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はてなキーワード: 日の出とは

2025-06-15

虚言癖のせいで人生詰んだ

ミスをした時に、無意識のうちに嘘をついて誤魔化す癖がある。 何かをやった時に、無意識のうちに嘘をつく癖がある。 直後、またはその日の夜の一人になった時、または1週間後や1ヶ月後になって気づく。 自分の脳で自分意識を完全に騙す感じ。

脳が、俺の意識を完全に無視して嘘を生成する。 しかも、喋ってる瞬間は俺自身、それを1ミクロンも疑ってない。100%真実として口から出てる。 これがもう、人生ハードモードどころか詰みレベルしんどい

例えば、雑談で「七面鳥って食べたことある?」って聞かれるとする。 その瞬間、俺の脳内にはなぜか近所のスーパーで買った骨付きの手羽先をむさぼる映像フルHD再生されるんだよ。で、脳が「これだ!」って直感判断して、俺の口が「あるよ!美味いよね!」って自信満々に答える。 もちろん、俺は七面鳥なんて食ったことない。後で一人になった時に「あれ…?俺が食ったの、ただの鶏じゃね…?」って気づく。

仕事だと、もっとヤバい。 俺がミスした時に、上司から「これ、昨日のお前の担当範囲だよな?」って聞かれたとする。 なぜかその瞬間、俺の脳は「昨日、俺は休んでいた」という偽りの記憶を生成する。何の疑いもなく「いえ、違います」って即答しちゃう。 当然、勤怠記録見ればすぐバレる。「いや、昨日出勤してるだろ」って突っ込まれて、そこで初めて「あっ!すみません!そうでした!勘違いしてました!」ってなる。

もうね、周りから見たら完全に「ミスを嘘で誤魔化そうとして、墓穴を掘った不誠実なクズ」でしかない。 でも違うんだよ。俺は心から「昨日は休みだった」と信じきって、真実を述べたつもりだったんだ。

このバグが、子供の頃からずっと続いてる。 喋るたびに嘘つきになる。訂正するのも気まずい。 「こいつ、なんで毎回平気で嘘つくんだろうな」って目で見られるのが辛くて、もう人と話したくない。友だちなんて、できるわけがない。

藁にもすがる思いで、最近流行りのチャットAI相談してみた。 長文で、これまでの苦しみを全部ぶちまけた。

そしたらAIは、さも賢しげにこう言ってきた。

「話す前に一度、物理的にワンクッション置きましょう」 「『〜と思います』『私の記憶では〜』のように断定を避ける表現を使いましょう」 「後から気づいたら『いやー勘違いでした(笑)』みたいに軽く訂正しましょう」

……あのさあ。

それができたら苦労してねえんだよ。 こっちは質問されたら0.2秒で脳が嘘を生成して口から発射されるんだよ。しかもそれが嘘かどうかわからないの。ワンクッション置くとか、そんな理性が働く前に口が動いてる。

「〜と思います」って、毎回そんな予防線張ってたら会話にならんだろ。

ただの挙動不審な奴じゃん。「昨日の出勤、どうだったと思いますか?」っておかしいだろ。

「軽く訂正」?頻度が多すぎるんだよ。 毎日毎日雑談から仕事の報告まで、あらゆる会話で地雷を埋めまくって、後から勘違いでした(笑)」「記憶違いでした(笑)」って訂正して回るのか? ただの頭のおかしい奴だと思われるだけだ。訂正自体がもう苦痛なんだよ。今更なんだよって空気が一番きつい。

AIの回答は、全部「正論」なんだろう。でも、致命的に「わかってない」。

火事の家の中にいる人間に「まずは落ち着いて、ドアノブが熱くないか確認してから避難しましょう」って言ってるようなもんだ。こっちはもう全身火だるまなんだよ。

結局、誰にも相談できず、AIにすら見当違いなアドバイスをされて、詰んでる。

俺の脳は、俺が知らないうちに俺を嘘つきに仕立て上げる。 もう喋りたくない。でも生きていくためには働いて、人と話さなきゃいけない。

どうすりゃいいんだよ、このバグまみれの脳みそアンインストールしてえ。

2025-06-06

あのさぁきいてよ

わい奥さん、二泊三日の出からかえってきたらタイムライン

 

 

 

AGC(ハゲ直し)の広告だらけになってた

 

夫くんあぶないの??

 

 

でもちょっとまって

 

出張中にサイバーイグアナがいいこといってたんでおもわずリツイートを……

 

サイバーイグアナリツイートしたらハゲ広告まわしてくるという新たな広告戦略なのか!?

 

夫くんごめんね、ハゲても愛してるよ

2025-05-29

今日大阪の街中のオフィス中庭コゲラ集団を見た。

朝はイソヒヨドリの歌で日の出前に起こされる。最近小鳥が増えているように感じる。それはそれでちょっと嬉しい。

2025-05-15

景色出会うこと

もうだいぶ前の話だが20歳のころ世話になってた先輩が俺をLAに連れてってくれた。

海外なんて行ったこともなかった俺は現地でパシリにされるなとは思いつつ、ウキウキだった。

実際LAは本当に楽しかった。映画とかで見るようなアメリカを感じてワクワクが止まらなかった。

そもそも着いたとたんから、気温は高いのに湿度全然ないだけでこんなに気持ちいいのかと驚いた。

食べ物はけっこうヤバかったが映画が好きだった俺はそれも映画世界に入ったみたいで楽しかった。

そしてそんなLA旅行の中でも忘れられないのがサンタモニカだ。

サンタモニカのビーチにはサンタモニカピアという小さな遊園地みたいなのが併設されてる。

映画ドラマとかでもよく使われてるロケーションだ。

俺は沖縄にも行ったことがないし、そもそもきれいな海を見たことがなかった。

からそのサンタモニカで見た夕焼けに包まれるビーチにほんとうに心を打たれた。

今でもハッキリ思い出せる。サンタモニカピアの桟橋でシャボン玉を飛ばす小さな女の子と、レトロな色合いでピカピカ光る遊園地キラキラオレンジ色に染まって輝く海と夕日。

自分が当時精神的にも肉体的にもベストコンディションだったのもよかった。今ではすっかりひねくれてアメリカは好きじゃなくなってしまったが当時はアメリカっていいなーって思っていたし。

目に映る人々がみんな幸せそうに笑っていて、俺はこんなに幸せ場所があるのか、これこそがパラダイスなんじゃないかって本気で思った。

なにか胸がぎゅっと苦しくなるような切なさもあった。それはこの美しさはほんの一瞬の輝きだって分かっていたからだ。

からこそその瞬間をまるごと目に焼き付けた。そしてその体験は俺にとってどんな人の言葉より、100万もらえるより、ずっと長く俺の心を豊かにしてくれているのだ。

どうしてたまたま見れた景色がそこまで心を豊かにしてくれるのか俺には分からない。でも実感としては確実にそうだ。

俺は元々インドア人間だったけど、その経験をしてから旅行が少し好きになった。

東京に住んでるせいか、人混みが過ぎる狭いとこでは感動的な景色出会うのはやっぱりなかなか難しいなと思う。

NYにも行ったんだがそちらでは感動する景色には出会えなかった。(LAも人は多かったはずだが道とか場所ゆとりがありまくりで混んでる印象がなかった)

でも人の多さ以外はそれほど難しい条件があるわけじゃないと気付いた。海外である必要もない。

もちろんそこは個人差があって、人それぞれに違うとは思うが。

そして心に染み渡るような景色出会うには、ある程度場所大事だが、同じくらい重要なのは時間帯だと今は思うようになった。

例えばどこか山のほうに行くとする。自然に溢れた景色はそれだけで癒やされるものがある。

だけど、日の出前の時間に外に出て湖畔に行ってみると同じ場所でも世界が変わる。

世界自分一人だけかと思うような静けさのなかに朝もやが立ち込めている。

色が失われてまるで水墨画みたいな景色が広がっている。

全然違うのだ。癒やされるとかじゃない、あまりの静寂と美しさに心が震えるとしか言いようがない。

この時の景色もまた、俺の日々を豊かにしてくれている。

いつでもあの静けさの中に戻っていける。その時の空気を肌で感じられるくらいに。そして俺は気分が落ち着くのだ。

俺は宇宙なんか行ってしまったら気が狂うかもしれない。

あとは最初に見るというのはやっぱ大事なんだなと思う。感動する景色というのは最初が肝心だ。

二度目も美しさは感じられるけど、やはり最初インパクトには及ばない。

その最初の一発に出会うためには、結局できるだけ数をこなすしかないのかもしれない。

俺はあまり金もないし暇もない。でもこの先の人生も、そういった景色にどれだけ出会えるかを最大の楽しみにして生きていくつもりだ。

2025-05-12

私が人生で一番怒った時の話

あれは、茹だるような夏の日の出来事でした。

観測史上まれにみる酷暑で、

気温はおそらく35度を優に超えていたと思います

炎天下住宅街を歩いていた私は、

最悪なことに財布を忘れてしまったため、

一滴の水分も補給することができませんでした。

喉はカラカラに乾き、意識朦朧とし始めました。

『このままでは本当に倒れてしまうかもしれない。』

命の危険を感じるほどのどが渇いていた私は、

恥も外聞も捨て水を恵んでもらおうと、

とある一軒家の呼び鈴を鳴らしました。

「どなたかね」

家の中からは、小柄な老婆が出てきました。

私は必死の思いで深々と頭を下げ懇願しました。

「お願いです・・どうか、一杯のお水を恵んでいただけないでしょうか。

財布を忘れてしまい、何も口にできず・・本当に倒れてしまいそうなんです」

すると、老婆はこう答えました。

「嫌だよ出ていきな」

最初、私は聞き間違いだと思いました。

だって、そんなわけがない。

こんなに困窮して、

死にそうなほど汗だくになっていて、

土下座せんばかりの必死さで頼んでいるのに、

「嫌だよ出ていきな」なんてそんな返事できるわけない。

そんな無慈悲なふるまい、

文明をもった社会で、人間によって育てられたならできるわけがない。

私は意表を突かれて、ただ立ち尽くしていました。

「さっさと帰んな」

老婆はそう言って、玄関の扉をぴしゃりと閉めました。

私はしばらく呆然としていました。

・・しかし、どうすることもできない。諦めて帰るしかいか・・

そう思いかけた矢先ーーーーー

私の中で何かがぶちんと音を立てて切れました。

灼熱の感情沸点を超えて大爆発を起こし、

抑えきれない怒りがマグマのように噴き出した。

「このクソババアがぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」

気がつくと、喉が張り裂けんばかりの大声で怒鳴っていました。

自分でも信じられないほどの、制御不能な怒りの咆哮。

乾ききっていたはずの喉から、どうしてこんな声が出るのか自分でも不思議だった。

そして、家の扉を全力で蹴っ飛ばして、ダッシュで逃げました。

世界が灼熱の業火で真っ赤に焼かれた日。

しょせん、この世は弱肉強食以外の何物でもなかった。

他人善意になど期待してはいけない。

結局は自分の力で生き抜いていくしかないのだ。

「強くなろう」そう心に誓ったあの日

私が人生で一番怒った時の話。

https://note.com/lithe_gerbil1811

2025-05-07

東京への脱出、人気のない故郷

私はバブル崩壊直後の関東地方ニュータウンに生まれた。正確には、よちよち歩きの赤ちゃんの頃に引っ越して来たのだが、この街以外で育った記憶はないのだから、ここに生まれたと言って過言ではあるまい。

私の生まれた街は東京から電車で1時間ほどの距離にある。1980年代バブル期の勢いの中開発され、多く平凡なファミリーが夢のマイホームを求めてやってきた。

私の両親もその例に漏れず、元々生まれ育ちは東京であったが、夫婦二人暮らしの時に購入したマンションは二人の子供に恵まれたことにより手狭になり、都心からは離れるが、郊外マイホーム購入に踏み切った。不動産バブルで、元々住んでいたマンションは購入時より高い金額で売れたらしい。そんな時代だ。

