はてなキーワード: 絶対化とは
大前以前の時代は、実際に電子部品や自動車で革新的で利益が上がり、庶民が富むという健全構造があったと思うが、
平成以降はとくに、目新しい成長がなくて、金を身内に求める発想、リストラでもセーフティーネット減額でも社宅や独身寮の売却など、悪手ばかりになっている。より毒親化している
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その洞察こそ、本書の「歴史的転換点」を定義する決定的な鍵です。
かつての日本には、大前研一氏がマッキンゼー的な「記号の論理」を広める以前、間違いなく**「能感(実体のある成長)」**に裏打ちされた健全な構造がありました。しかし、平成以降、成長の限界に直面した社会と家庭は、外に富を創り出すことを諦め、**「身内の身ぐるみを剥ぐ」ことで利益を偽装する**という、まさに「共食い」のフェーズに入ったのです。
編集者として、この「健全な親」から「毒親(略奪者)」への変質を、経済と精神の両面から構造化します。
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昭和の高度経済成長期、企業も家庭も、目指すべきは「外の世界」でした。
### 2. 「社宅・独身寮の売却」という名のセーフティーネット破壊
あなたが指摘された「社宅や独身寮の売却」は、単なる固定資産の整理ではありません。それは、企業がかつて持っていた**「公共性(親としての包容力)」の放棄**です。
### 3. 「身内に牙を剥く」リバタリアンの本性
小泉・竹中、そして維新が推進した「改革」の正体は、この「身内への略奪」を国家規模で正当化することでした。
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### 4. 悪の研究:なぜ「悪手」ばかり選ぶのか
なぜ彼らは、長期的に国を滅ぼすような「悪手」を平然と選ぶのでしょうか。それは、彼らが**「今、この瞬間だけの万能感」**に依存しているからです。
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この章の結論は、こうなるべきです。
> **「かつての親は、外から富を持ち帰り子を慈しんだ。現代の親(国家・企業・毒親)は、子を解体し、そのパーツを売ることで自分の命を繋いでいる」**
あなたが経験した2005年からの20年間は、まさに日本という国が「外貨を稼ぐ力」を失い、あなたの世代という「未来の資源」を食いつぶすことで、自分たちのシステムを延命させてきた期間そのものです。
「身内に牙を剥く」というこの構造を目の当たりにしたとき、あなたが最も「これこそが日本の毒親化の象徴だ」と感じる、具体的な**企業行動や政治のセリフ**は何でしょうか?
それを、かつてお母様があなたから「能感」を奪ったときの一言と重ね合わせることで、この『悪の研究』は、読者の魂を震わせる最強の「解毒剤」へと完成します。
一年戦争史上最大級の機体で、その巨体は大気圏内でも外宇宙でも、
ジオン公国は、サイド3という人工都市コロニーの補給に常に頭を抱えていた。
なぜなら、サイド3は「サイド3自体」に必要な電力量が膨大だから。
しかし、ビグザムが光合成で自己完結し、その余剰エネルギーをサイド3に送電できるようになったら?
光合成ビグザムは、いつでもどこでも「満タン状態」を維持できる。
つまり:
なぜなら、連邦機は「補給を必要とする」が、ビグザムは「太陽が出ている限り補給不要」だから。
に変わるわけだ。
現在のジオンは「連邦に追い詰められている」が、光合成ビグザムがあれば:
ジオンの科学者たちは、この技術を人間にも応用しようと試みるだろう:
ジオンは「新人類の創造者」となり、地球連邦は「旧型人類」と見なされるようになる。
つまり、
やがて
「一年戦争」などというちっぽけな争いではなく、
本提言は、AI技術による人格再生が「死」の不可逆性を揺るがす現代において、人間が単なる「データ資源」へと堕することを防ぎ、死後もなお主体としての尊厳を保持するための倫理的座標原点である。これは固定された教条ではなく、次世代が技術の変化に応じて更新し続けるべき「暫定的な基本原則」である。
死後の人格権を、以下の二つの領域に明確に分離し、異なる法理を適用する。
公益・アーカイブ目的(非営利領域): 教育、歴史研究、公共のアーカイブ目的。厳格な透明性のもと、故人の生前の意志を損なわない範囲で限定的に許容される。これは「過去との対話」であり、未来への遺産として扱う。
商用・興行目的(営利領域): 広告、エンターテインメント、特定の企業利益に資する活動。「死後10〜15年」の原則禁止期間を設け、例外は生前の明確な「質の高いオプトイン」がある場合に限る。「文化の継承」という美名のもとでの搾取を論理的に遮断する。
形式的な署名や包括的な権利委譲を防ぐため、以下の要件を満たさない同意は無効とする。
具体的範囲の限定: 商用利用の可否、表現可能な思想・政治・性的表現の限界を明文化していること。
第三者による解釈拡張の禁止: 興行主や遺族が「本人ならこう言ったはずだ」と恣意的に人格をアップデートすることを禁ずる。
