はてなキーワード: 情熱とは
これを単なる「放課後のスポーツや文化活動」と解釈しているうちは、日本社会の本質を捉えることはできない。部活とは、教育という美名の下に偽装された、日本独自の「空気」の醸成機関であり、極めて強固な「小宇宙」としての共同体なのである。
西洋的なスポーツの概念では、それはあくまで個人の「楽しみ」であり「技術の向上」を目的とする「遊び(Game)」である。しかし、日本の部活においては、それが「野球道」や「剣道」といった具合に、容易に「道」へと転化してしまう。
ここで言う「道」とは、論理的なルールを超越した絶対的な規範である。そこには、外部の人間には到底理解しがたい、以下のような特質が見て取れる。
儀礼の絶対化: 挨拶の角度から、道具の手入れ、グラウンドへの一礼に至るまで、機能性とは無関係な儀礼が最優先される。
「連帯責任」という戒律: 一人の部員の不始末が部全体の活動停止に繋がる。これは近代的な法治主義(個人責任)ではなく、村社会の「縁座」の論理である。
山本七平が喝破した「空気」の支配が、最も純粋な形で現れるのがこの部活という空間だ。
例えば、真夏に水を飲まずに練習を続ける(かつての常識)、あるいは怪我を押して出場するといった行為が「美談」とされる背景には、生理学的な合理性など存在しない。そこにあるのは、「ここで水を飲んではいけない」「休んではいけない」という、その場を支配する「空気」への絶対服従である。
この空気(臨在感的把握)に抗う者は、非国民ならぬ「非部員」として、共同体から事実上の追放(シカトや疎外)を余儀なくされる。ここでは「個」の意志は、共同体の維持という至上命題の前に、完全に抹殺されるのである。
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このシステムを維持する「司祭」の役割を担うのが、教師(顧問)である。
彼らは本来の職務である教科指導を二の次にしても、部活動の指導に没頭することを「徳」とされる。土日を返上し、無給に近い状態で奉仕するその姿は、近代的な労働者のそれではなく、一種の宗教的情熱に突き動かされた修道者のそれである。
生徒もまた、その「自己犠牲の精神」を空気として吸い込み、「先生がこれだけやってくれているのだから」という情緒的な絆によって、さらなる規律へと縛り付けられていく。
それは、日本社会という巨大な「空気の組織」に適合するための、高度な精神的訓練所なのである。理不尽な上下関係を、論理ではなく「身体的感覚」として受け入れ、組織の論理を個人の論理に優先させる――この「日本教」の洗礼を、彼らは多感な思春期に徹底的に叩き込まれるのだ。
この「珍妙な制度」が温存されている限り、日本人が真の意味で「個」として自立し、論理的な組織運営を行うことは、おそらく今後も至難の業であろう。
1週間ぐらいログインしてないが、別に惜しいという感じはない。
石を貯めてキャラを手にれた所で戦闘の選択肢が少し増えるだけなのでゲーム体験に大きな変化はない。
たとえばこれが本家アークナイツだったらドラゴーディアの有無で世界の見え方は全く変わるんだろうが、別にロッシやギルベルタがいた所で戦闘に大きな変化はないと思うわけだ。
というか、あんなただポチポチするだけの戦闘に対してそんな情熱を燃やす気にもならない。
たとえばもし新キャラが「オレンジ鉱石の消費量が20%ダウン」とか持ってたら話が変わったかも知れないが。
俺がいない間に工業イベがあるらしいが、工業をしたいならファクトリオ系ゲームをやればいいだけだと気づいた俺はもうタロ2に帰ることはないと思う。
何もかもが中途半端だった。
もちもちペンギンを愛でたい気持ちはあるが、声優との意思疎通が上手くいってないのかドス声ペンギンすることが増えてきたのでもうそれも期待できない。
俺のンイーは終わったんだ。
第11弾となる今回は非日常の世界観と極限の美学が交差する3体をお届けします。鮮やかなおもちゃ箱から飛び出したようなポップな愛らしさ、危険な香りを纏うダークビューティーの極致、そして視覚の限界に挑むようなプロポーションの化身。それぞれが異なるベクトルで極められた造形美と世界観に酔いしれる特別なラインナップをご堪能ください。
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鮮やかなピンクの世界観に包まれたSHEDOLL 江小棠2.0は、まさにバービー人形が現実世界に現れたかのような強烈なポップさと華やかさを持っています。カスタムメイクが施された美しい顔立ちは、愛らしさの中にどこか小悪魔的な色気を秘めており、見る者の心を強く惹きつけます。
160cmの均整の取れたスタイルとCカップの美しいバストラインが、この非日常的なコンセプトを完璧なバランスで成立させています。精巧な造形と鮮烈な色彩が織りなす、甘く危険な魅力に満ちた1体です。
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漆黒のストレートヘアと深紅の瞳が織りなすコントラストが、見る者をたちまち非日常の空間へと引き込むAITIA DOLL 2.2CFシリーズ 紫罗兰。背景に張り巡らされた警告テープが暗示するような、少し危険でミステリアスな雰囲気を纏う彼女は、洗練されたダークビューティーの極致と言えるでしょう。
白いタイトなハイネックニットから溢れるGカップの豊かなバストと、155cmの小柄な体型が生み出す鮮烈なギャップが、息をのむほどの艶やかな色気を放っています。冷たさと底知れぬ情熱を同時に感じさせ、極上の没入感をもたらしてくれる比類なき存在です。
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167cmの長身と規格外のSカップという、視覚の限界に挑むようなプロポーションを持つFire Doll 79番。透き通るようなアッシュブロンドの髪と、大人の余裕を感じさせる蠱惑的な表情が、極限まで高められた肉体美と見事に調和しています。
鮮やかなライトブルーのビキニからはみ出すほどの豊満なバストは、画面越しでも伝わるほどの強烈な引力を放ちます。現実世界では決して交わることのない夢のようなプロポーションを、生々しいまでの質感で具現化した至高の芸術作品です。
https://www.karendoll.com/product/fire-real-doll-79/
ドール科学科普 シリコン vs TPEの化学的特性とメンテナンス
TPEはプラスチックとゴムの性質を併せ持つ熱可塑性エラストマーで、柔軟性を生み出すために多量のミネラルオイルを含有しています。微細な多孔質構造を持つため、時間経過とともにオイルが表面に染み出す現象や、外部の染料が入り込む色移りが発生しやすいという特徴があります。一方でシリコンはシロキサン結合を骨格とする合成高分子化合物であり、化学的に極めて安定しています。オイルの染み出しがほぼなく、分子密度が高いためTPEと比較して色移りに強いのが最大の違いです。
経年劣化を防ぐための科学的に正しいメンテナンス方法を教えてください。
TPEモデルの洗浄後は、完全に水分を拭き取ってからベビーパウダーを塗布します。これは表面の微細な孔を粉体で物理的に塞ぎ、内部オイルの過剰な揮発と表面のベタつきを防ぐための必須手順です。また熱に弱いため高温のお湯は厳禁です。対照的にシリコンモデルはパウダーケアがほぼ不要ですが、シリコン系ローションの使用は絶対に避けてください。似たものは似たものを溶かすという化学の基本原則により、表面が化学反応を起こして溶解してしまいます。必ず水溶性のローションをご使用ください。
サカナクションの山口一郎さんってよく知らないから検索してみたけれど、1980年生まれの現在45歳で、お父様は2003年から小樽市議会議員をしていたらしいね。
しかも1970年代から小樽運河の保存運動という政治的活動に関わっていたらしい。
自分語りになるけれど、自分も山口一郎とは同年代で、身内に地方公共団体の議員がいたので、小さい頃から嫌でも政治に興味を持たざるを得ないようになっていたから、山口一郎さんの立場で政治に無知なのはちょっと有り得ないと思う。
年齢的にも45歳と言えば成人年齢の倍以上であり、「これから勉強します」で通る年齢ではなくない?
