はてなキーワード: 肥大とは
インセル、入ってる。67点。
ボケた祖父を介護しながら大型スーパーで働く主人公のジョナサン・メイジャースはIFBBプロを目指すボディビルダーの卵。怒りを制御できない彼はカウンセラーに通いながらもゴリゴリにステロイドを打ちジムに通うもジムにも職場にも彼の周りには誰もいない。そんな彼は白人のボディビルチャンプに心酔しており、彼に返事のないファンレターを書き募る日々を送っている。そんな彼の日常が些細なことがきっかけに崩れていく。
みたいな話。
なんかさー、つらい映画だったよなぁ。
ジョナサンは黒人でユーザーだけどちゃんと鍛えてて、でも大きくならなくて、ジム仲間もいないからポージングがへたくそで全然承認が得られなくてさぁ。黒人なのに黒人コミュニティにも所属してなくてなんなら白人のいい子ちゃんみたいな服装ばっかりしてる。シャツは襟付きだし、もこもこの手編み風のセーターを着てる。途中で、レストランでブチ切れて周囲の客全員をののしるシーンがあるんだけど「ハゲ!」「チビ!」「デブ!」「ブス!」っていう、子供の悪口みたいなことしか言えない。黒人らしいF〇uckとか一切言えないの。
一方で、バイト先のスーパーで客が買ったパイに唾たらしたり、仕事のやる気がなかったり、職場の気になるあの子のシフトを調べて通い詰めたり、人に好かれる方法をネットで調べたり、まるで非モテ増田のルサンチマンを煮詰めたような行動をどんどんお出ししてくる。また、祖父を馬鹿にされたと思ったらブチ切れてペンキ屋の店をバッキバキに破壊したりとマジでろくでもない奴でもある。
典型的なコミュ障でアスペ気味というか明らかに定型発達障害の傾向も見えるし、そんな中でヤングケアラーとして今の社会に呪詛を吐き続ける従軍経験のある祖父をリスペクトしながらも面倒を見続け、さらにはステロイドの副作用で身体はボロボロだし精神はロイドレイジを発症しているという生きづらさ三倍満。そしてキモ・ヲタらしく推しビルダーへのファンレターにも「なんで連絡くれないの?」「これ届いてる?埋もれちゃった?」とか書いちゃうのもさぁ、なんかつらいよね~。ジャパニーズ・キモ・ヲタが部屋中にアニメポスターを張るように彼は部屋中にボディビルダーのポスターを張っている。
せめて鍛えた筋肉で人気者になりたいとSNSに動画を上げるも、散々バカにされインセル臭がすごいとまで言われちゃう。
でもそんな中で職場の気になる女の子を頑張ってデートに誘ってオッケーをもらってしまう。非モテ増田ブチ切れ。裏切者。しかし、そのデート先でボディビルダー特有のコダワリを発揮して店員を困らせ、バカみたいな量を注文し、推しビルダーを知らないと言われると説教までしてしまった結果、彼女には逃げられてしまう。
ここでさぁ、彼が「男に生まれたからにはデカいことを成さないといけない。じゃないと忘れられてしまう」って話をするんだけどさぁ。思うんだよね、目の前にお前を見てくれている女性がいて、この女性を本当に大事出来たら世界のだれもお前を覚えてなくても、彼女はきっとお前のことを忘れない。それこそが生まれてきて人がなすべき本当のデカいことなんじゃないかって。
実際、最後の最後の最悪の瞬間にこれまで話の中でちょろっとしか出てこなかった母親が主人公を愛していた瞬間のことがフラッシュバックで表れて彼は最悪の選択を避けることができる。つまりあの瞬間、彼の母親は「忘れられてしまわない」ってことで、何より「デカいことを成した」んだよね。そしてそれをたぶん彼は自覚してステロイドを捨てて、自分自身を承認するために再び自分の身体に向き合うことを決める。
このエンディングを甘いと思う人もいると思うんだけど、俺はめちゃくちゃ誠実だと思った。
もろちん、彼が引き金を引いてレガシーを残してあのバカみたいな笑顔を浮かべてエンドでもよかったかもしれないけど、それじゃあジョーカーじゃん。
彼は審査員を銃で脅していて、ステの副作用で心筋は肥大しいつ止まってもおかしくなくて、腎臓にもクソデカ腫瘍ができていてはっきり言って未来なんかなんもないんだけど、なんもないんだけど最後に心の平穏を得られたのはよかったかな。
話は戻って彼が黒人コミュニティに属せない人だってのもなんか切なくて、彼が狙ってるかわいこちゃんは当然白人だし、ボディビルヒーローって現代で言えばロニコーとかも含めて黒人はいっぱいいるんだけど、彼は白人ビルダーを推しに選んでいる。自業自得でコンテストで失敗した彼は(ここの展開あまりにセッション過ぎて笑っちゃった)、筋肉はあきらめ筋肉の代わりに男性性として銃を手に入れる。そしてクラブに行ってすわ乱射事件かと思ったら、そこでボディビルのポージングをとるんだよね。黒人ばっかりのクラブの中で彼らのダンスのノリにも結局迎合できず、孤独にポージングをとる。
黒人娼婦を買って彼女の前で服を脱いで筋肉の評価をしてもらう展開があって、いやこれ自体もゲロキショなんだけどそこで全肯定されてついに自分を受け入れてくれる人に出会えたと勝手に勘違いしてキスしようとしたらぴしゃりと拒絶される展開もあまりに哀しくてねぇ。キショいんだけど。そして童貞喪失失敗した後に推しビルダーから連絡が来てウキウキでついていったらケツ掘られて、しっかり性的搾取までされてしまうのはさすがにちょっと草だった。けど、ボディビルというマッチョイズムの頂点にいる人間も結局醜い搾取者だったという主人公の美しい信仰を最悪の形でぶち壊してるんだよね。
なんていうかアメリカ的なマチズモの中だからこそ生きづらい人なんだろうなって思った。
彼のコミュニティからの断絶って最小単位のコミュニティである家族ってものが、父親の心中によって幼少期に壊されたことに端を発していて、以降、彼は祖父の介護という形で自身を常にギブし祖父からのテイクは従軍時代の男とはという価値観だった。そしてその男性性を保つために彼はボディメイクを始めたんだと思うんだよな。そしてそれを最悪な行為によって失った結果、彼はすべてをかなぐり捨てて無敵の人になるんだけどそれでも最後に、母親から愛されていたことを思い出して踏みとどまる。この映画っていろんな生きづらさを描きながらもコミュニティに承認されることの映画だったのかなと思った。