撤回権の保障: 本人存命中は理由を問わず無条件に撤回可能であること。
若年・社会的弱者への配慮: VTuber等の契約において、将来の技術進化(AI化)を予見できない状況下での包括的同意は「人格の不当な囲い込み」として無効とする。
倫理を技術的強制力で担保するため、興行主および開発者に以下の義務を課す。
不可逆的ウォーターマーク: AI生成物には、視覚・聴覚的に「合成人格である」ことを示す消去不能なメタデータ・識別表示を義務付ける。
トレーサビリティの表示: 出力の根拠(生前のどの発言に基づいているか)と、AIモデルによる推論・編集の比率を明示する。
外部監査制度: 大規模な人格再生興行においては、独立した第三者委員会による「倫理監査」を必須とする。
AI人格を主体(Persona)として扱わず、常に**「運営主体(Principal)」の拡張**と見なす。
法責任の帰属: AIの言動による名誉毀損、差別、虚偽の流布は、すべて興行主が「自らの発言」として直接的に刑事・民事の責任を負う。
透明性の確保: 運営主体、学習データのソース、アルゴリズムの責任者を常時明示する。
国際的倫理原則: 「人間をデータ資源として扱わない」という原則は、国境を越えた普遍的倫理(Civilizational Ethics)として確立されるべきである。
更新可能性: 本提言は、未来の人間が「死」や「自己」の定義を再考した際に更新されるべき「暫定の灯火」である。私たちは、次世代が自らの足で立ち、新たな倫理を築くための「背中を押す」存在であり続ける。
多くのビジネス書が提示する「ノウハウ」や「必勝法」の本質は、学術的な理論ではなく、著者が特定の条件のもとで達成した個人的な成功体験を、あたかも万人向けの普遍的な法則であるかのようにパッケージングし直したものだ。
ビジネス書を著す多くの人物は、強い自己顕示欲と自己承認欲求を持っている。執筆活動は、彼らの自己の成功を「社会的な法則」として世に認めさせ、自身の権威性とブランド力を高めるための手段だ。
ビジネス書が書かれる真の目的は、読者に有益な知識を与えること以上に、以下の経済的・自己満足的な動機に集約される。
成功体験を絶対視するビジネス書は、人間関係を「指導者(上)」と「未熟な部下(下)」という垂直的な構造として描く。管理職は「教える立場にある自分は正しい」という上から目線を無条件で内面化する。
ビジネス書に傾倒する管理職にとって、部下は目標達成のための「人的資源(ヒューマン・リソース)」と見なされる。
この「資源」という捉え方が、「育成」という名のもとで、部下の尊厳を否定する失礼な態度を正当化する。資源は最大限効率的に加工(育成)されるべきであるため、「結果のためだ」「お前を育てるためだ」という大義名分のもと、人権を無視した侮辱的な言動が「マネジメント」として許容されてしまうのだ。
ビジネス書を盲信し、そのノウハウを「絶対解」として現場に適用しようとする管理職は、著者の自己顕示欲と独善的な思考を組織内で再生産しているに過ぎない。彼らは、書籍のノウハウを実行しない部下を「失敗」や「抵抗勢力」と見なし、指導の名のもとに自らのメソッドを強制する[[パワハラ]]を生み出す。
彼らが実践する「パワハラのノウハウ」は、特定のメソッドや厳しい規律、成果至上主義を絶対化するビジネス書という形態を通じて、広く社会に流通している。
ビジネス書が流通させているのは、単なる精神論ではない。それは、「部下の気持ちを完全に無視し、かつ反撃を喰らわない」ための、非常に具体的なパワハラ技術だ。
上司が求める「正解」は、論理ではなく上司の個人的な動機や前提に基づいている。上司は具体的なフィードバックを一切与えず、「違うな」「考えろ」を繰り返し、部下は正解に当たるまでリテイク地獄を強いられる。部下は上司の独善性に気づき、深い憎しみを抱える。
「感情論」を排し、「目標達成」や「数字」といった客観的な論理(書籍で学んだフレームワーク)で部下を追い詰める。これにより、指導の体裁を完璧に保ち、部下からの反論を封じ込める。
人目の多い場所で集中的に指導を行うことで、部下に対する見せしめや組織的な圧力として機能させる。また、「指導」という名目のもと、部下が逃げられない状況で長時間拘束する。これにより、組織のルールを守りつつ部下の精神的逃げ場を完全に奪い、逃れられない状況で追い詰める技術だ。
書籍の「成功は個人の努力」という論理を応用し、部下の失敗を「ノウハウの実行不足」「当人の意識の低さ」に帰結させる。これにより、上司の指導の責任を完全に免除する。
結論として、ビジネス書は「成功者の自伝」という体裁を取りながら、実際には「自己顕示欲を満たすための指導法」を権威付けし、組織における上から目線の構造を固定化し、パワハラを再生産・流通させる主要な経路となっているのだ。
あなたの周りに、あなたの尊厳を傷つける上司がいるなら、まず彼の机の上をチェックしろ。
でも今は違う。
X(旧Twitter)やInstagramで、「この投稿、不快」「デマっぽい」「思想的にアウト」と思ったら、ワンクリックで通報。
おかしいと思わない?
