はてなキーワード: 宮本顕治とは
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/b.hatena.ne.jp/entry/4738272289266135205/comment/carat1182
志位和夫68歳は岸田文雄65歳と比べて3歳も年寄りのジジイだろう、というのは無理があるか。
どちらかといえばウラジミール・プーチン70歳や習近平70歳の方に近い、というのも印象操作の度合がすぎる。
ジョー・バイデン80歳がG7首脳の中では高齢で、対する共和党ドナルド・トランプも77歳だしアメリカさんは
もうちょっと若返ってもろて。
閑話休題。
ポイントは、実年齢ではなくトップとしての在任期間の異様な長さ。
https://anond.hatelabo.jp/20230614203718
第5代 日本共産党委員長 在任期間 2000年11月24日 - 現職
日本共産党書記長 在任期間 1958年8月1日 - 1970年7月7日
初代日本共産党幹部会委員長 在任期間 1970年7月7日 - 1982年7月31日
単期の在任期間では日本共産党史上最長で、来年には書記長と委員長合算した宮本顕治24年を抜き去る長さ。
すでにプーチンの大統領在任期間より長く、金日成・金正日よりも長い。
党大会で中央委員を選び、中央委員が委員長を選ぶという間接選挙で長く選ばれ続けてきているということである。
しかも委員長だからといって絶対的権限を持って独裁体制を敷けるわけではない。
「幹部会委員長は党の決定、党員の総意から離れて、勝手な言動を行うことは許されない。」(Wikipedia)
とのことで非常に民主的な組織の、民主的なリーダーが高い指導力で党を率いて党員から熱烈な支持を受けているということである。
指導者が備えるべき風貌を完全に持つ親愛なる指導者、嚮導の日ざし、不世出の指導者、革命的同士愛の最高化身である
質疑応答の前のスピーチの日本語版:https://ameblo.jp/matutake-nobuyuki/entry-12791264458.html
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ということなんですが
また、中央委員会がそういう声をちゃんと聞いてくれて党員資格を回復する、
どれぐらいあるんでしょうか
松竹さんが立候補されて党首に選ばれる可能性というのはどれぐらいあるとお考えでしょうか
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A) 何と言っても27万人の党員がおりまして
でも私は直接に自分の支部に所属している党員以外と、そういうことを語り合うことが許されてないものですから
分からないところが多いですけれども少なくともSNSなどでの共産党員、
もちろん私を批判する投稿もたくさんありますけども同時に私に理解を示してくれる投稿もそれなりにある
歓迎すべき変化だと思います
けど同時にそれ以上に、今回、除名ということに踏み切った
共産党にとってこうやって本を出して
この何十年間なかったことなので本当にそんなやり方でいいのかっていう風に思っている人の方がたくさんいるとは思います
ただそれが大会に集まってくる人達の多数の声になるかは、なかなか難しいところはあるかなとは思います
党首公選が実現したとして私が立候補して志位さんに勝てるかという話ですけれども
私は勝つ勝たない、ということよりも
党首公選をすることを通じて党員の中で活発に議論を起こすことが一番大事なことだと考えていて
私と志位さんってそういう点でいうと先ほど述べたようにそんなに大きな違いは無いんですね
そこに修正を加えざるを得なくなった、その志位さんの苦渋と言うか難しさを私も感じていてそこに行こうとしてる
でも共産党員の多数は日米安保も即時廃棄で自衛隊なんか絶対認められないっていう人が多数で
でも政党としてそれでいいのかっていうことを
政党の党員としての自分の考え方を鍛えていくと言うか発展させていくっていうことを期待して
立候補を表明しているということです
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Q) 公選制になれば共産党のより原理主義的な主張を持った人間がむしろ代表に選ばれてしまう可能性が高い
ということは松竹さんの考えとは相容れないというか
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A) そういう大事な問題が共産党の中でほとんど議論されてこなかったっていうことが一番大きな問題で
でも同時に共産党員は本当に憲法9条を大事にして日米安保を廃棄して自衛隊を解消したいと思ってるけども
同時に共産党の党員としては共産党が政権に就くということも真剣に考えてそこを議論すればね
共産党としてどういう態度をとるかっていうことについては
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その非公開の場で何が起きていると思われますか?
というふうにおっしゃったと思うんですけれども
公選制にしたら共産党がもっと議席を増やすことができるようになるでしょうか?
というのはここずっと、だいたい共産党の獲得議席数っていうのは
あまり変わっていないように思うのですが
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その中央委員が選ばれたら
中央委員200人ぐらいの方が別室に移動して
どういうことが行われているのかっていうのは
今後はきっと取材させてくれっていう風になると思いますけれども
集まった中央委員会の前で年長者みたいな方が出てきて委員長として誰々さんを推薦します
副院長は誰々さんですっていうことを読み上げて
そういう点でもいろんな改革は求められていて
中央委員の推薦で選ばれたとしても
いろんなやり方があってそういう点では現実にあって少しでも党員、国民の目にも見えるし党員の権利も保証される
それと公選にしたらどんな結果が出るかっていうことについては
本当にその共産党の中で27万人の党員を巻き込んで徹底的な議論が行われるんだったら
例えば戦後の共産党を作ったのは宮本顕治さんという方で何十年も党首をやった方ですけど
その宮本さんは実は共産党が分裂した時期に少数派で九州の方に左遷されて
全国の党組織であげられるくらい追い詰められたんだけれども
すごい少数派だった方が党首にまでなった
もしかしたら私がそれだけの議論すればやることになる可能性だってあると思います
そしてそうやって共産党っていうのは
政党なのに国民の目にはすごくモノトーンな多様性のない政党として写ってるっていう事が
そこが共産党の支持がに席が増えないという点で
そこを克服することにもなると思います
公選制を導入して共産党の中にいろんな考え方の人がいるということが国民に伝われば
今この自民党政治が続いてそれを何とかするために
だから本当にここは共産党が変わることによって野党の協力がもうちょっと進んで欲しいって感じている国民は
やっぱり少なからずいると思うんですね
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Q) 統一地方選に関連した話です
松竹さんの件があって非常に共産党についてメディア露出が増えているわけですね
でも志位さんは先日の演説で
みんなで力を合わせて打ち破ろうと。
こういった紙面が赤旗さんにも大きく出ている
共産党に松竹さんの件をめぐる動きがそのどういう影響を与えるのか
