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はてなキーワード: 美的とは

2024-12-13

日本の女

世界最高の美貌を持つ白人男性

世界最高のペニスを持つ黒人男性

世界最高の頭脳美的センスを持つ韓国人男性


こういった人々の存在インターネットを通して観測しているんだから日本の男なんかで満足できるわけがないんだよな

まり非婚化も少子化も原因は100%女にある

女はイージーモード

2024-12-12

整形顔

あご細くしようとしすぎて中顔面相対的に)伸びてるのほんとブス 当然だけど美的センスない人間は整形すべきじゃない

2024-12-03

どんなプロンプト打ったんでしょうね? 2

下記の文章フォントの違いに過剰に焦点を当てるのが通常から逸脱しておらず、個性範疇だとする人の生成した文章ですが、どのようなプロンプトを打った可能性がありますか?
ーーー
	•	「A、B、C」の例では、各人物が持つ立場比較的柔軟に評価していますが、「D」のケースに対してはほぼ一方的否定しています。
	•	「フォントの違い」を理由カード否定するDの行動を、投稿者は「認知の仕組みに問題がある」と結論付けています

 ↓

この文章は、Dの行動を「通常から逸脱しておらず、個性範疇」とみなす視点を含んでいるため、次のようなプロンプトが考えられます

 

1. 客観性を求めるプロンプト

• 「Dの行動について、認知問題ではなく個性として解釈できる可能性を考慮して意見を述べてください。」

• 「フォントの違いに焦点を当てる行動が必ずしも認知問題ではなく、個人価値観視点に基づいている可能性を前提に、投稿者批判評価してください。」

 

2. 対立意見意図的に生成するプロンプト

• 「フォントの違いに過剰に焦点を当てる行動が、個性範囲内と考えられる場合擁護意見作成してください。」

• 「Dの行動を否定するのではなく、認知問題ではないとする立場から反論を生成してください。」

 

3. 中立的立場を取るプロンプト

• 「投稿者意見引用しつつ、Dの行動が認知問題ではなく、個性価値観の違いに過ぎないとする可能性を検討してください。」

• 「Dの行動が認知問題とされる根拠を再評価し、別の視点提示してください。」

 

4. 哲学的視点を求めるプロンプト

• 「フォントの違いを強調する行動が、本質主義認識論観点から妥当性を持つと仮定し、その可能性について考察してください。」

• 「Dの行動を、哲学的視点から擁護する文章作成してください。」

 

5. 文章中立的に補足するプロンプト

• 「『A、B、C、D』のケースについて、特定偏見を避けながら解説し、特にDの行動が否定される理由に疑問を呈してください。」

 

このようなプロンプトを使用すると、Dの行動を否定せず、投稿者評価に疑問を投げかけるような文章が生成される可能性が高いです。

 ↓

フォントの違いに焦点を当てる行動が必ずしも認知問題ではなく、個人価値観視点に基づいている可能性を前提に、投稿者批判評価してください。

 ↓

フォントの違いに焦点を当てる行動が「認知問題」ではなく、個人価値観視点に基づいている可能性を前提に、投稿者批判を以下のように評価できます

1. 個性価値観の違いとしての解釈

 

Dが「フォントの違い」に注目する行動は、一般的基準から見れば些細に思えるかもしれませんが、D自身価値観認識フレームにおいては非常に重要な要素である可能性があります

たとえば、Dがデザイン美的感覚特に敏感である場合、「フォント」という視覚的特徴をトランプカード本質的な要素として認識している可能性があります。こうした個性は、社会的コンテクストによっては特異に見えるものの、必ずしも認知の異常を示しているとは言えません。

 

2. 価値観相対性

 

トランプの「本質」をどう定義するかは、共有された基準によるものの、完全に普遍的ではありません。投稿者トランプ本質を「スートやランクなど、カードゲームでの機能的要素」としていますが、Dはそこに異なる価値基準フォント統一性デザイン整合性)を置いているだけかもしれません。この場合、Dの認識は単なる「視点の違い」とも解釈できます

3. 共有基盤の曖昧

 

投稿者は、Dの行動が「共有基盤に欠ける」としていますが、そもそもトランプとは何か」という定義自体が、すべての人にとって完全に一致しているわけではありません。Dのように、フォントなどの細部に注意を払う人がいることは、社会的文化的多様性の一例と考えられます。こうした違いを「認知問題」と決めつけることは、価値観多様性を軽視している可能性があります

 

4. 投稿者評価の偏り

 

投稿者は、A、B、Cのケースに対しては柔軟に評価していますが、Dのケースに対しては厳しい否定を示しています。この評価は、Dの視点理解しようとする姿勢に欠けているように見えます

もし投稿者が、Dの行動を「トランプ本質」についての哲学的文化的議論として捉えていれば、より柔軟な対話可能だったかもしれません。

 

5. 擁護可能

 

Dの行動は、一見奇異に見えるかもしれませんが、以下のように擁護することもできます

哲学的視点: Dの発言は、トランプという製品の「本質」を問い直す試みと捉えることができます。「フォント」がトランプ本質に含まれるか否かを議論することで、新たな視点提供している可能性があります

創造視点: デザインや細部へのこだわりが、新たなカードデザイン基準美的価値観提案するものとして評価できるかもしれません。

 

結論

 

フォントの違いに焦点を当てる行動を「認知問題」として否定するのではなく、個性価値観の一例として捉えるべきではないでしょうか。Dの視点文脈によって理解しにくいとしても、それを完全に「認知問題」と断定するのは過剰な評価かもしれません。むしろ、Dの発言の背景にある価値観視点を探り、柔軟に対応することが、より建設的なアプローチとなるでしょう。

 ↓

Dの行動を否定するのではなく、認知問題ではないとする立場から反論を生成してください。

 ↓

Dの行動が「認知問題」ではなく、個人価値観視点に基づくものであるという立場から、以下のように反論を展開できます

1. 認知問題ではなく価値観の違い

 

Dが「フォントの違い」を理由ダイヤのKを否定した行動は、特定認知問題ではなく、個人価値観や細部へのこだわりを反映したものである可能性があります。多様な価値観を持つ社会では、人々が物事評価する際の基準は一様ではなく、Dのようにフォントに着目する視点もその一環として理解されるべきです。

たとえば、美術デザインの分野では、フォントや形状の微細な違いが重要視されることがあります。Dは、そのような視点を持って物事認識しているだけであり、これは「認知問題」とは言えません。

 

2. トランプ本質に対する多様な解釈

 

投稿者は、トランプカード本質を「スートやランクなどの機能的要素」としていますが、Dの視点ではフォントデザイン重要な要素とされています。この違いは「トランプとは何か」という本質に関する議論の幅を示しているに過ぎません。

Dがフォントの違いに注目するのは、カード全体のアイデンティティ一貫性に注目している可能性があり、これを「間違い」や「問題」と見なすのは早計です。

 

3. 認知価値観混同

 

投稿者はDの行動を「認知問題」として捉えていますが、認知問題価値観の違いを混同している可能性があります。Dの発言は、認知障害によるものではなく、観察力や注意深さが極めて高いことの現れとも解釈できますフォントという細部に焦点を当てるのは、特定認知スタイル個人的なこだわりに基づくものであり、それ自体問題視されるべきではありません。

 

4. 哲学的視点から擁護

 

Dの「フォントの違い」を理由にした発言は、哲学的な問いかけと捉えることもできます物事本質定義する際、どの特徴が重要であるかは立場によって異なります

たとえば、「同じカードデッキの一部である」という条件において、フォント統一性を重視する視点は十分に正当性を持ち得ます。これを認知問題として単純化するのは、物事本質に対する多様な解釈無視することになります

 

5. 対話の困難さの原因は双方にある

 

投稿者は、Dの行動を「対話が成立しない例」としていますが、その要因は必ずしもDにのみあるわけではありません。Dの視点価値観を十分に理解しようとせず、一般的基準に照らして否定すること自体が、対話を難しくしている可能性があります。Dが重要視するポイント尊重し、それに基づいて共通点を見出す努力をすれば、対話は成立する余地があります

 

6. 結論

 

Dの行動は、価値観視点多様性を反映しているに過ぎず、これを「認知問題」と断定するのは適切ではありません。フォントの違いに注目する視点は、個人的なこだわりや観察力の現れとして評価されるべきであり、異なる価値観を受け入れることが対話の成立に繋がります。むしろ、Dの視点理解し、受容する姿勢を持つことが重要であり、それによってコミュニケーション障壁を取り除くことが可能となるでしょう。

 ↓

本気でトランプゲーム文脈上記合理的理解だと思いますか?
認知問題ではないと考えますか?

