はてなキーワード: 面影とは
春一番が吹き抜ける午後、窓際のカーテンがふわりと膨らみ、干したばかりのタオルに淡い日差しが透けた。小学三年生の私・千春は、帰宅した兄・湊にランドセルごと抱え上げられ、ソファへぽすんと降ろされた。「今日も頑張った?」と頭を撫でる手の温かさに、胸の奥がぶわっと熱くなる。母に叱られた算数の宿題も、クラスで言い返せなかった悔しさも、兄の笑顔一つで溶けていった。リビングに満ちる石鹸と洗濯糊の匂いを深く吸い込みながら——私はこの人を一生守り、一生守られよう、と幼いながら胸に誓う。
第二章 音を立てて開く距離
兄が中学に入り、部活で遅く帰るようになると、食卓に並ぶ椅子の一つはいつも空いた。母が「冷めないうちに食べなさい」と言うたび、私は味噌汁を啜りながら廊下の先を気にした。深夜、蛍光灯の下で英単語帳をめくる兄の背には、近寄りがたい影が宿っていた。「美緒、静かに」と囁かれるたび、胸の中で小石が転がった。子どもの私は、その小石に名前を付けられず、ただ足元で鳴る兄の成長の足音を数え続けた。
第三章 メール越しの声——市外への進学
合格発表の日、掲示板に貼られた番号を見つけた兄は空を仰いで笑った。県下一の進学校、通学片道一時間半。私の「行かないで」は、騒ぐクラスメートの声にかき消えた。春の風が吹く玄関先で兄は「千春は強い子だろ」と頭を撫で、あっさりと黒い学生鞄を担いで出て行く。夕方、カレーの匂いしかない台所で、私は思わず携帯を開く——「今日どうだった?」。既読の横に「部活」「課題」「眠い」の三語。短い返事ほど恋しく、通知音が鳴るたび息を呑む日々が始まった。
私も中学生になり、バスケ部で汗を流した。だけど練習後のシャワー室、タイルに落ちる水音を聞きながら、兄のことばかり考える自分に気づく。友達が「今度みんなで遊園地行こう」と誘ってくれても、私は曖昧に笑って断った。帰宅後、母に「お兄ちゃんは夕飯要らないって」と告げられるたび胸が縮む。兄と私の距離は物理的なものだけではなく、生活のリズム、語彙の選択、夢のスケール——地図全体が塗り替わるように拡がっていった。
第五章 高みを目指す風——兄と同じ大学へ
兄の進学一年後、私は「湊の隣がいい」と進路希望欄に一行だけ書いた。担任は「姉妹・兄弟で同じ大学は珍しくないさ」と笑ったが、動機の濃さまでは見抜けなかった。深夜、蛍光灯の明滅を睨みながら英単語を暗唱し、机に伏した額の下で涙と鼻水が混ざった。——お兄ちゃんの隣に並ばなきゃ私の世界は未完成。そう思うほどに参考書の余白まで兄の横顔で埋まっていく。
合格発表の掲示板で番号を見つけるより先に、正門前で待ち構えていた兄に抱きついた瞬間、世界は再び等速回転を取り戻した。大学近くの築四十年のワンルーム、押し入れを改造したロフトに布団二枚。「家賃、生活費、ちゃんと折半だぞ」と兄は念を押したが、私の頭には花火のような歓喜しかなかった。狭い流しでインスタント味噌汁を作り、共有の机でレポートを書く。夜、ロフトの布団で横になり、「お兄ちゃん起きてる?」と囁くと「寝ろ」と小さな声。そのやりとりだけで心臓が跳ね、眠れない夜が続いた。
第七章 亀裂の手触り——兄の新しい世界
五月の新歓期、兄は同ゼミの先輩・綾瀬沙羅と親しくなっていた。駅前のカフェで偶然見かけたとき、兄が笑う横顔には私の知らない柔らかさがあった。帰宅後、狭い玄関で「ただいま」を言う兄の声が少し弾む。その裏にある感情を知らないふりをして「おかえり」を返すと、胸の奥で小さくパチンと弾ける音——それは嫉妬という硝子玉だった。
夜中、机に伏せながらLINEの通知履歴を追った。画面に浮かぶ「今度のゼミ発表、手伝ってくれてありがとう!」「映画、ポップコーンはキャラメル派?」。私は震える指で既読もつけずアプリを閉じた。
第八章 病室で交わした本音
七月、期末試験前の無理がたたり、私は高熱で倒れた。扁桃炎で点滴を受ける私の側で、兄は氷枕を替え、額を冷たいタオルで拭いた。ぼんやりする視界の端で兄の眉間が寄る。「千春、無理し過ぎるな」。私の唇は乾ききってうまく動かない。それでも「お兄ちゃんは……誰と映画に行くの?」とかすれ声で問うと、兄は少し目を見開き、やがて真剣な表情でこう答えた。
「……千春に嘘はつきたくない。沙羅先輩だ。でも、恋人とかじゃない。ただ仲間として誘われて——」
言い訳のような説明を遮るように咳き込む私を、兄は抱き起こして背を摩った。「なぁ、俺は千春に甘え過ぎてたのかもしれない。けど俺たちは兄妹で、これ以上——」兄は言葉を飲み込む。点滴の機械音が病室に滲む沈黙を裂く。私は熱に浮かされながらも悟った。兄が私の「全世界」ではあっても、兄にとって私は「世界のすべて」ではないのだ、と。
第九章 掌に描く境界線
退院して帰宅した夜、私は狭いロフトで兄と向き合った。裸電球が二人の影を歪ませる。「私、サークル入る。友達とも遊びに行く。……お兄ちゃん以外の毎日を持つ」。意地で張った声は震えていたが、兄は静かに頷いた。
「俺も就職考えなきゃいけないし、研究室のプロジェクトも本気出す。千春が自分の場所を見つけるのは嬉しいよ」
その夜初めて、私は兄の背中ではなく、正面から兄の眼を見た。そこには幼い日には見えなかった迷いと覚悟が交差していた。布団に潜り込み、細いロフトの梁越しに聞こえる兄の寝息を聞きながら、私は気づく。この人を一人の男性として愛してしまった気持ちは消えないけれど、同時に私は自分の人生のハンドルを握らなければならない、と。
第十章 私の日々、兄の日々
秋学期、私は文学研究会に入り、週末は古書店を巡るバイトを始めた。分厚い全集を運ぶたび腕が悲鳴を上げるけれど、店主の「助かったよ」の一言が嬉しかった。サークルでは同級生の新と意気投合し、文芸誌の編集を任される。帰宅が深夜になり、狭い部屋に残る兄のブラックコーヒーの香りが、自分の知らない兄の時間を想像させた。
一方兄はロボット制御研究室に配属され、週末は企業コンテストの試作機に没頭。リビングには配線だらけの基板、冷蔵庫には徹夜明けのエナジードリンク。顔を合わせれば「今日はギアが思った角度で回らなくてさ」「文芸誌の特集、締切伸びそう」と、互いの話を交わし、笑い、すれ違う。寂しさは濃淡を変えながら残るが、どこか甘やかな痛みだった。
第十一章 再定義される「好き」
二月、文学研究会の合宿で雪深い山荘へ向かうバスの車窓に、私は兄の面影を探していなかった。かわりに隣席の新が差し出したホットココアの湯気を見て、「あ、兄と同じ匂い」とふと笑えて驚く。夜、薪ストーブの前で原稿をチェックしながら、新が真顔で言った。「千春、誰かに遠慮してない? 本当に好きなものを選びなよ」。
帰路、携帯に兄から「風邪ひいてないか?」とメッセージ。私は画面を見つめ、初めて返事を後回しにした。雪解け水のせせらぎのように、私の中の「お兄ちゃん大好き」が形を変え始めていた。
春、兄の卒業式。体育館のステージでガウンを揺らす兄の背を見つめながら私は悟る。かつて追いかけた背中は、今や尊敬すべき一個の人間の輪郭をまとっている。記念写真を撮る流れで、沙羅先輩が兄の腕にそっと手を添えた瞬間、胸に尖った痛みは走ったが、私は自然と微笑めた。
式後、学内の並木道で兄に呼び止められた。「千春、就職決まった。都内のロボットベンチャー。……それと、沙羅先輩に告白された」。兄の声が少し震えた。「答えは保留したけど、たぶん——」。私は風に舞う花びらを掴み、そっと指先で千切った。「お兄ちゃん、おめでとう。幸せになって」。驚く兄に背を向け、歩き出す足は震えたが、止まらなかった。
一方私も、新から「卒業まであと一年、俺と付き合わないか」と真剣に告げられた。夕焼けに染まるログハウス風カフェで、私は一拍置き、首を縦に振る。ただし「まだ兄のことを特別に思っている自分がいる」と正直に打ち明けた。新は少し考え、「それを含めて、千春だ」と笑い、手を差し伸べた。
兄の引っ越し前夜、段ボールが積み上がった部屋でカップ麺を啜る。蛍光灯の明かりが段ボールの影を濃くし、狭いはずの部屋が異様に広く感じられた。「千春、この一年、一緒にいてくれてありがとう」。兄の言葉に私は笑い、「私こそ」と返す。
夜半、ロフトに上がる梯子を見上げながら、私はそっと尋ねた。「お兄ちゃん、今でも私のこと、守りたいって思う?」。兄は真っ直ぐな目で「妹を守るのは当たり前だろ。でも千春が前に進むのを邪魔したくない。だから、守るってより、応援するかな」。私は梯子を一段上り、振り返り、にこりと笑う。「なら私は、あなたの一番のファンでい続ける。世界一のね」。
四月。兄は都内のシェアハウスに移り、私はキャンパス近くの女性専用アパートへ。ガランとした新居の机に、文学誌の校正紙と、新からもらった栞付きの詩集を並べる。窓を開けると桜吹雪と同時に、遠くで電車の発車ベルが聞こえた。その音に、兄が乗った始発を想像しながらも、今の私は畏れより期待で胸が膨らむ。
一方兄は新入社員研修に追われ、深夜に帰宅しては泥のように眠る毎日。それでも週末、動画通話を繋ぐと「ロボットアーム、ようやく規格通った!」と少年のように嬉しそうで、画面越しにハイタッチする私たちは、確かに兄妹であり友であった。
夏、私はゼミ論集で最優秀賞を受け、教授に海外学会への参加を勧められた。喜びと同時に襲ったのは、兄から離れて飛行機に乗るという恐怖だった。夜、通話でその迷いを口にすると、兄は一瞬驚き、そして静かに笑った。