二つ可能性あると思っていて
無党派層が離れていく面がある一方で
その党内はもう運動量が増えて
地盤が引き締まるということがあるかどうか
今回の件でどういった影響があるところになってるかこれが一つ目の質問です
もうすでに除名されてしまってるわけですけど
その辺り、どういったご予定でいらっしゃいますでしょうか
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A) 率直に言ってこのまま進めば工藤さんがおっしゃった
そういうことは私も想定もしていなかったというか
出版社には選挙の終わった5月に出すか、あるいはその選挙の影響を避けるために1月にするかみたいな事を相談しまして
1月だったら多少何かあっても選挙の本番には影響ないんじゃないかなと思ってたら
予想を裏切るようなことになった
言っては仕方ないんですけども
何か別のところで言いましたけれども
現実味のないことだなって
抱えているということですね
私としてもどうしても今度の地方選挙で通ってほしい
知人とか友人とかいまして、その中には若手で初めて共産党に入って
挑戦しようっていう風に思ってくれた人もいて
っていうぐらいのことは思うんですけど
これも為す術がないということで
苦しんでいるというのが率直なところです
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Q) 志位さんが書記局長に選ばれたけど
あの時は党内でもほとんど知られない
少なくとも ものすごく状況を変えようとした
そういう知恵はあった
これは志位さんのリーダーシップでやったのか
それともと党内には異論があったのか
それも全く聞こえてきませんけども
この苦しい局面を思い切って展開しようとして
どんな知恵があるという風に思ってらっしゃるのか
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A) 率直に言って短期的に統一地方選挙のご質問とも関わりますけど
大逆転の秘策みたいなのは
田原さんが「志位さんと松竹さんと僕と3人で食事でもしようよ」
「志位さんと松竹さんの対談を実現するから」みたいな、その場で握手でもして何とかならないかね
みたいなことも言っておられましたけども
私に逆風が吹いてると言うか
それを打開するためにも
本当にこういう状況、こういう共産党でいいのか
っていう訴えをして そこで根本的に変えていく
本当にそれぐらいの覚悟でやっていけば
その先に何か見えてくるんじゃないかなという
期待をしているという状況です
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横だけど、創価学会の通話記録窃盗事件と個人情報窃盗恐喝事件貼っとくわ
創価大グループによる携帯電話の通話記録盗み出し事件で電気通信事業法違反に問われた、創大出身でドコモシステムズ元社員嘉村英二被告(28)の公判が二十一日、東京地裁で開かれました。同被告は同法違反で二〇〇二年十一月に有罪判決を受けたのにつづく二度目の裁判。前回裁判のさい、今回の事件も調べられたのに隠し通していたことが、この日の証言で明らかになりました。
嘉村被告には前回と同じく、創価学会副会長らが弁護人につきました。実行犯の嘉村被告や、同被告に犯行を指示した創大副学生課長らが有罪になった前回裁判で弁護人は「私的で一過性、偶発的事件」と主張、執行猶予つき判決になりました。
この日の公判で嘉村被告は、波多江真史裁判長から「前回の取り調べで今回の事件のことを聞かれなかったのか」と質問され、「警察に聞かれた」と証言。「そのさい本当のことを話したのか」との問いには「話さなかった」とのべ、犯罪を隠していたことを認めました。被告弁護団も以前から今回の事件を知っていた可能性も濃くなりました。
起訴状や検察冒頭陳述によると、同被告は〇二年三月と四月、東京・江東区にあるNTTドコモの端末を操作し、学会脱会者の福原由紀子さんとジャーナリスト乙骨正生氏の通話記録を不正に引き出しました。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-12-22/15_01.html
ところが、好事魔多しで、契約者情報が大量に流出してしまった(最終的には04年1月時点の全顧客情報660万人分が流出したという)。流出した情報の内容は、加入者や申込者、解約者の住所、氏名、電話番号、メールアドレスなどで、不幸中の幸いというべきか、クレジットカードの番号など個人の信用情報は別に格納されていて無事だった。
しかも驚くべきことに、この不祥事を材料にソフトバンクからカネを脅し取ろうとしていた男3人を警視庁が恐喝未遂容疑で逮捕していたというのである。3人は、ヤフーBBの二次代理店を務めるコンサルティング会社エスエスティー(SST)の竹岡誠治社長、湯浅輝昭副社長、それに右翼団体の森洋・元代表だった。ヤフーBBの取引先という〝身内〟と右翼団体元代表という組み合わせには意外感があった。
〜〜〜
彼ら容疑者の素性が明らかになると、事件は別の顔を見せ始めた。SSTの社長の竹岡と副社長の湯浅はともに創価学会の幹部だったのである。
竹岡は創価学会副男子部長や創価班委員長、聖教新聞広告局担当部長などを経て創価学会豊島戸田分区の副区長だった。湯浅は聖教新聞の販売店主などを経て函館五稜郭圏の副圏長だった(ともに事件発覚と同時に辞任)。しかも、竹岡は共産党の宮本顕治委員長宅盗聴事件の実行犯の一人でもあったから大騒ぎになった。もはや、単純な個人情報流出という事件ではなかった。ソフトバンクの広報担当者も「政界を揺るがすかもしれません」と興奮気味に話していた。
https://webronza.asahi.com/business/articles/2021092300001.html?page=1
記者座談会 統一教会と自民の関係にメスを 反共右派として育てた為政者の罪 | 長周新聞
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.chosyu-journal.jp/seijikeizai/24165
岡良様 on Twitter: "長周新聞・・・スゲェーな!"
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/oka1029ri/status/1549691233039446018
これらの記事が「真のジャーナリズム」とか「地方紙の気概」とか絶賛されてて、
確かに部分的には正論なんだけどちょっと怪しさがないか?と思ったので長周新聞について調べてみたよ。
B 日本統一教会の原点は戦後に反共産主義を掲げて岸信介を中心とした右翼連中でつくっていた「防共挺身隊」といわれ、岸信介の出身地である熊毛地方には一定の集団がいたことが知られている。山口県は戦後の共産党トップだった野坂参三、宮本顕治、志賀義雄などもいて、それこそ彼らは田布施の隣である光出身だったりもする。政治的には右も左も激しかったわけだが、その防共挺身隊と岸信介がパイプを持っていた韓国の反共宗教団体である文鮮明の統一教会がドッキングして、日本統一教会が誕生したという。
こことか、岸信介が日本における統一教会の活動をバックアップしてたとか自宅の土地を統一教会にアジトとして使わせてたとかいう話はこれまでに色々な媒体で見たけど、
「岸信介自身が作った防共挺身隊が韓国の統一教会とドッキングして日本統一教会になった」って話は見た覚えがない。
岸信介が統一教会と昵懇の仲だったどころか岸信介の作った組織が発展して統一教会になったんだよ!
