこんな男である。用談があって人と会見の約束などをする時には、先方がどう出るだろうということばかり想像する。自分が、こんな顔をして、こんな事を、こんな声で言ってやろうなどとはけっして考えない。しかも会見が済むと後からきっとそのほうを考える。そうして後悔する。
ことに今夜は自分のほうを想像する余地がない。三四郎はこのあいだから美禰子を疑っている。しかし疑うばかりでいっこうらちがあかない。そうかといって面と向かって、聞きただすべき事件は一つもないのだから、一刀両断の解決などは思いもよらぬことである。もし三四郎の安心のために解決が必要なら、それはただ美禰子に接触する機会を利用して、先方の様子から、いいかげんに最後の判決を自分に与えてしまうだけである。あしたの会見はこの判決に欠くべからざる材料である。だから、いろいろに向こうを想像してみる。しかし、どう想像しても、自分につごうのいい光景ばかり出てくる。それでいて、実際ははなはだ疑わしい。ちょうどきたない所をきれいな写真にとってながめているような気がする。写真は写真としてどこまでも本当に違いないが、実物のきたないことも争われないと一般で、同じでなければならぬはずの二つがけっして一致しない。
そのときの兄の顔は、今でもはっきりと覚えている。
中身を確認した兄の顔は真っ青というのか、目が泳ぎ、完全に挙動不審だった。
そのあと兄は急に部屋に引きこもった。
私たちは心配になって「何だったの?」と兄に聞いたけど、完全に無視。
兄は「別に、何でもないよ」って顔を逸らして答えた。でも何か隠してるのは丸わかりだった。
夕食のとき、母が「本当に何でもないの?」と尋ねたら、兄がついに折れた。
もう隠し通すのは無理だって悟ったのか、ボソボソと語り始めた。
兄は、ネットでインフルエンサーの女性に対して卑猥なDMや誹謗中傷を何度も送っていたらしい。
母と私は、そんなこと信じられなくて、どうしてそんなことしたの!?って兄を問い詰めた。
だって、ネットで誹謗中傷とか、そんな卑劣なことをまさか兄がしてたなんて。
信じられなかった。
でも、兄は悪びれるどころか、うすら笑いを浮かべながら
なんて、さらっと言い放った。
その瞬間、私は胸が張り裂けそうだった。それが言い訳なのか?って。
イケメンじゃないから、モテないから、卑猥なDMを送っても許されるってこと?
そんなのおかしいでしょって泣きながら兄を責めたけど、全然聞く耳持たない。母も泣いてた。こんなに情けないことってある?
兄が30を超えてこんな言い訳をするとは思わなかった。
私も母も、何をどう言えばいいのか分からなかった。
ただ、もうモテないことがそこまで人を狂わせるのかと思って怖くなった。
見た目が全てだと信じ込んでる兄が、どれだけ無意味なことをしてるのか、分からないのかと何度も問いただしたけど、最後まで「俺がイケメンだったら良かったんだよ」って。
最終的には、もうどうしようもないのかもしれないって諦めの気持ちが湧いてきて、母と二人で泣きながら兄のことをただ見つめた。
私はただ、見た目だけじゃなくて、もっと大切なものがあるって分かって欲しかった。
でも、それを伝える方法が分からないまま、話は終わってしまった。
私はどうすればよかったのだろうか。
今でも分からない。
ただ兄には、しっかりと罪を償ってほしい。
昨年、保障内容をコロコロ変えるアクサダイレクトのペット保険に毒付いてた者だ。
先日、アクサからなーんかちゃんとした封書が届いた。嫌な予感しかないのよ、このペット保険。
希望者は「どうぶつ健保ふぁみりぃ」に切り替えしてね。ちゃんと手続きしてくれれば、だいじょびだいじょび~位の薄っぺらい内容であった。
はぁあ?
「わんちゃんねこちゃんの高齢化が進んで、保険の支払いがリスクになっていまして…」ってオペレーターさんが率直におっしゃってたしな。
てか、「どうぶつ健保ふぁみりぃ」ってどこの何なのよーー
(どこ団体とか、掛け金とか、連絡先もなにも記載がないってどういうことよーーー)
Μην επιτρέπετε.
