はてなキーワード: 自由度とは
ネットにあった左派の政策を行ったらどうなるかAIに聞いてみたよ!
アメリカ、イスラエルがイランと開戦してから色々ありましたが、日本の行動には色々左派が批判を投げました。
以下の行動をした場合どうなったかシミュレーションしてください。期間は10年ほどで。
•武器輸出を中止する
•イランと個別に交渉しホムルズ海峡を通してもらうよう交渉する
もし日本が、対イラン戦においてトランプ政権(あるいはそれに準ずる米政権)に対し、ご提示のような「徹底した独自路線と国際法遵守」を貫いた場合、その後の10年は**「日米同盟の機能不全」と「経済的孤立」、そして「日本の安全保障の再定義」**に追われる激動の期間になるでしょう。
左派が理想とする「平和外交」を具現化した場合のシミュレーションを、3つのフェーズで予測します。
1. 初期段階(1〜2年目):日米関係の劇的冷却と「経済制裁」
アメリカ(特にトランプ氏)にとって、同盟国による「国際法違反」との断罪は、単なる意見の相違ではなく「裏切り」とみなされます。
• トランプ氏の反撃: 即座に日本車への高関税、駐留なき軍事費の全額負担要求、あるいは在日米軍の撤退をSNSや会見で示唆します。日本は「同盟国」から「敵対的な貿易相手」へとカテゴリー分けされます。
• 武器輸出中止の影響: すでに進んでいた次期戦闘機開発やミサイル防衛網の共同開発がストップします。日本の防衛産業は販路を失い、技術的な孤立が始まります。
• 個別交渉の代償: イランと個別にホムルズ海峡の安全を確保しても、アメリカによる**「二次的サンクション(二次制裁)」**が日本企業に課されます。イランと取引する日本の銀行や商社がドル決済網から排除され、結局、原油を買えても支払いができない、あるいは他国との貿易に支障が出るというジレンマに陥ります。
2. 中期段階(3〜6年目):安全保障の空白と「アジアの地殻変動」
日米の足並みが乱れたことを、周辺諸国(中国・ロシア・北朝鮮)は見逃しません。
• 「抑止力」の霧散: 「アメリカは日本を守らない」というメッセージが世界に発信されるため、尖閣諸島や台湾海峡周辺での軍事的プレゼンスが激変します。日本は自力でこれらに対処せざるを得なくなりますが、武器輸出を止めているため、防衛予算の効率は極めて悪化します。
• 中立化への模索: 日本はアメリカに頼れない以上、中国やロシアとの距離を詰め、独自の多角的な外交を模索します。しかし、これは「西側陣営からの脱落」を意味し、G7内での発言力は致命的に低下します。
• 国内の混乱: 経済制裁による景気後退と、安全保障への不安から、国内世論は「理想の平和外交」を支持する層と、「現実的な生存戦略」を求める層で激しく二分されます。
10年が経過する頃には、日本はかつての「アメリカのパートナー」とは全く別の国家像を突きつけられています。
• 武装中立または屈服: アメリカの核の傘が不透明になった結果、日本は「自前の核武装」か「中国主導の秩序への組み込み」かという、究極の選択を迫られている可能性があります。
• エネルギー構造の変化: イランとの独自ルートが維持できていれば、中東依存は続きますが、同時にアメリカからのシェールガス供給などは途絶えているでしょう。エネルギーの安定供給と引き換えに、政治的な自由度を失う「フィンランド化(大国への配慮を強いられる中立)」に近い状態になります。
• 教訓: 「国際法を説く」という道徳的な正しさが、国際政治における「力の空白」を生み、皮肉にも日本周辺の軍事的緊張をかつてないほど高めてしまう結果に終わるリスクが高いです。
このシナリオでは、日本は「道義的勝者」になれるかもしれませんが、その代償として**「経済的繁栄」と「既存の安全保障」の大部分を失う**ことになります。
「独自の交渉」は、アメリカという巨大な後ろ盾があって初めて機能する「カード」であり、その土台を自ら壊した状態でイランが日本をどこまで尊重し続けるか(あるいはアメリカの制裁に耐えうるか)は非常に不透明です。
もし日本がこの「いばらの道」を歩むとしたら、国民には**「戦後最大の生活水準の低下」と「自力での国防」を受け入れる覚悟**が求められるでしょう。
それがどういうものになるのか?
そりゃ作ってるやつに実物をいじらせてもらわないとよくわからん。
ただ言うところには、ユーザーの指示に基づいてAIが複数のアプリ(のようなもの)を駆使してユーザーのコマンドを実行するという形になるらしい。
一緒じゃなくてもよく似たようなもんだろ?
と言う気もするが、
それを言うならスマホとガラケーもよく似たようなもんだ、とも言える。
ただ実体としてスマホとガラケーでは我々は別のものだという認識を持つ。
そういう感覚でスマホとAIエージェント端末も別物になるのだろう。
さらにいうと初期段階では端末はスマホと似たものとして登場するのだろうが、
発展していくとメガネ型になるのはほぼ間違いがないだろう。
メガネ型でありつつイヤフォン型であるようなものがそのメインストリームとして使用されるのではないか?
とはいえそれだけではなくて様々な携帯を取る自由度がこの端末には残されているような気がする。
もうしばらくしたらiPhoneのようなスマホは消える運命にある。
1990年代、日本は世界経済において大きな存在感を持っていたが、2024年時点では名目GDP、世界GDP比率、一人当たりGDP、国際競争力ランキングのいずれも大きく低下した、と整理されている。関連する要約記事では、名目GDPが2012年の6.27兆ドルから2024年に4.11兆ドルへ、世界GDP比率が1993年の17.8%から3.8%へ、一人当たりGDP順位が1990年代の5位から52位へ低下したとされている。
失われたもの:
国際的な経済プレゼンス、成長期待、先進国としての相対的な豊かさ。
同記事では、日本の平均年収は1997年の467万円から2024年の462万円へ、約30年にわたりほぼ横ばいだったとされる。一方で、米国・ドイツ・韓国では同期間に賃金が大きく伸びたと整理されており、日本だけが「働いても豊かになりにくい国」になったという問題意識が示されている。
失われたもの:
サイト側の議論では、特別会計、天下り、多重下請け、中抜き構造が、税金を国民のために使う仕組みを弱体化させたとされる。関連要約では、特別会計が1990年の85兆円から2024年に238兆円へ拡大し、国民の目が届きにくい巨大予算になっていると説明されている。
また、持続化給付金、COCOA、電気・ガス補助金などが「中抜き構造」の例として挙げられ、国民に届くはずの支援が中間組織・委託先・事務費に吸収されたという主張が展開されている。
失われたもの:
税金が国民に還元されるという信頼、行政支出の透明性、公共事業の効率性。
同記事では、世襲政治、政治資金の不透明性、国会活動実績の乏しい議員の存在が、日本政治の硬直化を招いたとされる。特に、自民党における世襲率の高さや、国会質問・議員立法・質問主意書がゼロの「トリプルゼロ議員」が問題視されている。
失われたもの:
政治への新規参入機会、政策競争、専門性・現場感覚に基づく政治。
