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はてなキーワード: 文芸誌とは

2024-10-08

anond:20241008010518

職業にしようとしたら言い張るだけでなく文芸誌投稿するとか、賞に応募するとかしないといけないんじゃないの?

2024-05-07

氷菓」がつまらなすぎた

今まで実は読みもせずに「氷菓」雑語りしてきたけど、著者が直木賞も取ったことだし、ということで読んでみた。

20年以上前デビューであるということを考慮に置いても、つまらな過ぎてびっくりした。

それこそ、どこかの高校文芸誌に載る内輪受けの連載みたいな話。

どこにでもありそうな学生運動顛末記というスケールの小さいネタに、「なんか感情的になったのを覚えてる」だけのきっかけで強引に運ぶ推理の緩さ。

よくこれをアニメ化したな、よくこれが話題作になったな、よくこれが書き続けて直木賞まで漕ぎ着けたな。

作家キャリアと言うのは何がどう転ぶかわからないものだなと改めて思った。

2024-04-23

はてな民って賢ぶってバカだよなってほんと痛感するのが

こういう、ちょっと文芸的なレトリックを少しでも入れた記事を書いたときの反応なんだよな。

このタイトルを見て、本文を眺めて、ラストの〆までをサラッと目でなぞれば、「ああ、このタイトルの「有害な」は制限用法か非制限用法かと謎かけをして、最後に答え合わせをしてるんだな」くらい一瞬で理解して欲しいんだけど、その程度のよくある遊びも気づけない、気づけないほど文章を全体的に把握する訓練ができてないのがここで読書ぶってインテリぶってるアホどもなんだよな。

そういうの相手に、ついつい自然にこういう文章を書いちゃうから失望けがたまる

進学校高校一年生くらいの方がお前らの何百倍も理解力は高い。

はてなより高校文芸誌に書きたい。

プロでもない大人のための進学校文芸レベルコミュニティってどっかにないのかね。

2024-03-14

anond:20240312212203

そもそもなぜ雑誌で連載してそれを単行本にするというスタイルを守り続けるのかわからんのだよな。

pixvやツイッターで描き貯めた漫画+描きおろし商業単行本出すパターンも増えてるし、

そもそも小説って文芸誌もあれど、基本的に全編連載通さない書きおろしも大半でしょ。

なんでマンガはそうしないのかなと。

関係ないが一番謎なのは普通に有料で出版してるくせにskimaとかチェックすると全編無料で読めちゃったりしてるのとかあれなんなのって思う。

bookliveとかで売ってるのはあくまお布施したい人は買ってねってことなのか…

にしても最初有料だと思ってて買ってあとで無料で作者公認(海賊版サイトじゃないってことね)で公開してるとこ見つけたらなんか詐欺られた気分になるよな

2024-03-02

anond:20240302000059

これって能力問題というよりコミュニティを作らない問題なんだけどな

「良さ」の基準を共有する必要があるわけで

高学歴学生時代文芸サークルでこれを共有して訓練してるからその「良さ」の枠内で戦って勝てるわけがない

そこに入れって言ってるわけじゃなくて

別の「良さ」があると思うならそう思う連中でつるんで研鑽したり文芸誌つくったり評価する側に回ったり

それを楽しめなきゃそりゃあ評価されませんよ

文学ってのは一人でやるものじゃないんだから

2024-02-26

anond:20240224204916

言いたいことは分かるんだけど

ラノベ調で軽薄な内容だけど文章が上手いとか

逆に、いかにも重厚という雰囲気で、なんなら一般文芸誌に乗ってるのだけど、文章が下手とかあって、難しいんだよな。

 

面白い面白くないかのほうが、まだ判断つきやすい。それは売上と直結しているから。

そうなんだよ。「文章力がある」と面白いは直結してないんだよ。

からいろんなものがアテにならない。なんなら自分感性すらも。

  

強いて言えば、無料web小説卒業して、物理本を買ったら望みのもの出会いやすとはいえるなあ。

編集者の手が入ることで、物理版はだいぶマシになってるとか、結構あるぜ

2023-11-21

忘れられない本。

私には忘れられない本がある。

佐藤ラギ著 「人形ギニョル)」 という本。

この本に出会ったのは、中学生の頃だった。

親友と共に図書館へ行き、気になる本を数冊抱えながら館内をうろついていた私のもとに、親友が「これ、好きだと思う」と一冊の本を抱えた本の上に置いた。

その本が「人形ギニョル)」だった。

当時私はホラーサスペンスミステリーといった本が好きでよく読んでいたし、球体関節人形を数体所持していたこともあり、表紙のビスクドール写真に心を奪われた。

帰宅し真っ先に読み、序盤はなんとも思わず読んでいたものの、読み進めていくうちに止まらなくなり、最後最後で体中の力が抜けるような、でも気持ちは高揚している。そんな感じだったのを今でも覚えている。

それ以来ずっと「人形ギニョル)」が忘れられなくて、でも当時まだ中学生だった私はお小遣いなどももらっておらず、自由自分で使えるお金を持っていなかったから、すでにもう手に入らないこの本を何度も図書館で借り、何度も読んだ。

高校生になりアルバイトを始め、ある程度自分お金を手に出来た時、まだ普及していなかったネット通販で、本当に届くのかな…?詐欺じゃないよね…?なんて考えながらびくびくしながら購入したのを覚えている。もちろんちゃんと届いた。

あれから十数年経った今も忘れられず、時々思い出したかのようにネットで「人形ギニョル)」のことや、著者の佐藤ラギについて検索する。

読んだ当初は閲覧できた2ちゃんねるスレッドも今はもう見ることはできないし、mixiコミュニティ更新も止まっていた。

その後は集英社文芸誌小説すばる」に『スワンの涙』を連載したという情報があるのみで、執筆活動は途絶えてしまったということや、ネコ・ヤマモト名義でも執筆をしていたこととか、もうほぼ知っているし、なんにも新情報なんてないのに、ふと思い出したとき検索し、「また何も成果はなかった」と安堵する。

2023-04-01

ワイ:女性向け文芸誌の人気作家です。”イキイキママのイク休大作戦”というタイトルで400文字程度のショートストーリーを書いてください。

ChatGPT4.0

タイトルイキイキママのイク休大作戦

友子は、母親であり、友達でもある3人組の中心人物彼女たちは子育て家事に奮闘する日々を送っていた。ある日、友子がイキイキママのイク休大作戦提案子どもたちを夫や祖父母に預け、女性たちだけで久々の休日を過ごすことに。

プラン完璧で、リフレッシュするためのアイデアが満載。最初温泉旅行、そこで他のママたちと出会い情報交換。続いて、おしゃれなカフェスイーツ三昧。新しい友達との出会いに、心も軽くなる。

