はてなキーワード: シャリアとは
シャリア・ブルは言わば、マチュにとって初めて現れたロールモデルなんだよね。
自分がコロニーの中で感じてきた空虚の極北まで到達して、なお生きていけることを証明した人物。
マチュが拳銃をもらったんだけど、あれはシャリアにとって「自分の生死を自分で選択する覚悟」みたいなもんなんだわ。それをもらうということは、どういうことか。
マチュは命の価値をそこで初めて知ったんだな。
マチュが従順になったというよりは、そこで初めてマチュ自身に自我が芽生えた、というべきなんじゃないかと思う。そのくらい彼女は、そこまで「もうどうなったっていい」「空っぽ」な存在だった。
ただまあ、子どもがそういう大人を超えていくカタルシスはないよね、というのは、それはそう。よくも悪くも「オッサンが見るもの」という気もする。
ジークアクスって、登場人物みんな「空っぽ」で、そういう「空っぽ」な人間はどう生きていけばいいのかというのを語る話だと思うんで、マチュはまあ、アレでいいのかなという気はする。
とはいえ、あと2話あるんで、答えを出すには時期尚早かな。まあ待ちましょうぜ。
それにこの10話は他にも違和感は多くて、シャリア・ブルがマチュに木星での出来事を事細かく話すのも意味わからんし、一介の捕虜だった女の子に軍人が機密事項であろう内情を暴露しているのはどうして?
ガンダムジークアクスの10話を見て、エヴァンゲリオン18話の『命の選択を』を思い出した。
ジークアクス10話は要するに平行世界のララァがイオマグヌッソという大量破壊兵器の動力源にされていて大変だ、止めなきゃ、という話。
これはエヴァ18話でいうとイオマグヌッソをエヴァ参号機、ララァをトウジ、シャリア・ブルをゲンドウ、マチュをシンジに置き換えたような人物構成になっている。
普通はエヴァ18話のように大人は個人を犠牲にして大勢を救おうとし、主人公がそれに反発するものなのでは?
ゲンドウがフォースチルドレンを助けるぞと正義感たっぷりに言ってシンジが唯々諾々と従うエヴァみたいな話になっている。
これの一体何処が面白いんだ?
現状に不満を持ち、周囲の大人に反発していた筈のマチュがいつの間にか大人に都合の良い従順な子供になって、すっかりシャリア・ブルの操り人形のようになっている。
それまでジークアクスにおいてシャリア・ブルはずっと何か企んでいそうな意味ありげムーブをしていて、それこそエヴァでいう所のゲンドウ的な黒幕役なんだと思っていたんだけど。それが何故か急に典型的主人公みたいなキャラに変わっている。
それによって周りに被害を出す可能性があったとしても一人を救うというリスクある決断をするのは、本来ならば主人公の役目である筈だ。それを主人公ではなくて何故か、大人しかもそれまで黒幕かと思われていた大人がやっている。これに違和感があった。
もしかしてオタクがアニメに対して、「まともな大人がいない!」「もっとまともな大人を出せ!」「まともな大人が出ている作品は素晴らしい!」って言い続けた結果がこれなんだろうか?
今回の話はだいぶ楽しみにしていたんだよ。
ようやくギレンが登場か!って期待して観てみれば初っ端ギレン下げの台詞から始まり、ギレン自体も登場してすぐに退場。
正直は?ってなった。
何よりよく分からなかったのは、キシリアがギレンを殺した理由として述べた「総帥の父殺しを私は許せぬ」というこの発言。
ジークアクス内でデギンがどのように死んだのかの明確な描写ってあったか?
仮にファーストと同じようにソーラ・レイで殺害したのだとすれば、それもまたおかしい話になる。
何故ならデギンがあのとき連邦側と接触したのは連邦との講和交渉に臨むためであり、連邦との講和交渉に臨むに至ったのはデギン自体が戦争に嫌気が差していたからで、その嫌気はガルマの死に由来する。
つまりガルマが死んでいないジークアクスの世界ではデギンが講和交渉に臨むとは考え難い。故に連邦の艦隊と接触することもなかったはず。ではどのようにデギンをギレンは殺したのか?