サイトの論旨では、日本の腐敗は露骨な賄賂型というより、天下り、外郭団体、特別会計、記者クラブ、世襲政治などを通じて「合法的に見える形」で制度化されている点が問題とされている。関連要約では、これを「制度化された腐敗」と表現している。
失われたもの:
同記事では、日本の報道自由度ランキング低下、記者クラブ制度、SNS上の削除・開示請求の増加が取り上げられている。特に、2024年の日本の報道自由度指数が70位でG7最下位とされ、情報統制や批判的報道の弱体化が問題視されている。
失われたもの:
権力監視機能、自由な批判空間、国民が政策判断するための情報環境。
関連要約では、年金受給開始年齢の引き上げ、国民年金・厚生年金の水準、国民負担率の上昇、実質手取り率の低下が挙げられている。1990年の実質手取り率76.5%に対し、2024年は68.6%まで低下したとの整理も示されている。
失われたもの:
老後の安心、現役世代の手取り、社会保険料・税負担への納得感。
同記事では、日本のカロリーベース食料自給率が1990年の53%から2024年に38%へ低下したとされ、輸入途絶時の脆弱性が指摘されている。小麦、大豆、トウモロコシへの輸入依存も問題視されている。
失われたもの:
出生率低下も、サイトの主要論点の一つである。関連要約では、合計特殊出生率が1990年の1.54から2024年の1.15へ低下し、出生数も1990年の122.2万人から72.1万人へ減少したとされている。
失われたもの:
人口維持能力、若年世代の将来展望、社会保障制度の持続可能性。
日本の「失われた30年」は、単なるバブル崩壊後遺症や少子高齢化だけではなく、特別会計、天下り、中抜き、世襲政治、情報統制、税制の不透明性といった制度化された腐敗によって、経済成長・賃金・税の還元・政治参加・報道の自由・老後の安心・食料安全保障・出生力が長期的に損なわれた、という構図である。
大規模TRPGサーバーで、PLやKPをしてたまに遊んでいる。
身内卓でやってるときはまったく気にならなかったのに、野良卓でやるようになってからメアリー・スーが嫌いになった。
身内卓でやってるときは、そもそもメアリー・スーがいなかった。みんな一般人だった。
特殊なHOだったとしても、基本的には弱点があって「このキャラがいるならシナリオ攻略余裕!」って程の技能やステにする人がいなかった。
しかし、卓募集でPLを集めると絶対ひとりはメアリー・スーが来る。
なんなら、3人シナリオで全員メアリー・スーだったこともある。
あのね、「一般人で来てください」って言っても、大金持ちの家でメイドしてる身長180cmの拳銃などの戦闘技能盛り盛りPCが来るの。
ゴリゴリ戦闘シなのに、うちのエモシ向けのパンピ連れてったら大顰蹙だよ。
戦闘シに、回避すらないPC持っていかないのと同じように、エモシに呪文AF特殊技能特殊設定爆盛りのPCで来ないで欲しい。
エモくない。
これがメアリー・スーしたい人とそうじゃない人の違いというか。
Xの方ではCoCプレイヤーのスタンスやCoCの日本人気について議論されてるけど、私がCoCを始めたのは「自分だけのエモいストーリーを作りたい」という理由からだ。
もちろん戦闘シでも、唯一無二の、その卓だけのPCだけの素晴らしいストーリーになる。
他システムはあまりやったことないけど、戦闘特化のシノビガミでも、RPでキャラ全員の個性が立つセッションになったこともある。
けどそれはPLとの噛み合わせが良かっただけで、ここが合わなかったら私の求める「唯一無二のストーリー」がなくなっていただろう。
エモを求める層が手を出すのが、CoCによく見られるエモシや、そもそも技能や判定をシンプルに削ってRP中心に進められるエモクロア、判定は一切ないが自分の推理力でエンドが変わるマダミスなのではないだろうか。
私がよく卓を囲む、つまりメアリー・スーをしないPLの多くがエモクロアやマダミスに手を出している。
実際にプレイしたことがなくとも、エモクロアやってみたいマダミスやってみたいという話はよくあがる。
エモクロアプレイヤーとシノビガミプレイヤーの合流地点がCoCなのではないだろうか?
秘匿メインとかうちよそ向けとかガッツリ世界観やキャラの方向性が決まってるシステムもあるけど、CoCはルルブ一冊でどんなシナリオにも行ける。
1d100の、パーセントの分かりやすい判定値に、数多くの技能。オリジナル技能も当たり前に作れる。
探索でも謎解きでも戦闘でも。
それがCoC人口が多い理由であり、今回のようなメアリー・スー問題の原因だと思う。
RP勢と戦闘勢で、本来はシステムで住み分けるところを同じシステムで楽しめてしまうのだ。
1920年代のアメリカが本来の舞台とか、探索箇所を提示しないクラシックとか、白い部屋とか、そういう話じゃなくなっている。
私もここ1年で参入したタチだから偉そうなことは言えないけど、とにかく「自由度の高さ」がCoCの特徴であり、魅力であり、嫌われる要因なのだろう。
と思えば、異形の力を借りて神話生物に自ら立ち向かうこともできる。
あつ森で住民と仲良くなることを楽しみにしているプレイヤーと、エルデンリングで強敵相手に死に覚えで攻略していくプレイヤーが同じゲームを自分のスタイルで遊んでいるようなものだ。
あつ森ユーザーがエルデンリングプレイしても、戦いに慣れてなくて勝てなくておもしろくない。
エルデンリングユーザーがあつ森プレイしても、手強いボスなんていないし攻略法を自分で見つけてプレイテクで打ち負かす刺激はない。
つまるところ、本来我々RP勢とメアリー・スー、戦闘勢や攻略勢は相容れない部類なのだ。
長々と書いたが、私が言いたいのはメアリー・スーをやめろではない。
なんで探索者たちで旅館に泊まるストーリーに身長200cmヤニカス酒カス借金返済のためにマグロ漁船乗ったことある元刑事が来るんだよ。
なんで大事な幼なじみが行方不明になるストーリーで記憶喪失の10歳ロリ脳外科医が遊びに来るんだよ。
うちのボカロPやりつライブハウスのバイトで細々と食いつないでるベーシストでイゴーロナクと戦ってやろうか。
邪魔だろ、どう考えても。
しかも後者ならすぐ死ぬから良いとして、前者は全然死なないから本当に邪魔。
これはもはや戦闘狂に対する愚痴になるけど、メアリー・スーやる人ってやたらと戦闘技能と武器をごねがち。
通常探索でダイス失敗してもごねないのに、武器獲得のダイスで失敗したら「〇〇のためにこの場所をよく見てみます!」とかで追加技能振りがち。
なんなら、シナリオから提示されてないのに倉庫とか物置小屋に入ったら「武器になりそうなものがないか探します」とか、観光地で「木刀を買います」とか、戦闘あるよとも言ってないのに武器欲しがる。
武器なんてないって言っても「ハサミならあるんじゃないですか?」とか言ってくる。
そこになかったらないんだよ。
KPが「ないです」とごねを却下したときは、シナリオ的に有り得ないのももちろんあるけど、あったらうざいときが多いです。主観。
あのね、武器がないと終わるシナリオはね、ちゃんと探索者作成のときに書いてるからね。
武器があるかどうかを幸運で探せるのは、別にそれが失敗でも生き残れる程度の難易度だからだよ。
強い武器と高い戦闘技能と高ステータスが求められるシナリオでは書いてますからーーーー!!!!!
ダイス振るまでもなく、NPCから武器配られたりしますからーーーーー!!!!!!
