はてなキーワード: 教条とは
>じゃあ不倫に対して各インフルエンサーが何も言えなかったのはなぜかと言えばそんなの簡単で、ある意味の現代的価値観から言えば不倫と今回の問題は『関連がない』と非常に訓練された目で見てしまうからだろうね。増田が言う通り、他の有権者から見れば十分に着目するべき視点だったにもかかわらず、それについて調べるということが『関連がなく』『問題の本質から逸れていて』『価値観として言及するべきでない』という価値判断から、触れることができなかった。価値観的にはそこを突けるのは一種のバグ技というか、リベラルが負け続けているのもだいたいこのあたりの脆弱性が理由だと思う。
誰かも言ってたけど、例えば草津の件。
「たとえ新井元町議が大うそつきのエセ被害者だったとしても、議会における野次をもってセカンドレイプ認定することは正しい」みたいなロジックがあるじゃん。
政治的には正しいロジックなんだけど、世間一般の直感からすると、まあ通じない、伝わらないよね。
果たしてこの場合、アップデートされてない野蛮な愚民が悪いと言っちゃっていいのか?そこから考え直した方がいいのかもしれない。
正しい人でありなさい。
それが、僕に課せられた唯一にして最大の教条だった。
幼い頃から、僕は常に「先生の家の子」であることを意識させられてきた。両親は僕を品行方正な模範少年に仕立て上げることに腐心していたし、周りの人(大人も子どももだ)は皆、僕の素行や成績の優秀さを褒めそやした。
今思えば、僕は他人の眼差しに見張られ、他人の期待に縛られて暮らしていた。だが、当時の僕は、それに不満や苦痛を感じることは(少なくとも意識の上では)全くなかった。むしろ、どんな時も「正しい人」として振る舞うことに、ある種の誇りすら感じていたように思う。
友達をえり好みするのは「正しくない」ことだ、という両親の教えに従って、僕は誰にでも人当たり良く接していた。その甲斐もあってか、ほとんどの級友は僕に好意的だった。先生たちも僕を気に入っていたようで、贔屓と言われるような特別扱いを受けることも少なくなかったが、誰も文句を言わなかった。僕は何の迷いもなく、己に与えられた特権を享受していた。それが自分の「正しさ」に支払われた報酬だと受け止めていたからだ。
そんな僕が、一人だけ「友達」と呼べない少年がいた。隣の小さな家に住んでいた彼は、見た目も成績もパッとせず、不器用でどんくさい、いわゆる劣等生だった。当時の僕にとって「優れていること」と「正しいこと」はほとんど同じ意味だったから、僕は「正しくない」彼のことをうっすらと見下していた(そしてそれを「正当な評価」だと信じていた!)。
だが、もし彼がただの冴えない少年だったら、僕は彼とも親しくしようとしただろう。僕に「誰かを嫌う」という悪徳を犯させた(当時は本気でそう思っていたのだ)のは、彼の蝶に対する異常な情熱だった。
あの頃の僕たちにとって、蝶の収集は最大級の関心事だった。少年たちは蝶を捕まえては標本を作り、互いに自慢し合っていた。
はじめのうち、僕はあまり熱心な収集家ではなかった。捕らえた蝶を完璧な標本に仕上げる作業は楽しかったけれど、蝶を捕まえること自体にはさして魅力を感じていなかったのだ。
だが、彼は違った。彼は「蝶狂い」としか言いようがないほど、生活のすべてを蝶捕りに捧げていた。「蝶を探していた」という理由で遅刻して先生に怒られるのは日常茶飯事で、彼の母親が夜に戸口の前で息子が戻ってくるのを待っているのを見たのも一度や二度ではなかった。
それほど蝶に入れあげているにもかかわらず、彼は自分の標本を他人に見せようとしなかった。標本を級友たちとの「社交」の手段と捉えていた僕は、そんな彼に不気味さすら感じていた。こいつは一体何のために蝶を集めているんだ? 遅刻の罰として教室の前に立たされている彼の、何を考えているかわからない顔を見るたび、僕は疑問に思わずにはいられなかった。
ある日、僕は虫取り網を片手に近所の森に出かけた。新しい標本を作るために蝶を仕入れに行ったのだ。あらかじめ目星をつけていた場所で狙い通りの蝶を捕まえ、さっそく家で標本にしようと帰りかけた時、近くでガサガサと物音がした。音の方を見ると、一人の少年が森の奥へ向かっていた。彼だ。彼は僕に気づくこともなく、上の方を見ながら歩みを進めていく。僕はほんの少し迷ったあと、彼の後を追いはじめた。誰かのあとをつけるなんて全く「正しくない」ことだと思いながらも、なぜかそうせずにはいられなかったのだ。
十分以上歩いただろうか。少し開けた川べりで、彼はようやく足を止めた。僕は木の陰に隠れて、彼の様子をうかがった。彼は静かに網を構え、宙の一点を凝視している。彼の視線を追った先には、一匹のコムラサキがいた。生きたコムラサキを見るのは、これが初めてだった。
彼はじっと、コムラサキの隙を狙っている。爛々とぎらついた瞳には、きっと蝶の姿しか映っていない。こんなにも獰猛な空気を纏った人間を、僕は見たことがなかった。
不意に、彼が動いた。突き出された虫取り網がひらりと宙を舞い、すぐに地面に伏せられる。彼はかがみこんで網の中を確認した。僕からは蝶の姿は見えなかったが、狩りの結果はすぐに分かった。彼が、長い安堵の息とともに、うっとりと微笑んだからだ。
彼が立ち上がる前に、僕は踵を返した。早足はいつの間にか駆け足になり、何度も転びかけながら、それでも走り続けた。「逃げなければ」という言葉が、身体の中に繰り返し響いた。何が怖いのか、そもそも全身に満ちたこの感情が恐怖なのか、何もわからないまま、僕は家まで走り通した。捕まえた蝶がいなくなっていたことに気づいたのは、自分の部屋に戻ってからだった。
それから二ヶ月ほど経った頃、紙箱を手にした彼が僕の家を訪ねてきた。彼が何か言う前から、僕には箱の中身が分かっていた。彼はあの日のコムラサキを見せに来たのだ。僕は彼に気づかれないよう息を整えてから、紙箱の蓋を開けた。
箱の中のコムラサキは、お世辞にも良い状態とは言えなかった。展翅には粗が多く、足も欠けている。褒められたものじゃないな、と思いながら顔を上げると、彼は得意げな笑みを浮かべていた。驚嘆と賞賛を欲しがっている顔だ。それに気づいた途端、胸の中にどす黒い感情が湧き上がった。
せっかくのコムラサキがこんな不完全な標本になってしまったことへの落胆、その粗雑さに全く無頓着で恥じる素振りもないことへの呆れ、そして何よりこんなやつに一時でもおそれめいた感情を抱いてしまった自分への怒り。そういったものが渾然一体となった感情だったと、今にして思う。だが、子どもだった僕は、それらを「不快なもの」として一括りにすることしかできなかった。そして、その不快感を、標本への批判という形で吐き出したのだ。
僕は、彼のコムラサキの欠点を、ことさら辛辣な言い方で並べ立てた。彼の顔はみるみるうちに曇っていき、最後にはすっかり不機嫌な表情になった。
