『丹波国・福知山城跡』
京都府福知山市の中心地にある再建された福知山城天守である。
福知山城の地には、元々国人領主塩見氏改め横山氏の居城横山城があったが、織田信長の丹波侵略により、八上城、黒井城と共に明智光秀軍に滅ぼされ、丹波国を領地とした光秀が横山城の後に、地名も福知山と改めた城を築いた。
光秀は、城の石垣に寺社から集めた宝篋印塔や石仏、燈籠などや、石仏、石臼などを石垣に転用したとされている。
寺社を破壊して城の石垣としたと云うのが通説であるが、そうではなく、領民の負担を軽くするためのに現存する石を集めたというのが当たっていると思われる。
発掘により出た転用石は城内に並べられている。
築城後、光秀は新たに現亀岡市に亀山城を築き移ったため、福知山城へは光秀の娘婿の明智秀満と藤木権兵衛を配置し、城代とした。
信長の本能寺事件、それに続く山崎の合戦の後、城は秀吉軍に襲われ、明智氏は滅亡、その後亀山城と共に豊臣秀勝が支配するところとなった。
その後、杉原氏、小野木氏が城主となったが、関ヶ原では小野木氏は西軍に与したため、細川忠興に攻められ小野木氏は敗れ切腹した。
関ヶ原の論功行賞で有馬豊氏が8万石の福知山城主となり、それにふさわしいように城郭や城下町を作り上げた。
その後、岡部氏、稲葉氏、松平氏の順で交代したが、最終的には朽木氏が城主となり、明治維新を迎えたという経緯を辿る。
明治になって城は廃城とされ、建物は殆ど壊されたと云われる。
二ノ丸にあった銅門(あかがねもん)の番所は破壊から免れ、現在本丸跡地に移築されている。
しかし、本丸の石垣は遺構として残っている。
立派な石はないが野面積み、穴太積みと云われる自然石のままに積まれた石垣は見事である。
本丸の跡には、今から約30年前に大天守、小天守、釣鐘門が再建されている。
これらは当時のものが忠実に再現されたとのことである。
さて、その他の遺構である。
二ノ丸にあった城門が市内の寺院に移築され、現存している。
下写真は昭仙寺、明覚寺、法鷲寺、正眼寺の移築門である。
その他の寺にも移築門があるとのことである。
もう一つ、城内の遺構ではないが、朝暉(あさひ)神社にあった能舞台であるが、現在は朽木氏初代を祀る一宮神社の境内に移設されている。
余談であるが、福知山市内に御霊神社が鎮座している。
明智光秀も合祀されていて神紋は明智氏の桔梗紋である。
神官に話を聞いて見た。
福知山市でも亀岡市と同様に明智光秀が慕われていて、祭りなども行われているとのことであった。