はてなキーワード: ダイスとは
うん、そうだね。
でも
どっちかと話を進めるしか無くて、
平和のために動いているのはどっち?って話よ。
まぁ、左翼は思想のためなら人命なんてゴミとしか思ってない人間ばっかりだけど
まだまだロシアにすり潰してもらわないとマンゾクできないわけ???
反吐が出るね。
「トランプ氏は交渉を焦りすぎている。最初に譲歩して良い結果になることはない」
だってさーwwwwww
歴史家wwwww
草すぎwwwwww
ぼっちゃんwwwww歴史の教科書みて、百戦錬磨のネゴシエーターになったつもりでちゅかー_wwwwwwww
「おおーーー!!流石は歴史家の◯◯さん!交渉術にも長けていらっしゃる!トランプは愚か!交渉の仕方も知らない」
って本気で思ってんだよね。
いや、これは本当にガチで。
へー、不動産王の交渉力、アメリカ大統領になるための、実践を積み重ねてきた交渉力よりも、
地獄へ落ちろ。
理由はCMに出てくる女の子のうどんの食い方がエロすぎるからである。
実際見てみた。涙目で赤面した女の子が吐息をまじえつつうどんを食うアニメだった。髪の毛かき上げる時に「ンショ…」というのが面白かった。ちいかわみたい。
緑のたぬきも見てみた。こっちは赤面してない。髪の毛かきあげないので「ンショ…」もない。
エロいかどうかは正直個人の主観なのでわからないけども、「飯をちょっとエッチに食う」はもうグルメ漫画の伝統芸になっているような気もする。
多分結構前からそういう描写はあったんだろうけど、「クッキングパパ」とか「きのう何食べた?」とかではあんまり見ない。まあこの二つは食うより作るがメインみたいなところあるし。
世に「飯を食う姿をちょっとエッチに描いた方が面白くて可愛い!」と知らしめたのはきっと「花のズボラ飯」。
赤面した女性がぺちゃくちゃ喋りながらかぶりつく勢いで飯を食う。しかも結構汗だくでんっ♡んっ♡とか言いながら食う。この漫画、花が可愛いのもそうなんですけど参考グルメ漫画(マジで今日の夕飯の参考にする漫画)としての敷居がとっても低いのもあり人気が出た。
結果、美味そうに食う=エロく食うみたいな思想が世にじわじわと侵食してきたんじゃないだろうか。
そこにブーストをかけたのが「食戟のソーマ」。ちょっとエッチに食うどころかイメージ図で全裸にすることで美味さを表現した。とんでもねえことするよな。でも食戟のソーマのすごいところは男女平等に脱がされるところ。可愛い女の子が全裸になってる後ろで汚いおじさんも剥かれている。ギリギリギャグ描写だよねこれと済ませられるラインを走っている。
もうこれでエロく食う文化は完全にグルメ漫画なら一般的な手法ですよ!となり「肉女のススメ」や「めしぬま」みたいなエロく食うを主題にした作品が増えた。エロく、とまではいかないけど「食ってる(飲んでる)姿が異性から見て素敵だ…」となる漫画も多い。「ワカコ酒」とか「ロリータ飯」とか。
とにもかくにも、異性から魅力的に見える食い方=うまく食うの方程式があるのだ。分からんけど。
そんな中でドラマ化までこぎつけた「作りたい女と食べたい女」ってすごいですよね。
あれはシスターフッドという主題とか作者の思想もあるんでしょうけど美味さの表現が「エロさ」にない。赤面はするけど、作中でめちゃくちゃ美味い!を表現するのは「いかにがっついて食べるか」である。効果音ガッ!ガッ!ズッ!ばくん!だし。
そう考えると最近になって「美味いは別にエロくなくていい」のグルメ漫画増えたな。「おこじょさんと家飲み家ご飯」とか「1日外出録ハンチョウ」とか「邪神の弁当屋さん」とか、そもそも絵柄や登場人物が肉感的でなくとも美味いもんは美味いんだ!でつきすすんでて面白い。
いやまだエロく食うの文化も残ってるんですけどね。「ほったらかし飯」とか「週末やらかし飯」とかまだまだその辺の時代の影響を濃く受けてる感じがする。
おそらく今のグルメ漫画は「エロく可愛く描くのもいいけどさ、エロい可愛いだけが美味いじゃないんだよ」の過渡期にあるのだ。そのうちなんで昔のグルメ漫画ってなんかエロいの多かったの?と言われるようになるでしょう。そんな複雑な時期に赤面ンショ涙目うどん食いをしてしまったのがまずいんじゃ?2010年代後半ならいけた気がする。