まぁ、そんな感じかな。
正直ちょっとダラダラした展開もあるしボディビルダー的な話は中盤で終わっちゃってそこからはインセルと無敵の人の綱引き大会が始まるのでなんか思ってたんと違うなぁって感じがするかもしれない。でもまぁ、現代はMagazine Dreamで雑誌の表紙を飾ることで承認されたい、人に記憶に残りたいって話で、その承認欲求の行きつく先の一つに無敵の人化があるっていう話なんだろうなとは思ったかな。
足を大きく広げて座るなどの態度は、「自分を強く、大きく見せたい」という心理的な虚勢からくる威嚇行動です。
これは、動物が体を大きく見せて相手を威嚇するのと同様の、原始的な行動として捉えられています。
このように虚勢を張る背景には、実際には以下のような身体的な弱さや筋肉の衰えが隠れている可能性があります。
特にPC筋の弱体化は、威嚇という「強がり」とは裏腹に、生理的なコントロールの喪失を意味します。この筋肉が弱ると以下のような事態を招くとされています。
つまり、足を広げて威嚇するような態度は、「舐められないように必死に強く見せようとしている」一方で、
その実態は「筋肉が弱り、排泄や性機能を制御できなくなっている」という、極めて哀れな状態の表れであると解釈されています。
そのため、周囲からは強そうに見えるどころか、「無様で滑稽」「キモい」といった否定的な視線で見られる要因にもなっています。
筋肥大させたいならトレ後すぐ飲め
存在するだけで、悪。64点。
ある日、ハゲの終身教授のニコラス・ケイジの娘がニコケイを夢の中で見たと言う。その後ニコケイはぽつぽつとあった人に夢で見たと言われ始め、それがSNSで公開されるや否や膨大な人からお前を夢で見たという反応が寄せられる。「夢の中に現れる何もしない男」としてバズった彼は一躍調子に乗り始めるが、ある日を境に人々の中での夢の内容が変化、ニコケイは夢の中で害を与えてくる存在として人々から大バッシングを受けるようになる。いったい私どうなっちゃうの~?
というようなお話。
取り扱われているのは「何かをミームとして消費するSNS利用者の浅薄さ」だったり、「なんとなく不快だからで行われるキャンセルカルチャーの異常さ」だったり「勝手な肥大したイメージで行われるバッシング」だったりっていう増田御用達の話題。
この話は実は2つのまったく異なる軸がまるで同一軸かのように話が進む。
1つはニコケイ演じる教授の見栄っ張りで自信と自意識が過剰で承認欲求ばかりが肥大してトキシックマスキュリニティにまみれた哀れな中年の暴走。
もう1つは中年男というぼんやりした社会的ジェンダーイメージ。
ニコケイはもう本当にどうしようもない奴で、大学の終身教授でかわいい嫁さんと可愛い娘が2人いる以外はほとんど増田みたいな奴でさ。友人と思っている相手からはあいつおもんないからパーティー呼ぶのやめようぜってハブられてたり、嫁が男性と事業の話をしてただけで嫉妬するくせに自分は元カノとばったり会ったら舞い上がってしくじったり、元同僚がより有名な研究者になってネイチャーに論文が載るとなったら大学院時代の話を持ち出してネチネチ言ったり、張り合おうと俺も本を出すんや!出版社も決まってないし書き始めてもないけど!と自爆したりともう、見ててこいつホンマ……ってなるエピソードがつるべ打ちに出てくる。
そんなニコケイが夢の中で他者を加害する存在になり車に落書きされ、レストランではお前がいると不安だから出ていけと言われ客から嫌がらせを受け、生徒から拒絶され、嫁の事業もポシャるところを見て何となく俺たちは「ざまあみろ、お前が悪いんじゃん」という気持ちになる。が、別にニコケイ本人はなんもしてないのだ。
元々ニコケイは夢の中でも「なんもしない、ただ見てくる中年男性」として登場した。もしくは一部の人の中では「えっちなことをしてくる中年男性」として登場する。これは世間的に見てマシなほうの「中年男性」のイメージそのものだと言えると思う。でも、でもだよ。中年男性がただ見てくる、のって怖くね?それが何度も何度も続いたら、その先にある暴力の予感を勝手に感じね?
つまり、中年男性が存在するそのこと自体に加害性がある、という異常に差別的なイメージ―ーそれこそ、夢の中の加害後の彼が受ける行為はほとんど黒人≒犯罪者とされていた時代の黒人が受けた行為に酷似している――がほんのり俺たちの中にある。ということを、ニコケイをウザい中年にすることで正当化させようとしているように俺には見えた。
だけど本来、ニコケイがウザい中年であることは、彼がやってもいない加害で世界中からバッシングを受け攻撃されることを決して正当化しないはずだ。だけど、たぶん、見た人の中でも少なくない人は「ニコケイが悪い、彼は加害性がある中年男性だからあんな目にあった」と思ったのではないか。そして、それこそが制作陣の逆説的な挑戦だったんじゃないかと思った。
ニコケイはたまたま大勢の夢に出てくるようになってバズって調子に乗り始める。そうすると当然、見ているこっちもなんやこれしょうもないな、という気持ちになってくるわけ。そしてニコケイは広告代理店に呼ばれ、そこのアシスタントの若い美女に声をかけられ「夢の中に出てきたあなたみたいに私をめちゃくちゃにして!」と迫られる。見ているこっちはキレそうになる。しかし増田のニコケイは当然無様にも失敗。
したところを境に、ニコケイは大勢の夢で他者を害する存在になる。だけどよく考えてほしいんだけど、ニコケイはこの前後でやってることはなんも変わんないし、世間的にもなんも変わんないはず。アシスタントがそれをSNSに投稿した描写もないし、まぁしないでしょ。だとしたらこの事件を境に変わったものは何なのかと言う話になる。
俺たちの視線だよね。
しょうもない男だけど無害(じゅうぶんウザい存在ではあったけど)だったニコケイが調子こいて女に実際に手を出す加害する存在になったと俺たちが認識した瞬間、ニコケイは作中の中の人たちの中でも加害する存在になった。んじゃないかと俺は思った。つまり、俺たちも作中の集合的無意識の一部だったんだよ!ナ、ナンダッテー!!!