なんて話が本当だったらすごいショッキングだし、他でも大きく取り上げられてると思うんだけど。これは何がソースなの?
https://www.chosyu-journal.jp/aboutus
要するに派閥抗争に敗れて日本共産党を除名された人が集まって作った日本共産党(左派)の機関紙。
気概はあるかもしれないけどこれを地方紙で括るのはちょっと無理があるなぁ。
共産党は分派を許さない(民主集中制)ので思想や意見が割れたらどっちかが抜けるまで戦うしかないわけだけど、
日本共産党(左派)は徹底的に毛沢東を崇拝し中国共産党の方針に従うべきという考えの派閥だったので、
日本共産党は日本独自の路線でやっていくべきだとする主流の自主独立路線とは相容れなかったみたいだね。
そんな感じで日本共産党(左派)はあまりにも毛沢東を崇拝していたため、
日本共産党は彼らを「毛沢東盲従集団」とか呼んで罵倒していたよ。こういう左翼の罵倒ボキャブラリー好き。
http://maoist.web.fc2.com/jcp/jcf000.htm
福田正義の経歴も面白くて、満州日日新聞で記者やってたときに後藤新平の功績を称える伝記を書いて日帝の中国侵略正当化に荷担していたんだけど、
それについてはひた隠しにして自分を「不屈の革命戦士」と売り込んでいたただのお追従野郎とか散々言われています。
長周新聞の創設者であり編集主幹であり日本共産党(左派)初代中央委員会議長である福田正義は2001年に亡くなっているんだけど、
長周新聞ではその死後も彼を編集主幹として名を掲げているとのこと。
この辺がやっぱり日本共産党とは違い毛沢東主義を貫いている日本共産党(左派)っぽくて、個人崇拝が強めだよね。
日本共産党も志位和夫がずっと選挙もなしに委員長に居座っててどうなんだとは言われているけど、そんな露骨に個人崇拝をするようなことはないし。
そしたらリニューアル前の長周新聞のWebサイトに面白コンテンツがあるという情報があったのでWebアーカイブで見てみた。
2002年に行われた福田正義氏追悼記念集会の特集ページで、スピーチとかの内容が記録されているよ。
中でもこれがすごい。
https://web.archive.org/web/20160304141021/http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/himawari.htm
長周新聞は長周新聞人民保育所という社員用の保育所を設けていて(それは偉いと思う)、
そこ出身の子供たちが「楽しかった、運動会!」「「運動会!」」みたいなのをやるパートがあったみたいだね。
小六男・小六女 わたしたちのお父さん、お母さんは、
小六男 貧困も失業も戦争もない、新しい社会を実現するために、
小六男 ひまわりは、一九七三年四月、長周新聞の保育所としてつくられました。
間
小五女 まだ仕事が残っているときは、段ボールで寝かされていた。
中二女 だれもかまってあげられないので、赤ちゃんは、人の足音がするときだけ泣くようになった。
中三男 家に帰るのはいつも夜中でも、朝早く家を出て、赤ちゃんもお母さんといっしょにがんばった。
中二女 そして、子どもたちが将来、お父さん、お母さんのように、社会の発展のために役立つものになるようにと、
中一男 ひまわりをつくってくれました。
下学年 ひまわりは、今年で、二九年目です。
中三男 ひまわりを卒業したぼくたちの先輩は、おじいちゃんのあとを受けつぎ、
五年生 わたしたちも、先輩たちのようになるために、
確かに保育所を設立したのは福田正義だったのだろうけど、福田のおじいちゃんがまったく一人でやってくださったみたいな言い方なのがなんかすごい。
小六男 一、勤労人民を尊敬し、労働やたたかい、生き方に学ぼう!
小五女 四、学校の成績で仲間を差別せず、ひまわりの目的で団結しよう!
五番がかなり民主集中制っぽさがあって良い。
小六男 福田のおじいちゃんはみんなの声を代表して、長周新聞をつくられました。
小六男 自分の小さな幸せでなく、みんなの幸せのために、奮斗した。
中二女 福田のおじいちゃんは、ひまわりにいつも心を寄せてくださいました。
中二女 わたしたちが学校の帰りにおじいちゃんにあって、「こんにちは」というと、ニコニコ笑ってあいさつをしてくださいました。
小二女 長周四五周年のとき、
小四男 体が痛かったのに、
小六女 わたしたちの出し物のときは、いちばん前で見てくださいました。
中二女 そして、病気とたたかいながら、ウソをあばき、まちがっているものとは、断固たたかい、
中一男 ぼくたちにほんとうの真実はなにかを教えてくれました。
小六男・小六女・中一男・中二女 長周新聞は、強い!
こういうのを2002年にやってるっていうのもなかなか驚きだ。
これ見て思い出したのが何かというと、森友学園が話題になったときに出た幼稚園の子供たちの映像だよね。
「安倍首相、がんばれー!」「安保法制国会通過、よかったです!」ってやつ。
毛沢東主義・スターリン主義を貫徹すると何故か結局指導者の個人崇拝に行き着くの面白いなぁ。
法的根拠が特にない安倍晋三の国葬に反対するのは正論だと思うし私も同意するんだけど、
それ書いてる新聞がめっちゃ指導者を崇拝する式典をやって子供たちにこういうのをやらせてたっていうのもなかなかだよ。
カルト宗教が話題になってるときに見るとこういうのも別の形の「二世」問題のような気もするなぁ。
小六男 おじいちゃんに誓うこと
小一女 わたしは、大きい子のいうことを聞きます。手伝いをがんばります。
小四男 自分のことだけでなく、人のことを先に考えて行動します。
小五女 わたしは長周に入るために、自分からすすんで重いものを持ち、力をつけます。
「小一女 わたしは、大きい子のいうことを聞きます。」のパターナリズム感!
全体的に目上の者の言うこと聞いて正しくあれみたいな感じがあるけど、
日本共産党(左派)は元から反米の愛国主義を掲げていてナショナリズム色が強いから、やっぱりパターナリズム的な感じなんでしょうか。
子供たちの理想として「ジャーナリストになる」とかじゃなく「長周新聞に入る」が謳われているのもなんか二世問題っぽいね。
そんで安倍晋三暗殺に紐づいて統一教会と政治の関わりについての批判や国葬への批判は概ね正論として、
長周新聞が他の問題についても正論を言ってるかというとそうでもないわけで。
https://twitter.com/lautream/status/1301343209751109632
ちょっと前の香港問題では「世界は中国の味方!アメリカは孤立!」とか言って中国共産党を支持していたり、
「ウクライナ戦争を1日でも早く止めるために日本政府は何をなすべきか」 ロシア史研究者有志が声明発表 専門的見地から行動提起 | 長周新聞
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.chosyu-journal.jp/shakai/23102
ウクライナ危機に国際社会はどう向き合うべきか 緩衝国家・日本も迫られる平和構築の課題 東京外国語大学教授・伊勢崎賢治氏に聞く | 長周新聞
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.chosyu-journal.jp/kokusai/22976
ウクライナ戦争では「アメリカが悪い」とか「ミンスク合意が」とか「ロシアは満州事変と同じことやってるんだから日本は先に自分の過去を反省しろ」とか言ってたよ。
まあなんというか、いろんな意味で普通の新聞ではないから普通の新聞に書けないようなことも書けて、時々正論を言ったりもするけれど、
やっぱり普通の新聞ではないからあんまここをソースになんか言うのもあれだなぁって感じですかね。
その辺の一般人はともかくこれを真のジャーナリズムとか言って持ち上げてる学者先生とか議員先生はもうちょっとソース選んだ方がいいと思います。
ソースはスプートニクとか、ソースはHanadaとか、ソースは世界日報とか、そういう感じ。
じゃあどうすりゃ調査対象から外れるの? https://www.jcp.or.jp/2021-5qa/no04.html 敵の出方論はそもそも非合法暴力を正当化するものではない、という説明をしてるけど。でも誤解を招くからずっと使わないようにしてるとのこと。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4708324684131254370/comment/interferobserver
違うのよ。
「そもそも」と言うのならば、「そもそも」敵の出方論は宮本顕治や不破哲三の時代には、
反動勢力がクーデターを起こしたことに対して平和的でない手段を用いることを、「革命」とは言わないでしょ?
