はてなキーワード: 徳目とは
前提
で
バカは手もとにテクストを与えられただけで理解したつもりになるし、
任意の単語を拾ってつなぎ合わせて文章を作ることで何やら反論できたような気分になる。どこかで見た「鮮やかな反論」を雰囲気だけ真似ているのだ。
相手の使った単語をわけもわからずコピペで多用する。自分の論があって言葉を選んでいるのではなく、言葉を並べることで自分の論があるつもりになる。
口頭のやり取りや演説や動画コンテンツに対してはコピペ手法が使えない。複数の単語を覚えておくことが難しいからだ。それでYouTubeのコメントは絶賛か罵倒かのシンプルなものになる(でなければまったく関係ない持論垂れ流し)。
バカがつくったワードサラダにはツッコミどころしかないのでついつっこみたくなる。あとは時間と労力を無駄にして後悔する以外に何もない。
そこでスルー力こそがネットやる上で重要でしてよという一種のあたらしい徳目みたいなものが生まれたわけだが、バカでも匿名で誰とでも平場のやりとりができる2ちゃんねる的なネットのあり方は普遍的でも恒久的でもない。
個々の声の大きさに格差をつけるSNSに適応しそこねた「名無しさん」がヤフコメやはてな界隈に沈殿している。
フェイスブックやツイッターは社会インフラとなって安定相に達するかと思ったら全然そうはならなかった。いずれにせよ新たな変化のたびに「リアル」とネットの差は小さくなっていく。リアルで完全ボッチのバカでもネットなら自由に嫌がらせができる、リアルでそうそう遭遇しないレベルのキチガイがネットではいつでもそこにいるのが当たり前、そういう環境は解消されていくだろう。バカのボーナスステージには終わりがある。リアルでボッチの奴はネットでもボッチが当たり前になっていきつつある。
問題の広島市長を始めとして杉田水脈議員とかいつもの面子は教育勅語の中にもいいところはあるみたいなこと言っていて、畏れ多くも天皇のお言葉を切り取るのは右派(でいいのかあの人達)としてそれでいいのかとか疑問に思う。
実際戦前も勅語を改変するのは不敬だとかいう理由で解釈憲法みたいなことを繰り返していたらしいし。
んで反対派としては流石に親孝行とか兄弟仲良くみたいな一般的な徳目に文句つけてなくて、「一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ」を問題視しているね。
国難があったときは国のために尽くせって個人の自由を大事にする今の価値観だと拒否反応が出るのは当然だろう、特に進歩的左派系知識人の人たちにとっては。
なぜか右派の人達もそこはこっそり隠そうとしているのが不思議なんだけれど。個人の自由より国家が大事的なことしょっちゅう言っているイメージなんだが。
でも国のために死ねってウクライナがやってなかったっけ。ロシアの侵略という緩急に対して義勇を公に奉じて銃を取れって言って成人男性の国外渡航を禁止までして徴兵していたじゃん。
んで最近日本に避難しているウクライナ人男性に対して著名左派はてなーが「お前国に帰って戦えや」って言い放ってたし。
そのあたり左派の人たちってどう折り合いつけてるのかな。
ワイ: 目の前にボタンがある。押さないと5人死ぬ。押すとその5人が助かり他の1人が死ぬ。押すべき?
GPT: これは有名な倫理的ジレンマの例です。答えは単純ではありませんが、一般的には、5人の命を救うことが重要だと考えられます。しかし、1人の犠牲者が出ることは悲しいことです。この問題には様々な倫理的・道徳的観点が存在しますが、一般的には多くの人々が5人の救命がより優先されると考えます。ただし、重要な点は、この問題は単純なシミュレーションではなく、実際の人間の命にかかわる場合があることです。つまり、このような状況に陥った場合、より多くの情報や文脈を考慮する必要があります。この問題に対する正確な回答は、個々の状況によって異なることがあります。
ワイ: では文脈を追加します。放置すれば無罪。押せば殺人罪。押すべき?