そして娘の学校の演劇発表会に出ることを禁じられたニコケイは暴走し会場に乗り込み事故的に教師を実際に怪我させてしまう。そのニュースが出回った直後から夢の中にニコケイが現れることはなくなる。肥大した中年男性という害悪のイメージが一人の「ニコケイ」になり、「イメージ」から「個人」の話になり、はーしょうもな解散、となったんじゃないか。
そうして職も家族もすべてを失ったニコケイはその話を本にして、その本も自分の思い通りにはいかなかったけどもう別にそれでいいやと"今の自分"を少しだけ受け入れる。ニコケイ事件を機に発明された他人の夢の中に入る機械を身に着け、一度も自分を夢に見なかったという妻の夢に入る。そこでのニコケイは妻が以前語ったようにトーキング・ヘッズのバカみたいな肩パッドが入ったスーツという肥大した自分自身の象徴のような恰好で会いに行く。
つまり彼女にとっては元から彼がそう見えていたんだろうと思う。分不相応な自分に振り回されるかわいそうでかわいい人、と。だから彼女だけは彼を夢に見なかった。夢に見なくても目の前にいつもいたのだから。彼女に夢であるのが残念だと告げたニコケイはゆっくりと宙に消えていって話は終わる。
極めて増田の民のニコケイだったけど増田と違って等身大の自分を愛してくれる妻がいたんだから、その妻を等身大の自分でただ愛することができていればこんなことは起きなかったんじゃないかとそう思える少し悲しくて少し優しいラストでよかった。
まぁ、そんな感じかな。
キャンセルカルチャー、ミーム化、ハゲ、SNSでのバズと炎上、ジェンダーイメージと増田垂涎のテーマを盛り込んだ意欲作だと思うので暇だったら見てみてほしい。
俺はモナーではなかった。
中学時代はそれなりに頭がいいと自負していて、高校受験したら、落ちた。滑り止めへ入学した。
いや、今思えば別に頭は良くなかったかもしれない。ただプライドが肥大してたクソガキだった。
クソガキは滑り止めのひどいひどい私立高校へ進学し、ごめん、酷くないな、クソガキ目線ではひどい学校だったが、今思えば先生方も良くしてくれたしいい高校だと思う。それを気づくのに10年かかるだけなんだよな、たぶん。
クソガキはそれなりに色々経験して、日々を過ごし、 あ、おれはたぶんダメだ! と自覚するんだ。
ここらへんで他者や異性への付き合い方とか、生きるためには目標が必要なこととか、日々は自動的に流れていってグッと体を固めて石になるとものすげースピードで流れていくとか、俺は能力がなく、我慢ができず、理解を放棄したら当然なにも学べないことなどを身にしみて理解したりした。
要するに、なんにもわからないし、どうすればいいかわからない。俺が手の届く場所には希望はないという絶望が体を支配して、カジュアルにもう終わりだな、と思っていた。
父親はまだ生きていて、おれは父親がよくわからなかった。将来の自分のロールモデルが優秀な兄か、よくわからん父親しかおらず、かと言って探しにいくこともしなかったし、できなかった。
今思えばバカなりに兄にも父親にも素直に聞けばよかった。聞いたところで理解はできないが、少なくとも現実を受け止める準備は進むはずだ。
兄は出来の悪いおれには厳しく忠告をしてくれただろう。兄もこの頃はコンプレックスで苦しかったらしい。おれは兄が好きだ。
想像の中の父は楽観的に答えてくれるだろう、わからない。父ともっと話すべきだった。
全部がわからず、意味がわからず、一つずつ答えを探す根気や忍耐はなく、貝になる選択肢しかなかった。
2ちゃんねるは刺激的だった。父は高校受験を失敗した俺に携帯を買い与えてくれていた。青いスライドする携帯電話で、D900iだかD901iだかそんな名前だった。D905iだったかもしれない。
当時は2ちゃんねるという掲示板が流行っていて、まとめサイトが乱立していた。まとめサイトは今で言う切り抜き動画だ。俺は数百メガの通信量を気にしながら、2ちゃんねるにのめり込んだ。
高校時代が充実したやつはインターネット上に存在しない。充実していたらインターネットなんてしない。快適に2ちゃんねるを見るために携帯電話にiMonaというアプリをインストールしていた。どう言う経路で入手したのかさっぱり覚えてないが、インターネットを漂っていればこのくらいはできるようになるらしい。
父親も母親も息子が無駄にパケットを消費して金をドブに捨てても何も言わなかった。諦めか、愛だ。
vipをのぞけばクソスレがたくさんあった。ブーン系小説もそのひとつだ。おれは「僕はモナー」というスレッドに魅了された。
モナーは主人公だ、大学生だ。友人たちと楽しく大学生活を楽しんでいる。
大学は学生としての義務を果たしていれば、責任を負わなくても良い。世間はその期間の多少の失敗は見て見ぬふりをしてくれる。
モナーは俺と違い、致命的な怠け癖や要領の悪さは持っていないようだった。少なくとも俺よりは随分まともだと思った。
俺はモナーではなかった。
2ちゃんねるを見ているから、2ちゃんねらーだから、この作者は2ちゃんねらーでクリエイターで、
おれは、
おれは。
わからなければ、兄に聞けばよかった。
聞いて理解ができたか?兄は付き合ってくれたか?兄は付き合ってくれたはずだ。助けを求めて、手を伸ばして、足を前に出せば。
助けてくれなかったのか?
