はてなキーワード: 開き直りとは
タイトルで強めの言葉を使ったが、少なくとも発表方法や文章を読む限りはそうだ。
発表媒体がnoteというソーシャルかつ個人的なメディアであり、文責も個人のものになっている。
いわゆる士業や広報チェックを通した文章ではない(もしくは彼らが仕事をできていない)状態だと読み取れる。
https://megalodon.jp/2025-0121-2323-06/https://note.com:443/te_nakashima/n/neaad60407541
(パワーハラスメントは、"ハラスメント"という言葉が入る為、今回は省く)
まず全体的に大きな問題点として、中島哲也氏が権力を持つ側としての振る舞いに未だ無頓着であることが見える。
彼の言葉は基本的に「お客様」としての立場から発せられている。
全体としてこういった意識がずっと薄っすらと漂っており、率直に言えば当事者意識に欠けている。
「私はその事実を撮影当日まで把握することが出来ませんでした」とか「オーディション参加者が、私の要望を理解しているか、確認していませんでした」と言った、自らの責任において把握することが出来なかった、確認していなかった、だから問題が起きてしまった、という文になっていない。
(現代の映画撮影において、監督はそれを把握や確認できないのであれば、それをすべきであった役割のある人物に責があるもしくは、そういった役割が存在しない映画撮影システム全体の責任であり、それに触れていない)
この当事者意識の欠如が、権力を持つ側としての意識に無自覚であると、続く問題点に繋がる。
認識違いや連絡の行き違い、相手の心中を推し量ることが難しいのは、集団で何かを行えば必然起きうる。
どんな場所でも(無いに越したことはないが)すれ違いは起きる。
「編集時にA子さん本人にも参加してもらい不都合な部分をカットする」と私が提案(すでにA子さんで数シーン撮影済みであったためです。)して、A子さんにもそのことを納得してもらい
カッコ内が典型的だが、「(すでにA子さんで数シーン撮影済みであったためです。)」というのは、A子さんからすれば何の関係もない話であり、筋論で言えば「すでにA子さんで数シーン撮影済みであったが、即座に廃棄し、撮りなおしを行うために話し合いを持った」となるべきである。
「映画撮影のスケジュールが」 「たくさんの人員が動いていて」 「既にコストをかけてしまっており」などは、「だからお前が折れれば丸く収まるんだ」とAV撮影などでも使われる常套句であり、「数シーン撮影済みだったからなんだ」と聞かれた時に答えられなくなるこのカッコ内の文言は絶対に抜かなければならないので、ここだけを見てもまともな士業がチェックをしていないことが分かる。
さて、ここでの問題は「編集時にA子さん本人にも参加してもらい不都合な部分をカットする」という約束である。
彼はこれを破り、それに対して自責の念持っていない。無頓着である。
私がA子さんを編集室に呼ばなかったのは事実です。1シーンといえど編集には長い時間がかかりますし却って迷惑をかけるかもしれないと思い、問題となったシーンのワーク編集を終えたテープをA子さんにチェックしてもらい意見を聞いて修正を行えば良いと考えました。今から思えば、ちゃんと編集室に来てもらった方が、このような行き違いはなかったのかもしれませんが。
彼が約束を守らなかった、彼が勝手に約束の内容を自分の考えで変更した、A子さんに変更して良いか了承を取らなかった、今もそれを問題視していない、という点がこの文章から読み取れる。
行き違いは無かったのかもしれませんが、というのも他人事である。まったく当事者意識に欠けている。反省の色が見えない。
彼がこの経験から学ぶべきなのは「他人との約束を破らない。勝手に変更しない。変更する際には相手の了解を取る」というごく当たり前のことだ。
もしかしたらそれが出来ない環境だったのかもしれないが、少なくとも問題視していなければ改善はできない。
「そんな人間が監督などするな」と言われればその通りですし、反論の余地はありません。さらに、俳優にとって多大なリスクを伴うこのようなシーンの撮影にあたり、事前に監督である私がA子さんと直接話し合う機会を持たなかったことがこのような事態を引き起こした大きな要因であると、私は認めざるを得ません。
見当違いの認識であり、自責の念はあり謝罪の言葉はあるが、おそらく学ぶべきことを学ばなかったのだろうという感想にしかならない。