実権を握るためにデギンを暗殺したとも考え難い。そもそもデギンは一年戦争の時点で傀儡のような存在であり、おおよその実権はギレンが握っていた。
そのためわざわざ父殺しをする意味もない。
おそらくだが、ジークアクスにおいてデギンの死が提示されないのは、このような矛盾を表面化させないためではないかと思う。
それにこの10話は他にも違和感は多くて、シャリア・ブルがマチュに木星での出来事を事細かく話すのも意味わからんし、一介の捕虜だった女の子に軍人が機密事項であろう内情を暴露しているのはどうして?
シャリア・ブルの吐露には意味があって、こういう話をすることで親近感を抱いてもらい、仲間意識を持たせるため。のような意図がもしかしてあるのかもしれない。
でもさ、はっきり言うけど、そういった腹の探り合いのような、業の深き人間のあざとさを嫌ってニュータイプという存在を作ったんじゃないのかよ。
言葉がなくても理解し合うことが出来る。そういった、人類の新たな可能性を期待してニュータイプといった存在を設定したんじゃないのかよ!!
だったらあんな長ったらしく語らずとも、ニュータイプらしいやり方のコミュニケーションがあったのではないだろうか。だからこそファーストのシャリア・ブルは寡黙だったはずなのに。
それと、とにかくキシリア持ち上げすぎ。この作品自体がキシリア派のプロパガンダ作品か?って思える程キシリアを持ち上げてる。
あとは全12話だからか急に話をまとめ出したなといった印象も強かった。
このままの流れでいくとなんやかんやあって一番最後にアムロがちらっと登場して終了…みたいな流れにしそうな気がする。
ほかのガンダムは見てないから「ジークアクスのキシリア様」しか知らない立場で言う。
ニャアンの視点ではキシリアが「私だけを守ってくれる殺人鬼」なんじゃないかってこと。
エグザベは「ミゲルと僕でニャアンを暗殺から守る」と言った。護衛の任務を引き受けた組織人としての言動。そしてミゲルがニャアンの命を狙っているとなったとき、エグザベは長年の付き合いがある同期のミゲルを撃てなかった。
人として当たり前の感覚であるとはいえ、ニャアンを暗殺から守れていないので言行不一致ではある。ニャアンは結局、逃げ回ってジフレドを起動して、自分でミゲルを殺した。
キシリアは側近のアサーヴを躊躇なく射殺した。兄を毒殺した。
感覚の正常さの話をするなら、エグザベがまともでキシリアは異常だ。
しかしニャアンは異常なキシリアのほうにシンパシーを覚えているし、自衛を理由として殺人を行えることをお互いに肯定しあっているのがキシリアとニャアンの関係だ。
ニャアンを迎え入れたときにキシリアがアップルパイを手作りしていたのも妙ではあったが、10話ではお互いにバスローブ姿で暗い私室でニャアンの髪を梳いてやっており、明らかに上司と部下としては異常な距離感だった。
女性同士の正常な距離感として、コモリ&マチュのほうは対比のように健全に描かれていると思う。コモリのジャージセットはレギンスも一式に含まれているが、マチュに貸しているのはレギンスを除いた上下だ。
レギンスは微妙に下着に近くて、貸すのも借りるのも抵抗がある。でもジャージ上下なら学校での忘れ物でも貸し借りしていたレベルで、異性ならイヤだけど同性ならまあいいか、となる。激重感情や共依存の波動を全く感じない。
これに対してバスローブ…。同性だからこんなものだとは言えない。明らかに距離がおかしい。
キシリアが男であれば、周囲からニャアンはキシリアの愛人と噂されていてもおかしくないだろう。キシリアが男の噂がない人物であれば、同性愛関係と勘繰る人間がいてもおかしくない。
排他的な関係である。長くキシリアの部下をつとめた兵士たちをごぼう抜きしてニャアンが特別に取り立てられ、一人だけ私室に招かれているとなると、キシリアの兵士たちのなかでニャアンが浮くこともあるだろう。
