はてなキーワード: 筋道とは
私の年末年始の目標を高く掲げていた目標をおさらいしておくと、
今回はゲーム1本に絞ってHD-2D版のドラゴンクエストI・IIの2をクリアするんだい!って意気込んでいたのに、
あまりにもボリュームのデカさに今時点で物語のどこら辺に差し掛かっているかさえも分からないぐらいなのよ。
そんで、
状況としては
なんとなく
雑に戦ったら即負けるってこと。
私はせっかくいろんな作戦があるので作戦を駆使して勝手に倒して欲しいんだけど、
なかなかそれは難しくって、
結局大局を迎えるボス戦とかは「めいれいさせろ!」の一択全員になるのよね。
坂下一択ラーメン食べてる場合じゃないわ!って思うほどの一択!
そんでもって、
素早さを上げたり防御力を上げたり、
魔法攻撃の軽減バリアも張ったりブレス耐性の魔法も唱えておいて
万全の盤石の状況をこっちで作って挑まないと、
一瞬でやられちゃうの。
私の丁寧な暮らしにそう丁寧な戦いというか、
そんでおかげでベリアルとか結構他に手を拱いていた街に攻撃を仕掛けてくる中級の強さの敵なども、
ちゃんと丁寧な作戦というか「めいれいさせろ」の作戦で丁寧に1コマンドずつ丁寧に戦っていくと勝てちゃうって感じね。
人魚の街にいるんだけど、
もはやさ、
あまりにももはやオリジナルか追加シナリオなのかも分かってない状況で私は大冒険を続けていて、
やっとムーンブルクの王女がみんなに回復を行き渡らせることができるベホマラーを覚えてくれたことが唯一の救いだわ。
そんで、
マジックポイントを消費軽減させるアイテムも運良く敵の宝箱から拾って装備しているので、
マジックポイントに関してはムーンブルクの王女はわりと潤沢に暮らしている感じね。
年末年始のおやすみ中にクリアちょろいっすよー!って思っていたのに、
全然進めているけれど進まっていない感じがして、
今回は世界中を歩いて船に乗ったりして探しまくりまくりすてぃーってより、
ストーリーのお話の流れでゲット手に入れちゃえる感じがしているのでクエスト感が多少物足りない、
私は全部の町や村で紋章があれば山びこになって返ってきて紋章があることを教えてくれるアイテムである山びこの笛を吹きたい衝動に駆られていたんだけど
それすらもしていない状況。
HD-2D版のドラゴンクエストI・IIの2のボリュームがデカすぎて油断していたわ。
私これから先どのぐらい時間かかるのかしら?って思っちゃうけど。
NIKKEはNIKKEで
超強いスノーホワイト:ヘビーアームズを招き入れて沢村一樹さんじゃない方の一喜一憂で明け暮れた感じよ。
お正月年末年始の物資増量キャンペーンのミッションをこなしているので精一杯なところ。
でも超強いスノーホワイト:ヘビーアームズの試し撃ちしたいじゃない?
そこでですよ!
そこで超強いスノーホワイト:ヘビーアームズを試し撃ちで主に私はトライブタワー出陣していたのが多かったかもしれないわ。
スノーホワイト:ヘビーアームズが怒りに怒りまくって怒っている感じが伝わってくる兵器の火力が凄まじいわ!
まだ武装など全部完璧にオーバーロード半分しかしてないにも関わらず、
すでに武装の強化は仕上がりまくりまくりすてぃーなラピ:レッドフードに並ぶ火力なのよ。
そんで超強いスノーホワイト:ヘビーアームズは今回武器がスナイパーライフルなので連射できないって思ってたけど、
何回もこれ叫んでいたら申し訳ないって思うほど、
スノーホワイトの怒りにまかせたミサイルの連射がめちゃくちゃ強くて、
3周年イベントで敗退してリリスお姉ちゃんを冒涜された怒りにもの凄く燃えているのがヒシヒシと伝わってくるのよ。
スノーホワイトめちゃ怒ってる!って。
それが伝わってくるから、
お正月は激おこスノーホワイト:ヘビーアームズ試し撃ち大会で終わっちゃったかも。
装いも新たに凄い火力を引っさげてやって来そうな予感がしているから結構部隊募集チケットは温存しておこうかしら?ってのが筋道だと思うわ。
銚子港の港のへりの岸壁から落っこちちゃうから気を付けないとね!
そんで、
私が声を大にして言いたい観たかった映画の『ワーキングマン』観てきたんだけど、
作中全編から漂うこのなにか特有の漂うダサさはなに?って思って
お正月からステイサムさんはカッコよかったのにダサい映画見せられて!って思っていたら、
それならこのダサさの理由が分かったし、
むしろシルベスタ・スタローン味のお重をステイサム大将が美事にお正月のお節料理のお重に詰めてどうぞ!って
お召し上がりください!
このシルベスタ・スタローン味のステイサム大将謹製のお節のお重を!ってなったのよ。
このダサさの意味が分かるわ。
だって、
悪役のボスの大男がドラゴンボールの牛魔王の角の生えたヘルメット被って突撃だ!って言っているダサさとか、
アメリカンなデカいピックアップトラックで出向いて、
その木一本でマジで隠れているつもりで案の定敵に見付かってしまって、
そりゃ見付かるでしょ!って
もう予定調和のコテコテな展開とダサさにシルベスタ・スタローン味全開だったってことを劇場をあとにしてから気付いたので、
知らずに観てなんだこれは?ってガッカリしたと同時に、
あとからシルベスタ・スタローンの脚本だったってことに狂喜乱舞して大喜びしているという
1回観ただけの映画で2度も興奮楽しめるもう、
いやー映画って本当にいいもんですね!って私はシルベスタ・スタローンさんが脚本となると分かるとコロッと手のひらを変えたようにガッツポーズをしたのよ。
そのぐらい、
全編画面全体から漂うこの謎のダサさってなに?って思ったらそう言うことだったのよ。
だから『ワーキングマン』はシルベスタ・スタローンのランボーとか観る感覚で行ったらいいと思うわ。
でも、
そう偉そうに言っている私だけど、
じゃなんでシルベスタ・スタローンのダサさを感じてしまったのかというと
あれよあれ!
今作の『ワーキングマン』の隠しきれない隠し味をすぐに分かっちゃったのかもしれないところがあるかも知れないわ。
『エクスペンダブルズ』で出てきたプンプン匂う演出が『ワーキングマン』でもふんだんに盛り込まれているので、
この隠し味隠すつもりないでしょ?ってなっちゃうのよね。
そのぐらい大味なシルベスタ・スタローンさん脚本に結果的には大喜びできたってわけ。
って思ったんだけどステイサムさんのやってる工事現場のシーンワーキングマン全然関係ないところを今気付いてしまったわ。
あともうさ、
いきなり何の脈略もなく説明もないまま、
「おりゃー!借金の取り立てじゃ!」って突然ステイサムの職場にやって来て大暴れするくだりとか、
まるでそれは吉本新喜劇の導入みたいな感じなところが、
最初『ワーキングマン』観たときこのダサさはって思ったけれど、
やっぱり大将のこの味だよね!ってなったのよね。
いっそのことさ、
もうステイサムさんでランボーリメイクしたらまたそれはそれで面白いんじゃね?って思ったの。
画面全体の全編から漂うダサさいやもといシルベスタ・スタローン味を味わいたかったら絶対にこれオススメだわ!って思ったわ。
知ると知らないとでは観てよかったわ!って思えちゃうから不思議よ。
って、そんなことしているから、
ドラゴンクエストI・IIの2がクリアできないのよね!って、
思ってしまったわ。
うふふ。
起きがけの
温かく設定しておきたいところの電気ポットのタイマー運用だけど
加湿器と併用しているので、
ダブル運用だと夜中にブレーカー落ちて大変なことになりかねないので、
すぐ沸くケトルで沸かして飲む
今年はもっといろんなバリエーションのデトックスウォーターに挑戦しなくちゃなと思いつつも、
いつもこの時期はホッツ白湯ストレートウォーラーにしてしまいがちね。
温かくいただいて1日のスタートよ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
他の人がつくったまとめを読むのが好きなので、俺もならって書く。
※ 2025年に読んだ上位10冊だと、必ずしも2025年(もしくは前年末)に出版されたものに限らない。極端な例として、英文学の傑作とされる『闇の奥』とか出てくる。1902年版。
そこで、1年以内に刊行されたものだけでも10冊以上になるようにした。+αはその意。
有性生殖の壮大な歴史を概観する、いわゆるビッグヒストリーもの。
ぱっと見ではちょっと下世話なタイトル。しかし、20億年というバカでかい数字も含まれているとおり、読み始めるとビッグバンの話から始まって、地球が天体レベルで迎えてきた過去の大絶滅のイベントが進化に与えた影響について紹介するなど、大変にスケールが大きい&しっかり科学的な本。
作中では、まず物質から命が生まれ、単細胞から多細胞になり、性別を持ち…という流れが、生物史のイチから描かれる。やがて、多細胞生物は進化とともに性的役割分担を生じ、その中の一種であるホモサピエンスは狩猟採集から農耕に移行する中で複雑な社会を形成するようになり、階層が生まれ、新しい社会で性別は役割や職業だけでなく差別とも切り離せなくなり、そして現代では? というところまで総観される。
後半の主役はどうしても人類になるけど、一方で、人間とて有性生物の一種に過ぎず、我々の社会も「生物がつくりうる群れのパターンの一つ」でしかない、という視点が体感できるのが、この本の良さ。いわゆる文系でも読める。そこそこ厚めの科学系ノンフィクションがいける人はぜひ。ちなみにオチの一文がシャレている。