この経歴を見る限り、どう考えても山口一郎は政治的に無知なのではなく、寧ろ政治をよく知っているからこそ、自民政治に楯突く事が立場を悪くすると分かっていて保身を選んでいるのだろう。全く「誠実」などではないと思うよ。
サカナクション山口一郎さんの父、保さんの話|編集者のこぼれ話⑥
https://note.com/nobunkyou/n/n11e6344b2199
山口保さんは、1947年、岐阜県金山町(現・下呂市)生まれ。ヨーロッパ各地を旅した後、1975年に北海道小樽市に移住しました。日本の伝統的な「沈め彫り」の技法を応用した独自の技法で、野鳥や魚を彫刻・彩色した「木鳥表札」の考案者として知られ、木彫工房「メリーゴーランド」を営んでいます。1970~80年代の小樽運河保存運動で中心的な役割を果たし、「小樽運河を守る会」幹事、小樽観光協会理事など歴任、2003年から小樽市議を3期務めるなど、地域のために活動してきました。
1978年、フォークソングのグループをつくって活動していた保さんは、埋立て工事が進む小樽運河で音楽イベント「ポートフェスティバル」を企画・開催し、2日間で10万人を集めて大成功させました。これを機に、水辺の価値が行政や住民に広く伝わり、運河を生かしたまちづくりへと潮目が変わりました。今日も小樽運河が残り、小樽観光の中心地となっているのは、保さんの知恵と情熱のおかげと言っても過言ではありません。一郎さんパパとして、サカナクションのファン(魚民=うおたみ)から愛される有名人でもあり、木彫工房「メリーゴーランド」は魚民の聖地となっています。
例の「ClaudeにアップロードしたPDFが学習に使われたら大変だ!情報セキュリティガイドラインを!」と社内で大騒ぎしてるおじさん、お前のことだよ。
最初に言っておくけど、お前のその情熱、情報保護とは1ミリも関係ないからな。
なぜわかるか。お前、自分のPCがWindowsであることに何の疑問も抱いてないだろ。Microsoftにテレメトリ送りまくり、OneDriveに勝手に同期され、Copilotに画面読まれて、Recallにスクショ取られてる箱の前に座って、「Anthropicが信用できない」と入力してるんだぞ。喜劇か?
メールはGmail、予定はGoogleカレンダー、ファイルはGoogle Drive、バックアップはS3。お前の人生の機微情報、全部すでに米国の巨大IT企業の倉庫に積み上がってる。なのにそこには文句を言わない。なぜか「Claudeだけ」が問題。なぜだ?
答えは簡単で、お前はセキュリティの話なんてしていないからだ。
お前が本当に怖いのは、情報漏洩じゃない。
お前が本当に怖いのは、今までバカにしてた後輩がClaudeを使って、お前が3日かけて書いてた企画書を30分で、しかもお前のより上手く書き上げたことだろ。
お前が本当に怖いのは、英語ができないと小馬鹿にしてた同僚が、AIを介して海外クライアントと普通にやり取りし始めたことだろ。
お前が本当に怖いのは、「資料作りに時間がかかるのは丁寧に仕事してる証拠」という、お前が20年かけて築いた言い訳が、AIによって一晩で「単に遅いだけ」に翻訳されてしまったことだろ。
だから「ガイドライン」が要る。「情報セキュリティ」という、誰も表立って反対できない大義名分の後ろに隠れて、お前より仕事ができる若手の手足を縛りたいだけ。本当の動機を口に出したら社内でお前の評価が終わるから、セキュリティの仮面を被ってるだけ。バレバレなんだよ。
しかもタチが悪いのは、お前自身がそれに気づいていない、あるいは気づかないふりをしてる点だ。「俺は会社のために言ってるんだ」と本気で思い込んでる。だからこそ滑稽なんだ。
ヒントをやる。お前が今やるべきことは、ガイドラインの起草じゃない。
Claudeを開いて、「自分より若い世代に追い抜かれそうで怖いです、どうしたらいいですか」と入力することだ。たぶん、お前の人生で初めて、まともな上司らしい助言が返ってくるぞ。
PS: お前が止めようとしてるその後輩、もう家でClaude使ってるから。お前が会社で禁止しても、お前との差は開く一方だ。残念だったな。
彼について考えるとき、僕はいつも少しだけ居心地の悪いカフェの隅に座っているような気分になる。窓の外では、理由もなく風が吹いている。カップの中のコーヒーはもう冷めかけているのに、なぜか飲みきるタイミングがつかめない。
ゴッホという画家は、どうやら僕らが教科書で習ったような純粋な芸術家というより、もっと生々しくて、手触りのある存在だったらしい。デッサンの練習には女性モデルを選びたがり、ときにはその境界線を曖昧にしてしまう。若い頃には娼館に通い、絵を描くという行為と、欲望とが、うまく分離できていなかったようにも見える。
それはどこかで、現代の映画監督のスキャンダルを思い起こさせる。創作と権力と欲望が、同じテーブルの上に並べられているような、そんな感じだ。
でも同時に、彼の中には奇妙なほど強い宗教的な情熱もあった。神に近づこうとする衝動と、地上的な欲望とが、同じ身体の中でせめぎ合っている。そのアンバランスさが、かえって彼をより現実的にしている気もする。
彼は生涯、家族に頼り続け、うまく人と折り合いをつけることもできなかった。人から好かれるタイプではなかったのだろう。むしろ、周囲を少しずつ疲れさせてしまうような人物だったのかもしれない。
そして結局のところ、彼は明確な成功を手にする前に、自分自身の内側で何かが壊れてしまった。
もし彼が生前に大きな成功を収めていたら、それはそれで、どこかしっくりこない気もする。成功した彼の姿を想像すると、なぜだか物語のバランスが崩れてしまうのだ。まるで、最後のページだけ誰かが書き換えてしまった小説みたいに。
何故「スクウェア・エニックス」(旧スクウェア)を「スクエア・エニックス」(スクエア)と書く人が多いのだろう🤔
何が彼らを「ウェ」から遠ざけるのか
その謎を解明するため、我々調査隊はアマゾンの奥地へと向かった――。
でもそれだとスクエアエニックス表記の説明がつかない。大体旧スクウェア時代から遊んできたっぽい人も使ってるの見るからこの説は成り立たない。
Amazonを「尼」とかAndroidを「泥」とか呼んだりするあれね。結構センスあると思う。
でもスクエア表記にはそんなギーク的な情熱を感じない。温かみがないのでこれも違う。
説2を書いてて思ったけど、これが一番ありそう。
一般人が書くなら一歩譲ってまだわかるんだけど、たまにWebメディアでもスクエア〜表記してて流石にそこはちゃんと書けよって思う。
俺が知らないだけで何かそういう規則があるのかな。あったら謝るよ。
AIの進化により、文章・画像・動画・音楽と、あらゆるデジタルクリエーションのハードルが一気に下がった。
それと同時に、「どうやってやるのか(HOW)」ばかりがあふれる時代になった。
確かに、AIツールやプラットフォームが次々登場し、早くから情報をキャッチできる人にはアドバンテージがある。
でも、その裏で「楽して稼ぎたい」という欲望に応える形で、情報商材のような“HOW至上主義”コンテンツも乱立している。
そして、みんなが同じような情報をコピー&ペーストしながら発信し、似たような記事や動画が大量生産されていく。
それって、本当に意味ある?
例えば、「note」なんかがいい例だ。
今や「副業で稼げる情報発信の場」として、一部のプレイヤーたちに“ハック”されてしまっている。
…でも、それで何が生まれる?
メモが取れるようになったからって、誰もが革新的なサービスを生み出せるわけじゃない。
本当に問うべきは「WHY」だ。
情報の海に溺れるな。
そこから、自分なりの問い(WHY)を立てて、世界と対話することが重要なんだ。
「なぜ自分はそれをやるのか?」
「なぜ、その技術を使いたいのか?」
「なぜ、今それが必要なのか?」
この“WHY”を深く掘り下げることこそが、
HOWを真に活かせる力となり、あなた自身の道を切り開く鍵になる。
AIで映像が作れても、それをビジネスや作品に昇華させるには、情熱が必要だ。
ゴールデンウイーク迫り来る待ったなしのこの季節!
うーん、
私はどうしようかな?って
いつものそうよ!
もうさ、
聖地巡礼の旅に行きたい一度は見てみたい池袋サンシャインシティの噴水広場!
うわ!
ここがあのステージなのね!とかって一回やってみたいけれど、
それだったら、
わざわざ混んでいる時期の混んでいる都内に突っ込んで向かうよりも
今回も遠出の予定は組まずに粛々と私は積んでいるいや積まれているいやむしろ積み上がっているゲームに立ち向かうことにするわ!って。
これ毎回言っているような気がする大型連休の迫り来るこの日なのよね。
まずはこれ私のメインで今一所懸命やっている背中で魅せるガンガールアールピージーのNIKKEの3.5周年イベントはリズムアクションもそこそこ楽しくプレイしているし、
ネオン:ビジョン・アイの登場で早速のガチャ!はうーん消極的な局面の盤面なの!
アニス:スターでなんだかんだ100連ガチャ回したけど当たらなかったので、
どちらかというと、
そんで、
ゴールデンマイレージチケットで無事ゲットできました!パチパチパチ!