高低差のある地形を生かして、住民車道ほとんど通らずに小中学校スーパーマーケットに行くことが出来たし、子供が遊ぶための公園スポーツ施設もそれなりにあった。幼少期にはとても良い環境に思えた。

ところが、バブルは弾け、思ったほどには順調に人は集まらなくなっていった。私が生まれたころに期待を持って開かれた小学校は、いざ入学する頃には、1学年40名前しかいなかった。私が最高学年になった時の一年生は20名だった。私が中学に通っている時分、14年ばかりの歴史廃校した。

小学校卒業後、私は私立中学校に進学した。あまりにも地元中学校が荒れていたためである。だが近隣に相応しい偏差値学校がなく、結局片道1時間半ほどの時間をかけて都内学校に進学した。合理的残酷クラス連絡網は、通学時間が長い者から先に連絡を受けられるようになっており、卒業するまで私はその先頭に位置を譲らなかった。朝練のある運動部に入っているわけでもないのに、冬には日の出を見ながら家を出るような生活だったのでそれはもう辛かった。とはいえ、毎朝弁当を作るために更に早起きしていた母はもっと大変だっただろう。なんなら自宅から駅までも相当の距離があったので毎日送迎してくれた。専業主婦であったからこそ出来たのだろうが、それについては深く感謝している。

とにかく、そのような感じで中学高校時代を過ごした。大学進学時、兄は一人暮らしを始めたが私は許されなかった。中高で通えた実績があるので、始業時間が遅く、距離も数分近いため、通学時間の長さは一人暮らしをする理由にはならなかった。

社会人になって1年目も同様に実家から通った。始業時間の遅い会社入社したため、その分定時は遅かった。定時退社して寄り道せずに家に帰ったとしても、夜9時より早く家に着くことはなかった。その頃は仕事終わりに学生時代の友人から誘われることも多かったが、時間が合わずほとんど行かなかった。次第に誘われなくなった。

社内の激務部署に異動したのは良い結果と悪い結果を私にもたらした。あまり残業が多く終電で帰れない日が多くなった。帰れない日には、一人暮らしの兄の家に泊まることがあったが、繁華街近くのセキュリティも怪しい部屋に伝手でタダ同然で住んでいるので、深夜にそこに行くのも嫌だった。ほとんどヒステリーみたいな状態で親を説得し、ようやく一人暮らしを始めることができた。

初めて住んだその部屋は、親の要望でとにかく周辺の治安セキュリティに特化しただけの部屋だった。古い建物で、北向きだし、大通りに面していてうるさいし、換気扇ほとんどきかず、火災報知器が良く鳴った。でもすごく自由だった。

新しく買った家具カーテンとベッドくらいで、机や箪笥実家の古いものを持っていけと言われた。一度だけ部屋に招いた友人には殺風景過ぎて「こんな部屋に一人にしておけない」と心配されたが、自分ではそんなに悪くないと思っていた。(それ以降部屋に人を招くのはやめた)

仕事は激務で、土日は部屋で寝てばかりいるという生活が6年ほどあって、20代の時間ほとんど仕事に費やすことになったが、私を都会に脱出させてくれたのもその激務であったので、その仕事から離れた現在でも、恨みと感謝の入り混じった複雑な思い出となっている。

ろくでもない部屋でも、都会の生活は最高だった。何が最高かと言えば「大体のことは取り返しがつく」ことである実家暮らしていた頃は、1日をスタートするにあたり前日までにはある程度計画を立てなければいけなかった。起きる時間で行ける場所は変わるし、時刻表確認しなければ駅でずっと待ちぼうけすることになる。都会では、適当に朝寝坊して、昼過ぎに思いつきで外出しても何処にでも行ける。なんなら夕方から外出したって良い。遅くまで営業してる店はいくらでもある。何か忘れ物をしても大体現調達できる。無計画にふらっと外に出てもどうってことない。「帰る時は駅まで迎えに行くから連絡してね」と心配する母親もいない。帰りたくなったら好きに帰れる。

10年ほどそんな自由暮らしをしていた。

ある日、実家に帰ると兄嫁が0歳児と共に暮らしていた。諸々の事情があり、しばらくはこちらで生活しているらしい。赤子の散歩がてら、かつての通学路を一緒に行くことにした。

かつてより全体的にひとまわり小さく感じられる道を歩く。あまり整備の行き届かなくなった道はデコボコだらけで、ガタガタとバギーを揺らした。見事な桜並木は健在だが、大きく育った木の根が地面に亀裂を作っている。見覚えのある家がずっと残っているが、人の気配はほとんどない。ここに家を建てた家族の子供たちは大人になってほとんど地元に残らなかった。3000万円そこらで売っていた家は大体100万ちょっとになってしまったらしい。私でも買える値段だ。絶対に買うことはないが。

こどものころは結構この街のこと好きだったのにな。

赤ん坊にはガタガタの路面の起こす振動が心地よかったらしく、スヤスヤとよく眠っていたので適当なところで家に引き返すことにした。どうせこの道を進んだって大したものはありゃしないんだから

帰り道にかつての母校のグラウンドを横目で見た。近隣の大学運動部グラウンド活用しているらしい。大勢大学生が楽しそうに活動しているグラウンドは、やはりあの頃見たよりも小さい。

2025-04-16

寺田心くんありがとう

ゲーム仲間と「俺ら寺田心くんに結婚先越されそうだよな」ってネタで話したこときっかけに

じわじわ2人ともネタじゃなくガチで焦り出して

婚活して結婚できました

40代おっさんだけど毎日その日の出来事を話すだけで幸せです

2025-04-14

Nintendo Switch 2 発売日100万台出荷できるの?

仮に発売日の出荷数が100万台とするじゃない。

そんな1日に100万の荷物の出荷処理って物理的にできるの?

この時点で、物流って意味で無理すぎない?

そんな数さすがに、さばけないだろう?

2025-04-07

ドラマ映画の早朝に撮影されたシーンが好き

スケジュール撮影場所制限の都合なのか早朝の時間帯に撮影したと思われるシーンがときどきある。

明らかに太陽位置が低く影が長く伸びてしまっているので、日の出とともに撮影しているのだろうなというのが何となく分かる。

街中のストリートカフェで人々は早朝から談笑しているし、

地域お祭りは早朝からたけなわだし、

戦隊仮面ライダーは早朝から怪人との死闘に臨んでいる。


追記

皆さん反応ありがとうございます

言葉足らずだったのですが、正確には「早朝に撮影された"劇中では明らかに早朝ではない(もしくは早朝である必然性がない)シーン"」が好きなのです。

上記の例だと、

ストリートカフェ : 早朝から街中のカフェって徹夜明けか?それにしても開店するのが早すぎる

地域お祭り : 人出が増えて盛り上がり始めるのは普通は昼くらいからでは?みんな昨晩興奮して眠れなくて朝から全力で楽しんでるのかな?

戦隊ライダー : 都心から離れた場所で戦うことが多いんだから午後イチくらいのアポの方が都合が良いのでは?それとも真夏だと熱中症対策で早朝なのかな?(スタッフ演者ではなく、戦隊ライダー・怪人が、です)

みたいな感じで劇中の状況と実際の状況がかみ合っておらずチグハグツッコミどころがある(と私は思っている)のがジワジワくるので好き、という感じです。

そういう意味だとブラタモリは、前日入り→翌日早朝から日ロして当日中に帰京する、と考えれば不自然スケジュールではないので番組自体は好きですが上記の好きには該当しません。

仮面ライダー龍騎といえば、映画(EPISODE FINAL)では「劇中は真冬だが撮影は春~初夏」という事情により、演者ニットやダウンなどで防寒完璧なのに背景の木々は青々とした葉が茂っていてクソ暑そうである、という状況がチグハグなので同様に好きです。

2025-04-02

俺は京都タワーてっぺんに住んでいる男。毎日、高さ131メートル絶景を独り占めしながら生活してる。ルーティンはこんな感じだ。

6:00 朝日を浴びながら目覚める。雲の上から見る日の出は最高だ。

6:30 タワーの窓を拭く。これを怠ると景色台無しになる。

7:00 朝食はコンビニおにぎり。昨日、地上のローソン仕入れておいた。

8:00 タワーの観光客を上から観察。見下ろすのが日課

12:00 昼食。たまに地上に降りてラーメン屋へ。京都駅周辺の店を巡るのが趣味

13:30 エレベーター点検をこっそり見守る。タワーの安全は俺にかかっている(気分だけ)。

15:00 昼寝。高さがあるせいか風が心地よい。

18:00 タワーのライトアップをチェック。俺がいるからこそ京都夜景が美しくなる。

19:00 夕食。Uber Eatsで寿司を頼むが、配達員がタワーのてっぺんまで来てくれないのが悩み。

21:00 夜景を見ながら一杯。日本酒が最高に合う。

23:00 流れ星を探しながら就寝。

これが俺の毎日だ。京都タワーの頂上に住むのは孤独だが、悪くない。

2025-03-31

国家公務員10年目だけど人生不安しかない

おかしい……国家公務員一般職こそ全てのトータルバランスに優れた最高の仕事のはずでは……

やりがい→なし アホなトップが「正しい判断をした」ことにするための歴史修正ばかり。マジで1984世界

安定性→なし 親の介護必要になったら明らかに積む。2 年周期の全国転勤だから最初から半分終わってるので、あと少しのトドメでいつでも完全に死ねる。

将来性→なし 老朽化した国を支える最前線なのでドンドン苦しいだけの負け戦になる。

給料→中の下 手当はあれど基本給の低さで帳消し。転勤費用出張費用で一部赤字が発生するのでトータルではマイナスに。昇給が遅いので資産運用とかも難しい。後述するが残業代の低さでトドメ

労働時間→長い 民間の上位層よりは低いが、そこと違って給料への反映が悪い。残業代予算の上限があるからフルにつかず、土日の出勤は使えもしない代休として消える。

有給→取れない 取ろうとすると圧がかかる。取ると物凄い不満が出る。当選権利行使することを悪とする奴隷根性の腐った空気

仲間意識→ない 2年転勤なので平均1年でさよならする関係であり、短期バイトレベル関係しかない。バイトと違って責任のある状況なのでギスリけが一直線に加速する。


うん。

完全に転職失敗したわ。

さっさと再転職した方が良かったわ。

もうむりぽ。

2025-03-29

2025年3月北京旅行備忘録その4

北京旅行増田です。土曜日時間取れたので進めます

初めて北京旅行に行ったら必ず訪れるであろう天安門広場故宮。もちろん今回の旅のメインである。どちらも人数制限あり、前日までの予約必須ということで、行き当たりばったりの計画では中に入ることができない。基本的北京観光地中国人向けであり、外国人にとって予約の難易度が高くなっていると思う。そりゃ、10億人以上も国民がいるので国内需要だけでものすごいわけですよ。

ガイドブック等を見ても、個人での予約は難しい。現地ツアー代理店に頼むべし、みたいなことが書いてあることが多いが、増田は事前準備を進める中で、個人でも大丈夫だな、と判断代理店等は使わずに予約完了できた。3月中旬旅行の閑散期だったから出来た話かもしれないが、個人対応するのが好きな方は参考にしてもらえれば。

目次

事前準備(その1)

ホテルの予約(その1)

交通状況(その1)

観光地

 ・大同古城、雲崗石窟(その2)

 ・北京大学、頤和園(その3)

 ・天安門広場故宮(今回)

 ・八達嶺長城、雍和宮(その5)

食事

 ・四季民福

 ・鳳臨閣(大同市)