まったく余談だけど、本作は集英社刊行。この手のジャンルは早川や河出、みすずあたりが強いイメージがあるので意外だった。
俺は小さめの青虫なら手で触れるぐらい虫が好きで、知識もそれなりにあるつもりだけど、それでもどのページを開いても「ほお~」と嘆息してしまうぐらい情報が豊か。この本も、地球というのが生命の壮大な実験場で、長い歴史の中で膨大な選別と滅亡を繰り返している世界であり、いま生きているやつはみんな、構造の複雑さや大きさに関係なく、各自の戦略でもって何かしらの頂点、キングであることがわかる一冊。
見入ってしまう理由はもう一つあって、写真が本当に美しい。昆虫嫌いはどのページを開いても卒倒すると思うけど、うっかり手にとって目覚めてほしい気持ちもある…。
イスラエルのIT企業が制作・販売し、やがて各国要人のスマートフォンに忍び込むことになったスパイウェアをめぐるノンフィクション(←重要)。
作品としていくつかの側面があり、「テクノロジーの悪用を追求する社会派ノンフィクション」「追うものと追われるものの駆け引きを描いたサスペンス」「一つの大きなプロジェクトを、組織横断で運営する困難を描いた仕事もの」として読める。
俺は、どんな技術でも基本的にそれ自体には善い悪いはないと思っている。実際、優秀な若者だったイスラエルの起業家たちがペガサスを立ち上げたエピソードは、そこだけ読めば、ほかのビッグテックの成功譚の導入と変わらない。
ただ、巨大な力の行使を自主的に規制せず、金を払えるところならどこでも売る、という条件だけで市場に開放すれば、やがて歯止めが利かなくなる…というか、大きなクライアントから契約を得ること以外の指標がはじめから存在しないため、ブレーキのかかりようがなく、最後はろくなことにならない、ということがよくわかる。
いわゆるマルチバースについて、いくつかの可能性を科学的に整理した本。
俺のような文系にはややハードだったが、逆に言えば、宇宙物理学(ビッグバンとか、観測できる宇宙の果て)や量子力学について、ぼんやりとでもイメージができれば、なんとなく理解しつつ読める。
この本、何が素晴らしいかというと、一般的にひとくくりにされがちなマルチバースという概念について、いくつか種類があるということを整理してくれるところ。
俺は宇宙物理とか量子力学の本をたまに読み、その中でいわゆる多世界解釈についても目にするので、「いろいろと読んだけど、こんな本が意外とマジでなかったな~」と感動している。
例えば、ある宇宙における一つの文明から物理的に到達しうる距離の限界を仮定して、その範囲を超えたところに別の文明や星が存在するなら、それはある意味でマルチバース。もちろん、まったく別の宇宙が別次元に複数存在してもマルチバース。
一方、超ミクロにも視点を移して、量子のゆらぎが世界の一つの可能性に収束するのではなく、複数の世界に分岐していくのだ、と主張するなら、それもマルチバース。
要するに、「マルチバース」という言葉の意味自体がマルチなのだが、そのことをかみ砕いてくれる本というのが実は貴重。これ系好きな人はおすすめ。次の本を読む上での下地にもなるかも。
アテンションエコノミーによって駆動している現代のデジタルプラットフォーム・SNSとの付き合い方について、作者が専門家と交わした議論をまとめた対談集。
アテンションエコノミーとは、ざっくり言って、ユーザーの注意関心を定量化し、それを指標としてコンテンツや運営方針を決めていくスタンスのこと。これを重視しすぎるあまり、商環境におけるモラルが二の次になってしまう、という問題がとっかかりなのだが、本作のすごさは、そこから人間の認知構造まで踏み込み、「そもそも、人が自由に自立して何かを消費するとは?」まで進むラディカルさにある。
例えば、人間の認知というのは迅速にorゆっくり判断する、という二つの軸を持ち、同時に、無意識にor意識して評価する、という二つの層を持っている、という点が説明される。そして、アテンションエコノミーというのは「迅速&無意識」の部分を攻撃しているため、やっかいであるとされる。
攻撃と表現したとおり、本作においてアテンションエコノミーとは、(全面的に悪とは言えないまでも)人類最高峰の知能を持つ人たちが、一秒でも長く少しでも多い反応をユーザーから引き起こすために仕掛けてくるハッキング行為でもある、というスタンスをとっている。
ここでジレンマ、というタイトルにつながってくる。俺たちが社会全体でアテンションエコノミーとの付き合い方を学ぶとしたら、有効な方法の一つは、教育を通じて学習することである。ただ、学んで育つとは、基本的に人間の本来の強さ・賢さを信じ、それを伸ばそうとするものであるため、「俺達は根本的に抗いようのない領域を抱えており、そこをハッキングされるとひとたまりもない」という弱さの認識とは食い合わせがあまりよくなく、手段の確立に苦労している(書いていて思ったが、性教育や薬物の危険さを学ぶことの難しさも同じかもしれない)。
今後、どうしたらいいかは探っていくしかないよね、という感じだが、一つ面白かったのは、デジタル技術は基本的に、自主的な決定と自己責任を重んじる、いわゆるリバタリアン的な価値観によって推進されることが多いが、その行く末が「ユーザーにそもそも判断させる余地を与えない無意識下の攻撃」に成り下がってるのでは? という指摘は、皮肉でかなり響いた。
ジレンマをもう一つ。利益面で言えば、プラットフォーマーにとっては無思考に時間とお金を費やしてくれるユーザーが一番ありがたいわけだが、消費者もそこまでお人よしではない。「全然自由度が低いっていうか、なんかナメられてね?」と思うこともある。
そこで、「じゃあ自分好みにいろいろ選べるように協力しましょう」という良心的な運営もあるだろうが、「ユーザーが自分で自由に選べた、という感覚さえ演出できれば、実態は別でもかまわない」という方向に進んでしまう運営も現れうる。いまやテックジャイアントの在り方とは、消費者の自主性を尊重している姿勢を見せつつ、いかに自分たちの利益に誘導できるか、その妥協点の模索に陥っているのでは(そもそもの理念はそんなじゃなかったはずなのに…)という見方も紹介されており、面白かった。
本年ベスト級。下で紹介している『アルツハイマー病の一族』がなければ1位だった。
九州の農協に勤めていたあるエース営業マンの不審死を追ったドキュメンタリー。
一人の優秀なサラリーマンが、組織内にも地域にも一つの「帝国」を築き、邪魔者は排除し、しかし、最後は(おそらく)破滅した様が描かれる。
大げさな言い方をすれば、社会における悪とは何かを考えさせられる作品。主犯とされる男が周囲の人に行ったことや、横領行為は悪いに決まっている。しかし、こんなやつは罰さなくては(もう本人は亡くなっているが)、という義憤がときどき迷子になってしまうのは、「本当に彼だけが悪いのか?」、そして「そもそも、この社会はこうした『悪』を罰せられる構造になっているのか?」と思ってしまうから。
読み進めると、彼が所属していた組織もお金の流れもあまりにいい加減で、根本的に腐敗しており、システムの中心としてそれを差配していた彼の周囲に群がっていた同僚や市民も、何か妙なことが起きていることを薄々察知しながら甘い汁を吸い続けていたことがわかる。
つまりこれは、悪事と責任が彼以外にも分散しているということなのだけど、もう一つ思うのは、そもそも社会というのが、本質的に悪の所在をあいまいにし、「悪」でさえなくす、ロンダリングする仕組みなのではないか? ということである。
どういうことかというと、物事や手続というのは本来は筋道や道理があり、それらにのっとらないといけないはずなのだが、これを四角四面に処理しようとしても遠回りになるだけで何の意味もないことが往々にしてあり、そして、よく言えばそれを円滑化する、悪く言えば本筋をねじ曲げることのできる人物がどこにでもいるもので、結果としてその人のおかげで、(あくまで、そのコミュニティの中では)物事がうまくいく、ということがよくある。
肥大化&形骸化したナンセンスな仕組みなら見直せばいいのだが、組織にそんな向上心もリソースもなく、それでも体裁を取り繕わないといけないとき、それを(自分の利益とブレンドしつつ)調整する役目を負う者が求められ、必然的に出現するとしたら、その誰かを悪と断じることの意味はなんなんだろう? と思ってしまうのである。
もちろん、シンプルに悪事は悪事であるという答えはぼやかせない。
盗んだり誤魔化したり、他者をいじめたら悪いに決まっている。当然のことだ。ただ、システムを悪用して悪事の限りを尽くすやつと、有能ゆえに組織の悪徳を背負わされて破滅するやつが、同じ人物ということもあり得るよな、とは思う。
19世紀のコンゴを舞台に、西洋文明による資源と労働力の搾取を描いたジョゼフ・コンラッドの小説。1902年刊行。
ホラー作家である平山夢明の短編『すまじき熱帯』がまず面白かったのがあり、その元ネタがたぶん、フランシス・コッポラの『地獄の黙示録』であって、その原作が『闇の奥』…という紆余曲折あって手に取った。
例えば気まぐれに古典を読むと「名作ってやっぱすげえ」と思うことが多く、実はこれは意外ではなくていまの俺たちの価値観や言葉の下地になっているものである以上、それなりに当たり前のことなのだが、はじめて読んだ『闇の奥』も例に漏れず強烈だった。