ニャアンはコミュニケーション能力が低く、キシリアから直の特別扱いを受けている新人ということでほかの兵士たちから距離を置かれたりすれば、いよいよ孤独になりやすい。ニャアンに友達ができないことは、キシリアによるグルーミングの効果を高めることにも繋がる。
そして、キシリアの父から渡された銃という「一点物」をニャアンに贈るということ。
大きな窓がある超高級物件に住まわせるのも、地球産の超高級香水を与えるのも特別感は非常に強いが、キシリアが金持ちであるため数人に対して並行して同じことをやれるかもしれない。
家族にまつわる「一点物」を貰うというのは、確実に「私は特別」という扱いの証明になる。
躊躇なく人を殺す異常な人間が、自分だけを特別扱いして優しくしてくれる。「私だけを守ってくれる殺人鬼」…。
ニャアンは言葉ではないところで悪意を感じ取る。ミゲルがエグザベに声をかけたセリフが「同伴出勤か?」というからかいの言葉であったが、これはキャバクラ用語であり、ニャアンをエグザベに買われているキャバ嬢扱いするような非常に失礼なジョークである。
エグザベは同伴出勤という言葉そのものを知らなかったのか、スルーしていた。ニャアンもスルーしている。しかし、「嫌な匂い」としてミゲルの悪意や見下しをこのときから感知していたのではないか。
レオレオニ博士が「女が権力を握るとすぐこれだ!」と吐いた、その言葉自体もニャアンは聞き取っていないだろう。しかし「嫌な匂い」を感じ取って即座に博士を攻撃し殺害している。
逆に、悪意を察知できないのがエグザベである。エグザベは公式スタッフからも善良でピュアなキャラクターであると評されているらしいが、
実際にサイド6の軍警が自分を殺そうとしていることも察知しておらず、射殺されるギリギリのところで空から面白登場をしたシャリアに助けてもらっている。
自分自身の悪意がなく(ぽっと出のニャアンに一瞬で抜かされたことへの嫉妬心もゼロ!)、他者からの攻撃性や悪意にも鈍感で、
自分が殺されそうであってもギリギリまで気づけない。「自分の命を最優先で先制攻撃」とは真逆のようなマトモさだ。だから自分の命もニャアンの命も守れない。
エグザベはピュアで、穢れた知識ベースが皆無であることによって、毒殺の前に「キャバ嬢扱い」のような侮辱からもニャアンを保護できない。
エグザベの物語は最終回まで引っ張られることはなく、次回のシャリア戦で回収されるのではないかと期待している。
エグザベはどうもニャアンの物語においては「シュウジとキシリアは素敵、マチュは本物、エグザベは駄目」という比較下げ役割で使われてしまっているように見える。
実際、精神的に不安定な人が期待に応えてくれる一方をちょっと気味が悪いほどに上げ、期待に応えてくれない一方を下げ、という極端な評価をするのはよくある話ではある。
エグザベが主体となるテーマでの重要人物はシャリアだろうと思える。シャリアにとっての重要人物はシャアであり、なかなか面白い。
そして当初の話に戻ると、マトモなエグザベを対比とした「私だけを守ってくれる殺人鬼」としてのキシリア様という描き方は非常に面白い。
善良でまともな組織人だからこそ守ってくれなかったエグザベには拒絶反応を示し、身を守る武器とニャアンを全肯定する思想を与えてくれるキシリアとの近すぎる関係に心酔していたニャアンは、キシリアの指示通りに大量破壊兵器を起動して大量虐殺の実行役となった。
キシリアがニャアンを懐柔して利用していると捉えるか、キシリア自身も家族同士殺し合いをしていて常に暗殺の危険がある環境で病んでおりニャアンとの共依存の関係になっていると受け取るかは視聴者によるだろう。
個人的には、キシリアがニャアンを道具として軽視していればニャアンは「嫌な匂い」として感じ取るはずなので、キシリア自身も病んでニャアンに依存していると解釈している。
「私だけを守ってくれる殺人鬼」を求めるタイプは、共依存を求めた病んだ人間なのではないかと思う。
殺人鬼はまともではない。不安で病んでいる人間が、まともではない殺人鬼との共依存関係を求める。