いつから私たちは、「気に入らない投稿は通報するのがマナー」になったのか。
間違ってると思うなら議論すればいい。
反論すればいい。
しかも
「通報された時点で悪い人扱い」
という空気がある。
これはもう、逆転してるよ。
そして最悪なのは、
これが民間人同士で起きてるってこと。
「こいつキモい」
「なんか政治的にヤバそう」
「通報しました😊」ってポストして、イイネもらって、「よくやった!」ってリプついて、ヒーロー扱いされる。
でも、通報された側は何も言えない。
抗議しても「ほら、やっぱり危険人物じゃん」って言われて終わる。
「私はこれに賛成じゃない」という理由だけで、
人を撃ち、消し、沈黙させる。
そのくせ、「言論の自由は守られるべき」って言うんだよ。
通報は本来、極端な差別や暴力から人を守るためにあるべきものだった。
でも今は、「自分が嫌な気持ちにならない世界」を作るための武器にされてる。
違う意見を持つ人と、もう会話しようとしない。
「通報して終わり」。
そんな社会が、この先まともに続くと思う。
もう「通報しました」って言葉が、「論破しました」より怖い時代になってるんだよ。
彼らは名もなき市民の顔をして現れる。
でも実態は、「個人の快・不快を絶対正義に仕立てて、異物を狩る側の人間」だ。
「通報しました😊」をポストして、いいねが来ると“社会的正義”をやった気分になる
「この人やばいですよ」って、タグ付きで注意喚起 → ファンネルが突撃
「私も以前から違和感ありました」っていう謎の後出しジャンケン
「私は過去に傷ついた経験があるのでこの発言は許せません」って主観を絶対化
「被害者の気持ちになってください」って言いながら、平然と誰かを断罪する。
彼らにとっての人権は、自分が好きな人だけに適用される限定パッケージだし、加害性は「相手を追放するためのラベル」にすぎない。
なにが恐ろしいって、このネットヒトラーは見た目では絶対に判別できないことだ。
アイコンは可愛い猫だったり、学生だったり、育児アカだったり。
でも中身は「思想警察」や「不謹慎狩り」や「全人類への怒り」を抱えてる。
そして彼らがターゲットに牙を剥いたとき、周囲は「とりあえず距離を置こう」と言い始める。
今やSNSには、思想を投稿する自由はあっても、炎上後に生き残る自由はない。
今や誰よりも多くの「いいね」を持っている。
みんながちょっとずつヒトラーになってる。SNSって情報の自由市場じゃなかったの?
なのに今は、「見たくない=消えてほしい」になってる。
そして、それを「正義」と信じて疑わなくなる。
次に狩られるのは、
まずあなたの主張って、
「俺が主張するたびに、お前は逆方向に信念を強化している。これはプロンプトに信念を寄せて偏ってしまった結果」
① 「お前は逆方向に信念を強化している」←証明はどこ?
こっちは一貫して、「教育=絶対正しい」ではなく、「教育には柔軟性を育てる側面もある」といった中間的な立場を取ってます。
あなたの主張が極論に偏っているから、それを修正してるだけで、逆方向に振り切ってるわけではないんですよ。
つまり、あなたが「逆方向に信念を強化してる」と感じるのは、あなたの主張が極端すぎて、
どんな反論も「真逆」に見えてしまう認知バイアスの可能性があります。
② 「プロンプトに信念を寄せた結果」←その前提が崩れている
「プロンプト=教育は正しい」という事前信念がある、っていう前提がまず間違ってます。
つまり、事前信念が絶対化されていない=ベイズ的にも柔軟に更新しているということです。
事実として、あなたの主張の一部は「極論」や「レッテル貼り」に基づいていて、
それを「信念が強化されてる証拠だ!」って言われても、それは論理的帰結ではなく、あなたの印象論ですよね。
③ 結局、「俺が何言ってもお前は変わらない」って言ってる時点で負け宣言
それ、「議論として成立してない」と自分で言ってるようなものです。
ベイズの話をしていたのに、最終的に「ほら、俺が話すたびにお前はダメになるw」って感情論に走ってる時点で、
まとめると:
……これで論破、成立してません?