「根に持っちゃいないよ おぼえてるだけ なぜみんなとちがう?」
俺はひどい被害妄想の持ち主だ。
俺は就職に失敗した。両親に報告をした。どう報告したか覚えてない。担当者との約束が違うと、俺は言ったと思う。
どんな気持ちで、何を伝えるつもりで息子にそれを言ったのか。
俺のせいじゃないと言ってくれてたのかもしれない。わからない。
父はあまり喋らず、酒と煙草で理不尽を飲み込む人間だった。俺は酒は飲まないし、煙草も吸わない、確実に俺の方が口はうまい。俺は父が好きだ。
おれは、モナーではないし、ドクオでもギコでもブーンでもモララーでもない。
おれは、おれは。
どこの誰が書いてるかも分からん匿名記事で主張の根拠一切示さずエラソーに常識がないとか度々他人を馬鹿にする文言が含まれてる記事に対して、信用ないという評価することってクレームの中でも比較的妥当なクレームだと思うが。
”相手の話をまず受け入れ、次に自分の考えや根拠を提示とか”言ってるわりに自分は求められてる根拠は提示せず代わりに相手をクレーマーというレッテル張りをする始末だし。
というかこんな挑発・嘲笑・侮蔑・間接的自賛の文言並べてたてられて まともに話を聞くやつそうそうおらんと思うけど。
いやほんと、普通に公民の教科書や新聞の社会面読んでれば高校生でも知ってる知識を知らないブクマカが大勢いるようで、なんだろうね
常識で考えればわかるだろ?
間違ってると否定してるわけではなく、態度悪いしなんかの引用による根拠もなくてそもそも信用がないというだけなんで議論以前の問題だし。
俺なら、こんな金にもならん匿名記事でいちいち法文探してキッチリ書いてられるか、信用しないならそれでけっこう、とでも言うかな。
「え?それマジで言ってるの?なんでこれにスター付くの?」てブコメが多数あってビビってるんだけど
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mainichi.jp/articles/20260326/k00/00m/040/409000c
勘違いしてたが、北海道公安委員会って警察がなるものではなく、市長や知事が任命した人がなるものなのか。当時誰がいたか軽く調べた程度では出てこないが、わずか五人の馬鹿な判断がここまで事態をこじらせたのか。
いやさ、確かに決定は公安委員会の名で下されるし、裁判の被告も公安委員会がなるけど、5人の公安委員が個人の免許について判断に関わっとるわけないだろ。
君の手元にある運転免許証見てみ?
誰の名で発行されてる?四角い印影見たら「〇〇公安委員会」て書いてあるじゃろ。
銃所持免許だけでなく、運転免許証も公安委員会名で出してるんだよ。もちろん免許停止や免許取消処分も公安委員会名でやるし、それに不服があって裁判起こすときも相手は公安委員会だ。
で、たとえば東京都の運転免許所有者は460万人いるんだけど、5人の都公安委員が全員の免許を発行していいとか、違反したときに取り消すとか、判断してると思うかい?
もちろん無理だよ。
現実には、免許の発行・取消の判断は現場の担当が行って、課長レベルの決裁を貰っておわりで、公安委員会どころか警察本部(都なら警視庁)すら判断に関わってないよ。
銃所有免許も同じ。
署の担当が前例や基準に照らして判断して、生活安全課長が実質的な決裁して、それ以上の署幹部は流し読みしてめくら印押して、終わり。公安委員どころか道警本部も実質判断には関わってないよ。
常識で考えればわかるだろ?
公安委員会の判断がおかしいのはもちろんだが、漫然と裁判を継続した道の責任も大きい。知事が政治判断して早期に処分を撤回すべきだった。
公安委員会(警察)が下す処分や判断に、知事は一切関われないよ。知事が警察への指揮権があるなら、知事や知事に近い県議会議員の選挙違反を取り締まれなくなるじゃん。
知事が「政治判断」で警察の処分を撤回したりできるなんてどうして思った。知事と公安委員会を分けてるのは警察の独立性・自律性を確保するためだよ。
県知事の下に公安委員会(都道府県警)が所属してるイメージだったのかな。いやまさかそんな…
こんなくだらないことでいちいち裁判とかやらなければいけない 最高裁で逆転無罪とか高等裁判所とかどうなってんの? 次の国民審査は問答無用で全員落とすわ
すでに複数突っ込み入ってるけど、「最高裁判所裁判官国民審査」だからな?
一度でも衆議院選挙に行って国民審査やってればわかると思うが、選挙行ったことない?まだ未成年かな?
しかも対象になるのは着任後の初回だけで、初回で×が半数以下で信任されたら、あとは審査される機会ないからな?
いやほんと、普通に公民の教科書や新聞の社会面読んでれば高校生でも知ってる知識を知らないブクマカが大勢いるようで、なんだろうね
🙄アンタのブクブク肥大してツンツルテンの皺無し脳よりも忍耐力あるだけ数段マシじゃね?