紙箱をひったくって部屋を出ていった彼の後ろ姿を見て、僕はかすかな罪悪感を覚えた。人を傷つけるのは、明らかに「正しくない」ことだ。
違う。僕は彼を傷つけたわけじゃない。僕はただ事実を述べただけなのに、彼が勝手に傷ついたのだ。直すべきことを指摘するのは「正しい」ことだから、僕は何も恥じる必要はない――
僕は自分にそう言い聞かせた。都合の良い言い訳だと、心のどこかでは分かっていたけれど、気づかないふりをした。僕はただ、「正しい人」でいたかったのだ。
彼のコムラサキの標本を見てから、僕は本格的に蝶の収集に取り組み始めた。少数の個体を完璧に仕上げることで満足していたのが、より多くの種類の蝶を捕まえたいと思うようになったのだ。
勉強や友達付き合いに割く時間を限界まで減らし、僕は蝶の採集に出かけた。珍しい蝶も、そうでもない蝶も、とにかく片っ端から捕まえた。両親は泥だらけの服で帰ってくる僕を見て顔をしかめ、級友たちは僕と遊べないことに不満げだった。採集自体も、楽しさより苦痛のほうが大きかったが、やめようとは思わなかった。
僕の目的は、彼よりも優れた収集家になることだった。彼が捕まえるよりも多くの種類の蝶を、彼が作るよりも美しい標本にする。それは僕にとって、ほとんど初めての私的な欲望だった。誰に求められたわけでもないのに、「正しい」ことでもないのに、せずにはいられない。自分でも理由のわからないまま、僕は取り憑かれたように標本作りを続けた。
時折、蝶を探しに行った先で、彼の姿を見かけることがあった。彼はいつでも心底楽しそうに野山を駆け回っていて、その姿を見るたびに嫌な気持ちになった。僕が彼に声をかけることはなかったが、彼が僕に気づくこともなかった。彼はいつも蝶しか見ていなかった。その事実もまた僕を苛立たせていたのだが、あの頃はそんなことは思いもよらなかった。
季節がいくつか過ぎる頃、僕は蛹の採集にも手を出していた。森に分け入って成虫を捕まえるよりも、自分の部屋でじっくりと蛹や繭を羽化させる方が性に合っていると気づいたのだ。時には予想外の成虫が出てくることもあったが、それもまた楽しみの一つだった。
そんななか、とんでもないことが起こった。偶然手に入れた繭から、クジャクヤママユが羽化したのだ。クジャクヤママユといえば、僕たちの間では秘宝のような扱いの、まさに幻の存在だった。ゆったり広げられた翅に浮かぶ特徴的な斑点を確認した時には、全身の震えが止まらなかった。
何も考えられない興奮状態の後に、真っ先に頭に浮かんだのは彼の顔だった。彼が教室の片隅で、級友のクジャクヤママユの話に目を輝かせていたのを見たことがある。あの様子だと、きっと彼はまだクジャクヤママユを見たことがない、ましてや持っているはずがない。
千載一遇の好機だと、僕は思った。このクジャクヤママユを完璧な標本にして、彼に見せるのだ。何が「正しい」標本なのか、誰が「正しい」収集家なのか、彼に見せつけてやるのだ。この思いつきは、僕をひどく高揚させた。
僕はこれまでにないほど慎重かつ丁寧に、クジャクヤママユの展翅に取り組んだ。その出来栄えは、今までのどんな蝶よりも素晴らしいと自負できるものだった。もうしばらくすれば、非の打ち所がない美しい標本が仕上がるはずだ。僕はすっかり舞い上がっていた。
常に地に足をつけていることこそ「正しい」。そう知っていながら、浮かれきった僕は級友にクジャクヤママユのことを話してしまった。噂はあっという間に広まり、大勢の少年たちがクジャクヤママユを見せてくれと押しかけてきた。
僕は彼らの頼みを「完璧な状態で見せたいから」と全て断った。それも嘘ではなかったが、一番の理由でもなかった。最初に見せる相手は彼だと、最初から決めていた。
僕は実のところ、彼がどうしてもと乞うならば、未完成の状態でも見せてやってもいいとさえ思っていた。にもかかわらず、彼は何も言ってこなかった。コムラサキの一件以来、彼が僕を避けているのは分かっていたが、彼の僕への嫌悪感がクジャクヤママユへの興味を凌駕していると考えると、妙に胸がモヤモヤした。
その日は、何ということのない平凡な一日になるはずだった。少なくとも、蝶の採集を終えて帰宅し、自室に入るまではそうだった。だが、そこで僕を待っていたのは、変わり果てた姿のクジャクヤママユだった。
翅がもげていた。触角も片方取れていた。展翅板の上には、粉々になった翅の残骸が散らばっていた。
どうして。何で。誰が。どうすれば。
絶望的な言葉の断片が、次々と頭の中に浮かんではぼろぼろと崩れていく。早く直さなければ、と震える手で修復道具に手を伸ばす。今までの経験は「これは無理だ」と告げていたけれど、その声さえ聞こえなかった。
日が落ちかけた頃、僕はとうとうクジャクヤママユの修復を諦めた。僕は絶望的な気持ちのまま寝台に倒れこみ、腕で目を覆った。このまま何も考えずに眠ってしまいたかった。そして朝になって、すべてが夢だったと気づきたかった。
そんな幼稚な空想を打ち砕くように、女中さんが僕の部屋の戸を叩いた。彼が来ていると言うのだ。僕はのろのろと起き上がり、玄関に向かった。
僕の酷い顔を見て驚いたのだろうか、彼は何も言わずにこちらを見ていた。僕は半ば操り人形のような心地で、クジャクヤママユが台無しになったことを告げた。すると彼は、それを見せてくれと言った。僕は頷き、彼と共に重い足取りで階段を上っていった。
僕はクジャクヤママユの残骸を彼に示した。ろうそくの明かりでも、彼の顔に全く血の気がないのがわかった。彼はしばらくクジャクヤママユを凝視していたが、ゆっくりと僕の方を向いて、言った。「ぼくが、やったんだ」と。
僕が凍りついていることに気づかず、彼は堰を切ったように喋り始めた。どうしてもクジャクヤママユが見たくて、僕がいない間に部屋に入ったこと。見ているうちに魔が差して、クジャクヤママユを盗んだこと。返そうとした時には、クジャクヤママユがつぶれてしまっていたこと。
彼の話を聞くにつれ、僕は胸がどんどん冷たくなっていくのを感じた。同時に頭に浮かんだのは「彼は裏切ったのだ」という言葉だった。何を裏切ったのかはわからない、ただ彼が裏切り者だという考えだけが、強く強く繰り返された。
「そうか、そうか、つまり君はそんな奴なんだな」
そう告げた声は、自分でも驚くほど平板だった。こんなに誰かを軽蔑するのも、こんなに誰かに失望するのも、初めてだった。
彼は必死に許しを乞うてきたが、僕はありったけの皮肉を添えて彼の謝罪を切り捨てた。彼は一瞬、殺さんばかりの形相で僕を睨みつけた。そんな表情を誰かから向けられたのは初めてだったので、僕はほんの少したじろいだ。だが、彼はそれに気づくことなく、何も言わないまま、僕の部屋から出ていった。
僕はろうそくを吹き消し、再び寝台に横たわった。毛布に繭のようにくるまると、両目から涙があふれだした。