つまり、
「宮本や不破は間違っていました。今はこれこれのように考えている。」
と一言言えば済む話なのよ。
だが、それをせず、
逆に言えば、1951年からの4~5年は明確に暴力革命論を採用していて、
「農村が都市を包囲する」山村工作隊による活動や、爆発物による武装闘争を行っていた。議席を35→1議席に減らしたのもこの頃だ。
この転換の背景には、朝鮮戦争の勃発、GHQによるレッドパージ、スターリンによる「コミンフォルム批判」などがあり、
共産党内部において、所感派と国際派のあいだで深刻な対立があったのは分かる。
そうは言っても党を割ったわけでもなく、所感派がいったんは党の実権を握ることを許したのだから、それは党の責任として引き受けるしかない。
しかしそれすらも
「党の正規の方針として『暴力革命の方針』をとったことは一度もない」と分派のせいにしてしまうんだよね。
日本共産党には、「我が党が誤ることはない」という無謬の伝説があって、これを未だに捨て去れていない。
これが世間から信用されない最大の理由で、多くの党員がこれに幻滅して去っていった。私の両親もそう。
たぶんこの党の体質は未来永劫変わらないだろう。
【追記】
何で今頃こんなエントリが…
b:id:soramimi_cake 設定じゃないよ。両親が民青で出会ったケースってそんなにレアじゃないと思うけどね。いわば共産2世ですよ。
b:id:quick_past 共産党は自省も反省もしてませんよ、という話が通じなかったかな?
例えば自民党が60年前に警察官を殺しておいて「あれは分派がやったことだ」で済まされる世界をお望みですか?
だいたいこれ書いたの去年なんだから、統一教会と比べてどうのこうの言うためのエントリじゃないのよ。
日本共産党は、社会変革の道すじにかかわって、過去の一時期に、「敵の出方」論という説明をしてきましたが、その内容は、(1)選挙で多数の支持を得て誕生した民主的政権に対して、反動勢力があれこれの不法な暴挙に出たさいには、国民とともに秩序維持のために必要な合法的措置をとる。(2)民主的政権ができる以前に反動勢力が民主主義を暴力的に破壊しようとした場合には、広範な国民世論を結集してこれを許さないというものです。それは、どんな場合でも、平和的・合法的に、社会変革の事業を進めるという日本共産党の一貫した立場を説明したものにほかなりません。これをもって「暴力革命」の「根拠」にするなどということは、まったく成り立つものではありません。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik21/2021-08-06/2021080607_01_0.html
『暴力革命唯一論』者の議論は、民主主義を擁護する人民の力を無視した受動的な敗北主義の議論である。しかし、反対に『平和革命』の道を唯一のものとして絶対化する『平和革命必然論』もまた、米日支配層の反動的な攻撃にたいする労働者階級と人民の警戒心を失わせる日和見主義的『楽観主義』の議論であり、解放闘争の方法を誤まらせるものなのである。
1964-1970年
革命が平和的か暴力的かは敵の出方による。現在の国家権力がたやすく権力を人民に譲渡するとは考えられない。
革命への移行が平和的となるか非平和的となるかは、結局敵の出方によることは、マルクス・レーニン主義の重要な原則である。
ちなみに不破さんは2006年まで共産党議長をしていた方なので共産党お得意の「アレは分派が勝手にやった(言った)事と言い訳するのも無理
https://note.com/dadasp/n/nf0deab7c28e4
純粋な住宅地には無いだろうが、工業地帯と住宅地の隣接地帯、古い商店が点在するくすんだ住宅街の商店や町工場なんかに共産党のポスターが貼ってあるのを見ないだろうか?
個人商店、自営業、町工場っていうのは30年前は自民党のガチ票田だったんよ。その票田を共産党が奪取してるって事なんよこれは。
この人はそういう変化を見てないんじゃないの?給与生活者で綺麗に計画された住宅街に住んで上辺の知の世界に生きてるだけなんじゃ?
票田かっ攫うって言っても自民党支持者が甘言だけで革新に転ぶわけがない。困窮した時に救済制度を知っていたり行政との橋渡しが出来なきゃ信頼されない。それ以前に経営に就いて理解していなきゃ話も聞いてもらえない。
その背景には90年代の金融の再編があって、不良債務を抱えるリスクを減らす為に銀行が中小零細の債務をノンバンク子会社に付け替えてる。銀行から借りてない会社なんて経済的信用が無いって事だからそのせいで取引先も減ってしまう。まともに扱われてないのだな。
なのに「革命が」とかいつまでも浮ついた事言って「地べた這いずって生きてきた人たちのほうがよっぽど偉かったよ」とか言ってる。自分が地べたはいずりゃいいでしょが。
ATMで金下すだけで今は銀行がただで両替してくれないとかも知らないんだろうな。ただで両替しないのは店舗経営者が客じゃなくなったからだ。
ずっと以前は共産党は悪しき前衛主義で頭でっかちのエリート組織だった。東側陣営の崩壊後、宮本顕治失脚後は党勢を維持できずに無くなるだろうと目されていた。都市部の給与生活者と環境問題などに軸足を動かした新左翼が生き残ると思われていた。国鉄解体でもJRに参画出来たのは転向した嘗ての超急進派の革マルで穏当な日共系はパージされるという憂き目にあった。
だが実際には党勢が風前の灯となっているのは新左翼政党となっている。何故か?