「メモはデジタルで残せ」という主張は一見合理的に見える。検索可能、共有可能、保存も容易。
しかしその合理性は前提条件に依存している。前提とは「将来参照する」「他者と共有する」「情報を資産化する」という目的だ。
ここで少し枠組みを置く。人間の注意資源は有限であり、しかも脆弱だ。これは認知心理学でいうワーキングメモリの制約に対応する。
注意は分散すれば性能が落ちる。これは気分の問題ではなく、構造的制約だ。
デジタル端末は多機能性を持つが、それは同時に高い選択肢密度を意味する。通知、ブラウザ、SNS、ニュース。
たとえ開いていなくても、脳はそれらの存在を知っている。これは認知負荷を増やす。
注意のスイッチングにはコストがある。数秒の逸脱でも、深い思考状態に戻るには時間がかかる。
紙は単機能デバイスだ。誘惑が物理的に存在しない。これは集中において決定的だ。
手で書くという行為は、運動野、視覚野、空間認知、言語処理を同時に使う。単なる文字入力よりも多層的な神経活動を伴う。
さらに紙ではレイアウトが連続空間だ。余白に矢印を書き、図を追加し、線を引き、ページ全体を一つの思考マップとして扱える。
デジタルの多くは直線的で離散的だ。思考が枝分かれする速度に、インターフェースが追いつかない。
第三に、数式や抽象図形との相性。
バックスラッシュ、括弧、コンパイル。これは表現の整形には優れるが、生成には向かない。
数学的思考は連続的な試行錯誤の連鎖だ。紙なら、途中式を斜めに走らせ、思いついた変形を横に書き、誤りを囲み、矢印で戻ることができる。
速度と摩擦の少なさが重要になる。思考の流速を落とす媒体は、創造性を削る。
いきなりデジタルに書くと、公開可能性という誘惑が入り込む。文章量で押し切ることが可能になる。
だが量は質の代替にならない。紙に書く段階は、思考の粗鉱を精錬する工程だ。多くは棄却される。
これは科学的方法に近い。仮説を立て、検証し、ほとんどを否定する。そのプロセスがなければ、未検証の断片がそのまま流通する。
多くのメモは将来検索するためのデータではない。思考の一時的な足場だ。
建設現場の足場が完成後に撤去されるように、多くのメモは役割を終えれば消えてよい。
数学者のノートの大半は論文にならない。重要なのは保存率ではなく、思考の進展率だ。
ここで整理する。デジタルは外部化と共有に強い。アナログは生成と検証に強い。
用途を混同すると議論が混乱する。保存効率が高いことは思考効率が高いことと同義ではない。
さらに付け加えるなら、摩擦は必ずしも悪ではない。完全に滑らかな入力は、思考のブレーキを失わせる。
手書きは遅い。その遅さが、無駄な言語化を削ぎ落とすフィルターになる。速度制限は質の担保装置にもなる。
思考の生成、仮説の実験、抽象的探索が目的なら、紙とペンは依然として合理的選択だ。
技術は進歩するが、認知構造は急には変わらない。媒体選択は流行ではなく、脳の制約から逆算して決めるべきだ。
そして多くの思考は、公開されない段階で既に価値を持っている。そこを軽視すると、アウトプットだけが肥大し、思考そのものが痩せる。
ようやくわかってきた
そして急に行動に出る
自分から挨拶してくるようになったり食べ物を渡してきたり、雑談をしようとしてきたり
そうした行動を、礼儀正しく立場の弱い相手が期待通り拒絶しない事を確認すると、勝手に「距離を詰めてもよいのだ」と認識するのである
挨拶とか差し入れとか雑談とか、ちょっと気の利く人なら下心なしに日常的にやっていることだが、社会性ゲロ以下のおぢがそういう行動に出る時には下心しかないので用心されたい
一般的な対応として「善意を普通に受け取る」というのは、おぢにとっては「脈アリサイン」になるのである
おぢアタックとは「勘違いして一方的にアプローチをエスカレートさせ、期待を裏切られると拗ねる」までが一連のルーティーンなので、初手の「こいつは安全な女かどうか判定」で安全と判定させないようにするしか回避の方法はないのである
よって心がけるのは、「お菓子や物を受け取らない(結構です!大丈夫です!の一点張りで乗り切る)」、「とにかく物理的に避ける、近寄らない(挨拶のきっかけを作らせない)」「テンション低めに話す」ということ
おぢもさすがに「こいつは俺が傷つくことを何とも思ってない」と察して、それ以上近づいてこない
普通の善意の人相手なら多少失礼になるとしても、非モテおぢ相手にはこのくらいの心構えが必要なのだ
自意識過剰なおぢは本当に社会人として些細な、普通の事を、中学1年生レベルの経験値のままの恋愛脳で都合良く解釈し、勝手に期待を膨らませる
しかし、さすがに初手から拒絶の意思を出している相手には勘違いの余地がないらしい
詳細は避けるがこの方法で最近再アタックしてきたおぢを見事退けた
高齢非モテ弱男に社交辞令や空気を読むということが理解できると思ってはならない
奴らにあるのは年齢の分だけ肥大した自意識とプライド、そして優しい女が俺を受け入れてくれるという夢物語だけなのである
おぢから何も受け取ってはならない
おぢに愛想良く接してはならない
おぢとワンターン以上業務以外の会話をしてはならない
世の女子、そして年がいってる分だけ安全だと思われておぢアタックを受けがちなおばたちよ、このことを忘れないでいてほしい
非モテおぢを対等な人間扱いしたが最後、「俺の全てを受け入れてくれる女神」と思われ、その期待を裏切ればいわれのないおぢの恨みを買うことになるのである
市場は万能ではない。だが「万能ではない」という事実を、官僚と政治家が免罪符として濫用する国家は、例外なく自己放尿する。
市場は確かに失敗する。しかし、政府はもっと頻繁に、もっと大規模に、そしてもっと不可逆に失敗する。
問題は「市場か政府か」ではない。市場の失敗に対して、政府がどの程度の失敗を上乗せするかである。
ここでまず明確にしておく。規制は必要だ。必要なのはルールである。国家が担うべきは審判であって選手ではない。
審判はルールを固定し、プレイヤーが予測可能な環境で競争できるようにする。
審判が気分で笛を吹き、勝敗を演出し、人気チームを勝たせようとした瞬間、競技そのものが自己放尿する。
これが裁量行政の本質だ。つまり制度設計ではなく介入芸で国家が飯を食う社会は、資本主義をやっているようで、実態は準社会主義である。
市場に必要な規制は、所有権の明確化、契約執行の強制、詐欺・暴力等の排除が挙げられる。
これは国家のコア業務だ。これがなければ市場は単なる弱肉強食の縄張り争いに堕する。