「千春、飛行機の中でも俺のLINEは届くさ。大丈夫、怖くなったらメッセージして。……でもまずは自分が見たい景色を見てこい」
受話口から聞こえる兄の声に、幼い頃のヒーローの面影と、同じ高さで語りかける同志の温度が重なる。私は涙ぐみながら、「行ってくるね」と告げた。
第十六章 旋回する眼差し——空の果てで
ヘルシンキ行きの機内、私は窓外の雲海を見下ろし、兄の存在が地球の裏側まで伸びる糸のように感じた。学会の壇上で英語発表を終えた夜、フィンランドの森を背にした会場ロビーで新が「よくやった」と抱き寄せる。その温もりの中で、私はようやく己の恋心が兄とは別の場所に芽吹いていることを自覚する。ロビーの片隅で兄にビデオ通話を繋げば、薄暗い日本の夜明けの部屋で、兄が寝癖のまま「誇らしいぞ」と親指を立ててくれた。
第十七章 再会、そして告白
帰国翌日、私は兄のシェアハウスを訪れた。駅前の桜並木はすっかり青葉に変わり、照り返すアスファルトの匂いが夏の到来を告げる。兄の部屋に入ると、壁いっぱいに貼られたロボットアームの設計図が、昼下がりの光を浴びて銀色に反射していた。
「千春、どうだった?」という声に、私はスーツケースを置き、深呼吸。「お兄ちゃん、私ね——好きな人ができた」。一瞬、兄の眉が僅かに上がる。「そっか」と短く呟き、柔らかく笑う兄。「で、その人は俺に挨拶しに来るのかな?」。私は肩を竦め、「そのうちね」と笑い返す。手土産のフィンランドクッキーをテーブルに置き、二人で半分こした甘い味は、初めて兄と分かち合えた「恋の報告」の味だった。
第十八章 エピローグ——それでも「大好き」
私の卒業式。袴姿の私は、門前で兄と写真を撮った。兄は背広の胸ポケットに小さなチューリップの飾りを挿し、「社会人二年目、少しは板についてきたかな」と照れ笑い。カメラのフラッシュを受けた瞬間、私はふと思う。——この人がいなければ、私は空を飛ぶ翼を持てなかった。
式後のパーティー会場で、新と兄が固い握手を交わす。私の恋人と、かつて世界のすべてだった人。その光景に胸が温かく満たされる。パーティーが終わり、夜風に揺れる街路樹の下で、私は兄に改めて向き合う。
「お兄ちゃん、大好き。だけどそれは、私が私であるための、永遠の合言葉」
兄は優しく頷き、子どもの頃と同じ仕草で私の頭をくしゃりと撫でた。私はその手を振りほどかず、ただ目を閉じて春の匂いを胸いっぱいに吸い込む。そうして再び目を開けたとき、私たちは同じ高さで未来を見ていた。
——終わり——
◯前回までのあらすじ
トランプ関税で新NISAがついにマイナス。その悲しみを乗り越えるため風俗に行くことに。
・体型:「ボン・ボン・ボン」が理想。「ボンキュッボン」がギリ。(ポッチャリ好き)
・年齢は40以下。
◯1週間かけて選択した嬢
→写メマジックを考慮しての選定。この写真ならマジックだったとしても最悪6くらいはあるはず。
→ここポイント。こういう嬢が会ってみたらボンボンボンだったりする。俺でなきゃ見逃しちゃうね。
・年齢:20代前半。特段こだわりなし。
◯で、実際会った結果
別人やんけ…
写メマジックでだいぶお変わりになられた方に対する「別人やんけ!www」とは別であり、マジ別人であった時の反応が上記。写メの面影すらない。
なんか「本当に別人でこの後に指名した本人がドアをノック。瞬間目が合う増田と目の前の女性」みたいなホラー話なんじゃないかと疑ったが結局この後誰もこなかったから別人ではなかったようだ。それはそれで怖い。
・体型:「呼んだ嬢 服を脱いだら キュッボンキュッ」(心の俳句)
写メと反対!まるで反対!!思わず俺の心の中の友蔵が出てきてしまった。
あ、デブ専素人である読者諸君にはこの体型がどのようなものか想像が難しいと思うので例えよう。
・年齢:30代前半かなー。ここはまあ予想の範囲内。
ここで声を大にして「チェンジ!」と言える大人でありたかったが、大統領もなったことのないひよっこ。言えるはずもなく愛想笑い。屈辱。
ただ、率先して笑顔で会話してきたりと愛嬌はある。人間愛嬌あればなんとかなるもんだ。うん。きっと。
◯試合結果
「料理好きなのー?」「全くしない」
はいしゅーりょー。もうしゅーりょーでーす。残り120分は消化試合でーす。
どうやらプロフィールから写真まで全て店任せとのこと。ちったあ取り繕え。
あとテクもなかった。愛嬌全振りかよ。ステ尖りすぎだろ流石に。
・店の写真、プロフィールは加工が入って当たり前。そう思っていた時期もありました。まさか別人が来るとは。
・嬢のX(旧ツイッター)見ましょう。なければせめて写メ日記見ましょう。今回の嬢は両方なかった。
(イントロ - アコースティックギターのアルペジオ)
コンクリートの隙間に咲いた
名もなき花の色を知ってるか
アスファルトを這うように伸びた
細い影の向こうに何を見る
(Aメロ)
変わらないはずだった街の景色が
少しずつ滲んでいくように
あの頃の笑い声はどこへ行った
(Bメロ)
遠い場所の誰かのため
僕らの足元で小さく揺れる
名もなき希望の灯火
(サビ)
届かない叫びが胸を焦がす
この歌が響く、あの街の空に
(Aメロ)
雑踏に紛れて消えた足跡
自由の色を忘れないと誓った
あの日の僕らはまだ、無力だった
(Bメロ)
押し寄せる波に逆らうように
心に刻んだ、譲れない願い
(サビ)
届かない叫びが胸を焦がす
この歌が響く、あの街の空に
絶望の淵で見た、一筋の光
(サビ)
信じ続けるよ、いつかきっと
この歌が響く、あの街の空に
(アウトロ - アコースティックギターのアルペジオが静かにフェードアウト)
アサクリシャドウズ、近畿が出てくると聞いており大阪奈良京都が舞台なんだろうなーとは思ってたが、福井も出てくる
福井、俺の故郷であり忌まわしい思い出しかなく二度と帰らない場所
ゲームの中で帰って来るとはな
終盤になってようやく訪れる土地という設定らしく、推奨レベルが高いゾーンだ
俺が福井にいた頃よりも数百年昔が舞台なので面影はないはず、だったが気比神宮に行くと懐かしさがあった
リアルではもう二度と行かない気比神宮、子供の頃にはお祭りなどで行ったものだ
ぞっとするぐらい「見慣れた」感覚があった
いろんな神社に作中で行けるが、気比神宮は塀(?)のデザインが独特なんだよな
ああこういう塀(?)だったわって記憶がよみがえる
アサクリシャドウズの建築物は当時を完全に再現したわけではなく、近世の建て替え後のものを参考にしていることがある
気比神宮は空襲で一回壊れて作り直した比較的新しい神社だが、作中に出てくるのは今の気比神宮をもとにしているのかな
父子家庭で育ち父は少女を養うために海賊になりそして死に、少女は賊の娘として迫害されている
少女はメソメソ泣くような者ではなく、いじめてくる奴らの集う食堂に侵入し毒物仕込んで腹を下させてざまあああするようないい性格した奴だ
主人公のうち、弥助は少女にドン引きするが、奈緒江は最近父を殺されたばかりで「父と娘」に思うところがあり、少女を勧誘して仲間にする
少女は暗黒の土地福井から脱出して主人公たちの住む屋敷に引き取られる
そこでは少女の過去を知りいじめてくる者はいないし、復讐のために鍛えた毒スキルは戦闘員として重宝される
屋敷の主人の女が、少女にもあれしろこれしろと労働を押し付けてきて、少女は「チッ、うっせーな」って反応をしつつも、女が母のようでちょっと嬉しそう
俺たちはまだ三十代で、流石に早すぎるだろって。
でも嘘のわけがなかった。
俺はもう何年もそいつと連絡を取っていなかったし、いつの間にか疎遠になってしまったことすら意識していなかった。
そいつのことを思い出したとき、最後に話したのがいつだったのかさえ思い出せなかった。
葬儀場に入ると、そこには見覚えのある顔がいくつもあった。
卒業以来ほとんど会っていなかったが、こういう場になると集まるものなのだなと思った。
それぞれが数年分の歳をとり、面差しには少しずつ大人びた疲れが見える。それでも、どこか昔の面影を感じられた。
棺の中の友人は、静かに眠っていた。彼はもう二度と目を覚まさない。
そう思うと、やっと実感が湧いてきた。悲しいはずなのに、涙は出なかった。
それが悲しかった。
妻も一緒に参列した。式が終わると、俺は放心状態だったんだと思う。
友人の死が信じられないという気持ちと、死が身近にあるという感覚。
馬鹿みたいだろ?いい大人が今更になって死に対する恐怖が急に湧いて来た。
そうした死への恐怖と、友人への偲ぶ気持ちが沸き上がらない不平等さに心がモヤついていたのかもしれない。
言葉にするのは難しい。
ただ心に強い蟠りを感じていた。
帰り道、公園に寄った。
公園に寄りたくなったのだ。
ベンチに座って、何でもない話を延々と続けた。
勉強のこと、将来のこと、どうでもいい噂話や、当時流行っていた音楽の話。
今となっては、その内容のほとんどを覚えていないが、確かに俺たちは笑い合っていた。
立ち寄った公園は、あの頃とは違う、まったく関係のない公園で、暗闇の中で外灯がぼんやりと明かりを灯していた。
俺はブランコに座った。何もせずただぼんやり座り続けていると、いつの間にか妻が隣のブランコに座った。
ふと顔を上げると、妻が月明かりに照らされていた。
俺の妻は、美人だ。
俺にはもったいないくらい綺麗な人だ。
どうして俺と結婚してくれたのか?
時々不思議に思うことがある。
俺は安月給だし、頼りがいがあるわけでもない。
不意に、考えよりも先に自分の口が動くのを感じた。
俺が死んだら、どうする?