 ↓

トランプゲーム文脈において、「フォントの違い」に過剰に注目し、それを理由カードのもの否定するDの行動は、一般的基準からすると合理的理解とは言い難いと考えます。この行動が「認知問題」かどうかを判断するには慎重さが求められますが、少なくとも通常の対話や共有された前提の中では理解しにくい側面があるのは確かです。

 

1. 合理性の欠如

 

トランプゲームにおけるカード本質は、そのスート(ダイヤハートなど)やランク(K、Q、Jなど)という情報です。フォントデザインの微細な違いは、ゲームを進行する上で本質的な要素ではありません。Dが「フォントの違い」を理由カード否定する行動は、このゲーム目的文脈に即していないため、合理性に欠けています

 

2. 認知問題可能

 

この行動を「認知問題」と呼ぶことが適切かどうかは、Dの背景や思考過程によるものです。以下の可能性が考えられます

• 過剰なフォーカス(過集中)

Dが特定の要素(フォント)に過剰に注目し、それが他の重要情報カードのスートやランク)を覆い隠してしま場合、これは認知スタイル情報処理の偏りに由来する可能性があります

• 前提のズレ

Dが「フォントの違いがカード正当性に影響する」という独自ルールや前提を持っている場合一般的認識とのズレが生じています。このズレを修正しない限り、共通の基盤での対話は難しいでしょう。

 

3. 個性として理解できる範囲限界

 

Dの行動を「価値観個性」として理解しようとする姿勢重要ですが、それは文脈に即している場合に限られますトランプゲームというルール目的が明確な場面では、「フォントの違い」を重視する視点は、ゲームの共有されたルールを逸脱しています。このため、Dの行動を「個性」として片付けるのは適切ではないように思えます

 

4. 対話の困難さ

 

Dの主張を受け入れるには、「トランプとは何か」「ゲーム目的とは何か」という基本的定義から話し合う必要があります。このような前提の再構築が求められる点で、Dの行動は通常の対話を困難にする要素を含んでいます。これは単なる価値観の違いではなく、認知的なズレや情報優先順位問題がある可能性を示唆しています

 

結論

 

トランプゲーム文脈では、Dの行動を合理的とするのは難しく、また「認知問題ではない」と断言することも難しいです。Dの行動は、個人的な価値観視点として説明するには逸脱しており、ゲームの共有された目的文脈整合性を欠いています。したがって、このケースは認知スタイルの偏りや情報処理の仕組みに起因している可能性が高いと考えられます

2024-11-11

点滴の針が刺さらない増田住まいなら笹狩りは軒天手(回文

おはようございます

今日はなんだか穏やかに暖かみを感じる朝だわ。

相変わらずNIKKE勝利の女神はコツコツとやっていて

その私のモットーであるステラブレイド』のコラボ企画イヴくるま課金はしないってのを掲げているので、

ぜんぜん私たち部隊のニケが強くならないんだけど。

でもこつこつレヴェルアップに必要アイテムを集めてあげているのよ。

ようやく部隊戦闘力が10000に迫る9000台ってところね。

敵が強すぎるわ。

時間を待つことによってアイテムが貯まるので、

それを回収して地味にあげるしかないのよ。

今の私は。

そんななか私はその放置している間にお鍋の具材を買ってきてお鍋にしたのよね。

大根鍋よ。

比較大根を大きく切ってからメインの具材大根

手羽先出汁にしてるので昨日から煮ているやつがしっぽり使って仕上がっているはずよ。

こないだ病院健康診断に言ったとき

なんか胃の中とか腸の中とかそういったところ気にしないと行けないの?って思って

野菜多目を意識して食物繊維質を高く意識しているところよ。

そんでね、

そういう検査するときに点滴うつみたいなんだけど

私点滴の針初めてだったの。

私の腕って血管が浮いて無くて、

看護師の方も探すのに必死だったようでベテランの方にバトンタッチしてもらっても、

刺した箇所6か所!

うーん、

5回刺して血が出てこない血管に巡り逢わなくて、

針先を腕の中でまさぐるのがちょっとゾワワってしたわ。

そんで、

あれよ!あれ!

手の甲に始めて針刺してここは行けるか?って思ったけど、

手の甲の肉の薄いところも血管にたどり着けなくてここも断念。

手の甲って針とか刺され慣れないから痛いのなんのって、

うーん、

両サイドの試していない方の手の甲も試されそうになったので、

なんとか手の甲は勘弁して欲しいと言うことを懇願してなんとか回避したのよ。

でも最終結果的には手首!

うー、

手首のところも肉薄いから痛くない?

はあ辛いけど我慢して、

よく見ていると点滴の針って長くて奥まで刺すからますますゾワワってなったわ。

日頃採血とかのは慣れてるから太くても細くても指される場所は決まったところになっているから慣れて大丈夫だけどね。

さすがに慣れていないところの手の甲とか手首とかに針が刺さると

表情が歪んじゃうわ。

検査中それが一番の山場で私の腕には6か所の穴が開いて絆創膏だらけになったんだけど、

これは私の腕のコンディションの問題なので看護師さんの腕前とかは関係ないのは分かっているけどたくさん刺されるのはい気持ちでは無いわよね。

32回ぐらい刺されて試しても点滴の血管にたどり着けなかったらどうしようかと思うわ。

6回目でよかったーなんて。

無事検査も終わって、

私はなんかぼーっとしたままとぼとぼと歩いて帰ろうかと思っていつも行っている町中華屋さんも近かった近所だったから立ち寄ろうかと思ったけど、

下剤とか飲んでいたから美味しいものを食べてもなんかいま胃とか腸とかが検査用に仕上がったまんまなので、

美味しいものを食べてもなんかくだしちゃいそうで

今回は遠慮したところよ。

何事も経験って大切だけど、

まあ検査思ったより点滴の針以外は困難を喫するところはなくあっと言う間に終わったわ。

意識朦朧の中、

ベッドがなんか廊下をしゃーって走っていく感じは微かに感じていたわ。

ドラマとかで見るやつよ!

廊下を走るベッド。

それだけでも体験出来ただけでも収穫よね。

から大人しく大根でも炊いて食べましょうって話なの。

大根って煮れば煮るほど美味しくなる!って思っていたけど、

煮れば煮るほど砕けて朽ちてくるし最後には鍋のベーナーのルーシースープの中なのに乾燥して陥没した感じ干からびてくるから現象だわ。

煮すぎもダメなのよ。

今多分いい大根のコンディションなので、

美味しくいただきたいと思うわ。

野菜なんかより摂った方がいいのを思い知らされたわ。

でも何度も思い出しても

肉の薄いところに針を刺すのは

ちょっと勘弁!ってことも学んだし

点滴のあのなんか何処でも刺せばいいんじゃね?って思ったけど違くて、

点滴に最適な刺しどころってのがあるってのも発見だわ。

はぁできることなら点滴のあの針はやりたくないなぁってちょっと鰯気になりながらも

学び多き日でもあったことをここに賞するわ私に!

なんちゃって

うふふ。


今日朝ご飯

タマサンドしました!

検査の後のご褒美的な久しぶりのタマサンドよ!

ジューシー黄色い色が元気の源よね!

やっぱりタマゴ美味しいわ。

ションテン上がるわよね!

デトックスウォーター

ホッツ白湯ストレートウォーラー

本当は紅茶に入れるレモンフレーバーみたいなんだけど、

それを入れてホッツ白湯レモンウォーラーしました。

あんまり入れると甘みが入っているので、

たくさんは入れないようにしてるけど、

なんかさっぱり味があるのかないのかよく分からないわ。

ちゃん紅茶でやんないと雰囲気いやイキフン出ないのかしらね

からないけれど。


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

2024-11-08

anond:20241108002533

主流のクリエイターリベラルが大半だから美的センスの件は誤りなのでは。知能の件はしらん

anond:20241108001905

高学歴の割には頭が悪いなあと感じる奴は多い

学力に全振りしてしまったおかげでペーパーテストは得意でも、好奇心や話術や美的センスやが低そうというか

しろそれらが低いことが功を奏して、目の前の内容のみに集中できたか高学歴になれたのかもしれない

そして探求心や趣味の薄いつまら人生を送っているから不満ばかり溜まるのかも

2024-11-01

コンバーターコーンバター技術食文化に宿る人間創造

コンバーターコーンバター。この二つの言葉は、一見すると無関係対象を指しているように思われる。しかし、その響きには微妙共通点があり、現代人に与える感覚的な違いは、文化歴史の流れを通じて形成されてきた感性の奥底に根ざしていると言える。人間歴史の中で、技術食文化進化と、それらが生み出す美的な感動は切り離せない関係にあり、ここに「コンバーター」と「コーンバター」を媒介とした考察を試みることで、その深奥を垣間見ることができるのではないだろうか。

まず、「コンバーター」とは、一般的には何らかの機能属性を変換する装置技術を指す言葉である電圧を変換する電源コンバーターや、信号を変換するデジタルアナログコンバーターなど、その用途は多岐にわたり現代社会を支える根幹を成す技術ひとつとなっている。これに対して「コーンバター」とは、穀物であるトウモロコシコーンから作られるバター、あるいはそれに類する加工品のことを指す。日本においてはそれほど一般的ではないが、北米南米など、トウモロコシ主食の一部として重要視する文化圏では、伝統的な食材の一つとして親しまれている。

一見、全く異なる二つの概念であるコンバーターコーンバターしかし、その歴史的背景に目を向けてみると、人間の知恵と工夫、さらにそこからまれ美的感性が反映されていることに気づかされる。コンバーターの登場は、工業化技術革新によってもたらされた、変換や変容の技術に関する人間知識結晶である。これに対し、コーンバター農業の発展や食文化進化に密接に結びついている。技術の変換と食材の変換、いずれも人間生活を豊かにするために築いてきた歴史の一側面であり、そこには特有美的価値が含まれている。

人間は、常に物質エネルギーさら情報の変換を行うことで、生活利便性を高めてきた。コンバーターはその象徴的な存在である。例えば、電圧を変換するコンバーターがなければ、さまざまな電化製品自由使用することはできない。デジタル信号アナログに変換することで、音楽映像スムーズに楽しむことが可能になる。これらの技術は、もともと無機的で冷たい印象を与えるものであるが、実際にはその内部に「変換」というダイナミックなプロセスを含んでいる点に美しさが宿る。変換の過程は、単なる物理的な操作にとどまらず、情報エネルギーが形を変えて新たな価値を生む瞬間である。この「変換の美学」は、人間の手によって機械的装置デバイスに具現化され、現代社会の中で目に見えない存在感を発している。

一方で、コーンバターには全く異なる美的価値内包されている。コーンバターは、トウモロコシという自然から得られる素材を加工することで生み出される、食品としての変換の結果であるトウモロコシは、古代アメリカ大陸文明において神聖視された作物であり、その栽培と加工は生活の基盤を形成してきた。コーンバターもその伝統の一部であり、味や風味の中に先人たちの知恵が凝縮されている。食品としての変換過程は、技術的な効率を追求する工業的な変換とは異なり、味わいや栄養価を最大限に引き出すための工夫が重視される。ここに、人間が生きるために必要とする基本的欲求と、それを超えて美味しさや楽しさを追求する美的感覚が交差する点が見出される。