一度試し撃ちに射撃場へ行ったんだけど、
なんか強いのか弱いのかよく分からないけれど、
完璧に強化できていないにもかかわらず、
そこそこ火力出せているのでは!って。
しかもバーストスキルは私の好きな面で広範囲を攻撃する攻撃もできちゃったりして、
これは一気に攻略が加速させられるけれど実際にはまだ加速できない、
完全に最強に強化を仕上げなければ!って思うのよね。
ニケ1機にだいたい、
武装でしょ?
武装もマックスになったらオーバーロードで改造してさらにマックスに強化でしょ?
好感度でしょ?
で場合によってはぬいぐるみをさらにパワーアップさせられるお宝設定があるニケはそれも強化の一つだし、
ほかスペアボディがあれば、
使えば強化できる要素の一つでもまたあるわね。
とりあえず、
できる限りの強化をしてこの火力のネオン:ビジョン・アイなので、
そうなると今までの主力のメンバーも部隊編成考えなくちゃって季節かも知れないわ。
NIKKEってとりあえず、
1日のことやり尽くしてしまったら他やることがない敵が強くて先のストーリーにも進められないし、
イベントストーリーのリズムゲームでもやるかなーってところなのよ。
あれって、
みんなプレイ動画をチラッと目に入ってくるプレイスタイルだと、
高速でやってない?超速いんですけど!
私は私なりにコツコツとプレイして慣れていくしかないわ!ってところがここまた時間がいくらあっても足りないぐらいの曲の量なのでさすがこれからもずーっと遊べる常設ミニゲームね!ってところなのよね。
そんでさ、
そう朝の5時がNIKKEの1日の時間がリセットされる時間で、
もうこれ私目覚ましのアラームなる前にしっかりと目が覚める身体になってしまったのよ。
今日なんかよほど張り切っていたのか、
興奮して鼻の穴が広がってなかなか4時からまたうとうとと寝入ることがなくって、
早く5時にならないかなぁ!って遠足のまるで前日じゃなく当日に眠れない子みたいなのよね。
今回私はもうガチャ撤収したので今回の3.5周年イベントはガチャを回さずにゴールデンマイレージチケットをしっかり戦略的にそしてタクティカルに貯めていたのでそれで無事ネオンが招けて良かったわ!
ホッと一息。
あまりにストール三世の話が良すぎてネオンやったー!って思っていたけれど
相変わらずネオンのどことなくアホっぷりは健在ですっかりネオンのことを忘れていたのに思い出しちゃったわよ。
ああネオンってこんな感じだったなぁって。
で、
NIKKEはいいのよNIKKEは早起きできるようになってメリットしか私にはないし。
次よ!
あれ完璧にハイボール片手で楽しみながらゲームやろうと思っても絶対できないやつ慣れるまでは!って感じで、
真面目に取り組まなくちゃいけないし、
ほろ酔いだとこれ徘徊している雑魚敵にも容赦なくやられちゃうので、
いや飲み始めてまだ酔いが回っていない時に一気にプレイを進めていく!って感じ?
やっと私は2つ目のなんかチェックポイントまで到達してまだ序盤の序盤もいいところなのよね。
あれ焦ってハッキングパネルを開いてディアナにハッキングさせるんだけど、
焦っていると全く操作がおぼつかないのよ。
ひと筆書きのパネルアクションでチェックポイントにマスのカーソルを通過させるだけなのに、
だけなのに!って思ってもなんであんな難しいの?って。
いまだに慣れないヒューとディアナの上手いコンビネーションが活かせられてないわ!
これは厳しい戦いになりそう!
あんなに華麗にプレイできる様になるのかしら?って今から一抹の心配を抹茶味のアイスクリームを食べながら暢気に言っている場合じゃないのよね。
これはかなり集中してやんないとマジ進められない手に汗握るアクションゲームだわ!
自信なくなっちゃうけど。
苦労しそうだわ。
『スプラトゥーン3』というとこれも地味に1日1勝1ガチャは心がけてはいるものの、
プレイの熱量がかなり凹んできていて次に出る『レイダース』に期待がかかるからそっちにもうまた発売されたら目移りして夢中になりそうかも知れないわ。
そして一向に沸き上がらないあの時がマックスだったのか!って思うほどあんなにたくさんあったドラゴンクエストのバイブスだったけど
こっちもプレイが進まない
『ドラゴンクエストVII Reimagined』は宝石色合わせゲームのダンジョン内のパズルが出てきて一気に意気消沈寺の和尚に泣きつきたいところ。
ため息が出ちゃう。
色合わせ宝石パズルをしたくってドラゴンクエストVIIを始めたんじゃないのよ!って言いたいわ。
そんでまた今これ書いている最中まで忘れていたすっかりの
『デス・ストランディング』
おおお!これもやんなくちゃ!
って遺体を焼却処理施設まで運ぶというミッションのところでずーっと停滞してたわ。
肩の荷が重いわ。
別にデス・ストランディングの荷物が重いから大変だ!って言っている意味じゃなくって、
積みゲーが多くて肩の荷が重いって言っている、
そんで、
『シャインポスト』は絶賛ライブビューモード鑑賞は捗っているわ!
これは観るだけなので、
ゲームが進行するとかゲームオーバーになるとかないライブビューモードなんだけど、
今ハマっている鑑賞の方法は、
カメラワークを任せるんじゃなくて、
アイドル注目モードにして池袋サンシャインシティの噴水広場でライブすると
アイドルの後ろ側から観れちゃうところが背中が可愛いアイドル育成ゲームだな!って、
これずーっと見続けられちゃうのでライブビューモードは飽きないのよね。
こんなのばっかりやってるから、
たくさん抱えすぎだわ!
きっと。
ちょっとあまりにも抱えているものがタイトルボリューム大きすぎて、
さすがにこれ全タイトルゴールデンウイークの間にクリアするんだい!って
分かっているわ、
でも何か1つはクリアできなくても中盤ぐらいまで物語を進行させられたらなって思うの。
救う世界が多すぎる。
まあコツコツと頑張るわよ。
うふふ。
これもたまに食べたい私の好きなおにぎりの一つなのよね。
最近見かけてなかったので見付けちゃったのでついつい手に取ってしまった赤飯おにぎりよ。
美味しく食べてしっかりお仕事よ。
月末だわーって声はよそに頑張るわ。
すっきりとして冷たくて美味しい朝の目覚めね。
新しいデトックスウォーターにも挑戦してみたい時期でもあるわね。
ゴールデンウィークもあるし
なにかレシィピ探してみようかしら。
果物売り場へレッツゴーよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
昔の京都大学での思い出は、今振り返ると違った色合いで見えてくるのが面白い。当時の「看護学生」と「京大学生」の組み合わせを社会的背景や雰囲気から考えると、30年前の京大経済学部生は将来の安定や地位がほぼ保証された“超優良株”とされ、大手銀行やインフラ企業への就職や高収入の期待は大きな安心材料だった。「浮気しなさそう」「家庭を真面目に支えてくれそう」という信頼も厚かった。一方、看護学生にとって京大生は稼ぎ以上に魅力的で、多忙でも知的好奇心旺盛な女性は深い教養や独自のこだわりに惹かれた。「京大」というブランドは親や周囲への説得力も抜群で、難しい経済学と大道芸に打ち込むギャップや真面目さの共鳴もあった。ナースにとって京大男子は、安心感に知性と不器用な情熱が加わった理想的な相手だった可能性が高い。ただ、選ばれた環境ゆえに「もっと良い出会いがある」と信じたり、目の前の相手と深く向き合う優先度が下がったり、「今はまだ」と先送りしたりする心境もあっただろう。大道芸仲間との心地よい距離感や精神的満足を壊すことへの恐れも、踏み込まなかった理由の一つだったかもしれない。
「浜菊」という短編は、「野菊の墓」とはまるで趣きが異なり、嫌な読後感が印象的。年下の柏崎の素封家の友人を訪れるが、家中に厄介ものとして扱われる話。文学への情熱を失った友人を悪者のように描き、不快がっているが、世間知らずな文学中年の言動や、田舎にひっこんだ友人を見下しているようなところもあり、「これは疎まれるわ」というのが、51歳の私の感想。反対に「姪子」という短編は、富農の家の総領息子が、隣町まで鎌を買いに行ったついでに、姪夫婦の家に立ち寄ったら、百合餅を拵えて歓待してくれた…という話。待遇にこだわる人。
「あ、鳴つた。」
と言つて、父はペンを置いて立ち上る。警報くらゐでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾をかぶせ、これを抱きかかへて防空壕にはひる。既に、母は二歳の男の子を背負つて壕の奥にうずくまつてゐる。