次に、久しぶりのショッピング子どものためではなく、自分たちのために洋服を選ぶことで、若いころの自分を取り戻す。最後に、美容室イメチェン美容師さんからアドバイスを受け、自分に似合う髪型トライ

帰り道、友子たちは笑顔が溢れる。イキイキママのイク休大作戦成功だ。彼女たちの心はリフレッシュされ、自分を大切にすることの大切さを再確認。これからも、自分を忘れずにイキイキと輝くママでいられるよう、お互いに励まし合うことを誓った。それぞれの家庭に戻っても、イキイキママたちの絆は強く、支え合いながら、子育て家事に励むことができるのだ。

ワイ:男性向け文芸誌作家として書いてみてください。タイトルは先ほどのものと同じです。

ChatGPT4.0

タイトルイキイキママのイク休大作戦

勇太は、仕事も家庭も大切にする現代サラリーマン毎日満員電車に揺られながら働き、夜は家族と過ごす日々。ある日、妻からイキイキママのイク休大作戦を聞かされる。子どもを夫に預け、妻たちだけで久々の休日を過ごすという提案だ。

最初は戸惑う勇太だが、妻のリフレッシュも大切だと理解し、子どもと二人で家族サービスをすることに。その日、父子二人で公園に向かい、仲良く遊ぶ。久しぶりに子どもと向き合う時間が持て、勇太も心が軽くなる。

その頃、妻たちは温泉旅行に出かけ、リフレッシュ。次いで、ショッピング美容室自分磨きを楽しんでいた。遠く離れた場所で、夫婦それぞれが自分を取り戻し、新たな気持ち日常に戻ることができる。

イキイキママのイク休大作戦は、夫婦にとっても良い影響を与える。妻は自分を大切にし、夫は家庭を支える力を発揮。これからも、自分を大切にしながら、家族を大切にすることを忘れず、お互いにサポートし合うことを誓った。イキイキママたちの絆が深まると同時に、家族全員の笑顔が増えていくのだ。

こんなんじゃイケねえー

2022-11-21

山月記現代

山月記

頭脳明晰大企業勤めをしてた友人がいきなり作家になると言って仕事をやめたが、一作も書き上げられずに失踪した。数年後、たまたま見かけた底辺Vtuberが友人だと気づいた」

と例えたツイートhttps://twitter.com/u68854731/status/1593781437031157761流行ってるみたいだけど

全然違うでしょう


頭脳明晰大企業勤めをしてた」

大企業努めではなくてエリート官僚だよ

しか所詮は保身しか考えない閣僚政治家たちの小間使いであることに萎えてきた、って感じ


「いきなり作家になると言って仕事をやめた」

これは違う、文学史に名を残したかったんだ

「下吏となって長く膝ひざを俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺のこそうとした」と書かれている通り、

政治家に尽くしても空しいだけなので、それよりも自分自身の名を残せる生き方をしたかった、ってこと

今の時代詩人になっても名は多分残らないので、例えるならば純文学作家になるかもしれない

作家と言っても決してベストセラー作家になって一発当てて大金ゲット!とか思っていたわけではない



「一作も書き上げられず」

これは全然違って、例えるなれば「芥川賞ノミネートされたけど受賞を逃した」くらい

それどころか三島由紀夫賞にも引っかからなかった

いまそこそこに評価されるくらいなら十分だけど、歴史に名を残すレベルからは程遠かった、ってこと


失踪した。数年後、たまたま見かけた底辺Vtuberが」

ここが一番ダメ

流れとしては作家を諦めて一度公務員に戻ってるんだよ

ところが前は国家エリート官僚だったのが、今度は現地採用職員とか、地方公務員で戻っている感じ

その状況にプライドが耐えきれなくなって、こじらせて人じゃないものになってしまった、ということ

その人じゃないものというのが今で言えばvtuberとかじゃなくて、ネット論客とか、駅でぶつかりおじさんとか、悪質クレーマーとか、その手の類かと思う

歴史に名を残すだけの能力自分にあったわけではないことに気付いたのに、少しでも今より良い作品を生み出せるよう努力するでもなく、今活躍している商業作家俗物批判し、エリート官僚政治家犬畜生と呼び、今の自分の状況を認められず社会を恨んで大暴れしている、こじらせたやばい人になってしまったんだ

で、今日も駅で上等なスーツ着てるおっさんジュースでもかけてやろうと思って近づいたら、それがかつての親友だった

一瞬、我に返って自分語りをしたあと、最後に書いた小説原稿(文芸誌に載せれるか載せれないかレベル)を友に託し、俺はもう戻れないんだと言って雑踏に消えていった

そんな話なんだよ

簡潔にまとめるなら、

エリート官僚だった友人が文学史に名を刻みたいと言って仕事をやめたが、芥川賞を取れずに断筆し、その後は地元の駅やネットでの過激言動ヤバイ人として有名になってしまった」

あたりかな

2022-10-22

文芸オワコンなのか

文芸誌に興味を持ったので地元の少し大きな本屋に行ったのだが、驚いたことに文芸コーナー自体が無かった。

文芸春秋や中央公論は置いてるし、HanadaやWill正論の類も置いているが、文藝文學界オール読物ミステリマガジンユリイカとかが無いわけよ。

金持ちが多くて美術館も近い文化的地域書店なのに、なんでこんなことになってるんだ……。

2022-04-14

山崎ナオコーラさん、文芸誌エッセイに「ある大作家から触られた」と書いて同じような目に遭った人や目撃した人が名乗り出てくれるのを期待したけれどそうはならなかったと言っているけれど

そりゃ文芸誌エッセイに書いただけなら残念だけど当然としか

駆け出しなら潰されるのが怖くて言えないのも分かるけれど二年前なら既にこの人は著名作家だったよね…

#metooも広がってた頃だろうから堂々と出る所に出て訴えればよかったのに

2022-02-01

石原さんは政治家としてはよくわからなかったが、

文学者文芸者としては超一流だった。都知事の会見での回答なども文学者っぽかった。

そういう点では宮崎駿監督も同じ匂いを感じる。絵描き映像監督政治家で違うけども、根本文学者だと思う。

文学新聞メディアの中心でなくなった以上、こういう人はもう現れないだろうなあ。

石原慎太郎氏、自作を語る『わが人生の時の時』、死の影と生の充実

2019.2.21 10:12 ライフ 学術アート

ときさし石原慎太郎インタビュー

「こんなにいろいろ体験した物書きはいない。ある意味、ぜいたくな人生だと思うよ」と話す石原慎太郎さん(酒巻俊介撮影

DSC_3468『わが人生の時の時』

小説集や文庫に収められた『わが人生の時の時』

 政界引退して4年余りが過ぎた石原慎太郎さん(86)はサッカーヨットダイビングに、とさまざまなスポーツに熱中してきた。そんな“肉体派作家身体感性が鮮やかに結晶したのが、平成が始まって間もなく刊行された自伝的掌編集『わが人生の時の時』(平成2年)。かけがえのない時の断片を乾いた筆致でつづった40の掌編は死と隣り合わせにある生の輝きを静かにうたいあげる。(聞き手 海老沢類)