キシリアとニャアンが刺さるのも病んだ人間だと思う。「私だけを守ってくれる殺人鬼」はすべての女性が求める理想像ではない。女性が不安になり病んだ状態になるとこういう関係を求めがちという、傾向のひとつだと思う。
追記:激重女女関係として捉えてはいるがニャアンの恋愛感情はシュウジに向かっていると解釈しているよ。クラバでワケワカになって殺人して、シュウジを盾にまでしたのを「どっちのニャアンも好き」と肯定してもらっているし。それにジークアクスのコックピットから吐き出されて生身で吹っ飛ばされ死の恐怖を覚えたときに、シュウジは受け止めてくれたし。(というかなんでパイロットを吐くんだよ。腕が出てきてマチュを抱きしめることといい、自我が強すぎるだろジークアクス)あとは好きな男がいる異性愛者の女だからこそ、エグザベ(他意なし)に対する拒絶が「は?彼氏面キモいんですけど?」的な自意識過剰になるんじゃないかとも思っている。つかどうなるんだろうな三角関係のエンディング。ジークアクスの自我がシュウジでしたってのならニャアンを吐いてマチュを抱きしめてるからシュウジ×マチュエンドなんだろうし、シュウジが元々ゼクノヴァの向こう側の平行世界の住人でトラブルによってこっちに来てるせいで住所不定無職でしたので本来の世界に帰るのが願いなんですってことなら、マチュもニャアンも振られてヤケクソカラオケエンディング映像に繋がるだろう。個人的にはマチュの勝ち!ってやるより両方振られたほうが爽やかな後味だと感じるけど、まあ、どうなってもいいか。
ジークアクスのシャリア・ブルの目的って今まではてっきり、シャアを見付けて統治してもらおう、自分はそれを横で支えよう、だと思っていたんだよ。何故そうかというとシャアの思想に共鳴したからかと。
その思想とは何なのかとすごーくシンプルに言えば人類全体の平和。
初代ガンダム39話でのシャリア・ブルはシャアとの会話の中で「もし我々がニュータイプならニュータイプ全体の平和のために案ずるのです」「人類全体の為に、と取っていいのだな?」「はい!」というやり取りをする。
だけどジークアクスの10話を見る限りではシャリア・ブルの目的は、これ以上ニュータイプに人殺しをさせたくないという極めて小さなものに留まっている。そこにはその他大勢の人間の存在はない。彼はイオマグヌッソに虐殺されるその他大勢ではなく、虐殺に加担させられる平行世界のララァというただ一人だけの事を考えている。凄く世界が狭いんだよね。
一方、シャアはZガンダムにおいて、虐殺される側の視点に立って虐殺を批判している。つまりその他大勢の弱者の目線がある。
ニュータイプに人殺しをさせたくないという思考とは割と真逆。どちらかというとニュータイプという優れた人々は人類のためにその力を積極的に使っていくべきだというノブレス・オブリージュ的な考えが根底にあると思う。
ソロモン落下阻止作戦の前に「次はザビ家だ」とわざわざ宣言していたから、シャアにはザビ家を倒した後のビジョンがある程度明確にあって、シャリア・ブルはそれに共感して協力するつもりなのかと思っていた。
そしてそれはZ以降で示されたシャアの行動に近いものであるのかと。
原作では一年戦争で死んでしまったシャリア・ブルの生存で話が変わるのかと思ったんだよね。彼が支える事によってシャアはCCAのような一発逆転の成功率が低い手段ではなく、地道で長期的な手段で平和を成し遂げようとするのかと思っていた。
あと、わざわざメイン三人の一人であるニャアンというキャラを難民に設定したのは、CCAでのシャアの演説の「難民のための政治」に繋げるためなのかと思っていたよ。だから格差問題への言及を期待していた。
でも結局ニャアンはエグザべと一緒にキシリアの元に行ってしまい、マチュも特に気にかけない。今後のニャアンも難民かどうかよりもニュータイプという文脈でしか語られなさそう。
シャリア・ブルにとって重要なのはニュータイプかそうでないかという区分であり、オールドタイプには全然関心なさそう。ニュータイプをポジティブに描くってこういう意味だったの?