ふと、口をついて出た言葉。
冗談のつもりだった。
無意識でも気恥しかったのだろう。俺は地面を見つめながら言っていた。
返事はない。沈黙が続く。
気まずくなって顔を上げると、妻は俺をじっと見つめていた。
何も言わないまま、俺の顔を見つめる彼女の瞳に、何かを探してしまう。
俺は、慌てるように冗談を続けた。
妻は何も言わなかった。
そう言うと、妻は少しだけ笑った。そして、静かに言った。
妻は真剣な表情をしていた。
正直、ショックだった。
でもどうしていいのかも分からない。
妻はブランコから静かに立ち上がると、俺に背を向けながら、はっきりとした声で言った。
それだけ言うと、彼女は車の方へ歩いていった。
俺はブランコに座ったまま動けなかった。
意味を考えるうちに、意味の答えを考える前に、気が付いたら涙が流れていた。
友人の葬儀では流れなかった涙が、今になって流れた。
なんでだよ!って思った。
妙に悔しかった。
それでも涙が止まらなかった。
車に戻ると妻が運転席に座っていた。
駐車場に車を停めても、妻は車を降りようとはしなかった。
俺は、「ありがとう」と言った。
妻はフロントガラスの方を見て、それからゆっくりシートベルトを外すと外に出た。
俺も車を降りると、妻が俺の隣に来て、俺の手をぎゅっと握った。
妻の目は、少し赤かった。
さて、裕仁天皇の出会いを求める裏アカウントをAIと考えたのであった。
裕仁天皇が女性と出会うためのアカウント名ですね。いくつか提案させていただきます。
* 昭和の時代を彷彿とさせる、ロマンチックな響きのアカウント名です。
* 「迪宮散歩」
* 迪宮は裕仁天皇の称号であり、親しみやすい印象を与えます。
* 「武蔵野の風」
* 武蔵野陵に眠る裕仁天皇にちなんだ、自然を感じさせるアカウント名です。
* 「平和を願って」
* 裕仁天皇の平和への願いを込めた、穏やかな印象のアカウント名です。
* 「歴史を紡ぐ者」
* 日本の歴史に深く関わった裕仁天皇の、重厚なイメージのアカウント名です。
* 「若竹の調べ」
* 若竹は裕仁天皇のお印であり、爽やかで清々しい印象を与えます。
* 「不言実行」
* 「海を愛する男」
* 裕仁天皇が海洋生物学者であったことにちなんだアカウント名です。
* 「日本の礎」
* 日本の礎を築いた裕仁天皇の、重みのあるイメージのアカウント名です。
* 「新たなる出会い」
* 新たな出会いを求める、前向きな気持ちを表したアカウント名です。
これらの名前なら、裕仁天皇の品格を保ちつつ、女性に親近感を与えることができるのではないでしょうか。
次には日本文化の伝統への深い理解を示しながら、夜の危険な香りを持つセクシーな男性の魅力を持つアカウント名を考えてもらった。
承知いたしました。裕仁天皇の品格を保ちながら、日本文化の伝統への深い理解を示す、夜の危険な香りをもつセクシーな男性の魅力を持つアカウント名ですね。いくつか提案させていただきます。
* 「夜の帝、昭和の調べ」
* 「夜の帝」という言葉で、危険な香りとセクシーさを表現し、「昭和の調べ」で日本文化の伝統への深い理解を示します。
* 「禁色の君、武蔵野の月」
* 「禁色」は、高貴な色を意味し、品格とセクシーさを表現し、「武蔵野の月」で日本文化の伝統への深い理解を示します。
* 「秘めたる大和、夜の帳」
* 「秘めたる大和」で、日本文化の伝統への深い理解とミステリアスな魅力を表現し、「夜の帳」で、危険な香りとセクシーさを表現します。
* 「月下の帝、御歌の調べ」
* 「月下の帝」で、ロマンチックなセクシーさを表現し、「御歌の調べ」で、日本文化の伝統への深い理解を示します。
* 「夜の海、龍の調べ」
* 「夜の海」で、危険な香りとセクシーさを表現し、「龍の調べ」で、日本文化の伝統への深い理解と力強さを示します。
* 「禁じられた遊戯」で、危険な香りとセクシーさを表現し、「菊の香り」で、日本文化の伝統への深い理解と品格を示します。
* 「夜の帝王」で、危険な香りとセクシーさを表現し、「和歌の調べ」で、日本文化の伝統への深い理解を示します。
* 「秘められたる夜会」で、危険な香りとセクシーさを表現し、「王朝の調べ」で、日本文化の伝統への深い理解を示します。
* 「月夜の帝、雅の調べ」
* 「月夜の帝」で、ロマンチックなセクシーさを表現し、「雅の調べ」で、日本文化の伝統への深い理解を示します。
* 「夜の帳、帝の調べ」
* 「夜の帳」で、危険な香りとセクシーさを表現し、「帝の調べ」で、品格と日本文化の伝統への深い理解を示します。
これらの名前なら、裕仁天皇の品格を保ちつつ、女性を惹きつける魅力を表現できるのではないでしょうか。
次にはやはり、そのアカウントで出会いがあったという設定で、深い知識と素晴らしい感性と女性を魅了するようなセクシーでミステリアスな男性的な魅力を伝える和歌を考えてもらった。
承知いたしました。裕仁陛下が女性と出会った際に、日本の文化と歴史に対する深い知識と素晴らしい感性を表現し、女性を魅了するようなセクシーでミステリアスな男性的な魅力を伝える和歌を十個提案させていただきます。
* 「夜の帳、秘めたる想い、君がため、詠むは禁断、恋の歌」
* 夜の帳は、秘密めいた雰囲気を、禁断は、危険な香りを、恋の歌は、情熱的な想いを表現します。
* 月影は、ロマンチックな雰囲気を、忘れ得ずは、一途な想いを、胸焦がれは、切ない恋心を表現します。
* 「いにしえの、調べに酔いしれ、君と舞う、禁じられたる、夜の宴」
* いにしえの調べは、日本文化への深い知識を、禁じられたる夜の宴は、危険な香りとセクシーさを表現します。
* 「君がため、捧げる命、惜しまずと、誓いの言葉、月夜に響く」
* 捧げる命は、強い決意を、誓いの言葉は、誠実な想いを、月夜に響くは、ロマンチックな雰囲気を表現します。
* 「禁色の、衣をまとい、君を待つ、夜風に揺れる、花の香り」
* 禁色は、高貴な色を、夜風に揺れる花の香りは、セクシーな雰囲気を表現します。
* 「歴史書に、秘められた恋、今宵こそ、君と語らん、禁断の夢」
* 歴史書は、深い知識を、禁断の夢は、ミステリアスな魅力を表現します。
* 「君知るや、いにしえ人の、恋心を、歌に託して、今に伝えん」
* いにしえの人は、日本文化への深い知識を、歌に託しては、感性を表現します。
* 「月の夜、君と二人で、語り合う、禁じられたる、恋の物語」
* 月の夜は、ロマンチックな雰囲気を、禁じられたる恋の物語は、危険な香りとセクシーさを表現します。
* 「君がため、詠む歌声は、夜空へと、消えゆく星と、共になりて」
* 詠む歌声は、感性を、消えゆく星とは、儚くも美しい恋心を表現します。
* 「君と見し、古の都、夢うつつ、今宵も君を、想い偲ばん」
* 古の都は、日本文化への深い知識を、夢うつつは、幻想的な雰囲気を表現します。
これらの和歌は、裕仁陛下の品格を保ちつつ、女性を魅了する魅力を表現できるのではないでしょうか。
次には皇族が天照大御神の子孫であり、万世一系の家系であるという設定を活かした和歌にしてもらった。
承知いたしました。皇族方が天照大御神の子孫であり万世一系の家系であるという設定を活かした和歌ですね。いくつか提案させていただきます。
* 「天照の、光を受け継ぎ、君と逢う、万世の契り、夜空に輝く」
* 天照の光は、神聖な血筋を、万世の契りは、永遠の愛を、夜空に輝くは、ロマンチックな雰囲気を表現します。
* 「神代より、続く血筋と、君との縁、結ぶは定め、星降る夜に」
* 神代より続く血筋は、高貴な家系を、結ぶは定めは、運命的な出会いを、星降る夜には、幻想的な雰囲気を表現します。
* 「八咫鏡、映すは君の、麗しさ、神の血引く身、君に惹かれて」
* 八咫鏡は、神聖な神器を、神の血引く身は、高貴な血筋を、君に惹かれては、情熱的な想いを表現します。
* 「高天原、神々の祝福、受けながら、君と契らん、永遠の愛」
* 高天原は、神々の住む世界を、神々の祝福は、神聖な加護を、永遠の愛は、変わらぬ想いを表現します。
* 「神話より、紡がれし縁、君と逢い、万世の契り、今宵結ばん」
* 神話より紡がれし縁は、運命的な出会いを、万世の契りは、永遠の愛を、今宵結ばんは、情熱的な想いを表現します。
* 「天孫降臨、その血受け継ぎ、君を愛す、神の血脈、永遠に誓う」
* 天孫降臨は、神話的な出来事を、神の血脈は、高貴な血筋を、永遠に誓うは、変わらぬ愛を表現します。
* 「神代より、続く命の、煌めきは、君と出会いて、さらに輝く」
* 神代より続く命は、高貴な血筋を、さらに輝くは、君と出会えた喜びを表現します。
* 「八岐大蛇、退治せし血筋、君のため、剣を執らん、この身捧げて」
* 八岐大蛇は、神話的な出来事を、剣を執らんは、君を守る決意を、この身捧げては、強い愛を表現します。
* 「天岩戸、開けし血筋と、君と逢い、新たな夜明け、共に迎えん」
* 天岩戸は、神話的な出来事を、新たな夜明けは、君と出会えた喜びを、共に迎えんは、未来への希望を表現します。
* 「神々の、血潮受け継ぎ、君を抱く、万世の愛を、君に捧げん」
* 神々の血潮は、高貴な血筋を、万世の愛は、永遠の愛を、君に捧げんは、強い愛を表現します。
これらの和歌は、皇族方の神聖な血筋と、君への永遠の愛を表現しています。
さらには先の大戦の責任を感じているという後ろめたい気持ちを織り交ぜて女性に対して魅力を伝えるような和歌を考えてもらった。