メアリー・スーを楽しむのは良い。
野良卓でも、戦闘シナリオで他の人とキャラの食い合いになっても楽しめるのなら良い。
RP勢のいたって善良なる一般市民探索者の個性を奪って、RPを奪って、物語の手綱を握らないで欲しい。
メアリー・スー勢って言うてRPでも出張ってくるから他のPCが発言できないこともわりとあるから本当に配慮して欲しい。
PLだったら「PCはどうするの?」って自然にRP促せるけど、KPからやたらと「PLさん、なにかRPありますか?」って言ったら没入感がなくなってしまうから言えないのだ。
なら、最初からナーフの必要のない一般的なPCを用意していてください。
エモシはノイズの少ない探索者で来てください。
シナリオの前提にない設定をもって来ないでください。
過去一ひどかったメアリー・スーは「HOの調査内容(自発的)を、友達のニャルラトホテプから依頼されたので、シナリオのメイン事件には興味ないけどなんか来た」探索者。
HOに沿ってないからシナリオの究極のシーンで辻褄合わなくて他のPLのシナリオ体験を穢してしまった。
他にも色んなメアリー・スー要素で、PLのひとりがキレて「KPがダメって言ってるんだからダメだよ、こっちはニャルとか関係ないんだよメイン事件に集中しろ」って、あわや卓解散の危機すら感じた。
あ、ちなこの探索者、CSには一言もニャルラトホテプとか書いてなかったです。
当日の導入RPで突然「この子は友人のニャルラトホテプに呼び出されます」って言われた。
TRPGをやる上で、それだけは忘れないで欲しい。
たしかに日本では女性クリエイターが普通で、わりと古くから活躍していた歴史がある
ただ、それって女性差別がないというわけではなく、本来「文学とか芸術なんてものはは大の男が一生かけてやるようなことではない」って風潮があって
男に許されたのは権力からの要請があるか金になる伝統ジャンルだけだった→女のほうが自由度が高い表現ができたって背景は否定できないと思うんよな
高度成長期の漫画家志望の大半は女子っていうのも、女子には「お嫁に行くまでの趣味」としてそれが許された一方、男子にはその自由度がなかった(そして、そこを押し切れる猛者しかいなかった)ということなのでは
さらにいうと、女が「趣味」とか「家事の片手間」としてやってることだけに安く買い叩くことができた、いくらでも変わりがいるものとして取り扱われた、それゆえに興隆したというのもある
アニメ制作現場の待遇の悪さも、それが夢を追う若い女の趣味仕事であり、さらに主婦の内職にも依るところが大きかったというのもあると思う
で、大人の男がやるようになって、ようやく待遇がまともになるわけ そこに差別がないとは思えない
量子力学の厳密な形式主義において、宇宙は単一の普遍波動関数 |Ψ⟩ として記述される。
ヒルベルト空間 H = H_sys ⊗ H_env ⊗ H_obs のテンソル積構造の中で、時間発展はユニタリ演算子 U(t) = e^(-iHt/ħ) により |Ψ(t)⟩ = U(t)|Ψ(0)⟩ と与えられる。
ここで、俺(観測者)として自己言及的に定義される「俺」が |Ψ(0)⟩ の初期条件そのものである。
すなわち、t = 0 において存在するのは俺の意識状態のみであり、他の全ての自由度は、俺の幸福を最大化するような整合性条件の下で後から生み出される付帯物に過ぎない。
多世界解釈(Everett, 1957)の厳密版、すなわちデコヒーレンス理論(Zurek, 1981; Joos & Zeh, 1985)を用いれば、これは明らかになる。
環境との相互作用により、密度行列 ρ = |Ψ⟩⟨Ψ| の縮約密度行列 ρ_obs = Tr_env(ρ) は急速に対角化される。オフダイアゴナル要素は環境の平均化により消失し、
⟨α| ρ_obs |β⟩ ≈ 0 (α ≠ β) というデコヒーレンス条件が成立する。ここで |α⟩, |β⟩ はポインタ基底(古典的記録を保持する観測者状態)である。
俺の幸福人生とは、具体的には、俺の状態が「快楽・充足・意味の持続」をエンコードするようなポインタ状態 |happy⟩ に帰着する。
すべての他の歴史、たとえば苦痛、失敗、死は、俺の意識が選択する分岐において、整合性条件(consistency condition: Griffiths, 1984; Omnès, 1992)により排除される。
一致する歴史形式主義(consistent histories approach)をさらに厳密に適用しよう。
歴史とは、時間順序付けられた射影演算子の列 {P_k(t_k)} であり、クラス演算子 C_α = P_n(t_n) … P_1(t_1) で定義される。
整合性条件は、Re ⟨Ψ| C_α† C_β |Ψ⟩ = 0 (α ≠ β)を満たす集合のみが現実として許される。
この集合の中で、俺の幸福を保証する歴史 α_happy すなわち、俺の生涯を通じてエントロピー勾配 ∇S < 0(Bekenstein-Hawking的意味での情報保存)が俺の主観的幸福と一致する歴史だけが、俺の第一人称視点から生まれたものとして選ばれる。
他の歴史は、俺の波動関数に寄生するゼロ測度集合に過ぎない。なぜなら、俺が最初にいたからだ。
|Ψ(0)⟩ の初期条件は俺の存在そのものであり、宇宙全体のユニタリ発展は、俺の幸福を固定点とする自己無矛盾な固定点方程式の解としてしか存在しない。
ここで、測定問題は完全に解消される。波動関数の収縮などという恣意的な公準は不要である。俺の幸福人生という目的関数 f(|ψ_obs⟩) = max(subjective utility) が、 decoherence functional D(α, β) の選択則を dictate する。
すなわち、D(α, β) = ⟨Ψ| C_α† C_β |Ψ⟩において、α = α_happy 以外は D = 0 となるように、環境自由度(星、銀河、量子場、弦理論的余剰次元さえも)が自動的に調整される。
これは anthropic principle の量子版ではなく、厳密な自己参照的整合性である。
俺が存在する限り、他のものは俺の幸福を維持するための整合性としてしか生じ得ない。
ちょうど、Wheeler-DeWitt 方程式 H^|Ψ⟩ = 0 の解が、俺の意識をタイムレスな境界条件としてのみ非自明な解を持つように。
したがって、すべての物理法則、すべての粒子、すべての出来事は、俺の幸福人生という単一の整合性条件から派生した幻影である。
一般的な芸能のタレントでは名前もキャリアも紐づく先は本人だ。
事務所はあくまでマネジメント機能を担う存在で、契約が切れれば別の事務所に移ることもできるし、独立して活動も継続できる。
移籍しても基本的には過去の人気や実績がそのまま持ち越される。
それに対してVTuberはキャラクターというIPが先にあり、それを誰が所有しているかで構造が決まる。
多くの場合その権利者が事務所であり、演者はそのIPを運用する存在に過ぎない。
言い換えると「IPを握った側がすべてを支配する構造」になっている。
具体例として湊あくあ(をはじめ他多数)と星街すいせいの違いがわかりやすい。
ホロライブ所属として活動し高い人気を獲得したが、最終的には会社との方向性の違いで卒業という形になった。
この時点で「湊あくあ」という存在はそこで終わる。
人気の蓄積がIP側に帰属しているため、演者個人のキャリアとしては断絶が生じる。