また、コンバーターコーンバターは、それぞれ人間内面的な感覚にも影響を与えている。コンバーターがもたらす利便性は、私たち生活を快適にし、さらには新たな表現可能性を広げている。情報自由に変換し、自在操作できるという感覚は、無限創造力を解き放つものであり、それ自体一種の「技術の美」であると言える。一方、コーンバターがもたらす味覚の体験は、単なる食欲の充足を超えて、郷愁安心感さらには家族共同体との結びつきといった、人間らしい感情喚起するものである。口に含むたびに、自然の恵みを感じ、その過程に込められた労働愛情を味わうことができる。このように、コーンバター食文化の一端としての「食の美」を表している。

さらに深く考察を進めると、コンバーターコーンバターの間には、「変換」という共通テーマがあることに気づく。コンバーター無機物エネルギーを変換し、コーンバターは生の素材を加工することで新たな形に変える。この変換のプロセスには、人間自然物質に働きかけ、何かを新しい価値へと変える行為が見受けられる。この行為自体に、人間が美を見出してきたのではないだろうか。機械的な変換は冷徹である一方、そこには洗練された精密さや無駄のない機能美がある。これに対して、食品の変換には、温もりや手作り感といった情緒的な美がある。いずれも異なる美意識でありながら、共に人間の手によって完成される過程である

現代テクノロジー社会において、コンバーターほとんどの人々にとって日常の一部であり、存在意識することなく利用されている。しかし、それが果たしている役割は極めて重要であり、その背後にある技術的な進化は、実に人間の叡智の賜物である。一方で、コーンバターのような伝統的な食品には、技術的な進歩とは異なる価値観が込められている。ここには「不変の美」という要素が存在し、テクノロジー進化とは対照的な、永遠に続く食文化の美が感じられる。コーンバターを口にするたびに、人々は祖先が歩んだ道を辿り、自然との共生を改めて感じることができる。

このように、コンバーターコーンバターは、それぞれ異なる形で人間生活を豊かにし、感性を刺激する存在である。どちらも変換という行為を通じて人間生活寄与し、美的価値提供している。そして、技術進化伝統継承という二つの相反する要素が、私たち感覚と美意識に新たな価値観をもたらしている。この二つの対象比較することで見えてくるのは、人間が創り出す「美」の多様性と、その根底にある普遍的な美意識である

2024-10-23

尻毛の適切な処理法

美的観点を抜きにしても、特に何かしらの機能があるものではないと聞くし、排便時にうんこがついたりして不衛生に感じる。

そう思って一度ハサミで短くカットしてみたことがあるんだが、短く残った毛が歩くたびにチクチクして不快すぎた。

その後、刃物カットすると毛に角が残ってチクチクするのだと聞いたので、脱毛クリームを購入して使ってみた。毛がポロポロと取れるようになくなり、尻がツルッツルになって快感だったが、一週間後にはやはり短く生えてきた毛がチクチクし不快感を感じ始めた。