権力勾配がある監督と俳優とが率直に話し合えたとして、結局監督は後で約束を自分の考えで変更するのだから無駄である。
彼は監督業を止めるつもりはない。実際に今回も監督を務めているし、おそらく今後も監督業を行おうとしているのだと思う。
才能ある映画監督なのだろうし、実績があり、待望され、そして今後も要望されるだろう立場であるにしては言葉が軽い。
「 「「「「そんな人間が監督などするな」と言われればその通りですし、反論の余地はありません。だから私は監督業を廃業いたします 」以外の言葉は、欺瞞である。そうでないのだから「そんな人間が監督などするな、とは言わないだろう?」という文意になっている。
つまり、完璧を求められてもできない、私は完璧では無いからだ、という開き直りでしかない。
個別具体的に、「監督と俳優と言う、対等とは言えない立場で、配慮すべきを怠った」でもなければ「監督が一度した約束を破り、編集時にA子さん本人にも参加してもらい不都合な部分をカットするという行為が出来なかったことが問題だった」でもない。
認めたくないのかもしれないが、自分で提案した約束すら守れない監督であり、それを今も問題だと認識できていない、そしてそれを指摘もしくは修正してくれる人物がいない、という事実を残念ながら示している。
人間には得手不得手があり、完璧な人間だけが監督をするのではないが、問題を認識できなければ改善はされない。
この問題は制作体制をなるべくシンプルなものに改善し、かつインティマシーコーディネーターに入ってもらい両者の立場を尊重し丁寧に伝え合うことで、完全とは言えぬまでも多くの部分が改善されたように思います。
インティマシーコーディネーターを起用したのだろうし、制作体制をなるべくシンプルなものにもしただろうと思う。
「その結果、俳優からは意に沿わない演出を強要されたなどの話を聞くことがなく、安堵しました」ではないところに問題がある。
彼はいつまでもお客様であり、私は改善されたと思う、今後も努力していきます、としか言っていない。
改善策が有効に機能しているのか、それがちゃんと俳優まで届いたのかの確認をした、と報告できていない。
あれだけA子さんとすれ違いがあった結果で関係各所に多大な迷惑をかけたと認識してなお、俳優とすれ違いが無いか確認する体制を作れないところに問題がある。正確に言えば、そういった課題認識ができないところに問題がある。
稀有な才能を持つ映画監督が、独りであり、誰も問題点を指摘できないのは大変に残念に思う。
感情的になった両者のうち一方の物言いが偏ったり問題点を網羅できずとも仕方がない。
問題は、「私はこう約束した」と書き、「私はその約束を実行しなかった」と書き、「週刊誌の記事で初めて知り、本当に驚きました」と書いてしまうところにある。驚くのではなく青ざめなければならないし、詰問する相手がいるはずだし、即座に謝罪しなければならない相手がいたはずだ。
でもそうはならなかったし、今もそう思っていない。
彼は今後も、伝え、思い、考え、そして驚くと思う。
自分のした約束を守り、約束が実行されたか自ら確認し、相手がその対応に満足しているか確かめることは無いだろう。
なぜならば監督は一俳優に対してそんなことはしないからだ。それが権力勾配であることにも無頓着なままだろう。
本当に残念だ。
アニメや漫画を原作にしたゲームが、キャラクター自体の魅力込みなら良作だけど、純粋にゲーム性だけで評価したら駄作に片足突っ込んでるような感じの立ち位置だな。
まあ「悪魔の科学者オッペンハイマーに唆かされてアメリカは原爆を作らされてしまった。そして、ロシアとアメリカの冷戦が始まった。マッドサイエンティストと共産主義者が世界に破滅の種を埋めたのだ。なんて可愛そうなアメリカ。゚(゚´Д`゚)゚。」というプロパガンダ映画でしかないんだよな結局は。
世界大戦時代のプロパガンダ映画風な画作りを意識してる所に開き直りっぷりを感じるのはだいぶ面白いけど、ゆーて映像作品として素晴らしい発明が有るかと言えば皆無なわけで。
娯楽映画としては三流、ノンフィクションとしては二流、話題性は超一流、まあインプレゾンビ溢れる2020年代って感じの映画だな。時代に合ってると思うよ。
私の時代から一世紀以上を経たこの地上に舞い戻り、「弱者男性」「強者男性」という言葉が流行っていると聞いた。どうやら“弱い”と“強い”の二元論で男の価値が安易に測られ、その一方で人々は皆、自らがどちらに属するかに怯え、もしくは誇らしげに語っているらしい。だが諸君、それが本質的な人間の力の在り方を示していると本気で信じるのか?