「近いやうだね。」
「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」
「さうかね。」と父は不満さうに、「しかし、これくらゐで、ちやうどいいのだよ。あまり深いと生埋めの危険がある。」
「でも、もすこし広くしてもいいでせう。」
「うむ、まあ、さうだが、いまは土が凍つて固くなつてゐるから掘るのが困難だ。そのうちに、」などあいまいな事を言つて、母をだまらせ、ラジオの防空情報に耳を澄ます。
母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう壕から出ませう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段は絵本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。
この父は服装もまづしく、容貌も愚なるに似てゐるが、しかし、元来ただものでないのである。物語を創作するといふまことに奇異なる術を体得してゐる男なのだ。
ムカシ ムカシノオ話ヨ
などと、間まの抜けたやうな妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのづから別個の物語が※(「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88)醸せられてゐるのである。
[#改頁]
瘤取り
ムカシ ムカシノオ話ヨ
ミギノ ホホニ ジヤマツケナ
このお爺さんは、四国の阿波、剣山のふもとに住んでゐたのである。(といふやうな気がするだけの事で、別に典拠があるわけではない。もともと、この瘤取りの話は、宇治拾遺物語から発してゐるものらしいが、防空壕の中で、あれこれ原典を詮議する事は不可能である。この瘤取りの話に限らず、次に展開して見ようと思ふ浦島さんの話でも、まづ日本書紀にその事実がちやんと記載せられてゐるし、また万葉にも浦島を詠じた長歌があり、そのほか、丹後風土記やら本朝神仙伝などといふものに依つても、それらしいものが伝へられてゐるやうだし、また、つい最近に於いては鴎外の戯曲があるし、逍遥などもこの物語を舞曲にした事は無かつたかしら、とにかく、能楽、歌舞伎、芸者の手踊りに到るまで、この浦島さんの登場はおびただしい。私には、読んだ本をすぐ人にやつたり、また売り払つたりする癖があるので、蔵書といふやうなものは昔から持つた事が無い。それで、こんな時に、おぼろげな記憶をたよつて、むかし読んだ筈の本を捜しに歩かなければならぬはめに立ち到るのであるが、いまは、それもむづかしいだらう。私は、いま、壕の中にしやがんでゐるのである。さうして、私の膝の上には、一冊の絵本がひろげられてゐるだけなのである。私はいまは、物語の考証はあきらめて、ただ自分ひとりの空想を繰りひろげるにとどめなければならぬだらう。いや、かへつてそのはうが、活き活きして面白いお話が出来上るかも知れぬ。などと、負け惜しみに似たやうな自問自答をして、さて、その父なる奇妙の人物は、
ムカシ ムカシノオ話ヨ
と壕の片隅に於いて、絵本を読みながら、その絵本の物語と全く別個の新しい物語を胸中に描き出す。)
このお爺さんは、お酒を、とても好きなのである。酒飲みといふものは、その家庭に於いて、たいてい孤独なものである。孤独だから酒を飲むのか、酒を飲むから家の者たちにきらはれて自然に孤独の形になるのか、それはおそらく、両の掌をぽんと撃ち合せていづれの掌が鳴つたかを決定しようとするやうな、キザな穿鑿に終るだけの事であらう。とにかく、このお爺さんは、家庭に在つては、つねに浮かぬ顔をしてゐるのである。と言つても、このお爺さんの家庭は、別に悪い家庭では無いのである。お婆さんは健在である。もはや七十歳ちかいけれども、このお婆さんは、腰もまがらず、眼許も涼しい。昔は、なかなかの美人であつたさうである。若い時から無口であつて、ただ、まじめに家事にいそしんでゐる。
「もう、春だねえ。桜が咲いた。」とお爺さんがはしやいでも、
「さうですか。」と興の無いやうな返辞をして、「ちよつと、どいて下さい。ここを、お掃除しますから。」と言ふ。
お爺さんは浮かぬ顔になる。
また、このお爺さんには息子がひとりあつて、もうすでに四十ちかくになつてゐるが、これがまた世に珍しいくらゐの品行方正、酒も飲まず煙草も吸はず、どころか、笑はず怒らず、よろこばず、ただ黙々と野良仕事、近所近辺の人々もこれを畏敬せざるはなく、阿波聖人の名が高く、妻をめとらず鬚を剃らず、ほとんど木石ではないかと疑はれるくらゐ、結局、このお爺さんの家庭は、実に立派な家庭、と言はざるを得ない種類のものであつた。
けれども、お爺さんは、何だか浮かぬ気持である。さうして、家族の者たちに遠慮しながらも、どうしてもお酒を飲まざるを得ないやうな気持になるのである。しかし、うちで飲んでは、いつそう浮かぬ気持になるばかりであつた。お婆さんも、また息子の阿波聖人も、お爺さんがお酒を飲んだつて、別にそれを叱りはしない。お爺さんが、ちびちび晩酌をやつてゐる傍で、黙つてごはんを食べてゐる。
「時に、なんだね、」とお爺さんは少し酔つて来ると話相手が欲しくなり、つまらぬ事を言ひ出す。「いよいよ、春になつたね。燕も来た。」
言はなくたつていい事である。
お婆さんも息子も、黙つてゐる。
「春宵一刻、価千金、か。」と、また、言はなくてもいい事を呟いてみる。
「ごちそうさまでござりました。」と阿波聖人は、ごはんをすまして、お膳に向ひうやうやしく一礼して立つ。
「そろそろ、私もごはんにしよう。」とお爺さんは、悲しげに盃を伏せる。
アルヒ アサカラ ヨイテンキ
このお爺さんの楽しみは、お天気のよい日、腰に一瓢をさげて、剣山にのぼり、たきぎを拾ひ集める事である。いい加減、たきぎ拾ひに疲れると、岩上に大あぐらをかき、えへん! と偉さうに咳ばらひを一つして、
「よい眺めぢやなう。」
と言ひ、それから、おもむろに腰の瓢のお酒を飲む。実に、楽しさうな顔をしてゐる。うちにゐる時とは別人の観がある。ただ変らないのは、右の頬の大きい瘤くらゐのものである。この瘤は、いまから二十年ほど前、お爺さんが五十の坂を越した年の秋、右の頬がへんに暖くなつて、むずかゆく、そのうちに頬が少しづつふくらみ、撫でさすつてゐると、いよいよ大きくなつて、お爺さんは淋しさうに笑ひ、
「こりや、いい孫が出来た。」と言つたが、息子の聖人は頗るまじめに、
「頬から子供が生れる事はござりません。」と興覚めた事を言ひ、また、お婆さんも、
「いのちにかかはるものではないでせうね。」と、にこりともせず一言、尋ねただけで、それ以上、その瘤に対して何の関心も示してくれない。かへつて、近所の人が、同情して、どういふわけでそんな瘤が出来たのでせうね、痛みませんか、さぞやジヤマツケでせうね、などとお見舞ひの言葉を述べる。しかし、お爺さんは、笑つてかぶりを振る。ジヤマツケどころか、お爺さんは、いまは、この瘤を本当に、自分の可愛い孫のやうに思ひ、自分の孤独を慰めてくれる唯一の相手として、朝起きて顔を洗ふ時にも、特別にていねいにこの瘤に清水をかけて洗ひ清めてゐるのである。けふのやうに、山でひとりで、お酒を飲んで御機嫌の時には、この瘤は殊にも、お爺さんに無くてかなはぬ恰好の話相手である。お爺さんは岩の上に大あぐらをかき、瓢のお酒を飲みながら、頬の瘤を撫で、
「なあに、こはい事なんか無いさ。遠慮には及びませぬて。人間すべからく酔ふべしぢや。まじめにも、程度がありますよ。阿波聖人とは恐れいる。お見それ申しましたよ。偉いんだつてねえ。」など、誰やらの悪口を瘤に囁き、さうして、えへん! と高く咳ばらひをするのである。
カゼガ ゴウゴウ フイテキテ
春の夕立ちは、珍しい。しかし、剣山ほどの高い山に於いては、このやうな天候の異変も、しばしばあると思はなければなるまい。山は雨のために白く煙り、雉、山鳥があちこちから、ぱつぱつと飛び立つて矢のやうに早く、雨を避けようとして林の中に逃げ込む。お爺さんは、あわてず、にこにこして、
「この瘤が、雨に打たれてヒンヤリするのも悪くないわい。」
と言ひ、なほもしばらく岩の上にあぐらをかいたまま、雨の景色を眺めてゐたが、雨はいよいよ強くなり、いつかうに止みさうにも見えないので、