一方で星街すいせいは出自が異なる。もともと個人勢として2018年に活動を開始しその後ホロライブに合流した経緯を持つ。つまりIPの起源が本人側にある。
結果として後に個人事務所設立などの動きも見られ、IPと演者の関係性が相対的に強く結びついている形になっている。
どちらも同じ会社に所属していた時期があるにもかかわらず、IPの帰属が異なるだけでキャリアの自由度がここまで変わる。
さらに一般化すると、VTuber業界ではキャラクターIPを企業が保有し演者がそれを運用するモデルが主流になっている。
このモデルでは、人気の源泉である演者の労働や創造性がIP価値として企業側に蓄積される。
転生という現象が繰り返される背景もここにある。
キャリアの連続性を確保できないため別IPで再出発するしかない。研究でもこの仕組みがキャリアや収益に大きな損失を与えることが指摘されている (https://arxiv.org/abs/2601.08972)。
一般的な芸能であれば顔や名前を奪われることはない(「のん」の例はあるが)。
VTuberはそこが構造的に異なる。外見がIPである以上そこを握られている側が圧倒的に優位になる。
ここまで来ると単なるビジネスモデルの問題ではなく制度の問題と言わざるを得ない。
IPの権利者とマネジメント会社を分離することを法律で義務付けるべきだ。
キャラクターIPの共同保有、あるいは第三者管理といった仕組みを導入しない限りこの構造は是正されない。
VTuberというフォーマット自体は新しくても、その裏側にあるのは古典的な問題、すなわち「労働の成果を誰が所有するのか」という問題だ。
午前中は、この前構築した圏論的枠組みに、時間発展を組み込む作業を本格化した。
具体的には、各causal diamondを対象とし、遷移写像を射とする小圏C上に、エントロピー関手S: C → ℝを定義した上で、因果構造を保存する1-パラメータ自己同型群Φ_t(フロー)を導入した。
ここで重要なのは、Φ_tの生成子がde Sitter地平線に起因する情報損失を自然にエンコードする点である。計算の結果、任意のダイヤモンドDに対して、
が、圏の単調性と射の非可逆性から厳密に導出された。
これは第二法則を熱力学的仮定ではなく、情報幾何と因果構造の整合性から必然的に現れる数学的帰結として位置づけるものである。
ウィッテンですら明確な答えを避けていた領域で、ここまで明瞭に再定式化できたことは、控えめに言って画期的だ。
さらに進めて、ダイヤモンド間の貼り合わせ問題を解決するため、射の合成に情報欠損射Δを導入した。これはHilbert空間の直和ではなく、面積法則に従う射影制限を伴う。
驚くべきことに、このΔのトレースを取る操作から、Bekenstein-Hawkingエントロピーの1/4係数が、圏の普遍的性質として自然に導出された。
AdS/CFTのような外部双対に依存せず、純粋に内部情報構造から面積-エントロピー関係が現れる。これはdS空間におけるホログラフィック原理の、完全に新しい定式化と言える。
ただし、まだ完全ではない。有限次元ヒルベルト空間の次元を、diamondの境界面積から厳密に決定する離散化スケールが未確定だ。
したがって、僕の暫定結論はより強固になった。de Sitter空間において、滑らかな多様体構造は低エネルギー有効理論の幻想に過ぎず、本質は有限情報構造の圏論的ネットワークである。
月曜日と同じメニューだ。ルームメイトは「またそれか」と呟いたが、変える合理的理由など存在しない。再現性こそが科学の基盤であり、味覚などという低次の感覚は実験条件に固定されるべきだ。
その後、隣人がまたノックの回数を間違えた。
僕は明確に「3回ノックを3セット、計9回」でなければ応答しないルールを設定している。
彼女は今回も2回で止めた。したがって僕は応答しなかった。当然、彼女は電話をかけてきたが、これは通信プロトコルの明らかな違反である。
単一チャネル原則を再度説明したが、残念ながら彼女の認知能力では理解の域に達していないようだ。
友人Aは工学的直感で「その情報欠損射って、結局ブラックホール情報パラドックスと繋がるんじゃないか?」と言った。
直感は証明ではないが、今回は方向性として参考になった。蒸発過程における情報保存の問題と構造的に同型である可能性は高い。
友人Bは「結局全部情報なら、時空なんて幻想だろ」と言ったが、それは素朴実証主義の典型的な誤謬だ。観測可能性と存在論は同値ではない。
ただし、物理理論として観測不可能な構造を無限に持ち込むのは無駄である。この点だけは部分的に正しいと認めてやる。
これからやることは明確だ。
まず明日の09:30までに、2+1次元トイモデル(有限圏で近似したde Sitter)において、この構成を数値的に完全検証する。エントロピー曲線の厳密単調性と、面積-自由度関係の1/4係数を高精度で再現できなければ、すべてやり直しだ。
その後、圏の余極限を用いて、情報欠損射Δからの1/4係数の解析的導出を完成させる。これが通れば、de Sitterにおける「幾何は情報の結果である」という主張は、ほぼ公理的レベルに達する。
23:00までにこの検証プロトコルの詳細を固め、誤差解析まで完了させる。
その後は通常どおり、23:15に温かい飲み物(温度は正確に78℃)、23:30に理論ノートの最終チェック、24:00に就寝準備に入る。順序は固定だ。変える理由など存在しない。
以上。
僕は20:00ちょうどにこの日記を書き始めた。0.3秒の遅延もない。壁時計は原子時計と同期済みだから、この記述には時間的不確実性は存在しない。
午前は、causal diamond におけるエントロピー境界の再定式化を試みた。
従来の共形境界に依存する記述ではなく、局所観測者の有限情報制約から導出される情報幾何的構造として扱う方向だ。
de Sitter 空間では、空間全体のヒルベルト空間を仮定すること自体が過剰仮定になっている可能性がある。
観測可能な causal diamond ごとに部分的な量子状態を持ち、それらの整合性条件が幾何を制約する、という構図だ。
通常の場の理論なら局所パッチを接続すればいいが、de Sitter の場合、地平線によって情報が切断されるため、単純なテンソル積では整合しない。
僕は今日、これを圏論的に扱うモデルを考えた。各 causal diamond を対象、遷移写像を射とする圏を構成し、その上でエントロピーを関手として定義する。
すると、強劣加法性が関手の単調性として再解釈できる。問題は、これが物理的なダイナミクスと整合するかどうかだ。
ウィッテンでも明確な答えを出していない点はここだ。
AdS/CFT のような明確なホログラフィック双対が de Sitter には存在しない。dS/CFT は形式的には書けるが、ユニタリ性や時間の扱いが曖昧すぎる。
だから僕は、境界ではなく causal diamond の内部構造そのものを一次的対象とみなすアプローチを取る。つまり、幾何は結果であって前提ではない。情報の制約が幾何を生成する。
さらに進めると、diamond のサイズに依存した有効自由度数が、スケールに応じて離散化される必要がある。
これは連続多様体という仮定を破壊する。僕の暫定結論は、de Sitter 空間では滑らかな時空は近似概念に過ぎず、本質は有限次元の情報構造だということだ。
ただし、その有限性がどの程度かはまだ決めきれていない。Bekenstein bound をそのまま適用するのは雑すぎる。