僕はどうして泣いているんだろう。当然、大事なクジャクヤママユを失ったからだ。でも、本当にそれだけだろうか。僕は、何を失ったんだろう――嗚咽の合間にそんなことを考えながら、僕の意識はゆっくりと沈んでいった。
次の日、僕は級友たちに、不手際でクジャクヤママユが駄目になってしまったと話した。彼らは、ぜひとも見たかったのにと嘆き、僕らしからぬ失態に戸惑った様子だった。だがそれも一時のことで、しばらくすると彼らの興味は別のものへ移っていった。
そして、その日以来、彼を野山で見かけることはなくなった。遅刻することもなくなり、真面目に授業を受けるようになった。ほどなくして、彼が蝶の収集を一切やめて、標本もすべて捨ててしまったらしいという噂が聞こえてきた。級友たちが、あいつとうとう正気に返ったのかとか逆におかしくなってしまったのだとか好き勝手を言っているのを聞き流しながら、僕は教室の隅でぼんやり座っている彼を盗み見た。
彼は罪を犯した、言い逃れできないほど「正しくない」人間だ。彼の罪を糾弾し、正当な罰を与えることこそが「正しい」行いだ。そう考えながら、僕はそうしなかった。彼をかばうためでも、ましてや許すためでもない。僕はただ、逃げたかったのだ。
あの夜、僕はまぎれもない被害者で、彼は明らかな加害者だった。誰もが、僕が彼を非難するのは「正しい」ことだと思うだろう。けれども僕はあの時、「正しい」ことをしようと思ったわけではなかった。正しいとか正しくないとかいう基準から外れた場所にあるむきだしの感情――「彼に裏切られた」という気持ちにまかせて、僕は彼を言葉で刺したのだ。
思えば、彼に関わる時の僕は、いつも「正しい人」から遠ざかっていた。標本箱の中の蝶のように完璧な優等生ではいられなくなり、破れた翅で不格好に飛び回る、身も心も薄汚れた自分になってしまうのだ。そして、その先にはいつも彼がいた。僕よりはるかに劣っているはずの彼は、森の中では僕よりはるかに美しく羽ばたいていた。にもかかわらず、彼は自ら泥の中に墜ちていった。それらすべてが許せなくて、耐え難くて、そう感じる自分自身を認めたくなかった。だから、僕は彼との関わりを絶ち、自分が「正しい人」でいられる場所へと逃げ出したのだった。
結局、僕は逃げ切れなかった。「正しい」ままで生きることなど不可能だということを悟り、自分の中の「正しくない」ものを受け入れて飼いならすことを覚えた。世間ではそれを「大人になる」と呼ぶのかもしれない。
彼とは、学校を卒業してから顔を合わせていない。今では蝶への興味もすっかりなくなって、作りためた標本はほとんど全て人に譲ってしまった。
それでも、一つだけ手元に残したものがある。翅のもげたクジャクヤママユだ。痛々しくて不完全で、なのになぜかひきつけられる。そんなクジャクヤママユこそ、僕にとっての少年の日の思い出なのだ。
・コーディネーター
・アコード
これまでSEED世界は、ナチュラルとコーディネータの対立を描いていたが
「コーディネイターを超える新人類」として精神感応のような能力を有している
初見時には既存のコーディネータとも互いに感応し合っているニュータイプのような演出なのだが
つまり、コーディネータを管理するための存在として作られたのがアコード
で、「SEED FREEDOM」ではこのアコードの精神感応により事件が発生する
もうネタバレもなかろうと書くのだが
案の定、核が利用され
戦時中でもやらんだろう?みたいな事を容易くやってくるわけだ
あの世界の人ら、どっかネジが飛んでるよね
私はこう思っていたのだ
どうやるんだろうなぁとワクテカしていた
そしたら、そんなことしないのである
初手友軍攻撃を行ったキラを(表面上の)断罪も救済もしないまま
ラクスが「私はファウンデーション王国に与しない」(超意訳)と宣言するだけで
SEEDに何を期待してるんだ?
と言われればそれまでだが
粗すぎて醒めるんだよね
「言ったはずだぞ!戦争には明確な終わりのルールなどないと!戦うしかなかろう。互いに敵である限り!どちらかが滅びるまでな!」
違うよね?
降伏とかできるよね
その条件について話し合いができないだけだ
ラクスやキラが結成したコンパスが活動しているが世界は荒れたまま
↓
↓
↓
↓
↓
核が撃たれたから何でもアリだよね
↓
↓
↓
いやいやいやいや
つか、核撃たれたからレクイエムで反撃って国を好意的に受け入れる余地があるの?
結局力(レクイエム)で抑えつけるわけだけど
せめてもレクイエムをプラント最高評議会に撃たせて鎮圧するって茶番にしとけよ
3馬鹿を必ず毎回作って出すのはスポンサーに家族を人質に取られてるの?
途中でビッチがコロコロと鞍替えするのは何を表現したかったの?
ところどころ挿入されるファーストのパロすらノイズ過ぎて(それを意識させれて)イライラする
こんなに「not for me」を感じた作品も久しぶりだ
・ウクライナ侵略以降、もう古い左翼の言説に力は無いと散々指摘されてにも関わらず、同じ教条を唱え続けているところ
・上記に関連して、大衆を惹きつける新たな思想の提示ができていないどころか、むしろ大衆から嫌われる思想をアピールし続けているところ
・保守勢力の台頭に対し、まともに分析も対策もできず、仲間内で悪罵や厭世の言い合いに終始しているところ
・若い世代の左派が出てきたかと思えば、思想も手法も人脈も、旧来の悪い左翼の影響を抜け出せていないところ、っていうか限界左翼のマリオネットに見える
・革新勢力であるはずが変化を拒否し封建制みたいなピラミッドを構築してそのまま硬直したところ
多分、左派のボリュームゾーンである限界高齢世代が最後の一花を咲かせようとして無理をするから失敗が続いているのかもね。
あと単純に高齢者ばっかだからもう思想も手段もブラッシュアップできないんだろうね。
ウクライナ侵略直後は、これで日本の左派も淘汰が進んで多少はマシになるかなと少し期待したんだけど、全然そんなことはなかったね。
自民に入れたくないが左派政党にはもっと入れたくないって何回言われたら理解するんだよ。
こんだけ自民が支持落としてもお前達は選ばれない。
https://anond.hatelabo.jp/20230916195211
女はやさしさや思いやりといった(あえて言いますが)宿病をかかえています。それは先天的なものか、それとも後天的なものか、両方だろうか?とにかくフェミニストを自称する人たちすら、女性は優しくなければ、人の気持ちが分からなくてはという教条に縛られているので、そういう人たちと肩を並べて武力闘争が可能かどうかはあやしいものです。ねえ、やりすぎは良くないよやめよう、とお目目ウルウルのいい子ちゃんが必ずまざってしまい男たちはそのすきをついてくる気しかしません..
アライの悪口?
