『大阪市・露天神社』
大阪市北区曽根崎に鎮座する露天神社である。
菅原道真公の聖蹟二十五拝の第十一番目である。
上掲の拝殿の両側には、左近の桜、右近の橘もある。
道真公は大宰府へ左遷される途中、西の福島にて船泊りし、この地の東にある嵯峨天皇、源融ゆかりの太融寺を訪れた。
この露天神社の地には、当時難波八十島祭に由来する神社があり、この地にて、
「露と散る 涙に袖は 朽ちにけり 都のことを 思い出ずれば」
という歌を詠んだ。
その歌がきっかけとなって、道真公の死後は、道真公を祀り、露天神社と称されるようになったと云う経緯がある。
神社は商店街の中にあり、四方から境内に入ることができる。
南からの表参道、曾根崎商店街に続く西参道である。
しかしこの神社は「お初天神」としての方がよく知られている。
それは近松門左衛門の人形浄瑠璃「曾根崎心中」の舞台だからである。
その物語はこうである。
内本町の油屋平野屋の手代徳兵衛と、堂島遊郭の遊女お初は恋仲になっていた。
悪党の九平次に金を騙し取られた徳兵衛は、いよい最後とお初の遊郭に現われ、心中道行の場面となる。
近松の名調子は、
「この世の名残、夜も名残、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、
一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ
あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、
鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなりー」
時は六つ午前4時、人目に付かぬように北側を大きく迂回、今の大阪駅の辺りの荒地のぬかるみの中を手を取り合って露天神目指したのであった。
神社の森へ到着した二人は、心中の場面を迎えた。
この浄瑠璃、その時まで時代物主流の浄瑠璃を、世話物という新しい世界に変革する力となった。
そして天神社はお初天神と呼ばれるようになったのである。
境内にはその像が設けられている。
余談であるが、先の戦争の終戦近くに、米軍機グラマンの機銃掃射を受けた弾痕が拝殿前の石柱に残されている。