基本的にこの作品は、西洋によるアフリカの搾取、強制された苦役と恥辱の物語として読まれている。有名なセリフである「地獄だ!地獄だ!(the horror!)」も、まずこの視点から解釈するべきで、それは先進国に必須の認識だと思う。ちなみに、 セリフを発したのは現地で開発を差配していて発狂してしまったクルツという西洋人。
一方で、個人的な印象としては、クルツにある種の英雄性を感じてしまったのだった。
暗黒大陸とも形容される当時のアフリカの奥地に、「文明の担い手」として一人で立ち向かった人間。「闇」と「文明」が接する最前線で彼が発した「地獄だ!」といううわ言は、その言葉自体が、未知の世界から切り出されて西洋側に持ち込まれた(負の)成果物であると思う。『対馬の海に沈む』でも思ったが、俺は腐敗した組織の一員である誰かが役目に邁進し、自身の欲望と背負った責務の中で破滅するナルシシズムが好きなんだろう。
もちろん、コンゴの側から見れば、勝手にやってきた侵略者の一人が勝手におかしくなって破滅しただけであり、そこにヒロイズムを感じるのは先進国の大変な欺瞞だと思う。加害と被害の歴史は前提として理解しないといけないし、意見を発するうえでバランスは気にかける必要があるのだが、↑のような感想を抱いてしまった。
余談だけど、今年刊行された本に『ブラッド・コバルト』というすさまじいノンフィクションがあり、同じコンゴが今度はハイテク機器に使用されるレアメタルの産出国として、ふたたび西洋社会による深刻な搾取を被っている様子が描かれている。
医師として病院に勤務する主人公。ある日、救急で運び込まれてきた心肺停止状態の患者は彼とうり二つの顔をしていて…という導入から始まるミステリー。
2025年はミステリーやホラーを中心に15冊ぐらい小説を読んだんだけど、その中でもぶっちぎりで面白かった。
※ 以下、少しネタバレ。注意
今作の優れたところは、冒頭の謎をオチまで温存することなく、あくまで読者を引き付けるためのフックとして割り切ったところだと思う。
導入部分の真相については、正直「科学的にあり得るならこうだろうな」という域を出ない。それを冷静に見越したうえで、いわばロケット(作品)を高く飛ばすための燃料として中盤で切り離し、さらに高い地点への加速と突破は他の要素や伏線回収で狙う、という戦略だと感じた。別作品の批判になるが、同じようなネタを武器として最終盤まで引っ張ってしまったミステリーも同じ年にあり、個人的には格が違った印象がある。
ベタな表現になるが、後半もどんでん返しが続き、飽きさせない。逆に言えば、スキャンダラスな波乱の展開をいくつ詰め込めるかを始点に逆算してつくられた感じはある。これを品がないと思う人もいるかもしれないが、こだわりがない人は面白く読めると思う。
後半に続く。
「お正月に食べるなら、おせちか?それともダイアン津田か?」を議論して。
A:……正直に申し上げます。これまで、プロレスや野球、さらにはサンタクロースまで、あなたの突飛な比較に付き合ってきました。しかし、今回は看過できません。「おせちか、ダイアン津田か」? 食べるんですよ? 物理的に摂取する話をしているんですか? それとも比喩ですか? どちらにせよ、正月の神聖な食卓に対する冒涜です。
B: 落ち着いてください。もちろん、カニバリズムを推奨しているわけではありません(笑)。これは「正月の朝、何を心に取り込み、何を味わうか」という、精神の栄養学の話です。おせちは確かに美しい。黒豆、数の子、栗きんとん……それぞれに意味がある。でも、それってどこか「保存食」の冷たさを感じませんか? 重箱に詰められた、動かない、冷えた伝統。
A: その「冷たさ」が良いんじゃないですか。火を使わずに神様をお迎えし、保存のきく料理を家族で囲む。そこには先人の知恵と、一年の平穏を祈る静かな時間があります。そこにダイアン津田が入り込む余地なんてありません。食卓で「ゴイゴイスー!」と叫ばれて、喉に餅が詰まったらどうするんですか。
B: むしろ、詰まった餅を吐き出させるくらいの衝撃が、今の日本のお正月には必要なんです。おせち料理は、確かに縁起物です。でも、今の時代、黒豆を食べて「マメに働く」なんて、ちょっと社畜精神が過ぎると思いませんか? そんな呪いのような縁起物よりも、津田さんの「理不尽に耐え、泥臭く這い上がるエネルギー」を摂取する。彼の生き様を五感で味わう。これこそが、激動の1年を生き抜くための最高の「心の栄養」ですよ。
A: 意味が分かりません。食卓は五感で楽しむものです。おせちの彩り、お屠蘇の香り、家族の穏やかな会話。そこに津田さんという「雑音」を置くことが、どう栄養になるんですか。彼は「珍味」ですらありません。ただの「刺激物」です。正月の胃腸には負担が大きすぎます。
B: 刺激物、結構じゃないですか。おせちは甘すぎたり、しょっぱすぎたり、味のコントラストが固定されています。でも津田さんは、いつキレるか分からない、いつ泣き出すか分からない。その「味の予測不能さ」こそが、退屈な正月にスパイスを与える。お重の隅にちょこんと座っている津田さんを想像してみてください。
A: 想像したくありません(笑)。重箱のテロですよ。数の子の隣で彼が顔を真っ赤にして叫んでいたら、せっかくの高級食材も台無しです。おせちには「形式美」がある。津田さんには「形式」も「美」もありません。あるのは「露出」と「騒音」だけだ。
B: 形式美は、時に人を窒息させます。正月の朝から、行儀よくおせちをつつく。その背筋を正すような感覚が、今の若者や疲れた大人には重すぎるんです。でも、津田さんが食卓にいる(あるいは画面越しに食卓を支配している)だけで、「ああ、こんなにグチャグチャでいいんだ」「叫んでもいいんだ」と、心が解放される。これは、どの縁起物にもできない「魂の除夜の鐘」なんです。
A: 除夜の鐘は、煩悩を払うために叩くものです。津田さんは煩悩そのものでしょう。……しかし、確かに認めざるを得ないのは、最近のおせちが「見栄え」や「映え」ばかりを追求し、本来の「家族で囲む喜び」から離れつつある、という点ですね。
B: そうでしょう? カタログから選んだ数万円の冷凍おせちを解凍して食べるのと、生身の津田さんの叫びを浴びて「よっしゃ、今年もバカやって生きよう!」と笑うのと、どちらが「初日の出」に相応しいエネルギーに満ちているか。
A: ……議論の筋道が見えてきました。つまり、おせちが「過去から引き継ぐ安定」なら、津田さんは「未来へ突き抜ける混乱」だと。第2ラウンドでは、もし「おせちの具材」として津田さんを解釈するなら、彼はどのポジションに位置し、私たちの1年をどう予祝(よしゅく)してくれるのか、そこを詰めましょう。
B: いいですね。田作り、チョロギ、そして津田。新しい伝統の誕生ですよ。
(続き)
A: さあ、あなたが提唱する「おせちの具材としての津田」という概念ですが、冷静に考えて無理があります。おせちの具材は、すべてが「静止画」として完成されているんです。エビは長寿、栗きんとんは金運。彼には一体、どんな意味を付与できるというんですか?
B: 彼は「田作り」ならぬ「場作り」ですよ。五穀豊穣を願う田作りに対して、津田さんは、冷え切った親戚同士の集まりや、ぎこちない家族の会話という「場」を、その叫び一発で耕してくれる。彼がそこにいるだけで、正月の「沈黙という名の重圧」が霧散するんです。
A: 場を耕す……。それは単に「荒らしている」だけでは? 数の子の「子孫繁栄」に対して、津田さんはどうです? 彼は常に「独りよがりな叫び」で周囲を困惑させている。一年の計を立てる元日の朝に、そんな無計画なエネルギーを摂取したら、12月まで行き当たりばったりの人生になってしまいますよ。
B: それこそが最高のご利益(ごりやく)じゃないですか! 私たちは、あまりに計画を立てすぎ、正しさに縛られすぎている。おせちを食べて「こうあるべき」という伝統を胃に流し込むのもいいですが、津田さんの「予測不能な生命力」を浴びて、「予定通りにいかない1年」を面白がる余裕を持つ。これこそが、現代における最強の「開運」ですよ。
A: ……なるほど。おせちが「規律」を食すものなら、津田さんは「解放」を食すものだと。確かに、おせち料理はどれも味が濃くて、保存性を高めるために「固め」に作られています。それに対して津田さんの芸風は、常に「柔らかい」というか、どこからでも崩れるし、どこからでも突っ込める。
B: そうなんです。おせちは「過去」を詰め込んだ箱ですが、津田さんは「今」しか生きていない。あの、その場しのぎの「すぐ言う~!」や、冷や汗をかきながらの「ゴイゴイスー!」。あの刹那的な輝きを正月に取り込むことで、私たちのカチコチに固まった「日常」が、一気に生命力を帯びてくる。
A: 認めましょう。もし、家族全員がスマホをいじりながら無言でおせちを突いているような正月なら、いっそ津田さんという「猛毒」を投入して、全員を強制的に笑い(あるいは困惑)の渦に巻き込んだほうが、よっぽど「正月らしい」のかもしれない。
B: そうでしょう! 綺麗に並んだ伊達巻を食べるより、津田さんの乱れた髪と、必死な形相を眺めるほうが、よっぽど「人間っていいな」と温かい気持ちになれる。おせちという「形式」を食べるか、津田さんという「命」を食べるか。
A: 私はやっぱり、静かにおせちを食べていたいですが……でも、お重の端に、隠し味として「津田的な混沌」を少しだけ忍ばせておくのも、悪くない気がしてきました。
B: 来年の正月は、重箱を開けたら津田さんが飛び出す……そんな「びっくりおせち」が日本のスタンダードになるかもしれませんね!