 この本は不思議きっかけでね、大江健三郎のおかげなんですよ。テレビ局の依頼で反核運動が盛んだった西ドイツ(当時)に取材に行ったら、同じ目的で来ていた大江と会った。ベルリンの壁の前で僕は覚えたてのスキューバダイビングの話を彼にしたんです。この本に書いたオキノエラブウナギという猛毒をもった不思議ウミヘビと遭遇した体験を語って「海の底全然違う宇宙で、いろんな発見があるんだ」と。大江はやけに感心して「石原さん、そういう話、絶対書きとめておいた方がいいですよ」と言う。

 思えば、僕は他の作家にはない体験をしてきたし、いろんな人と出会って面白い話も聞いてきた。人生を記録として残そうとしたんです。書きながら人生を感じ直したよね、強烈に。

 《収録された40編の多くが海での体験談。知人の遭難自身の大けが、巨大な生物との遭遇などが回想される。弟の俳優裕次郎さんとの別れや霊の存在示唆するような不思議出来事戦時日常も描かれる》

 僕は肉体派からね。肉体を使った行為というのはその裏側に必ず死の影がある。スキューバダイビングでも随分怖い目に遭ったし、遭難にも立ち合った。避けようもない落雷ヨットの甲板上で目にする「落雷」という一編があるけれど、あのときコンパスクルクル回るのが気持ち悪かったね。

 ただ僕はね、恐怖は人間が味わう一番の感動だと思う。恐怖が通り過ぎた後には安息があるし、たった今過ぎていった凝縮された時間の充実をも感じる。死とのコントラストの中での生の味わいは深いですよ。死は人間にとって最後の未知だから興味がある。この掌編群はいわば、いつ死ぬのかな、という緊張の中でとらえた生と死のフラグメント(断片)なんです。

 戦時体験も書きました。横須賀から出航する前、家族最後の別れをする将校の姿とかね。僕らをかわいがって膝の上に乗せて頭をなでてくれた青年将校が死んでいく。その妻が葬式で何も入っていない骨壺を抱いている…。戦争不条理残酷さは僕の中に鬱積して、国家への愛着、そしてアメリカに対する反発となった。盛田昭夫さん(ソニー会長)との共著『「NO」と言える日本』(元年)もそういうもの潜在意識にあって書いたんです。

 《26年、衆議院議員最後政界引退。精力的に執筆を続け、田中角栄元首相の生涯を一人称でつづった『天才』(28年)は大ベストセラーに。現在文芸誌に小説を連載する》

 随分危ないこともやってきたと思うけれど、僕はそれはそれでとてもエンジョイしてきた。自分をつき動かすのは結局、人生に対する好奇心なんだよね。

 ライフワークが一つあってね。仏教徒から法華経現代語に訳そうと思っている。法華経は非常に哲学的で、存在時間について深く考えさせる。今は道半ばだけれど死ぬまでに完成したい。

 やっぱり小説が一番面白いよ。政治家同士のだまし合いなんか、最も薄っぺらいね。僕は作家だしヨットマンですよ、ずっと。でも時化(しけ)たレースではさすがにもう乗れないな。

 『わが人生の時の時』 文芸誌「新潮」の平成元年10、11月号に掲載。翌2年に新潮から単行本刊行され、後に文庫化された。『石原太郎文学』(全10巻、文芸春秋)の第8巻に、エッセー『わが人生の時の会話』とともに収められている。

 〈いしはら・しんたろう〉昭和7年、神戸市まれ一橋大在学中の30年に「太陽の季節」でデビューし、翌年に同作で芥川賞。『化石の森』で芸術選奨文部大臣賞、『生還』で平林たい子文学賞。43年に参議院議員当選。後に衆議院に移り環境庁長官、運輸相などを歴任平成11年から24年まで東京都知事を務めた。

https://www.sankei.com/life/amp/190221/lif1902210022-a.html

2021-12-11

老害」大好きハテブさん

批評家評論家という人々やはてブブックマーカーのような「批評」したがる人、コメンテーターになりたがる人というのは、「老害」が大好きである

若手や流行否定的見解発言する年配者を見つけると、もう涎ダラダラで喜びまくる。正当性のための論理も修辞も薄くとも、こちらには若手の勢い、流行の力がある。マーケットで勝っているというパワーさえあれば、年配者の見解など一掃できる。ネット民死語だって味方に付いてくる。「老害」などSNS炎上させてしまえばいいのだ。

批評家でいうと、90年代ゼロ年代東浩紀という人は上の世代と戦うにあたって、当時流行していた小説の一部(※)、ネット美少女ゲーム(の一部のノベルゲー)、ライトノベルなどのパワーを利用していた。

<※自分はJ文学批判しつつ、J文学批判してくる上の世代相手には阿部和重等を持ちだして擁護するという二重戦略を取っていた。>

批評空間」や文芸誌は、今の流行文化的価値のわからない「老害」だ、と批判しまくっていたのだ(東は自ら「老害」というワードを使わないが)。

しかし、10年も経つと東浩紀が、自分の下で働いていた藤田直哉飯田一史などに「老害」扱いで叩かれるようになり、自分がかつて武器としていた世代論に復讐される現状に、「やれやれ」気分で「老害や反時代的で何が悪い」と開き直っていたりする。

それで、今回の書評家の「老害発言だ!!

豊崎由美氏「TikTokみたいな、そんな杜撰な紹介で本が売れたからってだからどうした」「書評書けるんですか?」~それへの反響

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1814617

書評家が本紹介TikTokerけんごをくさし、けんごが活動休止を決めた件は出版業界にとって大損害(飯田一史) - 個人 - Yahoo!ニュース

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/byline/iidaichishi/20211211-00272115

けんごの「TikTok投稿をお休みさせていただきます投稿が[午後8:49/2021年12月10日]。

飯田一史のYahooニュース投稿・公開が翌日8時37分。

twitterじゃねえんだから早ぇよ!!

もうけんごの投稿に即反応したとしか思えないよ。

「けんごが活動休止することでこの流れが途絶え、ほかの本紹介TikTokerも萎縮するなど負の影響が及んだとすると、今年プラスで発生した読書量が再び失われることになりかねない。」(飯田一史)

おいおい、豊崎はどれほどの権力者なのか。twitter投稿1つで本紹介TikTokerたちからそんなに畏怖されるような存在かよ。

書評家を「老害」、本紹介TikTokerを「若手」「流行」として世代論に持ち込み炎上を煽る。(現にtwitterヤフコメ等で豊崎はこの上なく燃えている。)

今後も、年配者が流行疑問視するたびに、「待ってました」としか言いようがないムーブ批評家ライター同調するはてブの連中がガソリンをまき、炎上を煽るのだった。

いやあ、「老害」大好き!!