私はこう問う。「弱者男性」「強者男性」という区分は果たして誰のためにあるのか、と。もしそれがただ社会の視線や他者の評価から与えられ、個々人がそれに媚びたり振り回されたりするだけなのであれば、それは“価値の奴隷化”の証でしかない。人が自分で自分の価値を創造するのではなく、他者にゆだねているのであれば、それは私が『道徳の系譜』で指摘した“奴隷道徳”の時代が形を変えて続いているにすぎないのだ。
では私が現代の諸君にあてて、「弱者男性」「強者男性」という言葉を再定義するとしたらどうなるか? 私は「弱者男性」という呼び名を「自己否定の迷宮に囚われた者」、そして「強者男性」という呼び名を「自己創造の悦びを知る者」と呼び替えたい。
いわゆる弱さを抱えている――それは悪いことではない。むしろ人間誰しもが不安や恐怖に襲われ、失敗し、弱さを自覚する瞬間がある。それ自体は自然だ。だが問題は、そこから抜け出せずに自己否定の淵に沈んでしまい、「自分はどうせ弱者だ」と開き直り、あるいは周囲の同情や嘲笑に身を委ねてしまうことだ。
“弱さ”をアイデンティティにしてしまう者は、自らを狭い牢獄に閉じ込める。ここで私が言う“弱さ”とは、他人によって規定された評価や属性に自分でとどまり、みずからの可能性を放棄してしまう心理状態を指す。諸君、他人の期待や既存の価値観に絡めとられてはならない。
世間でいう“強さ”とは、権力や金、あるいは身体的な力で他者を支配することだと思われているかもしれない。だが私に言わせれば、それは浅い理解にすぎぬ。真の“強さ”とは何か? ――それは、自らの弱さをも肯定し、それを力へと転じるための創造的エネルギーをもつ者のことだ。
「自分はどうありたいのか?」「何を生み出したいのか?」――この問いに対して他人からの評価に惑わされることなく、自分の意志に基づいて行動し、生きる歓びを“新たな価値”として打ち立てられる者。自らの軸をもって世界に挑戦し、困難や苦しみによって磨かれながら高みに至ろうとする者。それこそが、“自己創造の悦びを知る強き存在”なのだ。
私は「力への意志」という言葉を残したが、それは単純な“他者への支配衝動”ではない。人間存在そのものが自己を拡張し、高め、価値を生み出そうとする根源的な力のことを指している。自分という存在を創造するために、時にこれまでの自分を壊すことも必要だ。たとえ社会に認められなくとも、自分の歩む道を新たにデザインし、己の生を音楽のように奏でることができる者こそが、私の言う“真の強者”である。
「弱者男性」「強者男性」といった言葉を、社会のラベリングとして機械的に受け取ることはやめ、各々が“弱さ”や“強さ”を自分で再解釈してほしい。そして自分の内奥にある意志を見つめ、何を創り出したいのかを問い直してほしい。
名声や金や地位を求めるもよし、家族や仲間と幸福を築くもよし。ただし重要なのは、そこに自らの意思が宿っているかどうかだ。他人の期待や世間の評価に引きずられるままに生きてはならない。己の足で立ち、新たな価値を見出すことを忘れてはならない。
さあ、諸君。今こそ“自己否定の迷宮”を抜け出し、“自己創造の悦び”へと飛び込むのだ。激しい葛藤や痛みから逃れず、それを通してこそ自分が研ぎ澄まされる。その先にある高みを目指す諸君の姿こそが、私の望む“人間の未来”の一端であると信じているのだ。
文学部になんか行くな、勉強しても報われないぞって初めから言え
https://anond.hatelabo.jp/20220114133403
の筆者です。三年後の現状を追記。
当時叱ってくれた人、励ましてくれた人には心から感謝しています。
当時たくさんの方からいただいたアドバイスを元に、学部四年生ながらにできることはたくさんやってみました。手遅れ感はすごかったけど、もうこのまま色々なことから逃げてはいけないと思ったので勢いだけはあった。
・教職を取る
・ボランティアに参加する
・長期インターンで働く
・バイトをする
・心理学の本を読む
教職はめちゃくちゃ大変だった。大学四年生にもなって(しかもあそぶんがくぶ)、教職=専門科目+教職科目で時間割はいっぱい。毎日朝9時から夜8時まで授業が詰まっていて、土日も現職教員が教えてくれる授業に出ていった。