Όποιος γλείφει τη ζωή ενός σκύλου ή μιας γάτας μπορεί να τρώει μόνο "AIM" από εδώ και στο εξής μέχρι το θάνατο.
Ή συνεχίστε να τρώτε "Pedigree chum".
思いつくまま。
・家事の分担を守らない、というか好きな家事を好きな時にしかしない。
・そのために支出しなければならない、こちらが建て替えたお金(例、夕食用の買い物代など)を精算しない
・保険の受取相手が子供だけ(こちらは同様の保険でちゃんと受取相手にしている)。
・子どもの学校の保護者欄にこちらの名前・連絡先などを書かない。
・子供関係だけでなく重要な書類なのに見せないで提出しようとする/した。
・周囲の人に自分が同情を買うような話を作る。
・家計決済用の口座の残高を確認せず、連絡もせずに予算オーバーな支払いをする(ギリギリ気づいて事なきを得る)。
・自分の収入支出の詳細は非開示、こちらの支出はクレジットカードの履歴まで封書をあけて確認(これを受けてWebのみにしたら切れる)。
・理由を説明せずに唐突に不機嫌になり、プチ家出を繰り返す・離婚だと言う。
・そういう時はたいてい一人で酒を飲んだ後(翌日空いた酒瓶や缶を発見する)。
・長期出張中の定時連絡をしてもでない。返事がない。
先日兄が逮捕された。
いつも通り家に帰ると両親が項垂れた様子でそう語った時、もう無理だと思った。
ブログに書くのは、もう周りに吐き出せる人間がいないからだ。身バレが怖いなという気持ちがあるので、少しフェイクはいれつつ身の上話を聞いてほしい。
私は仲睦まじい両親と、優しい兄がいる家庭に生まれた女だ。両親は中卒であったが、真面目に仕事もしていて母が専業主婦をしていけるほど稼ぎもあったように思う。
理由は単純で、土日になると両親はハマっているパチンコ屋に出かけて行くからである。小さい頃はこの事を不思議に思わないどころか、むしろ子供を入れても黙認してくれていた店もあったりして、連れていってもらったときにはテーマパークに遊びにきたかのような気分にすらなっていた。
現実は他の子は家族で色んな場所に連れて行ってもらっているにもかかわらず、私達は私が5歳を迎えた以降の家族写真がない。写真を撮るような場所に行っていないから。
それでも小学生くらいになると規制が入ったのか兄と家で2人留守番をすることが多くなった。留守番をしている間は、兄からちょっかいをかけられて始まる喧嘩が絶えなかった。パチンコ屋の閉店時間である23時を過ぎるまで両親は帰ってこないことを分かっていながらも、一度だけ喧嘩に負けた私は窓を開け、「お母さん帰ってきて」と泣き叫んだことを今でもはっきりと覚えている。現代なら児相案件かもしれない。
そんなことがありつつも、寂しいと感じなかったのは兄だって土日に友達と遊びに行ったりしたかっただろうに、私の面倒を見るために家にいてくれていたことも何となく感じ取っていたし、平日学校から家に帰ると母は笑顔で迎えてくれ、ご飯は必ず4人揃って食べていたからなのかもしれない。
余談ではあるが、今SNSで嫌な呼び方をされている某スナックパンや、最近内容量が減った某薄皮クリームパンにいたっては、本当に毎日朝ごはんで食べていたためその投稿を見たときには苦笑いしたものである。
話を戻してそんなある日、父が仕事をやめて起業すると言い出した。普通は起業するとなると辞める前に運転資金を準備するところだが、前述のとおりパチ狂いの父にそんなお金があるはずがなかった。
そんな状態で起業するものだから、もちろん手元にお金なんて残るはずもなく。貯金なんて夢のまた夢な話で、税金保険料年金関係は滞納、市役所からの督促やらの封書は毎週のように届く。この時期から母は専業主婦をやめ、働きに出るようになった。
そしてとにかく両親の喧嘩が増えた。
よく究極の質問で「愛かお金どちらが大事か」というものがあると思う。お金があっても愛がなきゃ意味がない、愛を選ぶ人はみんなそう言う。確かにその考えもあると思うが、私はやはりお金だと思う。お金さえあれば、本来しなくていい喧嘩はあるからだ。