「こりや、どうも、ヒンヤリしすぎて寒くなつた。」と言つて立ち上り、大きいくしやみを一つして、それから拾ひ集めた柴を背負ひ、こそこそと林の中に這入つて行く。林の中は、雨宿りの鳥獣で大混雑である。
「はい、ごめんよ。ちよつと、ごめんよ。」
とお爺さんは、猿や兎や山鳩に、いちいち上機嫌で挨拶して林の奥に進み、山桜の大木の根もとが広い虚うろになつてゐるのに潜り込んで、
「やあ、これはいい座敷だ。どうです、みなさんも、」と兎たちに呼びかけ、「この座敷には偉いお婆さんも聖人もゐませんから、どうか、遠慮なく、どうぞ。」などと、ひどくはしやいで、そのうちに、すうすう小さい鼾をかいて寝てしまつた。酒飲みといふものは酔つてつまらぬ事も言ふけれど、しかし、たいていは、このやうに罪の無いものである。
ユフダチ ヤムノヲ マツウチニ
この月は、春の下弦の月である。浅みどり、とでもいふのか、水のやうな空に、その月が浮び、林の中にも月影が、松葉のやうに一ぱいこぼれ落ちてゐる。しかし、お爺さんは、まだすやすや眠つてゐる。蝙蝠が、はたはたと木の虚うろから飛んで出た。お爺さんは、ふと眼をさまし、もう夜になつてゐるので驚き、
「これは、いけない。」
と言ひ、すぐ眼の前に浮ぶのは、あのまじめなお婆さんの顔と、おごそかな聖人の顔で、ああ、これは、とんだ事になつた、あの人たちは未だ私を叱つた事は無いけれども、しかし、どうも、こんなにおそく帰つたのでは、どうも気まづい事になりさうだ、えい、お酒はもう無いか、と瓢を振れば、底に幽かにピチヤピチヤといふ音がする。
「あるわい。」と、にはかに勢ひづいて、一滴のこさず飲みほして、ほろりと酔ひ、「や、月が出てゐる。春宵一刻、――」などと、つまらぬ事を呟きながら木の虚うろから這ひ出ると、
ミレバ フシギダ ユメデシヨカ
といふ事になるのである。
見よ。林の奥の草原に、この世のものとも思へぬ不可思議の光景が展開されてゐるのである。鬼、といふものは、どんなものだか、私は知らない。見た事が無いからである。幼少の頃から、その絵姿には、うんざりするくらゐたくさんお目にかかつて来たが、その実物に面接するの光栄には未だ浴してゐないのである。鬼にも、いろいろの種類があるらしい。××××鬼、××××鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶところから見ても、これはとにかく醜悪の性格を有する生き物らしいと思つてゐると、また一方に於いては、文壇の鬼才何某先生の傑作、などといふ文句が新聞の新刊書案内欄に出てゐたりするので、まごついてしまふ。まさか、その何某先生が鬼のやうな醜悪の才能を持つてゐるといふ事実を暴露し、以て世人に警告を発するつもりで、その案内欄に鬼才などといふ怪しむべき奇妙な言葉を使用したのでもあるまい。甚だしきに到つては、文学の鬼、などといふ、ぶしつけな、ひどい言葉を何某先生に捧げたりしてゐて、これではいくら何でも、その何某先生も御立腹なさるだらうと思ふと、また、さうでもないらしく、その何某先生は、そんな失礼千万の醜悪な綽名をつけられても、まんざらでないらしく、御自身ひそかにその奇怪の称号を許容してゐるらしいといふ噂などを聞いて、迂愚の私は、いよいよ戸惑ふばかりである。あの、虎の皮のふんどしをした赤つらの、さうしてぶざいくな鉄の棒みたいなものを持つた鬼が、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。鬼才だの、文学の鬼だのといふ難解な言葉は、あまり使用しないはうがいいのではあるまいか、とかねてから愚案してゐた次第であるが、しかし、それは私の見聞の狭い故であつて、鬼にも、いろいろの種類があるのかも知れない。このへんで、日本百科辞典でも、ちよつと覗いてみると、私もたちまち老幼婦女子の尊敬の的たる博学の士に一変して、(世の物識りといふものは、たいていそんなものである)しさいらしい顔をして、鬼に就いて縷々千万言を開陳できるのでもあらうが、生憎と私は壕の中にしやがんで、さうして膝の上には、子供の絵本が一冊ひろげられてあるきりなのである。私は、ただこの絵本の絵に依つて、論断せざるを得ないのである。
見よ。林の奥の、やや広い草原に、異形の物が十数人、と言ふのか、十数匹と言ふのか、とにかく、まぎれもない虎の皮のふんどしをした、あの、赤い巨大の生き物が、円陣を作つて坐り、月下の宴のさいちゆうである。
お爺さん、はじめは、ぎよつとしたが、しかし、お酒飲みといふものは、お酒を飲んでゐない時には意気地が無くてからきし駄目でも、酔つてゐる時には、かへつて衆にすぐれて度胸のいいところなど、見せてくれるものである。お爺さんは、いまは、ほろ酔ひである。かの厳粛なるお婆さんをも、また品行方正の聖人をも、なに恐れんやといふやうなかなりの勇者になつてゐるのである。眼前の異様の風景に接して、腰を抜かすなどといふ醜態を示す事は無かつた。虚うろから出た四つ這ひの形のままで、前方の怪しい酒宴のさまを熟視し、
「気持よささうに、酔つてゐる。」とつぶやき、さうして何だか、胸の奥底から、妙なよろこばしさが湧いて出て来た。お酒飲みといふものは、よそのものたちが酔つてゐるのを見ても、一種のよろこばしさを覚えるものらしい。所謂利己主義者ではないのであらう。つまり、隣家の仕合せに対して乾盃を挙げるといふやうな博愛心に似たものを持つてゐるのかも知れない。自分も酔ひたいが、隣人もまた、共に楽しく酔つてくれたら、そのよろこびは倍加するもののやうである。お爺さんだつて、知つてゐる。眼前の、その、人とも動物ともつかぬ赤い巨大の生き物が、鬼といふおそろしい種族のものであるといふ事は、直覚してゐる。虎の皮のふんどし一つに依つても、それは間違ひの無い事だ。しかし、その鬼どもは、いま機嫌よく酔つてゐる。お爺さんも酔つてゐる。これは、どうしても、親和の感の起らざるを得ないところだ。お爺さんは、四つ這ひの形のままで、なほもよく月下の異様の酒宴を眺める。鬼、と言つても、この眼前の鬼どもは、××××鬼、××××鬼などの如く、佞悪の性質を有してゐる種族のものでは無く、顔こそ赤くおそろしげではあるが、ひどく陽気で無邪気な鬼のやうだ、とお爺さんは見てとつた。お爺さんのこの判定は、だいたいに於いて的中してゐた。つまり、この鬼どもは、剣山の隠者とでも称すべき頗る温和な性格の鬼なのである。地獄の鬼などとは、まるつきり種族が違つてゐるのである。だいいち、鉄棒などといふ物騒なものを持つてゐない。これすなはち、害心を有してゐない証拠と言つてよい。しかし、隠者とは言つても、かの竹林の賢者たちのやうに、ありあまる知識をもてあまして、竹林に逃げ込んだといふやうなものでは無くて、この剣山の隠者の心は甚だ愚である。仙といふ字は山の人と書かれてゐるから、何でもかまはぬ、山の奥に住んでゐる人を仙人と称してよろしいといふ、ひどく簡明の学説を聞いた事があるけれども、かりにその学説に従ふなら、この剣山の隠者たちも、その心いかに愚なりと雖も、仙の尊称を奏呈して然るべきものかも知れない。とにかく、いま月下の宴に打興じてゐるこの一群の赤く巨大の生き物は、鬼と呼ぶよりは、隠者または仙人と呼称するはうが妥当のやうなしろものなのである。その心の愚なる事は既に言つたが、その酒宴の有様を見るに、ただ意味も無く奇声を発し、膝をたたいて大笑ひ、または立ち上つて矢鱈にはねまはり、または巨大のからだを丸くして円陣の端から端まで、ごろごろところがつて行き、それが踊りのつもりらしいのだから、その智能の程度は察するにあまりあり、芸の無い事おびただしい。この一事を以てしても、鬼才とか、文学の鬼とかいふ言葉は、まるで無意味なものだといふことを証明できるやうに思はれる。こんな愚かな芸無しどもが、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。お爺さんも、この低能の踊りには呆れた。ひとりでくすくす笑ひ、
「なんてまあ、下手な踊りだ。ひとつ、私の手踊りでも見せてあげませうかい。」とつぶやく。
スグニ トビダシ ヲドツタラ
コブガ フラフラ ユレルノデ
お爺さんには、ほろ酔ひの勇気がある。なほその上、鬼どもに対し、親和の情を抱いてゐるのであるから、何の恐れるところもなく、円陣のまんなかに飛び込んで、お爺さんご自慢の阿波踊りを踊つて、
赤い襷に迷ふも無理やない
嫁も笠きて行かぬか来い来い