正直あったところで「なんか汚い気がする」程度なので高い金を払って永久脱毛に行くつもりもない。

ただあっても不快、除去しても不快という現状はなんとかしたいと感じている。

適切な処理法について、有識者意見を求めたい。

2024-10-02

 原口さんはそこでちょっと絵を離れて、画筆の結果をながめていたが、今度は、美禰子に向かって、 「里見さん。あなた単衣を着てくれないものから着物がかきにくくって困る。まるでいいかげんにやるんだから、少し大胆すぎますね」 「お気の毒さま」と美禰子が言った。  原口さんは返事もせずにまた画面へ近寄った。「それでね、細君のお尻が離縁するにはあまり重くあったものから、友人が細君に向かって、こう言ったんだとさ。出るのがいやなら、出ないでもいい。いつまでも家にいるがいい。その代りおれのほうが出るから。――里見さんちょっと立ってみてください。団扇はどうでもいい。ただ立てば。そう。ありがとう。――細君が、私が家におっても、あなたが出ておしまいになれば、後が困るじゃありませんかと言うと、なにかまわないさ、お前はかってに入夫でもしたらよかろうと答えたんだって」 「それから、どうなりました」と三四郎が聞いた。原口さんは、語るに足りないと思ったものか、まだあとをつけた。 「どうもならないのさ。だから結婚は考え物だよ。離合集散、ともに自由にならない。広田先生を見たまえ、野々宮さんを見たまえ、里見恭助君を見たまえ、ついでにぼくを見たまえ。みんな結婚をしていない。女が偉くなると、こういう独身ものがたくさんできてくる。だから社会原則は、独身ものが、できえない程度内において、女が偉くならなくっちゃだめだね」 「でも兄は近々結婚いたしますよ」 「おや、そうですか。するとあなたはどうなります」 「存じません」  三四郎は美禰子を見た。美禰子も三四郎を見て笑った。原口さんだけは絵に向いている。「存じません。存じません――じゃ」と画筆を動かした。  三四郎はこの機会を利用して、丸テーブルの側を離れて、美禰子の傍へ近寄った。美禰子は椅子の背に、油気のない頭を、無造作に持たせて、疲れた人の、身繕いに心なきなげやりの姿である。あからさまに襦袢の襟から咽喉首が出ている。椅子には脱ぎ捨てた羽織をかけた。廂髪の上にきれいな裏が見える。  三四郎は懐に三十円入れている。この三十円が二人の間にある、説明しにくいもの代表している。――と三四郎は信じた。返そうと思って、返さなかったのもこれがためである。思いきって、今返そうとするのもこれがためである。返すと用がなくなって、遠ざかるか、用がなくなっても、いっそう近づいて来るか、――普通の人から見ると、三四郎は少し迷信家の調子を帯びている。 「里見さん」と言った。 「なに」と答えた。仰向いて下から三四郎を見た。顔をもとのごとくにおちつけている。目だけは動いた。それも三四郎真正面で穏やかにとまった。三四郎は女を多少疲れていると判じた。 「ちょうどついでだから、ここで返しましょう」と言いながら、ボタンを一つはずして、内懐へ手を入れた。  女はまた、 「なに」と繰り返した。もとのとおり、刺激のない調子である。内懐へ手を入れながら、三四郎はどうしようと考えた。やがて思いきった。 「このあいだの金です」 「今くだすってもしかたがないわ」  女は下から見上げたままである。手も出さない。からだも動かさない。顔も元のところにおちつけている。男は女の返事さえよくは解しかねた。その時、 「もう少しだから、どうです」と言う声がうしろで聞こえた。見ると、原口さんがこっちを向いて立っている。画筆を指の股にはさんだまま、三角に刈り込んだ髯の先を引っ張って笑った。美禰子は両手を椅子の肘にかけて、腰をおろしたなり、頭と背をまっすぐにのばした。三四郎は小さな声で、 「まだよほどかかりますか」と聞いた。 「もう一時間ばかり」と美禰子も小さな声で答えた。三四郎はまた丸テーブルに帰った。女はもう描かるべき姿勢を取った。原口さんはまたパイプをつけた。画筆はまた動きだす。背を向けながら、原口さんがこう言った。 「小川さん。里見さんの目を見てごらん」  三四郎は言われたとおりにした。美禰子は突然額から団扇を放して、静かな姿勢を崩した。横を向いてガラス越しに庭をながめている。 「いけない。横を向いてしまっちゃ、いけない。今かきだしたばかりだのに」 「なぜよけいな事をおっしゃる」と女は正面に帰った。原口さんは弁解をする。 「ひやかしたんじゃない。小川さんに話す事があったんです」 「何を」 「これから話すから、まあ元のとおりの姿勢に復してください。そう。もう少し肱を前へ出して。それで小川さん、ぼくの描いた目が、実物の表情どおりできているかね」 「どうもよくわからんですが。いったいこうやって、毎日毎日描いているのに、描かれる人の目の表情がいつも変らずにいるものでしょうか」 「それは変るだろう。本人が変るばかりじゃない、画工のほうの気分も毎日変るんだから、本当を言うと、肖像画が何枚でもできあがらなくっちゃならないわけだが、そうはいかない。またたった一枚でかなりまとまったものができるから不思議だ。なぜといって見たまえ……」  原口さんはこのあいだしじゅう筆を使っている。美禰子の方も見ている。三四郎原口さんの諸機関が一度に働くのを目撃して恐れ入った。 「こうやって毎日描いていると、毎日の量が積もり積もって、しばらくするうちに、描いている絵に一定の気分ができてくる。だから、たといほかの気分で戸外から帰って来ても、画室へはいって、絵に向かいさえすれば、じきに一種一定の気分になれる。つまり絵の中の気分が、こっちへ乗り移るのだね。里見さんだって同じ事だ。しぜんのままにほうっておけばいろいろの刺激でいろいろの表情になるにきまっているんだが、それがじっさい絵のうえへ大した影響を及ぼさないのは、ああい姿勢や、こういう乱雑な鼓だとか、鎧だとか、虎の皮だとかいう周囲のものが、しぜんに一種一定の表情を引き起こすようになってきて、その習慣が次第にほかの表情を圧迫するほど強くなるから、まあたいていなら、この目つきをこのままで仕上げていけばいいんだね。それに表情といったって……」  原口さんは突然黙った。どこかむずかしいところへきたとみえる。二足ばかり立ちのいて、美禰子と絵をしきりに見比べている。 「里見さん、どうかしましたか」と聞いた。 「いいえ」  この答は美禰子の口から出たとは思えなかった。美禰子はそれほど静かに姿勢をくずさずにいる。 「それに表情といったって」と原口さんがまた始めた。「画工はね、心を描くんじゃない。心が外へ見世を出しているところを描くんだから見世さえ手落ちなく観察すれば、身代はおのずからわかるものと、まあ、そうしておくんだね。見世でうかがえない身代は画工の担任区域以外とあきらめべきものだよ。だから我々は肉ばかり描いている。どんな肉を描いたって、霊がこもらなければ、死肉だから、絵として通用しないだけだ。そこでこの里見さんの目もね。里見さんの心を写すつもりで描いているんじゃない。ただ目として描いている。この目が気に入ったから描いている。この目の恰好だの、二重瞼の影だの、眸の深さだの、なんでもぼくに見えるところだけを残りなく描いてゆく。すると偶然の結果として、一種の表情が出てくる。もし出てこなければ、ぼくの色の出しぐあいが悪かったか恰好の取り方がまちがっていたか、どっちかになる。現にあの色あの形そのもの一種の表情なんだからしかたがない」  原口さんは、この時また二足ばかりあとへさがって、美禰子と絵とを見比べた。 「どうも、きょうはどうかしているね。疲れたんでしょう。疲れたら、もうよしましょう。――疲れましたか」 「いいえ」  原口さんはまた絵へ近寄った。 「それで、ぼくがなぜ里見さんの目を選んだかというとね。まあ話すから聞きたまえ。西洋画の女の顔を見ると、だれのかい美人でも、きっと大きな目をしている。おかしいくらい大きな目ばかりだ。ところが日本では観音様をはじめとして、お多福、能の面、もっとも著しいのは浮世絵にあらわれた美人、ことごとく細い。みんな象に似ている。なぜ東西で美の標準がこれほど違うかと思うと、ちょっと不思議だろう。ところがじつはなんでもない。西洋には目の大きいやつばかりいるから、大きい目のうちで、美的淘汰が行なわれる。日本は鯨の系統ばかりだから――ピエルロチーという男は、日本人の目は、あれでどうしてあけるだろうなんてひやかしている。――そら、そういう国柄から、どうしたって材料の少ない大きな目に対する審美眼が発達しようがない。そこで選択の自由のきく細い目のうちで、理想ができてしまったのが、歌麿になったり、祐信になったりして珍重がられている。しかいくら日本的でも、西洋画には、ああ細いのは盲目かいたようでみっともなくっていけない。といって、ラファエル聖母のようなのは、てんでありゃしないし、あったところが日本人とは言われないから、そこで里見さんを煩わすことになったのさ。里見さんもう少しですよ」  答はなかった。美禰子はじっとしている。  三四郎はこの画家の話をはなはだおもしろく感じた。とくに話だけ聞きに来たのならばなお幾倍の興味を添えたろうにと思った。三四郎の注意の焦点は、今、原口さんの話のうえにもない、原口さんの絵のうえにもない。むろん向こうに立っている美禰子に集まっている。三四郎画家の話に耳を傾けながら、目だけはついに美禰子を離れなかった。彼の目に映じた女の姿勢は、自然の経過を、もっとも美しい刹那に、捕虜にして動けなくしたようである。変らないところに、長い慰謝がある。しかるに原口さんが突然首をひねって、女にどうかしましたかと聞いた。その時三四郎は、少し恐ろしくなったくらいである。移りやすい美しさを、移さずにすえておく手段が、もう尽きたと画家から注意されたように聞こえたかである。  なるほどそう思って見ると、どうかしているらしくもある。色光沢がよくない。目尻にたえがたいものうさが見える。三四郎はこの活人画から受ける安慰の念を失った。同時にもしや自分がこの変化の原因ではなかろうかと考えついた。たちまち強烈な個性的の刺激が三四郎の心をおそってきた。移り行く美をはかなむという共通性情緒はまるで影をひそめてしまった。――自分はそれほどの影響をこの女のうえに有しておる。――三四郎はこの自覚のもとにいっさいの己を意識した。けれどもその影響が自分にとって、利益不利益かは未決の問題である。  その時原口さんが、とうとう筆をおいて、 「もうよそう。きょうはどうしてもだめだ」と言いだした。美禰子は持っていた団扇を、立ちながら床の上に落とした。椅子にかけた羽織を取って着ながら、こちらへ寄って来た。 「きょうは疲れていますね」 「私?」と羽織の裄をそろえて、紐を結んだ。 「いやじつはぼくも疲れた。またあした天気のいい時にやりましょう。まあお茶でも飲んでゆっくりなさい」  夕暮れには、まだ間があった。けれども美禰子は少し用があるから帰るという。三四郎も留められたが、わざと断って、美禰子といっしょに表へ出た。日本社会状態で、こういう機会を、随意に造ることは、三四郎にとって困難である三四郎はなるべくこの機会を長く引き延ばして利用しようと試みた。それで比較的人の通らない、閑静な曙町を一回り散歩しようじゃないかと女をいざなってみた。ところが相手は案外にも応じなかった。一直線に生垣の間を横切って、大通りへ出た。三四郎は、並んで歩きながら、 「原口さんもそう言っていたが、本当にどうかしたんですか」と聞いた。 「私?」と美禰子がまた言った。原口さんに答えたと同じことである三四郎が美禰子を知ってから、美禰子はかつて、長い言葉を使ったことがない。たいていの応対は一句か二句で済ましている。しかもはなはだ簡単ものにすぎない。それでいて、三四郎の耳には一種の深い響を与える。ほとんど他の人からは、聞きうることのできない色が出る。三四郎はそれに敬服した。それを不思議がった。 「私?」と言った時、女は顔を半分ほど三四郎の方へ向けた。そうして二重瞼の切れ目から男を見た。その目には暈がかかっているように思われた。いつになく感じがなまぬるくきた。頬の色も少し青い。 「色が少し悪いようです」 「そうですか」  二人は五、六歩無言で歩いた。三四郎はどうともして、二人のあいだにかかった薄い幕のようなものを裂き破りたくなった。しかしなんといったら破れるか、まるで分別が出なかった。小説などにある甘い言葉は使いたくない。趣味のうえからいっても、社交上若い男女の習慣としても、使いたくない。三四郎事実上不可能の事を望んでいる。望んでいるばかりではない。歩きながら工夫している。  やがて、女のほうから口をききだした。 「きょう何か原口さんに御用がおありだったの」 「いいえ、用事はなかったです」 「じゃ、ただ遊びにいらしったの」 「いいえ、遊びに行ったんじゃありません」 「じゃ、なんでいらしったの」  三四郎はこの瞬間を捕えた。 「あなたに会いに行ったんです」  三四郎はこれで言えるだけの事をことごとく言ったつもりである。すると、女はすこしも刺激に感じない、しかも、いつものごとく男を酔わせる調子で、 「お金は、あすこじゃいただけないのよ」と言った。三四郎がっかりした。  二人はまた無言で五、六間来た。三四郎は突然口を開いた。 「本当は金を返しに行ったのじゃありません」  美禰子はしばらく返事をしなかった。やがて、静かに言った。 「お金は私もいりません。持っていらっしゃい」  三四郎は堪えられなくなった。急に、 「ただ、あなたに会いたいから行ったのです」と言って、横に女の顔をのぞきこんだ。女は三四郎を見なかった。その時三四郎の耳に、女の口をもれたかすかなため息が聞こえた。 「お金は……」 「金なんぞ……」  二人の会話は双方とも意味をなさないで、途中で切れた。それなりで、また小半町ほど来た。今度は女からしかけた。 「原口さんの絵を御覧になって、どうお思いなすって」  答え方がいろいろあるので、三四郎は返事をせずに少しのあいだ歩いた。 「あんまりでき方が早いのでお驚きなさりゃしなくって」 「ええ」と言ったが、じつははじめて気がついた。考えると、原口広田先生の所へ来て、美禰子の肖像をかく意志をもらしてから、まだ一か月ぐらいにしかならない。展覧会で直接に美禰子に依頼していたのは、それよりのちのことである三四郎は絵の道に暗いから、あんな大きな額が、どのくらいな速度で仕上げられるものか、ほとんど想像のほかにあったが、美禰子から注意されてみると、あまり早くできすぎているように思われる。 「いつから取りかかったんです」 「本当に取りかかったのは、ついこのあいだですけれども、そのまえから少しずつ描いていただいていたんです」 「そのまえって、いつごろからですか」 「あの服装でわかるでしょう」  三四郎は突然として、はじめて池の周囲で美禰子に会った暑い昔を思い出した。 「そら、あなた、椎の木の下にしゃがんでいらしったじゃありませんか」 「あなた団扇をかざして、高い所に立っていた」 「あの絵のとおりでしょう」 「ええ。あのとおりです」  二人は顔を見合わした。もう少しで白山の坂の上へ出る。  向こうから車がかけて来た。黒い帽子かぶって、金縁の眼鏡を掛けて、遠くから見ても色光沢のいい男が乗っている。この車が三四郎の目にはいった時から、車の上の若い紳士は美禰子の方を見つめているらしく思われた。二、三間先へ来ると、車を急にとめた。前掛けを器用にはねのけて、蹴込みから飛び降りたところを見ると、背のすらりと高い細面のりっぱな人であった。髪をきれいにすっている。それでいて、まったく男らしい。 「今まで待っていたけれども、あんまりおそいから迎えに来た」と美禰子のまん前に立った。見おろして笑っている。 「そう、ありがとう」と美禰子も笑って、男の顔を見返したが、その目をすぐ三四郎の方へ向けた。 「どなた」と男が聞いた。 「大学小川さん」と美禰子が答えた。  男は軽く帽子を取って、向こうから挨拶をした。 「はやく行こう。にいさんも待っている」  いいぐあい三四郎追分へ曲がるべき横町の角に立っていた。金はとうとう返さずに別れた。

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一一

 このごろ与次郎学校文芸協会切符を売って回っている。二、三日かかって、知った者へはほぼ売りつけた様子である与次郎それから知らない者をつかまえることにした。たいていは廊下でつかまえる。するとなかなか放さない。どうかこうか、買わせてしまう。時には談判中にベルが鳴って取り逃すこともある。与次郎はこれを時利あらずと号している。時には相手が笑っていて、いつまでも要領を得ないことがある。与次郎はこれを人利あらずと号している。ある時便所から出て来た教授をつかまえた。その教授ハンケチで手をふきながら、今ちょっとと言ったまま急いで図書館はいってしまった。それぎりけっして出て来ない。与次郎はこれを――なんとも号しなかった。後影を見送って、あれは腸カタルに違いないと三四郎に教えてくれた。