それは小泉以降の自民党が「改革的でイデア的な」な世界観の競合となっているからだ。ゼロ年代に帳簿も読めないどころか複式簿記も知らないのにやれ金融だM&Aだと言い立てて経済通の気分に酔うのが流行ったが、あれと90年代社会党の気分は似ている。競合関係なのだ。
文中で出てくるキクマコ先生はその判りやすい例で、アベノミクスで素養の無かった経済問題に触れるや「社会の全ての事象が設計的に読めるように」なり、「全ての事象の評価軸」を得てしまった。それでその中から出て来なくなったんである。キクマコ先生がこうなったのは彼がリベラルだったからに他ならない。世間知らずさがその本質主義を担保している。私だってこういう風になった事はあるが普通は18~20歳あたりで通過するものだ。
こういうのと競合しない路線を進んだので共産党はニッチを得た。
だから大家なんかには自民党と共産党交互に投票する人もいる。普通にいる。ここにもいる。
健保保険料払わず病気になった店子の面倒みて貰った先生に入れて、冠婚葬祭に来てくれた先生に入れて、とそういう感じだ。
筆者とキクマコ大先生はシラケ世代の還暦なんだろうがアリバイの自覚はあるのに自分が殻に入っている事も気づかないのだな。
東大大学院系党員グループが党大会の正規手続きを完全無視して「勇退を求める特別決議案」という党中央人事に関わる(掟破りの)議案を出そうとしたり、党大会でのビラ配りを『朝日ジャーナル』巻き込んで取材させたりと、展望なく飛び道具を繰り出し続けた背景があった。彼らが、日共規約の分派禁止規定で簡単に討ち取られるような迂闊な立ち回りをしてたのは事実。
伊里一智やその仲間が普通に党大会代議員になって、大会決議案の後の新議案討議で真正面から宮本顕治の指導責任批判をすればよかったんだけど、それとは違う非正規戦で党人事の刷新を試みるポーズを取った。過去に分派騒動やスパイ騒動で疲弊していた共産党員の大半にとってはそういう手法自体が受け入れがたかったから、東大院生以外の支持者もほとんどいなかった。だから失敗すべくして失敗した。日共の分派パージはいろいろあるけど、日共史でも重大な扱いを受けている新日和見主義事件とかと違って伊里一智事件の扱いがすごく軽いのは、党体制にとってのシリアスさが全然違ったからだと思う。
このとき志井が党中央の走狗として排除正当化の論陣を張ったのは事実だし、論文の内容も排除を正当化するだけの実のないものではあるんだけど、伊里一智事件自体が事例としてパッとしないというか、日共の綱領・規約からすれば彼の除名が全く理不尽で不当なものだったとも言えない。だから日共の民主集中制の問題を批判するときにこのエピソードを出してくるのは、少し筋が悪い。
日本共産党中央委員会の論文集『投降主義者の観念論史観』を読めば答えが見つかると思いますよ
日本共産党の志位和夫委員長ですが,1988年に,ほぼヒラ同然の専従から書記局長に抜擢されました。出世のきっかけになったのが,「伊里一智事件」での活躍だといわれています。 伊里一智事件とは,1985年当時,東大の院生支部の党員が,宮本顕治の引退なども含め,党の改革を訴える提案を党大会に提案しようとしたところ,その提案が連名であることを以て,党機関が「分派活動」と決めつけて,その動きを阻止したもの,および,その後の「党大会でのビラまき」「週刊誌のインタビュー」「伊里一智氏の著書出版」などの一連の出来事をいいます。伊里一智はその院生が名乗った活動名です。 この事件は,典型的な,民主集中制の原則を悪用した,異論の政治主義的な封殺でした。その主な下手人が,志位和夫委員長その人なのです。志位氏は,「変節者のあわれな末路」(「赤旗」1986年3月18日,19日)「退廃と遊戯の『哲学』 ――浦地実『<ポスト・モダン>と唯物論』批判」(『前衛』1986年4月号)などの論文を書いて,伊里氏を口汚くののしりました。この,異論排除の能力が宮本顕治に買われて,出世を果たしたとかなんとか,いわれているところです。これら共産党側の論文は,『投降主義者の観念論史観』という本にまとめられています(上写真)。 今回,上に挙げた志位氏の論文を紹介します。ぜひぜひ,読んでみてください。あの顔からは想像できないような悪口雑言の数々が並んでいます
暴くもなにも一般に知られた事実じゃん。共産党の公式サイトにも載ってるよ。
戦時下に朝鮮から日本へ強制連行された朝鮮の人々の北朝鮮への帰国事業とは、一九五六年の赤十字国際委員会の勧告に始まり、日朝両国の政府の了解のもと、日朝両国の赤十字社が主体となって実施された事業です。
日本国内でも「自国に帰る権利」を支持する立場から超党派で在日朝鮮人帰国協力会を結成。小泉首相の実父・小泉純也衆院議員や鳩山一郎元首相、浅沼稲次郎社会党委員長、宮本顕治日本共産党書記長も参加していました。
公明党は、この帰国事業の支援活動に加わっていたことで、日本共産党を「犯罪者」呼ばわりしようとしていますが、小泉純也氏や鳩山一郎氏をはじめ多くの保守政治家も“犯罪者”扱いするのでしょうか。
在日朝鮮人の帰国事業は、赤十字国際委員会が居住地選択の自由にかんする問題として日本と南北朝鮮の政府によびかけ、日本赤十字社が主体となり、政府が閣議決定で推進した事業です。こうした事業を人道上の立場から支援するのは当然のことです。それを、他党を中傷するため、あたかも犯罪行為であるかのように意図的にねじ曲げたために、自ら賛成した歴史も語れない自己矛盾に陥るのです。
党員の息子です。
元増田のエントリと順序を変えてしまいますがまずは以下からお答えします。
あと先のトラックバックではちょっと文体が失礼だったように思えましたので、今回は改めました。真剣にご批判頂けているのが伝わってきますので。
「『共産党性善説』に依りすぎ」については、やはり共産党サイドからの視点なので客観性に疑問を持たれて当然かもしれません。これは今回の僕のエントリすべてに言えることだと思います。僕のエントリには甘目に見ても「主観的で共産党的な」客観性しかないのです。そして補足のこの説明にも疑問を持たれてしまうかもしれません。それが元増田をはじめとする世間と共産党の差なのだと思います。
弁解がましく申し訳ないのですが、以上を前置きとさせてください。
そうかも知れないし、トヨタ特有の問題かも知れない。これが個人ブログの論戦なら「一件だけ取り上げて一般化するなよ統計資料とかソースも付けろソースを」というレベルだよな。
ソースに関しては内部告発ですのではっきりとは出ないかと思います。内部告発に関連して公益通報者保護法というものがあります。
公益通報者保護法は、労働者である告発者を守る法律です。どこから得たソースかは漏洩すると守秘義務違反になります。守秘義務違反についての罰則は僕にはちょっとわかりませんが。
ソースらしきものといえるのは赤旗のWeb版くらいしかないですね。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-09-15/2006091503_01_0.html
共産党のこの手の調査力については否定する気は無いが、この件で共産党が党利党略のために恣意的な調査をしていないという保証がどこにも無い。