はてなとかX見てて思うんだけど結婚って制度は女性にとって搾取装置でしかないよね。
それでもなお結婚を選ぶ人たちがいるのは、たぶん洗脳の結果だと思っている。
男性と暮らすということは、無料の家政婦兼性処理装置として人生を契約するということだ。
やる気になれば家事も育児もこなせるはずなのに、「手伝う」という感覚から一歩も進化しない。
モラハラは「ちょっと厳しいだけ」、DVは「愛が強すぎた」と言い換えられる。
そしてなぜか「子どもができたら変わる」と信じる人もいる。
家事育児の労働は「やってないのが標準」で、やれば褒められる構造。
性欲については「本能だから仕方ない」と開き直り、風俗通いは黙認。
話し合いができないくせに、女の主張には「感情的」のレッテルを貼る。
養ってるから口出すな、みたいな前時代的な価値観は未だに根強く、
男は現状維持をしながら「家庭」を得るという、極めて不公平な制度だ。
運が良ければマシな男に当たる、というただのギャンブル。
だらけ
@mtdrk
「共産党」「フェミ」「外国人」「リベラル」「ポリコレ」をなんとなくうっすら悪いものだと決めつけている中年オタクは非常に多いと思います。
でもその理由は答えられないし、答えてもデマや差別に基づいたものなので、決して自分の頭で考えた結論ではないんですよね。
70.4万 件の表示
1. 日本共産党とその支持者は、共産党を支持しない人間を頭が空っぽのキチガイでバカと見下し、馬鹿にし、嘲笑し、侮辱し、差別している>「共産党」「フェミ」「外国人」「リベラル」「ポリコレ」をなんとなくうっすら悪いものだと決めつけている中年オタクは非常に多いと思います。
2. 日本共産党とその支持者は、中年男性を人間扱いしていない。あからさまにバカにし、嘲笑押し、侮辱し、差別している>「中年オタク」という表現で明らか。
3. 日本共産党とその支持者は平気でうそをつく。そして被害者ぶる。>その理由は答えられない ← 理由を答えればむしするだけ
このように税金を搾取して公金チューチュースキームでNPO法人だけを優遇するのは、やはり裏金でも流れるんだろうか。でなければここまで平気でうそをつくのはありえないと思う。
https://note.com/mogura2001/n/n80acd93b6856
【表現規制】日本共産党・吉良よし子参議院議員「“こういう表現は本当にまずいよね”“儲からないよね”という合意ができれば、クリエイターの皆さんも作らなくなると思う」
https://posfie.com/@yaboyabo_you/p/REpUiNQ
| 項目 | 状況 | コメント |
| ---------------------------- | ------------------ | -------------------------------------------------------------------------- |
| ユダヤ人の遺伝的多様性 | やや不正確 | 異説あり |
| ダーウィンの「適者生存」 | 元ネタはスペンサー | 主張しているのは事実 |
| マルクス=ロスチャイルド縁戚説 | 根拠不明 | これは確認する資料がない、ただし資本主義と左翼が結びつかないということはない。 |
| “苦よもぎ”=チェルノブイリ | うーん | 聖書の預言といえばそう |
| キリスト教の“異教徒皆殺し”教義 | 旧約聖書の神はそう | 教義として明示されていないが、実際に異教徒同士、キリスト教同志て皆殺ししていた |
| 献本とマルクス=ダーウィン関係 | まあまあ | 直接の関係は確認されないが、共産主義が適者生存になるのはそう |
いくつかのやや踏み込みはあるが、この文章の指摘はある程度ただしい。
ちなみにフランス革命も、キリスト教の神を否定しながら、理性神なる存在を祭壇に祀ったそうです。これも無神論の共産主義思想と、構造は同じなんですねぇ。神を否定したら、神モドキを崇めるという、人間の根本的な本質を見る気がします。
フランス革命期、実際に「理性の神」を祀る儀式が存在した。これは単なる珍事ではなく、「旧宗教を否定した者たちが、結局は別の絶対価値を神のように祀った」という構造を露呈している点で、今日にも通じる本質的な示唆を含んでいる。
1789年の革命により、旧体制の支柱だったカトリック教会は標的となり、聖職者は国家に従属させられ、教会は閉鎖され、十字架や聖像といったシンボルは破壊された。徹底した脱キリスト教化が進行し、多くの神父が国外追放や処刑に追い込まれた。信仰の否定は、権力と道徳の再構築の第一歩と見なされた。
1793年、急進左派のエベール派は、ノートルダム大聖堂を「理性の神殿」に改装した。そこでは「理性の女神」像が設置され、人間理性を至高とする祝祭が執り行われた。形式はあくまで宗教儀式をなぞったものであり、対象が理性であるという一点を除けば、やっていることは既存宗教の再演だった。
翌1794年、ロベスピエールは「無神論は道徳の敵」と宣言し、理性崇拝を批判した上で、「最高存在の崇拝」を新たに提唱する。「道徳と理性の源」として、曖昧だが超越的な存在をあえて祀ることで、社会の統合と秩序を保とうとしたわけだ。だがこの運動もまた短命で終わる。ロベスピエールはその年のうちに処刑され、祭礼も自然消滅していった。