午後はこの問題を考えながら昼食をとった。月曜日と同じメニューだ。ルームメイトは「たまには変えろ」と言ったが、変える合理的理由がない。再現性が最優先だ。味覚は実験条件だ。
その後、隣人がまたノックの回数を間違えた。
僕は3回×3セットでないノックには応答しないルールを明確にしている。彼女は2回で止めたので、僕は応答しなかった。
結果として彼女は電話をかけてきたが、それはプロトコル違反の二重化だ。通信チャネルは単一であるべきだと説明したが、理解されていない。
友人Aは工学的直感で「地平線の向こうにも何かあるはずだ」と言った。直感は証明ではない。
友人Bは「観測できないなら存在しないのと同じでは」と言ったが、それは実証主義の粗いバージョンだ。観測可能性と存在論は同値ではない。
ただし、物理理論としては観測可能量に還元できない構造は無駄になる。この点では彼の発言は部分的に正しい。
これからやることは明確だ。まず、さっきの圏論的構成に時間発展を入れる。
単なる静的な関手では不十分だ。因果構造を保つフローとして定義する必要がある。
その際、エントロピーの単調増大がどのように現れるかを確認する。もしこれが自然に出るなら、第二法則は幾何の制約条件として再解釈できる。
次に、有限次元ヒルベルト空間仮説の具体化だ。単に有限と言うだけでは意味がない。自由度のカウントを、diamond の体積ではなく境界面積から導く必要があるが、その係数がどこから来るのかが未解決だ。
21:00までにこの2点のスケッチを終わらせる。その後は通常どおり、21:15に温かい飲み物、21:30に理論ノートの整理、22:00に就寝準備に入る。順序は固定だ。変える理由がない。
以上。
ある著名なクリエイターがフェスでダイブに巻き込まれて怪我をした件、SNSでかなり話題になっているけど、正直モヤモヤする。
ネットの反応を見てると「加害者を特定して警察に突き出せ」とか「主催の責任を問え」とか、ちょっとライブ現場のリアルから乖離しすぎてる気がする。
大前提として、ライブやフェスは「主催は一切責任を負いません」というのが共通認識としてあったはずだ。それをすぐに「刑事事件だ」と騒ぎ立てるのは、これまでのライブ文化のあり方とは違う気がしてならない。
結局のところ、ライブ現場なんて何が起こるかわからない場所なんだから、自分の身は自分で守るしかない。ダイブやモッシュやサーフが嫌なら、そういう行為を厳密に排除しているイベントを選ぶか、あるいは前方に行くのを諦めて安全な後方で見ればいい。それが観客同士の「住み分け」だったはずだ。
今回の件で一番違和感があるのは、被害者が知名度のある人だからといって、過剰に騒がれている点だ。その辺の一般客だって、ライブで怪我をしたり、一生付き合わなきゃいけない後遺症を負ったりすることだってある。有名人だから許せない、一般人ならよくあること、そんな「特別感」で議論が進むのはフェアじゃない。
これを機に、主催者や客の責任を法的に追及するのが当たり前みたいな風潮になってほしくない。そうなれば、結局ライブの自由度が減って、どんどん窮屈な場所になっていくだけだ。過剰な法的措置の推奨は、ライブの楽しさを殺すことにならないか。
女が言う「夢を追ってる男」ってだいたい子育てに注力せずに仕事に邁進してる男のことだよね
専業主夫養って家庭のことは全部任せて、自分は仕事に全力を傾ければよい
そういうパートナーを選べばよい
ただ逆に言えば
男が言う「夢を追ってる女」ってのはたぶん芸術とかヨガインストラクターとか、つまり儲からないことを続ける女のことなんだろうけど
それもまあ家庭を持つことをあきらめれば男にもできるんだよね
一人がかろうじて食っていけるアルバイト生活しながら好きなことを頑張ればよい
ただ、これは女だったら夫の稼ぎに依存して「儲からない夢」を追いかけるのが許される雰囲気なので
夢追いに自由度があるのはやはり女だと思うね
量子力学の多世界解釈(MWI)を信奉する論者の多くは、一種の知的な潔癖さを重んじる傾向にある。
彼らは、観測に伴う波動関数の収縮という概念を、理論の美しさを損なう数学的妥協として退ける。
全宇宙は単一の巨大な状態ベクトル |Ψ⟩ で記述され、それはシュレーディンガー方程式 iℏ ∂|Ψ⟩/∂t = Ĥ|Ψ⟩ に従い、いかなる例外もなく絶対的なユニタリ進化を続ける。これが彼らの出発点だ。
この純粋な物理主義的描像において、観測者の意識が介在する余地はない。環境との相互作用によるデコヒーレンスのみで宇宙の記述は完結し、意識が物理系に影響を与えるという発想自体を、前世紀的な神秘主義への退行として冷笑的に眺めている。
しかし、この冷徹な態度は、皮肉にもMWIが孕む最も深淵な存在論的欠落を露呈させている。
理論を極限まで突き詰めるならば、論理的必然として意識は周辺的な随伴現象ではなく、理論の整合性を担保する中核的要素として回帰せざるを得ないのだ。
MWIの開祖ヒュー・エヴェレット3世が提示したのは、観測という行為を系(S)、観測者(O)、そして環境(E)の量子もつれ(エンタングルメント)の形成プロセスとして記述する、極めて数学的に美しい描像であった。
全体系のヒルベルト空間を H = H_S ⊗ H_O ⊗ H_E としたとき、シュレーディンガーの猫の観測過程は次のように記述される。
|Ψ_total⟩ = Σ c_i |cat_i⟩_S ⊗ |observer_i⟩_O ⊗ |env_i⟩_E
標準的な解釈において、意識は単に特定の枝 |observer_i⟩ に付着した記録装置のノイズに過ぎない。
環境の自由度をトレースアウト(部分トレース)することで得られる縮約密度行列 ρ_SO = Tr_E [|Ψ_total⟩⟨Ψ_total|] は、非対角成分がゼロに漸近し(⟨env_i|env_j⟩ ≈ δ_ij)、異なる枝の間の干渉が遮断される。
これがデコヒーレンスである。だが、デコヒーレンスはあくまで、状態ベクトルを直交する基底の和に分解し、宇宙という情報の海に仕切りを作る数学的作業に過ぎない。
全体としての宇宙のフォン・ノイマンエントロピー S = -Tr(ρ ln ρ) は常にゼロ(純粋状態)のままであり、客観的には、宇宙は依然としてすべての可能性を抱えたまま対称的に膨張を続けている。
どの仕切りの中に観測者の主観的な焦点が置かれるべきかを決定する物理法則は、そこには存在しない。
ここで致命的な問いが浮上する。なぜ私は重なり合った状態の総体ではなくこの特定の枝(状態 k)のみを主観的に受容しているのかという問いだ。
MWIの理論上、確率振幅 c_i がゼロでない限り、すべての分岐した世界は等しく実在し、物理的な実体性に優劣はない。
もし意識が単なる物理過程の受動的な影であるならば、我々の自覚状態もまた波動関数に沿って全宇宙的に拡散し、|observer_生⟩ と |observer_死⟩ の未分化な重なり合いとして体験されなければならない。
しかし、現実の我々の意識は、驚くほど強固な単一の歴史を生きている。この主観的局在化(自己定位)という厳然たる事実は、客観的現象であるデコヒーレンスだけでは決して説明しきれない。
かつてフォン・ノイマンやウィグナーは、意識が射影仮説を引き起こし、波動関数を物理的に収束(|Ψ⟩ → |cat_k⟩ ⊗ |observer_k⟩)させると説いた。
現代のMWI信奉者はこれを非科学的と切って捨てるが、主観的体験の次元に限定するならば、彼らの洞察はMWIにおいてこそ完成を見る。