この頃どれくらい貧乏だったかというと、私の高校入学の制服代が足りないからとパチンコいったら大当たりしてなんとか入学できたという最低なエピソードがある。
高校入学後はバイトをするようになった。このあたりから自分の家の経済状況はなんとなく分かってきていたから、自分のことは自分で、と皆に迷惑をかけてはいけないと思うようになった。それとはまた別に先にバイトを始めて自由に使えるお金がある兄が羨ましかったからだ。
この頃にはパチ屋に行く金すらも無くなっていたので、両親はパチ屋に行くことを意外にもあっさりやめた。
そして高校生活も後半、進路について考えることになりふとどうするか考えた。
兄は高校卒業後、働きに出ていたため自分も働く前提で考えたがそれが本当に正しいのかと思ったからだ。
この頃の私は我が家は普通の家庭ではないと分かっていたので、私の望みは私は低収入でもいい、毎月給料が入ってくる職種の男性と普通の生活がしたい。たとえ1人で生きていくことになっても困ることがないように自分も食いっぱぐれない職種につかなければと思うようになっていた。
公務員になろうと思った。どうせ働くなら世のためや人のためになる仕事がしたいと思っていたので、思いついた時には天才かと思ったぐらいだ。
だが思いついたはいいが高卒枠で公務員になるにはあまりにも準備が遅すぎたため、進路を大学進学に変えた。あんまり出席日数も成績も良くなかったのもあって、当時の担任には大変心労をかけたと思う。
だが勉強するにも塾へ行くお金がない。時間がない。参考書がない。それでも必死に携帯で参考書について調べ、貯めてたバイト代で参考書を買って勉強した。嫌いではないが両親のようにはなりたくないと反面教師にしていたところもあった。
そして受験。もちろん落ちたが奇跡的に補欠合格となったので、家族でお祝い騒ぎになった。後でこっそり「落ちててもお金はなんとかするから浪人させてあげようと思った」と、某有名塾のパンフレットか案内文かをどこからか調達して見せてきた母と、合格後の入学金が必要なことを同業者から聞いていた父が一括でお金を用意していた時は反面教師にしてごめんと心の中で謝った。普通に入学金をすぐ払わないといけないなんて知らなかったから人生終わったと思った。
そして私はここから出会う人々と育ってきた環境のあまりの違いに愕然とすることになる。
学費については親が負担してくれるのは基本で、奨学金を借りるとしてもいざと言う時の保険でか少し借りる程度くらいのもんで、卒業後は一括返済、そこの心配なんて全くしていない人達だらけだった。もちろん車の免許も親が出してくれる。
それに対し私はもう4年間分の学費を全部そこから出す気持ちで奨学金を借りていた。頭は良くなかったので有利子。友達は何にも悪くないのに、なんとなく場違い感を感じていた。
とにかく大学はバイトと並行して真面目に勉強し、3回生の頃には大学で用意されている公務員コース(別料金)に入って就活対策も始めた。予備校に通うお金はなかった。
父の会社はというと、相変わらず上手く行っていなかった。支払いがやばい月には家族からお金を借りることが増えた。高校卒業から勤めていた兄はブラックだった会社を辞め、父のところで働くようになった。極端な話、大人が4人もいるにもかかわらず、まともな収入が母が派遣で稼いでくるお金だけだった。しかも兄はいつの間にかパチ狂いになっていた。兄は本当に優しかったのでそれを知った時には複雑な気持ちだった。
就活については、事前準備を頑張ったのもあって結果公務員になれたのでここらへんは省略。
さて同僚の方達はいい人達なのだが、ここでも育ちの違いをまざまざと思い知らされることになる。
まず親の職業は公務員だったり医者だったりと更に金銭面に苦労したことはまずないんだろうなという人達が多い。もちろんみんながみんなそうではないことは強めに言っておきたい。そんな人達が多いから滞納者の必死の訴えなんて伝わるわけもない。だって所得から計算されている税金なんだから払えない額ではないでしょうと市民に直接言わないがそう思っている様子だ。