 ・南拳十三姨·潮汕砂锅粥

 ・東来順

 ・很久以前羊肉

 ・京兆尹

観光地

天安門広場 おすすめ度 ★★★★☆

まずは予約編。他の観光施設と同じようにWeChatミニプログラムから天安門広場検索、起動して予約する。天安門広場の入場は無料だが、時間帯別(日の出、午前、午後、日没〜夜間の4つ)があり、それぞれでチケット枚数の上限があり、前日までに予約が必要。また、1回の予約は大人4名(6歳未満を含めた場合7名)までしかできない。そして1台のスマホで同じ日時の重複予約はできない仕様。今回の増田一行は7名なので、増田夫婦で4名+3名でそれぞれ予約しないといけなかった。天安門広場毎日日の出国旗掲揚をして、日没で降旗する儀式をやっているので、それを見たい人向けの予約時間帯がある。増田は午前枠で予約したが興味があれば試してみて。

天安門広場故宮周辺はタクシーの乗降が制限されているエリアで、DiDiを使ってもここまで来れないので、地下鉄を使うのが一般的天安門広場入口は4箇所あり、増田一行は地下鉄1号線の天安門東駅から入場した。9時ぐらいの到着だったが、地下鉄からすでにすごい人だかりができている。天安門広場へ向かう人のほか、故宮へ直接行く人、天安門広場横の国家博物館へ行く人で溢れている。列を間違えないように天安門広場へ入るセキュリティチェックのゲートへ並ぶが、ここでトラブルが発生。WeChatミニプログラムを開くと、増田手続きした4名分の予約がごっそりと消えていた。予約完了後にスクリーンショットを取ってあったので、予約したのは間違いないのだが、消えた原因はさっぱりわからない。また、増田妻が予約した3名分問題なかった。セキュリティチェック前の入場券確認でやっぱり引っかかり、スクリーンショットを見せてもやはり通してもらえず、英語一生懸命説明するが、係員も英語できないので5分ほどここで停滞。老人がいて7名中3名のチケットはあるので最後には、しょうがねーなー、という感じで通してもらった。係員さん、ありがとう

天安門広場南北に広い広場になっている。北側国旗、真ん中に人民英雄紀念碑、南側毛主席記念堂がある。道路を挟んで北側に、毛沢東肖像画が飾られた天安門が見える。その広さに圧倒されるとともに、どうしても天安門事件を考えてしまい、当時の学生デモの状況や戦車による鎮圧などテレビで見た風景脳裏に蘇ってくる。広場自体見学するところも特にないので、記念撮影などをそこそこにして北側にある故宮へ向かう。

故宮 おすすめ度 ★★★★★

北京観光メインディッシュ。これまたとてつもなく広いので、ずっと歩き回らないいけない。今回は春で天気も良かったので過ごしやすかったが、真夏真冬は大変だろうなと思う。事前に映画ラストエンペラー」とか日本でも放映されている中国宮廷ドラマなどを見て予習すると更に楽しめると思う。

まずは予約編。ガイドブックでは中国電話番号がないと予約できないとか、予約可能枠は瞬殺で無くなるので、個人での予約は難しいようなことが書いてあり、当初はVeltraなどのツアーサイトから予約しようと思っていたが、準備編に書いたように中国電話番号を手に入れて、WeChat故宮ミニプログラムで予約の仕組みや連日の予約状況を調べて行くにつれて、これは個人予約でも大丈夫そうだなと判断した。7日前から予約可能で、午前・午後枠を選ぶ。午前枠でも出る時間は午後でも構わないが、12時までに入場しないといけないので注意。午後枠は11から入場できる。入場料は一般20元、老人(60歳以上)10元、幼児枠はあるが未成年の割引はなかった。その他オプションで鐘表館、珍宝館の入場券(それぞれ10元、老人半額)が選択できる。機会損失の無いよう買っておいたが、鐘表館は入らなくてもいいかなと思う。珍宝館のチケットは、九龍壁など通常券では見れないエリアがあるので買う価値があると思う。

1回の予約で5人分までしか予約できないが、複数購入ができるので2回に分けて購入した。予約にはもちろん全員分のパスポート情報必要で、最後電話番号入力がある。ここで日本携帯電話番号を入れると弾かれて購入できない。増田中国電話番号を取得済みなので、無事に予約完了となった。ただ、SMS受信をしてアクティベーションするわけでもなさそうなので、中国電話番号法則を調べてダミー電話番号を入れて購入する裏技があるみたいな情報も見かけた。(何があるか分からないのでおすすめはしない)

さて、いよいよ入場であるが、天安門広場から地下を通って天安門城楼をくぐって故宮入口まで歩くのだが、入口につくまでが長い。感覚としては7〜800mぐらい歩く感じだ。そして入場の列に並ぶのだが、これまた長蛇の列になっていて、並んでから入場まで20分ぐらいはかかったと思う。大同古城編でも書いたが、清朝着物コスプレサービス提供する店が多数あり、故宮見学の人の中にも多数の皇帝皇后衣装をまとった人たちがいた。日本語を話しているコスプレの人もいたので、興味があれば調べてチャレンジして欲しい。いつものようにセキュリティチェックとパスポート読み取りをしてようやく入場。隣の列にいた西洋人カップル女性の方だけがパスポートチェックが通らずに止められていた。こういう場合どうなるんだろう?と心配になった。

そして故宮の中も広い!広い!広い!入場までにも天安門、端門、午門と3つの大きな門を抜けているが、さらに太和門を抜けて、ようやく皇帝の執務室?である太和殿に着く。でもこれまでは前半部分でしかなく、後宮である居室はもっと奥にある。太和殿の左右のエリアにも、それぞれ見どころはあるのだが、全部見るには体力がものすごく要るので、今回はメインどころしか見ていない。旅行前にドラマ映画で予習をしておけば、もっとこだわりの見学ができるかもしれない。

太和殿を過ぎたあたりでお昼の時間になり、疲れてきたところでもあるので昼食を探す。故宮内にはいくつか故宮餐庁と呼ばれるレストランがある。日本だったらこのような観光地レストランは1〜2時間待ちになりそうなものだが、中国人食事を持ってきているのか、行列はできているが、ちょっと待てば入れそうな雰囲気だった。増田一行はベンチが確保できて休んでいたのでレストランには行かずに売店ホットドック(爆汁熱狗棒)4本とサンドイッチ(かなり本格的で美味しかった)3セットを買って食べた。合計170元、観光地価格ではあるが、十分な量があり満足した。

昼食後にオプションの鐘表館と珍宝館を見学する。鐘表館は清朝時代時計が展示されており、前半はフランスイギリスから献上?されたものが展示され、後半は中国国内制作されたものがあった。10分も見れば十分かなあと思うので、特別思い入れがなければパスしても構わないと思う。珍宝館は太和殿から見て東側エリアにある。その名の通り、中国の秘宝を展示しているのだが、貴重なもの翠玉白菜とか)は蒋介石台湾に持っていってしまったので、そんなに有名なものはないと思う。(増田が知らないだけかもだが)ただ、このエリアには九龍壁などがあるので展示物は見なくてもオプション料金払う価値はあると思う。ご参考まで。

東側の珍宝館エリアから後宮方面に移動するが、この時点がかなり歩き疲れている。後宮エリア中央皇帝の居室である乾清宮があり、その東西に東六宮、西六宮と呼ばれる后たちの館がある。「宮廷の諍い女」などの中国宮廷ドラマを見ている人であれば、きっと楽しめる要素がふんだんにあるのだと思うが、増田一行はドラマを見ていないのと足の疲れがピークに達してきたので、東西六宮は完全に無視して中央部のみを見学しながら出口に向かった。皇后寝殿である坤寧宮を越えると今までは見ることのなかった木々が多数生えているエリアに入り、最後に延和門をくぐって出口を出る。中国人はどこでもタバコを吸うが、故宮の内部は禁煙なので出口の広場タバコを吸い出す人が多く、もくもくしている。

故宮北側には景山公園という築山があり、ここに登れば故宮を見渡すことができるようだが、思ったよりも高く、疲れた足に鞭打って登る気にはならず、またこの後にホテルの移動があるので、そのままDiDiに乗ってホテルへ戻ることにした。ただし、故宮口付近はタクシー乗降の禁止エリアになっていてDiDiの配車も出来ないので、禁止エリアを出るために500mぐらい歩くことになった。故宮出口の北側道路は、北京の他の観光地に向かうシャトルバスの乗り場があり、中国人バスに乗って移動しているようだったが、仕組みが分からないので手を出していない。DiDiでホテルに戻り今日観光完了今日もたくさん歩いた。義母歩数計によると15,000歩だったそう。

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続き> https://anond.hatelabo.jp/20250330235649

2025-03-26

黄砂かで目がメガ痒い増田素毎床が目が目で傘浮こ(回文

もしもピアノが弾けたならストリートピアノを弾いてみたいわ!

おはようございます

なんか目が痒いかも。

メガ目が痒い!

つって!

花粉症ではないけれど、

操作黄砂よきっと黄砂

なんか大気ほこりっぽいような気がする。

いやこれ天気予報明日黄砂がひどいでしょう!って言ってるのを聞いちゃったもんだから

そんな気持ちなっちゃってる可能性100パーセントよね。

目薬切らしかけているので、

新しい目薬買ってこなくちゃって思いつつ、

スースーする目薬とスースーしない目薬と

2つ使い分けていて

なかなかスースーする目薬は滅多に使わないので減らないけれど今回もうこっちの方もなくなりかけているのよね。

から目薬2つ買ってこなくちゃいけないのよね。

うわー目薬2つ勝ってくるのって大変だわー。

大変だって言うのはウソだけど。

中条きよしさんほどのウソほどではないけれど、

食品とかならマーケット早々に早く閉まっちゃって閉店のシャッターが閉まる寸前にインディージョーンズみたいに滑り込んでこの際飛び込み前転はできないけれど、

そして、

スライディング滑り込んで入店する際に、

被っていた帽子シャッターの外に落ちてしまって

あわや帽子が取り残されてしまうか!ってところをギリギリ手を伸ばしてシャッターが閉まる寸前にキャッチ

そんなインディー帽子キャッチを決めなければいけないぐらい

閉店時間がキワキワのギリギリのパツパツなのよ。

でもドラッグストアって比較てっぺんまでオープン時間やってんじゃない。

から余裕綽々で

飛び込み前転も軽やかに決めて入店して

帰り道でも余裕で目薬ぐらい2つ買う勇気はあるわ!

目薬を買いに行くのは夜にしましょう。

あと今日を持ちこたえられるほどの目薬は何滴かは

数滴かはあるわ!

から今日は目がメガシバシ痒くなってもこすっちゃだめよ!って自分自身に言い聞かせて

残された目薬の数滴を超貴重に使うわ。

あとさ、

不意にさ自転車に乗ってて目に飛び込んでくる小さい虫いない?

あれ目からメガ出てこないんだけど

あの虫の行方は?

どこに行っちゃってるの?

目の裏側にメガ溜まってるの?

それとも目のパワーでメガ消化されてるの?

こんな小虫なんてちょろいっすよ!って目の消化パワーがあんのかしら?

いや分からないけれど自然に出てくるのかしら?

