学研都市線12・津田駅
京都府南部の木津駅を起点とし、大阪府東北部を通るJR学研都市線の12番目の「津田駅」で下車してみる。

(上図の上は東方向)
この津田駅がある大阪府枚方市津田という所は中世・戦国時代の歴史に欠かせない所である。
津田駅の出口は西側だけである。
探索は東方向であるので、線路の下を潜る。
その通路には、元気な絵が描かれているのが特徴である。

東のロータリーを後に、先ずは北へと向かう。
かつての単線時代の駅名標が置かれている。
よく見ると、隣駅は「ながお」となっていて、隣の藤阪駅ではない。
藤阪駅は今から約40年前の複線化に伴って、設置された駅なのである。

道路を右折れして東方向へと向う。
広い道路へと出ると、正面に高速道路とその向こうに山が見えて来る。
目的の国見山・津田城跡である。

高速道路の少し手前に趣のある遊歩道が作られている。
遊歩道を辿って行くと右にカーブして東向きとなり、高速道路(第2京阪道路)を潜る。
そして潜った所で行き止まるので、左手の階段を登る。

高速道路の側道の遊歩道へと出る。
北へ少し進むと、国見山の案内板があり、登山口となる。

登山道を進むと、途中に夫婦岩と云うのがある。

更に登って行く。

途中に土塁跡の表示もある。

「津田城跡」という表示もなされている。
この辺りから、削平地も見られる。曲輪あとなのであろう。
また休憩場所も設けられている。

頂上が近づくと、斜面が急となる。
曲輪を建てるための土塁が設けられている。

頂上へと向かう。
階段が整備されているのはありがたい。

そして頂上である。
そんなに広い場所ではないが、城の主郭が設けられていたのであろう。

頂上から枚方市と京都方向の景色は雄大である。
また、別の登り口である虎口もあった。

津田城を築城したのは地元の武将である津田周防守正信とされる。
畿内の有力者三好長慶に与したとされるが、最後は織田信長に滅ぼされたとされている。
この津田正信の係累に津田監物算長(かずなが)という人物がいる。
種子島でポルトガル伝来の銃を譲り受けて砲術とその製造法を学び、鉄砲を実用化した紀州根来衆の棟梁である。

(上図の上は東方向)
この津田駅がある大阪府枚方市津田という所は中世・戦国時代の歴史に欠かせない所である。
津田駅の出口は西側だけである。
探索は東方向であるので、線路の下を潜る。
その通路には、元気な絵が描かれているのが特徴である。



東のロータリーを後に、先ずは北へと向かう。
かつての単線時代の駅名標が置かれている。
よく見ると、隣駅は「ながお」となっていて、隣の藤阪駅ではない。
藤阪駅は今から約40年前の複線化に伴って、設置された駅なのである。



道路を右折れして東方向へと向う。
広い道路へと出ると、正面に高速道路とその向こうに山が見えて来る。
目的の国見山・津田城跡である。



高速道路の少し手前に趣のある遊歩道が作られている。
遊歩道を辿って行くと右にカーブして東向きとなり、高速道路(第2京阪道路)を潜る。
そして潜った所で行き止まるので、左手の階段を登る。



高速道路の側道の遊歩道へと出る。
北へ少し進むと、国見山の案内板があり、登山口となる。



登山道を進むと、途中に夫婦岩と云うのがある。



更に登って行く。



途中に土塁跡の表示もある。



「津田城跡」という表示もなされている。
この辺りから、削平地も見られる。曲輪あとなのであろう。
また休憩場所も設けられている。



頂上が近づくと、斜面が急となる。
曲輪を建てるための土塁が設けられている。


頂上へと向かう。
階段が整備されているのはありがたい。



そして頂上である。
そんなに広い場所ではないが、城の主郭が設けられていたのであろう。



頂上から枚方市と京都方向の景色は雄大である。
また、別の登り口である虎口もあった。


津田城を築城したのは地元の武将である津田周防守正信とされる。
畿内の有力者三好長慶に与したとされるが、最後は織田信長に滅ぼされたとされている。
この津田正信の係累に津田監物算長(かずなが)という人物がいる。
種子島でポルトガル伝来の銃を譲り受けて砲術とその製造法を学び、鉄砲を実用化した紀州根来衆の棟梁である。