10話でマチュに語った内容を見るに結局シャリア・ブルにとってシャアは自分と同じく空っぽの人間だから一時的に共闘しただけで、大した思い入れはなかったって事だよね。
まだ若く未熟な上官を、自分自身の目的のために利用して使い捨てたとすら言える。そして今もマチュに対して同じ事をしているという…。要は秋元康とアイドルみたいな関係なんだよな、シャリア・ブルとマチュやシャアの関係性。シャアもマチュも鉄砲玉。
で、ギレンとキシリア同時排除計画も別にシャアとか関係なくて単に彼個人の思惑かあ。
キシリアの言う通りに薔薇を見付けてイオマグヌッソを完成させ、そのお披露目のタイミングでギレンとキシリアを同時に暗殺……が彼の計画らしいし。
まあ考えてみれば赤いガンダムが出現する以前からの計画なんだから、シャアは別に関係ないと考えた方が自然か。そういえば計画に協力していたシムス・アル・バハロフってニュータイプなのか?彼女はあくまで研究員であってニュータイプではなさそうなんだけど。
とにかくジークアクスのシャリア・ブルは10話ですっかり底が割れてしまい、つまらないキャラクターになってしまったと思う。あまりにも浅い。
勝手に妄想していて悪かったと言われればそれまでだけど色々とがっかりしたな。
まあ、シャアの方も原作と同じとは限らないし、全てララァを助けるためだけに動いていてもおかしくはないんだよな。
ジークアクスのシャアは人類とか大きい事を考えず、ララァの事だけ考えてララァと一緒になりますって話なのかもしれない。その方が個人にとっては幸せなのは確かだしね。
に見えるという話。
第2話:シャアとシャリアブルが酌み交わすのは シャトー・ラフィット・ロートシルト。
第6・7話:シムス・アル・バハロフ大尉がシャリアブルに手渡したのはオーパス・ワン。
どちらも、かつて「世界金融を牛耳った」と語られるロスチャイルド家が醸造する銘柄です。イスラエルに批判的な一部左派の中には「ロスチャイルド家のワインは口にしない」と宣言する人もいる中で、本作ではジオン側で同じ家のワインが"二度"も重用されています。
2. 地球殲滅兵器「イオマグヌッソ」の開発責任者――レオ・レオーニ博士
第9・10話に登場。作中では戯画的ともいえるユダヤ系の顔立ちで描写されています。
参考:https://www.gundam.info/feature/gquuuuuux/character/49/
名の由来は、絵本『スイミー』で有名な実在のユダヤ人作家"レオ・レオーニ"。彼はダイヤモンド商の家に生まれ、若き日に未来派芸術とファシズムの接近から距離を置いた経歴を持ちます。
その名前を冠した人物を“地球殲滅兵器”の責任者に配置することで、原爆開発に関与したユダヤ人科学者やアインシュタインを連想させる構図になっています。
実在のレオ・レオーニは、世界三大奇書の一つとされる 『平行植物』(並行世界の植物を描いた本)の著者でもあります。
ジークアクス世界が「正史とは別の並行世界」として描かれている点と、この書名の“平行”モチーフが重なるのも、制作側の意図的なリンクと考えられるでしょう。
以上のように、
――といった複数の演出が重なり、「ユダヤ人(イスラエル)が人類絶滅を企てる」かのような読解を誘発しているように思えてしまうのです。
ジークアクスの10話でシャリア・ブルがマチュに対してやってた事って完全にグルーミングの手口なんだよ
https://ideasforgood.jp/glossary/grooming/
グルーミングとは?