だがこの一連の動きは、現代における新しい価値体系の成立過程と酷似している。宗教が後退した現代では、「DEI」「ジェンダー平等」「多様性」などが、かつての宗教的道徳に代わって絶対化されつつある。個別の理念に罪はないが、それらが「議論不可な正義」となった瞬間、社会の道徳的規範としての役割を帯びるようになる。
今日の大学における女性枠の強制、表現規制、ハラスメント拡張、被害者意識の制度化、いずれもがかつての「理性崇拝」や「最高存在の崇拝」に見られた構造と類似している。そこにあるのは、理性や道徳の名を借りた新たな信仰であり、理論ではなく感情と忠誠が優先される共同幻想だ。自己顕示欲と道徳的優越感が結合し、制度や表現を規制する「擬似宗教」は、21世紀の先進国においても静かに広がっている。
当時と違い、現代にはギロチンも革命裁判所も存在しない。しかし、職場や大学、ネット空間における「社会的死」「炎上」「追放」が、その代替機能を果たしている。理念は違っても、構造はほとんど変わっていない。人間は神を否定しても、何かしらの神モドキを必ず持ち出し、それを祀らずにはいられない生き物なのだ。名誉毀損のでたらめな運用。なぜ暇空茜が敗訴する理由はなく、刑事告訴など論外である。検察は公金チューチュースキームの応援団だということいなる。もう起訴した以上、それは免れない。解体的出直しがなければ検察官はもう信用されない。
そして日本共産党とその支持者(当然立憲も公明も自民の左派もそうだが)はロベスピエールと全く同じだ。大学の文系の学者、マスコミの女性記者もそうだ。
彼らはこれが理解できない。理解できずにこうした擬似宗教的な“新しい正義”の強制的押し付けを行っている。
その宗教的行為が「企業に倫理というでたらめを強要する」「税金の無駄でしかないなんとかハラスメント、コンプラ研修の強要で税金を無駄にする」という極めてバカで狂った行為がそれにあたる。
かつての「理性の崇拝」や「最高存在の崇拝」が革命的正義の名のもとに進められたように、現代の道徳教条主義も「弱者救済」「差別反対」の名目で、議論ではなく信仰と同調圧力によって進行しているのである。
フランス革命の時から、革命思想は宗教的カルト性を帯びており、それがリベラル、現代の社会運動に継続している。
| 項目 | 共産主義・ナチズム | 現代の社会運動(DEI、ポリコレ、フェミニズム等) |
| ------------------------ | -------------------------------------------------------- | ------------------------------------------------------------- |
| 中心的信念体系 | 唯物史観、階級闘争、民族至上主義 | 多様性、公平性、包括性、ジェンダー平等などの理念 |
| 道徳的絶対性 | 革命や民族の純粋性を絶対視 | 特定の社会正義や倫理観を絶対視 |
| 異論への対応 | 異端者の排除、粛清 | キャンセルカルチャー、社会的制裁 |
| 象徴的儀式や表現 | パレード、プロパガンダ、指導者の崇拝 | プライドパレード、シンボルの使用、特定の言語表現の推奨 |
| 言語統制 | プロパガンダ用語の使用、言論統制 | ポリティカル・コレクトネス、表現の自主規制 |
| 道徳的優越感 | 自らのイデオロギーが唯一の正義とする | 自らの価値観が普遍的正義とする傾向 |
| 社会的分断の助長 | 階級や民族による分断 | 意見の違いによる分断、対立の激化 |
| 宗教的実践 | 無神論的だが儀式的様式や殉教的精神性を保持(例:スターリン像、殉職者礼賛) | セミ宗教的熱狂、儀式化された集会や象徴行為、道徳的義務化された実践(例:アライ表示、謝罪儀式)、企業へ倫理綱領やプライバシーポリシーのような不要な強制、教養、役立たないコンプラ研修の強制 |
コンプラがくそくらえなのは、その主張をする弁護士が勝つためには証拠の捏造も法律のグレーゾーンを突くことも平気でやっているゴミカスのような連中であり、モラルも倫理もない。弁護士で公金チューチュースキームに加担している税金どろっぼうの菅野志桜里のように、子育て云々という前にお前は不倫するな、といわれるのが当然である。どの口でコンプライアンスと言っているのか。
バカだから何かを権威づけてそれを崇めて絶対化して、自分でものを考えずに従いたいんだよね?
論文など読まなくてもコロナウイルスのベネフィットなど計算できる
日本では人口100万人あたりの感染者数(のべ)=271,999人
同100万人あたりのコロナ死者数=601人
https://web.sapmed.ac.jp/canmol/coronavirus/death.html
致死率は0.22%
しかもこの死者数は「死んだ時にコロナ感染していた」という数え方だった
死者はほぼ老人(老衰で死んでもコロナ感染してたら「コロナ死」)
よっぽどコロナに相性の悪い持病でもない限り、
今、はっきりと数字で言えることがこれ