それはそう。
それはそうなんだが。
我が家は車がなかった。
厳密にいうと4人で乗ってどこかに乗っていける車がなかった。軽トラはある。
だから4人でご飯を食べに行く時もいつも兄は原付で店に向かっていた。冬は寒そうに信号待ちをしている兄を見ていた。
せめてみんなが乗れる車が欲しかったので、私は中古のアウディを買った。
わざわざ外車にしたのは、父の仕事で商談やらで軽トラで行くのはって場面が会った時に恥ずかしい思いをすることがないようにと思ったからである。
ただ外車はとにかく維持費がかかる。中古なのでローンやら修理費やら車検代やら保険代やらで、今度は私の手元に残るお金がなくなっていくことになった。
父と兄は毎日仕事をしている。休みなんて概念はなかったので、ついに父は体調を崩してしまい、癌になった。抗がん剤の治療が始まり、家でのサポートが必要になったため母は派遣をやめた。
いい大人が4人合わせても中で手元に残るお金はごく僅かとなる有様だ。
そして話は最初に戻り、兄が逮捕された。父との会社の金銭管理は兄がやっていたようで、働いても自分にまともな給料が入ってくることはない、友達と遊ぶのも1ヶ月に1回あるかないか。もちろん鬱憤は溜まるだろう。会社のお金を少しだけ使い込んでいたらしく、お金を下ろしにいくといって兄が帰ってくることはなかったそうだ。
毎日働いているのに稼ぎが出ないことを何か原因があるんじゃないかと私と母はよく父を責めていた。お金が足りない時には私と母にお金を貸してくださいと頭を下げる父を、兄はどんな思いで見つめていたのだろう。優しい兄のことだから、お金がないことを私や母にバレたら、父がまた責められるので言い出すことが出来なかったんだろうと父は今も項垂れている。
SNSで結婚したと、子供が何歳になりました、大型連休は彼氏と家族と○○に行きました。みんなの素敵な投稿を見る度に、素直に祝うことが出来なくなっていく。そんな自分が嫌になる。人は人にあった人生レベルで生きるべきなのだろうか。現に今の私には素敵な投稿をするレベルになんていけそうもない。必死に足掻いても足掻いても私の人生は一向に良くなる気配がないし、まるで底なし沼にいるような気分だ。きっとこれからもっとお金がかかる。公務員になってしまったので副業をすることもできない。申請すれば通る状況なのだろうが、周囲にバレてもかまわないと思う覚悟ができない。
私はどこで道を間違えたのだろうか。
それとも逃げるように一人暮らしをするべきだった?
私はかつての夢だった結婚して普通の家庭を築くことは叶わないにしても、ただ4人で普通に暮らしたいだけだ。4人で家族旅行に行ってみたいだけだ。
それがどうしてこんなにも遠いんだろうか。
近所にウェルシアとかイオン系スーパーがどんどん開店するから観念してイオンカードを作って届いたんだが、封書にあるようにスマホで登録しようにもイオン系支払いアプリが複数あって戸惑って、とりあえずめぼしいのダウンロードして、ウォレットアプリを開いたらスクエアIDでログインしろって出てきて、こんなんカード作る時に登録したかな?って小一時間メールチェックで探して、新規でID作らなあかんの?って気付いて新規でスクエアID作ってログインして入会ポイントもらったまではいいんだけど、次に先に登録していたウェルシアアプリのWAONポイントとポイント合算できるようにしたくて、アプリ経由でWAON POINTのサイトに行ったんだけど、スクエアIDでログインしようとすると「スクエアIDはもうすぐ終了するのでiAEONのIDでログインしろ」ってページ遷移させられて、iAEONのIDなんて作った覚えがないから新規で作ろうとしたら「この電話番号は登録済みだ」と断られて、登録した覚えないのにって不審に思いながらパスワード再発行手続きして、iAEONのIDをゲットしてWAONのサイトにログインするとiAEONの個人情報登録がされてないから登録してから出直してこいって門前払いされて、iAEONまで戻って個人情報登録して、WAONにやっとログインできると思ってログインしたら、ここでも再び個人情報登録させられることから始まって、それを入力してやっとWAONポイントの統合手続きに進むことができて、めんどくさい手続きを終えられた。