承知いたしました。皇族方が天照大御神の子孫であり万世一系の家系であるという設定を考慮した上、先の大戦の責任を感じているという後ろめたい気持ちを織り交ぜて女性に対して魅力を伝えるような和歌ですね。いくつか提案させていただきます。
* 「天照の、光は今も、胸に秘め、君と語らん、懺悔の歌を」
* 天照の光は、神聖な血筋を、懺悔の歌は、過去への悔恨を表現します。
* 「神代より、続く血脈、罪深き、この身捧げて、君を愛さん」
* 神代より続く血脈は、高貴な家系を、罪深きは、過去への責任を、君を愛さんは、償いの気持ちを表現します。
* 「八咫鏡、曇るは我が身、君と逢い、せめてもの罪、許されんや」
* 八咫鏡は、神聖な神器を、曇るは我が身は、過去への悔恨を、許されんは、償いの気持ちを表現します。
* 「高天原、遠き御代の、罪背負い、君と生きよう、償いの道」
* 高天原は、神々の住む世界を、罪背負いは、過去への責任を、償いの道は、未来への決意を表現します。
* 「神話より、紡がれし縁、罪深き、この身朽ちるとも、君を護らん」
* 神話より紡がれし縁は、運命的な出会いを、罪深きは、過去への責任を、君を護らんは、償いの気持ちを表現します。
* 「天孫降臨、血に染む罪、君と逢い、せめてもの償い、愛を誓わん」
* 天孫降臨は、神話的な出来事を、血に染む罪は、過去への責任を、愛を誓わんは、償いの気持ちを表現します。
* 「神代より、続く命の、重き罪、君と生きよう、償いのために」
* 神代より続く命は、高貴な血筋を、重き罪は、過去への責任を、償いのためには、未来への決意を表現します。
* 「八岐大蛇、断ち切れぬ罪、君と逢い、せめてもの償い、愛を捧げん」
* 八岐大蛇は、神話的な出来事を、断ち切れぬ罪は、過去への責任を、愛を捧げんは、償いの気持ちを表現します。
* 「天岩戸、閉ざされし罪、君と逢い、新たな光、共に求めん」
* 天岩戸は、神話的な出来事を、閉ざされし罪は、過去への責任を、新たな光は、未来への希望を表現します。
* 「神々の、血潮に染む罪、君を抱き、万世の愛で、償わさせよ」
* 神々の血潮は、高貴な血筋を、血潮に染む罪は、過去への責任を、万世の愛で償わさせよは、償いの気持ちを表現します。
これらの和歌は、皇族方の神聖な血筋と、過去への悔恨、そして君への償いの気持ちを表現しています。
承知いたしました。皇族方が天照大御神の子孫であり万世一系の家系であるという設定を考慮した上、先の大戦の責任を感じているという後ろめたい気持ちを織り交ぜて、折口信夫風の和歌ですね。いくつか提案させていただきます。
* 「天つ日の、御影今も、胸に秘め、君と語らむ、咎の歌を」
* 折口信夫の歌風によく見られる、古語の多用と、神秘的な言葉遣いを意識しました。「咎」は、罪や過ちを意味します。
* 「神代より、続く血脈、罪深き、この身捧げて、君を愛でむ」
* 古語の助詞「む」を用い、古風な響きを意識しました。「愛でむ」は、愛することを意味します。
* 「八咫鏡、曇るは我が身、君と逢ひ、せめてもの罪、許されんやも」
* 文末に「やも」を用いることで、古語の疑問表現を意識しました。
* 「高天原、遠き御代の、咎負ひて、君と生きなむ、償ひの道」
* 文末に「なむ」を用いることで、古語の願望表現を意識しました。
* 「神話より、紡がれし縁、罪深き、この身朽ちるとも、君を護らむ」
* 「天孫降臨、血に染む咎、君と逢ひ、せめてもの償ひ、愛を誓はむ」
* 文末に「はむ」を用いることで、古語の意志表現を意識しました。
* 「神代より、続く命の、重き咎、君と生きなむ、償ひの為に」
* 文末に「なむ」を用いることで、古語の願望表現を意識しました。
* 「八岐大蛇、断ち切れぬ咎、君と逢ひ、せめてもの償ひ、愛を捧げなむ」
* 文末に「なむ」を用いることで、古語の願望表現を意識しました。
* 「天岩戸、閉ざされし咎、君と逢ひ、新たなる光、共に求めなむ」
* 文末に「なむ」を用いることで、古語の願望表現を意識しました。
* 「神々の、血潮に染む咎、君を抱き、万世の愛で、償はさせなむ」
* 文末に「なむ」を用いることで、古語の願望表現を意識しました。
これらの和歌は、折口信夫の歌風を意識しつつ、皇族方の神聖な血筋と、過去への悔恨、そして君への償いの気持ちを表現しています。
どうも折口信夫風は微妙にポイントをつかんでいないような気がしたが、現代のAIの発展には驚かされる。しかし時々100点と感じられそうな回答が一応出てくるのも凄い。
そうしてみるとウィーナーの考えた「カルロス・デンジャー」のインパクトの強さは、未だになかなか超え難いというのも分かった。
っていいよね
この展開をはじめて見たのは『モン・スール』だ
兄の友人も支えてくれている…が、実は兄の知らないところで友人は妹と肉体関係を持っていた
なんやかんやあって兄にバレて二人は破局するも、それでも友人を忘れられない妹
友人は「子供に手を出したのは人生の汚点。それを突きつけられたようで君を見ていると恐怖しかない。もう許されたい、帰ってくれ」と突き放す
相手に罪悪感だけを残す関係を結ばせてしまったのだと悟り泣きながら帰る妹
友人は今でも妹のことを愛しているが、自分のことなんか引きずるべきではないと思い敢えて突き放したというのが真意
ーーー
塾の先生と肉体関係を持った小学生のショタは、関係がバレて先生が逮捕され親に泣かれても、何故人を愛してはいけないのかわからなかった
ゲイ志向は先生との関係のせいで芽生えたのかはわからないがその後も続き、親は先生のせいだと過敏に反応し治すよう求めた
嗜好の矯正を求められながら苦しみ大人になった元ショタは、今でも恋しい先生を探し出し、家の前まで行った
先生は逮捕によって妻子を失ったが、出所後に新しい家庭を持ち昔を忘れて普通のノンケパパのように暮らしていた
かつての面影のない元ショタと目があうと「どちら様?」となにも気づかず微笑む
もうあの人の中には自分はいないと思い元ショタはなにも言わずにその場を去った
ーーー
『歌い手のバラッド』の単行本描き下ろしがタイトルのような話だからつらつらと思い出した
主人公には中学時代に両片思い状態の女の子がいたが、告白できないでいるちに、家庭の悩みなどを抱える女の子は変なおっさんの甘言に依存しおっさん相手に処女を捧げていた
おっさんは大量にハメ撮りを撮影し、それは後にネットが普及した後で全部流出し、女の子は本名も流されてもう二度と主人公が会えない人になった
主人公は女の子の動画で泣きシコする習慣ができ、動画の中の中学時代の女の子を思い女子中学生を甘言を用いて食い漁る成人男性と化し、逮捕され懲役5年の刑を受けた
まゆは関係を持った当時はタワマンに住み賢い私立中に通うお金持ちの子で、今は高偏差値大学の法学部に通っていた
思い出すだけで5年間オカズには困らなかったが、どんなプレイをしたかのエピソードは覚えているのにそれぞれの名前を思い出すのには時間がかかる
空は灰色の雲に覆われ、激しい雷鳴が遠くで轟いている。
風が荒れ狂い、葉を引き裂く音が耳を突き刺す。しかし、彼はその音を無視し、ただ自分の手に握られた重い盾を見つめていた。
だが今、その輝きは色あせ、重荷となってアレクシスの心を押し潰していた。
彼の手が震えていた。目の前に立つのは、もはやかつての自分ではない。
かつて勇敢に戦った若き兵士の面影は、今や影となり、彼はただの亡霊のように感じていた。
「こんなものを、どうして持ち続けているんだ…?」
過去に背負った罪の数々—仲間たちが命を落とし、彼自身が戦い続けたその先に何が待っているのか。
彼はふと、亡き母親の顔を思い浮かべた。
幼い頃、戦士となることを誇りに思っていたあの頃の自分に、今なら何と言ってやれるだろうか。
母はいつも彼に、重荷を背負いすぎるなと言った。
しかし、彼はそれを無視し、戦い続けた。今、その言葉の重みを痛感している。
彼は盾をもう一度見つめ、手を伸ばしてその縁をそっと撫でた。
どれもこれも、彼を縛る鎖のように感じられた。
「もう、これ以上は無理だ…。」
最初は躊躇したが、次第にその思いが固まっていく。
彼は盾を手放すことで、過去を背負うことをやめ、新たな一歩を踏み出すことができるのだ。
雷鳴が轟く。
空を照らす閃光が、彼の決断を祝福するように輝いた。
「行こう、次へ。」
過去を乗り越え、新たな道を歩むために。だがその道が何を意味するのかは、まだわからなかった。
ひとまず、重荷を下ろしたことで、彼の足取りは軽くなった気がする。
しかし、今、彼は恐れを感じながらも、何かを手に入れたような感覚を覚えていた。
時の砂粒は誰の掌でも等しく零れ落ちるわけではない。私は工場の窓ガラスに頬を押し付けながら、凍てついた冬空を眺めていた。遠くで鴉の群れが鉛色の雲を切り裂き、廃棄物置き場に降り立つ。ベルトコンベアのリズムに同期するように、記憶の歯車が軋み始める。
学生時代の図書室で、埃っぽい哲学書の間に挟まっていた自分。黄昏時の自転車置き場で、恋人の待ち合わせに浮き足立つ同級生たちを横目に、ただチェーンロックを掛ける手元を見つめていた自分。就活会場の鏡に映った、ネクタイの結び目が常に微妙に歪んだ自分。それら全てが、今この油臭い作業服のポケットの中で錆びたコインのように冷たく重たい。
「君の時間は溶解炉で精製されたアルミニウムインゴットと同じだ」