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20210810181919
https://web.archive.org/web/20210810225700/https://anond.hatelabo.jp/20210810181919
原著の刊行は71年、当時の部落解放同盟書記長の中山氏とともに長野県内の被差別部落の古老たちを訪れて聞きとり調査したもので、現代よりずっと差別が苛烈で激しかった時代や大正デモクラシーの波にのった解放運動の記憶もまだ生々しく覚えている人が多く、本当に大変貴重な証言ばかりだった。
(まず基礎知識ですけど、部落をよく知らない人はなんとなくイメージで、関西にしか無い、関東は関係ないと漠然と思っている人が多いみたいですが(私もそうでした)葬儀や処刑人、農村で使ってる牛馬の解体処理など死に関わる仕事(ケガレの仕事)全般を請け負っているので、基本的にどこにでもある(最北端は旧松前藩あたり、最南端は奄美大島らしい)。私も北海道には存在しないと思っていたが間違いのようです)(被差別部落の中でも同和事業を適用される同和指定地区をうけなかった地区も多いのがこのような認識を生んだ理由でしょうか)
この本はまず信仰の話から始まるんだけど極貧の生活のためか日頃より信仰心が篤いのに死んだら畜生と同じ埋葬方法で墓が作られても墓地の北側の日のあたんねえ所とか、雑で差別的な戒名つけられたり、それでも檀代は一般(部落外)より高い額ふんだくられてたりもうさんざんで、序盤からひどい話ばっかりなんだけどこのあともひどすぎてこれがジャブ程度に思えてくる。長野といえば教育県を掲げているけど部落民は一般と同じ学校に行かせてもらえない、行かせてもらえても徹底的なイジメが待っている、教師すら[チョオリッポをチョオリッポと呼んで何が悪い]と差別に荷担する。さらに生活苦ゆえに家の仕事を手伝わなくてはいけないといった理由も加わってまともに学校通った人の方が珍しくて、聞き取り対象の老人のなかにはいまだに文盲の者も少なくない。それから公衆浴場も別々で回り風呂といって運搬が可能なお風呂が部落じゅうを回ったりしてたらしい。ケガレの仕事だけでなく、今でいう巡査や牢屋の見張りのような危険な仕事を押し付けられたり、農家の手が足りないときだけ日雇い従事したり季節労働をやったり等収入が安定しない..
もう要するに公権力が徹底的にそうやって差をつけている。また、同じ人間であると思わせないためか、部落民は睾丸が四つある、あばらが足りない、血の色が違うなどいわれのない身体的特徴をでっちあげられてそれを理由に侮蔑される。今でこそ誰もが馬鹿馬鹿しいとわかるけどこんなことが真剣に信じられていたんである。
それから今でこそ同和事業で部落のインフラが整備されて、見かけは一般と変わらない町並みになり、住民の流出・流入が容易になり、その結果元々部落だったと知らずに引っ越してきてずっと知らない人などたくさんいるけど、明治の末ごろの話だけど比較的裕福だった部落の老人が一般の大通りに家を建てたら村じゅう大騒ぎになって、
村役場が主導して執拗な嫌がらせを開始。果ては物理的に家ぶっ壊されて(!)老人は訴訟をするけど村役場が殺し屋を差し向けてきたり費用の問題などで訴訟断念するしか無かったらしい。役人が殺し屋を雇う???????????????? ???????
明治といえばその初頭に四民平等令、部落解放令がやっと出た時代なのに..この解放令ってやつもうほっとんど意味なくて、差別は続いて、でも以前は免除されていた税金が一般と同じように徴収されるようになっていっそう生活が苦しくなっただけらしい..てかまじ、体制側が一市民に殺し屋を差し向けてくるとかまるでフィクションの話みたいであまりに信じがたくてここ読んだとき一日くらいずっとポカーンとしてた。殺し屋て…殺し屋て..明治の末とかって歴史上からみたらほとんど最近じゃん 最近の話じゃねえか ひでえやばすぎる。どーなってんのよ
どこそこの地域が部落みたいな程度の浅い知識ならネットでちょこっと調べれば出てくるけど、こういう具体的な差別事例ってこんなふうに本でも読んで能動的に調べないとわからないんだよね、、まぁこういう時代からは随分ましになったとはいえいまだに部落の人にたいして暴言吐く人、差別する人はゼロにはなってなくて、全然過去の問題じゃないんですけど、同じ部落の人のなかでも[部落問題を知ってほしい][寝た子を起こさないでほしい、学校なんかで教えるから差別が再生産されるんだ][もう差別なんかないんだからほっとくべきだ]とさまざまに意見が分かれていて人間だから当然と思う。
でも悲惨な歴史にふたをして忘却してしまうと過去の人々の苦しみまで無かったことになってしまわないか?というのと、現代の人間が過去から教訓を得られなくなってしまう、それと苦しみだけでなく部落にも豊かな文化と生活があり、(著者は部落の文化遺産と呼んでいたが)文化そのものも葬られてしまう。そういう理由から、現在の、部落の[ぶ]の字すら言ってはいけないようなタブーの空気はいやだなと思うので積極的に気軽に部落の話をするようにしてる。
でも後述するけどこのタブー化が差別の緩和に繋がったわけで、でもそれを加味してもやはりもうそろそろタブ一の段階は終わっていいだろうと思う。
私は部落民ではない女性なんで女性差別にしか興味がありません。主にどうして被差別部落がここまで差別を打破できたかの部分に興味があって調べておりその歴史に女性が差別に対抗するすべを学べないかとそう思い何年も前からあれこれ勉強しています。
はっきり申し上げておきますと部落差別より女性差別のほうがひどい。上記にあげたような苛烈な差別事例を知った上で言うことです。その理由のひとつに無徴の存在である部落民に対して女性は有徴の存在であり、部落差別から逃げるために素性を知られてない遠方に引っ越すという手段もあり実際多くの人がそうしていたようですが、女性が女性であることから逃げる手段は自殺しかありません。
(当然、無徴ゆえにだれも[被差別部落][部落民]とはなんなのかをはっきりと定義できないゆえに権力側に恣意的に身分を決められていた歴史もあるでしょう。それも知っています。でも、なお..なのです。ちなみに、部落民とは一般と先祖やルーツが違う別人種なのではと思う人もいるでしょうが、一般人でも部落民になったりするし、どうもそのへんあいまいというかはっきりしていないようです。本書には、とある部落民にむかって自分たちは先祖が同じだ]と言った一般民がいたという証言もあります。差別の根拠など全くないのです。さらに言うなら死にまつわる仕事がケガレというのも恐らく権力が恣意的に決めたことがし、ケガレの仕事ではない、たとえば内職などしかしない部落民も沢山あってケガレともイコールで結びつかないのです。)現在進行形でさ女は毎日女ってだけでなぐられ殺され犯されおとしめられてんだよ
家から一歩出るだけで醜いおっさんがジーロジロ品定めここから逃げる手段ないんすよ
女性の参政権だってGHQの鶴の一声であって日本の男はんなもん女に与えてくれたこと無いんですわ
すいません話それました!