2021-12-07

SFマガジン文芸誌か?

SFマガジン企画Twitter炎上して中止になったことについてサエボウ氏が「読者同士が遊びでやることで文芸雑誌でやるネタじゃない~」と書いていて、SFマガジンは遊び企画ができないほど高尚な文芸雑誌なのか?と思った。

そりゃSFだって小説だし文学だろうけど、今現在における一般人の「文芸イメージとしては、イコール純文学」であって、「文芸雑誌」というのは芥川賞選考に関与するような純文学雑誌のみを指すと考える人が多いのではないか

SFミステリライトノベルのようなエンタメ小説雑誌に「文芸から外れた「遊び」企画があっても何の違和感もない。これらジャンルには、サンプリング本歌取りオマージュ作品も多い。今回も丁寧な企画説明をしたり軽いタイトルを何とかすれば良かったのではないか

2021-09-11

鴻巣友季子の時評は何が問題だったのか

 『文學界2021年9月号に掲載された桜庭一樹少女を埋める」を取り上げた、鴻巣友季子による朝日新聞文芸時評に対して、桜庭が抗議の声をあげ、記事の訂正などを求めた(文中敬称略)。

 この問題に関して筆者は「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」に始まる3本の文章投稿した。その後、桜庭の求めに沿う形で、9月1日に朝日新聞デジタル版の時評で文面が修正され、9月7日付朝日新聞本紙および朝日新聞デジタルに、両者と時評担当者見解掲載された。

 この記事では総括として、両者の見解検討するとともに、時評担当者が「期待」しているという「文学についての前向きな議論」のために、この一件にまつわる諸論点を、桜庭鴻巣が直接言及していない点も含めて挙げる。なお、はてな匿名ダイアリー仕様URL掲載可能数に制限があるようなので、最小限に留めている。

見解検討

 両者の主張は、以下のように整理できるだろう。

桜庭文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるか否かによらず、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いてはならない。

鴻巣文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるならば、あらすじとして書いてもよい。

 桜庭は主張の根拠として、そのようなあらすじの書き方が「これから小説を読む方の多様な読みを阻害」し、「〝読者の解釈自由〟を奪」うことを挙げている。

 一方で鴻巣自身の主張を、「あらすじも批評の一部なので、作者が直接描写したものしか書かない等の不文律を作ってしまう事の影響は甚大」であり、「読み方の自由ひいては小説可能性を制限しないか」という懸念により根拠づけている。

 では鴻巣は「あらすじも批評の一部」であるという主張をどのように根拠づけているか。これが不明瞭なのである

 鴻巣は「あらすじと評者の解釈は分けて書いてほしいと要請があったが、これらを分けるのは簡単そうで難しい」と書くが、その後に続くのは、作品創造的な余白を読者が埋めるという、読解についての文章である文学解釈にそのような性質があったとして、それがあらすじと解釈の分離の困難とどう関わるのか、説明されていない(まさかテクストに書いてあることと、書いていない部分から自分想像したこととが融合してしまって分離できないというのだろうか。テクストは目の前にあるのに)。つまり鴻巣は、「書く」ことについて言及していないである解釈批評の一部でしかない。当然ながら、読んだ=解釈しただけでは批評は成立せず、「書く」ことが必要不可欠である。だからこそ桜庭の主張は鴻巣の読みの否定ではなく、「分けて書いてほしい」というものだったのだ。分けて「書く」ことが「読み方の自由」を否定することにはなるまい。そして実際にデジタル版の時評の文面を「修正」できたのだから、分けて書くことはさほど難しくはないはずである

 鴻巣は「合理性」や「妥当性」にこだわりを見せるが、この見解文章がそれらを備えているとは言い難い。また、鴻巣見解を発表する段になっても、そもそも桜庭に何を問われているのか理解していないふりをしている、あるいは単に理解できていない。

 繰り返しになるが、問題は「書く」ことなのだ私小説フィクションからどのように読んでもいいとか、誤読される覚悟もなしに私小説など書くなとか、私は鴻巣評のように読んだとか、信用できない過去語りだとか、あるいは鴻巣誤読しなければこんな事態にはならなかったとか、そんなことは関係ない。どう読んだっていい。批評家が誤読することもあるだろう。批評家が作者の意図しない優れた読解をすることもあるだろう。ただし、自分の読解が生み出しただけの出来事を、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして断定で書くべきではない。

 ただそれだけのことを、桜庭は何度も何度も直接本人に訴えかけた。にもかかわらず、鴻巣がその声が受け止め、真摯に答えたとは思えない。

 この文章を書いている最中に、『現代ビジネス』上に、飯田一史による記事「「少女を埋める」論争が文学史上「奇妙」と言える“3つのワケ”」が掲載された。そこで名古屋大学大学院教授日比嘉高モデル小説研究フロントランナーと言ってよいだろう)は、「作家である桜庭さんの方がTwitter上で『私小説』『実在人物モデルに』と事実立脚している点を強調している」と述べているが、桜庭は慎重に「テクストという事実」と「現実事実」の問題を切り分けている。

(強調は引用者。これは桜庭が声をあげた最初ツイートだ)

(強調は引用者)

 桜庭実存にとって「現実事実」がいかに重大なものであったとしても、桜庭あくまでそれを「テクスト(に書いてあるか否か)という事実」と「あらすじの書き方」との問題の下位に位置付けている。主張の動機と主張の根拠を分けるべきである飯田は、「作家が「トラブルを予防する」ために「事実の側に立つ」点でまず「少女を埋める」はきわめて珍しい事例なのだ」と書いているが、「トラブルを予防する」のは主張の根拠ではなく動機である。この一件を「論争」と表現するのであれば、作家動機ではなく、作家根拠フォーカスするべきであるこの記事のまとめ方に〝私は〟断固抗議する。

 とはいえ桜庭見解にも問題点が指摘できる。それも踏まえて、以下、「文学についての前向きな議論」のための論点を、差し当たり三つ挙げる。 

文芸時評というジャンル

 今回の一件に際して、文芸時評不要説や批評の死が取り沙汰されもした。桜庭ツイートで「批評ではない未熟な文章」などの表現を使い、鴻巣見解において「批評」という言葉を用いている。

 だが、文芸時評批評しかないのだろうか? 文芸時評英語ならliterary review(あるいはbook review)やliterary commentary、フランス語でならchronique littéraireなどと言うだろう。批評critiqueと時評は同一視してよいのか? 批評の要素を備えているとしても、時評には時評に固有のジャンル特性があるのではないか