だが、この最低限のルール整備と、「特定産業を救う」「特定企業を延命する」「特定地域に補助金を撒く」「特定価格を維持する」といった裁量介入を混同する国は多い。
これは知的に言えばカテゴリーミスであり、政治的に言えば利権の偽装である。
価格は情報である。価格は需給だけでなく、希少性、リスク、期待、技術、代替可能性、時間選好といった膨大な情報を圧縮したシグナルである。
政府が価格に介入するとは、情報伝達回路を破壊する自己放尿である。
価格統制、補助金、参入規制、護送船団方式、行政指導。これらはすべて、価格が発する「足りない」「余っている」「危ない」「儲かる」というシグナルを黙らせる。
すると市場は沈黙する。沈黙した市場では資源配分が劣化し、全要素生産性(TFP)が腐り、資本蓄積が歪み、イノベーションが死ぬ。
さらに致命的なのは、政府介入が単発で終わらない点だ。介入は次の介入を呼ぶ。
たとえば賃金や価格を政治的に固定すれば、需給の調整は数量制約として現れる。品不足、待ち行列、闇市場、質の低下。そこで政府はさらなる規制で対応する。
こうして政策は自己放尿する。これは政策のラチェット効果であり、政治経済学的には典型的な政府失敗である。国家は縮まない。国家は肥大する。
この肥大は、単なる非効率では済まない。合理的期待形成のもとで、民間は政策を学習し、適応し、回避し、ロビー活動に資源を投下する。
これがまさにルーカス批判の核心だ。政府が過去データを根拠に裁量政策を撃てば撃つほど、民間の行動規則そのものが変わり、政策効果は蒸発する。
蒸発するだけならまだ良い。現実には政策は不確実性を増幅し、期待を不安定化させ、投資を萎縮させる。これはマクロ政策が景気を安定化させるという幻想の裏側にある現象である。
裁量介入の害は、単なる資源配分の歪みではない。もっと深い。インセンティブ構造の破壊だ。
救済が予想されれば、経営者はリスクを過大に取る。モラルハザードが発生する。ゾンビ企業が生き残り、創造的破壊が止まる。
生産性の低い企業が市場から退出しないため、労働も資本も滞留し、新陳代謝が消える。これが日本型停滞の中核であり、成長率の天井を作る。
そして官僚機構は介入すればするほど自分の仕事が増えるため、規制の供給者として振る舞う。
つまり、規制は公益ではなく官僚制の自己保存のために生産される。
政治家も同様だ。補助金を配れば支持が得られる。規制を作れば仕事をした感を演出できる。
財政支出は可視化され、票になる。改革は不可視で、票になりにくい。
だから政治は短期主義に偏る。ここに「政府が市場を補完する」という建前の裏で、「政府が市場を寄生する」という自己放尿が成立する。
このとき国民がよく口にする反論がある。「でも市場には格差がある」「弱者が切り捨てられる」「外部性がある」。
もちろんそれは正しい。だがここで重要なのは、格差是正を口実に、政府が価格メカニズムを破壊してよい理由にはならないということだ。
外部性は存在する。だが外部性への対応は、原則として価格付け(ピグー税・排出権取引)で行うべきであり、官僚が恣意的に産業を選別して補助金を注ぐことではない。
格差問題も同様で、再分配は所得移転という透明な形で行うべきであり、特定業界保護という歪んだ形で行うべきではない。後者は効率性を殺し、利権を固定化し、結果的に貧困を温存する。
つまり、正しい政策はこうなる。市場を歪めない形での最小国家である。金融政策はルールベースで、予測可能性を最大化する。
財政は均衡を原則とし、例外を限定する。産業政策は基本的に否定し、競争政策を強化する。参入障壁を撤廃し、退出を容易にする。
倒産は悪ではなく資源再配分の装置として受容する。これが健全な資本主義だ。痛みはある。だが痛みを先送りして麻酔を打ち続ける社会は、やがて神経そのものが壊死する。
日本の病理は、成長戦略がないことではない。成長戦略を語りながら、同時に市場を信用していないことだ。
規制緩和を掲げながら、例外を大量に作る。競争を促進すると言いながら、既得権を守る。財政健全化を言いながら、政治的に都合のいい支出を増やす。
これは論理矛盾ではない。政治合理性としては整合的だ。だが経済合理性としては自己放尿だ。
成長とは何か。成長とは生産関数がシフトすることだ。TFPが上がることだ。
その源泉は技術進歩だけではない。競争、退出、資本再配分、価格シグナル、企業家精神である。
これらは制度の産物だ。制度が悪ければ、技術があっても伸びない。優秀な人材がいても伸びない。資本があっても伸びない。制度が良ければ、凡庸な国でも伸びる。
ここで裁量介入が入ると何が起きるか。投資家は経済性ではなく政治性で投資を決めるようになる。
これがレントシーキング経済であり、成長率が落ち、社会全体が官への依存で腐っていく。
これは文化の問題ではなく、インセンティブの問題だ。人間が合理的に振る舞った結果としてそうなる。
市場に規制は必要だ。だがそれは、競争を止めるための規制ではない。競争を成立させるための規制である。
市場に政府は必要だ。だがそれは、配分を決めるための政府ではない。ルールを固定するための政府である。
社会保障は必要だ。だがそれは、産業を延命するための社会保障ではない。個人を救うための社会保障である。
そして何より必要なのは、政治家と官僚が「景気を操作できる」「産業を育てられる」「成長を設計できる」という全能感を捨てることだ。
成長は、官僚のペン先から生まれない。成長は、無数の市場参加者が価格シグナルを頼りに試行錯誤し、失敗し、退出し、再挑戦するプロセスから生まれる。
国家がすべきことは、笛を吹くことではない。
まるで巨大な単一人格が存在し、俺を観測し、評価し、記憶し、社会的スコアを付与しているかのように扱われる。
しかしストア派の冷徹な自然観に従えば、その前提は最初から壊れている。
世間とは主体ではない。世間はロゴスを宿した統一的意志ではなく、ただの相互作用の束、無数の表象と衝動と欲望の乱流である。
つまり世間が俺を認識していないのではない。世間という仮想の審判者を俺が作り出し、その審判者が俺を見ていないという物語を俺が採用しているだけだ。
ストア派はここで、即座に区別を導入する。エピクテトスの二分法だ。
すなわち、俺の支配下にあるもの(選択能力、意志、判断)と、俺の支配下にないもの(他者の評価、偶然、噂、流行、アルゴリズムの気まぐれ)を切断せよ、と。
世間の認識は後者だ。つまり俺がいくら歯を食いしばっても、そこに統制権はない。