国を動かしての解放令発布でもやむことがなかった差別が現在ここまで緩和されもはや部落問題を全く知らない人も多くなった、その主たる理由はやはり水平社(のちの部落解放同盟)の強硬な、時には暴力的な闘争姿勢によるものだったのではと思います。著者の柴田いわく、長野のなかでも東信地方は寒風が吹きつけてひどく底冷えがする地域で、昔から気骨のある男、気性の荒い男が多く、それが東信で水平運動がさかんだった理由ではないかと分析しています。逆に寒さがゆるやかな地域では[寝た子を起こすな]の論調が強かったり水平社よりも穏健だった同仁会がさかんだったらしい。でも同仁会も交渉の場では「水平社の連中よぶぞ]が殺し文句だったらしく虎の威を借りてたとか..そして水平社と同仁会、歴史に名を残したのはどちらかというともうこれは言うまでもありません。ふだんから竹槍の戦闘訓練も行い、武力闘争も召さなかった水平運動こそ歴史を変えた。彼らが起こした暴力事件の仔細はネットでも簡単に読めます。部落民は乱暴だ、奴らは犯罪者だといった風評も辞さない徹底的な闘争で、部落は怒らせると怖いと、部落がなんなのかよく知らない人すら何となく感じて、アンタッチャブルな話題だと感じる。タブーだと思う。その空気を牽引したのがテレビ等マスメディアの徹底的な自主規制でしょう。部落解放同盟ににらまれたら厄介だという理由で前述のように部落のぶの字も出さない、触らぬ神にたたりなし。先日もエタヒニンと発音しただけのアイドルが活動自粛に追い込まれたけどそういう過剰なまでの自主規制が、差別の存在そのものを透明化した。長い間メディアは頼まれてもないのに四本指の表現すら自主規制していた。
そのような、暴力や脅迫で勝ち取った自由の歴史を勉強していると、心底彼らがうらやましく、やっぱり権力もなにもあてにならずとにかく徹底的に相手に恐怖という根源的感情を植え付けて支配するしか対抗の方法は無いのかなと思ってしまう。なんだかわからないけど女性差別問題は怖いから少しでもセクハラと誤解される表現は自主規制しよう、万が一表に出てしまったら即座に責任者の首とばそう、そんなふうになってくれたらいいのにと夢見て泣きそうになります。
しかしながら水平運動に加わった男たちがそこまで暴れることができたのも男という性別ゆえかなと、同時に諦念を抱きます。
女はやさしさや思いやりといった(あえて言いますが)宿病をかかえています。それは先天的なものか、それとも後天的なものか、両方だろうか?とにかくフェミニストを自称する人たちすら、女性は優しくなければ、人の気持ちが分からなくてはという教条に縛られているので、そういう人たちと肩を並べて武力闘争が可能かどうかはあやしいものです。ねえ、やりすぎは良くないよやめよう、とお目目ウルウルのいい子ちゃんが必ずまざってしまい男たちはそのすきをついてくる気しかしません..
この本書のなかにはある村の一般の村長が出てきます。彼は比較的リベラルで、部落の子でも学校に入学できるようはからったとのこと。そのせいで彼は妻の実家の敷居をまたぐことを拒否されるなど反発され、水平社の者も彼のそのような行いを知っててもそれでもダメな所は徹底的に糾弾したので、「両方から突き上げ食らってもうさんざんだ]といったことを自嘲してるんですけど女性たちも同じように全く糾弾の手を緩めないってことが可能かと考えると難しい。
痴漢の手に安全ピンぶっさそうという(本来痴漢は殺されてもいいくらいなのだから穏当すぎるくらいなのに)呼び掛けにすらいい子ぶりっこがそういうのよくないよとたしなめるしまつ。
繰り返すけど殺されてもいいのに。
やさしさというのは女たちが生まれつき体に埋め込まれた起爆装置なのだろうか?差別に抗戦しようとした瞬間、それは作動し、女の体は爆発四散するのでしょうか?
この本の巻末、作者の生前の夫だった人による復刊によせての解説で言及されてた2014年の長野県連続差別事件がやばい。部落民の女性に対して、真ん前に引っ越してきた男が差別語連発で罵倒するのをやめない。裁判所から禁止令が出てもやめない。逮捕されても執行猶予で、けっきょく彼が万引きという別件で再逮捕され収監されるまでの2年間なにも解決しなかったそうです。
昔も今も権力なんてなんのあてにもならないどころか被差別階級にとっては敵でしかないんじゃないのとますます不信感がつのります。2014年とか最近じゃん昨日じゃんか
みんな本気で、ハッシュタグ(笑)だのツイッターデモ(笑)なんかで女の現状が救われるとおもってんのかな..こんなのなんにもならんってうすうす気づいてるんじゃないかな。男に殺される女が一人でも減るかそんなんでって思う。やってる感だけ得られたらいいんすか? けっきょくレベルを上げて物理で殴るしか無いんじゃないのか。それもわたし一人がやったところで社会的にインパクトないから組織だってやるしかないけど、以下ループ
水平運動の男たちは献身的に支えてくれる妻がいてそれで運動なりたってた部分でかいと思うけど女には妻おらんのですよな~
暴力ができないならせめて男がみんな自分に正直にホモ願望を解放してホモセックスし、抑圧している内的女性を現実の女性に投影するのをやめればミソジニー無くなって平和になると思うんですけど、でこう書けばホモは差別語だから差別はいけませんとかほざくぶりっこがフェミニズムの邪魔をしてくるのでもうどうしようも無いです! バーカ!ちんこ—
それで思い出したけど水平社=部落解放同盟は徹底したシングルイシューで在日朝鮮人を差別して反省しなかったり、男と女で日当に差をつけて差別してたという話も聞きます。イシューを抱え込まないことがやはり運動の成功の秘訣のひとつであったのかと感じますが女性は女性というだけでやはりシングルイシューではいけないといった脅迫をされます。色々な差別問題に敏感ではなければいけないような圧力にかかって、あらゆる差別に眉をひそめなきゃなんないあの感じ、全ての弱者のために涙しなきゃいけないような義務感、女だから聖母を求められてるんですよね。それもバーカ死ねでございます。女性差別以外知ったこっちゃねーでいいんだお
ところでこの本の作者柴田道子は童話作家で部落民じゃない一般です。長野市に引っ越してきて被差別部落と接触し、興味を持ち、この本を上梓したあとは狭山事件の被告のサポートに尽力、当該事件の本を執筆中わずか41歳の若さで急死したとか。
解説文でだんなさんが男社会のなかで女性としてうけていた差別があったから部落問題に熱心だったのでは的なことかいとるけどんじゃー女性差別問題に集中すればよかったのでは、女なら自分が当事者である女性差別問題に注力すればいいのに、しろよと思ったし、そうすべきだろがいすら思うんだが、そういった、正しくない女柴田の正しくない思いで発刊された、正しくない存在である力作のこの本によって後世の人間である私が歴史を知ることができたわけで、そしてこれは間違いなく後世に保存し読みつがれるべき大名著なんです!!!何が正しいか間違っているのか、どう思うべきか、どう行動すべきかって本当は一切なにもないのかもしれない。なのでフェミニストならこうすべきだ、こう思うべきだ、こう感じるべきだみたいな考えに固執している人はちょっと考え直したほうがいいな、正しいか間違ってるかなんて時代によって基準がぐにゃんぐにゃんで明日にでも真逆になるけど、なんか結果だけ見て、他人がジャッジしてもシャーナイつか、結局ね、なにかに汗かいて真剣にがんばったりさえして、懸命に生きさえすれば、それはもう…だれにも、文句は..まあいいや