という批判をまま繰り返し頂いてしまいそうで恐縮しています。国土交通省調べと愛知労働局調べからある種の仮説、もしくは補説を立てているのだとは思います。ただ、"恣意的"でない調査は存在しないとも思うのですがいかがでしょうか。党利党略のため調査をしない政党は無いのではと思います。
これは受け取る側、あなたをはじめとした<国民>の問題であります。<国民>それぞれの主観的な問題なのです。そこで考えるべきは、共産党の党利党略をここから読み取ることなのではないでしょうか。僕はここから、弱者である労働者サイドの視点で対大企業の姿勢、という読み取り方をしました。
ですので僕自身が弱者である一労働者である間は、ツールとしてこの政党を利用しようと思っているのです。もちろん元増田には不満があると思います。これについては先述しました、「元増田をはじめとする世間と共産党の差」なのだと思います。
上記とは別の角度からお話しさせていただきますと、単純に「恣意的な調査」というのは、あり得る話ではあります。だけれども「恣意的」と自覚しながらも出したのだとしたら反駁を待つために質問したのだと思います。そしてその反駁こそ共産党の望むところなのではないかと思います。この反駁が与党なり、他の政党からでてくるでしょうか。おそらく出てこないでしょう。トヨタはアンタッチャブルなんです。下手に刺激して証人喚問等々は避けたいのではないでしょうか。
それに「そこはとらせなきゃ」と言っても、他の政党同様、共産党にだって取るべき責任から逃げてきた前科はあるわけで、特定の政党にシンパシーを持ってない俺には「きっと○○議員は責任を取ってくれる」という希望的観測は持てない。世論が強制的に志位に責任を取らせる具体的な方法があるなら話は別だが。
「前科」とはおそらく、
の等々かと想像します。他にもありますでしょうか。
共産党側の反駁をhttp://www.jcp.or.jp/faq_box/index.htmlで探してみました。
以下の該当無しというのは、先に挙げた記事に関連するものが無かった、という意味です。
この検索結果を受けて思うのは、この体質というのは変えていくべき重大な問題なのだと思います。
代々木側(あえてこう言わせて頂きます)にも、トヨタにふれられて困る与党自民党と同じ部分がある、ということです。
宮本顕治リンチ殺人事件の審議についておそらく代々木側はこういうでしょう。「この件に関しては解決したこと」「共産党と敵対する団体のデマゴーグ」と。しかし、これらがまだ話題として上がり続けていることをどれだけ重大にとらえ、いつまでも反駁し続けなければ意味がありません。
この点は僕が積極的に共産党を支援できない理由の二つ目と言えそうです。
そして、「(責任を)とらせなきゃ」の真意ですが、一番効果的なのはやはり選挙なのです。国民がこの大嘘つきめ、と選挙で落選させないといけないわけです。1952年5月1日に起きた血のメーデー事件発生から5ヵ月後に行われた総選挙では、事件のあおりをもろに受け共産党は全議席を失ったそうです。当時は分裂気味であった共産党にとってはよい薬だったのではないでしょうか。「世論の強制力」に該当するものは選挙以外残念ながらありません。不逮捕特権というものもありますから。
発端になってるトヨタやらキヤノンの事案が曖昧なまま事実認定されてる点が釈然としないな。自民党を倒すための手段くらいはきっちり選ばないと、結局自分たちに跳ね返ってくるだけな気が。
や、
実際、過去に拉致問題をいち早く取り上げていながら、いざ北の将軍様が拉致を認めたら社民党とセットで共産党は落ちぶれたわけだし。昭和時代の共産党の議席数とか今見返すと信じられんよ。
などは、マスコミとの関連性も考えられそうです。今でこそ露出は増えはしましたが、結局赤旗や、党員や民青によるビラまきでしか広報活動ができないのが問題なのかもしれません。常に共産党側からのフィルタを通してでしかものが言えないのですよね。信用されていない人の言説を誰が信じるでしょうか。たとえそれらが真実であったとしても、その真実が皆の真実になるとは限りません。共産党側の人間にはマイノリティである自覚が無いのかもしれませんね。
これもまさにその通りです。あくまでも共産党の肩を持つ身としましては、選挙のための選挙運動を彼らはしていない、ということくらいでしょうか。しかし、これはこれで全然政党の役割を果たしていないような気もします。
元増田とのエントリを通して思ったことは、やはり共産党をはじめとする政党はツールでしかない、ということです。国会は議員が勝手に運営しているように見えますが、僕らはそれに期待し実行させる権利も、ふざけるなと抑止する権利も持ち合わせているのです。元増田も他の皆さんも選挙権を小さな権利だと思わないでください。一党のみを支持する考えはもはや危険なのかもしれません。時勢ごとに支持政党は変えてもかまわないし、それが国会に反映するよう、僕らは僕らの持っている選挙権の強さを被選挙権を行使する者達へ知らしめなければなりません。
非常に長くなってしまいました。レイアウトに難があり読みづらいかもしれません。申し訳ありません。
日本第3の政党であり自公連立政権を8年以上続けてきた公明党。そしてそれを支える創価学会。決してタブーではないはずなのに、この両者の歴史を語った本やサイトは少数。しかし有権者ならしっておくべき、必要最小限の知識をまとめてみました。
創価学会は、昭和初期に教育者であった牧口常三郎が「創価教育学会」として創設したものが母体になっています。つまり、創価学会は当初、教育団体だったわけで、なんだか宗教ぽくない名前になっているのは、そのためです。
しかし牧口はその後、日蓮宗のなかの一宗派・日蓮正宗(しょうしゅう)と出会い感化され、その後次第に組織の宗教化をすすめていきます(後述しますが、現在は日蓮正宗と創価学会の関係はありません)。
そして牧口は「創価学会」の初代会長として、宗教団体としての創価学会の活動をはじめるわけですが、戦時中はこうした新興宗教などは徹底的に弾圧された時期で、創価学会もその例外ではありませんでした。
戦時中の宗教弾圧は単に天皇制に背くものだけが対象ではありませんでした。むしろ天皇制原理主義のような宗教も危険視されていました。宗教ではありませんが、やはり日蓮宗信者で、極端な天皇主義(天皇の他は万人平等)などを唱えた北一輝は、「2・26事件」の精神的指導者として処刑されてしまうわけです。
いずれにせよ、政治の実験を握り社会をすみずみまで統制しようとする軍部にとって「新興宗教」は邪魔な存在以外の何者でもなく、強力な弾圧対象となったのでした。
このような世情のなか1943年に牧口ら学会幹部は逮捕・起訴され、牧口は翌年に獄死します。この弾圧が、結果的に[天皇制ファシズム・軍国主義反対→平和主義]という創価学会の主張を作ったと言っていいでしょう。このことは、今の創価学会・公明党を知るうえでも重要なことです(新テロ対策特措法再可決に消極的なところなど)。
戦後、民主化にともない、創価学会は復活します。その会長となったのが、牧口とともに捕らえられていた、戦前学会のナンバー2、戸田城聖でした。そして、彼のもとで、学会は飛躍的に発展することになります。