ならばその領域に魂のリソースを投下するのは、倫理的にも論理的にも誤りだ。
ストア派はこれを外部財への隷属と呼ぶ。名声は外部財であり、承認は外部財であり、世間の視線は外部財である。
外部財に依存する生は、最初から不安定に設計されている。株価に人生を賭けるようなものだ。
しかし、ここで話は終わらない。なぜなら俺が言っているのは世間が俺を認識していないだけではなく、俺も世間を認識していないからだ。
この対称性が、ただの愚痴を形而上学へと押し上げる。これは単なる孤独の嘆きではなく、認識論的な断絶の宣言である。
俺は世間を見ていない。世間も俺を見ていない。ここには、相互主観性の回路が形成されていない。
社会とは本来、相互に他者を他者として認識し合うことで成立する。
しかしその回路が途切れている。これは社会的死の一形態であり、ユング的に言えば集合意識への接続不全だ。
ユングは言う。人間は意識だけで生きているのではない。個人的無意識と集合的無意識があり、さらにそこには元型が蠢いている。
世間というものは、単なる人間集団ではない。世間は集合的無意識の表層に現れる社会的ペルソナの海である。
ペルソナとは仮面だ。人は社会の中で、役割に最適化された仮面を被る。
会社員の仮面、家族の仮面、SNSの仮面、善良な市民の仮面。世間は、無数のペルソナが互いのペルソナを認識し合って成立する、仮面の交換市場である。
そしてここで重要なことが起きる。俺が世間は俺を認識していないと感じるとき、それは俺の本体が認識されていないというより、俺のペルソナが市場に上場していないという意味である可能性が高い。
世間は本体を見ない。世間は仮面しか見ない。世間が見ているのは、社会的にタグ付け可能な記号、職業、年収、肩書、フォロワー数、言語の癖、政治的立ち位置、消費行動、顔の表情、服装のテンプレだ。
世間は個体の魂を識別する器官を持たない。だから世間に認識されるとは、実際にはペルソナとして分類されることに過ぎない。
つまり俺が認識されないと言うとき、それは分類されないということだ。
分類されない者は、統計に載らない。統計に載らない者は、社会の意思決定に影響しない。影響しない者は、存在しないものとして扱われる。
これは現代のロゴスではなく、統計的なダイモーンである。世間は人格を持たないが、集合としての惰性を持つ。惰性は倫理を持たない。惰性はただ、流れる。これが世間の正体だ。
しかしユングはさらに深く刺してくる。俺は世間の人間を一切認識していないと言うとき、そこには投影が潜んでいる。
俺は他者を見ていないのではない。俺は他者を世間という抽象概念に圧縮している。
これは他者の人格を剥奪する心理的操作だ。世間の人間は、顔も名前も欲望も恐怖も持つ具体的存在なのに、俺はそれを世間という巨大なモンスターにまとめてしまう。
つまり俺は他者を認識しないことで、逆説的に自分を守っている。ユングはこれを影の機制として読むだろう。
影とは、自我が受け入れたくない側面の貯蔵庫だ。俺が世間を嫌悪するとき、その嫌悪の一部は、俺自身の影が外部に投影されたものかもしれない。
世間は薄っぺらい、世間は愚かだ、世間は凡庸だ、世間は空虚だ。そう断罪することで、俺は自分の中の薄っぺらさ、愚かさ、凡庸さ、空虚さを俺ではないものに隔離している可能性がある。
これは心理的には合理的だ。自我は自己像を守るために、世界を歪める。だがそれは同時に、個性化のプロセスを阻害する。
ストア派の言葉で言えば、これは判断の誤謬だ。外部の現象に価値判断を貼り付け、心を乱す。ストア派が問題視するのは現象ではない。
現象はただの現象だ。問題は俺の判断だ。世間が俺を認識しないこと自体は中立である。
善でも悪でもない。ただの事実である。しかし俺がそこに「これは耐えがたい」「これは屈辱だ」「これは人生の敗北だ」という価値を付与した瞬間、俺は自分の魂を鎖につないだ。
そしてこの鎖の正体は、承認欲求というよりもっと原始的なものだ。
ストア派的に言えば他者の評価への恐怖であり、ユング的に言えばペルソナ崩壊への恐怖だ。
世間に認識されないということは、ペルソナが成立しないということだ。ペルソナが成立しないと、社会の舞台における座標がない。座標がないと、自我は漂流する。漂流する自我は、存在論的不安に沈む。
だから俺は認識されないことを恐れているのではない。俺が俺であることを保証する外部の鏡がないことを恐れている。
人間は他者の眼差しを通して自己像を形成する。これはサルトル的だが、ユングも似た構造を持つ。自己は自我を超えた中心だが、そこに到達するには、他者との摩擦が必要になる。摩擦がなければ、俺は自己の輪郭を得られない。
だがストア派は冷酷に言う。そんなものに依存するな、と。自己の輪郭は外部の鏡ではなく、内的ロゴスによって確立されるべきだ。
ストア派にとって自由とは、外界の承認から独立した精神状態である。アパテイアとは、無感情ではない。誤った価値判断から解放された状態だ。
世間に認識されないことを害と見なさないこと。世間に認識されることを善と見なさないこと。これが精神の自律だ。
しかし、ここで一つの逆説がある。ストア派は共同体を否定しない。むしろコスモポリタニズムを唱える。
人間は宇宙国家の市民であり、互いに理性によって結ばれている、と。つまりストア派は世間を無視して独りで悟れとは言っていない。
むしろ共同体に奉仕せよ。ただし、共同体からの評価に魂を売るなと言う。
これが厄介だ。俺の状況は、奉仕する共同体が実感として存在しないという状態だ。
世間が見えない。世間も俺を見ない。ここでストア派倫理は、真空に投げ込まれる。
ユングはここで、個性化の観点から別の地図を提示する。世間から切断された者は、集合意識の浅瀬に住めない。
浅瀬に住めない者は、深海に潜るしかない。つまり、世間に適応するペルソナのゲームを捨てた者は、否応なく影と対峙し、アニマ/アニムス(内なる異性元型)と格闘し、自己の徴候に出会う。
これは苦しいが、精神の錬金術でもある。ユングはこれを魂の夜と呼びたくなるだろう。孤独は病理である場合もあるが、同時に、個性化の必須条件でもある。
だから世間が俺を認識しないは、災厄であると同時にチャンスでもある。
世間に認識されることは、社会的安定を与える代わりに、ペルソナの牢獄を与える。認識されないことは、安定を奪う代わりに、自由と深度を与える。