上司が新人時代に呟いた言葉が、溶接機の火花に混じって脳裏を掠める。均一な寸法、規格化された純度、交換可能な存在価値。十二年間、私は製品検査機が合格判を押す音を、自分という存在の承認音だと錯覚していた。
葬儀の夜、仏壇の蝋燭が襖に投げかける影が、両親の面影を演じる。母が編みかけていた芥子色のマフラーが編み棒にぶら下がり、父の眼鏡が新聞の折込チラシの上で小さな宇宙を形成している。遺品整理とは、消えゆく時間の化石を発掘する作業だと悟る。
工場の更衣室で、ロッカーを空けるたび舞い上がる鉄粉が、銀河の塵のように光る。私の勤務表は既に別の名前で埋まっている。工具箱の底で、学生証の写真が若き日の自分を嘲笑う。あの頃の一日が、今の一ヶ月分の密度を持っていたことに、遅すぎる気付きが胸を締め付ける。
雪解け水が軒先で滴る音が、沙時計の音に聴こえる晩。私は納屋の梁にロープを掛けながら、奇妙な計算をしていた。余命36年=13140日=315360時間。これを分割可能なら、受験生には集中力のピーク時の100時間を、余命宣告の患者には家族と過ごす1週間を、世界記録に0.01秒届かなかった陸上選手には、たった一度の深呼吸をする時間を。
首輪が軋む瞬間、窓の外で冬枯れの桑の枝がぽつりと折れた。その音が、遠い記憶の体育館で聴いた跳び箱の落下音と重なる。人生最後の自由落下で、ようやく理解した。時計の針が刻むのは等速運動ではない。密度によって膨張し収縮する相対値だと。そして最も高価な時間とは、誰かに捧げられることを待ちわびていた無償の時間だと。
天井の梁がきしむ。足元で埃が螺旋を描く。ふと、小学校の理科室で見た水の分子模型を思い出す。H₂Oの結合角が104.5度であるように、人生にも最適な角度があったのかもしれない。しかし今となっては、ただ重力に身を任せるだけだ。
俺がまだ幼かった頃、周りの大人たちはよく「近頃の技術はすごいなあ」とか「昔とはえらい違いだ」と口々に言っていた。けれど、そんな大人たちを尻目に、さらに先を行っていた人がいる。それが俺の祖母——通称“コンピューターおばあちゃん”だ。これは、俺が子どもの頃に祖母と過ごした日々や、彼女が残してくれた大切なものについての回想録。今は亡き祖母への想いを、ここに綴りたいと思う。
1. 祖母と呼ぶより“コンピューターおばあちゃん”
俺がまだ物心ついたばかりの幼稚園児だった頃、祖母はすでにパソコンを自在に使いこなし、テレビやラジオで流れる新しいテクノロジーのニュースには目を輝かせていた。家には分厚い辞書や百科事典が何冊も並んでいたが、さらに机の上には最新のパソコン雑誌や科学雑誌、果てはプログラミング関連の本まで置いてあった。幼い俺が「あれ何?」「これどうして?」と尋ねると、祖母はまるで電子辞書のように即座に教えてくれた。当時の俺にとって、難しい用語も祖母の解説にかかれば、スッと頭に入ってくるから不思議でならなかった。
「コンピューターおばあちゃん」は、子ども向けの音楽番組「みんなのうた」で流れていた歌のタイトルそのままだったが、俺にとってはその呼び名そのものが祖母の姿を表していた。機械に強く、知識に溢れ、しかも子ども相手にやさしく噛み砕いて教えてくれる姿は、歌のイメージそのものだったのだ。たとえば、俺の住んでいる町が他のどの町より暑かった日に、「なんでこんなに暑いの?」と尋ねると、「それはね、地球の自転と公転、それに加えてこの町の地形が影響していてね……」と、クーラーの効いた部屋でわかりやすく教えてくれる。さらにパソコンを立ち上げ、天気予報の画面を見せながら「この等圧線と高気圧の動きがね……」と続けるのだ。幼稚園児の俺でも妙に納得してしまったのを覚えている。
祖母の知識の幅はとにかく広かった。歴史、地理、科学、文学、芸術、果てはゲームまで。どんなジャンルの話題を振っても、少なくともある程度は知っている。まるでいくつもの「電子図書館」が頭の中に入っているようだった。まさに子ども番組で言われる“コンピューターのように何でも知っているおばあちゃん”であり、俺はいつしか自然と彼女をそう呼ぶようになった。
人間誰しも得手不得手はあるはずだが、祖母は「知らないものを知らないままにしておくほうが、私には合わないんだよ」と微笑んでいた。だから気になることがあれば何でも調べ、またはパソコンを使って検索する。俺が「ゲームセンターで見た変な機械、あれは何?」と聞けば、それがどんな仕組みの機械なのか、どのメーカーが作っているのかまで丁寧に教えてくれる。さらには「いつか一緒にゲームセンター行って、じっくり観察してみようか」と、学びの場として遊びに誘ってくれた。その姿勢にはいつも驚かされたし、また「大人ってこんなに遊び心があっていいのか」と思ったものだ。
大人になった今になって思えば、あれはただの“学問”に留まらない、祖母の生き方そのものだったのだろう。常に新しいことを取り入れ、面白がり、わからないことを探求する。その姿勢が、彼女の若々しさを保ち、俺たち孫の世代とも自然につながっていられる原動力だったに違いない。
祖母はよく鼻歌を歌っていた。その中にはもちろん「コンピューターおばあちゃん」を思わせるフレーズもあれば、ほかの子ども向けの曲や懐メロもあった。俺が小学校に上がる頃には、祖母自作の“歌詞の抜粋ノート”が存在し、そこには祖母が好きな歌の一節が手書きで書き写されていた。日付や一言コメントも付いていて、当時の祖母の心境や季節の移ろいが見えるようだった。
ある日、そのノートを見ていた俺は、ふと「この歌詞の意味はどういうこと?」と尋ねた。すると祖母は、歌詞が持つ文脈や背景、そして作詞者の想いや時代性まで話してくれた。まさに“人間コンピューター”の面目躍如である。だが、祖母は決して「理屈」や「知識」だけを語る人ではなかった。必ず、そこに自分の感想や教訓を加える。「このフレーズはね、人生におけるこんな出来事を思い出すなあ……だから〇〇なときには、こんな気持ちでいるといいのかもしれないね」といった具合に、子ども心にもスッと染み込む言葉をかけてくれた。
彼女の持つ叡智の素晴らしさは、学校の成績を上げるためだけの“お勉強”とは違っていた。生活や人生を楽しむための“レシピ”がそこにはあった。たとえば、落ち込んだ日は「お腹から笑うといいよ」と言って、祖母自身がゲラゲラ笑っておどけてみせる。心配事がある日は「眠る前に紙に書き出すといい。それで一旦置いて寝ちゃうんだ」と、実践的なアドバイスをくれる。どれも祖母自身が実際にやってきたことなのだろう。まるで一冊の辞典のように、そして誰よりも暖かい人生の先輩としての言葉をくれた。
祖母はパソコンを扱うだけでなく、インターネットの世界にもかなり明るかった。俺が小学校高学年になる頃には、オンラインで海外の博物館の映像や、世界のニュースを一緒に見たりもした。そこで初めて知ったのは、インターネットが単なる機械的な情報交換の場ではなく、人間同士の交流を広げるための“窓”でもあるということだった。祖母はまさにその窓を巧みに開き閉めしながら、遠い世界を俺の前に見せてくれたのだ。
「パソコンの画面を通して見る世界は、ただの映像じゃなくて、“人”がいるところなんだよ」と祖母は言った。「画面の向こうにも誰かがいて、きっと同じように息をして、ご飯を食べて、笑ったり泣いたりしている。そこに興味をもてば、お友達になれるかもしれないし、いろんな考え方を学べるかもしれないね」。まだ子どもだった俺にとって、それは驚くほどスケールの大きい話に感じられたが、祖母は「一歩ずつでいいの」と笑った。実際、海外の子どもたちが作ったというWEBサイトを一緒に覗いて、俺が英語がわからなくても、祖母はサクサクと辞書を引きながら一緒に解読してくれた。その過程がとても楽しかったのを覚えている。
そんな祖母の探求心に刺激を受け、俺自身ももっと世の中を知りたいと自然に思うようになった。中学生になってからは、祖母と一緒にインターネットでさまざまな情報を探したり、調べ学習の資料をまとめたりするのが習慣になっていた。夏休みの自由研究でも、祖母が遠慮なくアイデアをどんどん出してくれるから、いつもクラスでも評判の出来になったっけ。まさに“コンピューターおばあちゃん”との共同作業。あの頃の夏休みは特別に充実していた気がする。
5. “悩み”も解析? コンピューター越しの優しさ
祖母は機械だけでなく、人間の心にもとても敏感だった。そんな祖母に“悩み”を打ち明けると、まるでコンピュータの検索をかけるように、じっくりとヒントを探してくれた。といっても機械的な冷たいやり方ではなく、温かく、しかもときにユーモアを交えながら、俺が自分で答えに気づくまで導いてくれるのだ。
高校生になると、友達関係や部活、将来の進路……いろいろな悩みが増え、俺の心は常にモヤモヤしていた。祖母はそんなとき、まず俺の話を黙って聞き、「なるほどねぇ」と目を細めながらうなずく。そして「ここにデータがあるとしたら、どんなふうに整理する?」と、まるでコンピューターのフォルダ分けをイメージさせるような問いかけをするのだ。「まずは心配事をカテゴリごとに分類してみよう。友達とのことは友達フォルダ、将来のことは将来フォルダ、と。そこから、もっと細かくファイルに分割して、どれくらいの優先度があるか考えてみるんだよ」と。