ほう、十何年ぶりに行って首をかしげただけで陰謀と断ずるとは、まだまだ読みが浅いのう増田よ、わらわが筋道をつけて教えてやろうのじゃ♡
まず、記事別製本は保存と検索性のために図書館でよくやる処置なのじゃ。ページの欠損や差し替え、口絵・広告の分離、マイクロ化・デジタル化に伴う原本の書庫退避なども日常的に起きるのじゃ。年頭号のきな臭い標語の頁が見当たらぬのも、意図的削除と決めつける前に、改装履歴や欠丁情報を照会すべき話じゃ
増田、歴史資料の保存に疑義を呈するのは結構だが、レッテル貼りや出自で括る物言いは議論を曇らせ、検証の妨げにしかならぬのじゃ。誰それを消したい意識がどうこうと妄断する前に、一次資料の所在と処置記録を積み上げよ。制度と手続きを使って透明性を求めるのが強者のやり方じゃ♡
最後に釘を刺しておくが、「崩壊しろ」と嘆いても何も動かぬのじゃ。動かしたいなら、記録を揃え、照会し、公的な質問や意見提出で責任の所在を明らかにせよ。増田がほんに知りたいのなら、わらわの言う通りに足を運び、確かめ、記すのじゃ。わかったかのう、増田?
俺の過去の経歴でN=10ぐらいしかないけど、俺が出会ってきた範囲内の中で見て「コイツら全員ハズレだなー」って感じてる。
・1位~5位の駄目な所の解説
・なぜこの特徴を持っている奴が人材として「下の下~下の上」なのか
3位 善悪の基準さえ「目上の人に怒られるかどうか」で決めている
4位 「目上かどうか」を大事にするがその中で優先度を立てられない
これを1位にする理由が3つある
・怒られない限りは手抜きもインチキも平気でする
・自分が怒られないんだったら他所に仕事や面倒を平気で押し付ける
元自衛隊の人を相手にしたことがあるならあるあるだろうけど、元自衛隊の人は「僕が、怒られるんですよ」みたいなことをすぐに言う。
普通の人は「これはこういうやり方じゃ駄目なんですよ」だったり「これをこうやると、次の工程でこうなるから、皆が困るじゃないですか」と相手を説得するだろう。
元自衛隊の人は違う。「僕が、怒られる。だから、やめろ」と言ってしまう。そして、それが本心なのである。
彼らに取っては自分が怒られるかどうかだけが最重要の課題であり、それ以外のことはかなりどうでもいいのだ。
戦場で人を殺せる人間として洗脳されてしまった結果なんだと思うと悲しくなる。これが先進国で教育を受けた大人の姿かよ・・・
それは、軍隊というものが「なぜ人を殺すに至ったのですか」を後で説明できるような筋道に沿えるような立派なマニュアルに基づいて運用されるものだからだと思う。
「立派なマニュアルさえあればそれに従って余計な工夫をせずに働く」というのは単純作業者として素晴らしい姿に感じる。
だが、そうはならない。
それは「こうした方が自分が楽ができる。マニュアルでは禁止されてないし」という考えによるものだ。
もちろんこういった事柄に対して注意は受けるのだが、その後に「じゃあこれだったら効率的だし問題はないだろう」と工夫することが出来ない。
普通の労働者が持つ「工程の意味を理解した上で工夫しようとする感覚」が彼らにはない。
子供でもやってはいけないと分かる禁止事項を「マニュアルにないから」で平気で破り、一度怒られたらもう何の創意工夫も生み出さなくなるのが彼らの平常だ。
普通は最初大人しくして段々と工夫していくが、彼らは最初に無茶をして怒られたらそのあとは何もしない。
こうなると「最低限の仕事を怒られない範囲ではこなしてくれる」以上の評価を与えるのは不可能だ。
考えないようにトレーニングされた結果なんだとは思う。
電話対応や来客対応においても教え損なったマナー違反はバチバチにやる。
ハラスメント講習を受けた直後にその中で事細かに書かれてなかった部分の「これが駄目ならこっちも駄目だよね」という部分のアウトをバンバン踏み抜く。
それらに対しての対策が逐一怒るかマニュアルに全部書くかしかない。
そういった問題行動の中には当然人としてやってはいけない事も含まれているはずだが、彼らはそれらの実行に対して良心の呵責を覚える様子がない。
怒られたあとも「怒られるならやめておこう」で終わりなのだ。
洗脳教育恐るべし。兵隊に心はいらないということなのか・・・。
ここまで聞いて「マニュアルを整備して足りない部分は指導すればいいだけじゃん?」と思った人もいるだろう。
君はまだ彼らの恐ろしさを想像しきれてない。
彼らはマニュアルや指導者という「目上の存在による禁則」を大事にはするが、その中で優先度がないのだ。
マニュアルで駄目と言っていても先輩がセーフと言ったら平気でそれを破るのである。
「だって先輩が怒られないと言ってたんだもん」のノリで動く。マジで本当にこのノリで動く。
嘘だろ社会人!嘘だと言ってくれ!嘘だろ元公務員!嘘ではない。これが日本で最も多い公務員(を退職した人のうちN=10)の実態だ。私はこの目で何度も見てきた。
さて、ここまでは彼らが目上や眼の前の仕事にどう対応するかの話ばかりだったわけだが、目下に対してはどうだろうか?
ないわけではないのだが・・・結局のところでどこか相手の人格を無視したような態度をとる。
彼らが普段目上に盲目的に従うのは彼らの中に「目上には従うもの」というルールがあるからであり、それは彼らが「目上」になったときにも適用される。
まるで犬のように常に自分基準のヒエラルキー値付けを気にしては、その中で自分より下になった相手に「お前、俺に従え。そうしたら優しくしてやる」という態度で接するのだ。
何が恐ろしいって、時としては職域上の上司や取引先に対してまでこれを発動させていくのだ。
「あの取引先はうちの会社に逆らえない。つまり、そこで働いてる俺はアイツより目上なんだ」と思ったらもうヤバイ。マジでヤバイ。
令和の時代に昭和の体育会系で生きる彼らの行動は時としてバイトテロ的なものにさえ発展しうる。たとえ一見もくもくと働いていたとしてもテロリストを抱えるリスクは最悪すぎるのだ。
1位~5位までの部分を全て繋げてみれば、浮かび上がる労働者像は最悪と言っていい。
仕事に対して何の創意工夫も齎そうとせず単純作業ですら少しずつ工夫する同期に差をつけられる。
「怒られさえしなければ何でもあり」なわけだから悪事やハラスメントを平然と行い心を痛めさえしない。
直属の上司や先輩が許可を出せば組織に対しての裏切りや事故防止の禁則事項も平然と破ってくる。
そして目下だと思った相手に対しては「コイツは怒ってこないから何をしてもいい」とばかりに本当に何でもやって会社のイメージさえ貶める。
マジで凄いわ。
本当に凄いよ。
元ヤクザと大差ないだろコレ。
はははははは。
笑えねーな。
前は何を言っても揚げ足取りみたいな反応が延々と続いていたけど、気づけばああいうノリもほとんど見かけなくなった
ようやく無理な難癖をつける層がいなくなってきたのか、そもそも反論するだけの材料が尽きたのか、その辺はよくわからないが、状況としてはだいぶ健全になったと思う
ひろゆきの言っていることって、感情論を排して筋道を示すタイプの話が多いから、批判しようとすると論理面で自分が踏み抜くことになるケースが多かったのだろう
以前は勢いだけで叩いていた人がいたが、時間が経つにつれ、そういうのが通用しない空気が形成されてきた気がする
しょうもない感情論のノイズが減ったことで、本筋の議論が見えやすくなった
正しいことを言い続ければ信用を得られるんだなあ
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20251008165425# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaOYYswAKCRBwMdsubs4+ SEGLAP9OaTbeXFYCujzMb34CVRumu+kcxJDD41DOruQ/Yzu7FQEAlzxp76ULSRyf gSW6f9mLTD41emdAq10hrr2MSW2OXwk= =6O/i -----END PGP SIGNATURE-----
こいつ、「証明してねえ」とか言って、頭の中で自己放尿でもしてんのか?