そこで提案なんですけど次は「ドカ食いダイスキ!もちづきさん」みたいな感じで必死感出してうどん食うCMにしたらどうでしょう。多分話題になる。別の意味で。
飯をエロく食うな!の記事ではないんだけど飯をエロく食うな!な感じが出てていやですねえ。エロく食ってもいいよ。わずかな時間のCMであのクオリティは素晴らしいよ。エロく食う=美味そうに食うの方程式が完全に確立されてない過渡期のだから叩かれてるんじゃないかなという話をしたいんだよ。
漫画『ドカ食いダイスキもちづきさん』が最近流行っているが、同時期に人気が出てしまったYouTuber「大食い主婦もぐちゃん」は比較対象に上がりがちだ。
職場で少食を気取っているあたりも被っているのは、あるあるなんだろうか。
しかし、漫画のもちづきさんはあまりにも不健康であり、本来は「食ってはいけない人」なんだろうと思うんだけど、もぐちゃんは恐らく「若い頃のギャル曽根」であり、ギャル曽根と同じく医者が喧嘩売って調べたら特異体質が数値に出るタイプだと思う。(もし吐いていたら、あの頻度でバカ食いはできない)
あと前者が漫画なのに対して後者が実在なので、もぐちゃんは以前より「実は食べてないんだろ界隈」からのバッシングを受けて家族が傷ついたり仕事に影響が出てきたそうだ。本人いわく裁判で証拠も見せるし、ひどい場合は法的措置をすると言ってたので、くれぐれも、もぐちゃんに向かって酷い言葉や「もちづきさんだろ」と言うのはやめてあげてほしいものだ。
しかしながら、全人類を見ると「もぐちゃん」の例は少なく「もちづきさん」の例が殆どなのだろうと思う。もぐちゃんは映像の世紀的ホラー映像なんだけど、もちづきさんはウシジマ的サスペンスホラーで笑っていいのか?となる。
あとこの二種類以外にも「早食いタイプ」「食おうと思ったら食えるタイプ」「食ってないと死ぬタイプ」などなどあるはずなので、正確に分けてほしいと言っておくが、別に正直そこまで興味はないので、みんな大切な人のことを考えながら、好きに生きたらいいと思う。
剥き身の人間の心をぶつけあってダイスロール判定やって勝ち負けを決めてこうってやり方が気持ち悪い。
ホビーや異能力によってバトルを行う漫画はそんな品の悪いやり方で人間に序列を付けたりはしない。
たとえばこれがホビーモノだったら気持ちとはミニ四駆やベイブレードに載せることでぶつけあう間接的なモノだし、バトル漫画においてもスタンドや呪術の相性に勝敗は左右される。
気持ちや心が勝敗を決める重要なファクター、OSRポイントに深く関わる要素であるのは間違いないが、バトルで負けたから心が劣っているものとして描かれることはない。
たとえばワンパンマンの無免ライダーなんかは最高の気持ちを持ちながらも本体性能の脆弱さにより勝利を掴めないキャラクターの代表例だ。
言ってしまえばバトル漫画とは「心の有り様は勝敗に強く影響するが、勝敗がそのまま心の優劣を示すわけではない」という世界観によって描かれているのである。
一方で恋愛モノは全く違う。
気持ちや心そのものを直接ぶつけ合ってしまっているので、そこで出てきた結果に対して「能力や機体の性能が」という言い訳は通用しない。
ストレートに「このキャラクターが人間として劣っているからこの結果になったのだ」と突きつけてくる。
この傾向は恋愛モノにおけるキャラクタービジュアルにも出てきている。
恋愛モノにおいては外観の美醜と内面の美醜は比例傾向にあり、ごく一部に「あえて逆張りしたキャラクター」が存在する。
特に悪役令嬢なんかは外見が綺麗なはずなのに内面は腐敗しているというギャップにより悲しい過去や真なる邪悪であることを匂わせるとっかかりとしてさえいるのだ。
つまり、基本的に恋愛モノ漫画においては「心は素晴らしいけど外見が足りてないから恋愛ダイスロールに失敗した」は存在しないのである。