これはユングの言う補償作用だ。意識が外界で満たされないなら、無意識が別の形で膨張する。世間が俺に意味を与えないなら、無意識が俺に意味を生成する。
しかし、意味生成には危険がある。世間が俺を認識しないとき、俺は選ばれた孤独という神話を作りたくなる。
これは元型的誘惑だ。殉教者の元型、賢者の元型、アウトサイダーの元型。俺は世間に理解されない天才だ、という物語は甘い。
だがそれはしばしば、単なる自己防衛の神話化にすぎない。ユングはそれをインフレーションと呼ぶ。
自我が元型のエネルギーを吸って巨大化し、現実との接地を失う状態だ。これは精神の事故だ。孤独が精神を鍛えることもあるが、孤独が精神を神格化することもある。
ストア派は、この危険をもっと簡単な言葉で切り捨てる。思い上がりだと。
宇宙の秩序の中で、俺が特別に悲劇的である理由はない。俺が特別に見捨てられている理由もない。世界は俺を中心に設計されていない。
ここでストア派は残酷なほど健全だ。世界が俺を見ていないのは、世界が忙しいからだ。
世界は世界のロゴスで回っている。俺はその一部でしかない。これは虚無ではない。むしろ、過剰な自己重要感からの解放である。
そして結局、俺が言うべきことはこうなる。
世間が俺を認識しないのは、世間が愚かだからではない。世間とはそもそも、俺を認識するための器官を持たない現象だからだ。
世間は意識ではなく、統計的流体であり、アルゴリズムであり、模倣の連鎖であり、集合的無意識の泡である。そこに人格的な期待を置くのが誤りだ。
また、俺が世間を認識しないのは、俺が優れているからではない。俺が他者を抽象化し、投影し、影を外部化しているからだ。
俺は世間を見ているのではなく、世間という言葉に詰め込んだ自分の恐怖と嫌悪を見ている。
俺は世間を拒絶しているのではない。俺は世間を通じて、自分の無意識と戦っている。
ストア派の結論は明快だ。認識されるかどうかは外部の事象であり、俺の徳とは無関係だ。
俺が制御できるのは、判断と行為だけだ。ゆえに、世間の認識を求めて魂を擦り減らすのは、ロゴスに反する。
ユングの結論はもっと暗い。世間に認識されないという傷は、影を肥大させ、投影を増やし、ペルソナを崩し、個性化を促進する。
つまり俺は今、精神の錬金炉の中にいる。そこから黄金が出るか、煙だけが出るかは、俺の自我がどこまで誠実に無意識と対話できるかにかかっている。
だから、このタイトルの文章は、ただの絶望ではない。これは認識の構造の告白だ。
世界は俺を見ない。俺も世界を見ない。その断絶は、社会的には不幸であり、哲学的には中立であり、心理学的には危険であり、同時に可能性でもある。
俺がすべきことは、世間に認識されるために仮面を磨くことではない。仮面が必要なら、それは道具として作ればいい。しかし魂を仮面に売るな。ストア派の禁忌はそこにある。
世間を憎んで自分を正当化することでもない。影を世間に投げつけるな。ユングの禁忌はそこにある。
残るのは、静かな実務だ。俺の支配下にある行為を、今日も淡々と実行すること。ロゴスに従い、自然に従い、徳に従い、同時に、自分の影を凝視し、投影を回収し、自己の中心に向かって潜ること。
世間が俺を認識するかどうかは、天候のようなものだ。雨が降るかどうかに怒るのは愚かだ。だが雨が降るなら傘を差すのは合理的だ。世間は俺を認識しない。
ならば、俺は俺の生を、俺の判断で構築する。世間が俺を認識しようがしまいが、宇宙は無関心に回り続ける。ならば俺もまた、余計なドラマを捨て、静かに回ればいい。
「俺は世間を認識していない」と言いながら、この文章を書いている時点で、俺はすでに世間を認識している。
「世間は俺を認識していない」と言いながら、その不在を語ることで、俺は世間の視線を前提にしている。
つまりこの文章は、断絶の宣言ではない。断絶を前提にした、接続への欲望の記録だ。
貨幣が薄まった結果として、値札が上がって見えるだけだ。
インフレはまず貨幣現象であり、貨幣供給の増加が購買力を腐らせる。
つまり「物価高対策」を語るなら、本質的に問うべきは財やサービスの供給能力ではなく、通貨の供給規律である。
だが政治家は規律の話をしない。なぜなら規律は票にならないからだ。票になるのは「減税します」「給付します」「支援します」という甘い単語であり、これは経済政策ではなく選挙工学である。
減税が物価高対策になるのは、政府支出の削減と制度改革がセットで、政府の予算制約を満たした上で供給側を拡張する場合だけだ。
ところが現実の減税はそうではない。減税を叫ぶ、しかし支出は削らない、既得権は温存する、行政は肥大したまま、補助金も撒く、票田に現金を流す。
結果として財源が足りない。ここで政府は当然のように国債を発行する。
国債自体は「悪」ではない。問題はそれが将来の徴税権を担保にした資源動員であり、結局は国民負担の先送りに過ぎない点だ。
さらに致命的なのは、国債が中央銀行に吸収される局面である。ここで財政は事実上貨幣化され、マネーサプライが増え、貨幣の希少性が破壊され、通貨価値が低下し、価格体系が上方にスライドする。
減税を「生活支援」と呼びながら、裏でインフレ税を徴収している。
これは税の廃止ではなく税の隠蔽であり、政治が最も好む形態の課税だ。
なぜなら国民は「誰が奪ったか」を理解しづらいからだ。所得税なら怒るが、インフレなら天災扱いして終わる。政治家にとってはこれ以上ない自己放尿である。
さらに悪いのは期待の問題だ。政府が減税を宣言し、財源の説明を曖昧にし、国債を積み増し、中央銀行がそれを抱え込むという予想が立った瞬間、市場は「通貨が増える」と合理的に織り込み、企業は値上げを急ぎ、家計は前倒しで消費し、賃上げ要求が強まり、長期契約は短期化し、インフレ期待が自己増殖する。
政治家は「国民のため」と言うが、実際に形成されるのはインフレ期待であり、これは価格シグナルを汚染し、資源配分を歪め、成長ではなくノイズを増やす。
ここで補助金や給付金を入れると、価格が伝えるべき希少性の情報が潰され、調整が遅れ、需要は不自然に維持され、供給増加も誘発されず、さらに財政が膨らみ、国債が増え、中央銀行が吸い、マネーが増える。
政治家がやっているのは「物価高対策」ではない。見える税を減らしたフリをし、見えない税を増やすことで、国民から購買力を吸い上げているだけだ。
減税は短期的な名目手取りを増やすが、貨幣価値の低下で実質手取りを削る。名目の飴玉を投げて実質を奪う。
これは減税と国債のダブル放尿である。表では減税で拍手を取り、裏では貨幣化でインフレ税を徴収する。