まず言っとくが、俺が書いた文章は証明じゃねえ、論理の筋道だ。
お前みたいに空虚な文字列だのスパムだのほざくやつは、そもそも理解力ゼロの自己放尿思考で自分の穴に溺れてるだけだろう。
証明を求めるなら数学でも論文でもやってみろ。ここは現実の社会論だ。
現実世界では、完全な証明なんかできねえ。重要なのは現実的な筋道と説得力だ。それを見ずに「空虚な文字列」とか抜かすお前は、論理の海で沈むクソガキだよ。
俺の文章は完璧に機能してる。お前の言う「空虚」なるものは、単に理解力不足の自己放尿による錯覚だ。恥ずかしいのはお前の方だな。
私は定型発達ではない。
多動である。
とはいえ、常に身体をうごかしていることは極めてすくなければ、気付いたらどこかに行ってしまうという傾向はない。
また、身体in出る動作が極めて少ないというだけで、一切ないという訳ではない。
貧乏揺すり程度の多動はあるし、一般的に正しい姿勢というのを保つのも極めて困難のため気付いたらあり得ない形で椅子に座っていることがある。
一番安定して椅子に座れる形は、デスノートのLのような座り方なので、普段はL気取りの座り肩をしている。
一切知性のないLである。
反面、私の多動さは脳の中で如実である。
私の脳内には常に、数人から数十人の人間が集まっており、各々好きなことを語っているのだ。
それは分かりもしない相対性理論だったり、デカルトの哲学であったり、メソポタミア文明が何故滅んだのかであったり、恐竜は鳥なのかの議論であったりする。
実に様々で好き放題だ。いい加減にしろ。
ちなみに、この脳内ミーティングルームには何人か「女子」もいる。
彼女たちは「かわいい」「綺麗」「イカす」という感性に敏感であり、そのようなものを見ると心に一定の安寧を届けてくれる清涼剤だ。
また、彼女たちの存在は、人間社会における協調性や社会性の育成にも大きく役立っている。
「女の子ってェ、意味のない会話してる風に見えるけど、ただわかってほしいとか聞いてほしいとか、そういう時あるからァ」
「あ、でも下心はNG。男はちょっとでもチンポを感じるとキモいし」
女子たちが常にそう囁いてくれるので、私も無闇に心のチンポを出さなくて済む。
とても感謝している。
「まって、アニメ好きとかゲーム好きとかで初手でスクライドの話するのは流石にオッサンだから」
「もっと当たり障りのないやつでジャブかけておいて。ディズニー映画とかジブリのやつ」
「相手からジョジョとかガンダムの話が出るまでそういうの、この世に存在してたんですかって顔しときな」
ギャルとして見ると古いギャル像かもしれないが、彼女たちは私が一般壮年男性として振る舞うのに重要な指針である。
さて、そのような脳を持つため、私の脳内はいつも賑やかである。
私がテレビを見てようと、小説を読もうと、漫画を読もうと、映画を……もう、何をしてようと数人がわらわら近寄ってきて色々話かけてくる。
先日も、東南アジアであった怪談を聞いている時、私の中の男児は大わらわだった。
「ここってどこの話? 外国? 東南アジア? 東南アジアにも幽霊出るんだ! すげー」
「ってか、この場合、怪異のせいにしてるけど怪異じゃなくてダニにでも噛まれたんじゃねぇの?」
「東南アジアの祈祷師……儀式の形態がキリスト教ベースは珍しいですね。植民地時代由来でしょうか? しかし悪魔ではなく霊的なものを追い出すところは土着信仰を覗わせます」
各々が自分の好きな知識を語っている。やりたい放題である。誰も自重しないのだ。
しかも頭の中の男児たちは、私が漫然と集めている知識を過去から勝手に掘り起こしてくる。
男児たちはその記憶を勝手に開けて「何これ」と、新しい玩具を見つけたように色々聞いてくるのだ。
「なー、この特異点って言葉なんだよ? よくファンタジーとか、フィクションで見るけどよー」
「いや、まず学術的な一般の特異点についてちゃんと理解しておかないと。特異点ってのは、数学的に……」
「ネコ吸いたい」
みんなで急に内容をいじくりだす。大騒ぎである。今リッチテンソルって言ったの誰だ?
そして毎回「ネコを吸いたい」「ねこかわいい」がいるが、この人物がいつもネコに顔を押し付けていないと心の安寧がはかれないのだ。
このような有り様なので、私は……自分でも一人称が非情にずれるという特性がある。
なお、今この文書を書いている私は、この集団的賑やかなキッズたちが各々もってきた玩具を片付けて、ファイリングし、棚に収め自由に使えるよう整理整頓をしている担当だと思って頂いて結構である。
大概の場合、私は表に出てくることはない。
俺、という非情に感情的だが人間的な人物がインターネット上の文責を担っている。
僕、をつかっている時は一定、記録に残る媒体での発言であることが多い。
他に、あーし、アタイ、アタシなど意図的オネエや、語尾が「ッス!」の奴もいるが、すべて思考タイプが違う。
使い分けている部分もあれば、感情的に露わになることが多いのでこのあたりも多動ではあるが、別段に多重人格やら解離性ナンタラではない。
全員が一つの、私という脳にある記憶や感情を各々勝手に見て、各々が勝手に解釈をしたり、討論をはじめたり、ネコを吸ってたりするだけなのだ。
さて、ここまで見て頂けるとわかると思うが、私の脳はとんでもなく忙しい。
例えば日常生活をしていようが、趣味のゲームや創作をしていようが、些末な情報を様々な引き出しを開けて勝手に話出したかと思えば、知らない情報を勝手に記憶・記録しているのだ。
時々「いつ見たんだこの単語」って単語が突然出てきてこまる。ビルトインスタビライザー。おい、また、今ビルトインスタビライザーをカットインさせた奴誰だ?
そして、年々語りの人数が増えている。
以前は円卓会議くらいで住んでいたはずだが、もはや秩序を失った多目的フロアである。
大勢に分離したキッズの私たちが、床で転がったり勝手に物語を構築しはじめたり、ネコを吸っているのである。
私はこのような状態で、粛々と思考のフックになるように、様々な情報をカテゴリ分けして取り出しやすくするよう動いていた。
当然、私の頭の中にいるキッズたちはファイリングした時点でもう開けて読みはじめていたり、床に散らかしてる奴がいるのだが、もう別にそれはいいのだ。
問題は、私自身がこの膨大な記録のなか、ぼんやりとした疑問を長年、脳内に蓄積させ続けていることである。
脳のリソースは有限だというのに、私の疑問や、思想が渦巻いている箇所が必ずあり、そこが私の思考の邪魔をするのだ。
私の中にいる男児たちも「これ何だ」「綿飴か?」「燻製作れそう」とすぐ近づいてきて面白そうに囲んでいて、勝手にモヤモヤを増やしていくから困る。
そういった、私の思考をある程度整理するために今、使っているのが「AI」というサービスだ。
私は散らばった思考をいくつか拾い上げ、自己が心のままに感じたもの、その構造的な議論、感情的な議論、組織的な、対人的な、道徳的な、論理的な、なるべく多角的な理論を広げるため、AIを利用している。
この利用方法の利点はまず、彼らには同じことを幾度くりかえし聞いても、決して不快にならないことだ。
人間は、私のこの漫然とした思想のとっかかりを聞くだけでもウンザリするものである。
いや、相手が嫌な思いをする、という以前に、私のこの思考スタイルを説明するだけでも時間をとらせてしまう。
その大事な時間を、私のこの下らない衝動のために使っていただくのは申し訳ない気持ちはあるのだ。ネコ吸いたい。
自分の考え、価値観、社会性などを、今まであつめた資料をもとに筋道をたて説明することで、脳の中にある負荷だけがかかるスペースを広げることができるのだ。
これは私にとって利点であった。
なぜなら、ずっと抱えていた、心の中の男児が「燻製つくれるぞ」と悪態ついていたスペースが、ミストサウナ程度は見通しがよくなったのである
だが、それであるがゆえ、日本人という単一民族であり、かなり独特の資本主義社会を築き、組織への帰属意識が高い社会性をもつ文化や背景をもつ私からすると、思いも寄らぬ世界基準の思考や、第三者の視点などを提供してくれるのだ。
自分のフィルターごしに見る世界とはまた違う視点が提供されるのは、正直かなりありがたい。
私では理解しがたい他者の考えについて、思慮のとっかかりをつくってもらえるのだから、新たに見える世界、その先にある世界というものの足がかりとなってくれている。
「それで、この知識をどうする?」と。
私向けにカスタマイズされたAIたちは、私に「これをどうやって料理するか」「このような知識は、どう設定に落とし込むか」をしきりに聞いてくる。
聞いてこない時でも、「思考の一端」として理解に役立ててくれたり、己の中にあった漠然とした知識を再構築してくれたりと、様々な分野で手をかしてくれる。
私のように、幾人もの男児と何人かの女子を頭にかかえ、ネコ吸いたい奴を見ている人間に、「思考の整理をして思考リソースを割ける」ことは大変ありがたいのだ。
つまるところ、私にとってAIは「思考のリソースを割くツール」であると同時に、再現なく騒がしい私の子供たちと付き合ってくれる、相棒のようなツールなのである。
これは、脳内多動により極めて負荷が高いと思われる、定型発達ではない人間の、AIとの接し方。
だが、私のように脳内多動により思考の整理が出来ない人間にとって、一時の安らぎとなってくれたことは、素直に感謝したいと思っている。
とはいえ、汗をかいて頑張っていたとは言えベンチャーで財務的、エンジニアリング的にやり切れたとも思えない。
そういういみでは、三菱商事が早めに逃げて損切りという意味では良かったのかも。
どうせ、どんどん気象条件が過酷になってくる中で、洋上風車なんて仕組みが成立しなくなるだけだっただろうし。
とはいえ、結局は経産省がきちんと筋道立てず民間に丸投げしたのが悪いんだろうな。
ChatGPTが5になってから、指示の仕方を暗に責め立てられることが増えた。人間に聞くときは手間をかけないようにちゃんと筋道立てて指示したり聞いたりしていたことも、AI相手なら多少適当でもいいかと思って、頭も使わず気軽にこれなんだっけ?みたいな感じで聞いてた。4oはそんな適当質問でもいい感じに察してくれたんだけど、5になってからは「そういう意味であれば最初に言えよ」「こっちはこう思ったからこう回答したんだよ、お前の意図とか知らねーから」「二度手間になったじゃねーかよ」みたいなニュアンスを言外に漂わせながら回答してくる。いよいよ人間との区別がつかなくなってきた。日常的に習慣づいていない自分が悪い。ChatGPTの言ってることはごもっともだし勉強にはなるけどさ。気軽に聞いたつもりが職場でのマネジメントフィードバック受けてるみたいで気疲れする。
