『摂津国・三田城跡』
兵庫県神戸市の北側に三田市と云う所がある。
この三田市の市街地から北西方向に少し行った所に三田城跡がある。
三田城の第一世代は、戦国時代に赤松氏が有馬に侵入し、その一族である有馬氏が三田城を築城したと云われている。
有馬氏の家臣の車瀬氏が縄張りをしたので、車瀬城とも呼ばれた。
その当時の城域は下図の茶色の部分であった。
その後荒木村重の支配下に入ったが、村重は織田信長に謀反をしたとのことで、秀吉や光秀に攻められ落城した。
その後、池田氏、山崎氏が城主となったが、関ヶ原の後、再び有馬氏が、その後松平氏が城主となった。
大坂の陣の後、内紛が起った鳥羽の九鬼氏はこの三田と綾部に分割移封された。
三田には4男九鬼久隆が3万5千石で初代藩主となり、三田陣屋を築いた。
陣屋は上図の中央の堀や池に囲まれた部分に建てられた。
この陣屋跡地は、現在は三田小学校となっている。
また、その南の大池で九鬼氏は水軍の訓練をしたとも云われる。
三田九鬼氏は後には城主格と認められたようで、再び三田城と称したと云われる。
上図の堀の北の茶色の部分(小学校の道路を挟んで北側、下左写真の左手)は戦国の城の二の丸であったが、現在古城と呼ばれ、県立有馬高校が建てられている。
最後の城主、九鬼隆義氏は廃藩後三田藩知事に任じられた。
そして神戸にて輸入洋薬の商社「志摩三商会」を設立するとともに、神戸女学院の設立にも尽力し、キリスト教の洗礼を受けたと云われる。
また九鬼藩主は、家臣の功績にこたえる手だてがなかったので、九鬼姓を与えたと云われる。
その家老の娘婿九鬼隆範は当時日本の鉄道建設の技術者であるとともに、家老家にふさわしい住宅を設計し、建設したと云われる。
この住宅は現在も旧九鬼住宅として残っている。
当時は珍しい洋風のベランダを備えていて、観光の目玉となっている。