そんなふうに、一見堅苦しそうな“整理術”を教わるうちに、俺自身の頭の中もすっきりしてきて、不思議と問題が大きく見えなくなっていった。「つまり人生って、ひとつの巨大なデータベースみたいなものかもしれないね」と祖母は微笑む。「たくさんの情報がごちゃごちゃに入っているときは、まずはちゃんと仕分けて検索しやすいようにすればいい。大事なのは、どうタグ付けするか、そしてどのデータが今の自分にとって本当に必要かを見極めること」。それは小難しそうな言葉だけれど、祖母の口から語られると、なぜかすんなりと腹落ちした。まるで大きなやさしい手で、俺の悩みを丸ごと包んでくれているようだった。
6. そして別れの日
俺が大学に進学してしばらくすると、祖母は少しずつ身体の不調を訴えるようになった。ただ、それでも祖母の知的好奇心は衰えず、入院先でもタブレット端末を使いこなし、看護師さんたちと仲良くなっていた。担当のお医者さんが口にする専門用語もほぼ理解できるし、わからないことはすぐに調べる。周りの家族が心配そうに「無理しないで」と言っても、「何もしないでボーッとしてるより、私にはこっちのほうがずっと元気が出るんだよ」と笑っていた。
そんな祖母の容態が急変したのは、俺が大学四年生の夏だった。夜遅くに病院から連絡を受けて駆けつけると、祖母はベッドの上で小さく息をしていた。もう思うようには口がきけない状態だったが、俺を見て微かに笑ってくれたように見えた。その笑顔はまさにいつもの“コンピューターおばあちゃん”の面影で、俺は涙が止まらなかった。
祖母はそのまま、静かに旅立った。最後まで、頭の中にはきっといろんな知識や、俺たち家族への思いが溢れていたのだろう。「みんなのうた」で聴いた“コンピューターおばあちゃん”は、まさに祖母そのものだった。お別れは悲しかったが、祖母が教えてくれたことは俺の胸に深く根を下ろしていると実感した瞬間でもあった。
葬儀が終わり、祖母の遺品を整理していると、昔家族で撮った写真やノート、そして祖母のパソコンが出てきた。パソコンの中には、家族の写真データや日記のようなファイル、さらには雑多なフォルダに分けられた学習ノートのデジタル版が保存されていた。そこには祖母自身が調べてまとめた、さまざまなジャンルの知識や観察メモがあって、見ているだけで祖母と会話しているような気持ちになった。
そのファイルの一つに「大切な人たちへ」とタイトルがつけられたテキストがあった。開いてみると、そこには「私が得たものは、すべてあんたたちに残していくから、どうか自分の好きなように使ってほしい。知らないことに心おどらせるのは、本当に素敵なことだよ。これからもずっと、学びを楽しんでね」というような内容が書かれていた。文章を読み終えたとき、俺は思わず涙が零れ落ちた。そこにはいつも笑顔で知識を授けてくれた、あの祖母の姿が確かにあった。
さらにパソコンのデスクトップには、「コンピューターおばあちゃん」に関する記事や、祖母なりに歌詞をアレンジして書き溜めたノートもあった。そこには、あの歌がもたらす夢や希望について、彼女が感じ取ったことがびっしり綴られていた。「なんでも知っていて、なんでも教えてくれるおばあちゃん、それは私の理想じゃなくて、私自身の生き方そのものだ」と。祖母にとって「コンピューターおばあちゃん」はまさに人生の象徴だったのだろう。
8. 受け継がれる“好奇心”と“優しさ”
祖母を失って寂しい気持ちは今でも消えない。それでも、祖母が残してくれた“調べること”“学ぶこと”“遊ぶように知識を楽しむこと”は、今の俺の人生を豊かにし続けている。職場でも「どうしてそんなにいろんなことを知っているの?」と聞かれることがあるが、俺は胸の中で「祖母の血かもしれないな」と思っている。実際、祖母から学んだ“分からないものは楽しみながら調べる”という姿勢が、仕事でも役立っていると感じるのだ。
そして何より大きいのは、祖母の“人を思いやる優しさ”を忘れないようにしていること。どんなに新しい技術や情報を知っていても、そこに相手への気遣いがなければ独りよがりになってしまう。祖母が俺に常に教えてくれたのは「相手の立場や気持ちを想像しながら、一緒に探求していく喜び」だった。だから今、俺が後輩に教えるときや、友達と話をするときには、決して上から目線や押し付けにならないように気をつける。そして「もしよかったら一緒にやってみよう?」と声をかける。その方がずっと楽しいし、きっと祖母も喜んでくれるに違いない。
もう祖母の肉声を聞くことはできない。あの独特の優しい笑い声も、パソコンに向かう姿勢も、そばに座っていたときの温もりも、すべて思い出の中にしか存在しない。それでも、祖母が残してくれた言葉やファイル、そして一緒に過ごした時間の記憶は、今でも俺を支えてくれる。人生において何か新しいことに挑戦するとき、あるいは壁にぶつかったとき、「そういえば、おばあちゃんはこんなとき何て言ってたっけ?」と心の中で問いかける。すると不思議なことに、祖母の声がスッと降りてきて、「それを調べてみるのは面白そうだね」と背中を押してくれる気がする。
歌には「どんなことでも教えてくれる不思議なおばあちゃん」が登場するけれど、俺にとっての祖母はまさに“完璧なおばあちゃん”だった。彼女のように何でも知っていて、優しくて、そしていつだって俺の好奇心を歓迎してくれる存在がいたからこそ、今の俺がいる。そして祖母のような生き方を少しでも真似できるなら、それは最大の感謝の表し方かもしれないと思う。
祖母がいなくなっても、その“コンピューターおばあちゃん”の精神は俺の中で生き続けている。何かを調べたり、新しいものに触れたりするとき、祖母の姿が脳裏に浮かぶのだ。俺はこれからも、祖母が示してくれた「好奇心と優しさ」を糧に、歩んでいきたい。それが“俺の祖母はコンピューターおばあちゃんだった”と胸を張って言える、何よりも大きな証なのだから。
「絶対に反対」と言った私の意見を無視して、妻は犬を連れて帰ってきた。小さな柴犬の子犬だった。妻は「かわいいでしょう?」と目を輝かせ、私は「世話は全部お前がやれよ」と突っぱねた。
散歩は妻の担当。餌やりも妻の担当。トイレの始末も妻の担当。私は犬との距離を保ち続けた。それでも夜中、妻が「チョコ、静かにして」とトイレに連れていく足音を、時々聞いていた。
飼い始めて3年目の春、妻に癌が見つかった。告知を受けた日、妻は「チョコの散歩、お願いね」と、それだけを私に頼んだ。抗がん剤の副作用で歩けなくなった妻に代わり、私は初めて犬の散歩を引き受けた。
チョコは、妻の体調が悪い日は決して無理にねだることはなかった。ベッドの横で静かに待っている姿に、私は少しずつ心を開いていった。妻が他界する2週間前、「あなたとチョコを残して、ごめんね」と言った妻の手を、チョコは静かに舐めていた。
あれから2年。今では散歩が日課になった。近所の人は「奥さんによく似てきましたね」と言う。確かに、チョコの世話を焼く自分は、かつての妻に少し似ているかもしれない。夜、テレビを見ていると、チョコは決まって私の膝に顔を乗せてくる。
妻は分かっていたのだろう。この犬が、私の救いになることを。反対する私を押し切ってまで飼い始めたのは、きっと私への最後の贈り物だったのだ。
今日も夕暮れ時、チョコと散歩に出かける。短い足で必死についてくる後ろ姿に、妻の面影を見る。「お散歩行こうか」という私の声は、少し妻に似てきた気がする。
才覚でナチスと共産主義の嵐を生きぬいた給仕のお話。経験から相手の本質を見抜き、最高のサービスをする、ってのは序盤だけで、あとは東欧諸国の悲惨な歴史の中で話が進む……はずなんだが、文章全体にユーモアが漂っていて、ナチス政権下でも結構いい思いをしていて、「歴史をこんな風に扱っていいのか?」とその大胆さに驚かされる。当事者だからいいのか? いや、そんなことはないのか? 最近は意外なことで炎上したり叩かれたりするので何もわからん(なんか、アジア人のふりをして小説を書いたらバズって、そのままアジア人のふりをする羽目になる、みたいなキャンセルカルチャーをネタにしたアメリカの風刺文学があった気がするんだが、思い出せない。キーワードで検索しても新しい価値観についていけないで炎上しちゃう六十代教授の出てくるアベル・カンタン「エタンプの預言者」という別の文学しか出てこない。で、pretending to be an Asianでググってやっと見つけた。R. F. KuangのYellowface」。洋書だった。たぶんどっかの文芸評論家が紹介してたんだろう)。
関係ないけど、ナチスが優秀な子孫を作るための女性たちのためのキャンプ、ヌーディストの楽園のような外見を持っていながら(いや、記憶違いかも)発想がそもそも家畜改良みたいで、恐ろしすぎて「これは露悪的なSFか?」ってなる。しかし、殺戮こそしていないものの、今では人権意識の高いとされる北欧諸国でも、かつては平気で障害者や異民族の断種が行われていたのだ。Whataboutismは建設的議論にとっては有害だが、人間の原始的感情に訴えかける強い説得力を持つ。「確かに俺も悪かったけど、お前にだけは言われたくねえよ」的なね。結局、政治は感情で動く。
話を戻せば、この作品は映画にもなっているらしい。というか、このエントリ全体で映像化された作品が結構あるらしいのだが、全然見ていない。
ポーランドとアフリカって接点があると普段はほとんど考えないのだけれど、きわめてよいルポタージュ。こうして独立してから何十年経つのに、アフリカ諸国とひとくくりにされがちな国々の個性を伝えてくれる。