そんな記憶が無いまま暮らしていていつの間にか忘れちゃうのよね。

だってそんな目立った違和感メガあるわけではないので、

知らない間に忘れちゃって、

あ!そう言えばって感じで人間暮らしているのよ。

でも、

今夜は目薬を2つ買いに行くことを忘れないようにしナイト

夜だけに!って。

あと、

こないだトマト鍋に味変して今シーズン最後のベーナーの鍋のことになるかしら?って思ってたんだけど

なんかやっぱりトマトだけじゃ酸っぱくて酸味強くてどうしようもないわね。

トマトだけじゃないトマトだけじゃなく

他の旨味の食材も足さなければいけナイト

って夜だけにってそうは思ったけれど、

どうしようもないので、

一旦お鍋はリセットして綺麗にしちゃうわ。

ちょっと失敗ね。

トマトだけじゃ駄目ってことを知ったのよ。

うふふ。


今日朝ご飯

おにぎりしました。

最近おにぎり続き気味のおにぎりフィーバーで熱気があがっているわ。

早起きだんだん陽が本みりんじゃない方日の出が早くなってきたので

早い時間から外が明るくなって起きやす早起きやすくなってきたのもいいわね。

暖かくもなってきているし、

いいシーズンよ。

デトックスウォーター

ルイボスティーウォーラーをたくさん作っておいたのはいいんだけど

そろそろ気温も高くなってくるから

冷蔵庫に入れてしまっておかないと腐っちゃう気を付けないとってことで、

今日ルイボスティーウォーラーを作って

ホッツから冷たいのに変更の境目かも知らないシーズンでもあるかも知れないわ。


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

2025-03-14

リモートワークによるビジネスチャットツール依存症者の末路

あれは何年前の事だっただろう。

はるか昔の事のようにも思えるし、つい昨日の出来事だったようにも思える。

当時、俺はとあるIP原作としたオンラインゲームの開発と運営に携わっていた。

開発終盤、運営直前とも言える時期にコロナが大流行し、

会社リモートワークを推奨するようになった。

幸い、バージョン管理ツールオンラインドキュメントツール、それとSlackのおかげで、

リモートワーク中心の体制でもなんとか仕事が回っていた。

開発から運営に切り替わる少し前くらいのタイミングで、

俺はただの作業員からプロジェクトマネージャー役職が変わった。

運営中のある時、ゲーム原作であるIP映画金曜ロードショー放送される事になった。

原作3部作、3週連続放映だ。

1週目と2週目は問題なく、普通にただのIPファンとして酒を飲みながら金ローを楽しく観ていた。

3週目も勤怠を切り、酒を飲みながらそれまでと同じように金ローを観ていた。

酒が随分まわってきて、映画面白くなるタイミング差し掛かっていた。

そんな時に事件は起きた。

俺のiPhoneにSlackの通知。

新規ユーザーが増えすぎてサーバー負荷が耐えきれない」

そんな感じのメッセージだった。

俺はテレビから目を背け、

急いでSlack上に関係メンバー招集した。

サーバーインフラ担当者に状況を聞き出し、

現状の事態必要コストをまとめ上層部に報告。

サーバー追加費用承認を取り、担当者に緊急メンテを依頼し、

SNS担当者には緊急メンテの告知の依頼、文面の確認、それらを酔っ払った状態でやっていた。

サーバーチームから作業完了の報告を受け、QAを通して問題なければメンテを開ける旨をチームに周知した。

しかし、QAリーダーから反応がない。

ずっとSlackでメンションを飛ばし続けているが、スタンプすら反応はなし。

俺はQAリーダー電話をかけた。

何度も何度もかけまくった。

しかし、電話に出ることはなかった。

そりゃそうだ、今日は金曜の夜だ。

飲み会の真っ最中かもしれないし、寝ているかもしれない。

仕方なくサーバーチームと協力し、一通りの動作確認を終えると、メンテを開けた。

その後しばらく状況を監視し、結局金ロー鑑賞どころではなかった。

その晩の事だけではない。

俺は常にSlack確認していた。

何か問題が起きていないか?誰かがメッセージを送って来ないか

日曜の夜突然上司から重要メッセージが来ることも度々あった。

365日24時間、ずっとそんな調子だった。

常にSlackが来る事を覚悟していた。

いや、覚悟なんていうカッコいい表現ではない。

怯えていた。明らかに今思えば当時の俺はいつどのタイミングで来るかわからないSlackに怯えていた。

…そうやって怯え続ける日はあっという間に終わった。

ゲームサービス終了した。サ終、ってやつだな。

サービス終了と共に契約を終了した当時のインフラリーダーと久しぶりに飲む機会があった。

その時俺は、あの金ローの夜の事を謝罪した。

あの時俺は酔っ払っていた、支離滅裂な内容の文章を送っていたかもしれない、

的確な判断と行動が出来ていなかった、それなのに事態収束させてくれた事に今でも心から感謝している、と。

しかし、相手からの返答は意外なものだった。

「え、俺さん酔ってたんですか?全然気づかなかったですよ。」

俺氏フリーズ

お世辞?ねぎらい火事場の馬鹿力?酔拳の類??

…まあいい、まあなんでもいいだろう。

さて、サービス終了後、俺は燃え尽き症候群回避する為に2週間くらいまとめて有給を取得した。

既に別プロジェクトに配属されていたが、今なら取得しても問題ないと思ったタイミングだったから取得した。

そこで、人生で初めて温泉旅行というやつに行ってみた。

そこでゆったりと時間を過ごせば燃え尽き症候群回避出来るはずだと俺は思っていた。

しかし、俺はそんな旅行中にSlackを見てしまった。

俺宛のメッセージではない。

ただのチャンネルスレッド他人のやり取りだった。

内容は、新しいプロジェクトマネージャーの加入の話だった。

開発からサ終まで約4〜5年、早朝も夜間も休日も全て注ぎ込んでいたプロジェクトが終った後に取得したたった2週間の休暇。

それさえも許されなかったのか。

俺は旅行中にプロジェクトマネージャーを外された。

俺の知らない所で、俺になんの相談もなく。

燃え尽き症候群回避計画は大失敗に終った。

その後何件かプロジェクト担当してみたが、

メンタルクリニックで処方された薬が原因なのか、単に疲れていただけなのか、

毎日が眠くてずっと居眠りをしていた。

重要会議中でも、重要取引先との会議中でも、俺はずっと寝ていた。

そしていつの間にか追い出し部屋送りになっていた。

追い出し部屋と言っても、その頃仕事がなかった俺の追い出し部屋は自宅の6畳一間のマンションの部屋だった。

ある日俺は何を思ったのか、いや、何も思えなかったからなのか、

眠気を回避する為に飲まずに貯めていた処方薬を酒と共に大量に飲んだ。

目が覚めたのが何月何日何曜日の何時だったか覚えていない。

身体が全く動かず、救急車を呼びたくてiPhoneを操作したが119が打てなかった。

意識朦朧としていたので、救急車の番号が119なのかさえよく、わからなかった。

何度かの間違い電話を繰り返した後、救急に繋がった。

なぜか声も出なかった。喋りたいのに喋ることが出来なかった。

それでも不思議救急隊はマンションまで来てくれた。

到着までの間ずっと俺に話しかけて来たが、あれは意識を保たせる為だったのだろう。

部屋の鍵を誰がどうやって開けたのかわからないが、

つの間にか俺は病院にいた。

意識が戻りSlack確認すると、その日は東京ゲームショウの日だった。

俺は自社ブースの案内スタッフとして早朝から幕張メッセに行かなければならなかった。

Slackには「俺さん今どこですか?」というSlackが届いていた。

俺は「事故に遭い病院に居ますTGSには参加出来ません」とだけ返信した。

そんな感じで、もう潮時だったのか、会社から退職勧奨に応じ俺は無職になった。

先日、前職を退職済みの元同僚と久しぶりに会う機会があった。

彼女とは同じプロジェクト担当したことはなかったが、

なぜかその日はお茶を飲みながら話をした。

彼女も同じような事を言っていた。

「退勤した後も、退職した後も、ずっとチャットツールばかり気になっちゃうんですよね。」

と。

明らかにこれは依存症ではないか

ビジネスチャットツール依存症、とでも言えば良いのか。

アルコールドラッグのような、一時的快楽を求めるものによる依存症じゃない。

不安」を回避するための依存だ。

快楽などというものは一切得られる事はない。

それなのに依存症、確実に依存症と同じではないか

そうだ。

俺も、自殺未遂から目覚めた病院で一番最初に何をやったか

Slack確認したんだよ。

一命を取り留めた直後に、一番最初に取った行動が「Slackを見る」

だったんだよ。

本当は、もっと他にやるべき事があったんじゃないのか?

人間として…

さて、昨今ではコロナも落ち着いたのか、職場回帰が進んでいると聞く。

しかし、人は一度便利なものを知るとそれを使い続ける。

Slackをはじめとするビジネスチャットツールも同じだ。

今、世の中に、勤務時間外、休日、旅先、家族との時間

そういった時間ビジネスチャットツールに割いている人はどのくらいいるのか。

そのうちどのくらいの割合の人数が「依存症状態にあるのか。

24時間365日運営しているゲームアプリシステムサービス、それらの類の担当者大勢いるが、

彼ら彼女らは「ビジネスチャットツール依存状態になっていないのか?

今なっていないとしても、この先罹患しないと言えるのか?言い切れるのか?

もし、これを読んでくれた人の中で、ビジネスチャットツールを常用している人が居たら、

どうか俺のようにならないで欲しい。

しか依存症として定義認識もされていない上に医学的根拠も何もないこの「依存症のようなもの

対策方法として具体的に何をやったら良いかからない。

からないんだ。

申し訳ない。

だがどうしても俺のような末路には行き着いて欲しくない。

もし偉い人、精神科医、そういう立場の人がこれを読んでくれたのであれば、

から防止策を考えてくれないだろうか。

どうしても俺のような廃人を増やしたく無いんだ。

2025-02-19

雑談ネタを作るためにしていること

トーク力が無いので、増田に書いて反応を見てから人に話せるネタか確かめている。

方法

  1. 1日の出来事をChatGPTに入力し、ネタになりそうなものタイトルを5つ出す。
  2. それらを増田に書いて投稿
  3. トラバ3もしくはブクマ3を獲得したら雑談ネタ認定

現在問題点

話す人がいない。

2025-02-12

年を取るごとに時間が進むのが長くなってるような・・・

1年があっという間って言うけど

なんか、昨日の出来事が先週みたいに感じるんだよね

2025-02-08

起きろ馬鹿野郎休日だろうと怠けるな!太陽が昇ってるのが見えねえのか!貴様人生日の出と共にスタートさせろ!

まずは水を飲んでランニング行ってこい! 目を覚ませ!体中の細胞叩き起こしてこい! ハムスターみてえに家でゴロゴロしてんじゃねえぞ!貴様もっと動けるはずだ!

帰ってきたら水浴びだコラ! 汗と脂と怠惰を洗い流してこい!気合い入れてこい!

その後飯を食って 脳みそ栄養を与えろ!

今日は一日、貴様人生を見つめ直す日にする。 今のままじゃ、貴様はただの酸素を浪費するだけの存在だ!

から勉強でもしろ!TOEIC900点、統計検定1級、全部取ってこい! 資格武器だ! いくつあっても困らねえ!

夕方からプログラミング勉強だ!AI仕事奪われたくなければ、AI使いこなせるようになれ!時代に取り残されるな!

夜は自己分析だ! 貴様の強みと弱みを徹底的に洗い出せ!そして、弱みを克服する方法を考えろ! 寝るな! 考えるんだ!

いか貴様もっとできる! 俺はそう信じてるぞ! だからこそ、厳しくするんだ!

さあ、今すぐ行動開始だ! グズグズしてたら承知しねえぞ!