グルーミングとは、もともと「(動物の)毛づくろい」という意味だが、性犯罪の文脈においては、子どもへの性的虐待を行おうとする者が、被害者となりうる人物に近づき、親しくなって信頼を得る行為をさす。チャイルドグルーミングとも呼ばれる。
グルーミングは、加害者が被害者に性的虐待に同意するよう強要し、逮捕される危険を減らすために用いられる。幼い子どもに対して最も多く用いられるが、10代の若者や、大人も同様な危険に晒されることがある。
家族や親しい友人、コミュニティのリーダーなど、被害者と自然に接することのできる関係のある人物がグルーミングの加害者となり得る。
グルーミングの手口
加害者は、被害者を保護する人々から被害者を物理的または精神的に引き離そうとする。
加害者は被害者に対して、贈り物をしたり秘密を共有させたりすることで被害者の信頼を得ようとする。そして、被害者に自分たちの関係が思いやりのあるものだと感じさせたうえで、その関係を秘密にしておくよう仕込む。
秘密を共有(自分の自殺未遂の過去を話す)とか、贈り物をする(銃)とか、まんまだよね
指名手配されて家族から引き離され、不安定な未成年の心に付け込んで利用しようとする行いを、さも良い事であるかのように描いている
これで黒幕として倒される位置付けじゃなかったら倫理感が本格的にヤバいな
何言ってんだ?シャリアブルに捕まった所は成り行きだけど
マチュはシュウジの目標を追いかけ知ることに執着し続けてるだけだろ。
だから平気で脱走するし、偶然見つけた?シャロンの薔薇の秘密を知るために一緒に行動する上で協力関係になってるだけで
まあ命懸けで執着するほどの理由の説明はどこにもないし全部が自己中心でしかないのは補完エピソード削られたせいか知らんが浅いけどさ
に見えるという話。
・マチュとかいう、日常に退屈した女子が、ガンダムという違法薬物で見た幻覚(キラキラ)にハマり、それを理解するホスト・シュウジに恋をする話。
・同じくシュウジに恋をしていた貧しい少女・ニャアン。三人はトー横で交流を深める。
・ある日、シュウジが違法薬物所持でパクられそうになっていることを知ったマチュ。バ先の金庫から金を盗み出し、シュウジを連れて逃げ出そうとするが、横恋慕していたニャアンはマチュを裏切り、シュウジと二人で逃げようとするが失敗。シュウジは薬物中毒が進んで行方をくらませてしまう。
・窃盗がバレて追われる身となったマチュは、パパ活や立ちんぼなどをして凌ぐが、高級ソープ嬢のララァから「帰った方がいいよ」と諭される。高級ソープは炎上する。
10話はまだ見てないので知らない。
ファーストを無視して、マチュ、ニャアン、シュウジの話としてみるとこう見えるが、こういうキャラが共感を得られるのかは知らない。
僕はファーストまわりの伏線がどう回収されるかだけが楽しみです〜笑
(10話見た追記)
そこまで特殊な見方ではないと思っていたので、こんなに伸びたのはびっくりでした。
10話見ました。
それぞれ、「帰る場所がなくいつ死んでも構わない」点を買われて反社組織の鉄砲玉に仕立て上げられ、それぞれ闇バイトに従事するマチュとニャアン。
ニャアンの強殺現場にガチあってしまい、その残虐非道な行いに憤るマチュ、というところで次回。
マチュに急に倫理が芽生えたように見えるのは、身を寄せたパパの影響下にあるからと見るべきかなと思います。
倫理を植えつける相手に出会えず、シュウジを求めるあまり薬物を使い続けたニャアンとは対照的ですね。
作品を貫く気分の表現として、エンディングの「もうどうなったっていい」は秀逸だと思います。
空っぽなのはシャリア・ブルだけではなく、登場人物ほとんどが「そう」だと言っていいでしょう。
(蛇足)
シュウジをホストと表現したのは、現代において、「面倒くさいことを言わない、女性に対して気持ちいいことだけを言ってくれる、容姿のいい若い男」なんて、ホストくらいしかいないからです。
自分や身近な誰かの命を守るためにやむなくだったり、
本人の信念の結果として戦いに身を投じるのが基本だよね、ガンダム。
戦闘勧誘キャラとしてのアンキーとシャリアブルに視聴者の間で恣意的な扱いの差が生じてるのが問題だって言われてんの。
わかる?