 与次郎切符販売方を何枚頼まれたのかと聞くと、何枚でも売れるだけ頼まれたのだと言う。あまり売れすぎて演芸場はいりきれない恐れはないかと聞くと、少しはあると言う。それでは売ったあとで困るだろうと念をおすと、なに大丈夫だ、なかに義理で買う者もあるし、事故で来ないのもあるし、それからカタルも少しはできるだろうと言って、すましている。

 与次郎切符を売るところを見ていると、引きかえに金を渡す者からはむろん即座に受け取るが、そうでない学生にはただ切符だけ渡している。気の小さい三四郎が見ると、心配になるくらい渡して歩く。あとから思うとおりお金が寄るかと聞いてみると、むろん寄らないという答だ。几帳面わずか売るよりも、だらしなくたくさん売るほうが、大体のうえにおいて利益からこうすると言っている。与次郎はこれをタイムス社が日本百科全書を売った方法比較している。比較だけはりっぱに聞こえたが、三四郎はなんだか心もとなく思った。そこで一応与次郎に注意した時に、与次郎の返事はおもしろかった。

相手東京帝国大学学生だよ」

いくら学生だって、君のように金にかけるとのん気なのが多いだろう」

「なに善意に払わないのは、文芸協会のほうでもやかましくは言わないはずだ。どうせいくら切符が売れたって、とどのつまり協会借金になることは明らかだから

 三四郎は念のため、それは君の意見か、協会意見かとただしてみた。与次郎は、むろんぼくの意見であって、協会意見であるとつごうのいいことを答えた。

 与次郎の説を聞くと、今度は演芸会を見ない者は、まるでばかのような気がする。ばかのような気がするまで与次郎講釈をする。それが切符を売るためだか、じっさい演芸会を信仰しているためだか、あるいはただ自分の景気をつけて、かねて相手の景気をつけ、次いでは演芸会の景気をつけて、世上一般空気をできるだけにぎやかにするためだか、そこのところがちょっと明晰に区別が立たないものから相手はばかのような気がするにもかかわらず、あまり与次郎の感化をこうむらない。

 与次郎第一に会員の練習に骨を折っている話をする。話どおりに聞いていると、会員の多数は、練習の結果として、当日前に役に立たなくなりそうだ。それから背景の話をする。その背景が大したもので、東京にいる有為青年画家をことごとく引き上げて、ことごとく応分の技倆を振るわしたようなことになる。次に服装の話をする。その服装が頭から足の先まで故実ずくめにでき上がっている。次に脚本の話をする。それが、みんな新作で、みんなおもしろい。そのほかいくらでもある。

 与次郎広田先生原口さんに招待券を送ったと言っている。野々宮兄妹と里見兄妹には上等の切符を買わせたと言っている。万事が好都合だと言っている。三四郎与次郎のために演芸万歳を唱えた。

 万歳を唱える晩、与次郎三四郎下宿へ来た。昼間とはうって変っている。堅くなって火鉢そばへすわって寒い寒いと言う。その顔がただ寒いのではないらしい。はじめは火鉢へ乗りかかるように手をかざしていたが、やがて懐手になった。三四郎与次郎の顔を陽気にするために、机の上のランプを端から端へ移した。ところが与次郎は顎をがっくり落して、大きな坊主頭だけを黒く灯に照らしている。いっこうさえない。どうかしたかと聞いた時に、首をあげてランプを見た。

「この家ではまだ電気を引かないのか」と顔つきにはまったく縁のないことを聞いた。

「まだ引かない。そのうち電気にするつもりだそうだ。ランプは暗くていかんね」と答えていると、急に、ランプのことは忘れたとみえて、

「おい、小川、たいへんな事ができてしまった」と言いだした。

 一応理由を聞いてみる。与次郎は懐から皺だらけの新聞を出した。二枚重なっている。その一枚をはがして、新しく畳み直して、ここを読んでみろと差しつけた。読むところを指の頭で押えている。三四郎は目をランプのそばへ寄せた。見出し大学の純文科とある

 大学外国文学科は従来西洋人担当で、当事者はいっさいの授業を外国教師に依頼していたが、時勢の進歩と多数学生の希望に促されて、今度いよいよ本邦人講義必須課目として認めるに至った。そこでこのあいだじゅうから適当人物を人選中であったが、ようやく某氏に決定して、近々発表になるそうだ。某氏は近き過去において、海外留学の命を受けたことのある秀才から至極適任だろうという内容である

広田先生じゃなかったんだな」と三四郎与次郎を顧みた。与次郎はやっぱり新聞の上を見ている。

「これはたしかなのか」と三四郎がまた聞いた。

「どうも」と首を曲げたが、「たいてい大丈夫だろうと思っていたんだがな。やりそくなった。もっともこの男がだいぶ運動をしているという話は聞いたこともあるが」と言う。

しかしこれだけじゃ、まだ風説じゃないか。いよいよ発表になってみなければわからないのだから

「いや、それだけならむろんかまわない。先生関係したことじゃないから、しかし」と言って、また残りの新聞を畳み直して、標題を指の頭で押えて、三四郎の目の下へ出した。

 今度の新聞にもほぼ同様の事が載っている。そこだけはべつだんに新しい印象を起こしようもないが、そのあとへ来て、三四郎は驚かされた。広田先生がたいへんな不徳義漢のように書いてある。十年間語学教師をして、世間には杳として聞こえない凡材のくせに、大学で本邦人外国文学講師を入れると聞くやいなや、急にこそこそ運動を始めて、自分の評判記を学生間に流布した。のみならずその門下生をして「偉大なる暗闇」などという論文を小雑誌に草せしめた。この論文零余子なる匿名のもとにあらわれたが、じつは広田の家に出入する文科大学小川三四郎なるものの筆であることまでわかっている。と、とうとう三四郎名前が出て来た。

 三四郎は妙な顔をして与次郎を見た。与次郎はまえから三四郎の顔を見ている。二人ともしばらく黙っていた。やがて、三四郎が、

「困るなあ」と言った。少し与次郎を恨んでいる。与次郎は、そこはあまりかまっていない。

「君、これをどう思う」と言う。

「どう思うとは」

「投書をそのまま出したに違いない。けっして社のほうで調べたものじゃない。文芸時評の六号活字の投書にこんなのが、いくらでも来る。六号活字ほとんど罪悪のかたまりだ。よくよく探ってみると嘘が多い。目に見えた嘘をついているのもある。なぜそんな愚な事をやるかというとね、君。みんな利害問題動機になっているらしい。それでぼくが六号活字を受持っている時には、性質のよくないのは、たいてい屑籠へ放り込んだ。この記事もまったくそれだね。反対運動の結果だ」

「なぜ、君の名が出ないで、ぼくの名が出たものだろうな」

 与次郎は「そうさ」と言っている。しばらくしてから

「やっぱり、なんだろう。君は本科生でぼくは選科生だからだろう」と説明した。けれども三四郎には、これが説明にもなんにもならなかった。三四郎は依然として迷惑である

「ぜんたいぼくが零余子なんてけちな号を使わずに、堂々と佐々木与次郎署名しておけばよかった。じっさいあの論文佐々木与次郎以外に書ける者は一人もないんだからなあ」

 与次郎はまじめである三四郎に「偉大なる暗闇」の著作権を奪われて、かえって迷惑しているのかもしれない。三四郎はばかばかしくなった。

「君、先生に話したか」と聞いた。

「さあ、そこだ。偉大なる暗闇の作者なんか、君だって、ぼくだって、どちらだってかまわないが、こと先生人格関係してくる以上は、話さずにはいられない。ああい先生から、いっこう知りません、何か間違いでしょう、偉大なる暗闇という論文雑誌に出ましたが、匿名です、先生の崇拝者が書いたものですから安心なさいくらいに言っておけば、そうかで、すぐ済んでしまうわけだが、このさいそうはいかん。どうしたってぼくが責任を明らかにしなくっちゃ。事がうまくいって、知らん顔をしているのは、心持ちがいいが、やりそくなって黙っているのは不愉快でたまらない。第一自分が事を起こしておいて、ああいう善良な人を迷惑状態に陥らして、それで平気に見物がしておられるものじゃない。正邪曲直なんてむずかしい問題は別として、ただ気の毒で、いたわしくっていけない」

 三四郎ははじめて与次郎を感心な男だと思った。

先生新聞を読んだんだろうか」

「家へ来る新聞にゃない。だからぼくも知らなかった。しか先生学校へ行っていろいろな新聞を見るからね。よし先生が見なくってもだれか話すだろう」

「すると、もう知ってるな」

「むろん知ってるだろう」

「君にはなんとも言わないか

「言わない。もっともろくに話をする暇もないんだから、言わないはずだが。このあいから演芸会の事でしじゅう奔走しているものから――ああ演芸会も、もういやになった。やめてしまおうかしらん。おしろいをつけて、芝居なんかやったって、何がおもしろものか」

先生に話したら、君、しかられるだろう」

しかられるだろう。しかられるのはしかたがないが、いかにも気の毒でね。よけいな事をして迷惑をかけてるんだから。――先生道楽のない人でね。酒は飲まず、煙草は」と言いかけたが途中でやめてしまった。先生哲学を鼻から煙にして吹き出す量は月に積もると、莫大なものである

煙草だけはかなりのむが、そのほかになんにもないぜ。釣りをするじゃなし、碁を打つじゃなし、家庭の楽しみがあるじゃなし。あれがいちばんいけない。子供でもあるといいんだけれども。じつに枯淡だからなあ」

 与次郎はそれで腕組をした。

「たまに、慰めようと思って、少し奔走すると、こんなことになるし。君も先生の所へ行ってやれ」

「行ってやるどころじゃない。ぼくにも多少責任があるから、あやまってくる」

「君はあやまる必要はない」

「じゃ弁解してくる」

 与次郎はそれで帰った。三四郎は床にはいってからたびたび寝返りを打った。国にいるほうが寝やす心持ちがする。偽りの記事――広田先生――美禰子――美禰子を迎えに来て連れていったりっぱな男――いろいろの刺激がある。