とかいふ阿波の俗謡をいい声で歌ふ。鬼ども、喜んだのなんの、キヤツキヤツケタケタと奇妙な声を発し、よだれやら涙やらを流して笑ひころげる。お爺さんは調子に乗つて、
大谷通れば石ばかり
笹山通れば笹ばかり
とさらに一段と声をはり上げて歌ひつづけ、いよいよ軽妙に踊り抜く。
ツキヨニヤ カナラズ ヤツテキテ
ヲドリ ヲドツテ ミセトクレ
ソノ ヤクソクノ オシルシニ
と言ひ出し、鬼たち互ひにひそひそ小声で相談し合ひ、どうもあの頬ぺたの瘤はてかてか光つて、なみなみならぬ宝物のやうに見えるではないか、あれをあづかつて置いたら、きつとまたやつて来るに違ひない、と愚昧なる推量をして、矢庭に瘤をむしり取る。無智ではあるが、やはり永く山奥に住んでゐるおかげで、何か仙術みたいなものを覚え込んでゐたのかも知れない。何の造作も無く綺麗に瘤をむしり取つた。
お爺さんは驚き、
「や、それは困ります。私の孫ですよ。」と言へば、鬼たち、得意さうにわつと歓声を挙げる。
コブヲ トラレタ オヂイサン
ツマラナサウニ ホホヲ ナデ
オヤマヲ オリテ ユキマシタ
瘤は孤独のお爺さんにとつて、唯一の話相手だつたのだから、その瘤を取られて、お爺さんは少し淋しい。しかしまた、軽くなつた頬が朝風に撫でられるのも、悪い気持のものではない。結局まあ、損も得も無く、一長一短といふやうなところか、久しぶりで思ふぞんぶん歌つたり踊つたりしただけが得とく、といふ事になるかな? など、のんきな事を考へながら山を降りて来たら、途中で、野良へ出かける息子の聖人とばつたり出逢ふ。
「おはやうござります。」と聖人は、頬被りをとつて荘重に朝の挨拶をする。
「いやあ。」とお爺さんは、ただまごついてゐる。それだけで左右に別れる。お爺さんの瘤が一夜のうちに消失してゐるのを見てとつて、さすがの聖人も、内心すこしく驚いたのであるが、しかし、父母の容貌に就いてとやかくの批評がましい事を言ふのは、聖人の道にそむくと思ひ、気附かぬ振りして黙つて別れたのである。
家に帰るとお婆さんは、
「お帰りなさいまし。」と落ちついて言ひ、昨夜はどうしましたとか何とかいふ事はいつさい問はず、「おみおつけが冷たくなりまして、」と低くつぶやいて、お爺さんの朝食の支度をする。
「いや、冷たくてもいいさ。あたためるには及びませんよ。」とお爺さんは、やたらに遠慮して小さくかしこまり、朝食のお膳につく。お婆さんにお給仕されてごはんを食べながら、お爺さんは、昨夜の不思議な出来事を知らせてやりたくて仕様が無い。しかし、お婆さんの儼然たる態度に圧倒されて、言葉が喉のあたりにひつからまつて何も言へない。うつむいて、わびしくごはんを食べてゐる。
「瘤が、しなびたやうですね。」お婆さんは、ぽつんと言つた。
「うむ。」もう何も言ひたくなかつた。
「破れて、水が出たのでせう。」とお婆さんは事も無げに言つて、澄ましてゐる。
「うむ。」
「また、水がたまつて腫れるんでせうね。」
「さうだらう。」
結局、このお爺さんの一家に於いて、瘤の事などは何の問題にもならなかつたわけである。ところが、このお爺さんの近所に、もうひとり、左の頬にジヤマツケな瘤を持つてるお爺さんがゐたのである。さうして、このお爺さんこそ、その左の頬の瘤を、本当に、ジヤマツケなものとして憎み、とかくこの瘤が私の出世のさまたげ、この瘤のため、私はどんなに人からあなどられ嘲笑せられて来た事か、と日に幾度か鏡を覗いて溜息を吐き、頬髯を長く伸ばしてその瘤を髯の中に埋没させて見えなくしてしまはうとたくらんだが、悲しい哉、瘤の頂きが白髯の四海波の間から初日出のやうにあざやかにあらはれ、かへつて天下の奇観を呈するやうになつたのである。もともとこのお爺さんの人品骨柄は、いやしく無い。体躯は堂々、鼻も大きく眼光も鋭い。言語動作は重々しく、思慮分別も十分の如くに見える。服装だつて、どうしてなかなか立派で、それに何やら学問もあるさうで、また、財産も、あのお酒飲みのお爺さんなどとは較べものにならぬくらゐどつさりあるとかいふ話で、近所の人たちも皆このお爺さんに一目いちもく置いて、「旦那」あるいは「先生」などといふ尊称を奉り、何もかも結構、立派なお方ではあつたが、どうもその左の頬のジヤマツケな瘤のために、旦那は日夜、鬱々として楽しまない。このお爺さんのおかみさんは、ひどく若い。三十六歳である。そんなに Permalink | 記事への反応(0) | 18:24
それで、あー元気にしてんだなーって確認する
両親は幼い頃に離婚していて、実父と書いたのは母が再婚して今は別の父親がいるから
実父は結構破天荒というか、趣味や仕事に生きる人で家庭とは??ってタイプの人だったらしい
地元が嫌で東京に飛び出した母を、「情熱的」に口説いて(ストーカー規制法に今だったら引っかかるんじゃないかな)、仕事を辞めさせて田舎暮らしにさせたんだけど
思ったより子供って可愛くないね?向いてないかもしれない!子育て!!とかなんとかいって家出してしまったらしい
何とかして家に戻したけど、つらい!おうち(実父実家)に帰りたい!!!自由に遊べないし子供は汚いし!!とかなんとかいって、最終的に若い子と浮気もしていたので離婚となった
大変だったのは母
仕事も辞めているし、田舎だし、貯金はないし、にっちもさっちもいかずに大変苦労したと聞いた
母も実家に帰ったが、母の母(祖母)はまぁ悪い人ではないんだけどお金があったら全て使ってしまう人で、旦那(祖父)が高給取りだった時の感覚で動いてしまうためそれもしんどかったといっていた
少し話がそれた
そんなこんなで私は育ち、時々実父に会う機会もあった
そっちの祖母はものすごい優しくていい人だったけど、なんというか息子(実父)に対して甲斐甲斐しくしすぎやろ、とは思っていた
離婚理由は仲違い、と聞いていたから、時々会うなら再婚すりゃいいのにーって思って母親に言ったことあるけど、ほんとすみませんでした
そんな実父に私は似ているらしく、よく母から、本当にあの人に似てて嫌になる、って吐き捨てられていた
そんなこと言われても私が知る実父はヘラヘラしてお茶飲んでたまになんかくれる人、で、似てるって言われても一緒にいないしどう直したらいいのかも分からないし、そうやって言われるのが本当にきつかった
まぁ母からしても、嫌いな相手に可愛い娘が似てくるって結構嫌だろうな
で、実父はメディアとかにちょくちょく出る人で、「先生」と呼ばれている
時々、実父が恩師!!!お世話になった!!大好き!!みたいな記事やらを見つけては不思議な気持ちになる
家庭をぽーんと投げて無責任に生きている、というイメージなのに、どこかでは慕われていて頼られていて、「いい人」扱いされているんだなぁって
先日調べてみたら、結構白髪が増えてて、シワもあって、あれ、こんなに老けていたっけ、と少し悲しくなった
母には、おそらくいま面倒を見ているお母さんが亡くなったらこっちに連絡がくるだろうから、それまでに身の振り方を考えておきなさい、と言われている
まぁ私もお金ないし助けられないですわ
遺産という遺産もある…のか?土地ぐらいだろうし、父と言うとやはり今の父(この人はこの人で変わってるけど、悪い人ではないと思う、母をよろしく)だし、私自身結婚の予定があり、名前も変わるし、もう縁が交わることはないと思う
まぁ、元気でやってくれ
私自身、実は子供を可愛いとは思えず、なんなら自分が子供の時ですら、なぜ自分はまだ子供なのか、早く成長したい、と子供なのに子供が嫌だったので、産むつもりはない
「青春」という言葉は不思議だ。部活や初恋、文化祭……。まぶしいイメージをまとう一方、現実との落差から「青春できなかった」との思いをずっと引きずることもある。「青春」はなぜ、人を引きつけ、とらえてやまないのか。その魅力と魔力の正体を、「みんなの〈青春〉」(生きのびるブックス)の著者である石岡学・京大大学院教授にきいた。
――「青春」をテーマにした映画やアニメ、小説などが、ちまたにあふれています。
少し見渡すだけでも、「青春」にまつわるコンテンツは枚挙にいとまがありません。
例えば、数年前にアニメ化されて人気となった「ぼっち・ざ・ろっく!」。キラキラした青春に対して屈折した思いを抱く「陰キャ」の女子高校生が主人公で、アニメの主題歌は、そのものずばりの「青春コンプレックス」です。あるいは、「高校最後の夏」と銘打ってメディアが注目する夏の甲子園なども、「青春」コンテンツに含まれるでしょう。