左翼とか左派とかリベラルといった呼び名が表す範囲は人により時と場合により違う。ずっと混乱したままである。 思想的にどうのこうのと言い出したらもうなんだかわからない。わかりやすい共通点は、永きに渡り権力の中心に座るニッポンのエスタブリッシュメントを快く思わない、というかマジでむかつくという点だろう。だから反アベで最大の結束が見られた。 世間一般的にはだいたい次のような言葉遣いがなされている。 赤軍派とかしばき隊みたいな「正義のためなら実力行使も許される」→極左。和田春樹とか北守みたいな、最初から言うことが決まっている教条マシン→左翼。自民はNOだがどこの固定サポーターというわけではなく、選挙の時はいつもまあまあ困っている→リベラル。で、これらをひっくるめて「左派」。 (「リベラル」のこういう用法は一種の盗用ではある) (「左派」は総称じゃなくてマイルド左翼みたいな意味にも使われてますます紛ら
そもそも家父長制というのは一族を守る制度であり、先祖は子孫へと土地や資産を送り、子孫は墓地参詣により先祖を顕彰するという先祖と子孫のwin-winの制度だ。
この繰り返しで一族は資産を増やしていくんだが、極左の教条では資産家は打ち倒すべき古きものであるので、この家父長制を解体するべく様々な理論を構築した。
親世代の望みは「家を守れ=一族の繁栄に貢献せよ=財産を増やし子孫を育み墓を守れ」
こんな家系になんの価値もない、田舎の土地など要らん、子孫繁栄など知らん、墓守もやる気はない、俺の財産は残す気もないし子供に譲る気もないので生きてるうちに全部使い切ってやる、子孫繁栄の幸福など要らん、俺の幸せは俺が決めるというのであれば親の意向なんぞフル無視でいい。
一、尽量用物质来引诱和败坏他们的青年,鼓励他们藐视、鄙视、进一步公开反对他们原来怕受的思想教育,特别是共产主义教条。替他们制造对色情奔放的兴趣和机会,进而鼓励他们进行性滥交,让他们不以肤浅、虚荣为羞耻。一定要毁掉他们强调过的刻苦耐劳精神。
二、一定要尽可能,做好传播工作,包括电影、书籍、电视、无线电波······和新式的宗教传播。只要他们向往我们的衣、食、住、行、娱乐和教育方式,就是成功的一半。
三、一定要把他们青年的注意力,从以政府为中心的传统引开来。让他们头脑集中于:体育表演、色情书籍、享乐、游戏、性犯罪的电影,以有宗教迷信。
四、时常制造一些无事之事,让他们的人们公开讨论。这样就在他们的潜意识中种下了分裂的种子。特别要在他们的少数民族里找好机会,分裂他们的地区,分裂他们的民族,分裂他们的感情,在他们中间只在新仇旧恨,这时完全不能忽略的策略。
五、要不断制造消息,丑化他们的领导。我们的记者应该找机会采访他们,然后组织他们自己的言辞来攻击他们自己。
六、在任何情况下都要宣扬民主,一有机会,不管是大型小型,有形无形,都要抓紧发动民主运动。无论在什么场合,什么情况,我们都要对他们(政府)要求民主和人权。只要我们每一个人都不断的手同样的话,他们的人民就一定会相信我们说的是真理。我们抓住一个人是一个人,我们占住一个地盘是一个地盘。
七、要尽量鼓励他们(政府)花费,鼓励他们想我们借贷。这样我们就有十足的把握来摧毁他们的信用,使他们的货币贬值,通货膨胀。只要他们对物价失去了控制,他们在人们的心目中就会完全垮台。
八、要以我们的经济技术优势,有形无形地打击他们的工业。只要他们的工业。在不知不觉中瘫痪下去,我们就可以鼓励社会动乱。不过我们表明上非常慈爱地区帮助和援助他们,只要他们(政府)就显得疲软,一个疲软的政府,就会带来更大的动乱。
九、要利用所有的资源,甚至举手投足,一言一笑,都足以破坏他们的传统价值。我们要利用一切来毁灭他们的道德人心。摧毁他们的自尊自信的钥匙,就是尽量打击他们刻苦耐劳的精神。
十、暗地运送各种武器,装备他们的一切敌人一击肯能成为他们敌人的人们。
所有这些东西应该用巧妙的和不易察觉的方式加以培养,使之开出闲言的花朵。只有少数人才能猜测到或者甚至懂得正在发生什么事情,但是我们将设法使这些人处于无能为力的地位,使他们成为大众嘲笑的对象,我们一定能够找到诽谤他们和宣布他们成为社会渣滓的方法。——引自《战后国际关系原则》美国前忠言情报局局长艾伦·杜勒斯
我们要(他们)嘲笑诚实和正派,使之成为(社会主义国家)谁也不需要的愚蠢东西,成为过去时代的残余。要促使社会主义国家变成“粗野、撒谎、酗酒和吸毒的国家”要促使(他们)相互之间出于本能的猜疑,反复无常,民族主义和各族人民相互敌视,首先是对本国人民的敌视和仇恨等等。——引自《战后国际关系原则》美国前忠言情报局局长艾伦·杜勒斯
一、尽量用物质来引诱和败坏他们的青年,鼓励他们藐视、鄙视、进一步公开反对他们原来怕受的思想教育,特别是共产主义教条。替他们制造对色情奔放的兴趣和机会,进而鼓励他们进行性滥交,让他们不以肤浅、虚荣为羞耻。一定要毁掉他们强调过的刻苦耐劳精神。
二、一定要尽可能,做好传播工作,包括电影、书籍、电视、无线电波······和新式的宗教传播。只要他们向往我们的衣、食、住、行、娱乐和教育方式,就是成功的一半。
三、一定要把他们青年的注意力,从以政府为中心的传统引开来。让他们头脑集中于:体育表演、色情书籍、享乐、游戏、性犯罪的电影,以有宗教迷信。
四、时常制造一些无事之事,让他们的人们公开讨论。这样就在他们的潜意识中种下了分裂的种子。特别要在他们的少数民族里找好机会,分裂他们的地区,分裂他们的民族,分裂他们的感情,在他们中间只在新仇旧恨,这时完全不能忽略的策略。
五、要不断制造消息,丑化他们的领导。我们的记者应该找机会采访他们,然后组织他们自己的言辞来攻击他们自己。
六、在任何情况下都要宣扬民主,一有机会,不管是大型小型,有形无形,都要抓紧发动民主运动。无论在什么场合,什么情况,我们都要对他们(政府)要求民主和人权。只要我们每一个人都不断的手同样的话,他们的人民就一定会相信我们说的是真理。我们抓住一个人是一个人,我们占住一个地盘是一个地盘。
七、要尽量鼓励他们(政府)花费,鼓励他们想我们借贷。这样我们就有十足的把握来摧毁他们的信用,使他们的货币贬值,通货膨胀。只要他们对物价失去了控制,他们在人们的心目中就会完全垮台。
八、要以我们的经济技术优势,有形无形地打击他们的工业。只要他们的工业。在不知不觉中瘫痪下去,我们就可以鼓励社会动乱。不过我们表明上非常慈爱地区帮助和援助他们,只要他们(政府)就显得疲软,一个疲软的政府,就会带来更大的动乱。
九、要利用所有的资源,甚至举手投足,一言一笑,都足以破坏他们的传统价值。我们要利用一切来毁灭他们的道德人心。摧毁他们的自尊自信的钥匙,就是尽量打击他们刻苦耐劳的精神。
十、暗地运送各种武器,装备他们的一切敌人一击肯能成为他们敌人的人们。
所有这些东西应该用巧妙的和不易察觉的方式加以培养,使之开出闲言的花朵。只有少数人才能猜测到或者甚至懂得正在发生什么事情,但是我们将设法使这些人处于无能为力的地位,使他们成为大众嘲笑的对象,我们一定能够找到诽谤他们和宣布他们成为社会渣滓的方法。——引自《战后国际关系原则》美国前忠言情报局局长艾伦·杜勒斯
我们要(他们)嘲笑诚实和正派,使之成为(社会主义国家)谁也不需要的愚蠢东西,成为过去时代的残余。要促使社会主义国家变成“粗野、撒谎、酗酒和吸毒的国家”要促使(他们)相互之间出于本能的猜疑,反复无常,民族主义和各族人民相互敌视,首先是对本国人民的敌视和仇恨等等。——引自《战后国际关系原则》美国前忠言情报局局长艾伦·杜勒斯
在美国中央情报局极其机密的“行事手册”中,关于对付中华人民共和国的部分最初撰写于中美严重对立的1951年,以后随着中美关系的变化不断修改,至今共成十项,内部代号称为《十条诫令》。直到最近才被揭密。我们看完后简直大吃一惊!美国和平演变的阴谋太可怕了!