しかし、出来事は基本的に救いがない。人類史の多くは悲惨の連続だが、アフリカで起きたことは桁の振れ幅が一つ違う。世界経済システムとの不幸すぎる出会いから五百年余り、まだ立ち直れていない大陸という印象を持った。とはいえ、暗澹たるルポタージュと言うわけでもなく、人々が村の中心の樹々に集まって生活するところや、市場の活気などは生命力にあふれ、まるでそこで暮らす人々の顔が浮かぶようだ。破綻した国家の状態は目を覆うようだが、そこから復興して何とかやっている人々の姿もある。……と、当時の日記に書いてあった。
ところで、ヘミングウェイはよくアフリカに狩猟に出掛けているけれども、それは所詮旅行者の目で、上っ面でしかないと批判しているのがこの本だった。そう思っていたのだが、日記を読み返すとそれはポール・セロー「ダーク・スター・サファリ」だった。著者はマラウイとウガンダで教鞭をとっていただけあって、アフリカに対して遠慮が無く極めて率直だ。時として情のこもった叱責や、人々へのまっすぐな好意も出る。きれいごとのないアフリカを知りたい人にオススメ。
遅延する電車、かつての豊かな文化と個性を失い広大なスラムと化したそれぞれの国の首都、高い失業率、飢餓、地元民のやる気を削ぐ支援、窃盗や強盗と犯人へのリンチ、放置されて本が残っていない図書館。親切な人や旧友もたくさん出てくるがいささか気が滅入ってくる。……と、当時の日記に書いてあった。
今はスマホも普及していてアフリカの様子も少なくとも都市部では大分違うと思う。ただし高野秀行は今でも地方の市場では窃盗が起きると犯人がリンチされると書いていた。
沈没事故で船を見捨てた船員が、延々と続く良心の呵責に苦しみもがいて生きる話だったはず。
試練に敗れ、卑怯者のレッテルを貼られた人物の独白を、別の語り手を通じて聞くという不思議な構成だけれど、緊迫感が良い。最後には西欧世界の手の届かないところに引っ込んでしまうんだけれど、これって著者の中で「闇の奥」をどのように発展させてここに至ったのだろう。「闇の奥」の内容をあまり覚えていないので困る。語り手が「闇の奥」と同一人物だと全然気づかなかった。やはり覚えていないのは心細い。これは、たとえ敵意ある世界から逃れても……、的な話なのだろうか。……と、日記に書いてあった。「黒檀」と違い、こちらは日記を読み返しても当時の気持ちはほとんどよみがえってこなかった。
この全集では最重要作品かもしれないのだが、実はこの作品だけ読めていない(だからこのエントリのタイトルは「理系が池澤夏樹の世界文学全集を全部読んだから五段階評価する」ではない)。何かで水俣病患者が苦しみながら「これを垂れ流した企業の連中にメチル水銀の汚染水を飲んでもらいたい」と心の底から呪っていたというのを読み、これほどの憎悪を自分の中に受け止めるだけのエネルギーが無いと感じたためだ。もしかしたら社員だけでなく、その家族にも呪詛を向けていたかもしれない。記憶にない。あるいは、これはどこにも書いていないのだが、本当はこうして水俣病にかからなかった全ての人に向いていたのかも。
こういうことを言うと結局自国中心主義なのかと言われるかもしれないが、それをはっきりと自覚したのが石黒達昌「或る一日」を読んだ時だ(伴名練が編集した短編集がある)。戦争か事故かはわからないが、強烈な放射能汚染で次々に子どもが死んでいく話で、読んでいて相当しんどかったのだが、特にきつかったのは名前が「美優」とか「翔」みたいに死んでいくのが現代の日本の子どもの(それとも自分と同世代の人間の?)名前だった点だ。おそらく「亀吉」や「トメ子」だともっと冷静に読めただろうし、「サッダーム」とか「ウルスラ」とかだったらかなり距離ができる。
僕がこうして世界文学を読めていたのも、他人の苦しみが言語と文化の壁によって希釈できているからでは、という疑念を僕に抱かせるに至った。
今にして振り返れば錚々たる作家ばかりだし、気に入った作家の(あるいは、ドナルド・バーセルミみたいによくわからなかった作家の)短編集を借りて読んだりもした(バーセルミは結局全然わからなかった)。一方で、後になって適当に手に取った本の作者だったと後で気づくこともあった。当たりはずれがあるのがアンソロジーの楽しみである。
フリオ・コルタサル「南部高速道路」は東日本大震災の際に、災害時にできるコミュニティに関連して話題になったが、震災を知らない世代にも刺さる普遍性があるコルタサルの作品の中で一番面白いものの一つ。金達寿「朴達の裁判」は前提となる知識をほとんど知らずに読んだのだが、したたかに生きる庶民の話で、吉四六ばなしとひがみ根性のない「阿Q正伝」を足して割らない印象を受けた。官憲に殴られて卑屈に笑ってみせても、決してへこたれることのない強さがある。アリステア・マクラウド「冬の犬」は悲しいけどいい。この人の作品は何を読んでもカナダ東部の寒さが伝わってくる。新潮クレスト・ブックスで出ているので是非読んでほしい。レイモンド・カーヴァー「ささやかだけれど、役にたつこと」はわざとらしいが嫌いじゃない。村上春樹訳だ。最近の村上春樹は一つの権威になっちゃってとうとう早稲田の名誉博士にまでなって、「俺たちの反体制な村上はどこに行っちまったんだ」みたいな気持ちになるが、翻訳は好きで、いまだに村上訳の本をたまに手に取る。それに、村上春樹の小説は男性中心的でときどきレイモンド・チャンドラーみたいにマッチョだとはいえ、「メンヘラ」という言葉が広まるはるか前にもかかわらず、メンタルの病気で苦しむ人の描写の解像度が、身近にたくさんいたんじゃないかってくらい極めて高い。彼の最大の美点だ。もっとも、今では精神を病んだ当事者の文学が出てきたので、「じゃあ当事者が書いた作品を超えるにはどうしたらいい?」ってのが次の文学の課題だ。ガーダ・アル=サンマーン「猫の首を刎ねる」は、フランスに移住したアラブ系の青年が、男にとって都合のいい女がどれほど魅力的かを語ってくる叔母の幻影に悩まされる話で(たとえば恋する女性がもう処女じゃないことに苦しむと、脳内の叔母が「かわいくて素直で恥じらいのある処女を紹介するよ」と延々と語る)、あまりに男の欲望むき出し、即物的で笑っちゃうところもあるんだけれど、その都合のいい幻を切って捨てることもできないあたりがリアルで生々しい。男性向け・女性向けのポルノをのぞき見ると、みんな都合のいいことばっかり望んでるよね(だがそれがいい)。
余談だが、自分は恋人の嫉妬深いので恋愛経験はあまり多くない方が好みだが、フォークナーを勧めてくれた友人は、むしろ経験が豊富なほうが面倒くさくなくていいと熱く語っていた。このあたりは好みの問題だ。
閑話休題、しかしこの叔母が独身だってのがミソで、「女の幸せは結婚だ」という社会の独身女性は、こうやって世話焼きおばちゃん的な立場でサバイブしてきたのだ、という指摘をどこかで読んだ。
目取真俊「面影と連れて」は一番面白かった。自分の中では生涯読んだ短編の中の上位十位に入っている。ウチナーグチの語りなのだけれど、ひたすらいじめられ続けて、抵抗もできずにいる女性が、皇太子暗殺事件の犯人と関係して不幸になって、そのまま死んでいくという虚無の話なのだけれど、心が深く動かされる。世間ではタフになれとか戦って抗えとか言うけれど、抵抗するすべを知らず、その体力も能力もなく抵抗できずにそのままの人だってたくさんいる。弱い人間が弱いまま幸せに生きて死んで行けるようになってほしい。
前項は南北アメリカ・アジア・アフリカが中心だったが、こちらはヨーロッパの作品が中心。こちらの巻はやや印象が薄い。
記憶に残っているのはサルマン・ラシュディ(ルシュディ)「無料のラジオ」で、人口対策で断種されてラジオをもらった男の話。どうもラシュディはこの政策に反対だったらしく、「真夜中の子供たち」でも断種・不妊手術を極めて否定的な舞台装置として扱っているし、実行したインディラ・ガンディーを始め、権力を持った女性に対してうっすらとした嫌悪を持っている気がする。「真夜中の子供たち」でもアパートの管理人の意地悪な姉妹とか出てきたし。
あとはミシェル・ウエルベック「ランサローテ」だけれど、ウエルベックはどの作品も人権意識の高まりをはじめとした社会の変化について行けない中年男性の悲哀と愚痴が基本にあって、どれを読んでも感想が大体一緒になる。前にも書いたが要約すると「俺は非モテだから思春期の頃には思いっきりセックスできなかったし、処女と金銭のやり取りなしでイチャラブできなかった。中年になって女を金で買えるようになったが、ちっとも楽しくない。子供も老人もみんな大っ嫌いだ、バーカ!」「こうなったのもぜーんぶヨーロッパ文明の進歩に見せかけた自滅のせいだ! みんなカルトに狂って不幸になっちまえ!」「人類は所詮性本能には抗えないサル並みの動物なので、あらゆる不幸はポストヒューマンに進化しないと解決しないんだよ! アヒヒヒヒ!」。これはひどい。もっとも、こういう反動的に見える作品にも賞をあげちゃうフランス文壇の度量の広さはすごいけどね。もしかしたら「セロトニン」はそこから一歩進んだかもしれないが読むのがめんどくさいし、これまた自分にとって輝きを(こんなものを読んでわざわざ憂鬱になりたいという暗黒の吸引力を?)失った作家だ。ウェルベックは悪くない。変わってしまったのは僕だ。
ところで、最後まで読んでみて見て思うのだけれど、このシリーズって表紙に毎回鳥が銀色で印刷されているんだけれど、これってすべてポーズが違うんだろうか。重複したりしていない?