ずっと一人でやってたきた
それもたまに見るくらいで積極的にはやってない
毎年行ってる東京ビッグサイトのイベントであるグループに声をかけられた
その中にインスタでつながってる人がいた
話すことなくて前職が旅行会社勤務ってうっかり口を滑らせちゃった
だから東京でイベントがあるたびにホテルとか飲食店の予約を頼まれるようになった
なんならリーダーなんて趣味関係なく自分の家族旅行のTDLの予約とか平気で頼んでくる
ネットで簡単にできるよって言っても東京のことよくわからないからと言われる
そういうのが嫌でずっと一人でやってきたはずなのに
でもそれが一週間も続いたから気になって確認したらLINEグループからハブられてた
意味わかんない
いくら考えても思いつかないんだけど
ふと思い出した
通知が来なくなった前日の集まり
話すこと無くてHPVワクチン接種したって言ったら変な空気になった
分かれる時にまたねって言ったらリーダーからいつもの笑顔で次あるといいねって言われた
意味わかんなかったけどそうだねって答えて分かれた
あれしか思いつかない
でもそんなことあるかな
結果良しなんだけど何かモヤる
趣味友の実名とかインスタのアカウント名でTwitter(当時)を検索してみた
イベントのあった日の夜のツイートに「ワクチン脳と縁を切った」とあった
いいねが2000以上も付いてた
その後もわたしの個人情報匂わせたり誹謗中傷ツイート繰り返してた
キモいからすぐインスタとLINEのアカウント削除してグループ連絡用スマホのSIMも解約した
全部終わった後に翌々週のイベントにホテルとレストラン予約したことを思い出した
でも予約名はリーダーだし連絡を絶ったのはあっちが先だからまっいいかって思い直した
ホテルとレストランのキャンセル料の請求書のコピーと手紙が入ってた
請求書の方はほとんど黒塗りでキャンセル料の金額だけが見える状態
手紙にはあなたが嫌がらせで勝手に予約したんだからキャンセル料支払え
仲間が怒ってて何するかわからないよって書かれてた
そくせ差出人名も住所も振込先も書かれてない
どうしろって言うんですか
これは脅迫状ということでいいですか
でもちょっと待ってどうやって住所知ったの
だけどここって知る人ぞ知る警備厳重高級賃貸マンションだし
経験上だめだってわかってたんだけど仕事忙しいし面倒だから放置してた
そしたらやっぱりしつこく手紙が何通も来た
内容がどんどん過激になってく
最後のに放火って書いてあったから仕方なくコンシェルジェに連絡した
ほんと面倒くさい
リーダーらしきTwitterアカウントが誹謗中傷ツイート削除して謝罪文載せた
しばらくしてアカウントが削除された
リーダーの弁護人から連絡来て本人から謝罪させたいと言ってきたけど断った
弁護士はそれだけ聞いたら引き下がった
わたし全然悪くないのにマンション追い出されるんだから刑事くらい当然だよね
リーダーって公的機関勤めだったみたいで懲戒解雇になったらしい
その後も警察から何度も事情聴取があってグループ全員が送致された
検察からも事情聴取あってリーダーだけ訴追されて他の人たちは猶予処分
結局犯行は悪質だけど初犯で社会的制裁も受けてるからって執行猶予付いた
リーダーは心を入れ替えて更生してください
他のみんなはリーダーと縁切れたらいいのにね
知らんけど(使い方間違ってるかも)
ブラインドを閉じる
コピー機の電源を切る
モニターの電源を切るのを忘れない
システムの打刻
最終退館の入力
照明を落とす
施錠とセキュリティを起動
廊下の消灯で一度真っ暗になる
エレベーターで1階に降りる
表玄関は閉じているので裏口に向かう
大通りを歩く
高速道路沿い、高架につく明かりが深夜でも明るいオレンジ色をしている
小さく歌を歌いながら帰る日が多い。頭を空にするための歌なので、なんの歌でも良い。TikTokで聞いたサビしか知らない歌でも、学生時代の合唱コンクールの課題曲でも。車が多いから迷惑にはなっていないと思ってる。