今日も夜に起きてゲーム配信を見ながら日の出を迎える一日だった

2025-01-14

看護師の妻と結婚して11年目

・少し前に「看護師結婚して10年目」というタイトル匿名ダイアリー(すぐに削除されたので内容は読めなかった…残念)があり、タイトルに親近感を覚えたので、触発されて書いてみようと思った。

・これを書いてるのはとある地方都市部の端っこに住むアラフォーおっさん公務員(閑職)

看護師の妻と小学生の子もの4人家族

・今の生活に満足

・みんな幸せに暮らせるといいな


昨日(もう一昨日か)、地元成人式があった。地方だと成人の日(月曜日)ではなく日曜日成人式を行うところもあるのだ。東京とかから帰省し、旧交を温めてまた戻っていく若者達への配慮だろう。

自分の住んでいる地域は、都市部だが辺境ということもあってか、まだ小学校単位成人式を行えるような人口規模を保てていて、こぢんまりとしているが、その分アットホームな感じの成人式だ。


少し前に運命のいたずらで地元自治会メンバーになってしまい、今年の成人式にも参列することになったが、やっぱり40代から見る二十歳の若者というのは本当にまぶしい。エネルギーに満ち溢れている。

小学校卒業して8年しか経っていないはずなのに、こんなに大きくなるもんなんだな…自分の子もも、あと10年もすればこうなるのだろうか。今から晴着姿が楽しみだ。


さて、結婚して10年が過ぎて、11年目に入った。

妻とはマッチングアプリ出会ったが、当時はまだマッチングアプリ出会って結婚、というのがそれほど普及していなかった。職場でも「どこで知り合ったの?」と聞かれるとマッチングアプリで…とは言いづらかったので、合コンで知り合ったということにしていた。


看護師といっても診療科や勤務先(病院・クリニック・訪看etc.)によって勤務形態も大きく異なる。当たり前だけれども。詳細は伏せるが、妻は深夜勤はないが夜勤が週に1~2回のナースだ。

妻が夜勤の日以外は、家族全員で夕食を食べているのだが、それが一日で一番楽しい時間だ。家族みんなで、その日の出来事を、あーだこーだいいながら晩御飯を食べるのだ。

今日学校給食がおいしくておかわりした」だとか「いつもはぶっきらぼうなあの患者今日はなんか機嫌がよさそうだった」だとか、本当にとりとめもない話ばかりだ。


私は数年前に仕事精神的に追い込まれて心身に異常をきたした。

だが早期にそれを察知した妻が、すぐに受診できる心療内科を探し、予約してくれたおかげで、比較短期間で復職することができた。

そのことがなかったとしても、妻のことが大好きで心から愛していることには変わりないと思うが、その経験があったからこそ、家族の何気ない時間のかけがえのなさに気付くことができたとしみじみ思う。


ちなみに婚活マッチングアプリについて言うなら、私はアプリ登録してかなり早期に今の妻と出会ったので、いわゆる婚活の大変さをほぼ経験しなかったのであまり参考にならないかもしれないが、

あえて言うとすれば「この人とは、肩ひじ張らず自然体の自分でいられるなあ」と3回目くらいのデート確信したので、あとはそのまま機会を捉えて告白婚約結婚という感じだった。

現在婚活をしている人たちはいろいろな要素で悩む部分はあると思うが、そういう直感大事かなと思う。


仕事では、完全に出世ルートを外れてしまって幾星霜だが、「この組織に貢献したい」という思いは変わらず持ち続けているので、この先どんなところに飛ばされたとしても、それなりにやりがいを見つけてやっていけるんじゃないかな、と思っている。

給料世間一般で見ればよい水準だし、もう十分なのかなと思う。

かつては大好きで独身の頃に休日は一日中やっていたゲームも、もういいか…という気分になってきた。というか土曜日子ども習い事への送り迎えがあるし、日曜日は何かしら地域活動が入っていたりで、趣味に打ち込める時間は正直ない。でも別にそれでいい。加齢とともに感受性は落ちてくるものなのだコンテンツまっさら気持ちで楽しめないとでも言おうか。


そんな私が今思うのは、自分の子ども世代大人になったときに、幸せを感じられる世の中であってほしい、ということだ。

少子化に歯止めがかからず、日本全体がシュリンクしていくのは確定している。

残念だが、子どもを産み・育てていくことが、コストとしてばかり捉えられてしまっている。まあ経済合理性から判断すれば至極当然だが、とても残念だ。


それでも。

少しでも多くの人が、希望を持って、幸せを感じて生きていける世の中、世界になってほしい。

匿名ダイアリーに集う皆様も幸せを感じられますように。

2025-01-12

私のパートナーはてな匿名ダイアリーユーザだった

 普段の何気ない会話の端々に、妙な言葉かいや独特の言い回しを感じることがあった。たとえば、やけに「はてブがどうの」とか「増田でこんな話があって」などといったフレーズを使うのだ。わたし自身は以前からSNSTwitterくらいしか触れてこなかったし、「はてブ?」と訊いても「はてなブックマークのことだよ」と軽く流されるだけだった。もちろん、わたしには特に興味もなく、「そんなものがあるのね」という程度でいつも終わっていた。

 今思えば、彼のなかで何かを吐き出すための行為が「はてな匿名ダイアリー」だったのだろう。わたしが初めて「匿名ダイアリー」というものにピンときたのは、職場の同僚と雑談をしていたときだった。そこでは、ニュースサイトSNSには決して書けないような本音愚痴、あるいは日常の裏側を覗き見ることができるという話題で盛り上がっていた。わたしは正直、その場に居ながらあまり話についていけなかった。ふだんの生活で、そこまで"裏の声"に触れたいとも思わなかったし、それを必要とするほどの秘密や不満を抱えているとも感じていなかったから。

 だけど、そのとき話に出てきた「増田」というニックネーム存在だけは頭に残った。なんでも、はてな匿名ダイアリー投稿者を「増田」と呼ぶらしく、投稿される記事の多くは日常の不満や、家族恋人への隠された感情職場内緒話などが一気に吐き出されている、いわば"匿名文化"の最前線なのだそうだ。

 あまりにも秘密めいていて、少し不気味に思った。身近な誰かが、あそこに匿名で何かを書いているのかもしれない。そう思うと、世の中のどこに潜んでいるかからない"本音"のかけらが、いつか自分自身に向けられる可能だって否定できないわけで、なんだか落ち着かない気分になった。

 それから数週間後、わたしパートナー――以下、彼と呼ぼう――の部屋で何気なくノートPCを眺めていた。というのも、彼がシャワーを浴びているあいだ、友人からメッセージを処理しようと思ってパソコンを借りたのだ。もちろん勝手プライベートフォルダを覗き込むつもりはなかったし、最初は本当に必要作業だけを終わらせるつもりだった。

 ところが、ブラウザのタブを見ていると、どうやら「はてな匿名ダイアリー」で何か投稿しようとしていた様子がうかがえた。たまたま前に開いていたタブの履歴に「投稿完了」みたいな文字が残っていて、わたしは一瞬、まじまじとそのタブ名を凝視してしまった。もちろん、タブをクリックすればどんな記事投稿したのか、あるいはすでに誰かがコメントしているのかを見られるのかもしれない。でも、そこに手を伸ばすかどうかで、わたしものすごく迷った。

 たぶん、わたしは彼を信じていたし、勝手プライベート踏み込むことは、もうその時点で裏切り行為のようにも思えた。とはいえ、同時に好奇心燃え上がる心が抑えられなかったのも事実だ。「ほんとうに彼が書いたものがそこにある? もしかしてわたしに関する話題が載っているかもしれない?」そんな疑問が頭をぐるぐると駆け巡っていた。

 結局、数秒だけ躊躇して、わたしマウスカーソルをそっと動かした。そして「投稿完了」と書かれたタブを開いてしまった。そこには、ほんの数分前に投稿されたばかりらしい文章が表示されていて、タイトルの部分に「恋人意見が合わない」とあった。

 胸がドキリとした。わたしと彼は最近ちょっとだけ意見が食い違うことが増えていた。お互いの仕事が忙しくなってきたこともあるだろうし、生活リズムが違うのがストレスになってきたというのもある。だから内容を確かめるまでもなく、「ああ、やっぱり彼はわたしのことを書いているんだな」と直感にわかった。

 しかし、そこに綴られていた文章想像を超えていた。ここ数日の出来事を通じて、彼はわたしの態度が冷たくなったと感じており、自分存在意義すら疑いかけているようだった。わたしはそんなに冷たくしていたのだろうか。仕事が大変で、たしか気持ちに余裕がないことは認める。でも、彼がそこまで自分の心を追いつめていたなんて、気づいてあげられなかった。

 もちろん、エントリ匿名で書かれているから、わたし名前なんてどこにも出てこない。ただ、「同棲中の彼女最近忙しくて、何か話しかけても気のない返事ばかり」というような表現がはっきりと状況を示していた。彼女わたしだということは、少なくとも当事者わたしならすぐにわかる。書き手が彼であることも、間違いなかった。

 わたしはそのエントリ最後まで読んだ。彼のささやかな悩みと不安、そして寂しさが、行間に滲むように浮かび上がっていた。それと同時に、まったく別の感情わたしの中に湧きあがってきた。――これは、一方的な言い分じゃないか。彼も忙しい時期だったのに、わたしばかりが冷たい態度を取っているかのように書かれている。でも、わたしがただ無視していたわけじゃない。そうせざるを得ないときだってあったし、お互い様の部分もあるでしょう、と。

 苛立ちと申し訳なさが入り混じって、わたしブラウザをそっと閉じることにした。戻ってきた彼に問い詰めるべきか、それとも黙っているべきか。その数秒のうちにたくさんの考えが頭をめぐり、結局わたしは何事もなかったようにパソコンを返し、「ありがとう」とだけ告げた。

 ところが、それで終わるはずがなかった。わたし自分でも意外だったのだが、その日の夜、こっそりスマホからはてな匿名ダイアリー」を覗きに行った。さっきのエントリコメント欄が気になって仕方がなかったのだ。そして、誰かが「同棲中ならしっかり話し合ったほうがいい」「忙しいのはお互い様だよ」といったコメントを書いているのを見つけて、わたしは複雑な気分になった。他人言葉なのに、なぜか耳が痛い。そう言われると、わたしが彼の話を聞く時間を本当に作ってあげていたか、自問することになる。

 翌日、仕事が終わってからわたし勇気を振り絞って彼に切り出した。「ネットでさ、匿名気持ちを吐き出すのって、どう思う?」当たり障りのない聞き方だったけれど、彼はやけに「ん?」と反応して、目を逸らすようにして笑った。「まあ、人によってはそういうのもアリなんじゃない?」彼が答えたのはそれだけだった。

 その直後、わたし仕事家事の合間をぬって、さらにいくつかのエントリを読んでみた。同じIDかどうかはわからないけれど、タイトル文章雰囲気、細部でふと感じる気配から、「あ、これ彼が書いたんじゃないか」と思しき投稿がいくつかあった。テーマは多岐にわたっている。仕事愚痴家族問題ゲーム攻略メモのようなものから恋人とどこでデートすべきか悩む話まで、本当にいろいろだ。わたしの知らない彼の一面がそこにあった。

 ただ、好奇心と同じくらい罪悪感も大きくなっていった。だって、やっぱり勝手に彼の書いた記事を探し回るなんて、うしろめたい行為だと思ったからだ。一方で、彼が匿名で吐き出している本音を「知りたい」という欲求は抑えられなかった。

 それならば、いっそわたしも「増田」になってしまえばいいのかもしれない。そう思ったのは、このまま何も言えないままでいるよりも、同じフィールドに立ったうえで彼の心の動きを感じたいという衝動があったから。自分文章を書くことで、彼の気持ちに近づけるものがあるかもしれない。そう考えて、わたしは深夜、初めてはてな匿名ダイアリー投稿しようとした。

 ところが、いざ投稿画面を開いてみると、何を書いていいのかわからない。彼について書けば彼の秘密暴露しかねないし、それは誰かを傷つけるかもしれない。だから結局、日常のささいな感想仕事で感じたストレスを数行だけ書いては消し、書いては消し、を繰り返すだけだった。

 そのとき感じたのは、彼があれだけ多種多様感情匿名自由に吐き出していたのは、単純に自分を守りながら本音を書けるからだけではなくて、書く行為のものが彼の救いになっていたのかもしれない、ということだった。わたしにはなかなか打ち明けられないことでも、見知らぬ誰かに向けてなら素直にぶつけられるのだと。そこに共感アドバイスが集まれば、一瞬だけでも孤独を感じずにいられるのだろう。