なぜなら、心のスペックが十二分であれば外見はそれに比例してパワーアップするはずだからである。
これらにより「心の有り様は勝敗だけでなく存在の優劣そのものを決める絶対的なファクター」であるという世界観を描き出しているのが恋愛モノなのだ。
当然、このような世界に無免ライダーのような「正しく清らかな心を持ちながらも本体性能の多寡により望む結果を得られなかった勇者」などは存在しようがないわけである。
バトル漫画は「気落ちだけでは勝利できない」という現実世界の残酷さを描いてこそいるが、それは同時に「敗北者の心が常に間違っていたわけではない」を描いてもいるのだ。
「気持ちこそが全てを決定する」という世界観は一見すると正しいものが報われる公正な世界だが、その世界の中で結果を出せないものは「気持ちそのものが間違っていた」というレッテルを貼られてしまうのだ。
ハチクロのラストシーンが何故あんなにも救われるのかと言えば、恋愛漫画というジャンルが持つその基本的な文脈に対する逆張り、「恋愛で負けはしたけど気持ちは正しかったモノ」を描いたからなのである。
つまり、恋愛漫画とはもしもその世界で誰かが敗北したときに「そうです。お前が間違っていたから負けたのです。お前の人生は無意味でした。でもお前のせいです。あ~あ」を叩きつけるような世界の物語なのだ。
まぁさ、おみくじで大吉が凶か、くらいなら単なる運だめしというか、ゲームみたいなもんとしてわからんでもないよ。
まぁ1が出たら当たりと決めてダイス振ってるのと同じで、当たったら何ももらえなくてもちょっとだけ嬉しい、みたいな気持ちは分からんでもない。
でもラッキーアイテムだのラッキーカラーだの、はっきり言って適当なヤツが適当に考えているのが分かりきっているワケじゃん。
なんなら昔ライターやってたころ、俺も作ったことあるよ、適当な企画ページで適当な性格診断と適当な占いみたいなやつ。
占いに関しては100%素人の、何なら占いなんて1ミリも信じてない俺が作ったページでも、それなりに評判はよかったみたいだけど、ほんのちょっとだけ罪悪感があったよ。
〇〇タイプのあなた、今年はどうのこうのな運勢なので、こうこうこれこれした方が吉!こういうことは止めとこう!みたいなさ、別に悪いこと書いたわけじゃないんだけどさ。
言ってしまえば嘘だもんな。知らんもん、そんなもん。当たるとか当たらないとかそれ以前に、何の根拠もないもん。でも世の中の占いなんてそんなもんなわけじゃん。
だから、単純と言えば単純なんだけど、感情って意外と単純じゃないよね
例えるならば、女心と秋の空みたいなもので、私がなんで怒ってるか分かる?😡💢みたいなもんで、
ビジネスとか投資とかって自制心が大事だったりすると思うんだけど、トランプって自制心がないよね
つまり、金勘定と感情ってベクトルが相反するわけで、感情を抑えないと金勘定に悪影響がある、破産するとか
君主論、マキャベリズムも冷酷、残酷な王になれみたいな単純な話じゃなくて、
公開処刑とか相手に恐怖を与えるタイミング頻度を上げすぎると反乱を生みやすくなったり、側近にも恐怖を与えちゃって裏切られる可能性が増えるし、
だから、側近は適度に甘やかす必要がある、一般人にはこういう仕打ちはするけど、おまえらは別だから、とある程度は思わせときながら、
側近にも適度に恐怖を与える必要がある、いずれにしても恐怖を与える頻度を上げすぎると、相手も恐怖に慣れてしまうわけで、
頻度を下げて、ときどき相手に思い出させるように恐怖を与えるべきとか、そういう匙加減が大事で、要はセルフプロデュースを計算する必要があるわけだけど、
トランプは金勘定と権力欲とか感情がむき出しなところがあるようにしか見えなくて、
じゃあなんなのか、というと子供だよね、子供だからその程度の単純な判断しかできないよな…、と舐めてたら、突発的に意外な行動に出たりする、
君主というよりカオスの権化なんだよね、王様にも向いてないし、経営者としてもちょっと疑問、
駄々っ子というか、奇麗じゃないジャイアンがそのまま大人になったような感じ、
先が読めるようで読めない