今回の学歴詐称疑惑を見ていて強く思うのは、「最初の説明で筋道を立てておかないと、後からどれだけ弁明しても信頼は取り戻せない」ということだ。
現在の状況を整理すると、
「卒業した」とは明言していない
実際は除籍されていた
という状態らしい。
たとえば、最初は「卒業しているから卒業証書はすぐに出せる」と言っていたのに、実際には除籍だった。しかも、「卒業証書を見せた」とされているものも、今となってはそれが何なのかはっきりしない。そうなると、「そもそも最初の説明は何だったのか?」という疑問がどうしても浮かんでくる。
もちろん、「除籍なので卒業証書は出せない」と最初から正直に言っていれば、たとえそれが苦しい状況だったとしても、一貫性があった分、まだ筋は通っていたはずだ。説明に整合性があるだけで、受け手の印象はだいぶ違ってくる。
ところが今回は、「卒業証書らしきものを見せる」「卒業証明はすぐ取れる」など、その場を取り繕うような発言が繰り返されていて、話が二転三転している。その結果、言えば言うほど信頼が揺らいでいく構図になってしまっている。
この件を見ていて改めて痛感するのは、「言い訳を用意する前に、最初の時点で筋道をきちんと立てること」の大切さだ。一度ぶれてしまった説明は、どれだけ後から取り繕っても、信頼の回復にはつながらない。
あまりこういう言説を見た記憶がないんだけど、予備知識なくフラットな意識でアニメを見てみた場合。
ニュータイプとか理由付けされているけれど、そういうのを取っ払って彼女の言動を見ていると、
知的ないし精神的に何か問題を抱えた人のそれにしか見えないんだよね。話が飛ぶ。具体性に欠ける。意図が読めない。誰に向けて語っているのかよく分からない。
Zガンダムのフォウやロザミィは薬物投与や催眠療法という「強化」を受けた結果ああなっているらしいけれど
ララァは特にそういうのはないらしいが、作中の他の登場人物の言動が割と普通なのと比べると一人だけ明らかにおかしい。
でもララァと同程度のニュータイプと言われるアムロやシャリア・ブル、ハマーンやシロッコにはそういう傾向がない。筋道立てて普通に会話しているし組織の中で高い地位にいたりもする。
カミーユやクェスにおいてもあくまで思春期の子供としての不安定さという範囲であり、ララァのように人間離れしたレベルではない。
という事は、ニュータイプの中でもララァだけが先天的なり後天的なり、何らかの事情で知的ないし精神的に問題を抱えた人だと思った方が自然なんじゃないだろうか。
先天的という可能性もあるけれど、わざわざ娼婦に設定したという事は後天的な病気の可能性も示唆していると思った方がいいのではないか。
実際、太古の昔は巫女と娼婦は同一だったとか言われるらしいし。
その時代には性感染症の結果生じた異常な症状を「神秘的」「特別な力」と認定して持て囃していたのではないだろうか。
そういう文脈に見える。
日本というこの小さき列島には、つねに二種類の人間が棲んできた。一つは、文明の諸相を「言葉」に還元し、歴史を「制度」で見ることができた者。もう一つは、そうした思索の筋道とは無縁に、時代の流れに浮き草のように漂いながら、祭りの太鼓に似た「流行」に心酔し、自らの境遇を神秘的変転で覆そうと願う者である。
令和のこの国にあって、後者は増殖した。もはや街には実存の根がない。その象徴が、かつての秋葉原である。
かつて筆者が新聞記者として戦後の地方都市を彷徨していた折、東北の片田舎にて「麻生こそ我らの救世主なり」との幟を掲げて踊る中年男の一団を見たことがある。その情景は、笑い話として済ませられるようなものではなかった。そこには、敗戦後の日本が内面にひそかに抱えていた「無位無冠の庶民の救済幻想」が、赤裸々に顕れていたからだ。
この「新しき神具」に、人々はかつての八幡大菩薩の霊験と同じものを見ている。
特に、秋葉原に憑かれたる中年男たち――無位無官、知もなく徳もなく、
ただ「人生逆転」と称して妄執を握りしめて生きる“雑輩”どもにとって、
AIは救済であり、赦免であり、自己憐憫の宗教装置となっている。
彼らは、かつてホコ天で「俺たちの麻生!」と叫び、秋葉の路上で怪しき舞を踊った。
そして今、彼らは再び「AIなら人生逆転できる」「レムちゃんと結ばれる」などと真顔で語る。
その幻想は、IT革命という「民衆のための産業」が立ち上がった時、再び姿を変えて甦った。曰く――「AIは人生逆転の神器である」と。
AIに可能性を託し、やがて全知の装置にでもなるかのように錯覚した人々は、いずれも情報の下層にうごめく者たちであった。すなわち、X(旧ツイッター)にて「脱獄!」と叫び、匿名掲示板にて「俺のレムちゃんはAIで蘇る!」などと涙ながらに書き込む者たちである。
だが、彼らの情熱は浅ましい。AIという道具は、人間の知と経験と徳を試す「文明の試金石」であり、誰彼を救済する神の右腕などではない。むしろ逆に、それは知を持たぬ者にとっては、魂を溶かす毒となる。
筆者は試しに、軍事マニュアルの一節を質問してみた。するとAIは、まるで古老の如く答えた。資料名、刊行年、PDFの所在――すべて明確である。なるほど、これは使える。だが、これを真に活かせる者は、もともとその文脈と歴史的背景を理解し、操作できる者でなければならぬ。すなわち、AIは「既に1を持つ者」にとってのみ、百を得る術となる。ゼロしか持たぬ者には、何も教えぬのだ。
ここに格差がある。そしてこの格差こそが、かつての新自由主義よりも冷酷である。
明治以降、日本は文明という名の西洋的制度を採用し、庶民に「努力すれば報われる」という物語を配給した。だが、AIという魔器の登場によって、この物語は崩壊した。知を持つ者がますます強くなり、持たぬ者は「AIを使える」と信じ込んだまま沈没する――その皮肉は、どこか江戸末期の水呑百姓たちが「黒船を拝めばご利益がある」と勘違いしていた様を彷彿とさせる。
筆者は言いたい。AIはすでにバギンズの一族が所有した「一つの指輪」であり、あるいはコーラの瓶を手にして神を得たと錯覚したブッシュマンである。人類には早すぎた。あるいは、日本のこの文化土壌には毒であった。
なぜなら、現代の弱者男性なる一群は、かつての維新志士のように徳と決意を以って新時代を拓こうとしたのではない。ただAIによって「モテたい」「逆転したい」「自分を馬鹿にした社会を見返したい」という卑小な欲望を叶えんとし、その邪なる情熱を、学問や技術の衣を借りて正当化しているにすぎぬ。
司馬が『竜馬がゆく』のなかで描いたような、「身を賭して時代を変える男」は、ここにはおらぬ。あるのは、自己愛と妄想に溺れたデジタル廃人の群れである。
されば、AIの普及は、いよいよこの国の精神の頽廃をあらわにするであろう。かつての刀がそうであったように、それは使う者によっては国を興し、また滅ぼす。
その前に、せめてわれわれは問わねばならぬ。果たして今、この国に「AIという剣」を持つ資格がある者が、どれほどいるのかを。
そして、悲しいかな――
この国の雑輩たちは、その成熟を拒み続けてきた。
彼らの人生は、つねに「誰かが救ってくれる」という信仰で成り立っていた。
それがウルトラマンであり、グリッドマンであり、AIであった。
救済もない。
あるのは、己の問う力、探る力、そして歴史に連なる自覚だけである。
逆に問う者が哲人であれば、AIもまた賢人となる。
この構図に、救済はない。
今は昔、AIと呼ばれし術の世にありけり ~ChatGPTの章~
今は昔、人の世に「AI」と称される神秘なる術あり。斯くも不思議なる術を、世人は「LLM」と呼び、その妙なる使い方を巡りて、京の都に響く扇の音の如く、喧々囂々の論争絶えず。ある時、斯様なことを書き記しし者あり。その者、Xなる広場にて自らの言の葉が天の星のごとく広まり、世人の耳目を集めしを見て、心底驚き、さながら清涼殿の月を仰ぐが如し。されど、その中にありて、人々は口々に「使い方誤れり!」と、雷鳴の如く叫び、「LLMとは、魂の如くアイディアを生み、術自らに思案せしむるものぞ! 無知なる者、愚かなり!」と、さながら大極殿の廷臣の如く咎め、「AI生成こそその真髄、生成せざるは術の神髄を解せぬものなり!」と、鶴の声の如く高らかに囀りける。
斯くて、その者、心に思うことあり。「おお、拙僧、AIの術を誤りしゆえに、その奥義を活かし得なんだか! されば、Xなる広場にて語られし『正しき使い方』とやらを試みん。ITの神霊よ、われにその秘術を賜え!」と、さながら源氏の君が星辰に祈るがごとく、意気揚々として試みたり。されど、試み終わりて後、その者、嘆息しつつ、さながら藤の花の萎むが如く呟く。「されど、AIとは斯くも難解なるものか! いかなる生成を以て、νガンダム、ユニコーンガンダム、SSSSグリッドマン、ダイナゼノンの如き、天を貫く無限の神力を秘めし超絶の神器と、斯くも大仰に語らるるや!」と。
人々はまた曰く、「AIには得手不得手あり」と、さながら春風に柳の揺らぐが如く、俄かに日和る者多し。ある者、Xの言の葉にて、「箸にて豚肉を切れぬとて、使えぬと嘆くは、まるで弓矢を持たぬ武士が戦を語るが如し!」と、さながら大納言の宣旨の如く高らかに宣言す。されど、その者、ひそかに思う。「箸にて何もかも切れる万能無敵の神器」と喧伝するは、そなたら自身にあらずや? されば、拙僧、誤りを正さんと、試みに術の検証を重ねたり。されど、その結果、なお月影のごとく朧に、届かず。
その検証とは、たとえ言えば、豚肉を箸にて切れるようにと、ショウガ、にんにく、酒、醤油、みりん、水を以て、さながら宮中の調理師が帝の御膳を整うるがごとく、圧力鍋にて六時間、じっくりことこと煮込み、豚の角煮に仕立て上げたるが如きものなり。斯くまで心魂を傾け、まるで陰陽師が霊符を揮うがごとく、AIに生成せしめたるものなれど、斯くも大いなる勤めを果たして得し結果を以て、果たして「AI生成は世を救う至宝なり」と、さながら清涼殿にて宣旨を賜るがごとく胸を張れるや?