いつも曲がらない角を曲がって帰る日もある。知らない坂の先の景色をみたり、通れるかわからない細い路地を入ってみたり。
自転車で帰った日もある。電動式のシェアサイクルはわたしをぐいぐい引くように走った。
自分の足で走った日もある。通りを走るランナーはたまに見るしそれほど浮かないだろうと思った。自分で自分の体をコントロールして、心拍を上げる行動は何かに良い気がした。
酒を買って歩きながら飲んでみようとした日は、缶を路上に落としてしまい中身が噴出した。甘くないジンソーダで助かったと思いながら拾って帰った。
誰にも迷惑をかけない範囲で行う小さな奇行は、私が私に許す小さい遊びだ。1日の大半を仕事に明け渡してしまった今日をちょっとだけ取り返してから自分を寝かしつける、そういう儀式。最初はちょっと外食をして自分の機嫌を取ったりしていたのだが、夕食をしっかり摂るのも憚られる退勤時間になってからは「帰る」ことに遊びを見つけていた。人目につかない深夜に、小学生の帰り道みたいな、誰にも話さない1人遊びがたくさんあった。
何も出来ない日は大抵泣きながら帰る。あの時の自分のなかに何の感情があったのかわからない。悔しいなのか苦しいなのか、誰かに心配されて嬉しいなのか情けないなのか、
あのとき取りこぼしてしまった自分の気持ちはもう、私がわからないってことはこの先誰にもわからない。
泣いている時に頭の中に入っていたのは、周りの人が私に投げかけた言葉だけで、それを咀嚼して反芻しても、なんの味を感じたのかわからないまま、子どものように口角をひん曲げてボロボロ泣いた。マスクの中に水分が溜まって蒸れて、でも外した顔はひどいから付けたまま歩く。
公園の横を抜けて、ファミレスの駐車場を突っ切って、その先の横断歩道は押しボタン式の時間帯。渡った先のコンビニに寄る。朝昼は胃痛を避けるために軽いものしか摂らないので夜は多少好き勝手に食ってやろうと思いながら入店するが、運が悪いと夜中に腹を下すので結局中途半端な惣菜や軽食を買う。大体いつもボブヘアの男性店員がシフトに入っている。コンビニの横の坂道を上ったらあと少しで家に着く。
徒歩25分。家も職場も駅からあまり近くないせいで、電車に乗ってもせいぜい5分短縮できるか微妙な所だから歩いて通勤した。
机に縋り付いている記憶の方がたくさんあって良いはずなのだが、私は長い間、家に帰る道をずっと歩いているような、ずっと夜みたいな感覚を1番よく思い出す。
日中は、
「食事か睡眠、どちらかを満足に出来なくても片方が人並みならまだ保つ」
「このくらいの度数のロング缶を一度に飲み切ると眠れて二日酔いも残らない」
働き始めてから何年かで身につけたおまじないのような「これが出来ればまだ大丈夫」を幾つかポケットに入れて、指先で手触りを確認するような日々を過ごしていた。
「酒や乳酸菌飲料の力を借りて睡眠は取れているからまだ大丈夫」
「胃が荒れていて平日は差し障るだけで、食欲はあるからまだ大丈夫」
「朝は起きて支度できるからまだ」
部屋は荒れているが、不精なので繁忙期はそんなものだ。青クマもデスクワーカーの職業病。もっとひどい生活の人はたくさんいる。いつもの、ちょっと忙しい時の感覚だ。
そんなふうに捉えて、「まだ大丈夫」を肯定的に捉えてサバイブしていたつもりだった。
いつのまに切り替わったかわからないが、これらの「まだ大丈夫」が、どこかのタイミングで「まだ私が故障しないから、ダメになるまで待つしかない」の諦めになった。
大丈夫な私は、まだ働かなくてはならない。みんな何かしらの苦しさを抱えながら生きているのだから、私が勝手に投げ出して良いものではない。この苦境からの脱出方法は、壊れるまで働くしかない。多分本気でそう思っていた。
勤務中、気を抜くと頭を上げていられなくなった。
ひとの目を見るのは元々苦手ではあるけど、顔を見せるすら苦しくなった。
対面で働くチームメンバーには両手で伏せて早口で指示を出す。通話会議は声を出せれば成立する、まだ大丈夫。
大丈夫な自分を演じているのか、大丈夫ではない自分を演出して逃げ出そうとしているのか、どっちにしろ何かのフリをできているうちは大丈夫なのか、大丈夫って何なんだ?