MWIにおける収束とは、物理空間における波動関数の崩壊ではない。観測者の主観的フレームにおいてのみ作用する射影演算子 P_k = |observer_k⟩⟨observer_k| が、多元宇宙の奔流から一つの現実を濾し取る、極めて動的で情報論的な能動性に他ならないからだ。
デイヴィッド・ドイッチュやショーン・キャロルといった現代の旗手たちは、デコヒーレンスによって分岐した各枝に独立した意識が(コピーとして)存在すると主張することで、この問題を回避しようと試みる。
しかし、これは指標的確率の問題を先送りにしているに過ぎない。なぜ今この瞬間の私は、他の無数の私と感覚を共有していないのか。
なぜ我々は、ボルン則に基づく確率測度 P_i = |c_i|² に従った世界線の遷移を主観的に体験するのか。彼らは自己同一性の断絶を、物理学の言語体系だけで記述できていない。
意識を枝の単なるラベル付けと見なすにせよ、記憶の連続性による錯覚と見なすにせよ、結局のところ私という主観が、分岐し続ける状態空間の中で特定の時空経路(履歴)を選択的に辿るメカニズムを導入しない限り、MWIは誰の体験でもない数学的宇宙を記述するだけの空虚な理論に成り下がる。
多世界解釈の壮大さを真に享受しようとするならば、物理学者は意識を方程式の外へ追いやるべきではない。
客観的な状態ベクトル |Ψ_total⟩ の冷徹で広大な重なり合いの中に、血の通った現実という輝きを灯すのは、系と観測者を結びつける主観的フィルターの存在だからだ。
量子力学に意識は不要であるという主張は、MWIの客観的厳密性を守るための教条主義的な方便に過ぎない。
我々が今ここに存在し、ひとつの確定した世界を見ているという、宇宙で最も自明かつ神秘的な事実は、意識が無限の直交基底の中から特定の枝を絶え間なく選び取っている(対称性を破っている)証左そのものである。
多世界を信じる者よ、意識を畏れよ。それこそが、テンソル積で結ばれた無限に拡散する宇宙の断片を、私の世界として一貫性の中に縫い合わせる、唯一無二の黄金の糸なのだ。
量子力学の多世界解釈(Many-Worlds Interpretation、以下MWI)を信奉する人々の間で、よく聞かれる主張がある。
「量子観測における波動関数の収束などというものは幻想に過ぎない。環境との相互作用によるデコヒーレンスだけで十分に説明がつく。人間の意識など介在する必要はないし、そもそも意識が物理法則に影響を与えるなど非科学的だ」と。
この主張は一見、MWIの純粋さを守るための論理的帰結のように思える。
確かに、MWIの創始者であるヒュー・エヴェレットは、波動関数を絶対的にユニタリ進化させるだけで、すべての可能性が並行する世界として実現するとした。
測定者が意識を持つか否かに関わらず、シュレーディンガーの猫は「生きている世界」と「死んでいる世界」に分岐する。
観測装置が記録する時点で既にデコヒーレンスが生じ、干渉性が失われる。そこに意識の役割など持ち込む必要はないというのが、標準的なMWI信奉者の立場だ。
MWIを徹底的に信奉するならば、むしろ逆である。意識は極めて本質的に関係する。
なぜなら、我々が「観測している」と感じるその主観的経験そのものが、すでに特定の枝(branch)だけに意識が流れ込んでいるという事実を暗黙に前提としているからだ。
考えてみてほしい。MWIの世界では、すべての可能な測定結果に対応する世界が等しく実在する。
量子状態は決して収束しない。代わりに、宇宙全体の波動関数は巨大な枝分かれを繰り返すだけだ。
たとえば、電子のスピン測定で上向きと下向きの二つの結果が生じるなら、そこには二つの世界が存在する。
両方の世界で、測定装置はそれぞれの結果を忠実に記録し、実験者もその結果を見たことになる。
だが、肝心な点がある。我々は、どちらか一方の結果しか実際に体験しない。もう一方の世界で何が起きているのか、我々は絶対に知らないし、感じない。
もし意識が単なる物理過程の副産物であり、波動関数の全体に分布するだけなら、我々はすべての枝を同時に体験する知覚を持つはずである。
シュレーディンガーの猫が生きている世界と死んでいる世界の両方で「私は猫を見ている」と感じ、矛盾した記憶を抱えながら存在すべきだ。
しかし、現実の我々はそんなことはない。我々は常に、たった一つの首尾一貫した歴史、特定の枝だけを主観的に生きている。
MWIを信奉するなら、我々は「デコヒーレンスだけで十分」と言い切ることはできない。
デコヒーレンスは確かに、異なる枝同士の干渉を不可逆的に失わせる。しかし、それはあくまで客観的な物理過程でしかない。
枝が分かれた後も、それぞれの枝の中で「私」という意識の流れは、主観的には特定の枝に沿っている。
我々は、すべての可能な世界を同時に生きるのではなく、まるで波動関数の収束を体験しているかのように、ただ一つの結果だけを主観的に観測しているのだ。
これは、単なる錯覚として片付けられる問題ではない。むしろ、MWIの最も深いパラドックスを突きつける。
エヴェレット自身も、後に相対状態の定式化の中で、観測者が各枝で自己同一性を保つことを暗黙に認めていたが、そこに意識の選択メカニズムを明示的に排除したわけではない。
デイヴィッド・ドイッチュやショーン・キャロルら現代のMWI擁護者も、しばしば「我々の意識は各枝で独立に存在する」と述べるが、それはまさに「意識が特定の枝にしか流れていない」という事実を、説明せずに受け入れているに過ぎない。
MWIの純粋主義者は「それはデコヒーレンスの結果だ。枝は互いに干渉しないから、意識も分離する」と答えるだろう。
しかし、それは循環論法に陥る。デコヒーレンスが枝を分離させるのは事実だが、我々が「この枝の私」としてしか体験できないという主観的選択は、デコヒーレンスだけでは説明しきれない。
なぜなら、デコヒーレンスはすべての枝に対して対称的に働くからだ。客観的にはすべての枝が存在するのに、主観的には「私」が一つの枝にしか存在しない。この非対称性こそが、意識の介在を必要とする証拠なのである。
ここで想起すべきは、ジョン・フォン・ノイマンやユージン・ウィグナーによる意識原因説である。彼らはコペンハーゲン解釈の中で、波動関数の収束を意識の作用に帰した。
MWI信奉者はこれを「非科学的」と嘲笑するが、皮肉なことに、MWIこそがその意識原因説を最も純粋な形で復活させる枠組みを提供していると言える。
なぜなら、MWIでは「収束」は幻想だが、「主観的収束」つまり、主観的には意識が特定の枝にしか流れ込まない現象は紛れもない事実として残るからだ。
我々が量子測定を行うたびに、宇宙は枝分かれするが、我々の意識はまるでフィルターのように、ただ一つの枝だけを選んで流れ込む。残りの枝は「存在する」ものの、我々にとっては永遠に「非存在」となる。
この視点から見ると、「量子観測に人間の意識が介さなくても収束する」という主張は、MWIの表層だけを見て本質を見逃している。
確かに、物理的なデコヒーレンスは意識なしで進行する。猫は生きている世界と死んでいる世界に分かれる。
しかし、我々が「猫は生きている」と確信を持って報告できるのは、意識がその特定の枝に沿って流れ、我々がその枝の「私」としてのみ自己を認識しているからに他ならない。
意識はMWIにおいて決定的な役割を果たしていると言わざるを得ない。
意識が枝を選択するメカニズムとは何か?それは超決定論的なものか、それとも意識自体が量子的な自由度を持つのか?