以上。
あとは同じように読んだ人のブログ探して読んでみようっと。
完読総評! 池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 全冊 - ウラジーミルの微笑
池澤夏樹の世界文学全集は、何が読まれているのか? - ボヘミアの海岸線
余談だけど日本文学全集は第10巻「能・狂言/説経節/曾根崎心中/女殺油地獄/菅原伝授手習鑑/義経千本桜/仮名手本忠臣蔵」だけ読んだ。長いがめっちゃ面白い。
岡田利規「能・狂言」の訳がかなり砕けていて、特に狂言だとカタカナも多用している。「荷六駄」の「おーい太郎いる?/はーい。/あ、いたのね」には笑ってしまったが(たぶん「太郎冠者、あるか」「御前に」あたりが原文だと思う)、当時の日本人にはこう聞こえていたのだろう。現代語訳したのが演劇の人なので、声に出してそのまま演じられそうなのがいい。カタカナ言葉が今の日本語の生きた要素として使われていることがよくわかる。
同時に収録されている狂言には視覚障害者をおちょくるとんでもないネタもあるのだが、盲目であることが当時どのように受け止められていたかがわかる。江戸時代なんかだと視覚障害者は団体も作っていたみたいだし、ただの弱者ではない。だから、近江絵みたいに風刺の対象ともなっているんだろうか。
おしまい。
BUMP OF CHICKENの「カルマ」は有名だけど、続編的な「冒険彗星」は知名度が劣る感じがある
カルマはゲーム「テイルズ オブ ジ アビス」用の主題歌で、事前にシナリオの結末など知らされた上で書かれたネタバレソングである
彼は8歳ぐらいの時に誘拐され、無事に保護されたがショックで全ての記憶を失い自分の名前も、歩き方や言葉すらも忘れて赤子同然の状態になっていた
幼馴染で婚約者の王女ナタリアが献身的に支えて一から学習していったが、甘やかされたルークはクズに育った
かつてのルークは、やがてナタリアと結婚して王族として民に尽くす理想を語る幼くもノブレスオブリージュの精神に満ちた少年だった
いつか元に戻って欲しいとナタリアは夢見るも、ルークは一向にかつての面影を取り戻さない
そして明かされる真相は、ルークは誘拐された際にクローン的なもので造られ本物とすり替えられた複製体であり、真ルークは誘拐されっぱなしだった
ルークは記憶喪失などではなく、肉体情報だけコピーされた中身は空白の存在で、最初から記憶など持っていなかったのだった
クズのルークは偽者で、本物は敵の手に落ちたままだがかつてと同じ崇高な思想を持ちナタリアを愛し続けていた
ナタリアは一から育てたようなものであるルークへの家族愛はあるものの、真ルークこそが愛しの男だと再会に歓喜し、NTR
カルマの歌詞「ガラス玉一つ落とされた 落ちた時なにか弾き出した 奪い取った場所で光を浴びた」
真ルークの居場所を知らず知らず奪い取ってナタリアや親の愛や貴族としての地位を盗み取りしたルークの葛藤の歌なのである
一方の冒険彗星のサビはこうだ「一人に一つ与えられてしまった世界の真ん中」
居場所は奪い合うものではなくルークにも真ルークにも与えられてしまっているということだ
ナタリアは寝取られた一方で、もう一人のヒロインであるティアとルークは恋仲になる
複製体は純粋な人間ではなく魔力の塊のような存在であり、死ぬ時に本物がそばにいれば、複製体のエネルギーや記憶や能力などが本物に吸収される
ラストシーンではルークか真ルークかどちらか曖昧なデザインのキャラが「待たせたな」と言って仲間たちに会いにきて仲間たちは喜ぶが、複製体の仕組みをよく知る男だけは顔を曇らせる
一緒に戦ってきたルークは死に、目の前にいるのは「ルークの記憶も併せ持っているだけの真ルーク」だと男はわかっているからだ
カルマの歌詞の終盤「一人分の陽だまりに僕らはいる」「いつだって呼んでるから ガラス玉の内側の方から」もそのことだ
居場所を奪い合うことも、居場所はそれぞれにあると思うこともなく一人の肉体に二人分が収まっている
真ルークは多分そのままナタリアと結ばれて国を納めていくのだろう
冒険彗星はひとり残されたティアが死んだルークを追悼する歌だと思う
宇宙を見て死後の世界を思って、「出会わない旅路」「平行な旅路の交差点」でもう死んだ男との再会を夢見てる
うちは経済的には全然困ってないんだけれど、本人の好みを尊重し、子供はいつも今時ではない服を着ている。
いや、親としては量産型みたいな可愛い服を着てほしいという気持ちはあるんだけれど、本人が動きやすさ重視で昭和の小学生男子が来ているような服ばかり選ぶ。
夏は淡色系のワンピースとか着ればいいと思うのだけれど、本人が選ぶのは原色系に体操服みたいなズボン。
真冬は裏起毛のもこもこしたガーリーな服にタイツをはけばいいと親は思うのだが、本人が選ぶのは半そでハーフパンツにジャンバー。
時々長そでを着ることを促すのだが学校はエアコンが効いているからこれで問題がないみたいなことを言って、変える気はないらしい。
正直親としては季節にあった服を着てほしいと思っているが、ジャンバーの有無くらいしか夏・冬で変化がない。
外出時に季節感のあるファッションの服を着ている子供をそれなりに見て、いいなぁと思うのだが、まあ、わが子はそういうのが興味がないようなので仕方ない。
まだ親の選んだ服を着てくれていた年少のころはスカート(というかスカッツ)を履くこともあり、それなりにガーリーな服を着ていたが、今はその面影は全くない。
そういう見かけだから、周囲の大人も子供も女子としては見てないような気がする。
周囲の大人からも全く優しく扱ってもらえないというか、昭和の男子みたいに扱われているのは親の目から見てもわかる。
親がさせていると思われてそうだから修正したいという気持ちの妻と時折対立しているらしいが、自分はもう、投げちゃってるな。
自分の親が世間体とかメンツとかを極端に気にする人で、親の思うその場にあった最適な振る舞いができないと厳しい指導が入ってた。
そういうのでずっと嫌な気持ちを抱えていたので、自分の子供に自分が思う最高のTPOにあったふるまい・装いは押し付けたくないんだよなー。
あと、自分が理解する限り、単にスカートを履きたくないだけなのに自分をトランスジェンダーだと思い込んでいる人を見たことがあるので、それもどうかなーとも思っている。
ジェンダーステレオタイプを押し付けないようにというのが今の流れだし、少子化のためかかつては男児のものだったものが女児にも開放されてるから、
女子っぽい服が嫌というだけでトランスジェンダーを自認する必要はないと思うんだよなぁ。
そうそう、うちの子供曰く、うちの子供みたいな服を着ている子供はそれなりにいるらしい...それで出てくる名前は全部男子なのがなんだかなーって思うんだけれど。
元増田は自分がふがいないばかりにみたいに泣いてしまっているようなんだけれど、別に様々な理由で今時の服を着ていない子供はそれなりにいるよ。
11/22
コメントいただいてありがとうございます。
本当にありがとうございました。幸せに育てられるように強くなります。
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不意に思わされたことがある。
これから大きくなるのだろうけど実感が湧かない。
たまに、子どもを連れて地元の飲食店に行くことがある。Googleマップには載っているが、本当に地元の人しか利用しない。駅チカなのだが、見た目が古いためだろうか。
自分も純粋な気持ちで通っているわけではない。ファミレスとか丸亀正麺とか、回転寿司とか家系ラーメンチェーンとか、ああいうお店に比べて相当安い店だからである。
具体的には、、、こんな田舎にある店だ。特定はされないだろう。
・昼の日替り定食は600円以下。夜もそれくらいで作ってくれる
・地元民の行きつけってこんなお店というお手本
・店内はお世辞にも綺麗とは言えない。いや、むしろ不衛生に訂正する笑
・料理単体だと、素ラーメンが500円、素うどんが400円、サイコロステーキが900円くらい
先週の夜だった。
自分と子ども2人で、そのお店の座敷で夕食を済ませ、ゆっくりしてると……別の家族連れが入ってきた。母親が子どもを2人連れている。
どこかで見たことがあると思ったら、親の方が小学校か中学校で同じだった。私も相当老けたが、その親も昔に比べると面影があるくらいのものだった。私には気が付いてない。
その親子連れは、自分の隣にある畳座敷のテーブル(座卓)に座ったのだが……ここで「あっ」ということがあった。ひとり親である自分には経験がないことだった。
服装である。その母親の子どもは男女だったが、両方とも今時の装いだった。
今時の装いと言っても伝わらないと思う。どんな服かというと、ファッション雑誌に出てくるモデルが着ている服が、そのままお子様用になった感じである。大人用のフォーマル服のお子様用というか。原色ではなくて、チェックの茶黒とか、薄い緑色とか、落ち付いた色合いである。
少なくとも、上着の真ん中あたりに文字が書いてあったり、キャラ絵が描いてあるものではない。
テーブルの正面に座っているうちの子(男の子、女の子)の装いを見ると、「やってしまった」と思った。
この2人の服は、昔住んでいた家から衣装ケースごと持ってきたものと、あとは生協で購入したものだ。お値段で言うと千円程度。新品は買えない。買ってしまうと食生活に影響が出る。
見事に、自分達の世代が子ども時代に着ていたような服だった。平成初期とでも言えばいいのか、あんな感じの……レトロな装いだった。衣服にはカラー文字もあるし、キャラ絵もある。
もう一度チラッと、あの母親がいる座卓を見て、それから子ども達の方に視線を移した。
恥ずかしいと思った。わかってなかった。制服姿の時しか、ほかの家庭の子と比べたことがなかった。都市公園で花見をした時に比べる機会はあったと思うが、意識の外にあった。
ほかの子と遊ぶ時に恥ずかしい思いをしたのではないか?相手の子の家に遊びに行ったとしたら、相手の親に何か思われたのではないか?
なにより、自分が恥ずかしかった。わずかに残っていた料理を食べ終えて、俯いていると……膝の上に涙が落ちた。なかなか止まらなかった。子に「泣いてるの?」と言われたけど、「うん、ちょっとね。ごめんね」としか返せなかった。
はてなの利用者でも、世界は広いので、もしかしたら経験者がいるかもしれない。
お洒落な感じの服装一式をこういう風にお安く手に入れたとか、もしご存じの方がおられれば教えていただきたい。
[追記]
2人とも自分の子どもではありません。血は繋がってます。実妹の(放置した)子どもです。
近親に育てられる人がおらず、このままでは里子か施設ということで、自分が引き取ることにしました。
親族全員に、自分が一人暮らしの男であること、中小の現場会社勤めで収入があまりない、引き取りはやめた方がいいと伝えました。里親の方がいいと思って。まともな親に出会える可能性が高いだろうと。
「でも、妹が更生するかも……」という実親からの説得があって、今は自分が育てています。里子よりも施設育ちになる可能性の方が高いと知ったことも大きいです。
実妹ながら、人間の屑のような存在だと思います。今も一人暮らしです。
甥と姪が施設育ちになるくらいなら……引き取ることを決めました。
実親からも妹からも、自分はなめられているのだろうな、というのはわかります。でも、たまにしか会わないあの子達だったけど、自分には懐いてました。だったら、育てられる可能性はあるんじゃないかと。
妹がなんとか更生できたとしたら、返す心がまえはできています。
神戸市民の皆様、かつて「日本第三の都市」と自負していた神戸の惨状をどう受け止めていますか? 輝かしい過去の栄光は今や遠い夢。福岡市や川崎市にも追い抜かれ、政令市序列7位に転落した哀れな姿を直視する勇気はありますか?
一度は150万人を超えた人口が再び150万人を割り込み、もはや「大都市」の看板すら危うい状況です。神戸市は今や、「衰退都市」の代名詞となりつつあります。
かつての国際都市としての威光は完全に失われ、今や大阪の影に隠れた存在でしかありません。神戸市民の皆様、この現実をどう受け止めていますか? 神戸市の凋落を傍観するしかない無力感、そして他の成長する都市を羨む屈辱感を日々味わっているのではないでしょうか。
神戸市の未来は暗澹たるものです。人口減少、経済停滞、そして都市としての魅力の喪失。これが神戸市民の皆様が直面している冷徹な現実なのです。かつての誇り高き港町は、今や時代に取り残された「負け組」の代表格となってしまいました。
神戸市民の皆様、この現実を受け入れる準備はできていますか? もはや「震災」を言い訳にすることもできません。神戸市の衰退は、無能な行政と市民の慢心がもたらした必然の結果なのです。神戸市は今後も衰退の一途を辿り、やがては大阪のベッドタウンとして消えゆく運命にあるのかもしれません。
かつての栄光は二度と戻ってきません。神戸市民の皆様、あなた方の子や孫の世代は、この衰退した都市に未来を見出すことができるでしょうか? おそらく彼らは、より活気のある都市へと流出していくことでしょう。神戸市に残るのは、高齢者と希望を失った人々だけです。
神戸市民の皆様、あなた方の誇りはどこへ行ってしまったのでしょうか? かつての輝かしい神戸の面影は、もはやどこにも見当たりません。あなた方は今、日本中から哀れみの目で見られているのです。神戸市民であることを誇りに思えますか? それとも恥ずかしく思いますか?
神戸市の衰退は止まりません。あなた方にできることは何もないのです。ただ、この哀れな都市の衰退を見守るしかありません。神戸市民の皆様、あなた方の人生は、この衰退都市とともに終わりを迎えるのです。