新聞というメディア

 文芸時評新聞という巨大メディア掲載されている点をどう捉えるか? 桜庭見解において朝日新聞の「影響力は甚大」としている。また桜庭は「これから小説を読む方の多様な読み」について言及するが、「これから小説を読まない方」が時評だけを読む可能性も大いにありうるだろう。あるいは前項と関連づければ、文芸誌などの批評は全く読まないが時評は読むという新聞読者はいるだろう。つまり文学の読者と時評の読者は必ずしも重ならない。

 文学の読者であれば私小説で描かれたことが現実でもその通りに起きたと断定できないと承知しているが(あるいは、そのような認識の者を文学の読者と呼ぼう)、時評の読者がそのような前提を共有しているとは限らない。桜庭新聞の影響力への言及の直後に「私は故郷鳥取で一人暮らす実在老いた母にいわれなき誤解、中/傷が及ぶことをも心配し」たと述べている(繰り返すが「をも」という表記に注意。その一点だけで抗議しているのではない)。今回の問題(ここでは主張の論理ではない、現実現象レベルである)はそもそも、「文学についての」「議論」だけに収まらないものをも含んでいるのではなかったか

 以上の論点を踏まえて、時評担当者見解検討することもできるだろう。

書いてあればよいのか

 桜庭見解は冒頭、「私の自伝的な小説少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています」と書く。鴻巣評の印象を覆すためにあえて母の献身夫婦の愛を強調したのだろうが、このまとめ方については異議もあった。文芸評論家藤田直哉が端的に指摘しているのでツイート引用しよう。

 つまりあらすじに書いてよいのは、「作中の事実であるべきではないか 今回であれば、あくまで一人の人物視点に立って、「私の自伝的な小説少女を埋める』では、病に伏せる父と、献身的に看病した母とが深く愛し合っていたことを、主人公が見て取ります」くらいが妥当なのではないか言うなれば、「夫婦が深く愛し合っていた」というのも、「愛しあっていたのだな」という文字列テクストに書いてあるとはいえ中人物の「主観的解釈なのだから、〈そのような解釈が書いてある〉という形であらすじを書くべきではないか

 あるいは、そもそも事実」と相容れない表現というものもある。極端な例を挙げれば、自分幸せだと信じ込みながらオンラインサロン主宰者に投資し続ける人物のことを「幸せ生活を送り」などと書くのは、たとえ作中に「幸せである」と書かれていたとしても、おかしいだろう。幸せ事実ではなく評価からだ。書かれていないことを想像するとともに、読者は書かれていることについても想像し、評価する以上、書いてあれば何でもあらすじに含めてよいとは限らないのではないか

参考になりそうな文献

 最後に、「文学についての前向きな議論」に役立ちそうな文献を、備忘録も兼ねてリストアップしておく。

2021-06-30

anond:20210627044229

実際、そういう需要は常にめちゃくちゃ強い。

 

文芸誌なんか誰も読まなくなっていき、ラノベが読まれるようになっていき、今はラノベを読んだ読者がこんどは作者となってラノベみたいな話をなろうで書いている。

考えさせられましたと明確に言えるミニシアター映画なんか名作だとしてもまったく見られず、暴力セックスヒーロー映画が毎年作られる。

 

思想について書いているような漫画家SNS売れてるってのは、勘違いか、もし事実でも一過性の話だ。

心配することはない。

2021-06-18

純文学新人賞についての解説

純文学とは

純文学とは制度的には文芸誌に載っている小説作品のこと。芥川賞はこの文芸誌掲載から選ばれることがほとんど。

その文芸誌とは下の5つしかない。

まれ早稲田文学やその他のインディーズ雑誌から芥川賞候補に選ばれることはある。

純文学新人賞について

上記文芸誌5誌はそれぞれ新人賞主催している。

最終候補に残ると編集部から電話がかかってくる。いつその電話があるのか、公式には明らかになっていないが、過去経験者がブログTwitterでほのめかしており、5chの文芸創作板を見れば、だいたいの情報が集まっている。

9月末締め切り。最終候補の連絡は1月? 選考会は3月。受賞作は4月発売の文學界5月号。

10月末締め切り。最終候補の連絡は2月? 選考会は4月。受賞作は5月発売の群像6月号。

3月末締め切り。最終候補の連絡は7月? 選考会は9月。受賞作は10月発売の新潮11月号。

3月末締め切り。最終候補の連絡は7月? 選考会は9月。受賞作は10月発売のすばる11月号。

3月末締め切り。最終候補の連絡は7月? 選考会は8月。受賞作は10月発売の文藝冬号。

七年ラノベの賞に一次落ちし続けてたんだけど、やけになって純文学の賞に応募したらなぜか最終選考まで行った

https://anond.hatelabo.jp/20200519161343

この増田を読んだが、私はワナビとして、過去数年分の最終選考に残った作品の選評を読んでいるが、「書きたいことや日頃の鬱憤をごちゃ混ぜにして書き殴った」作品ひとつもなかったように思う。

あと5月の段階で、最終に残っているが、選考会がまだだという新人賞はない。

ちなみに小説新人賞については、優れたデータベースがある。

文学賞世界

https://prizesworld.com/prizes/

追記

上記の5大新人賞は、プロ純文学作家になるための賞である

プロ純文学作家とは、出版社から仕事を依頼され、原稿料の出る仕事をする物書きのこと。必ずしも物書き仕事だけで生活できるとは限らず(いやほとんどの作家はできず)会社員をしながら作品を発表しつづける人もいる。

ただ芥川賞を取って10年くらい生き残れば、どこかの私立大学創作学科教員になれたりすることが多い。

小説新人賞は、出版社主催する新人賞以外にも、地方自治体新聞社主催する、「地方文学賞」というのものがある。

地方文学賞は受賞しても、賞金がもらえるだけで(ただし上記の5大新人賞より賞金が高かったりする)、本も刊行されない。それはデビューとは言えないし、たぶん受賞した人もデビューだとは思っていない。当然、仕事の依頼とかは来ない。

(ただ地方文学賞でも本が出版社から刊行される太宰治賞という例外はある)

2021-05-24

[]地方文学賞メモ

地方新聞主催

文学賞締切400字詰め原稿用紙賞金応募総数発表条件
北日本文学賞8月31日30枚100万円1100強1月1日新聞紙特になし
埼玉文学賞8月31日50枚50万円?11月上旬埼玉新聞紙県外者の場合は、埼玉事物風土人間歴史など埼玉との関わりをテーマにした作品であること。過去の受賞作はウェブで見られる
南日本文学賞年末年始50~60枚30万円100強3月上旬新聞紙鹿児島県在住者、あるいは出身
北日本児童文学5月末日30枚50万/10400強11月新聞紙上、およびwebun特になし