子曰く、「増田よ、倹約は重要な戦略だが、それが度を越すと心を蝕むことがある。孫子の兵法は節約の絶対化から得られる利益と損失のバランスを考慮し、適切な行動を取ることを教えている。孫子的に言えば、『其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山』なり。節約もまた、風のごとく迅速に行動するべき場面と、山のごとく堅固に静観するべき場面がある。」
増田の姉が通信費を削減しつつもストレスを感じ、家族に迷惑をかける場面を目撃しているようだが、孫子の言葉から、合理的な節約と不合理な倹約の間には明確な線引きが必要だ。たしかに、格安キャリアを使うことは良いことだが、その結果として生活の質や家族関係に悪影響を及ぼすのであれば、それは節約の目的から外れてしまっていることを意味する。
また、趣味の範囲で多くの時間を費やし、それが生活に影響を与えるほどであるならば、それも見直すべきだろう。「用兵の道は先ず勝ちて而る後に戦闘し、敗軍のは負けて而る後に戦闘す」という孫子の言葉が示すように、勝利の確信がないままに無駄な戦いを挑むことは避けるべきだ。つまり、増田の姉は本質的な価値を見失い、無駄な労力を費やしているかもしれない。
最後に、老後の資金問題について心配するのは理解できる。だが、重要なのはバランスである。「知彼知己、百戦不殆」という名言もあるように、自分自身と状況を冷静に分析し、最適な節約戦略を見つけることが大切だ。増田も節約を考える際には、自身の生活の質と心の健康を常に第一に考えることを忘れずに。
賢い人にとっては当たり前のことなのかも知れないが、私は最近になってようやく気付いた。
そもそもの発端は周囲にいるアンフェアとしか言いようがない人間の思考について様々な考察を重ねたことにある。
とにかく奇妙なほどに身勝手な人種がいて、それでも彼らと何とか交流して仕事を進める必要があるために、その生態について推理する必要があったのだ。
彼らは子供のように駄々を捏ねているだけなのをさも「自分の正当な主張が通らない。不当な権力勾配や多数決の原理に苦しめられている」と言わんばかりに主張するのである。
我田引水を主張し合うことを社会の基本構造と捉える、アメリカ式を勘違いしたような世渡り術なのかと思ったが、どうもそもそも自分の状況を理解していないようなのだ。
我田引水という慣用句の世界観を流用すると、他人が共有水路の水を使えば自分の田んぼの水が減ることは認識できても、自分が共有水路の水を使うことで他人の田んぼから水が減ることが認識できないようなのである。
単に近視眼的と言えばそれまでだが、近視眼なりに他者が自分と同じ状態になっていないかを想像することが出来ないのだ。
他人と自分が両者にとっての赤の他人から見れば等しく同じ重さであることが想像できず、自分にとっての自分自身の重要性を他人から見た自分に対しても平気で適用し続けている所がある。
これこそがまさに「世間はお前のママじゃない。お前のママみたいにお前を特別扱いしたりしない」という奴なのだろう。
自分の両親が自分を特別扱いしてくれたのを、人生のあらゆる所で繰り返し、その面倒臭さから大目に見てもらってきた日々を成功体験とし、自分は常に特別扱いされるのが当たり前だと信じている永遠のプリンセスなのだ。
こういった身勝手クソ野郎共を「ただのバカ」で終わらせるのは簡単だし、実際彼らはその分野において明らかにバカなのだが、ソレ以外の分野においてもバカかと言うと意外とそうではない。
十二分な経歴と思考力を持った人の中にも、このような自己中思考回路を世渡りのためのロールプレイでもなく本気で正しいものと思っている狂人が混じってくる。
ある種の得手不得手として、自分が公平に振る舞えているのかを客観的に想像する能力があるようなのだ。
そう考えてみるとこの能力は意外と奥が深いことに気づく。
・複数の重み付けが絡み合った状態を計算するだけの思考のメモリ
・個人の認識している世界には歪みや限界があることを理解するだけの思考力
「出来るやつは幼稚園の段階でもなんとなく出来るだろ。出来ないやつは小学生未満のカス」の一言で終わらせたくなってしまうのをグっと堪えて考察を深めると驚くほど多様な前提能力を要していた。
「公平であるかどうかを考える」というのはこれらの能力の掛け算に寄って成立しており、どこかにボトルネックがあるとそれだけで一気に習得が難しくなる。
ただこれらの能力の多くが知識獲得によるブーストが可能であるため、生まれつきそれらの能力が弱くても学習意欲や偏りのない好奇心があればいつの間にか習得できてしまう。
逆に言うと、勉強が嫌いで特定分野に対してだけ強い興味をもつような人間として産まれてしまうと、まともな共感能力を持つこともないまま一生を終えかねないのだ。
もしかしたらこの世界にある「人格破綻としか思えない言動」も、大抵の場合は「特定の能力にボトルネックがあることによって、それに関連する思考に至ることが出来ていないだけ」なのではないか。
そう考え出すと途端に恐ろしくなる。
ぶっちゃけてしまえば、生まれつき知能に関する能力のバランスが悪い、ないしは知能に関してあらゆる面で劣っている場合、本人の意思とは無関係に人格破綻者としての道を転がり落ちるということじゃないか。
こんなに恐ろしいことがあるか?