ヒーヒー言いながら頑張ったが、教職はとてもいい人間関係のリハビリにもなった。教職科目には大体グループ活動があるから、強制的に人と話さなければならない。四年生という引け目がないわけではなかったが、もうそんなことは言ってられないので自分なりに必死で喋りました。幼稚園児ですかねマジで。
バイトは販売。これがまあ、コミュ障の俺にとっては試練だった。仕事も覚えられないし、勉強しかできない自分の無能さを思い知った。
心理学の本を読むのも、コメントでアドバイスしてもらったことだ。アドラーや加藤諦三を読んだ。今となっては極端な自責に繋がりかねない書籍のような気もするが、でも他責クソ野郎の俺には根本的な考え方を改めるのにとても役だった。
とにかく反省を活かそうと、いただいたアドバイスを元にたくさん行動してみた四年生だった。
あれだけけなしていた文学分野でアカデミアに進むというのは、当時呪詛を吐きまくっていた俺を知る人からすれば晴天の霹靂というか、お前全然教訓活かせてねえじゃんアホかという感じだろうか。
でも行動してみて、色々考え方も変わった上での決断だ。理由はいくつかある。思いつく三つを挙げておく。
第一に、企業勤めをするのが俺にとって、社会にとって良いとは限らない気がしたこと。
研究とお勉強は違うが、それでも俺は昔から学ぶことばかりしてきた身だ。しかも、我儘を言って実学ではない分野で学ばせてもらった。
ならば、急カーブで別分野に就職するよりも、過去を活かして学びの分野にとどまり続けることの方が、俺にとっても社会にとってもいい結果になりうるんじゃないかと思った。
これだけ親から投資を受けて学ばせてもらったのだ。ならばそのまま学問を追求し続けることもあながち無駄ではないだろうう。
文学研究が分かりやすく社会に実利をもたらす行為だとは思わない。でも、俺が過去に培ってきたことを活かすという点においては、アカデミアも立派な将来の選択肢になるはずだ。それがお先真っ暗であろうと。
またバイトとインターンをして思ったが、俺は実務ができない典型的な(?)勉強バカだと思う。必死でメモをとってそれをマニュアル化し、いちいち参照しないと仕事ができない。自作マニュアルを参照してもノロいし、小回りが利かないから役に立たない。試験はあれだけホイホイできるのに、真面目に働こうとしてもなぜダメダメなまま成長しないのか。応用が効かないわ怒られるわヘマするわ、周りの社員にも「こいつ○○大なのにこれかよ」って思われてた気がする。
こんな俺なので、社会に出て企業勤めしたところであまり役に立てないように思う。
第二に、クソ大変だったが何とか教員免許を取得したので、博士課程に進んで落伍してもまだ道はあるだろうということ(現代日本は教員不足だから)。
学んだことを活かせる仕事に就ける保険があるのは、かなり心強い。
第三に、やっぱり文学が好きだった。
文学ができることの一つに、「目に見えないものを表現できる」というのがあると思う。
俺という人間は、履歴書に書けば「文学部修士二年生」というただの一身分しか持ち合わせていない。
だけど、その称号の裏には「文学部生という経歴によって就活が台無しになったと思ったが、己の他責思考や逃避癖や高すぎるプライドが原因で先延ばしにしていた挫折を一気に食らっただけだった」という物語があるわけで、この物語の前にも途中にも後にも色んな感情が存在している。焦り、恐怖、驕り、不安、自己陶酔、万能感、劣等感、諦め。
こういった説明し尽くせない心持ちを表現するのが芸術で、その一分野が文学ではないか。
不要だと切り捨てられかねない人間の心情や葛藤や倒錯が好きだ。それを内包する表現形式を、文学をもう少し研究してみたいと卒論を書きながらそう思った。
そして二年たっても「もうちょっと研究したい」が終わらず、このまま博士課程に進むことに決めた。
修士一年のときに父が先立ち、一人親になった。親類も一人亡くなって経済的にかなり困窮している。
博士課程からの奨学金にはなんとか内定したが、それでも母を安心させてあげられなくて申し訳ないと思う。奨学金なんて、人間一人がギリギリ生活する分しか出ないから。