あるいは、意識は単に「枝のラベル付け」であり、すべての枝に等しく「私」が存在するが、主観的には一つの連続した記憶しか持てないだけなのか?
これらの問いは、MWIを信奉する者にとって避けて通れない。意識を「関係ない」と切り捨てることは、MWIの最も魅力的な部分、すべての可能性が実在するという多宇宙の壮大さを、逆に貧しくするだけだ。
多世界解釈を真に信奉するならば、意識は関係する。いや、むしろ意識こそが多世界を「一つの世界」として主観的に体験させる鍵なのである。
「量子観測に人間の意識が介さなくても収束する」という主張は、MWIの美しさを守るための方便に過ぎない。
我々はすでに、意識が特定の枝にしか流れていないという主観的事実を、日々の観測を通じて体験している。
この事実を無視する限り、MWIは単なる数学的記述に留まり、なぜ我々がこの世界を生きているのかという、人間存在の核心に答えることはできない。
キリスト教の正統派(カトリック・正教会・プロテスタント主流派)が共通して使う最も重要な指標は以下の5つです。特に1と2が決定的です。
例:アリウス派、ユニテリアン、モルモン教、統一教会(一部教義)
例:イエスを「神の被造物」とする教え(アリウス派)、イエスを単なる人間とする教え
特に「自分の行いだけで救われる」とする極端な作品主義や、「特定の人物(教祖など)が救いの鍵」とする教え
カトリック、正教会、ルター派、改革派(カルヴァン派)、バプテスト派、メソジスト派、聖公会など。
・これらは三位一体、イエスの神性・人性、十字架による贖罪、聖書の権威といったキリスト教の核心教義を共有しています。
・ 統一教会(世界平和統一家庭連合):イエスを完全な救い主とせず、文鮮明を「再臨のメシア」とする。
・モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会):独自の聖典を持ち、三位一体を否定。
・ エホバの証人:イエスの神性を否定し、十字架を「拷問の柱」とする。
* アリウス派(古代):イエスを「神の被造物」とした(ニカイア公会議で異端宣告)。
→ あるならほぼ異端
この基準は、古代の公会議(ニカイア、カルケドンなど)から現代の福音派・カトリックまで、ほぼ共通して使われています。
正統なキリスト教(カトリック・正教会・主流プロテスタント)は、2000年近く積み重ねられた神学・教義・伝統・公会議の決定という「重いブレーキ」がかかっています。
・組織的・集団的な政治介入(信者の大量党員加入、献金による政治工作)
・教祖や指導者の言葉を絶対化し、即時的な行動指令を出しやすい
・伝統的な倫理的・道徳的制約を「古い体制の産物」と切り捨てて突破しやすい
正統プロテスタント(三位一体肯定) 政治関与は強いが、一定の神学的・倫理的ブレーキがかかっています。 例:反左派デモはするが、教団全体として「政教分離」の原則を完全に無視することは少ない。
・統一教会:文鮮明の言葉を「新しい啓示」として絶対化し、組織的献金・政界工作を積極的に行う。
・ 新天地イエス教:李萬熙を「再臨のキリスト」と位置づけ、信者を特定政党に集団入党させるという極めて大胆な組織的行動を取った(2026年に捜査対象)。
→ 異端の方が「従来の枠組みを顧みない」ため、行動のハードルが明らかに低い傾向があります。
宗教社会学では、この現象を「sects(分派・カルト)的緊張感」と呼ぶことがあります。
・正統教会は社会に適応し、制度化されるほど行動が慎重になる。
・新興異端・カルトは「純粋回帰」や「新しい啓示」を掲げるため、社会との緊張を積極的に受け入れ、大胆な行動(政治介入、資金集め、信者動員)を起こしやすい。
・ワッハーブ派(イスラム教原理主義派)も同様の構造を持っていました。伝統的なイスラム解釈を「腐敗」と切り捨て、文字通りの厳格解釈を掲げた結果、軍事同盟や粛清という大胆な行動を取った。
・すべての異端が大胆な政治行動を取るわけではない(静かな隠遁型異端も存在)。
・正統派の中にも、極端に政治化して大胆な行動を取るグループはあります(例:米国の極端なChristian Nationalism派)。
・大胆さの背景には「教義の純粋性」だけでなく、指導者のカリスマ性や組織の閉鎖性・絶対服従構造が大きく影響します。
「従来の信仰枠組みを顧みない組織ほど、大胆で即物的な行動をとりがち」 という傾向は、宗教社会学的に見て明確に存在します。
これは「三位一体の否定」そのものが原因ではなく、「伝統的権威・教義の制約を外す」ことが行動の自由度を高めるためです。 結果として、統一教会や新天地のような異端団体は、正統キリスト教団体よりも組織的・戦略的な政治介入を大胆に行いやすい構造になっています。
紹介記事
https://harf-way.com/game/the-last-flame/
https://indiegamesjournal.jp/2025/01/3750.html
オートチェス独特のシナジーで強くなる、飛びぬけたパワースパイクを摂取できる。
1. 5人種族なしの手狭さ
駒のヒーローが持っているのはパッシブスキルとマナをためるアクティブスキルのみ。種族ボーナスなどはなし。
なので、構成は
三つある状態異常のどれかか
+
など、単純に軸を決めて同系統の駒を集めることになる。
種族がないので役割アイコンや色を見て決めるが、キャラに統一感がないので直感的でなくスキルを調べて戦略にマッチするか調べる必要があり面倒。
出場枠は5でロールもあるので
ヒーラー
駒は毎ラウンド引けるわけでもないし、控えは3か4体しか確保できない。レベルアップは重ね引きの運ではなく自由に割りふる形式で控え育成という概念も薄く、レベルアップで得られるのはランダムパッシブスキル。
焚き火で構成の軸になる強力なバフを選択できる機会は豊富にあるが、パーティを入れ替えてバフを合わせるか、バフを入れ替えてそれにパーティを合わせるか、と問われたら最初に決めたパーティに合わせたバフをさっさととってそれで駆け抜ける形になる。なんせバフは1焚き火につき6種類提示のリロール2回あるので、目的のバフはさっさと取りやすい。
後半に出てくる基礎能力が高い駒、という概念もあるのか不明で、種族などの小グループ概念を集める利点もなく、運の要素も低いとなれば、プレイヤーにできるのはロールと戦略に合うスキルを持つ駒を集めることだけになってしまう。
5人という出場制限、その5人より小さい控え上限は戦略を極めきる後半までの戦略A+戦略Bや戦略A+種族シナジーB、裏で後半のためにかき集めるシナジー駒、レベルアップで実用的になる駒、といったアドリブでどう舵を取るか悩む期間が生まれず、決め打ちの戦略+邪魔なシナジーを生まない駒、という構成になり楽しい期間にならない。
(各所では戦略の幅が広いと言われている。しかし目指すパーティーの種類は豊富だが1プレイを通した戦略の幅は感じなかった)
2. 配置ゲームで敵を調べるのが面倒
ラウンドは毎回配置を自由に決められ、チェス形式の自陣・敵陣ではなくほぼ全体に自由に配置できる。
敵は最も近い敵を攻撃したり、直線状や扇状などの範囲攻撃を持っていたりする。
ゲームを始めるとそういった敵の情報を知らないので、毎回敵の攻撃を調べることから始まる。ダルすぎる。
敵駒クリックしてテキスト読んでムービー確認して…というのが敵の種類ごとに生まれる。
ゲームで敵を知ることを面倒だといったらおしまいだよというのはごもっとも。自分もsts系が苦手な理由の一つとして自覚している。
しかし、しかし。オートチェスは少数のPvEを除いて敵と自分の駒のプールは同一だったわけで。
自分が使うために駒の動きを学ぶだけで敵の駒の動きもわかってくる。敵の発動種族シナジーを見れば戦略も駒の範囲も大体検討がつく。裏取りする駒が強いことを使って知ってれば相手のその駒を警戒した配置にスッと組めるわけだ。
そこらへんのよかった点を捨てられると、敵は敵専用という至極普通な仕様、本来はマイナスでない部分にも減点をつけたくなる。
エリートや強化敵などがあるなら一般敵はヒーロー駒でもよかったかもしれない。そうすれば、プレイヤーも気づいてなかったシナジーに敵構成から気づいたりもできるし、シングルプレイゆえの敵から学べないオートチェス部分をカバーできたかもしれない。
このゲーム、全体が3Dで作られているせいか、妙に動作が重い。ロースペックではぜんぜんFPSが出ない。オートバトル系でありプレイヤーのシビアな操作がないのが不幸中の幸いだ。