都道府県主催

文学賞締切400字詰め原稿用紙賞金応募総数発表条件
内田百閒文学賞5月末日20~50枚100万/20400弱11月下旬岡山舞台となる作品や、岡山出身人物自然文化風土物産などを題材とした作品
やまなし文学賞11末日?80~120100万/30万300強3月上旬山梨日日新聞紙上、及び同紙電子版に掲載、受賞作は単行本として刊行特になし
伊豆文学賞10月1日30~80枚100万/20万/5万260前後4月上旬入賞作品を収録した優秀作品集を作成伊豆をはじめとする静岡県内の自然地名行事人物歴史などを題材(テーマ)にした小説随筆紀行文。掌編部門
新潟日報文学賞9月1日30枚30万?11月1日応募資格新潟県内在住者と新潟県出身者に限る

自治体主催

文学賞締切400字詰め原稿用紙賞金応募総数発表条件
太宰治賞12月10日50枚~300枚100万1440前後5月初旬、受賞作品、優秀作品、最終候補作品は、選評とともに「太宰治賞2020」(20206月刊行予定)に収録特になし
坊っちゃん文学賞9月30日4000文字50万/109300強?ショートショートの賞にリニューアル
舟橋聖一顕彰青年文学賞9月18日50枚30万?2月頃?満18歳から満30歳までの青年
阿波しらさぎ文学賞6月1015枚30万/10万/5万460強8月徳島新聞紙上および徳島新聞電子版に掲載。受賞作は発表後、文芸誌徳島文學」に転載特になし
ちよだ文学賞4月30日30枚100万42010月、市役所にて販売特になし

めんどくさくなってきたのでここまで、適宜追加予定。湯河原のやつはNONに掲載されるみたい。あと、探すと結構ミステリの賞が多い。

そのほか

文学賞締切400字詰め原稿用紙賞金応募総数発表条件
仙台短編文学賞11月上旬25~35枚30万/5万400弱公式ホームページならびに河北新報紙上、小説すばる」に掲載仙台宮城東北となんらかの関連がある作品

参考資料

Wikipedia、各文学賞サイト

免責

この表を利用することによってトラブルは一切責任を負いかます

誤りがあるかもしれないため、必ず公式サイト確認してください。

メモ

https://tadeku.net/80142/

2021-03-31

anond:20210331202727

(読みづらくてすみません。途切れたので続きはこちらにて)

前々から気になっていたことですが、腐女子界隈は、この件に限らず、伝聞や憶測で悪意的に解釈するのではなく、事実に基づいて慎重に意見することが必要です。

事実とは異なる憶測や誤解で非難すれば、それは単なる誹謗中傷となり「ネットリンチ」につながります

ですからいくら伝聞や憶測が広がっていても、すぐさま感情的流行に乗るのではなく、いったん冷静になって、できるだけ情報源確認して意見することが望まれるのです。

そしてそのうえで、ただ界隈の規範を参照するのではなく、相手事情理解しようとする姿勢が要されます

相手言動結果的に界隈の規範に反していたとしても、被害者意識に基づいて悪意的に解釈するのではなく、知識はあったのか、悪意はあったのか、どのような文脈での出来事なのか、いったん主観を離れて、俯瞰してとらえるだけでも、感情に振り回されて疲れたりせずに済みます

これは、インターネットだけの話ではありません。現代多様化時代ですから自分とは違ったさまざまな他者と、お互いの個性を踏まえてコミュニケートしていかなければ、たやす不適応をきたしてしまます

そのような意味合いでも、ただ「炎上」の流れに身を任せるのではなく、一人ひとりが目の前の出来事に対して「なぜ」と問い、理解しようとする姿勢もつことが大切ではないでしょうか。

文芸誌ユリイカ」の女オタク特集内の論文でも示唆されていましたが、腐女子界隈の村社会的な特殊性は閉塞的で、自由議論忌避して多様性を認めず同一性要求する抑圧的な特質があります

従来の規範と異なる意見が上がれば、つまり少しでも周りと違う声が聞こえれば、迷わず躊躇わずほとんど一斉に叩く。そのような出来事が断続的に起こっています

少数派の意見が抑圧されて「なかったこと」にされるのではなく、もっと、風通しのよい界隈であってほしいと、一人の腐女子としても思います

おわりに2

炎上」の件で個人的に思い出されるのは、昨年海外で数百万回再生された、さくらみこさんの切り抜き動画です。

その内容は、みこさんが『GTA5』というゲームの実況配信をするものでした。

注目を集めたのは、そのなかで『GTA5』の作中人物が「Fワード」や「Nワード」を口にした際、みこさんが反復するように発音してしまった場面です。

彼女の「ファッ●ュー」や「ニ●ー」という発言は、その動画コメント欄を良くも悪くも賑わせます

しかし、決して炎上したわけではありませんでした。

しか英語圏では、「Fワード」や「Nワード」は人前では憚られる禁忌で、動画であっても問題視されても不思議はありません。

ですが、コメント欄海外の方々は、彼女英語力がないことや、悪意がないこと、台詞の語感のよさから発音してしまたことなどを踏まえ、冷静に意見を書き込んでいました。

なかには、「Nワード」について、台詞の語感がよかったし発音は仕方がない、と黒人と称する方によるコメントもありました。

もちろん、BL同人誌の一件が、この出来事と同列に語りうるとは言いません。しかし、伝聞や憶測や表面的な印象からただちに被害と加害の構図に重ねたり、原理主義的に規範を参照したりするのではなく、相手立場に思いをめぐらせて、尊重しあえるようになればと願わずはいられないのです。

2021-03-27

小説の読みやすい組版とか媒体って

結局何が一番いいんだろうな。

最近スマホKindle読み始めたが案外よかった。

文庫本が一番読みやすい形だと思ってたけど、電書は画面が大きすぎず行の間隔が空いてるから個人的にはベストかも。

あと字がデカいと内容も難しく感じない気がしていつも読まないような本も読めるようになる。

ハードカバーとか新書二段組みでゴッツいやつ(講談社ノベルスとか)は重くて敬遠してしまう。

あと月刊文芸誌にあるような(A5?B5?)も机なきゃ読めん。

強いて言うならスマホ見てると目が疲れるのと眠れなくなるのが弊害だな。

なんか他におすすめ形態ある?