戸田は敗戦後、学会組織の再建に努め1951年に2代会長に就任します。そのとき彼が呼び掛けたのが、「折伏(しゃくぶく)大行進」でした。
折伏というのはもともと日蓮宗の教義で、他宗派を攻撃し、人々を法華経に帰依させることをいいます。戸田は、まだまだ数百人しかいない学会を大きくするため、「75万世帯折伏」を実行するよう呼び掛けます。
とほうもないように見えた計画でしたが、戸田が1958年に死去したときにはすでに百万世帯が学会に入っていました。東京五輪の年には公称5百万世帯です。
強引で悪評もたった(その後、学会自身も公的に反省することになる)「折伏」の姿勢が、学会拡大の1つの要因ではあるでしょう。しかしもう1つの要因は、高度成長につれて起こった日本の人口構造の転換に求めることができます。
農村から若者たちが働くためにやってきて、都市が一気に過密化していったのが高度成長時代の、特に前半期の人口構造変化の特徴です。もっとも現代のように大学に入るために上京してくる若者たちと違って、就職のために上京してきた彼らには大学のような受け皿になるコミュニティがありません。
そんな彼らの孤独の中に入っていったのが創価学会と、もう1つは共産党でした。この両者が今でも都市を中心にした基盤を持っているのはこういった側面からも理解できます。いずれにせよ、こうして学会はそういった人々の「都市砂漠のなかのオアシス」となり、都会に流入していった人々をしっかり取り込んでいったのでした。
こうして創価学会に多数の会員が集まると、会長の戸田はまず1955年の統一地方選挙に候補を擁立、選挙活動を始めます。これで一定の成果をあげると、翌年の参院選にも参戦、学会推薦議員を3名当選させます。59年の参院選では当選は倍の6名へと急進しました。
これが後の公明党になるわけですが、なぜ戸田は政治に活動の場をもとめたのでしょうか。1つの背景として、日蓮宗の開祖日蓮もまた、政治に対する主張をしていった、そういう歴史的なものがあるでしょう。しかし、いくつもある日蓮宗諸団体のなかで、国会議員を自力で擁立したのは創価学会だけです。
1955 年からの高度経済成長は、学会員たちにもとうぜん恩恵をもたらしました。豊かになった彼らとしては、次に社会的地位がほしいと思うわけです。学会員の社会的地位の向上、それを示す手っ取り早い方法が「学会議員」を作ることだったのではないかとガイドは考えています。
折しも創価学会は特に左翼・革新勢力から「折伏(しゃくぶく)大行進」に対する非難を浴びていた時期でもあります。左翼・革新勢力が大きな力を持っていた時代、学会や学会員の社会的地位を向上させることは、そういう意味でも大きな目標だったのかもしれません。
いろいろ言われているように、戸田が国立戒壇、要するに僧侶に日蓮正宗の戒律を授ける場所を国に設けようとか、あるいは日蓮正宗の国教化とか、ここまでのことをどこまで「本気で」思っていたかどうかはわかりません(国立戒壇設置はしばらく主張するのですが)。
しかし戸田は学会の政界進出がはじまった矢先に死去します。しかし、学会の政界進出はさらに続きます。1961年には公明政治連盟が設立され、さらに 1964年には公明党が結成されました。そして1967年の衆院総選挙で25議席を獲得して第4政党としての勢力を誇るまでにいたるのです。
この間、会長は池田大作に変わりました(1960年)。池田は、57年の参院選で公職選挙法違反にあたる戸別訪問をするように学会員に指示したとされ、逮捕されていますが、下された司法判断は無罪判決でした。
この一連の出来事、特に投獄→信念を曲げず無罪獲得、というストーリーによって彼のカリスマ性が高まったことは否定できません。そのためなのか、彼はかなりの若さで頭角を現わすことになったのです。池田の会長就任は実に32歳の時です。
そして公明党と学会はさらに勢いを増し、69年の総選挙では衆院の議席を47議席にまで増やし、さらには雑誌『潮』『第三文明』を立ち上げたり、「民音(民主音楽協会)」をつくってここを拠点に多数の芸能人を送りだしました。学校法人も作り、大学まで設立します。
こうして創価学会と公明党は、その社会的地位の向上という目標を十二分に実現するのでした。
公明党の利害は自民党の、特に主要派閥である田中派との利害と一致し、連携が始まった。
しかし1969年、公明党は1つの岐路を迎えます。それは、明治大学教授(当時)・藤原弘達が書いた『創価学会を斬る』の刊行を、公明党が妨害しようとして、逆に藤原に暴露された、いわゆる「言論弾圧事件」です。
このとき活躍したのが、当時自民党の幹事長だった田中角栄です。このことは、その後のNHKの討論番組でも「よけいなおせっかいをしました」と事実上本当であることを認めています。
自民党は、1960年代を通じて絶対安定多数の議席を維持していましたが、実のところ得票率はゆるやかに低下していました(1960 年:41.9%→1969年:32.3%)。なかでも所得の高くない都市労働者・市民たちの支持獲得はうまくいっていませんでした。彼らは、公明党か共産党の強力な支持層でした(社会党の支持者は移ろいやすい「無党派層」のさきがけ的な人たちが多かったのです)。
さて、田中角栄は地方への「利益誘導」政治を形作った人です。つまり、農村を基盤とした地方に、中央から予算などをつけることによって、地方を豊かにしていく。地方はその見返りに、田中派などの自民党議員に票を集める。今でも批判されているこの図式を確立したのが田中です。
もともと、学会員たちの多くは地方出身なわけで、彼らの生まれ故郷を豊かにしてくれる自民党=田中派と、自身の都会での生活を豊かにしてくれる公明党とは結びつく存在になる。……こうして、いつのまにか田中派と公明党、学会の関係が補完関係になり、親密さを増していた。それを明らかにすることになったのも田中が介入した「言論弾圧事件」だったといえるでしょう。
また1972年には、竹入義勝・公明党委員長が首相となった田中の依頼を受けて訪中、田中訪中→日中国交正常化の地ならしを行っています。
さて、「事件」でバッシングされた公明党と創価学会は、大きなショックを受けます。池田会長は「お詫び」をし、学会と公明党のいわゆる「政経分離」を宣言・実行しますが、それでも公明党は72年総選挙で議席を半数近くまで落とします。
もちろん公明党と創価学会は「国立戒壇設置」なる政策を降ろさざるを得なくなり、池田の政界入りも閉ざされ、池田と創価学会はこれ以降ひたすら、外部に対してはとにかく低姿勢で臨むようになります。実際、今日の池田大作という人は雑誌などを見る限りでは極めて穏やかな宗教家です。
また、どういうわけか創価学会はライバルであった共産党との結びつきを強めます。いわゆる「創共10年協定」というもので、これは公明党幹部にとっても実に寝耳に水の話でした。
学会・共産党は支持基盤を奪い合うライバルであったわけですが、戦時中のファシズムの中でともに弾圧され構成員が獄中にあったという共通する過去も持っていたわけです。これに目をつけたのが作家の松本清張で、彼は池田と宮本顕治・共産党委員長を引き合わせ、この学会・共産党の「同盟」を実現させたのでした。