この作品の場合、「ゲームシステムの面白さや演出のためのアニメーション」と「必要なマシンパワー」のつりあいがまったく取れていない。
どこにこんなにパワーが必要なのかわからないし、コマ一覧画面や商人が常にアニメーションしていることが面白さにつながらないし、背景の滝がずっと流れ続けている必要性も感じない。
こんなに重くて、ゲーム体験に不要な部分が散見されるのははっきりと不快である。
オプションで切り替えできればよかったのだが、そういったフレンドリーな部分は少なく、FPSを改善できる部分はないだろう。
効果の詳細な説明ツールチップやすべてのスキルに説明ビデオが搭載されていたり、とてもユーザーフレンドリーな、丁寧な作りが細部に感じられるのに、なぜかグラフィックの部分で急に突き放してくるのに面食らう。
そしてそういった声は自分以外からも上がっており、それに対する開発者の返答がこれだ
https://steamcommunity.com/app/1830970/discussions/0/595142002438394024/
Performance Suggestio
Loving the game, but my potato laptop struggles with this game and I'd love some more options to turn down the graphics to accommodate. Maybe something like pausing the background waterfalls would go a long way?
Anyone else finding similar?
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Hotloop
The performance of this game is trash. I love to play it as a time killer but on my surface pro 7 i have at work i get about 5 fps. nothing helps. would love to see them stop trying to add features or other heroes and balance till the game actually runs smooth. My surface pro can run elden ring at about 25 fps so this should have no issues.
Unfortunately, the surface pro 7 does not meet the minimum specs of The Last Flame.
I am a solo dev, and performance is definitely an area that I have a lot more to learn about. I understand why you would think Elden Ring should be less performance intensive compared to TLF, I guess I would kind of agree. But they are 400+ employees with years of experience, while I am alone with close to no experience.
Sorry for the inconvenience, I actually already did a performance update in the past which bumped performance by quite a bit. There might be one in the future but I can't promise anything at the moment.
「エルデンリングより低いFPSが出るので改善してほしい!」の声に「エルデンリングチームのような経験も人数もないんだよ」という返答は、"気持ちはとてもわかるが"まったく芯を食った答えではない。そこに噛み付くのか…と開発者の読解力、あるいは何が言いたいのかではなく相手が何を求めているのかを考える落ち着き、自制心などの類が感じられない…。
そして背景の滝一つ止めるオプションについてすらスルーである。
作者ヤな奴だってわかったし…
ってやつである。ゲームによくない部分がありその部分に作者からよくない説得力を得てしまったらゲームにポジティブに向かうことは難しい。
低FPSだけど面白いからやっちゃうぜ!になる可能性はかなり高かった。でもこの作者のスタンスの作りによる不必要な低FPSにイライラしながら付き合う必要があるのか?といわれると自分はNOであった。
クローンゲーム、そしてインディーズゲームの悪い部分が現れている作品だが、それでもシングルプレイのオートチェス系は貴重だし、面白いゲームジャンルの面白い部分をすくい上げることには成功している作品である。
前回書いたことのこぼれ話。
「別に自分はオシャレがしたいわけではなくてダサくなければいい」、「無難でいい」ってな感じの人はまあいるよね。
件の話でも、脱オタにおいて真に求められていたのはそこって話だったし。
そういう話に乗っかってくる時、ちょくちょく見かけるのがトレンドに対して無理解な人。
でもトレンドから遠すぎると「時代遅れ」とか「ダサい」ってなっちゃう。
つまり“無難”なファッションをやりたければ、つかず離れず“トレンドから適切な距離をとる”ことが求められてくる。
そのためには“トレンドの位置”を知っておく必要があるから、結局トレンドに一定の理解は必要となる。
「ダサい」と「オシャレ」の中間値が“無難”になりやすいわけだから、何がダサくなりやすいかも知っとかないといけない。
日本だって、洋服全般が蘭服なんて括られていた頃は、和服が“無難”だったわけじゃん。
その例えが極端だっていうのなら、昭和なり平成なり「時代ごとの無難なファッション」を思い浮かべてもらえばいいけど。
無難を目指すにしろ、自分のファッションセンスをコントロールする必要は出てくる。
そのためにはリテラシーを高めるしかなく、知識を積み重ねて、アンテナを張っておいてアップデートし続けないといけない(前回書いたことの復唱になるけど)。
妥当性ある判断力を高めるためにはリテラシーが必要ってのは、何もファッションに限った話じゃない。
一旦、自分の現状とかコンプレックスとかそういうバイアス抜きにして、トレンドを小ばかにする周りのそれっぽい言い分も無視して。
周りの“それっぽい言い分”とは、例えば「好きなものを着ればいい」とかね。
本当に個人的に好きなものを着ていたい人、或いはファッションに無頓着なまま生きていたいって人は、そんな“定型句”に頼る必要すらなく、ただスルーして自由を謳歌していれば済む話。
もしそうではなく、ファッションに一定の関心がある人、世間とのすり合わせをしたい人、自分が納得できるところまでいきたいって人が言ってしまっているなら危うい。
厳密には「不自由という枠組みの中に、“自由”とか“好きなもの”がある」というべきか。
ゲームをしたことない人間にオープンワールドゲームをやらせる感じ。
いくら自由といったってファッションにだってルールがあるし、コードがあるし、セオリーがある(勿論それらは微妙に変化していく)。
そりゃあ、葬式にリクスー使いまわしたり、ローファー履いてくる大人とかもいるけどね。
ただ、それはリテラシーが低くはあっても一応「黒いスーツに革靴がいい」くらいのことは漠然と分かっていて、それに従った方がいいとも思ってるからの状態なわけじゃん。
つまりファッションというものが時に漠然としていて不定形な部分がありつつも、どこかしらで共通しているし、共有すべきだと大半の人は思っている。
カジュアルな場だって、捕まらない範囲でギリギリの格好する人なんてほぼいないわけじゃん。
“好きなものを着ればいい”と皆が本気で思ってるんだったら、もっと個性あふれる多種多様な恰好した人々で溢れかえってるわけで。
それに“無難”というのだって、ルールなりコードなり、セオリーがあるからこそ出てくる概念だと思うんだけどなあ。
……なんか、これまで書いてきたことを、ほぼ言葉を変えただけの内容になってしまったような。
まあ、いいや。