2021-03-20

人生詰んでたことに気づいたかアドバイスくれ

21になってやっと自分が何も持っていないことを自覚した。

不自由なく甘ったれ環境ぬくぬくと育ってきた。いわゆる親ガチャには成功したほうだと思う。幼い頃から小説ならいくらでも買ってもらえたから、どこかに出かけるたびに本屋に寄るようねだり、1冊ずつ買ってもらっては読みほした。当然本好きに育った。中高生の頃ぼんやりと、自分はきっと本と関係する業界に就くのだろうと思った。大学生になってもその想いは変わらないまま、最近就活を迎えた。

愕然とした。

好きな雑誌ほとんど本か漫画しか読んだことがない。やりたい企画企画ってそもそもなんなんだよ。どうやって作ればいいんだよ。会いたい人?そもそも本以外の趣味なんてなく、TVほとんど見ないのに芸能人のナニガシなんてわかるわけがない。

そして気づく。そもそも私より本をたくさん読んでいて、それ以外の趣味もたくさん持っていて、コミュニケーション能力があって、弁舌の立つ人間が、おそらくこの世界には五万といること。

正確に言うと、ずっとずっと昔からぼんやりと気づいてはいたのだ。編集者になるには多様な興味関心が必要だと、なんとなく察していたのだ。でも見ないふりを続けてきた。だって今まで苦労したことない甘ったれなのだ最後にはなんとか帳尻を合わせられるだろうと踏んでいた。とうとうここにきて露見した。最早取り返しのつかない状況で、取り返しのつかない人生を送ってきたことをはっきりと自覚したのだ。

もういやだ死にたい そしてほとぼりが冷めたあたりで生き返りたい

          ──岡野大嗣

やっと自分の愛が、こんなにもちっぽけでつまらないものであったことに気づく。

集英社講談社ポプラ社そもそもESすら出せなかった。今日なんとか新潮社を出したけど、書いている最中には小説を一番好きだと宣いながら好きな作家にはあまりにも有名作家ばかりをあげる自分の情けなさにほとほと嫌気がさしていた。ねえ、俺は今まで文芸誌ひとつまともに読まずによく平気な顔で本好きを名乗ってこれたね?

文藝春秋を出したいけれど出せる自信がない。小学館を出したいけど受かるわけがない。

でも、ああ。

自分が何も持っていないことに気づけてよかった。本当に何もかも手遅れになる前に自分がこんなにもくだらない存在であることに気づけてよかった。とにかく頑張ろう。内定を貰っている友人もいるけど、貰っていない友人もいるから。今切り替えればきっとどこかには繋がるはずだから自分は一生本に携わって生きると確信していたから、今どうすればいいのかさっぱりわからないけど。でも何とかなるって信じたい。私の未来はまだ全部台無しになったわけじゃないんだって。今から、……新しい未来が開けるはずだって

来週の合説を予約した。とりあえず小学館ESを書く。3時間ほど泣いたら何かの諦めがついたから今この文章を綴っている。1年後の自分が、10年後の自分が、これを見て笑ってくれますように。

そしてここまで読んでくれた君にどうか一つお願いがあるんだけど、こんな情けない実情は恋人にも友人にも言えやしないから、ここまで読んだよしみで罵倒なり励ましなり残していってくれやしないだろうか。私に人との繋がりを感じさせてくれないかな。

2021-02-07

勝手に削除から考える文芸時評論理

 『文學界2021年3月号の新人小説月評に関して、評者の荒木優太氏が「末尾が勝手に削除された」とTwitterに訂正願いを投稿、ほどなくして『文學界公式アカウント反論ツイートをした。

 のちに荒木氏は『マガジン航』で「削除から考える文芸時評倫理」と題する文章を発表し、背景を説明した。

https://magazine-k.jp/2021/02/06/ethics-in-literary-criticism/

 まず騒動時系列を把握しよう。

 最初荒木氏の①【訂正のお願い】ツイート2月5日19時半前、②『文學界』の反論ツイートは同日9時過ぎ、その後30分と間をおかず、荒木氏は「とりあえず」との留保付きで③追加説明ツイートを行なっている。

 ④『マガジン航』への掲載は翌日である

 では「削除」に至った経緯について、両者の主張を見てみよう。と言っても、経緯の主張については対立するところはない。

 1. 問題の3行を含む原稿を『文學界』が受け取る。

 2. 『文學界』が「批評としてあまり乱暴すぎるのでもう少し丁寧に書くか、それでなければ削除してほしい旨申し入れ」る。

 3. 荒木氏が「では、末尾に『全体的におもしろくなかったです。』と付け加えてください」と伝える。

 4. 『文學界』が「改稿していただけないのであればその3行は削除します」と申し入れる。

 5. 荒木氏が「『お好きになさるとよいでしょう』、ただし『その事実SNS等で吹聴する』」と返答する。

 6. 削除された状態刊行される。

 7. 「勝手に削除された」と荒木氏がTwitterで吹聴する。

 以上である

 さて、ここからが本題である。『文學界』のツイートは一貫して、「勝手に削除された」という「認識」をめぐるものである

 先ほどの経緯を「削除」の一点に絞って書き直してみよう。

 1. (略)

 2. 『文學界』が「削除してほしい」旨申し入れる。

 3. (略)

 4. 『文學界』が「削除します」と申し入れる。

 5. 荒木氏が「お好きになさるとよいでしょう」と返答する。

 6. 「削除された」状態刊行される。

 7. (略)

 『文學界』の立場としては、まず削除してほしいと提案し、聞き入れられない(どころか批評たりえない(と彼らが判断する)改稿を提示された)ので削除を宣言し、荒木氏が認めたので実際に削除した=「勝手に削除したわけではない」、ということになる。すなわちここでの「勝手に削除する」は、A「著者に一切の了解を得ることなく不掲載とする」ことを指す。

 荒木氏の立場としては、編集部意向で、B「最終的な確認なく削除された」=「勝手に削除された」ということになる。

 つまり問題はこういうことだ。

 「勝手に削除してもよいという合意」の上で削除が行われた場合、それは「勝手に削除された」と表現できるのか?

 一見して難問だが、前件と後件の「勝手に削除」は、指しうる範囲が異なる。Aの意味は「合意」とそもそも相容れないため、前件ではBのみを指しうる。一方で後件は問いの形式なのでAとB両方指しうる。しか命題「〜場合、それは『勝手に削除された』」が真となるのは両件ともBを指す場合のみである

 では荒木氏のツイート時系列に話を戻すと、最初の「勝手に削除された」という荒木氏の言葉は、ここでは後件に相当する。しかし前件はそもそも提示されていないために、AとB、どちらを意味するとも解釈できる状態である。それに対して『文學界』の経緯説明は前件を説明するものであり、ここでようやくBの意味での解釈のみが妥当であることがわかるようになる。

 言い直すと、A「著者に一切の了解を得ることなく不掲載とされた」と荒木氏が主張しているように読めるため、そこに出てくる表現勝手に削除された」は、B「最終的な確認なく削除された」のみを指しうるのだと、『文學界』は反論したのである