十条诫令转述如下
一、尽量用物质来引诱和败坏他们的青年,鼓励他们藐视、鄙视、进一步公开反对他们原来所受的思想教育,特别是共产主义教条。替他们制造对色情奔放的兴趣和机会,进而鼓励他们进行性的滥交。让他们不以肤浅、虚荣为羞耻。一定要毁掉他们强调过的刻苦耐劳精神。
二、一定要尽一切可能,做好传播工作,包括电影、书籍、电视、无线电波……和新式的宗教传播。只要他们向往我们的衣、食、住、行、娱乐和教育的方式,就是成功的一半。
三、一定要把他们青年的注意力,从以政府为中心的传统引开来。让他们的头脑集中于:体育表演、色情书籍、享乐、游戏、犯罪性的电影,以及宗教迷信。
四、时常制造一些无事之事,让他们的人民公开讨论。这样就在他们的潜意识中种下了分裂的种子。特别要在他们的少数民族里找好机会,分裂他们地区,分裂他们的民族,分裂他们的感情,在他们之间制造新仇旧恨,这是完全不能忽视的策略。
五、要不断制造消息,丑化他们的领导。我们的记者应该找机会采访他们,然后组织他们自己的言辞来攻击他们自己。
六、在任何情况下都要宣扬民主。一有机会,不管是大型小型,有形无形,都要抓紧发动民主运动。无论在什么场合,什么情况下,我们都要不断对他们(政府)要求民主和人权。只要我们每一个人都不断地说同样的话,他们的人民就一定会相信我们所说的是真理。我们抓住一个人是一个人,我们占住一个地盘是一个地盘。
七、要尽量鼓励他们(政府)花费,鼓励他们向我们借贷。这样我们就有十足的把握来摧毁他们的信用,使他们的货币贬值,通货膨胀。只要他们对物价失去了控制,他们在人民心目中就会完全垮台。
八、要以我们的经济和技术优势,有形无形地打击他们的工业。只要他们的工业在不知不觉中瘫痪下去,我们就可以鼓励社会动乱。不过我们必须表面上非常慈爱地去帮助和援助他们,这样他们(政府)就显得疲软。一个疲软的政府,就会带来更大的动乱。
九、要利用所有的资源,甚至举手投足,一言一笑,都足以破坏他们的传统价值。我们要利用一切来毁灭他们的道德人心。摧毁他们的自尊自信的钥匙,就是尽量打击他们刻苦耐劳的精神。
十、暗地运送各种武器,装备他们的一切敌人,以及可能成为他们敌人的人们。
美国尼克松总统写下这样一本书《不战而胜》,理论来自中国的孙子兵法。
他在书中,这样说:"当有一天,中国的年轻人,已经不再相信,他们老祖宗的教导和他们的传统文化,我们美国人,就不战而胜了……”
美国在预谋,和平演变中国。他们没动一抢一炮,只用了中国老祖宗的智慧,就想把我们打败。冷静想想,他们教会我们性解放,他们却在反对堕胎。他们让中国人,丧失了家庭责任,但是他们强调一夫一妻,伦理道德。堂堂的美国总统克林顿,他只有一个外遇,都要遭到严厉的弹劾,这说明什么?他们让中国孩子,很快进入了电子时代,我们的父母措手不及,立刻变成文盲。独生子女们,不用辛苦赚钱,就能活的潇洒自由。他们穿名牌,吃饭店,睡酒店,除了朋友,谁都不需要。
毛泽东早就预料到了美国会有此意图,在《毛主席语录》中他曾说过:我们取得了胜利,但是我们不能骄傲。因为胜利,资产阶级也有可能出来捧场。事实证明敌人的武力不能征服我们,有些同志不曾被带枪的敌人征服,他们在敌人面前不愧英雄的称号;但是他们经不起人们糖衣炮弹的攻击,他们在糖弹面前会打败仗。
これまで見たフェミニストを自称している人の中でもここまで潔い人はそう見た事が無くて好感が持てる
はっきり申し上げておきますと部落差別より女性差別のほうがひどい。上記にあげたような苛烈な差別事例を知った上で言うことです。その理由のひとつに無徴の存在である部落民に対して女性は有徴の存在であり、部落差別から逃げるために素性を知られてない遠方に引っ越すという手段もあり実際多くの人がそうしていたようですが、女性が女性であることから逃げる手段は自殺しかありません。
男性は男性性から降りていい~とかそんなに男が嫌なら性転換手術でもすればいいのでは?みたいな無茶振りする人を比べたら大分潔い
女性は女性である事から逃げられないけど男性はいつでも逃げられるじゃんってスタンスなら知らないけど
これも偽善者にルッキズムだエイジズムだ言われそうだけどまあ女性から見たら醜いおっさんってはっきり言って死んでほしい存在だよね
なんだかわからないけど女性差別問題は怖いから少しでもセクハラと誤解される表現は自主規制しよう、万が一表に出てしまったら即座に責任者の首とばそう、そんなふうになってくれたらいいのにと夢見て泣きそうになります。
近年フェミニズムの影響で少しずつそう変わりつつあるのでフェミニズムは成功していますね。
女はやさしさや思いやりといった(あえて言いますが)宿病をかかえています。それは先天的なものか、それとも後天的なものか、両方だろうか?とにかくフェミニストを自称する人たちすら、女性は優しくなければ、人の気持ちが分からなくてはという教条に縛られているので、そういう人たちと肩を並べて武力闘争が可能かどうかはあやしいものです。ねえ、やりすぎは良くないよやめよう、とお目目ウルウルのいい子ちゃんが必ずまざってしまい男たちはそのすきをついてくる気しかしません.
やさしさというのは女たちが生まれつき体に埋め込まれた起爆装置なのだろうか?差別に抗戦しようとした瞬間、それは作動し、女の体は爆発四散するのでしょうか?
「フェミニストはありとあらゆる差別と戦い弱者に救いの手を差し伸べる庇護者である」みたいなスタンスを表明しているせいで足元を掬われている活動家の人は少なくありませんね。
これが貴方のように「女性差別問題以外には興味ねえんだよ!」と割り切ればそうはならないのに、今度は同胞である女性からも差別主義者とかエゴイストだの言われるのが辛い所というか。
それで思い出したけど水平社=部落解放同盟は徹底したシングルイシューで在日朝鮮人を差別して反省しなかったり、男と女で日当に差をつけて差別してたという話も聞きます。イシューを抱え込まないことがやはり運動の成功の秘訣のひとつであったのかと感じますが女性は女性というだけでやはりシングルイシューではいけないといった脅迫をされます。色々な差別問題に敏感ではなければいけないような圧力にかかって、あらゆる差別に眉をひそめなきゃなんないあの感じ、全ての弱者のために涙しなきゃいけないような義務感、女だから聖母を求められてるんですよね。それもバーカ死ねでございます。女性差別以外知ったこっちゃねーでいいんだお
フェミニズムがLGBTとくっついたのは良くなかったと思いますね。そのせいで変態男を女子トイレや女性更衣室に入れて良いか否かというどうでも良い事でもフェミニスト同士が争う事になってますし。
実際黎明期のフェミニストというのは女性差別以外はどうでもいいと思っていたから成功した所はあると思うんですよ。昔の女性解放運動の先導者が黒人差別はいけない黒人にも自由を!なんて言ってたと思います?