もっとも、自民接近を行っていた公明党はこれに反発。ここに「政教分離」をし自立しようとする公明党の姿があります。しかし、結局は学会の意向を無視することができませんでした。公明党は学会なしには存在し得なかったからかもしれません。
また70年代は「革新の時代」といわれるほど革新勢力の力が強かった時代。公明党ではむしろ自分たちの軸足を「保守中道」から「革新中道」に移した方が得策、との考えが広がり、結局はこの協定を許すことになるのです。
結局、これで公明党はイメージ向上に成功したのか、76年総選挙で失った議席をとりもどします。反面、共産党には余り効果がなかったらしく議席を落としています。
結局、この共闘は公明党には効果があったものの、共産党には特に利がなく、結局公明党の顧問弁護士が宮本委員長宅を盗聴した事件があり、もともと共産党が早くからこの協定を反故にしようとしたこともあったため、この協定は終わりを告げます。以後は現在に至るまで、公明党と共産党は、逆に犬猿の仲になってしまっています。
新進党を挟んでの公明党の分解と合流の流れ。実際には公明党→新進党の前に短期間だけ「公明新党」が存在する。
1970年代末から1980年代初頭にかけて、社会党を中心とする、あるいは公明党を軸とする連合政権構想が浮上するようになりました。しかし、それが実現することはありませんでした。
1992 年、公明党と民社党は社会党が議員総辞職願いまで出して反対したPKO協力法を支持、自民党への接近を図ります。平和主義をうたっていた公明党がこれに協力したのは、当時の自民党が田中派の系譜を継ぐ竹下派であったからでしょうか(もっとも公明党がPKF(平和維持軍)参加に消極的だったため、2001年まで自衛隊のPKF参加はできないようになっていました)。
また1980年代から地方議会でも公明党が都市部を中心に勢力を広げ、地方政治与党の一員として存在感を増すようにもなっていきます。こうして公明党は連立政権は作らなかったものの、与党的な存在になっていったのです。
公明党の与党化は、1988年に2人の公明党国会議員が受託収賄罪で逮捕・起訴されたことにも現れています。与党的な位置にいるからこそ、このように収賄で逮捕される国会議員も出てしまったといえます。
もっともこの不祥事には創価学会・学会員もそうとう反発をしたようで、それが響いたのか、公明党の国会勢力は1989年の参院選では前回比1議席減、1990年の衆院選では11議席減となっています。
1993 年、総選挙で自民党が過半数割れすると、公明党は非自民・非共産の連立政権である細川内閣に加わります。しかし、創価学会がこのあたりをどう考えていたか、詳しいことはわかりませんし、考える暇もなかったのかもしれません。それくらいこの連立政権は短期間で崩壊してしまいました。
その後、公明党は小沢一郎らが中心になって設立された新進党に「参加」します(1994年)。カギカッコ付きで述べたのは、公明党の地方議員と参議院議員の1995年選挙で改選されない議員たちが別に「公明」という政党を作り、新進党に参加しなかったからです。
結果、学会員ら旧公明党支持者は、旧公明党以外の新進党議員を熱心に支持しませんでした。そして旧公明党勢力も自民党と敵対することに躊躇(ちゅうちょ)をしていました。そのため結局「公明」の新進党への合流が不可能になり、新進党は解党しました。
その後、旧公明党の衆院議員は「新党平和」を、参院議員は「黎明クラブ」を経て「公明」に合流、やがて「新党平和」も合流し「新公明党」つまり現在の公明党が誕生することになります。
新進党当時の公明勢力はバラバラになったこともあり、一部では路線対立や学会との距離などもできていたようですが、新しい公明党の誕生により学会との距離も元通りになり、両者の間で自民との連携が確認されたようです。
こうして小渕内閣(小渕首相も田中派を源流)のとき、公明党は自民党と本格的に連携、地域振興券の実現を成功させます。さらに自民・自由の連立政権に正式参加、自由党が連立離脱すると、(自由党の分派・保守党が2003年まで連立政権に参加していましたが)事実上の自公連立政権がスタートすることになります。
そんななかで小泉政権が発足。公明党は小泉ブームに乗りながら一方で社会保障などに力を入れ、特に年金改革ではその中心となり国民に政権担当能力を見せつけています。そして今日まで連立与党として8年以上の実績を積み上げてきました。
しかし、公明党としてさらなる勢力拡大という路線をとる気配はありません。あくまでも現状維持。二大政党化していくなかで、公称800万世帯を誇る創価学会を母体にして、政界のキャスティングボードを握ることに徹していこうとしているのでしょうか。
また先のページで述べた「地方:自民、都心:公明」という連携の図式も、大都市の地方出身者割合が減少していくことによって、徐々に変化せざるを得ないでしょう。そのようななか、とりあえずは新テロ対策特措法延長をめぐって、その衆院再可決による通過を「平和主義」の観点から渋る公明党の動きが注目されます。果たしてそれでも自公なのか、それとも離反なのか……。
微妙になりはじめた自公連立、公明党はどのように動き、創価学会はそれを支持するか……。
この間、創価学会会長だった池田は1979年、日蓮正宗との紛争の責任をとって辞任し、名誉会長に就任しています(2008年8月現在の会長は原田稔/日蓮正宗とはその後1990年に決別)。しかし、実際には今でも池田名誉会長が創価学会の最高実力者であることは、さまざまな学会系の雑誌・新聞などをみても明らかです。
「政教分離」をした今、創価学会は公明党のあくまで主要な支持母体の1つ。非学会員が公明党や公明党候補に投票することももちろんあります。言われているように学会、特に池田名誉会長の指示1つで党が動くのかどうか、実際のところそれはわかりません。
ただ言えることは、公明党にとって創価学会は頼みの綱、必要な存在だけれども、創価学会にとっての公明党はどうなのかということです。学会の壮年部長は読売新聞の取材に対して「公明党を基軸にしながらそれ以外でもいい議員さんは応援するという人物本位」ということを述べている(2006年4月29日号)ことは注目に値します。学会は公明党以外の政党とも手を組む可能性を模索しているのかもしれません。
公明党はこれからも創価学会の支持をいかにとりつけるか、個々の国会議員は学会員の支持をどのように得るかが課題となっていくのではないかというのがガイドの考えです。創価学会は公明党なしでもやっていけるが、公明党は創価学会なしにはやっていけないわけですから。
さて2008年で池田名誉会長は80歳を迎えました。彼に後継者はいないといわれています。長男の池田博正・創価学会副理事長がいますが、池田名誉会長や幹部は世襲に反対しているとも言われています。その一方で待望論もあるようですが……。
いずれにせよ現在の創価学会の組織力は一見「宗教官僚」ともいわれるほど強固なものとなっていますが、「その後」の創価学会は、そのままなのか、それとも急激に変化していくのでしょうか。その予想は非常に難解だといわざるをえません。
※人名について一部敬称略とさせていただきました。