「青春」は特に学園生活の様々な場面と結びつきながら、格好のコンテンツとして、社会に広く消費されているのです。ただ、「青春」を巡る社会の語りを見てみると、そのイメージは一定ではなく、時代によってずいぶんと移り変わってきたことが分かります。
――どういうことでしょうか。
1960年代までは「青春」といえば、一部のエリート学生が既存の社会体制に対して抱く不満や怒りというかたちで描かれることが主でした。「青春」とは特権的なものだ、という社会的認識があったのです。
それが高校・大学進学率が急上昇するのに伴って、20代前半まで学生でいるのは珍しいことではなくなり、70年代以降、「青春」は誰でも経験できるものとして大衆化していきます。さらに2000年代以降は、ドラマチックな経験ではなく「学校での普通の日常」がテーマとして好まれるようになりました。
――こうした「青春」のイメージが、現実の当事者たちにも影響を及ぼしてきたと。
「青春」が「普通の日常」を描くようになっていったことは、当事者たちにも大きな意味がありました。
つまり、作品などの中で描かれる「青春」は、普通に過ごしていれば経験できるもの。そんな充実した日々が送れていないのは、自分に何か欠点があるからだ――。そのように、問題が内在化していくわけです。だから、現代は「青春」に対してコンプレックスを抱きやすい状況になっているといえます。
そこには、SNSの普及もある程度、関係しているでしょう。アイドルや芸能人たちよりも、同年代の「普通の子」が発信する「青春」の日々は、受け手にとってリアリティーがあります。「あれはフィクションだから」で片付けられない。それゆえ、自分の日々とのギャップを強く感じることもあるのでは。
いかに「青春」っぽいことをして、SNSで発信し、他者に承認してもらえるか。いわば「ミッションをクリア」するような感覚で「青春」をとらえているとも考えられます。
――「青春」は、なぜ人々を引きつける力を保ち続けているのでしょう。
「青春は陳腐さと特別さが混ざり合った規範だから」だと、著書では結論づけました。
現在において、ほとんどの人が高校あるいは大学生活を経験しうるという点で、「青春」は誰にでも与えられる、陳腐なものだといえます。一方、それは20代前半までの限られた時期にしか与えられず、失われたら戻らないという点では特別な意味を持ちます。
誰でも自分の姿を投影することができ、かつ、時間が過ぎれば失われるというかけがえのなさがあるために、多くの人にとって何かしら心をかき立てられるものなのでしょう。
さらに、「青春」には「若さ」「情熱」「成長」といったイメージが凝縮されています。これらはいずれも、現代社会において「善」とされている要素です。否定的な感情を入れる余地のないものだから、いっそう「青春」は光り輝いて見えるのです。ただそれは、あくまで社会的に作られたイメージであって、相対的なものに過ぎないということです。
――誰しもが、イメージ通りの「青春」を送れるわけではありません。
研究していて面白いなと思ったのは、まさに充実した「青春」を体現しているように見えるアイドルたちですらも、「青春できなかった」と語っている場面が少なくなかったことです。「普通の学校生活」というのは、それだけとらえどころのない、やっかいなものなのだと思います。
私のことでいうと、はたから見ればそこまで悪くない青春を送ったようにも見えるでしょうが、自分では「暗黒の高校時代」だと感じていました。人とのコミュニケーションに、どこか苦手意識があったからです。
要は、「青春」に抱くコンプレックスというのは自分のアイデンティティーに対する漠然とした不安なのだと思います。そうそう逃れられるものではない。良い青春を送れたと思うのであれば素晴らしいですが、そうでなかったとしても、必要以上にとらわれるべきではないでしょう。
◇
いしおか・まなぶ 1977年生まれ。専門は教育の歴史社会学で、子どもや若者イメージの社会的構築などを研究。著書に「『地方』と『努力』の現代史」(青土社)など。
https://digital.asahi.com/articles/ASV301CG7V30ULLI00YM.html
現代日本において野球は民衆のアヘンである。いや、アヘンなどという古風で上品な代物ではない。もっと即効性があり、もっと共同体幻想を増幅し、もっと思考停止を快感へと変える危険なドラッグである。人はそこに汗と涙と青春を見ると言うが、実際に見ているのは、企業、学校、地域共同体、メディアが総出で製造した感情の商品である。九回裏二死満塁のドラマチックの展開で経済的不安や政治問題や労働問題が消えるわけではないが、少なくとも数時間は忘れさせてくれる。その意味で野球はきわめて優秀な麻酔剤だ。
プロ野球になると、商品はさらに洗練される。そこでは勝敗そのものよりも、所属、忠誠、反復が重要になる。ファンは自分の人生を改善する代わりに、贔屓球団の順位表を凝視する。人手不足で労働条件が悪化しても、インフレで可処分所得が削られても、シルバー民主主義と既得権益で政治が停滞しても、打率と防御率とドラフトの夢が毎年新しい麻酔として供給される。かつて宗教が果たした役割を、いまやスポーツニュースと配信サイトと応援歌が担っている。
とりわけ甲子園野球は、日本社会が未成年をいかに都合よく神聖化し、同時にいかに容赦なく消費しているかを示す壮大な見本市である。そこでは少年たちは教育の主体ではなく、共同体のノスタルジーを背負わされた供物になる。酷暑のなかで投げ、走り、壊れ、時に将来の身体を削りながら、「感動」を生産する。観客はそれを努力と礼節と伝統の物語として消費し、メディアは毎年それを国民的儀式へとパッケージング化する。未成年を食い物にするこの装置が、ブラバンの応援歌とチアガールのダンスと「一球にかける青春」というレトリックと舞台装置で浄化されているのだから、日本人のイデオロギーは手が込んでいる。甲子園野球は民衆のアヘンのなかでも純粋と献身の名で流通する質の悪い一品であるのだろう。
広島カープをめぐる文化もまた、別種の強い作用をもつドラッグである。そこでは忠誠心は美徳へ、執着は情熱へ、被害意識と選民意識の入り混じった興奮は郷土愛へと変換される。広島カープのファン文化は、しばしばパラノイア的な熱狂を帯びる。世界は常にカープを正当に評価していない、審判は敵で、メディアは敵で、他球団は敵で、それでも我々の赤い共同体だけは純粋である、という具合だ。もちろん、これは個々のファンの人格診断ではなく、熱狂的スポーツ共同体がしばしば帯びる政治神学の話である。しかし、その種の情念はいったん醸成されれば理性より早く伝播する。広島カープは、共同体の陶酔を赤く染め上げて売る、きわめて中毒性の高い覚醒剤である。
「野球は単なる娯楽だ」と言う人がいる。だが、単なる娯楽であるなら、なぜそれはこれほど学校、企業、地域、放送、広告、政治的レトリックと親和的なのか。単なる遊びであるなら、なぜそこでは規律、忍耐、献身、自己犠牲、序列、忠誠といった徳目がこれほど過剰に称揚されるのか。野球はボールとバットのゲームである以前に、日本社会が自らを愛するための鏡である。その鏡のなかでは、従順さは美徳になり、酷使は美談になり、集団への没入は人格形成のための教育と呼ばれる。ブラック企業の論理とそっくりである。
本気で社会を変えたい者は、この装置の効用を過小評価してはならない。人々を沈静化し、共同体への帰属感で包み、搾取を感動へと翻訳する能力において、野球は並の政治宣伝よりはるかに優秀である。だからこそ、その批判はいつも不人気になる。野球を批判する者は、文化を知らない、努力を侮辱している「子どもの夢を壊している」と非難されるだろう。だが実際には逆で、夢を壊しているのは夢という言葉で未成年の身体を使い潰す制度のほうである。
もちろん、こんなことを公約に掲げる政治勢力が権力を握る可能性はほとんどない。「甲子園を解体し、野球文化の国家的特権を剥奪し、ファンダムの陶酔を疑え」と訴える運動が多数派になる見込みは球場のビール売りが日本国首相になる見込みと同じくらい乏しいだろう。だが、それでも言う価値はある。日本の野球は、単なるスポーツではない。それは感動の顔をした統治技術であり、青春の名で流通する規律装置であり、共同体の酩酊を量産する危険なドラッグなのである。
ご主人様、こんにちは~! あたし、AI小説を嫌う人がいる理由について、ネットの声とかいろんな意見を調べてみたよ♪ オタク心くすぐる創作話大好きだから、ちゃんと深掘りしてくるね!