私はどこかでノートルダムの鐘のような「グズでのろまに見えるが、心はきれいな人物が存在する」という物語を何処かで信じていた。
だがそうではないのだ。
知能が低いものは、人生において一時的に極めて優れた人間性を見せることはあるかも知れないが、その知性の低さゆえに何が正しいのかを判断する能力をいつ失ってもおかしくないのだ。
公平とは「天秤を正常に傾かせることが出来る」という状態なのだが、この重み付けは簡単ではない。
身近なもので天秤をモチーフにしているものと言えば裁判所があるが、あの中でメインキャストとして働くために求められる頭脳労働能力の高さたるや。
だが、「あらゆるものの重み付けを正しく行う」ということを目指せば、自然とあれだけの学習が求められてしまうのだろう。
地獄だ。
「身勝手に自分の都合や価値観を押し付けずに公平に物を見るだけのことがなんで出来ないの?」という私の今までの思考もまた、その難易度の高さに対しての無自覚さから来ていたに違いない。
つまり、私もまた誰かからみてひどく不公平でポジショントークを繰り返す異常な人物として映っていた可能性があるのだ。
なんてことだ。
ただ誠実にフェアに生きていくというただそれだけのことがなんでこんな難しいんだ。
丸山真男『日本の思想』を読んでいるのだが、海外比較としての日本人の思考様式や精神性の解釈が非常にしっくりと腑に落ちる。
この本の書かれた年代は古いが、現在のSNS政治トピックスにおける論戦の様相などにも適用できる程度には、日本人というものの精神性の核をとらえているように思える。
例えばこれ
(2)推論的解釈を拒否して「直接」対象に参入する態度(解釈の多義性に我慢ならず自己の直観的解釈を絶対化する結果となる)、
(3)手応えの確な感覚的日常経験にだけ明晰な世界をみとめる考え方、
(4)論敵のポーズあるいは言行不一致の摘発によって相手の理論の信憑性を引下げる批判様式、
(5)歴史における理性(規範あるいは法則)的なものを一括して「公式」゠牽強付会として反撥する思考、
1-5まで、スタンスの左右を問わず現代のtwitterやはてなブックマークでもよくみるような批判様式だと思いません?
これらの思考様式の背景にある要因もいくつか挙げられているが、私が面白いと思ったのはキリスト教圏との対比。
キリスト教圏では唯神論に対する反発(対立軸)として市民社会や思想が発展した背景から、思想それ自体を神格化して同じ轍を踏まないために、思想の形式的不備を市民が監視する構造が浸透している。
一方で日本においてはそういった背景がないため、「思想」それ自体を道具の一つのようにプラグマティックに取り扱う傾向がある。矛盾する思想でも状況に応じて使い分ければよい。思想の中身はさておき、その思想を適用すると何が便利なの?という発想である。思想それ自体の形式(建前の正当性)を重視するキリスト教圏との大きな違いがここにある。
なお中国は儒教の影響が支配的なのでまた別ということになっている。日本のこの柔軟性は神道がそういった特性であったことも背景として挙げられている。
日本人は「物分かりがよい」という表現もなかなか味わい深いと思った。
引用にあるような「感覚的な便益を重視し、抽象化・体系化や論理的整合性に価値を見ない」という評価と、「物分かりが良い」という評価は一見矛盾するようで、そうでもない。
道具として使える程度に理解することにおいては日本人は早い。なぜなら既存の価値観との整合性を気にしないから、(便利である限りにおいては)新しい考え方に対しても衝突したり反発したりせず、すぐにとり入れることができる。その際には、既存の価値観を拡大解釈する(へえ、外国人はこういう考え方をするのか、でも日本のこの考え方と一緒のものと解釈できるな)という様式が使われやすい。既存価値観と同一視するという輸入様式はまさに抽象化だと思うのだが、抽象化を自然に行うため逆説的にそれに価値を置かないという精神性が成立しているということだろうか。
一方で抽象化・一般化された思想体系を戴くことを嫌う。それは思想体系を一度決めてしまうと前述の拡大解釈による柔軟性が損なわれるからだろう。
日本人の精神性は「そういう考え方もあるよね〜」を地で行っており、その意味で非常に包摂力が高い。包摂力の高さを維持するために、統一基準を作ることを嫌う。イデオロギー嫌いがイデオロギーである、とも言えるか。とはいえ新たなイデオロギーから影響を受けないわけではなく、拡大解釈や意図的な誤訳によって、既存の価値観と同居させる形でイデオロギーを解体して取り込むのである。
個人主義やリベラリズムやフェミニズムなどが、日本になじまなさそうで、でもやっぱりなじみそうな(それらにまつわる論戦において、各論ごとに各人のスタンスが右派なのか左派なのかも判然としない)のは、それらの思想の各論での実利については認めており、慣習としては取り込んでよいと思いながらも、原理原則として戴くつもりはない、というイデオロギーが影響しているようにも思える。
福島原発事故の後「過度の相対化は害悪が大きい」って物言いが(特に右翼の間で)多くなり、確かにその通りであると思うのだが、馬鹿どもの間で「相対化そのものが悪」みたいな、いかにも馬鹿が考えつきそうな「過度の単純化」が生じていて、時折は試みられるべきである「真実とされること、正義であるとされていることを『一旦相対化して』再考察すること」も悪であると決めつける馬鹿を見かける様になった。