そう考えると、あながちトランプだから失敗する、とも言い難いんだよね、逆に
行動パターン、思考パターンがよーわからん、ということは、どこかランダムなところもあるみたいなもので、偏ってるけどダイス、サイコロみたいなもんでもある
未来とか分かるわけないし、世の中、思わぬ方向に転がって、常識的に間違っているように思える戦略、戦術でも、運とか時の運とかで勝ってしまうこともよくあるわけで、
そう考えると、トランプだからって悲観的になる必要もない気がしてくるんだよね、まあ不思議な人だよ、近くには絶対いたくないけどね…😟
マキャベリズム的には、例えば戦争に確実に勝てると思っても、側近全員が反対したら、反対する側近全員殺してでもやれ、みたいなところがあると思うんだけど、
トランプの場合、それもできなそうだよね、身内を殺してまで戦争に勝とうとか、下手するとアメリカを守ろうとか思わない可能性がある
https://note.com/yoppymodel/n/n621bfa22db3c
毀誉褒貶ある二人だけれど、ヨッピーはエンタテイナーで暇空はテロリストって感じ。
ヨッピーは喧嘩相手を茶化したり不意に真面目な対応したり真摯なフリして茶化したりするけど、暇空はひたすら罵倒・罵倒・罵倒。
暇空は敵認定した相手にはナニ言っても構わないと思ってるし、認知プロファイリングとかいうテキトーなレッテルの下に、どれだけ侮辱しても自分が正しいと思ってる。
自己防衛やイメージ保守という意味も含めて己を飾る際、ヨッピーは相手に最低限の敬意を払うポーズを見せるのに、暇空は自分がヒーローで相手がヴィランという姿勢を決して崩さない。
暇空の中では「養分になる信者」か「抹殺すべき敵」しか居ないんだろう。
さっきまで親しげに話していても、ちょっと失言した途端、その辺の突起物で目とか突いてきそうな怖さがある。
ヤクザ的な怖さというより、境界知能的な怖さ。マンガでいったら真鍋昌平じゃなく漫☆画太郎。
というか自分ダイスキだよね暇空。インターネットという鏡に映った自分の姿に見惚れて水仙になるんじゃなかろうか。
幽遊白書に「天沼は強いから疎外される。御手洗は弱いから疎外される」という台詞がある。それに則るなら
「ヨッピーは喋らそうとしてくるから炎上する。暇空は黙らせにくるから炎上する」って感じ。
あとまあ、素顔で勝負してるヨッピーと、他人の創作物のガワをパクってる暇空じゃ、前者を贔屓してしまうのもしょうがないかな、と。
彼と出かける時は毎度目的地が決まっていないので、競馬が好きな私は中山競馬場へ行くことを提案した。サービス業ゆえに土日勤務が多く競馬場へめったに行けないこと、昨日有馬記念の熾烈な指定席抽選に落選して東京よりはなんとなく中山へ行きたい気持ちが募っていたことが主な理由である。友人は競馬を観ないし競馬場へも行ったことがなかったが、快く了承してくれた。
到着した頃には第2Rが始まるところだった。初めて競馬場でレースを見た彼はしきりに「速い」と驚き、ウィナーズサークルへ帰ってきた勝ち馬を見て「大きい」と驚いた。しばらく施設内を見て回ったあと、いよいよ第5Rは馬券を買ってみることにした。
早速パドックで馬を見る。彼の目に止まったのは4枠6番ロールザダイス。新馬と思えぬ落ち着きっぷりがお気に召したようだ。一方私はロールザダイスにも目をやりつつ、7枠12番オブラマエストラを見ていた。たまたま前日オブラマエストラが取り上げられていた記事をXで目にしていたからというだけの理由である。友人はロールザダイスの複勝、私はロールザダイスの応援馬券とオブラマエストラの応援馬券を買った。結論から言うとロールザダイスは3着になり、オブラマエストラは惜しくも4着で私の馬券はガミった。友人は初めての競馬場の初めての馬券が見事的中したことを喜んだ。