でももう、この先文学やった結果路上で野垂れ死んでも構わない気がしている。俺は元々がクソ性根人間だし、社会の役に立とうとすること自体が思い違いかもしれん。実利や効率とはまるで関係のない文学と数年を共にしただけで御の字だ。どうせこのまま運良くアカデミアに留まれたところで40になっても低収入だろうが、それでももう構わん。
最初は「文学部に行っても報われない」と書いたが、本当は誰に報われなくてもいいということにやっと気づいた。
これが最後の報告になると思います。この先アカデミアに残れずにお先真っ暗になっても、研究職を諦めて教職についても、どうせ俺は社会的無能ですすいませんと開き直りながら生きていきたい。
誰かこれを読む人がいるんだろうか。もしいるならば、当時叱責や励ましの言葉をくれた人に、心からありがとうと伝えたい。変な方向に開き直った感じがしないでもないが、あなたたちのおかげで色んな経験を積めたし、少し変われたと思う。
何より、人と関わることを億劫だと思わなくなったし、怖くて不安でも行動してみる習慣がついた。貴重な教えをくれて感謝しています。
俺は変わらず役立たずとして生きていきます。どうかお元気で。
なんかブクマの人気コメ欄を見てると「私はちゃんと、そこらへん自覚的ですよ」って感じ出してるけど、ホントかよ~。
その割には言動が見合ってなくない?……って感じるブコメを数えきれないほど見てきたんだがなあ。
それらを指摘されたとき、みっともない言い訳や開き直りをしているブコメも見たことあるんだけどなあ。
はてブはユーザーネームをクリックすれば、その人の過去ブコメを簡単に閲覧できるんだが。
いま人気コメになってる人たちは、そのあたりも踏まえた上でコメントしてるってことでいいんだよな。
ブコメに誰がどれくらい☆つけてるかってのも見れるんだが、それも大丈夫ってことでいいんだよな。
煙草をふかしながら喫煙家を小ばかにするような真似はしてない、って即答できるってことだよな。
念のため書いておくが、ここで指摘されているのは“煙草”でもないし“喫煙家”でもないし、もちろん“嫌煙家”でもない。
あくまで「煙草をふかしながら喫煙家を小ばかにするような真似」をする人間のことね。
「自覚的であるかどうか」」が重要なのではなく、その「自覚に則り、貫徹するよう努めているか」が重要なわけね。
「公約は選挙の時点でのことであって実際に県政を担う立場になったら関係ない」とコメント
全会一致での不信任を受けても、なお非を認めず、平然と"開き直り"を続けるとは、理解不能だ。"自分ファースト"の"ナルシスト・モンスター"って感じだ
市長時代には斎藤氏が知事就任後に市町との連携について、泉氏が携帯で苦言を呈したところ「着信拒否された」
大阪の学費無償化によって人口が兵庫から流出していることを県が考えなければいけないのに県は何もしてくれない。
神戸市は単独でできるところまでやりますとギリギリで踏ん張っている状態なのを理解してほしい。『9月例会』
知事としての最後の登庁日に本来ならある花束の贈呈や送り迎えする職員の姿もなかった
斎藤さんが頑張ってきた、実績を残してきた、という声もあるそうですが、我々政治家は頑張るのは当たり前の話ですし、実績云々も見方は人によって変わってきます。仮に評価すべき政策や実績があったとしても、それを継続的に、またさらに前に進めていくためには、職員や市町、対象となる方々の理解と共感があってこそ前に進むものです。
https://toshiro.jp/2024/10/31/4498/
企業と手を組んで子どもたちに万博を無料で行かせます。こういうことが新聞記事に出ました。そして私達はそのことを全く知らされなかった。
よくよく調べると県は数千万円万博のチケットを企業から寄付してもらったようです。
そして行く経費、交通費は各市で持ってください、そういうんです。
尼崎だけででバス代だけで一億円以上かかるんです。それがわかるにもかかわらず尼崎で事前に相談をせずにこういうことをプレスで発表するんです。
彼は亡くなった職員に対して、「道義的責任というものがわからない」と回答した。
県職員1人の命を守れない首長に、県民の命を守れるわけがないだろう!