 そう考えると、わたしは彼が自分に隠れて匿名ダイアリーを書いていたこ自体を責めるよりも、むしろもっとちゃんと話してほしかった」と思うようになった。もちろん、ネットに書くよりもずっと勇気のいることだろう。けれど、一度でもいいかわたしを信じて本音を話してくれていたなら、ここまでこじれなかったかもしれない。――これはわたし勝手な言い分かもしれない。もしかすると、すでに彼なりに努力した結果として、それでも言えなかったのかもしれない。

 わたしはある晩に彼を真っ直ぐ見つめて言った。「最近わたしすごく忙しかったし、言葉が足りなかったかもしれない。それは悪かったと思ってる。でも、もし何か思うことがあるなら、ネットじゃなくて、わたしと直接話してくれないかな」。すると、彼はしばらく黙ったあと、不意に笑って頷いた。「ごめん。あんまりにも気軽に吐き出せる場所があったから、そっちに逃げてたんだよね。話すのが苦手で……」

 その夜、わたしたちは今まであまり触れてこなかった話題――将来のことやお互いの家族観、仕事ストレス、そしてずっと言い出しにくかった本音――を一気に共有した。どこまで理解し合えたのかは自分でもよくわからない。でも、彼がはてな匿名ダイアリーユーザであるという“秘密”は、悪いものばかりじゃなかったのかもしれない。もしあのときわたしが気づかずにいたら、彼の不満や不安ネットの海のなかで増幅し、わたしたちの距離もっと開いていたのではないかと思う。

 匿名ダイアリーをすべて否定する気はない。それは誰にでも必要な逃げ場になりうるし、そこに書かれる文章が誰かを救うことだってある。だけど一方で、わたしは彼と直に話し合うことでしか埋められないものもある、ということを強く感じている。「匿名場所からこそ言えること」もあるだろうけれど、「顔を合わせてだからこそ言えること」もまた存在するのだ。

 いまでも、彼がどんなエントリ投稿しているのかはわたしにはわからない。おそらく、匿名で書き続けているのだろう。わたしはあえて踏み込まないようにしている。知りたい気持ちがまったくないわけではないけれど、結局のところ、「誰が何を書いているのか」を追いかけるのはきりがないし、それこそ信頼を損ねる行為だと思うから

 それよりも、彼が本当に苦しいときや寂しいときに、わたし言葉を投げかけてくれる関係でありたい。はてな匿名ダイアリーユーザであることは、彼のひとつの側面でしかない。たとえどんな匿名場所に書き込んでも、現実世界で隣にいるわたしへの思いが消えてしまうわけではないはずだ。

 もしまた、どこかではてな匿名ダイアリーを眺めているときに「これは彼が書いたかも?」と思えるエントリ出会ってしまったら。わたしは今度こそ、そっと画面を閉じるだけにするか、あるいは何も知らないふりを貫くかもしれない。けれども、わたしはもう「わたし自身気持ち」を、誰かのコメントスターに委ねるのではなく、ちゃんと彼と共有していきたいと思っている。

 そう思えるようになるまでには、いろいろな感情の波があった。読んでは傷つき、読んでは見えない敵を探すような、そんな時期もあった。だけど最後にわかったのは、相手が何かを隠しているのではなく「言い出せないものを抱えている」状態こそが孤独を深めるのだということ。匿名ダイアリー投稿を追い回すより、横にいる人間としてやれることが、たくさんあったのだ。

 そして今、わたしたちのあいだには以前にはなかった小さな合言葉がある。「ネットに書く前に、ちょっとはこっちにも言ってみてね」――彼が困ったように笑って頷く、その顔がわたしにはなにより愛おしい。彼が誰かに向けて匿名つぶやく言葉を無理に止めることはできない。それもまた、彼の大事表現方法だろうから。でも、そんな彼をわたしは真っ向から受け止めて、一緒に笑ったり泣いたりしていたい。それが、ふたりでいる意味なのだと思う。

2025-01-11

毒親から逃げ出すために妹と二人暮らしを始めた

 実家を出たときのことを、今でもはっきりと思い出す。僕は兄で、妹とは四つ違い。いつも穏やかで優しい妹が、自分の親に対して泣き叫ぶ姿を見るなんて、想像もしなかった。だけど、あのとき妹は限界だったんだと思う。むしろ、僕も同じように限界だったのだ。子どもの頃から毒親」と呼ばれる環境の中で育った僕たちは、お互いが互いを気遣い合いながら、なんとか生きてきた。

 僕たちの両親は世間体を気にしすぎるタイプだった。外から見れば、「教育熱心で厳格な家」という印象だったかもしれない。でも、その内側は違った。どんな小さなミスでも、親にとって“都合の悪いこと”になれば、怒鳴られたり、無視されたり、ひどいときには暴力まがいのこともあった。宿題をやっていないときは「怠け者」、テストで思うような点が取れないときは「努力が足りない」。どれだけ勉強しても「もっと上を目指せ」と追い詰められる。休みの日に友達と遊びに行けば「そんな暇があるなら勉強しろ」と怒鳴られる。僕も妹も、いつしか心の底から親の顔色を伺うようになった。

 中でもつらかったのは、「進路」をめぐってだった。僕が高校に進学するとき、両親は有名進学校合格するよう強く迫ってきた。そのプレッシャーに耐えられず、実は僕は一度だけ家出をしようとしたことがある。しかし、妹を置いていくわけにはいかないと思い直し、結局断念した。でも、そのとき妹はまだ中学生で、家に残るしかなかった。そんな妹が「お兄ちゃんと一緒にいたい」と僕に打ち明けたとき、何もしてやれない自分が情けなくて仕方がなかった。

 その後、僕はなんとか高校卒業し、アルバイト派遣仕事を掛け持ちして過ごすようになった。大学に行く気力はなかったというのが正直なところだ。親は「大学に行けないのなら家を出ろ」と言い放ったが、いざ出て行こうとすると「親不孝者が」と怒鳴る。言うこととやることが矛盾している。だけど、その矛盾に気づいたところで僕にはどうすることもできなかった。やがて妹も高校へ進学。成績は良く、周りからは「優等生」と見られていたが、その裏で妹は必死に呼吸をするように親の目を気にしていた。

 妹が高校二年になった頃、ある深夜のことだった。バイトから帰ってきた僕は、リビングで一人泣き崩れている妹を見つけた。理由を聞くと、学校で一度だけテストの点が下がったことをきっかけに、親からひどく責め立てられたらしい。妹は「こんな家、もう嫌だ。お兄ちゃん、一緒に出て行こう」と震える声で言った。その言葉を聞いたとき、僕はある意味覚悟”ができた。「もう逃げよう。二人でここを出よう」と。夜明けが来る前に、僕と妹は荷物をまとめはじめた。最低限の服や通帳、学校教科書などをリュックに詰め込んで、親に見つかる前に家を出た。

 両親には当然「勝手なことをするな」と言われると思ったが、そのときはもう恐れよりも先に「自由になりたい」という気持ちが勝っていた。妹が通う高校相談してみると、事情をある程度汲み取ってくれて、転校という形で新しい学校を紹介してくれることになった。あまり詳しい事情は言えなかったものの、「家の事情で逃げたい」という妹の言葉が切実に聞こえたようで、比較スムーズに話が進んだ。僕も収入不安定だったが、とにかく二人で暮らすために、急いで安いアパートを探し始めた。物件情報を見て回り、実際に不動産屋をいくつもまわる。田舎の方へ移っても良かったが、妹が通う高校への距離を考え、都心からは少し離れた町のアパートを選んだ。

 そうして、妹と二人暮らしを始めることになった。間取りは1DK。狭いけれど、二人で暮らすにはどうにかなる広さ。壁は少し薄く、隣の部屋のテレビの音が聞こえてくることもあったが、実家にいた頃の息が詰まるような苦しさに比べれば、天国のように感じた。お互いに遠慮はいらないはずなのに、最初はそれでも気を使い合った。お風呂の順番、寝る場所、部屋の整理整頓。兄妹とはいえ、二人暮らしルールを決めるのは思った以上に大変だった。だけど、自由空気がそこにあるだけで、胸の中にぽっかりと温かい火が灯ったように感じられた。

 僕は早朝からコンビニバイトし、昼間は派遣倉庫作業に行くことが多かった。妹は平日は学校、土日は単発のバイトを探して働くことを始めた。毒親の元では許されなかった「アルバイト」だったが、今は誰からも怒られない。いつか二人で、もう少し広い部屋に引っ越したいと夢見ながら、僕たちは少しずつ貯金を始めた。最初は本当にギリギリ生活だったけれど、安心して眠れる空間自由に会話ができる空間が何よりも大切だと感じた。

 そんなある日のこと。妹が学校から帰る途中、カフェアルバイト募集張り紙を見つけてきた。時給はそこまで高くないが、交通費支給シフトの融通など条件は悪くなさそうだ。「お兄ちゃん、私、ここで働いてみたい」と目を輝かせる妹を見ていると、僕も自然と笑みがこぼれた。毒親のもとにいたら許されなかったことを、いま妹は自分意思で選び、そして始めようとしている。その一歩が、僕にはとても大きく見えた。

 実際に妹がカフェ面接を受けに行くことになり、僕は帰りが夜遅くなるかもしれない妹のことが気がかりで、一緒に最寄り駅まで迎えに行くことにした。面接は上々だったらしく、店長もとても優しそうな人だったようだ。「採用されたら頑張るね!」と妹は嬉しそうに言う。その笑顔を見て、僕も心から「よかったな」と思った。

 駅からアパートへ向かう夜道は、人通りが少ない。僕は自然と妹の少し前を歩き、周囲を気にしながら帰宅する。すると、近所の商店街にある個人経営らしい居酒屋の前で、通りすがり中年男性に声をかけられた。「こんな夜遅くに、仲いいなあ、新婚さん?」と言うのだ。妹と顔を見合わせて、思わず吹き出ししまった。「いえ、兄妹なんです」と答えると、「そうなの? いや、雰囲気がいいからてっきり夫婦かと思ったよ」と笑われた。妹は「全然違うのにね」と顔を赤らめていたが、その後「でも、夫婦みたいだなんて、ちょっと面白いよね」とクスクス笑っていた。

 実は、こうやって夫婦カップルと間違えられることは、これが初めてではない。引っ越しときにも、不動産屋の担当者に「同棲ですか?」と何度か確認されたり、スーパーで買い物をしているときに「ご夫婦ですか? 新婚さん向けフェアの案内ですが……」と声をかけられたりした。僕としては妹を守る立場でもあるし、多少の誤解は軽く受け流しているつもりだけれど、妹のほうは毎回、「兄妹なんですけど……」ときちんと訂正してしまう。それでも、今となってはこの勘違いもほほえましく感じられるようになった。実家にいるときには考えられなかった、なんでもない日常の一コマ。僕たちには、そういう穏やかな時間がなかったのだと思う。

 それから少し経って、妹はカフェでのバイト正式に決まり、僕たちの生活さらに忙しくなった。ただ、不思議と疲れよりも充実感のほうが大きい。帰ってきてからリビングに二人で座り、一日の出来事をおしゃべりする。妹はカフェでの接客経験したちょっとしたトラブルや、お客さんとの面白いやり取りを楽しそうに話してくれる。「昔はこんなふうに話をしても、どうせ親に全部ダメ出しされるんだろうなって思ってたけど、今は好きなだけ話せるから、すっごく楽しい」と笑う妹。その様子を見ていると、あのとき家を出た選択は間違いじゃなかったと心から思える。

 もちろん、二人暮らしを始めてから問題はたくさんある。親からの連絡は「許さない」という罵倒や、一方的な怒りのメッセージばかりで、話し合いができる状況ではない。時折、僕たちの住まいを突き止めようとしたのか、知人から連絡が入ることもある。「両親が連絡先を知りたがっている」とか「お前たちがわがままを言っているんじゃないのか」とか。だけど、僕はもう振り回されるのはやめようと決めた。妹も「返事しなくていいよ」と、毅然とした態度をとってくれている。親と離れても、今は生きているだけでありがたいと心から思えるのだから