わたしは席に座れる、手を動かせる、web会議で通話が出来る、謝罪を述べることができる。出来るけど、帰りたいと申し出てある日早退した。これはダメなことだってわかっているからまだきっと大丈夫。平日の明るいうちに外出するのが久々でなんだかスカスカした気持ちになりながら、せめて身体を労わるポーズをとらないと均衡が取れないから大戸屋で品目の多い定食を食べた。ポテトサラダが重くていつまでも口に残った。
わたしにも少ないが友人はいる ありがたいことに定期的に会う用事がある
他愛ない近況の報告をしようとしたら、言葉が出ない日があって、そのとき友人は精一杯わたしを傷つけないように、「頑張る私」を否定しないように選んだ言葉で、心配に思っている、あなたを害するものをあなたは拒否する権利があるとだけ 言葉を投げてくれた
書いて消して何度か回り道しただろう、書かれなかった文にたくさんの気持ちが詰まっていた それに対して言い訳のような自虐で返事をした 最悪だ
病院探しを始めた。
躊躇いは特になかった。「自分に限って」なんていうバイアスは思い上がりだ。弱さを認められる方がまともだと思う、そういうペラペラのプライドを持っていた。「まだ大丈夫」のうちに、近い将来ダメになった時の避難経路を決める、それは賢い判断だと思った。
まあまあ都心に住んでいたので選択肢はいくつかあると知っていたし、思ったよりいっぱいあった。逃げ場ってコンビニほどはないけど歯医者くらいはある。場所を見つけて、予約を取ったあと、メモを書くことにした。
うまく話せるように、話せなくてもとにかく伝わるように。カンペなのか手紙なのか問診票の別紙なのか、わからないけど言葉を起こす必要があった。
相手に自分を「大丈夫」に見せたいのか、「大丈夫ではない」と言わせたいのか、なんだか意図がブレブレのメモ書きになった
紙に書き写す以上はありのままなんてどこにもない、本当のことを書いたのかどうか主観で見てもあやふやな文面。とにかく話せなくなればそれを読むか手渡すかしようと思って、印刷したものを携えて心療内科に行った。初診の予約は平日の昼しか取れないルールで、14時過ぎに中抜けして向かった。
名のついた診断が出た。
有給休暇の残数を尋ねられたり、直近で休養の取れるタイミングなどの話を流れるようにし始めた医師に、そんなつもりではない。 まだ大丈夫だから、もう少しマシになるための方法をくれと訴えたら、それはまっすぐに否定をされた。でも自分に「休め」を許せなかった結果、中途半端な診断書を持ち帰った。
朝、眠りから浮上する感覚を覚えると同時に心臓が跳ねるようになっていた。生きている、意識があるということに気づくと心が怯えるのはまあ自然なことかもしれないとその時は思っていたし、動悸そのものは業務に差し障りないから「大丈夫」「ダメ」の判断基準にならなかった。寝覚めは悪いが寝起きは良いので、遅刻もしなかった。
なんの名前を付けたら良いのかもわからないけど、しっかりと質量のある「ダメ」の感触が胸の中に入っている日がある時やって来た。
もっと、動けないとかずっと泣くとか何かが出来なくなったことを以て「ダメ」に『なる』なのだと思っていたけど、そうではなかった。何がどうダメなのかなんてわからないのだけど、相対的な話ではない、とにかく「ダメ」が去来する朝が来た。突発の休暇をとった。休んだ罪悪感を原動力にその週は出勤する、というサイクルをいくらか続けた。
この頃に、「ダメ」になる階段を一歩降りたような気がしていたが、同時に睡眠も食欲も自分の思う「大丈夫」の基準のままだったのだから、二元論で考えることが間違っていたと思う。
この「ダメ」は、「不安」の名前に片付けるものらしい。抗不安薬の頓服の処方を受けた。「頓服」だから、常用してないからまだ大丈夫。大丈夫の数をまだ数えていた。
そんなわけないのにいつもの道が歪んで見える日