 これを踏まえると、「Bでしか解釈できないはずの表現を、Aとも解釈できる状態で公にした」荒木氏側には、『文學界から反論されるだけの落ち度があると言えるだろう。

 荒木氏を擁護しうるとしたら、以下の主張が妥当である場合だ。

 「物理的に手出しできない」という不均衡な関係ゆえに形式同意せざるを得なかっただけで、本来的には一切了解していない、すなわち前件自体が間違っているのだから、Aと解釈すべきである、という主張である。なるほど、物理的に手を出せないのは明らかにである。だが、「ならば同意せざるを得ない」と即座に結論づけられるのか。これは言わば「抗拒不能」を争うもので、論理から法の領域に踏み込んでしまうだろう。

 ここで可能性として生まれるのは、「6. 『削除されなかった』状態刊行された」パターンである。ではなぜそうならなかったのか。『文學界』側が「論理的に適当でないのだから削除するほかないではないですか」という論理的な抗拒不能に陥っていた場合である

 本論では『文學界』側にこの主張が成り立つかを『マガジン航』に掲載された「削除から考える文芸時評倫理から考えてみよう。

 荒木氏は「削除されなかった」場合作家が反応を示した場合を想定して、こう書いている。

そもそも作家から「反応」があったからといって、なんだというのか。怒りたければ怒ればいいし、月評に不満なSF作家樋口恭介がしたとおりウェブ反論文を書いてもいい。場合によっては私はそれで反省するだろうし、或いはやはり自分の正しさを確認するだけに終わるかもしれないが、その過程のなかで新たに発見できるものもあるだろう。

 ちょうど1年前の『文學界新人小説月評に対し、作家樋口恭介氏が反論した例(https://note.com/kyosukehiguchi/n/n54a493f4d4f4)を挙げ、自身の評言に対しても同様に振る舞えばよいではないかと述べている。

 樋口氏の件では反論に遭った両評者とも、作品内容にある程度触れ、自らの解釈をある程度開陳した上で否定的評価を下している。よって樋口氏は両者の解釈そもそも成り立たないことを説得的に示し、古谷から不適切であったと謝罪撤回を得ることに成功している。非常に健全批評的やりとりだった。

 ところが荒木氏の問題の3行には解釈がない。解釈提示されていないのであれば、樋口氏のように「それは誤読だ」と反論することもできないだろう。荒木氏自らが提示たこの事例との比較から、「反論余地を与えない表現批評たりえない、単なる悪口である」という論理が――「論理的に適当でないのだから削除するほかないではないですか」――容易に導かれる。

 荒木氏は「文学作品は作者による産物であると同時に、読者がもつ解釈格子次第でいかようにも姿を変えるものだ」とも述べている。なるほど、その解釈格子を通して得られた感動は「読者が固有の仕方で編み出した創造物」であるという論も含めて同意する。ところが荒木氏は続けて、「読者に伝えたいのは、私のもっているつまらなさや無感動も、いくぶんか自己責任もつところの私自身にとっての大切な創造であるということだ」と述べる。結論はこうだ。

私の最大の、というより唯一の武器は、面白いものには面白いといい、つまらないものにはつまらない、という、正直であることのほかない。

 荒木氏の論理では創造なのは「(無)感動」である解釈のものはそれを生み出すためのフィルターである。そして荒木氏が月評に書こうとしたのは「全体的におもしろくなかったです。」の一言、すなわち「感動」である

 だが、樋口氏の事例との比較で明らかなように、批評文に求められるのは、評者の感動=感想などではなく、それを生み出すにいたったフィルターであるところの解釈である解釈には確かに属人的な部分もあるが、ある程度規範的な部分もあり、さもなくば書き手自身から反論も成り立たず、「過剰解釈」が氾濫する。なるべくそ規範的な解釈をもって評価を下すのが評者の使命であろう。評者個人の正直な感想など、正直言って全く興味がない。文芸誌を買ってまで読書感想文を読みたくなどない。

 月評の制限字数わずであるため十分に論が展開できないというのならば理解できる。ところが『マガジン航』には多少なり岸作の解釈が載るのかと思えば、ここでもやはり「簡単な紹介と個人的所感」にとどまる。「個人的所感」などどうでもよい。

 解釈ができないのであれば、あるいはするまでもないと思ったのであれば、端的に書かなければよいだけの話であり、結果として「勝手に削除された」のは理の当然であろう。

 ある意味当事者となった川上未映子氏はこうツイートしている。

 テキスト論理もなく書かれた感想に怒りで反応する皮相な「緊張感」だけが漂う場を、批評とは呼ぶまい。

追記2021年2月8日

 反応をいただいたのでいくらか補います

 まず公平性を期すためあえて本論執筆者自身の考えを明確にすれば、「『文學界編集部の削除対応は、抗議ツイートまで含めて手続き問題はないが、合理的ではなかった」というものです。

 仮に削除せずに全文ママ掲載し、岸・川上両氏から編集部に対して抗議が来た場合、やりとりの履歴はあるのですから「改稿あるいは削除を提案したが聞き入れられなかった」と説明すればよいでしょう。改稿・削除を要求した理由が両氏への忖度だけなのであれば――「裏工作して保身に走る編集者」なのであれば、交渉をした時点ですでに保身は成立すると言えます

 あるいはもし仮に改稿・削除提案荒木自身の体面を守るためというお節介だったとしても、誌面から削除したところで荒木自身SNSで当該の評言を公開することは避けられないわけです。

 それでもなお最終的に削除の決断をした。非合理的でしょう。「批評を載せるのだ」という編集部としての決意表明のようなものを感じます(これは解釈を経て創造した感想です)。

 無論、コメントでいただいたように、「そもそも読者は批評を求めていない(批評を求めていない読者もいる)」可能性はあります。誌面にどのようなものを載せるか決めるのはまさしく編集作業なので、この場合問題は「作者が作りたいものと受容者が求めているものが違う」ことです。

 ただし荒木自身批評を書こうとしているので(「「批評言葉」かどうかを編集部判断するのがお門違いであり」と主張している以上)、問題の3行を読んで「読者は批評を求めていないのだから問題ない」として荒木氏を擁護しようとすると、逆に氏を裏切ることになります

 よって、時評の存在意義や読者の需要コメントでいただいたように「別の話」なわけですが、それはそれで議論されるべき問題なので取り上げました。

 最後に、本論文末の「緊張感」は、わざと誤読のように用いていますコメントでおっしゃる通り、「テキストへの真摯さ」が本来の緊張感ですが、テキスト論理がないので当然この本来の緊張感も不在です。それとは別の、感情的応酬という緊張感しかないのだ、と表現するために括弧付きで「緊張感」としました。最後までお読みくださりありがとうございます

2021-01-05

anond:20210105111503

4コマとかエッセイエッセイ漫画のたぐいはむしろ一気に読むの難しい

他の本と並行して読むことになる

いま書いてて思ったが文芸誌漫画雑誌はどうなるん?

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