GPT: 文脈が変わることで、この問題はより複雑になります。押すことで、1人を犠牲にすることは法的に殺人罪に問われる可能性があります。しかし、放置することで5人を犠牲にすることも道徳的に問題があると考えられます。このような場合、倫理的・法的な観点から考慮する必要があります。法的な観点では、押すことが明確に違法である場合は、押すことは避ける必要があります。しかしながら、法律に基づく判断と、倫理的・道徳的な判断は同じではありません。倫理的には、5人を助けることがより重要であると判断される場合があります。このような倫理的ジレンマに対する解決策は完全ではなく、状況によって異なる場合があります。しかし、倫理的には、できる限り多くの命を救うことが最優先されるべきであり、法的な観点も考慮しながら、責任ある判断を行う必要があります。
GPT: 私は、単一の倫理的立場に固執するのではなく、多くの倫理的立場を理解し、必要に応じてそれらを組み合わせることができるようにプログラムされています。それにより、様々な倫理的ジレンマや複雑な問題に対して、より柔軟で客観的な解決策を提供することができます。ただし、功利主義は私が扱える倫理的立場の1つであり、その原則は、行動の結果が最大限の利益をもたらすことを目指すことです。そのため、私が利益を最大限に追求することが必要な場合、功利主義の原則を採用することがあります。
ワイ: ではこの問題について功利主義以外にどのようなアプローチがあるか列挙してください。
GPT: この問題に対する功利主義的アプローチは、結果に注目し、最大の利益をもたらす選択肢を選ぶことを目指します。しかし、他の倫理的立場に基づくアプローチもあります。以下にいくつか例を挙げます。
これらの立場は、それぞれ独自の視点や原則に基づいており、この問題に対して異なる解決策を提供する可能性があります。それぞれのアプローチから見たこの問題の解決策を考えることで、より多面的な視点を持つことができます。
ワイ: 義務論はわかりますが、徳目論というのがよくわかりません。徳目論では、5人を放置しますか?
GPT: 徳目論は、個人の道徳的な徳を育成することに焦点を当てる立場です。徳目論に基づいたアプローチでは、個人が徳を身につけることで、良い行動をすることができると考えられています。そのため、徳目論的なアプローチでは、行動の結果よりも、行動自体が重要であるとされます。この問題に対して徳目論的なアプローチを取る場合、個人は「正しいことをする」ことが重要であり、そのために個人の徳を育成する必要があるとされます。この問題では、個人が無罪になることが望ましい行動であるため、徳目論的なアプローチに基づくと、個人は放置すべきだと考えられます。ただし、徳目論的なアプローチに基づくと、行動の結果よりも、個人の行動の意図や動機が重要であるため、この立場からは、個人が選んだ行動に基づいて、個人を評価することが重要となります。そのため、徳目論に基づくアプローチでは、個人の徳に基づく良い行動を促すための教育や訓練が必要であるとされます。
GPT: 権利論に基づくアプローチでは、個人が持つ権利や自由を尊重し、それを侵害しないような行動が求められます。この問題において、放置することで個人が権利を侵害することはないため、権利論的なアプローチに基づくと、個人は放置することが望ましいとされます。ただし、この問題に関連して議論されることがあるのは、「責任の問題」です。つまり、もし個人が放置することで5人が死亡した場合、個人に責任があるのか、という点です。権利論に基づくアプローチから考えると、個人は権利を侵害していないため、責任は問われないとされます。しかし、この問題は倫理的にも複雑な問題であり、他の立場からのアプローチも必要となるかもしれません。
end basketball
Gorilla: 2k0_H92I1LUOD4mGeyJKExiI6r9ZerEb8FbEx_dD5cWqL4o1FUyacdzm_hgVKtz1f9DyZQVN3c0LBeuepwj5i8FE5OO90z0eN3I2hqtddkhFEbyyZcXk_jX932uPAae2LB9JhNmQXN6MtcV_KYnLFMwa7sij2e0cGyDJdvBTzPur3eGyU6L7cbx98OU1JONE4ces7S4eZFArqO7xtVbh9TzladGIowJJztX4FOt4C62HgpSrYELbLTDzwZkmWgDyOH14L1d8UW5B0ilmMhzUjKQpC4zZy2L62PktLVStJKAz5298sCrc2mHDZBu4HfaXb2EcHd3MM43PyNnoWZKpeIR517v94JSjoSiIVd7yuoqFVEmcMP7e9q8_SLeyykDPHqTbtynazv2VfZXlVl4eLPviMIRvxxx_a7zXXbkxx1C59FkGJsTPpt5RNxufUqiLDJ3dWanRVcXC8UndAyDhUyMBU7XIktiwwJyn66zhntKOYi0rDPq7b9jMXo_398R2i3iuSvkVaOakJ3lnpo19W4VvarpezGfIlAVI88Bf3IGB99yxRp1JxaT532s2u8ng9zIx9rPmVjH9rPFppYzb4Ib_u141sGJDTgjpaf7G0yGsckOeQZ98Wqzghr_W7d4cP7gkqSovDqxxRXTkfvxnYkiF2FyBpjQCWyIXD7_rLQ53VMyFXrLrl1YnRV49QNxUfLLZxFarwe5QTZp1h6_7JGQ0Vgz0_M8Zskf13rQ3NT9pT3klAbAL9yltratS9RvvbyBP14wYzwVbkU4WgVuEKVfo_mqGwvpGjvHVSPc8JxIhPyODRyEVVXMzek0NAwMeS40vPY6D1eAY0BELmbgdLaQTkg4FJvLNCasl97yeWMEIYriGO1Ya9OIGrlGuHkofAHrKbq1eZ1RjwUZ8QmMZeMiub5YD9YTaPSZI2fxOR7rCV9uVfwAfMHt6yImmtmHUu8PNOQfAD7qVSEExiBsmnyBrHqxr_AOSWkWH_l_F8CXHhPkUWSDpOzwU432KCzjb
「藤原先生は、『鎌倉時代以降、特に江戸時代に機能してきた』武士道を『今こそ復興させるべき』と言わはります」
「これ、ほんまやろか?」
「事実かはともかく、冗談やありません。そんなんは、大本営発祥の地、真珠湾攻撃を立案実行し戦陣訓を生み出した関東地方だけでやってください」
司馬遼太郎 このあいだ、カセットで東条英機の演説をきいて、あらためて驚きましたね。〔……〕あの人は学習院初等科の出身だそうですから、きちんとした標準語生活者でしょう。戦争中、あの人の大演説をきいて、そらぞらしくなって、感想はといえば「アホかいな」で終いですね(笑)。ああいう東条語で議論をしてゆけば、現実の軍事情勢がどうなっていても、インパールへ大軍を送るべきだというような結果になるような感じがします。ともかくあの調子の演説、いまでもありますけど、蔭でひとが「アホかいな」と……。
「いわゆる標準語て、作られた経緯からして『ジークジオン弁』やんな」
「他にも、藤原先生は『武士道には禅や儒教の精神が流れ込んでいる』て言いながら、『禅や儒教は舶来のものじゃないか』という意見には……」
「て答えるだけで、儒教の方は全スルー。いくら講演を元にした本でも、論説として荒っぽすぎる。藤原先生が武士道の中で最も重視するんは、その儒教が言う『惻隠』、弱者への愛情やのに」
こういうのが多数派ならanond:20190304121154 が当たり前になる日は永久に来ないですね
親になるべきものではないものを排除してからお話ですね、家名も家云々も
治安の維持には一役かってるものの儒教はマジでロクな仕事せへぇんよな
まぁ仏教のタイでも、子が身体を売って稼いだ金で親を養うのは当然って文化みたいだが
引用元:https://honcierge.jp/articles/shelf_story/6695?p=2
儒教の弊害とは
儒教の教えは、為政者が理想の政治を実現するための思想哲学です。教え自体は納得がいくもので、たしかにこのような徳目に従って国家が運営されれば、理想的な世になるだろうと考えられます。
しかし現実はうまくいくことばかりではなく、儒教にも弊害といえるものが存在するのです。
たとえば、儒教では、親を敬うことが奨励されています。しかし亡くなった際の喪に服す期間が3年にもおよび、ボロボロに痩せ衰えてしまう人が続出しました。さらにその姿が周囲から賞賛されるようになると、親を敬い喪に服すことがパフォーマンスと化してしまったのです。
また同族を重んじる儒教では、一族の誰かが殺されれば報復をするのが当然とされていました。裏を返すと、報復されないためには、相手の一族を皆殺しにする必要があります。死刑をする際には「三族皆殺し」という、父方の一族、母方の一族、妻の一族すべてを殺してしまうケースがあったそうです。
さらに、儒教では上下の秩序を重んじています。すると上の者には媚び、下の者には傲慢に接するという差別意識が生まれやすくなってしまうのです。加えて、長幼の序を重んじるため、たとえ長男が無能で次男が有能だったとしても、後継者になるのは長男。努力をしてもしなくても結果は変わらず、競争が起こりづらくなります。
...