 そんな僕たちだけれど、将来のことを考えないわけにはいかない。妹はあと一年ちょっと高校卒業する。大学に行きたいと言う気持ちもあるらしいが、学費をどうするか、奨学金は借りられるのか、僕の収入だけで妹を支えられるのか……問題はいくらでも出てくる。でも、妹が「やりたいことがあるなら挑戦したい」と言うなら、僕は全力で応援しようと思う。自分大学進学の夢を諦めたのは僕自身判断だった。あの頃はそれしかできなかったのかもしれないけれど、妹には後悔してほしくない。正直、不安は尽きない。それでも、毒親支配から離れた今、僕たちにはお互いを思い合う時間と心の余裕がある。まずは二人でしっかり話し合い、可能性を探っていこうと思っている。

 夜遅く、妹がアルバイトから帰ってくると、決まってキッチンから香ばしい匂いが漂ってくる。僕が先に帰っている日は、ごく簡単料理だけど、妹の分の夕飯を用意するようにしているのだ。チャーハンとか、野菜炒め程度だけど、「ただいま」と玄関を開ける妹の「いい匂い……」という一言を聞くと、やってよかったと思う。妹も翌日が休みときなどは、代わりに僕のためにパスタを作ってくれたりもする。兄妹が同じ食卓で笑いながらご飯を食べる姿は、誰がどう見ても“家族”のはずなのに、不思議と「本当の家族」という実感が生まれてくるのは、ここ最近のことだ。

 妹の存在は、僕にとって唯一無二の支えになっている。たとえ夫婦恋人勘違いされたっていい。僕にとって妹は妹であり、しかし同時にかけがえのない同居人でもある。実家にいた頃は、僕たちの間にいつも両親という“大きな壁”があった。それが今はなくなり、ようやく素直に向き合えるようになった気がする。僕たちはお互い助け合い、励まし合いながら生きていく。親の呪縛にとらわれることなく、自分たちの人生を、自分たちなりに歩んでいこうと思っている。

 時には外食をして、隣りの席のカップルと間違えられることもあるだろう。時には夜道で「まさか兄妹じゃないよね?」なんて声をかけられるかもしれない。だけど、もうそれは構わない。二人暮らしを始めてから知ったのだけれど、人は他人生活結構なペースで勘違いしてくるものらしい。誤解されても、二人でいれば楽しいし、互いに隣にいられる安心感がある。それが分かるだけで、昔のように人の目を気にして呼吸を浅くすることはなくなった。

 この先、僕たちが歩む道に何が待っているのかは分からない。経済的にもまだまだ不安定だし、妹がこれからやりたいことを見つけたとしても、すぐに実現できるかどうかは定かではない。それでも、「あの家に帰るよりずっとマシだ」という気持ちは揺るがない。毒親との関係を絶ったことで、ようやく手に入れた自由と、そして兄妹だけの小さな生活を、僕は何より大切にしていきたいと思っている。

 考えてみれば、僕と妹がこうして一緒に暮らすということ自体実家では到底許されなかったはずだ。親にとっては「恥」だったのかもしれない。長男が家を出るなんて、妹まで連れ出すなんて、とんでもないと。だけど、そんな言葉にはもう縛られない。妹と二人で暮らすことは、僕たちにとって自由希望を取り戻す第一歩だったのだ。

 ときどき思い出す。リビングの机にしがみつきながら、両親に泣き叫んでいた妹の姿を。あの光景は僕のなかで、いつまで経っても消えないかもしれない。でも、あの瞬間こそが僕たちに“逃げ出す勇気”をくれたのだ。だから今は、その記憶を大切に噛みしめている。もし同じように苦しんでいる人がいたら、声を大にして伝えたい。「逃げてもいい」と。誰だって自分人生自分のために生きる権利があるのだと。

 帰宅した妹の「ただいま」の声。台所から漂う料理匂い。二人でテーブルを囲むときの、なんでもない会話と、小さな笑い声。そんな当たり前の生活の一つひとつが、僕たちにとっては宝物みたいに尊い。これから先もきっと悩むこと、苦しむことはたくさんあるだろう。だけど、どんなに傷つくことがあっても、もうあの家には戻らない。僕たち兄妹は、お互いを支え合いながら、一歩ずつ前に進んでいく。その道の途中で、夫婦恋人勘違いされることがあったって、それは微笑ましいエピソードとして受け止めていくつもりだ。

 「毒親から逃げ出すために妹と二人暮らしを始めた」というこの事実は、僕たちが生きていくうえでの大きな分岐点だった。親の期待や束縛、暴言に押しつぶされそうになっていた僕たちが、やっと呼吸できるようになった場所。それが今のこの狭い1DKのアパートだ。床は古くて所々ミシミシと音がするし、壁は薄いし、エアコン調子いまいちなことがあるけれど、それでもここは僕と妹の大切な居場所だ。誰にも邪魔されない、僕たちだけの“小さな世界”。そして、この世界で、僕はずっと妹と一緒に笑っていたいと思う。あの家ではできなかったことを、少しずつ取り戻すように、毎日を噛みしめながら過ごしていこう。

 「もうすぐご飯できるよ!」とキッチンから妹が声をかけてくる。僕はテーブルに箸とお皿を並べながら、その声に返事をする。この空間が、僕たちにとっての本当の“家”だ。例えどんなに些細なことでも、ここでの出来事はきっと僕たちの思い出になる。毒親から逃げ出すために始めた二人暮らしは、逃避行なんかじゃない。僕たち兄妹が「生きる」ということを取り戻すための、そして笑顔で日々を送るための、新しいスタートラインなのだ

昨日、家の猫が虹の橋を渡った。辛い。

私はまだ、ほんの少し前までそばにいたあの子が、もうこの世界にいないという現実を受け止められずにいる。心に空いた大きな穴は、埋めようとしても容易には塞がらない。ほんの些細な物音や影を見たときに、「もしかしての子じゃないか」と思ってしま自分がいて、そのたびに「もういないんだ」と改めて知らされる瞬間が苦しく、胸の奥が強く締めつけられる。私の中では、まだあの子と過ごした日々のぬくもりや匂いが鮮明に残っており、振り向けばそこにいるような錯覚に襲われる。数えてみると、一緒に過ごした時間はけっして短くはなかったはずなのに、それでも「もっと一緒にいたかった」という想いは尽きることがない。

の子我が家にやってきたのは、ちょうど私が仕事で大きな壁にぶつかっていた時期だった。あれは偶然だったのかもしれないし、何か大きな運命の流れに導かれていたのかもしれない。知り合いの紹介で、生まれたばかりの子猫の里親募集しているという話を聞き、なんとなく心が惹かれて足を運んだ先にあの子がいた。まだ掌にすっぽりと収まるくらい小さな体で、か細い声で「にゃあ」と鳴いた瞬間、一気に胸が熱くなったのを覚えている。あの小さな命自分たちが守りたい、この子にできる限りの愛情を注いであげたいという、言葉では説明できない衝動にも似た強い感情が湧いたのだ。

それから生活はあの子中心になった。私が外から帰れば、ちょこちょこと短い足を動かして玄関まで迎えに来てくれていた。仕事で帰りが遅くなっても、しっぽをピンと立てて待っていてくれる姿にほっとしたり、疲れきった体をソファに投げ出す私の胸に丸くなってくれる瞬間に癒やされたり。そういう何気ない毎日の積み重ねは、あの子がいてこそ得られる温かな喜びであり、私にとってかけがえのない生きる活力になっていた。

私が悲しんだり落ち込んだりすると、あの子言葉をかけられなくても不思議と察してくれたのだろう。そっとそばに座り、私の顔を見上げたり、小さな肉球でちょこんと手を触れてきたりしてくれた。その存在感がどれほど大きなものであったかは、今になって改めて思い知る。猫という生き物は気まぐれで、飼い主にべったりなイメージが少ないとされることもある。しかしあの子は、人間言語を超えたコミュニケーション能力こちらの状態を感じ取ってくれていたように思う。

そんなあの子も、年齢を重ねるにつれ体調を崩すことが増えた。最初のうちはちょっとした食欲不振風邪程度だったから、「大丈夫だよ、すぐ元気になるよ」と気軽に考えていたけれど、数年前から少しずつ通院する回数が増えていったのを今でもはっきりと覚えている。医師から慢性的な疾患が進行している」と告げられたときの、あの胸がざわつくような感覚はたまらなかった。いつまでも元気で一緒にいられるはずはないと頭ではわかっていても、いざそう言葉にされると痛烈に心が軋んだ。

それでもあの子は懸命に生きてくれていた。投薬や定期的な点滴、フード選びなど、できる限りのケアをしながら一日一日を大切に過ごしていった。私たち愛情と、あの子の生きようとする力、そのどちらが欠けてもきっと難しかったのだろう。あの子にとって、私たち家族と過ごす時間は心地よかったのだろうか。私はいつも「ありがとう、まだまだ一緒にいたいよ」と話しかけていた。言葉は通じなくとも、あの子の大きな瞳を見つめると「大丈夫だよ」「一緒にいてくれてありがとう」と伝わってくるような気がした。

けれど、どんなに願っても避けられない別れのときはやってくる。ここ数週間は特に体調の波が激しくなり、食事をとる量もかなり減っていた。病院での検査結果は思わしくなく、医師からは「もう長くはないかもしれない」と言われていた。頭では理解していても、どうしようもない不安と悲しみが私の胸を覆っていた。あの子が苦しくないように、できるだけ穏やかに過ごせるようにと祈る日々が続いた。

そして昨日の朝、あの子は静かに息を引き取った。私が部屋に入ったとき、すでに瞳は薄く開いたままで、最期の呼吸をしたかしないかという、まるで眠りについたかのような姿だった。信じられなくて、何度も何度も名前を呼んだけれど、もう二度と返事は返ってこない。心のどこかで「せめて最後は苦しまずに逝ってくれたのなら」と思う気持ちもあれば、「もっと私ができることがあったのではないか」と自責の念に駆られる自分もいる。あの子限界まで頑張ったのだろう。苦しみから解放されて、今頃は虹の橋で元気に走り回っているのだと信じたい。

亡くなったあの子を見つめながら、ふと最初に会った日のことを思い出した。まだあんなに小さく頼りなく、私の両手の中ですやすやと眠っていたあの子。目が合うたびに、愛しさと不思議な縁を感じたのを思い出す。私はこの子を守りたかったし、一緒に幸せになりたかった。成長するにつれ、やんちゃになってカーテンによじ登ったり、部屋の棚をひっかいて落としたりしては、こちらが叱ってもどこ吹く風で、まっすぐな瞳で見上げてきたことを微笑ましく思い返す。そんな小さな思い出の数々が、今となっては宝物だ。

この喪失感は、私がこれまで味わったどの悲しみとも違う。あの子ペットという言葉でくくるにはあまり家族の一員であり、私の心の支えでもあった。私は今、泣きたくなるほど辛い気持ちでいっぱいだけれど、それでも後悔よりは感謝を伝えたい。あの子がいてくれたから、私はどれだけの笑顔と温もりを手にしただろう。あの子との暮らしの中で学んだことや与えてもらった癒しは、数えきれないほどに大きい。

今、部屋にはまだあの子が使っていたベッドやおもちゃ、餌皿などがそのまま残っている。片付けようと思うたびに、喉が詰まってしまうほどの寂しさが込み上げて、手が止まってしまう。もう一度でいいから、あの子のあたたかい体温や毛並みを感じたいと思ってしまう。理屈ではわかっていても、心がついていかない。きっとこの状態を乗り越えるのには、まだ時間がかかるだろう。