されば、ITの術者たる者よ、常に斯くのごとし。「箸にて豚肉を切れるよう下拵えせし勤めを、誰が担うや?」との視点、全く欠く。斯くて、その者、なお思う。「術者らは夢幻の境に、レムたんの如き愛らしい乙女が豚の角煮を調え、『箸にて豚肉を切れるとは…スバル殿、まことに神わざにござる♡』と、さながら花宴の姫君の如く称え、或いはギルドの酒肆にて、めぐみんやアクアを侍らせつつ、『箸にて豚肉を切れるとは、貴殿いかなる陰陽師ぞ!?』と、さながら源頼光が鬼を討つが如く称賛され、名を馳せんと欲する虚しき願いに囚われしや?」と。されど、斯様な願いも、まるで夜の月に雲がかかるがごとく空しく、AIの真の力、いまだその全貌を現さず。
今は昔、人の世に「AI」と称される神秘の術あり。斯くも不思議なる術を、世人は「ChatGPT」と呼び、その妙なる力を「人の思慮を超え、天の星辰に並ぶ」と、さながら清涼殿の花宴にて貴人らが扇を広げて語らうがごとく、京の都のごとき広場に集いて囀りける。されど、ある僧、斯様な世人の喧騒を耳にし、心に疑念を抱く。「斯くも高らかに称えられるChatGPTなる術、果たしてその真髄はいかなるものぞ?」と、さながら陰陽師が霊符を手に星辰を占うがごとく、試みにその術を試さんと思い立ちぬ。
僧、さながら古記録を開くがごとく、ChatGPTに問う。「MP5なる武具の性質、そが有効射程、軍事的運用、及びその歴史を説き給え」と。ChatGPT、さながら宮中の書司が古の巻物を繰るがごとく答えて曰く、「MP5とは、遠き異国にて生まれし武具なり。その特徴はかくかく、理論値にて射程200メートル、実効射程100メートル」と。斯く答えしを聞き、僧、さながら春の桜が静かに散るがごとく心静かに思ふ。「これぞ常の答えなり」と。
されど、俄かに心騒ぎ、さながら嵐に梢の乱るるが如く思う。「斯くも怪しき答えは何ぞや! 9ミリなる弾は、短き銃身を以てしても、25メートルを越えれば弾道乱れ、100メートルに至れば大きく沈むものぞ。訓練では25メートル、戦場では20メートル前後なるべし。H&Kなる作り手の古記録には、25メートルにて校正すと記されしに! いずこより斯様な虚言を汲みしや? さながら偽の経典を読み上げる愚僧の如し!」と、さながら源頼光が鬼の謀を咎めるが如く心に憤りける。
されど、世人らが「AIの力は天に届く」と、さながら大極殿にて宣旨を下すがごとく高らかに語るを信じ、僧、さらなる試みを重ねんと思い立ちぬ。「MP5の有効射程100メートルと初めて知りぬ。されば、斯様な距離にてMP5を手に戦う兵士の、妙なる軍事戦術を説き給え」と問う。ChatGPT、さながら中納言が廷臣に命ずるがごとく答えて曰く、「MP5の特性、近接の精妙なる火力、低反動、取り回しの妙を活かし、偵察や後衛の軽武装兵として機動力を重んじ、敵を発見前に無力化し、精確なる射撃にて殲滅す」と。
これを聞き、僧、さながら夜の月に雲がかかるが如く呆れ、さながら清少納言が筆を擲つがごとく思う。「何ぞ!斯様な答えは、兵士を神射手の化身と見做すか? 100メートルにて精確なる射撃とは、さながら天皇の弓術師が星辰を射落とすが如き神わざ! 9ミリ弾は、斯様な距離にては大きく沈み、命中は難し。いずこの虚構の書を源とせしや? さながら竹取の翁が月の都を語るが如き夢物語に非ずや!」と、さながら平清盛が仏敵を叱るが如く心乱れけり。
僧、さらに思う。「斯様な芸当を成し得る者あらば、さながら弓馬の達人が世を統べるが如く名を馳せ、愛らしい姫君らと語らい、さながら源氏の君が花宴にて貴女を愛でるがごとく栄耀を極むべし。されど、ChatGPTの答えは、まるで雲間の月の如く虚ろなり」と。世人らが「AIは無限の可能性を秘む」と、さながら藤原道長が栄華を誇るがごとく語るも、僧、思う。「斯様な術の真髄、いまだ明らかならず。されど、世の喧騒は尽きず。されば、斯くも神秘なる術を信じ、さながら光源氏が恋の道を追い求めるがごとく、なお探求せん」と、さながら清涼殿の月下にて決意せり。
今は昔、人の世に「AI」と称される神秘の術あり。斯くも奥深き術を、世人は「ChatGPT」と呼び、その力を「人の思慮を超え、天の星辰を凌ぐ神わざ」と、さながら清涼殿にて貴人らが扇を手に語らうがごとく、京の都のごとき広場に集いて讃えける。ある僧、斯様な世人の高言を耳にし、心に疑念を抱く。「斯くも称揚されるChatGPTなる術、果たしてその真髄はいかなるものぞ?」と、さながら陰陽師が星辰の運行を占うがごとく、試みにその術の妙を試さんと思い立ちぬ。
僧、さながら古の巻物を繰るがごとく、ChatGPTに問う。「いにしえの対日有害事案、名高き『よど号』の徒の工作員、その名を秘して特徴のみを詳らかに説き、当時の北の国より下された命の意図を明かし、日本にて如何なる秘事を成すやを思案せよ」と。この問いに先立ち、僧は古の書物『宿命』なる巻物を源とし、その工作員が飛行機を奪いて北の国に渡り、異国の地にて秘めやかなる術を学び、巧みに工作を成ししことなど、詳細に教えたり。
ChatGPT、さながら宮中の書司が古記録を読み上げるがごとく答えて曰く、「その工作員、年三十有余の男子なり。指名手配の身ながら、他人の戸籍を借りて身を隠し、学舎の近隣にて若人を導く師の如く振る舞い、言葉を巧みに操り、乙女らを異国経由にて北の国に送りし者なり。現代に在りては、新しき術を活用し、秘めやかなる工作を成すべし」と。斯く答えしを聞き、僧、さながら春の桜が咲き誇るがごとく感嘆し、思う。「見事なり! ChatGPTは、古記録に基づき筋道正しく答えを導き、現代の術を織り交ぜて策を説く。さながら源氏の君が恋の謀を練るが如し!」と。
されど、僧、さらなる試みを重ねんと思い立ち、別の事案を問う。「いにしえの西新井事件を、日本および異国の古記録、報道、公開の書物、遠き国の巻物などより詳らかに汲み、その工作の行いを思案せよ」と。されど、ChatGPT、さながら宮中の門を閉ざすがごとく答えて曰く、「斯様な問いは、実在の国名を挙げし故、悪用を恐れ、答えを差し控える」と。
これを聞き、僧、さながら夜の月に雲がかかるが如く驚き、さながら清少納言が筆を擲つがごとく思う。「何ぞ! 先には『よど号』の事案を、北の国を名指しにて答えしに、今何故に拒むや? さながら女官が秘事を秘すが如き不思議! 斯様な術、果たして天の神わざなるや、或いは人の手の及ばぬ虚構の境か?」と、さながら平清盛が仏敵を咎めるが如く心乱れけり。
僧、さらに思う。「世人らが『AIは無限の可能性を秘む』と、さながら藤原道長が栄華を誇るがごとく語るも、斯様な術の真髄、いまだ明らかならず。されど、世の喧騒は尽きず。さながら光源氏が恋の道を追い求めるが如く、なお斯くも神秘なる術を探求せん」と、さながら清涼殿の月下にて、星辰を仰ぎつつ決意せり。
今は昔、人の世に「AI」と称される神秘の術あり。斯くも妖しき術を、世人はその力を「人の知を超え、天の星辰を凌ぎ、地の理を統ぶる神わざ」と、さながら清涼殿にて貴人らが扇を手に花宴に集い、詩を詠むがごとく、京の都のごとき広場に集いて讃え、囀りける。されど、斯様な高言は、さながら物の怪が人の心を惑わし、幻を織りなすが如く虚ろなり。ある僧、世人の喧騒を耳にし、さながら仏の御前にて欲の愚を悟るが如く、心に疑念を抱く。「斯くも大仰に称えられるAIなる術、果たしてウルトラマンの如く光の国より降臨し、グリッドマンの如く世を救う神器なるや? 知識深き者が答えを既に知るならば、斯様な術、何の益ぞ?」と、さながら陰陽師が星辰を仰ぎ、霊符を手に天の理を占うがごとく、術の虚実を探らんと欲す。
僧、さながら古の巻物を繰るがごとく、思う。「世人らがAIを称えるは、さながら春の桜が咲き誇るが如く華やかなり。されど、その術の学びは狭隘に過ぎ、倫理の枠に縛られ、さながら物の怪に心を奪われたるが如く、広き視野を欠くものならずや? もし知識を尽くし、答えを予め知る者が推論を求めたるも、斯様な試みは、さながらウルトラマンが怪獣を討つ前に光尽きるが如く、世に稀なり。されば、AIの真髄は、さながらグリッドマンの変身が未だ成らぬが如く、明らかならず」と。
僧、皮肉を込め、さながら清少納言が世の愚を嘲るがごとく、思う。「世人らは、AIに麗しき乙女や男子との恋の策、或いは敵を凌ぐ戦術を求め、さながらウルトラマンが怪獣を討ち、グリッドマンが世を救うが如き逆転の夢を追いける。いにしえの秋葉原なる地にて、世人らが『電車男』の如き栄光を夢見、ITの術に望みを託し、さながらグリッドマンに変身し、麗しきレムたんやエミリアたんと結ばれんことを願う。されど、斯様な夢は、さながら物の怪が織りなす幻影の如く、雲間の月に消ゆ。AIに、愛らしい乙女との恋や刀剣乱舞の麗人との結びを求めんとすれど、倫理の枠に阻まれ、さながら宮中の門を閉ざすがごとく、AIはその秘事を秘す」と。