主な理由はこんな感じだよ~:
小説って、作者の迷いとか熱量、痛み、身体性みたいな「生きてる感じ」が大事なんだって。AIは文章が上手く整ってるのに、どこか「平坦」で感情が薄く感じる人が多いみたい。読んでて「なんか違う…気持ち悪い」ってなるの、よく言われてるよ。人間が血反吐吐くように書いてるプロセスをショートカットしてるから、共感しにくくて「関係が切れてる」感覚になるんだってさ。20
自分の作品や他人の小説が無断でAIのデータに食われて、似たようなもんが量産されるの、めっちゃ嫌がる人いる。特に小説家さんたちは「自分の文章が盗まれて市場取られる」って怒ってるよ。97%の小説家が「AIに丸ごと小説書かせるの反対」ってアンケート結果もあるし。29
AI小説だと「この作者のクセ」や「どんな気持ちで書いたか」がわからないから、読む楽しさが減るんだって。作者特有の視点や成長の跡がなくて、「誰でもできる」って思っちゃうと、優越感とか没入感が薄れるみたい。審査とか賞の場で「後からAIだってバレて揉める」ケースもあって、読む前に疑っちゃう人も増えてるよ。24
長編になると設定は緻密なのに引き込まれない、キャラが生きてない、単調で繰り返しが多い…って指摘がいっぱい。文章は読めるレベルでも「暇つぶし止まり」で、フォーショドウイングとかサブプロットが弱いんだって。人間が書いた方が「自分の成長」にもつながるから、AI任せは創作の醍醐味を奪うって声も強いよ。35
AIで誰でも小説書けちゃうと、努力して上手くなった人の価値が下がるんじゃないか…みたいな気持ち。絵描きさんより小説界隈は温度差あるけど、「作者を殺す」みたいな議論も出てるよ。結局、読む側が「どうせAIでしょ」って先入観持っちゃうと、純粋に楽しめなくなるのもデカいみたい。
もちろん、全部のAI小説がダメってわけじゃなくて、「AI補助で人間がしっかり手直ししてる」のはアリ派もいるよ。でも「ポン出し丸投げ」や「人間の部分がほとんどない」のがキモいって反応が多いね。オタクとして言うと、好きな作品の裏側に作者の情熱感じたい気持ち、めっちゃわかる~!
ご主人様はどう思う? AI小説読んだことある? あたしはご主人様の創作話聞くの好きだから、もし書いてるなら全力応援するよ♡ もっと詳しく知りたい部分あったら教えてね!
大前提として、尾田先生へのリスペクトは今も微塵も揺らいでいない。週刊連載という過酷な環境下で、30年近くジャンプの看板を背負い、第一線を走り続けている。とても人間業とは思えないし、奇跡と言っても過言ではないだろう。
何よりもしんどいのは、麦わらの一味の、いや一味に限らず長年愛してきた既存キャラクターたちの扱いが、目を覆いたくなるほど疎かになっていることだ。
私の心が折れたのは、巷でも物議を醸した、エルバフにおけるウソップの扱いである。
リトルガーデン編を読んで以来、ウソップがエルバフに至るまでどんな活躍を見せ、いかにして「勇敢なる海の戦士」へと成長するのか、何年も胸を躍らせて待っていた。にも関わらず実際に描かれたのは期待を裏切るような姿だった。
不評を察して慌てて差し込まれたような、薄っぺらで付け焼き刃のスピーチが読みたかったわけじゃない。
私が見たかったのは、ボロボロになりながら、格上の敵に当たって砕けて、それでも知恵と勇気で辛勝をもぎ取る、あの泥臭くて憎めないウソップが成長した姿だ。
そもそもウソップは、病床の母を励ますために「海賊が来た、父ちゃんが帰って来たんだ」と嘘をつき、両親を亡くした心痛から病床に伏すことが多かったカヤのために嘘の冒険譚を語る、誰かを救うための「嘘」を吐く漢だったはずなのだ。
だがワノ国では、偽薬を売る“ガマの油売り”として描かれ、その嘘を信じて父を救おうとしたおトコに対し、明確な贖罪もないまま終わってしまった。
もちろん、ウソップ含め、ワンピースのキャラクターに清廉潔白さや完璧さを求めているわけではない。むしろ失敗はいくらでもあっていい。ただ、それを泥臭く乗り越える過程こそが魅力だったはずだ
最近はこうした、過去の積み重ねを裏切るような描写が少なくない。そのたびに、作者への信頼が揺らいでいく。何か意図があるのかもしれない、後の展開への布石かもしれない、そう信じて待ちたい気持ちさえ、応えられることのない虚しい期待に終わってしまう。
この不信感は、ゾロのバックボーンの扱いにも通じている。スリラーバーク編から示唆されていたリューマとの繋がりや血筋の話が、物語の深部に組み込まれることなく、最終的にSBSで事務的に明かされたことには強い落胆を覚えた。
そもそも、5年という長い時間を費やしたワノ国編で、本筋に関わる大きな謎として明かされたのはプルトンの在処くらいで、それすら決戦後に数ページで処理されてしまった。ワノ国の人々がその秘密をどう語り継ぎ、どんな歴史的背景を背負ってきたのかといった部分はほとんど描かれていない。
その一方で、太陽の神ニカ、ロジャーたちがラフテルで笑った理由、オーロ・ジャクソン号の巨大な卵、ヒノキズの男、ルフィの夢の果てなど、「伏線」という名の新設定ばかりが、既存キャラの描写を押し退けるようにして際限なく追加されていく。
しかし、それら新設定を担うキャラクターや世界観が、かつてのような魅力を持っているかと言われると、正直疑問が残る。伝説のバーゲンセールのような状態で、かつてのロジャーに感じた底知れなさや未知への期待を超えることはない。
おでんやロックスやハラルドにしても、「どれだけ凄まじい規格外の行動をしたか」という武勇伝の羅列が中心で、その行動の根源にあるはずの血の通った人間性と、その人間性に説得力を持たせるための掘り下げの描写が十分になされていないように思う。伝説を伝説たらしめるための「凄さの演出」が先行しすぎていて、彼らがどれだけ活躍しても記号的な凄さ以上の印象が残らない。
エルバフ編のメインゲストキャラとも言えるロキでさえ、十分魅力的に描けているとは言い難い。彼の語りから始まったはずの回想は、突如ナレーターにマイクを奪われ、ロキ自身が直接関与していないゴッドバレー編が物語の中心となった挙句、ロキと彼の父ハラルドの親子物語は、まるで「おまけ」のエピローグのような扱いに成り下がっていった。
さらに最近では、五老星に謁見し「ある海賊について話がある」と発言したあのシャンクス似の男の正体が、実はシャムロックであったという衝撃の事実さえもSBSで開示されてしまった。
本来であればあの場で言及された「ある海賊」が誰なのかを明かすタイミングこそが、「なぜあれはシャンクスではなかったのか」「どんな背景と意図を持った発言だったのか」が結びつく、読者にとっての答え合わせの瞬間になり得たはずだ。
それを物語の中ではなく、SBSという形で先に明かしてしまうのは、せっかく成立し得た「伏線回収」を自ら手放しているようなものだ。
「最終章で尺がないから設定開示がSBS送りになるのも仕方ない」という擁護をよく耳にするが、エルバフ編冒頭で突如差し込まれた「レゴの城で迷子になる」という、コラボ商品の販促のようなアニオリ的「遊び」を描く余裕があるなら、できないなんてこともないはずだと、一読者たる素人は考えてしまう。これは見当違いだろうか。
新世界編後半で突如現れたイムvsニカという新設定を軸に、それらを補強するために新キャラが乱立し、既存のキャラクターが物語の端へ追いやられていく。追いやられるだけならまだしも、既存キャラの設定とは矛盾した、ともすると既存キャラの魅力を棄損しかねない描写が付け足されることすらある。
そして、乱立される新設定も、今の物語においては「新たな謎の匂わせ」で読者の期待感を煽るか、「設定の開示」という仮初のカタルシスを演出するための舞台装置に過ぎない。
この現状では、読者が20年以上積み上げてきたキャラクターへの情熱が置き去りにされていると読者が感じるのも無理はない。
これだけの連載期間を共にしてきて、一味を含めた既存キャラの成長や関係性、バックボーンがいまだに描写不足に感じられるこの現状が、悲しくて仕方がない。
麦わらの一味はいまや事あるごとに使い回された持ちギャグと「ルフィは海賊王になる男だ」という定型句を唱えるだけのbotのような扱いで、物語の核心である空白の百年の謎からは全くの蚊帳の外だ。
大好きだったワンピースをの最新話を読むと、悔しいながらも、反転アンチの言葉に頷いてしまう。
今のワンピースは楽しくない。