 夜中からぐっすり寝た。いつものように起きるのが、ひどくつらかった。顔を洗う所で、同じ文科の学生に会った。顔だけは互いに見知り合いである。失敬という挨拶のうちに、この男は例の記事を読んでいるらしく推した。しかし先方ではむろん話頭を避けた。三四郎も弁解を試みなかった。

 暖かい汁の香をかいでいる時に、また故里の母から書信に接した。また例のごとく、長かりそうだ。洋服を着換えるのがめんどうだから、着たままの上へ袴をはいて、懐へ手紙を入れて、出る。戸外は薄い霜で光った。

 通りへ出ると、ほとんど学生ばかり歩いている。それが、みな同じ方向へ行く。ことごとく急いで行く。寒い往来は若い男の活気でいっぱいになる。そのなかに霜降り外套を着た広田先生の長い影が見えた。この青年の隊伍に紛れ込んだ先生は、歩調においてすでに時代錯誤である。左右前後比較するとすこぶる緩漫に見える。先生の影は校門のうちに隠れた。門内に大きな松がある。巨大の傘のように枝を広げて玄関をふさいでいる。三四郎の足が門前まで来た時は、先生の影がすでに消えて、正面に見えるものは、松と、松の上にある時計台ばかりであった。この時計台時計は常に狂っている。もしくは留まっている。

 門内をちょっとのぞきこんだ三四郎は、口の中で「ハイドリオタフヒア」という字を二度繰り返した。この字は三四郎の覚えた外国語のうちで、もっとも長い、またもっともむずかしい言葉の一つであった。意味はまだわからない。広田先生に聞いてみるつもりでいる。かつて与次郎に尋ねたら、おそらくダーターファブラのたぐいだろうと言っていた。けれども三四郎からみると二つのあいだにはたいへんな違いがある。ダーターファブラはおどるべき性質のものと思える。ハイドリオタフヒアは覚えるのにさえ暇がいる。二へん繰り返すと歩調がおのずから緩漫になる。広田先生の使うために古人が作っておいたような音がする。

 学校へ行ったら、「偉大なる暗闇」の作者として、衆人の注意を一身に集めている気色がした。戸外へ出ようとしたが、戸外は存外寒いから廊下にいた。そうして講義あいだに懐から母の手紙を出して読んだ。

 この冬休みには帰って来いと、まるで熊本にいた当時と同様な命令がある。じつは熊本にいた時分にこんなことがあった。学校休みになるか、ならないのに、帰れという電報が掛かった。母の病気に違いないと思い込んで、驚いて飛んで帰ると、母のほうではこっちに変がなくって、まあ結構だったといわぬばかりに喜んでいる。訳を聞くと、いつまで待っていても帰らないから、お稲荷様へ伺いを立てたら、こりゃ、もう熊本をたっているという御託宣であったので、途中でどうかしはせぬだろうかと非常に心配していたのだと言う。三四郎はその当時を思いだして、今度もまた伺いを立てられることかと思った。しか手紙にはお稲荷様のことは書いてない。ただ三輪田のお光さんも待っていると割注みたようなものがついている。お光さんは豊津の女学校をやめて、家へ帰ったそうだ。またお光さんに縫ってもらった綿入れが小包で来るそうだ。大工の角三が山で賭博を打って九十八円取られたそうだ。――そのてんまつが詳しく書いてある。めんどうだからいかげんに読んだ。なんでも山を買いたいという男が三人連で入り込んで来たのを、角三が案内をして、山を回って歩いているあいだに取られてしまったのだそうだ。角三は家へ帰って、女房にいつのまに取られたかからないと弁解した。すると、女房がそれじゃお前さん眠り薬でもかがされたんだろうと言ったら、角三が、うんそういえばなんだかかいだようだと答えたそうだ。けれども村の者はみんな賭博をして巻き上げられたと評判している。いなかでもこうだから東京にいるお前なぞは、本当によく気をつけなくてはいけないという訓誡がついている。

 長い手紙を巻き収めていると、与次郎そばへ来て、「やあ女の手紙だな」と言った。ゆうべよりは冗談をいうだけ元気がいい。三四郎は、

「なに母からだ」と、少しつまらなそうに答えて、封筒ごと懐へ入れた。

里見お嬢さんからじゃないのか」

「いいや」

「君、里見お嬢さんのことを聞いたか

「何を」と問い返しているところへ、一人の学生が、与次郎に、演芸会の切符をほしいという人が階下に待っていると教えに来てくれた。与次郎はすぐ降りて行った。

 与次郎はそれなり消えてなくなった。いくらつらまえようと思っても出て来ない。三四郎はやむをえず精出して講義を筆記していた。講義が済んでから、ゆうべの約束どおり広田先生の家へ寄る。相変らず静かである先生茶の間に長くなって寝ていた。ばあさんに、どうかなすったのかと聞くと、そうじゃないのでしょう、ゆうべあまりおそくなったので、眠いと言って、さっきお帰りになると、すぐに横におなりなすったのだと言う。長いからだの上に小夜着が掛けてある。三四郎は小さな声で、またばあさんに、どうして、そうおそくなったのかと聞いた。なにいつでもおそいのだが、ゆうべのは勉強じゃなくって、佐々木さんと久しくお話をしておいでだったという答である勉強佐々木に代ったから、昼寝をする説明にはならないが、与次郎が、ゆうべ先生に例の話をした事だけはこれで明瞭になった。ついでに与次郎が、どうしかられたかを聞いておきたいのだが、それはばあさんが知ろうはずがないし、肝心の与次郎学校で取り逃してしまたかしかたがない。きょうの元気のいいところをみると、大した事件にはならずに済んだのだろう。もっと与次郎心理現象はとうてい三四郎にはわからないのだから、じっさいどんなことがあったか想像はできない。

 三四郎は長火鉢の前へすわった。鉄瓶がちんちん鳴っている。ばあさんは遠慮をして下女部屋へ引き取った。三四郎はあぐらをかいて、鉄瓶に手をかざして、先生の起きるのを待っている。先生は熟睡している。三四郎は静かでいい心持ちになった。爪で鉄瓶をたたいてみた。熱い湯を茶碗についでふうふう吹いて飲んだ。先生は向こうをむいて寝ている。二、三日まえに頭を刈ったとみえて、髪がはなはだ短かい。髭のはじが濃く出ている。鼻も向こうを向いている。鼻の穴がすうすう言う。安眠だ。

 三四郎は返そうと思って、持って来たハイドリオタフヒアを出して読みはじめた。ぽつぽつ拾い読みをする。なかなかわからない。墓の中に花を投げることが書いてある。ローマ人薔薇を affect すると書いてある。なんの意味だかよく知らないが、おおかた好むとでも訳するんだろうと思った。ギリシア人は Amaranth を用いると書いてある。これも明瞭でない。しか花の名には違いない。それから少しさきへ行くと、まるでわからなくなった。ページから目を離して先生を見た。まだ寝ている。なんでこんなむずかしい書物自分に貸したものだろうと思った。それから、このむずかしい書物が、なぜわからないながらも、自分の興味をひくのだろうと思った。最後広田先生は必竟ハイドリオタフヒアだと思った。

2024-09-12

名文についての書物を読んだ

その書中において述べられるところの名文とは、単に美的であるのみならず、情緒に満ち、描写が巧みであり、さらにその文章臨場感を伴うことにより読者の心に深く響くものである。美しさとは、単に言葉の装飾ではなく、内在する構造の確かさに拠るものであろう。

澁澤龍彦幻想小説において「幾何学的に書くべきである」と言ったと記憶している。幾何学的とは、感覚的に直感する美麗さと秩序を持ち、その形態は正確かつ普遍的である正三角形が持つ完全性は、内角の和が常に180度であるという確固たる定理に支えられている。これは、いかなる変形にもかかわらず揺るがない事実である。その普遍性こそが美であり、幾何学的美しさの本質を成す。

このように、文章にも同様の美的秩序が存在するのではないかと考える。たとえば、三角形定理文章適用するならば、各要素が一貫して調和する様は正三角形のごとくである三角形の三つの頂点に当たる要素は、物語構造感情の動き、そして読者への影響であろう。この三者が均衡を保つとき文章は完全な形となり、名文と称されるに値する。

恋愛においても、幾何学的な要素が見て取れる。愛する者、愛される者、そしてその間に存在する感情。この三つの要素が整ったとき恋愛は完全な形を成す。しかし、その一部が欠けたとき三角形は不完全となる。非モテであるという状況は、その三つの内角が揃わず、歪んだ三角形のような状態である。だが、その歪みの中にも、何らかの秩序と美しさが宿っていることを認めざるを得ない。

幾何学的な美しさは、完全性の中にの存在するのではない。むしろ、不完全な中にも美しさは潜んでいる。それは、欠けた部分があるからこそ生まれる緊張感であり、そこに宿る秩序の欠如が逆説的に美を生むのであるモテないという状況も、ある種の幾何学的な不完全さであり、その不完全さが一つの形を成し得る。

私は三角形になりたいと願う。完璧であり、無駄がなく、全ての要素が調和している。しかし、不完全なままであることもまた一つの形であり、その不完全さの中にこそ真の美が宿っているのではないか、とも思うのである

幾何学文章の美しさとは、表面上の整合性だけではなく、そこに潜む感情臨場感をも含むものである。その幾何学的な秩序と情感の融合こそ、真に名文たる文章本質であろう。

2024-08-16

戦争責任者の問題伊丹万作) 1/2

 最近自由映画連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前もまじつているということを聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見ときくようになつた。

 そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとつて、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。

 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。

 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのであるしかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。

 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組警防団婦人会といつたような民間組織いかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである

 たとえば、最も手近な服装問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき普通のあり合わせの帽子かぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。もともと、服装は、実用要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想表現ではないのであるしかるに我が同胞諸君は、服装もつて唯一の思想表現なりと勘違いたか、そうでなかつたら思想カムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来意味に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分立場の保鞏(ほきよう)につとめていたのであろう。