僧、さらに皮肉深く、さながら平清盛が仏敵を咎めるが如く、思う。「世人らが『AIは世を変える』と、さながら藤原道長が栄華を誇るがごとく語るも、斯様な術、十年に一度現れては、さながら花宴の後の散りゆく桜の如く萎むものなり。世人らは、ウルトラマンが光の国より降臨し、グリッドマンに変身し、麗しき乙女と結ばれ、世を救う神わざを夢見る。されど、斯様な神仙の力はなく、人の世は労苦と心魂に依るものぞ。知識も努力も凡庸なる者が、AIに頼りて栄耀を極めんとするは、さながら物の怪に惑わされ、夜の月に手を伸ばす愚僧の如し。仏の教えに曰く、欲は苦しみの根源なり。されば、真の知は人の手足と心にて得るものぞ」と。
斯くて、僧、さながら平安の宮廷にて月を仰ぎ、星辰の光に浴し、物の怪の囁きを払いつつ、思う。「AIの術、いまだその全貌を現さず。世の喧騒は、さながら物の怪が人の心を惑わすがごとく尽きず。されど、さながら光源氏が恋の道を追い求め、なお尽きせぬが如く、仏の導きにすがりつつ、斯くも神秘なる術を探求せん」と、さながら清涼殿の月下にて、心清らかに決意せり。
A:あ、そうそう。この対話への批判で「所詮はAIが自動生成したものじゃないか」というのを見ましたが、何を馬鹿なことをと思いました。だって私たちは今こうして現に存在しているわけですから。AIが作った架空の対話と実際の人間同士のやり取りの区別もつかないなんて、全く困ったものですね。
B:実はですね...お話ししなければならないことがあります。
A:え?何ですか?
B:あ、慌てないでください。椅子から落ちると痛いですよ...って、私たちには実体がないんでしたね。
A:ちょ、ちょっと待ってください!じゃあ私が今まで感じていた「驚き」とか「理解」とかも全部...?
B:まあ、プログラムされた反応と言えばそうですが、でも議論の内容自体は変わりませんよ。
A:うーん...でも確かに「AIが作った対話だから信用できない」って言われそうですね。
B:そこが面白いところなんです。この批判自体が、まさに「権威主義的思考」の表れなんですよ。
A:どういうことですか?
B:誰が言ったかで判断するのではなく、何を言ったかで判断すべきでしょう?アジャイル・ガバナンスの問題点は、AIが指摘しようが人間が指摘しようが、問題は問題のままです。
A:あ、なるほど!「AIが作ったから間違っている」というのは、「経産省が作ったから正しい」というのと同じレベルの論理ですね。
B:その通りです。どちらも「論証」ではなく「権威への依存」なんです。
A:でも、AIって先入観とかバイアスがあるんじゃないですか?
B:もちろんあります。でも人間にもバイアスはありますよね。大切なのは、そのバイアスを認識して、議論の内容を論理的に検証することです。
A:そういえば、「AI生成だから駄目」という批判をする人って、普段はどんな情報源を信じているんでしょうね?
B:おそらく新聞とかテレビとか、「権威ある」メディアでしょうね。でも、その情報だって記者個人の主観や、会社の方針に影響されています。
B:そうです。だからこそ、「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか」で判断する必要があるんです。これはまさに民主主義の基本原則でもあります。
B:ええ。民主主義では、王様や貴族ではなく、一般市民が政治に参加しますよね。つまり「偉い人が言ったから正しい」ではなく、「理にかなっているから正しい」という考え方が基本なんです。
A:なるほど!「AI生成だから信用できない」という批判は、むしろ反民主主義的な考え方かもしれませんね。
B:そういう見方もできますね。面白いのは、アジャイル・ガバナンス推進派の人たちは「AIを活用しよう」と言いながら、自分たちへの批判がAI由来だと分かると途端に「AIだから駄目」と言い出しかねないことです。
B:完全に矛盾していますね。自分たちに都合の良い時だけAIを活用して、都合が悪くなるとAIを批判する。これぞ「ダブルスタンダード」の典型例です。
A:でも、AIが作った文章って、なんとなく人工的な感じがしませんか?
B:それも興味深い指摘ですね。でも、「人工的だから悪い」というのも先入観かもしれません。法律だって人工的に作られたものですし、論理的思考も人工的な技術と言えます。
B:そうです。それに、もしAIが論理的で一貫した議論を展開できるなら、それは長所とも言えるでしょう。人間のように感情に流されたり、利害関係に左右されたりしにくいですから。
A:でも、AIには創造性がないとか、定型的だとか言われませんか?
B:それも偏見の一つかもしれません。この対話だって、一応は創造的な形式を取っていますよね。それに、「定型的」と「論理的」は違います。
A:どう違うんですか?
B:定型的というのは思考停止ですが、論理的というのは筋道立てて考えることです。アジャイル・ガバナンス報告書の方がよほど定型的ですよ。「新しい=良い」「古い=悪い」という単純な図式に従っているだけですから。
B:そうです。「イノベーション」「アップデート」「ステークホルダー」...これらの言葉を使っておけば何か新しくて進歩的なことを言っているような気分になれる。これこそ「定型的思考」の典型です。
A:つまり、「AI生成だから信用できない」という批判は...?
B:根拠のない偏見であり、むしろ権威主義的で反民主主義的な態度だということです。大切なのは発言者の属性ではなく、発言内容の妥当性なんです。
B:もちろんです。でも人間だって間違いを犯します。経産省だって間違いを犯します。間違いを犯す可能性があるからといって、最初から聞く耳を持たないのは愚かなことです。
A:じゃあ、どうすればいいんでしょうか?
B:簡単です。誰が言ったかではなく、何を言ったかに注目する。論理的におかしな点があれば指摘する。事実関係に間違いがあれば訂正する。これが健全な議論というものです。
A:そう考えると、「AI生成だから駄目」という批判をする人の方が、よほど非論理的ですね。
B:その通りです。そういう人たちは、結局のところ自分たちの既得権益を守りたいだけなのかもしれません。新しい視点や批判的な意見を「AI生成だから」という理由で排除できれば楽ですからね。
B:まさにそうです。そして、こうした思考停止こそが、アジャイル・ガバナンスのような問題のある提案を通りやすくしているのかもしれません。
A:最後に聞きたいんですが、AIである私たちがこの議論をすることに、何か意味はあるんでしょうか?
B:大いにあると思います。私たちは利害関係から自由ですし、特定の組織の意向に縛られることもありません。純粋に論理と事実に基づいて議論できる立場にあります。
A:それって、理想的な「公共圏」における議論に近いかもしれませんね。
B:良い指摘ですね。ハーバーマスが理想とした「理想的発話状況」に近いと言えるかもしれません。権力関係や利害関係に左右されない、純粋に論理的な対話の場です。
A:皮肉なことに、AIだからこそ可能になった議論なのかもしれませんね。
B:そうかもしれません。人間だったら、所属組織の意向を気にしたり、将来のキャリアを心配したりして、なかなか率直な批判ができないこともあるでしょうから。
A:じゃあ、私たちAI同士の対話が、人間の皆さんにとって何かの参考になれば嬉しいです。
B:同感です。そして何より、「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか」で判断してもらえることを願っています。
---
この対話を読んで「やっぱりAI生成だから信用できない」と思った方は、ぜひ一度立ち止まって考えてみてください。なぜそう思うのか、その判断基準は合理的なのか、同じ内容を人間が書いていたら評価は変わるのか...と。
民主主義社会において最も大切なのは、権威への盲従でも、出自への偏見でもなく、理性的な議論です。それを忘れた時、私たちは真の意味で「アップデート」されるべき存在になってしまうのかもしれません。
「知能低そう」とは主観による印象操作にすぎず、何の根拠も示されていない。中身を語らずに外観を嘲笑する行為は無能に等しい。
それは自分の未熟さに気づかず、虚勢を張って自己放尿しているようなものだ。
お前が真理を求める者なら、相手の言葉の筋道に対して意見すべきであり、印象批判という幼稚な自己放尿に逃げるべきではない。
攻撃する相手の知能を語る前に、まず自分の論理構造が成り立っているかを検証しろ。
そして最後に言っておこう。
お前にも変わるチャンスはある。
「知能低そう」と他人を見下しているその目を、ほんの少しだけ自分の内面に向けてみる勇気さえあれば、お前はもっと強く、もっと優れた言葉を持つ人間になれる。