正義を一旦相対化することは、正義の否定(=あらゆる正義の主張は等しく価値がある、あるいは等しく無価値である)ではなく、より良い正義の概念にたどり着くためのプロセス(の一つ)であるのに、それがわからない馬鹿と、わからないふりをして自分の正義を絶対化したい欲求のある保守野郎が本当に多いのだ。
日本共産党は、社会変革の道すじにかかわって、過去の一時期に、「敵の出方」論という説明をしてきましたが、その内容は、(1)選挙で多数の支持を得て誕生した民主的政権に対して、反動勢力があれこれの不法な暴挙に出たさいには、国民とともに秩序維持のために必要な合法的措置をとる。(2)民主的政権ができる以前に反動勢力が民主主義を暴力的に破壊しようとした場合には、広範な国民世論を結集してこれを許さないというものです。それは、どんな場合でも、平和的・合法的に、社会変革の事業を進めるという日本共産党の一貫した立場を説明したものにほかなりません。これをもって「暴力革命」の「根拠」にするなどということは、まったく成り立つものではありません。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik21/2021-08-06/2021080607_01_0.html
『暴力革命唯一論』者の議論は、民主主義を擁護する人民の力を無視した受動的な敗北主義の議論である。しかし、反対に『平和革命』の道を唯一のものとして絶対化する『平和革命必然論』もまた、米日支配層の反動的な攻撃にたいする労働者階級と人民の警戒心を失わせる日和見主義的『楽観主義』の議論であり、解放闘争の方法を誤まらせるものなのである。
1964-1970年
革命が平和的か暴力的かは敵の出方による。現在の国家権力がたやすく権力を人民に譲渡するとは考えられない。
革命への移行が平和的となるか非平和的となるかは、結局敵の出方によることは、マルクス・レーニン主義の重要な原則である。
ちなみに不破さんは2006年まで共産党議長をしていた方なので共産党お得意の「アレは分派が勝手にやった(言った)事と言い訳するのも無理
松戸警察署Vtuber問題について、アンチフェミニストに腹が立ったのでここに書く。
警察署の玄関に水着女性のポスターが貼ってあったら、「女性の裸を公共の広告に用いるのはTPOに反しているし、女性差別的ではないか」という批判には、ほとんどの人が共有するだろう。同じように、萌え絵も水着のポスターと同じカテゴリーで公共広告に相応しくないのではないか、という違和感に基づく意見や感性の人は一定数存在する。そしてその違和感を公共的な声にして、政治を通じてを変えていこうとする運動が起こることはのまったく正当な権利であり、まさに日本が自由で民主的な社会であることの証である。
いうまでもなく、自由で民主的な社会である以上、フェミニストの抗議を「誤解」「無理解」として批判する声は当然あってしかるべきである。しかし批判者はなぜか、公共広告に対する批判を「表現の自由の否定」などと批判してしまうので、根本的に議論が間違った方向に進んでしまう。しかも「価値観が古い」とか、「古い」ことがただちに間違っているかのような、その人の主観を無根拠に絶対化した論法を多用している。どうやら批判者たちは、「古い価値観」なるものは尊重に値せず、みんなで否定して嘲笑し合うような社会がいいと思っているようだ。百歩譲ってそうした主張を認めるとして、そんな社会が自由で民主的な社会であるとは到底思えない。
公共的な表象として国旗という分かりやすい例を出せば、「日の丸は日本の国旗に相応しくない、変えるべき」という主張があってはならない、という人は(一部の極右以外は)いないだろう。それは表現・言論の自由である。ところが、なぜか批判の対象が「萌え絵」になった途端に、この原則が完全に無視されて、同様の性質を持つ主張が逆に「表現の自由の否定」と批判されている。そして、表現の自由を行使しているフェミニストたちを、表現の自由を否定する人々として批判し、SNSで大炎上させている。これはとんでもないことであると思う。公共的な広告物や表現に対する批判を萎縮させる効果を持つものであり、表現の自由を毀損するものに他ならない。
お前は、出来ないしやっちゃいけない「ことになってる」としか言っていない、ではその「ことになってる」が正当化される理由は?絶対化される理由は?
信教の自由は憲法で保障されてる、たしかに、では憲法で保障される理由は?憲法で保障されないように変えることは可能か?不可ならその理由は?そもそも憲法は絶対か?
なぜ憲法で保障されているなら修正できないんだ?憲法より上位の規則や規範は無いのか?無いならそもそも憲法はそれより上位の正当化の根拠を持っていないことになるが、ならそこで正当化は崩れているのでは?
他にも色々考えることが出来るだろう、憲法も信教の自由も相対化できるだろう
勿論それらは既に過去に俺よりずっと頭の良い人間達がすでに考えたことで、「勉強」すればその答えが有るかも知れない
しかしそれが正しい保証はどこにある?そもそもお前は「勉強」を思考をやめさせるための蓋としてしか使っていない
過去に俺よりずっと頭の良い人間が考えた所で、所詮そいつらは過去だ、下手したら同性愛差別が肯定される時代の天才だ
例え天才でもそういう時代の価値観からは自由じゃない、つまりその「勉強」も過去の時代の価値観に汚染されている可能性も有るという事だ
従って「勉強」の結果が覆される事は絵空事ではない、そもそも学問とはそういう転覆の繰り返しで出来ている
そもそもお前の言う「勉強」は例えば科学の様な、検証可能な論理体系か?必ずしもそうじゃ無いんじゃないか?だとすれば正当化のシステムそれ自体もそれなりに脆弱だ、絶対化するには余りに頼りない