 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外百姓の顔であり、あるいは区役所郵便局交通機関や配給機関などの小役人や雇員労働者であり、あるいは学校先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。

 いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。

 しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。

 そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君戦争中、ただの一度も自分の子うそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそ意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。

 いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである

 もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。

 しかし、このような考え方は戦争中にだました人間範囲思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。

 ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間範囲を最少限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。

 もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたもの責任が解消するであろうか。

 だまされたということは、不正者による被害意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。

 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つのである」ことを主張したいのである

 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである

 もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪観念の交叉する余地はないはずであるしかし、有機生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題人間の行動と結びついた瞬間に意志感情コンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象善悪批判が介在し得るゆえんである

 また、もう一つ別の見方から考えると、いくらますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである

 つまりますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである

 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実のものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力無自覚、無反省無責任などが悪の本体なのである

 このことは、過去日本が、外国の力なしには封建制度鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実個人基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくそ本質を等しくするものである

 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配にゆるした国民奴隷根性とも密接につながるものである

 それは少なくとも個人尊厳冒涜、すなわち自我放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である

 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察官僚にの負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣反省しなかつたならば、日本国民というもの永久に救われるときはないであろう。

「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである

 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣自己反省努力がなければ人間進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在日本必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである

 こうして私のような性質のものは、まず自己反省方面思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである

 こんなことをいえば、それは興味の問題ではないといつてしかられるかもしれない。たしかにそれは興味の問題ではなく、もつとさし迫つた、いやおうなしの政治問題にちがいない。

 しかし、それが政治問題であるということは、それ自体がすでにある限界を示すことである

 すなわち、政治問題であるかぎりにおいて、この戦争責任問題も、便宜的な一定規準を定め、その線を境として一応形式的区別をして行くより方法があるまい。つまり問題性質上、その内容的かつ徹底的なる解決は、あらかじめ最初から断念され、放棄されているのであつて、残されているのは一種の便宜主義による解決だけだと思う。便宜主義による解決の最も典型的な行き方は、人間による判断を一切省略して、その人の地位職能によつて判断する方法である現在までに発表された数多くの公職追放者のほとんど全部はこの方法によつて決定された。もちろん、そのよいわるいは問題ではない。ばかりでなく、あるいはこれが唯一の実際的方法かもしれない。

 しかし、それなら映画場合もこれと同様に取り扱つたらいいではないかしかもこの場合は、いじめものいじめられたもの区別は実にはつきりしているのである

 いうまでもなく、いじめもの監督官庁であり、いじめられたもの業者である。これ以上に明白なるいかなる規準存在しないと私は考える。

 しかるに、一部の人の主張するがごとく、業者の間からも、むりに戦争責任者を創作してお目にかけなければならぬとなると、その規準の置き方、そして、いつたいだれが裁くかの問題、いずれもとうてい私にはわからないことばかりである

 たとえば、自分場合を例にとると、私は戦争関係のある作品を一本も書いていない。けれどもそれは必ずしも私が確固たる反戦の信念を持ちつづけたためではなく、たまたま病身のため、そのような題材をつかむ機会に恵まれなかつたり、その他諸種の偶然的なまわり合せの結果にすぎない。

→ 続: 戦争責任者の問題伊丹万作) 2/2

https://anond.hatelabo.jp/20240816214517

2024-08-12

「美しい」という概念は、日常的な意味芸術哲学における意味で異なる側面があります。主な違いを以下に示します。

### 1. **日常的な「美しい」**

- **感覚的な快楽**: 日常的に「美しい」という言葉を使う際、人々は主に視覚的、聴覚的な快楽に基づいていることが多いです。たとえば、美しい風景、花、音楽などが挙げられます。これは、個人感覚や好みに依存やすく、比較主観的です。

- **直感的な反応**: 美しさは、しばしば瞬間的な直感感情的な反応として経験されます特に美的評価を深く考えたり分析したりすることなく、「美しい」と感じることが多いです。

- **普遍的基準の不在**: 日常的な美の概念には、普遍的基準がなく、何が美しいかは人それぞれです。

### 2. **芸術哲学における「美しい」**

- **哲学探究**: 芸術哲学で「美しい」とされるものは、単に感覚的な快楽にとどまらず、より深い哲学探究対象となります。美しさの本質普遍性、そしてその社会的文化的な意義について考察されます

- **形式と内容の関係**: 哲学的には、美はしばしば作品形式と内容、つまりその構造や秩序、調和に基づいて論じられます。例えば、ある芸術作品の美しさは、その要素がどのように組み合わさり、全体としてどのような意味感情を生み出すかに依存します。

- **普遍的価値の探求**: 芸術哲学では、美が単なる主観的感覚にとどまらず、ある程度の普遍性客観性を持ち得るかどうかが重要議論対象です。例えば、イマヌエル・カントは、美を感覚的な快楽のみに基づかない普遍的判断であると考えました。

- **美の批評評価**: 芸術哲学においては、美は批評的に評価されるべきものでもあります。これは、美的経験が単なる個人的な感覚ではなく、理性的評価批評を通じて共有され、理解されるべきであるという考え方に基づいています

### 3. **重要な違い**

- **深さと反省**: 日常的な美しさは、即座に感じられる感覚的な反応に基づくのに対し、芸術哲学的な美しさは、深い反省分析を通じて理解されることが多いです。後者は、感覚を超えた理性的理解社会的文化的背景の中での美の位置づけを重視します。

- **対象範囲**: 日常的な美は一般自然や人々が美しいと感じるもの限定されますが、芸術哲学では、美の対象は必ずしも「心地よい」もの限定されず、異様なもの不快ものにも美的価値が見出されることがあります

これらの違いを通じて、芸術哲学の「美しい」という概念は、単なる感覚快楽を超えて、深い哲学的探求と普遍的価値観の探求を含むものとなっています

2024-08-04

ドゥボールが主張した「スペクタクル社会」とアート役割はどのよ

ギー・ドゥボール**(Guy Debord)は、フランス哲学者であり、**シチュアシオニストインターナショナルSI)**の創設メンバーです。彼は著書『**スペクタクルの社会La Société du Spectacle)**』で現代社会における「スペクタクル」の概念提唱し、その中でアート役割についても言及しています

以下に、ドゥボールの「スペクタクル社会」とアート役割に関する主張を詳しく説明します。

## スペクタクル社会

### 1. **スペクタクル概念**

### 2. **スペクタクル特性**

### 3. **メディア役割**

## アート役割

### 1. **アートの疎外と商業化**

### 2. **アート潜在的可能性**

### 3. **シチュアシオニズムとアート**

### 4. **アート革命意識**

## ドゥボールの影響と現代への示唆

ドゥボールの「スペクタクル社会」は、現代社会におけるメディア広告支配、消費文化の広がり、そして個人の疎外といった問題を鋭く指摘しています。この考え方は今日においても、情報過多の社会デジタルメディアの影響下での社会問題に対する批判視点提供しています

アート役割についても、商業化が進む現代アートシーンにおいて、再び批判的かつ革新的な力を取り戻すべきだという視点は、アーティストキュレーターにとって重要示唆となるでしょう。

2024-07-23

anond:20240723073440

本気でアニメに出てくる魔法学園の制服がカッコいいと思ってるなら美的センスなさすぎ

2024-07-21

ネットで買えるちょっとお高い美味しい食べ物おしえて

お金の使い道が特にいから何かいもの買いたい

たまに買うような少しお高い食べ物ある?

スイーツでもいいし肉でも、それ以外でもいい

ご褒美的に買ってるものあったら教えて

追記**

コーヒーって書いてくれた人もありがとう

2024-07-20

俺は性欲には美的ものを求めてるから古典的西洋画みたいなセンスが欲しいんだけど、AVを見てみると世の中の男は性欲に汚さを求めてるんだなあと思ってしま

2024-07-18

美的判断において直面原理は正しいのか

4分の切り抜き動画理解できる

【難解】#にじクイ で採用された『エビオ構文問題』が難解すぎる【にじさんじ/切り抜き】 - YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=1H2QVu4A90I

たこともない絵画を「美しい」と言ってなにがまずいのか|obakeweb

https://note.com/obakeweb/n/n998a6615a616

2024-07-17

anond:20240716075153

もうジェンダーフリーだしアンチルッキズム時代なんだから、ロングが女の子らしくて可愛いみたいな刷り込みもなくなればいい。

美的要素以外に髪が長くて得することなんてないし。

結局メディアから価値観を刷り込まれて育つんからアイドルやらモデルやらがどんどん坊主にしていくべき。

男女関係なく坊主ベスト

2024-07-09

美術館でションベン漏らすほど美的センサーが鋭い人はいないだろう

ションベンが漏れそうならトイレを済ませて、おむつをはくのがマナー

2024-07-05

anond:20240705020100

それしか基準がないならアレだけど

別々の項目として基準があるのはおかしなことじゃないというか

逆に美的価値判断がゴッソリ抜けてるならそれこそアレ

2024-06-06

文化資本気になってディスタンクシオンちょっと読んだ。

元増田anond:20240531060924

ディスタンクシオンってなにさ

ディスタンクシオン文化資本元増田の源流にあるブルデュー著作ディスタンクシオンを直訳すると「区別」になるらしいが、フランス語の語義では「他から区別された」→「特に優れた」→「卓越した」と派生し「卓越化」を訳語としている。訳者石井洋二郎先生東京大学名誉教授。凄い。

結局「文化資本」って何?