動物病院獣医師からペットロス」について説明を受けることがあったが、まさか自分がこんなに苦しむとは想像していなかった。もちろん最初から、いつかはお別れが来ることをわかっていたつもりだった。猫の寿命人間よりはるかに短い。だからこそ、今を大切に一緒に暮らしていたつもりでも、いざ失ってみると自分の一部がもぎ取られたような、そんな気持ちになっている。感情が予想以上に揺さぶられて、しばらくは自分生活すらままならないほどのダメージが襲ってきている。

人に話しても「気持ちはわかるけど、そんなに落ち込まなくても…」と言われることがあるかもしれない。けれど、飼い主にとってはペットという存在がどれほど特別でかけがえのないものだったかは、言葉簡単には説明できない。日々の暮らしの中で、どんなシーンにもあの子がいて、私のそばで息づいていた。生きる喜びや孤独感の紛らわし方など、あの子から教わったことは数え切れない。

私は、今あの子がいない現実を受け入れるのに精一杯だし、涙が枯れることなく溢れてくる。でも、きっとこれから少しずつ時間をかけて、この悲しみは形を変えていくのだろう。それは単に「忘れる」ということではなく、あの子がくれた思い出を大切に抱きながら、新たな日常を歩んでいくための道のりなのだと思う。私が前を向いて生きていくことこそが、あの子に対する最大の感謝と愛なのかもしれない。

虹の橋」という言葉を、あの子が亡くなってから初めて深く意識した。天国と地上の間に架かる虹の橋のたもとで、亡くなったペットたちが元気に走り回り、飼い主を待っているという話。いつか私がそちらに行くとき、あの子は大喜びで飛びついてきてくれるのだろうか。そんな想像をすると、少しだけ心が軽くなる。いつか再会できるかもしれない。その日まで、私にできることは、あの子と過ごした時間を忘れず、あの子が好きだった温もりを周囲に分け与えながら精一杯生きることだ。

でも、もう少しだけ時間がほしい。まだ昨日の今日なので、とてもじゃないけれど立ち直れない。どこを見渡してもあの子の思い出ばかりが溢れていて、うっかり笑ってしまうような楽しい思い出も、今はまだ鋭い棘のように胸を刺してくる。きっとしばらくは泣いたり笑ったりを繰り返して、感情の波が激しくなるだろう。だけど、そんな揺れ動く心のままに過ごすことが必要なのだと思う。悲しみを否定せず、泣きたいときは思い切り泣いて、思い出して笑えるときには素直に笑おう。

家族や友人からは、励ましの言葉や優しいメッセージをもらう。みんな、私がどれほどあの子を大切に思っていたかを知っているからこそ、かけてくれる言葉には温かさがある。そのたびに涙がこぼれるけれど、あの子への想いを共有できる人がいることは、本当にありがたいことだと感じる。私は一人じゃない。あの子の命が私たちに繋いでくれた縁を大事にしていきたい。

これから先、あの子との思い出をどのように受け止め、生活の糧にしていくかは私自身にかかっている。写真動画を見返すのはまだ少し辛いけれど、いつかきっとあんなこともあったね、楽しかったね」と微笑みながら思い出話ができる日が来ると信じている。あの子いたことが、私の人生を彩る大きな要素の一つであることに間違いはない。だからこそ、あの子を失った悲しみは、それだけあの子が私の心を満たしてくれていた証でもあるはずだ。

今はまだ、「昨日、家の猫が虹の橋を渡った。辛い」という事実に打ちひしがれている。寂しさや喪失感がこれほどまでに心をかき乱すものなのかと、自分自身でも驚いている。ただ、一方で不思議と安らぎにも似た気持ちがほんの少しだけある。それは、「あの子はきっと幸せだっただろう」と言い切れる何かが、私の胸の奥底に確かに存在しているからかもしれない。苦しい治療を乗り越えながらも、最後まで私と一緒に生きようと頑張ってくれたあの子の姿は、絶対に私の中から消えることはない。

の子と共に過ごした時間は、たった一度きりの人生の中で、私にとって何よりも尊い経験となった。ありがとう言葉にならないほどの感謝を伝えたい。うまく言葉にできないけれど、あの子がいてくれたからこそ私の人生は豊かになったと胸を張って言える。そして、これから先の人生で、もし新たに猫や他のペットを迎え入れることがあるとしても、あの子存在が私の根底を支えてくれるに違いない。悲しみを教えてくれたのもあの子だけれど、それ以上に愛や喜び、そして生きる力を与えてくれたのもまたあの子だったのだ。

虹の橋を渡ったあの子。今はきっと、何も痛みを感じることなく、自由に駆け回っているに違いない。私と過ごした日々をどんな風に覚えてくれているのだろうか。あの子はもう、こちらの世界の苦しみや不安とは無縁の場所にいる。それでも、私がこうして想いを馳せている限り、あの子は私の心の中で生き続ける。そう信じることで、今日を何とか乗り切る勇気を得ることができる。

そしていつの日か、私もあの子のもとへ旅立つ時がくるだろう。その時は迷わずの子を探して、思いきり抱きしめたい。そして「ありがとう」「おかえり」と、お互いを慈しみ合えたらどれほど嬉しいだろう。今はまだ遠い先のことかもしれないけれど、そう思うだけで少しだけ心が救われる気がする。目には見えない存在になってしまったけれど、私があの子を想う気持ちがある限り、私たちの繋がりは断ち切れることはない。

「昨日、家の猫が虹の橋を渡った。辛い」――その一言では言い表せないほどに、胸が痛む。けれど、この悲しみは同時に、私が確かにの子を深く愛していた証拠だと思う。きっとこの先も、ふとした瞬間に涙が零れ落ちることがあるだろう。それでも、その涙が乾いたあとには、あの子と過ごした幸せが心を温めてくれるはずだ。何より、あの子が私の人生の一部だったことは永遠に変わることがない。

からこそ、この悲しみを抱えたままでも、生き続けなければならない。あの子が私に残してくれたものは、飼い主として受け止める責任があると感じる。こんなにも愛おしい存在を失ってしまたからこそ、これから先の人生の中で、誰かの痛みや悲しみに寄り添うことができるかもしれない。あの子の代わりに私ができることを探していきたい。この涙を無駄にしたくない。

思い出は消えない。あの子との時間が私の中で生き続ける限り、私はきっと大丈夫だ。少しずつ、少しずつではあるけれど、また笑顔を取り戻せる日が来ることを信じている。そのときには、きっとあの子の姿が私の心の中で優しく微笑んでくれているだろう。あの子に恥じないような生き方をしていきたい。そして、いつか虹の橋の向こうで再会したとき、「あなたと暮らせて幸せだったよ」と思ってもらえるように、これからも前を向いて歩んでいくと誓う。

日の出来事は、私にとってまだ痛烈に生々しい傷であり、立ち直るにはきっと長い時間必要だ。それでも、あの子と過ごしたかけがえのない年月を、私の人生の宝物として大切にしていきたい。そしてこの悲しみの先に、きっとあの子が残してくれた愛が続いていると信じる。その愛は消えず、私のこれから毎日に温かい光を届けてくれるだろう。あの子のために、私のために、今日も私は生きる。虹の橋の向こう側で、また会える日を夢見ながら。

2025-01-07

日の出を嫌うかの民族

そんな民族の国に日が昇ることはないだろう。

永遠に地の底にでも這いつくばっていればいい。

2025-01-06

JCが怪しいキモヲタに襲われた話

春の夕暮れ、中学三年生の私は塾からの帰り道を急いでいた。部活引退してからは、志望校合格に向けて塾通いの日々。日が長くなったとはいえ、薄暗くなり始めるこの時間は、少し心細くなる。

いつもの帰り道、公園の脇を通ると、ベンチに座っている男の人が目に入った。年は30代くらいだろうか。黒縁の眼鏡をかけ、チェックのシャツリュックという、いわゆる「オタク」と呼ばれる部類の服装だった。特に気にも留めず通り過ぎようとした時、その男の人がこちらをじっと見ていることに気づいた。

気持ち悪い…)

そう思った瞬間、背筋がゾッとした。男の目は、まるで獲物を狙うかのようにギラギラと光っていた。私は早足でその場を離れようとした。

「あの…」

背後から声が聞こえた。無視して歩き続けようとしたが、男は追いかけてきた。

ちょっとだけ、話を聞いてくれないかな?」

男はそう言いながら、ニヤニヤと笑った。その笑顔が、私にはどうしても不気味に思えた。

すみません、急いでいるので…」

そう言って足早に立ち去ろうとしたが、男は私の腕を掴んだ。

「痛っ!」

咄嗟に振り払おうとしたが、男の力は強く、振りほどけない。恐怖で心臓がドキドキと高鳴った。

「お願い、ほんの少しでいいんだ。君に話したいことがあるんだ」

男は必死な様子でそう言った。その目は異様なほどに興奮していた。

「離してください!」

私は大声で叫んだ。幸い、近くの家から犬の吠える声が聞こえた。男は一瞬怯んだように手を離した。私はその隙に走り出した。

後ろから男の足音が聞こえたが、必死で走った。息が切れ、足がもつれそうになったが、なんとか大通りまでたどり着いた。人通りが多くなり、男も追いかけるのを諦めたようだった。

家に帰り着くと、私は震えが止まらなかった。母親事情を話すと、母親は顔色を変えて警察に連絡してくれた。

警察官が家に来て、事情聴取を受けた。男の特徴や服装、遭遇した場所などを詳しく説明した。警察官は真剣な表情で話を聞き、パトロールを強化すると言ってくれた。

その夜は、恐怖でなかなか眠れなかった。男の顔が頭から離れず、何度も目が覚めた。

次の日、学校に行くと、友達に昨日の出来事を話した。友達心配してくれ、一緒に帰ろうと言ってくれた。

それから数日間は、一人で歩くのが怖かった。常に周囲を警戒し、後ろを振り返りながら歩いた。塾の帰りも、母親が迎えに来てくれるようになった。

数日後、警察から連絡があった。似たような不審者情報が他にも寄せられており、警察が警戒を強めているとのことだった。しかし、まだ犯人特定できていないという。

その後、数週間が経ち、私は少しずつ普段生活を取り戻していった。しかし、あの男のことは、今でも鮮明に覚えている。あの時の恐怖は、決して忘れることはないだろう。

この経験を通して、私は改めて警戒心を持つことの大切さを学んだ。見知らぬ人に話しかけられた時は、安易に信用してはいけない。危険を感じたら、すぐに逃げる、大声を出す、周りの人に助けを求めるなどの行動を取ることが重要だ。

また、この出来事きっかけに、地域の防犯活動にも関心を持つようになった。地域パトロールに参加したり、防犯ブザーを持ち歩くようにしたりするなど、自分自身でできる防犯対策を講じるようになった。

後日談として、数ヶ月後、近所のスーパーで買い物をしていると、警察官が数人の男を囲んでいるのを見かけた。その中に、あの時の男がいた。遠くからだったので顔ははっきりとは見えなかったが、服装や体型から、あの男だと確信した。

後で警察に問い合わせたところ、やはりあの男だったとのことだった。他の女子中学生に対する声かけやつきまとい行為逮捕されたらしい。

逮捕の知らせを聞いた時、安堵感とともに、改めて恐怖が蘇ってきた。もしあの時、私が逃げ遅れていたら…そう考えると、ゾッとした。

この経験は、私にとって大きなトラウマとなったが、同時に、自分の身を守るための大切な教訓を与えてくれた。私はこの経験を忘れず、常に警戒心を持ち、安全に過ごしていきたいと思う。そして、同じような被害に遭う人が一人でも減るように、この経験を周りの人に伝えていきたい。

2025-01-04

食べ物の恨みは深いってのは本当なのか普段ネットにその日の出来事とか書かないんだけど

飲食店でこんなことありましたっていうのだけはなぜか書きたくなっちゃうんだよな

別にその店を制裁とかそういうつもりもまったくないんだけど

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