解説文でだんなさんが男社会のなかで女性としてうけていた差別があったから部落問題に熱心だったのでは的なことかいとるけどんじゃー女性差別問題に集中すればよかったのでは、女なら自分が当事者である女性差別問題に注力すればいいのに、しろよと思ったし、そうすべきだろがいすら思うんだが、そういった、正しくない女柴田の正しくない思いで発刊された、正しくない存在である力作のこの本によって後世の人間である私が歴史を知ることができたわけで、そしてこれは間違いなく後世に保存し読みつがれるべき大名著なんです!!!
アンビバレンツな感覚分かります。柴田氏は差別される部落民に女性というだけで差別される自分を重ねて共感したのが行動力の源だったんでしょうけど、部落なんてどうでも良いから女性のために動くべきだったんです。
今現在フェミニストを自称している人間達は女性だけでなく男性や性的少数派も救う!と聖女ぶっているのが各所で嫌われている一番の理由ではないかと、本当にそう思います。
ところで今更なんですが、元増田さんの文章は女性にありがちな「自分を良く見せよう、常に綺麗でありたい、加害者になるなんて絶対に有り得ない」という女性ならではの意思が見られないんですが、ひょっとして男性だったりします?
じゃなくてさ・・。
キミ話し聞いてないでしょ。
あれを武術家の代表として扱っていつまでもやり玉に挙げてんの君等みたいな奴らでしょ。
まあそれにしたって術理とか使える部分に関しては公開してほしいけどね。
要するに競技の場に出したら使えんかもしれんが、競技をやってるやつが参考にするならいいものだってある。
残念だけど武術家って偽物が圧倒多数なので叩かれるのもわかるよ?
ただ良いものは取り入れたら良いだけ。
それとオウムのことに関してごちゃごちゃ言ってるけど、あれだって部分的にクムパク(クンバク)とか正しい呼吸法を取り入れてたりする。
そういう意味で被害を被ったのはむしろ仏教というよりヒンディだろうね。
教条に関しては詳しくないが、上座部仏教を目指してたようにも思う。
君は1間違ってたら全部間違いなわけだ。
おれはとてもそこまで断ずることはできない。
仰りたいことはよく分かりました。
おそらく反論しても平行線だろうと思いますので、それは控えます。
あなたに対する反論ではない部分については、やはり私が看過できないと感じたのは氏に対する一部の、批判の言葉遣いです。
あの連ツイから「ミソジニーを垂れ流している」「女性蔑視発言である」と断言するなら、やはりそれは誹謗中傷だろうと。そこだけですね。
それらの批判は、ジェンダー論の教条性というか、もはや不正義、アンフェアとも言ってよい側面を露呈してしまっている。
「その女性がキャリア志向であったかについては、ジェンダー不平等の観点から保留すべきだったのではないか」というトーンの批判が大半を占めていたら、私も増田に長文をものすようなことはなかったと思います(そこで氏の目を曇らせてしまっているのが、まさに富裕層へのルサンチマンなのだと思いますが)。
もちろん一般的にミソジニーや女性蔑視の存在を認めないというのではありません。例えば先日の中世史研究者の件については、まさにミソジニー/女性嫌悪に基づく、事実に基づかぬ誹謗中傷があったと思います。
話は変わるのですが、なんとなく共有したいなと思ったのですが、今回本件に絡むブックマークコメントを眺めていて気になったことがあります。
それまでジェンダーに関する問題について、毎回フェミニズムの論理でかなり強いコメントを寄せていた方が、今回は完全にオッカム氏の擁護に回っていました。同様の方が、他にも数名散見されたように思います。
その方らがなぜ氏の擁護に回ったのか、コメントから察するに、本人の現況と合わせて氏の「衝撃と畏怖」の方により強い共感を示されていたものと思われます。
で、私も最初から感じていたことですが、今回の件は「階級」と「ジェンダー」がかなり鋭く対立する案件だったのでしょう。氏が繰り返している「衝撃と畏怖」というのは、階級の話ですよね。
ジェンダー的に見逃せない観点が一方にあるとしても、同じようにというか、少なくともオッカム氏ら本人は大変切実な問題として、地域差などから派生する「格差」を実存的問題として抱えている。
(確かにそれを語る時に、人文系の学者として、それこそ言葉遣いに気を付けるべきというのはその通りだと思います)
ただ当人たちからすればそこは無視できないし、おそらくジェンダー的な問題を回避して、そのことに触れるのは難しいのだろうと思います。
欧米のパワーカップルの問題は、階級やエスニシティの面から、例えば代理母や移民メイドという形でフェミニズムでも古くから問題とされてきましたよね。
この話もいくつかの段階があると思う。
① 電動車椅子ユーザーが、どの駅でも自由に乗り降りしたいと思うのは妥当か?
③ 妥当でない②の作業を、法律に「合理的配慮」があることを根拠として行わせることは妥当か?
→これは実際に体を張る労働者の立場とそうした経験のない立場とで意見が分かれそうなところ。
個人的には、今回の状況であれば、法的な義務はないけど本来あってほしい設備がないからって、その代償として危険な作業をさせることが「合理的配慮」だとは思わないが…
中には、「経営者が設備を設けていないのが原因だから、危険な作業を行わされた人が経営者の責任を問うべき、行わせた人は悪くない」という意見もあるが、それはテロリズムではないか?
④ ③の顛末を「成果」として、それも模倣を期待して手法等を細かに公表することは妥当か?
→そういうことを行うこともあるだろうし、まあまあ妥当なのかな…
⑤ ④は、『共感』を得られるか?
細やかに経緯や手法を公表する以上、その目的は共感を得て世論の支持を受けることだろうが、共感するかどうかを決めるのは記事に触れた人それぞれであり、教条を掲げて左右できることではない。
昔だったら知らず、2021年の社会においては、どうやら今回のようなやり方は共感より反発が大きかった。
今や、「カスハラ」なんて言葉が生まれるようなモンスタークレーマーの存在や、公務員批判の結果として行政機構が疲弊し災害対応も学校教育もままならなくなったことが社会に知られるようになった。
国力も衰退し、災害のたびに廃線が増えるの見て、鉄道も維持が難しくなっていると知られている。
「全力で敵を批判してれば後は自然になんとかなる」と都合良くはいかないらしい、社会の構成員としてそれでは不味いらしい、という認識が広まったのではないかと思う。今回の場合に直接当てはまるかは別として、社会にそうした流れがあるとしたら、共感を得るには流れを踏まえる必要があるだろう。
⑥ ③について反発があったとして、批判するのは避けるべきなのか
→政治家が政治活動として、明確な意志をもって、電動車椅子ユーザーを代表して③を行った以上、その結果得られる共感も反発も、その政治家が引き受けざるを得ないと考えるのが妥当ではないか。もちろん脅迫的なのは即警察案件だ。
差別がいけないのは何故か?それは、しばしば自分ではどうにもならないない、若しくは法外な努力によってしか脱出できない属性を根拠にして、その属性にある事が人格否定にまで結びつけられると人は深く傷ついてしまうから、それを防ぐために差別をしないように心掛けるべきというのが理由だと思う。
差別はいけないことを教条化して人を傷つけて憚らない反差別主義者は手段と目的を顛倒させている。学歴の低い人間は教養が低く差別的言動をすることが多いというのが例え傾向として事実だとしても、それを公言して憚らなければ、学歴が低くても人を思いやり差別的言動を慎もうと努力している人までも巻き込んで、人を深く傷つけてしまう。これは差別の構造そのもので反差別の考え方が目指す方向性に逆行している