物語は〈もしシャアがガンダムを盗んでいたら〉という二次創作的 if を出発点に、ゲームのセーブポイントやマルチバース的分岐を前提とした軽い世界観を採用している。
キャラクターの死は重みを持たず、制作側もオマージュとセルフパロディを重ねることで、現実感を極端に希薄化させた「アニメを模したアニメ」を志向している。
演出面でも同じ軽さが際立つ。キャラクター描写は余白というより「落丁」に近い粗さで、カットのつなぎも総集編のようにぎこちない。
放送されたばかりの10話でもマチュのケツカメラからシャリアの壁ドンへの飛び方が非常に荒かった。目的は物語の自然さではなく、SNSで映える瞬間を切り出すことにあり、ショート動画的。
こうした作りの結果、視聴者は「短いのに濃密だった」という快い感覚は得られず、視聴中に「情報を詰め込まれている」という圧迫感を覚え続ける。
統一テーマはなく、12話という尺の中で①マチュ娼婦堕ちネタを代表とする夏コミ向けの薄い本ネタ、②毒ケーキ3連発などSNSでバズる雑ネタ、③ガンプラ販促という三つのノルマだけが明確に見えてくる。
ターゲットは国内の中高年オタク男性だ。彼らは「作品やファン自身に深みがなければならない」という長年の圧力から解放され、浅い流行りものを堂々と楽しめる。
乃木坂由来のキャラだろうが、JKが突然下着になる場面だろうが、旧作キャラの同窓会だろうが、「楽しければいい」というスタンスが肯定される。
この姿勢は、重度障害者を主人公に据え「女性の障害者は天使のように純粋」という固定観念を壊した小説『ハンチバック』と相似形をなす。
あちらが障害者の性格への幻想を壊した解放文学なら、ジークアクスは「中年オタクは深遠であるべき」という幻想を砕く解放アニメと言える。
そもそもガンダムの収益の核はロボット玩具だ。一旦ちゃんと終わったはずのファーストから卒業できない視聴者に合わせ、シリーズは Z、ZZ、さらにはマーベル的マルチバースへと広がり続けた。
近年の『水星の魔女』が海外市場に目配せしたのに対し、ジークアクスは完全に国内の高齢層へ照準を定める。
「40歳を過ぎてもJKのパンツとロボットおもちゃで盛り上がって何が悪い?」
「ガンダムは深くなくてもいい。浅いまま騒いでいい。」
深読みや衒学的な言い訳を不要とし、SNSでつるみ、大量のモブ死や露悪ネタで盛り上がる――それこそが本作の価値であり、「軽薄な空っぽおじさん完全解放」の到達点なのである。
ニュータイプ覚醒の先導として主人公らを手助けするメンターみたいな役だろうとは思ってたが
それゆえ、10話の木星体験告白で説明終わりみたいな雰囲気になり、やや不満
もうちっと、説教演説に近い一人独白じゃなくて、コミュニケーションの中でマチュを導くみたいな感じを期待してた
ニュータイプかつあるべきオトナとして振る舞う背中を見せるというかさ
というか、作中のシャリアがどういう立ち位置でどういう意図でその行動とってるのか、よくわからんですよね
ジークアクス運用はどの所属でどういう目的なのとか(これは「アルファ殺し」で説明あるかな)
シャリアとしてゼクノヴァ悪用が予想範囲内で、それを止めろとか言い出すなら、
今まで薔薇探しに積極的に行動し、かつキシリアないしギレンにあっさりと薔薇を渡すの、どういう意図でやってんのとか
ギレンがニュータイプに積極的価値を見出してない発言を真に受けるなら、薔薇探しでソドンの好き勝手するのを許し
キシリアサイドは逆に、ニャアンをあれだけ重視してるのにマチュ放置はマチュの情報全く入れてないの?脇甘過ぎね?
となる
シャリアが権力の狭間をうまく泳いでマチュを守ってる(囲い込む)として、どうやってんの?とか