その後も色々施設を見て回り、フードコートで休憩した後メインレースのパドックへ向かった。今回彼の目に止まったのは3枠5番フィールシンパシー。やはり落ち着いているのがお気に召したらしく単勝を買った。一方私も別に予想が上手いわけでもなく馬を正しくジャッジできる眼があるわけでもないド素人である為、今日の日付である12月14日にちなんで12番ビヨンドザヴァレーと14番ドゥアイズの馬連とワイドを買った。一見トンチキに見えるが、前者は6番人気で後者は3番人気とそう低すぎる人気でもなかった為来てもおかしくはないと踏んだのである。友人はそんなオカルト馬券が当たるかと呆れつつ、一応ドゥアイズの複勝を買い足していた。
迎えたメインレース、結果として5番フィールシンパシーは馬群から抜け出せず7着に沈み、前目につけた12番ビヨンドザヴァレーと14番ドゥアイズは大接戦のゴール前をなんとか残して2,3着になった。友人はドゥアイズの複勝が的中したおかげでガミりはしたがダメージが少なめに抑えられ、私は馬連こそ当たらなかったものの、12月14日ワイドは見事に的中した。まさか本当に当たるとは思っていなかったので、私も友人も大いに笑った。
その後、12Rまで観てから帰路に着いた。正直私の趣味に付き合わせてしまったので申し訳ない気持ちがあったのだが、友人は「想像の10倍楽しかった」と喜んでくれたので安心した。G1レースも観てみたいと言ってくれたのでYoutubeにある過去のレース映像を紹介しつつ、ちょうど明日開催の2歳G1朝日杯FSも見てみてはどうかと勧めておいた。また、今度は府中競馬場にも行ってみようと約束した。
友達が自分の好きなものを好きになってくれるのは何よりも嬉しい。これを機に、彼も競馬を好きになってくれるといいなと思った。おわり。
こんな書き込みにレスしてくれて、ありがとう。自己レスでまとめる。
アメリカのパーカー・ブラザーズが発売したのが、1976年だ。
だが、パイプを繋ぐゲーム、として元ネタがあるかどうかは分からなかった。
それで思いついたが、似たようなゲームジャンルで、15パズルで有名なスライディング・パズルというのがある。
15パズルは、1874年にノイス・チャップマンが原案を出したというが、このジャンルはカードゲームか、と問われると、さすがに違うんじゃないか、と感じる。
小倉百人一首は、藤原定家が13世紀の前半に選定したものだが、元々は色紙に書かれた美術品で、ゲームに使われたものではない。ゲームとしては、かるたの登場を待つことになる。
かるたは、16世紀末頃、現在の福岡県大牟田市が発祥と言われるので、カードゲームとしては、こちらに着目すべきだろう。
ただ、かるたの原型として、貝合わせ(貝覆い)という遊びがあったことを忘れてはいけない。
「貝はカードと言っていいのか?」という疑問もあるが、12世紀には「カードのようなものを使う遊び」が日本にあった、ということだけ整理しておけば充分だろう。
「麻雀牌は、カードの一種とみなしていいのではないか」と言う意見も出ていたが。
その麻雀の起源は、葉子と牌九と言われていて、葉子の方は紛れもなくカードゲームだ。しかもトランプの起源という説もある。
麻雀よりも、トランプよりも、葉子の方がより古いカードゲーム、という点に異論はないだろう。
麻雀やトランプの血筋となった「葉子」は、明の時代 15世紀に遊ばれていたという。
しかし、更にその前。唐の時代、9世紀には「葉子」という遊びがあったらしい。唐の葉子は11世紀には完全に滅んでいるらしく、明の葉子とは別ゲームらしい。
明の葉子はトリックテイキング系のカードゲームとして遊ばれていたようだが、唐の葉子はカードをマスとして使って、ダイスを振って駒を進める双六風のボードゲームだったらしい。
手札にならないカードはレギュレーションに則しているのか、と疑問も感じたが、点数計算表も葉子に記載していたそうなので、これは、今でいう小箱ゲームみたいなものと言っていいだろう。
双六だとタブラだの、セネトだのまで遡れるが、カードゲームであれば、唐の葉子が始祖なんかな、という気がする。
一度、血筋が断絶してるので、始祖と言っていいのか、という議論の余地は残るが。
余談だが、現在は、トランプの起源はタロットという説よりも、タロットの起源はトランプという説の方が有力らしい。知らなんだ。