元増田ではwikipedia3分類を紹介していた。

しか上記内容だけでは、理解が欠けているらしい。

文化資本が家庭環境学校教育の両方によって形成されるものであること

これを念頭に置いた上で、初めて文化資本を捉えることができる。

文化資本再生産が有利に働く

元増田が話す通り、これが本質文化資本に恵まれれば「強くてニューゲーム」になる。ここで学校教育機関が登場する。学校は相対文化資本学歴資本に転換していくもの。そして教育は家庭環境による文化資本の差を拡大する可能性を秘めている。これは上にも下にも働く作用する。学校教育機関である故に「身分振り分け効果」を見えざる機能としている。

学歴とは、文化資本証明であり本質主義である

学歴資本を手に入れた人間は、最終的に〇〇大卒という肩書きを手に入れ、社会的承認を得ることになる。社会的承認文化資本を所有している証明でもある。これを持たない人間は、なんらかのパフォーマンスによって、自分が所有する文化資本価値証明する必要がある。これは貴族比喩される。貴族は「貴族であるから貴族」。日本ならば、天皇は「天皇であるから天皇である文化資本パフォーマンス要求されることなく、それが本質であること。これを「本質主義」とブルデューは呼んだ。

客体化された形態文化資本を考えると「東京」の話が腑に落ちる

東京文化資本に富んでいる」これを疑問視する意見、あるいは否定的意見が目立った。先に本質主義の話をした。客体的に東京=優れていると考える人が多いことは、本質的に東京文化資本証明している。

これらを捉えれば「東京」とは客体化された形態文化資本を持っており、文化資本に富んでいることが東京本質である

美術館いってまーす☆文化資本文化資本☆」でも合ってるかもしれない

元増田記載で目立ったものだったので考えたい。

ディスタンクシオンの第1章では美的思考について長く語られている。「趣味美的思考は人々を区別するものでもある。これが文化的階級に繋がってくるし、諸階級間を隔てる最も超えにくい障害ひとつ」と物凄く端的にまとめた。で、問題なのは美術館に行くことが身体化された形態文化資本につながること。これを考えてしまうと、あながち使い方として正しいのかもしれない。もちろん社会資本としていってんだろと感じなくもないが。

2024-05-31

anond:20240531165010

ユーザー層が入れ替わったのでしょうね

昔のはてなー現在対立煽りしているはてなーは別の人種なのでしょう

  

[B! 教育] どうやって子どもに「文化資本」をプリインストールしていけばよいだろう? | Books&Apps

  

これはシロクマ先生による記事です。(539users)

昨今は、「文化資本」という言葉が語られることが多い。

文化資本とは、語彙力や言葉遣い、学力教養美的センスといった、個人的リソースのことを指す。

文化資本は直接的にはお金にならないかもしれないが、地位人間関係へのアクセスを左右し、巡り巡って経済資本をも左右するという点において、やはり資本である

こんな感じで少なくとも当時は本来意味で使われていました

 

はてな話題になりがちな文化資本関連トピック

  

1個くらいは見たことあるのでは?

この手の話に熱心に参加していたのは子供を持つ親や教育関係者ですね

トピ主さんやしんざきさん、まつもとさん辺りも文化資本関連で何か書かれていそうな気がしますが探すのが面倒になったのでここでやめます

こうしてみればホッテントリするブクマ傾向が変わりましたね

知識子育て系のブログはなくなり不毛対立煽りばかりです

  

なぜ文化資本という単語が《東京すごいポルノ》に使われるようになったのかよくわかりませんが 

本来意味では住んでいる場所よりも親の方が重要ですし、問題視しているのは貧困再生産です

 

そもそもお前ら、「文化資本」って意味わかって使ってるの?

いや、おれも知らん。

と思ったのでググってみた。これは社会学用語なんだな。

文化資本英語: cultural capital、フランス語: le capital culturel)とは、社会学における学術用語概念)の一つであり、金銭によるもの以外の、学歴文化的素養といった個人的資産を指す。フランス社会学ピエール・ブルデューによって提唱されて以来、現在に至るまで幅広い支持を受けている。社会階層間の流動性を高める上では、単なる経済支援よりも重視しなければならない場合もある。

wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B3%87%E6%9C%AC

フランス社会学ピエール・ブルデュー,P.(Pierre Bourdieu, P.)とジャン=クロード・パスロン,J-C.(Jean-Claude Passeron, J-C.)が考案した概念で,人間知識技能資本として捉えたゲーリー・ベッカー,G.S.(Gary S. Becker, G.S.)の人的資本概念文化領域拡張し,貨幣や財の経済的側面のみならず,教育文化の面において財が相続生産・蓄積・投資される過程説明する。文化資本言葉遣いや立居振る舞いなどの身体化された様態書物絵画などの文化財所有による客体化された様態学歴資格によって制度化された様態からなり,それらを教育就職など,経済的には「市場」となりうる「場=界(champ)」に投資することで,再生戦略可能にする物質的・象徴的な利益を引き出す。それは幼少期の家庭から相続継承され,学校教育を通じて中立的能力証明へと変換され,社会的地位権力再生産に結びつく。この概念によって,一見利害関係なく実践される文化慣習行動を,貨幣経済より広範な「象徴交換の経済」に取り込んで分析することが目指される。

コトバンクhttps://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B3%87%E6%9C%AC-377212

小難しいがようするに、

・親から子へ、資産社会的なパワーが受け継がれる

という前提があって、

・金だけでなく、文化的素養学歴スキルなどの見えない資産も子に受け継いでいるんだ!

ということなんだな。

で、その受け継ぐ過程で使われる個人的資産(=投資のもとになるもの資本)を文化資本というらしい。

wikipediaでは3つの分類が紹介されていた。


てことは、美術館それ自体文化資本ではないやんけ!(個人資産じゃないから)

おいおい、「文化資本」という言葉もまた、はてなーたちの反知性主義によって意味が捻じ曲げられているじゃないか

「なんか語感がかっこいいから、意味はよくわからんけど使ってみました」じゃねーんだよ。

美術館のものではなく、「親が美術館によく行く習慣がある」とか、そういう「家のなか」の話なんだよ、文化資本てのは。

しか資産社会的地位再生産に結びついていることが前提なのであって

庶民が「お、、おれはモネ展覧会とかよく行くし?」とか「いやー、声優舞台挨拶が家から近くていいっすわ!」とかホクホクしてるのは文化資本じゃないんだよ。単なるエンタメ消費だそれは。アホか。

それよりもおれが思ったのは、成功した起業家がよく言うやつ。

「親父が社長やってたんで、起業自分にとって自然選択肢でしたね」ってやつだよ。

あれこそ文化資本だよな。

・・・と、こうやって知らない言葉意味確認すら行わない、知的誠実さ皆無のお前らが親からたいした文化資本を受け継いでいないのは明白。

地方民は「美術館いってまーす☆文化資本文化資本☆」とかなんとか自慢してるスノッブどもを見下していいぞ。

====以下、順次追記====

適当に調べたり考えたりしてみる感じ、居住地域に美術館だとかい学校があるだとかは社会資本の話な気がするわ

文化資本て、「親の語彙の豊富さ」とか「親同士の会話の知的水準の高さ」とか「親が教育資格保有していて、知的水準の高いフィードバック日常的に得られる」とか、「社会的地位の高いオトナとの会話機会の豊富さ」とか、そういうものなんじゃねーかな

・「文化資本定義都市地域に援用」とか言ってるやつ、文化資本社会階層再生産を説明するロジックで生まれ言葉らしいから、「都民=殿上人地方民=下層民!」的な東京選民思想を前提に生きてるってことになると思うんだが、大丈夫そ?

・つーか、東京のなかでも当然ながら格差階層があるわけで、そのなかでざっくり「もとの定義は家の話だけどぉ、都市に援用すればぁ」っつってるやつは、東京の内側で生まれている格差にはどう説明をつけるんだ?東京にいるだけで文化資本恩恵享受できるなら、東京の内側の社会格差はその他の地域と比べて小さくないといけないはずだろう。まずはそれを示してくれ

・いい学校とか文化施設へのアクセスを高めるために東京に住む、はたしかに「その判断能力があったり意思決定をする家庭である」という意味文化資本があるといえそう。ただ、その意思決定の内実が本当にそうなのか?というのは問いたいところではあるな。なんとなく東京就職したとか、職場東京からそのまま住んでますとか、そっちが主要因なやつも多いんじゃないの?

・いくつかブコメ読んで、格差批判する文脈でなら都市間に援用してもいい気がしてきたが・・・仮に「都市文化資本」という概念が成り立つ場合、以下が疑問。詳しい人おしえて

1.文化資本の枠組みだけで考えると、いい学校、いい美術館などは「客体化された形態文化資本」に分類されるはずだが、そもそもこれらは社会資本ではないか?どう整理するのか?「ハビトゥス形成やす環境東京文化資本」と言ってるやつもいるが、わざわざ"援用"せずとも「東京社会資本が充実してますなー」で済むんじゃないか

2.もとの定義に照らすかぎり、文化資本経済的格差階層再生産に結びつくものなので、「他地域よりも東京経済的社会的特権的地位たらしめている、東京に特異的な文化慣習行動」が「東京文化資本」ということになる。それってなに?そんなんある?

3.ここまで考えて、いわゆる「ユダヤ商法(ほんとにあるのかしらんが)」はユダヤ人の文化資本といえそう、つまり都市という地理的な要素よりは特定価値観を共有する集団内においてなら、文化資本という概念は家を超えて援用できそうと思ったんだけど、どうなん?

2024-05-20

資料作成得意をアピールポイントにしてる女がチームにいるとやっぱクッソだるい

知識自慢、デザイン自慢の使い物にならないひけらかし資料ドヤ顔で配りまくるうえに無駄が無くて見やす旧版資料使って仕事してる社員を見つけたらあからさまに機嫌損ねたり、使いやす資料を別途作って共有した社員に強く当たるから鬱陶しいんだよ

今日もお前の資料分かりづらいか自分用に雑に作ったメモを分けて欲しいって言いにきた新人いる時点で明らかに何の役にも立ってない失敗作なんだよな

資料作成やりたいなら使う奴のことを考えてやれよって周りにいくら指摘されてもデザインセンス良い自分()に酔ってフルシカトだもんな

何なら今の有用性より提出件数を重視するリーダーに変わってからマジで業務資料整備を作品展()としか思ってないんだろうな

流石は見た目とマウントしか頭にない方の性別だわ

てかお前顔面デザインゴミから美的センス自慢したところで説得力ないぞ

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