『11月15日街頭演説』
この3年間の斎藤県政と国政との関係は、私の目から見て健全とは思えなかった。例えば、今年から始まった兵庫県立大学の無償化。大学教育の無償化を否定するものではないが、今、国政の場で全ての大学を対象とした学費負担軽減策を進めているさなかに、我々に何の説明もなく県立大学のみの無償化を打ち出し、他の大学は国の責任で実施せよと言う。
2年前の県立高校の統合方針についても、我々が知ったのは記者発表後だ。国会議員への県予算説明会でも、斎藤前知事が自らの言葉で語る場面は少なく、前知事自らが足を運ぶ個別要望もほとんどない。このため、我々国会議員との意思疎通が十分に図れない状況にあった。(聞くところによると、県議会議員とも、県幹部職員とも十分な協議は行われていないとのこと…。)
https://kisaburo.net/2024/11/12/%E7%9F%A5%E4%BA%8B%E3%81%AE%E8%B3%87%E8%B3%AA/
「斎藤氏が県政に復帰すれば、オールドメディアが隠した事実をネットメディアが伝え、有権者の投票行動を大きく変えた歴史的な選挙と言われるだろう。」
https://www.worldtimes.co.jp/opinion/mediawatch/20241114-187005/
あと一つは?
「公約は選挙の時点でのことであって実際に県政を担う立場になったら関係ない」とコメント
全会一致での不信任を受けても、なお非を認めず、平然と"開き直り"を続けるとは、理解不能だ。"自分ファースト"の"ナルシスト・モンスター"って感じだ
市長時代には斎藤氏が知事就任後に市町との連携について、泉氏が携帯で苦言を呈したところ「着信拒否された」
大阪の学費無償化によって人口が兵庫から流出していることを県が考えなければいけないのに県は何もしてくれない。
神戸市は単独でできるところまでやりますとギリギリで踏ん張っている状態なのを理解してほしい。『9月例会』
知事としての最後の登庁日に本来ならある花束の贈呈や送り迎えする職員の姿もなかった
斎藤さんが頑張ってきた、実績を残してきた、という声もあるそうですが、我々政治家は頑張るのは当たり前の話ですし、実績云々も見方は人によって変わってきます。仮に評価すべき政策や実績があったとしても、それを継続的に、またさらに前に進めていくためには、職員や市町、対象となる方々の理解と共感があってこそ前に進むものです。
https://toshiro.jp/2024/10/31/4498/
企業と手を組んで子どもたちに万博を無料で行かせます。こういうことが新聞記事に出ました。そして私達はそのことを全く知らされなかった。
よくよく調べると県は数千万円万博のチケットを企業から寄付してもらったようです。
そして行く経費、交通費は各市で持ってください、そういうんです。
尼崎だけででバス代だけで一億円以上かかるんです。それがわかるにもかかわらず尼崎で事前に相談をせずにこういうことをプレスで発表するんです。
彼は亡くなった職員に対して、「道義的責任というものがわからない」と回答した。
県職員1人の命を守れない首長に、県民の命を守れるわけがないだろう!
『11月15日街頭演説』
この3年間の斎藤県政と国政との関係は、私の目から見て健全とは思えなかった。例えば、今年から始まった兵庫県立大学の無償化。大学教育の無償化を否定するものではないが、今、国政の場で全ての大学を対象とした学費負担軽減策を進めているさなかに、我々に何の説明もなく県立大学のみの無償化を打ち出し、他の大学は国の責任で実施せよと言う。
2年前の県立高校の統合方針についても、我々が知ったのは記者発表後だ。国会議員への県予算説明会でも、斎藤前知事が自らの言葉で語る場面は少なく、前知事自らが足を運ぶ個別要望もほとんどない。このため、我々国会議員との意思疎通が十分に図れない状況にあった。(聞くところによると、県議会議員とも、県幹部職員とも十分な協議は行われていないとのこと…。)
https://kisaburo.net/2024/11/12/%E7%9F%A5%E4%BA%8B%E3%81%AE%E8%B3%87%E8%B3%AA/
「斎藤氏が県政に復帰すれば、オールドメディアが隠した事実をネットメディアが伝え、有権者の投票行動を大きく変えた歴史的な選挙と言われるだろう。」
https://www.worldtimes.co.jp/opinion/mediawatch/20241114-187005/
あと一つは?