物音が大きく聞こえる日
そんなものをちょっとずつずれながら積み上げてきて、綺麗に縛れない新聞の束のような、歪みが溜まっていくような感じがあった
退職願を書いた。
できるだけ綺麗な文字でしかるべき封書に綴じた正しいフォーマットで、すぐに出せる完璧な一筆を仕上げようと思った。
遺書ではないけど、でも心持ちは少し近いかもしれない。白くて郵便番号欄のない封筒が望ましいとネットに書いてあったがコンビニにも百均にもなかった。緊急で必要になる人もいるだろうに。
下書きをして、それを見ながら丁寧に文字を書いた。書いている間は無心になれた。書いただけで、結局出せはしなかった。
退職願も、診断書も、私にとっての「勝訴」の紙にならなかった。結局私は、自分にバツを付けて逃げるのが怖いまましばらく日々を過ごした。
同僚が出勤してくる
涙が止まらない
10時半過ぎ、何も変わらない
ここにいたらもう駄目なんだ、そういう日がついに来たのだと言われた気がした
そのあとは、とにかく手続きを滞りなく進めなければと、社会人として角の立たないように休職の手配をするために自分の感情はどこか棚の上にでも置いたような感覚で、再診の予約をとり会社と連絡を取り、自分を社会と切り離すことに成功した
今、会社に向かう朝も遊びながら帰る夜も無くした私は、子供の頃からの地続きの自分をあの夜の帰路に置いてきてしまって、残りかすの体だけがここにあるような気持ちで布団に横たわっている。じゃああの夜に私は何を思っていたのか、書き出してみようと思いメモ帳に書きつけるが、結局そこにも何もなかったとわかってしまった。今の私の回想だからそうなのか、本当に何も思うことはなかったのか、もうわからない。
テレワークの3年で15キロ痩せて、そろそろこの保健指導からも卒業かと思われたが
安心したあたりでダイエットをやめてしまい、そこから月500gずつ増加していた
順調にリバウンドしていたあたりで検診・保健指導があり、その時は気分新たにまたダイエットを!と思ったのだったが
………なんだろうなあ、切羽詰まってないという安心というか気の緩みから、結局やれなかった
毎日の体重計測も、食べたものをアプリで記録するのも、すっかりやらないまま日々は過ぎ
あー………
評価のための報告資料にやらなかったし成果も出せなかった、と書いた時の気持ちが蘇った
この保健指導によるダイエット活動の報告にも、私は立てた予定をこなせない自堕落な無能ですと書かなければならないのか………
そう思って体重計に乗ると、増えていない
なにこれすごい
試験勉強をろくにしなかったのに軽めの資格試験にギリギリパスした、くらいの気持ち
普段から食べるものに気をつけてはいるのだ、計測は一切しなかったけど 量も計らず食べてたけど
痩せた結果を見て、逆にダイエットを始めたくなっている
そして来たというのは、BSを契約してBS放送観てみませんか?という案内では「ない」。
初手から「いつも受信料をお支払いいただきありがとうございます」で、本題は「BSの受信が可能な場合はBS契約への変更が必要です」という案内だ。
その上でわざわざご丁寧に(BS放送の存在を認知していなかった人でも)一般的なテレビのリモコンでどのように操作すればBS放送のチャンネルを選局しようとすることができるかだけ書いてある。
さすがに、こんな案内を送れと言ったであろう内部の人間に対してむかっ腹が立った。この封書は、
(たぶんケーブルテレビその他でアンテナ立てていなくてもBSの信号が来てる同軸ケーブル挿している人に罪悪感を覚えさせることができればラッキーという位のネライで送り付けている)
なんなのコレ。数え役満まであと少しな煽りっぷりをして何がしたいの??
(なお物理的にBS映る筈もない環境なので、我が家に関しては掠りもしていない…がヘイトだけはNHKにたいして高まった。💢)