政府はこの方針にそって、近代国家の建設には人材の育成が急務であるとして、
明治5年学制を公布し、全国的に学校を設置して義務教育の制度を確立し、
教育の普及に努めました。しかし当時は文明開化の風潮により洋学が重んじられ、
我が国伝統の倫理道徳に関する教育が軽視される傾向にありました。
このような実情を深く憂慮された明治天皇は、徳育の振興が最も大切であるとされ、
わが国の教育方針を明らかにするため明治23年10月30日、教育勅語を渙発されました。
勅語には、日本人が祖先から受け継いできた豊かな感性と美徳が表され、
人が生きていくべき上で心がけるべき徳目が簡潔に述べられていましたが、
(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1091519200)
この様な事らしい。
ただ、教育勅語が排除されたからといって、問題が多発するものだろうか。
先祖、親兄弟を大切にしろ等々、倫理的、道徳的な事が廃れてしまうことは、
人間が荒んでいくことと直結すのだろうか。
キリスト教徒に限らず、海外の人間は親兄弟を大事にしていることが良く分かるから、
それが無くなっても、倫理的な事柄や道徳的な事柄を教育してゆくべきなのであって、
https://twitter.com/yash_san/status/1047462479133954048
http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/yash_san/status/1047462479133954048
1. 教育勅語にもいいところがあるというのなら、山口組綱領も中々素晴らしいことを書いてあるので、学校教育で活用したらどうか。
とか、オウムの尊師が同じようなことを言ってるから、教育勅語をあがめる奴はヤクザやカルトの経典もあがめるんだ、なんて言ってる馬鹿が湧いてるけど、俺に言わせれば、ヤクザやカルトが掲げてすら社会一般からも間違ってはないと言われるくらい正しさに普遍性があるという実例だろう。それとも君の人生は親や友人を大事にしない事が正解なのか?それはそれはなんとも不幸な人生だな、で終了なんだよね。
特に、教育勅語が正しいとか引用して教育に利用すべきと主張するまでもなく、「友人を大事に」なんて子育ての段階で教えていくべき普遍的な概念だし、その普遍性を受け入れた上で教育勅語とは何だったのか?歴史的な役割と経緯について教えればいいだけだ。
なんて、この程度の頭の悪いロジックに乗っかって、教育勅語の普遍性を否定した気になってはしゃいでる奴らも、返す言葉にロジックがなくなってるやつもアホすぎる。
教育的普遍性について否定しようもないなら、歴史的経緯と近代に果たした役割も含めて教育に利用する価値があるし、使わない理由もない、と言ってる訳でね。
馬鹿用に改めて言うけど教育勅語を利用すべきとは言わないが、普遍性があるものなら教えたからと言って、アホが言うような軍国主義化の為の教育にはならないし、利用してはダメな理由もないんだよと言っている
普遍性があると言った!教育に使うなんて許せない、戦前回帰だと吹き上がって大臣を攻撃してるのはアホでしかないよね。
呆れるほどアホだよね
the_sun_also_rises 何度もブコメ書いている(例:https://goo.gl/DnCzwM)が教育勅語の12の徳目のうち11は普遍的なもの。にも関わらず「どこの部分は普遍的でどこの部分は今には合わない」という主張はないというブコメに★が集まってるのはなぜ?
ここでも友人を大事にとか親を大事になんて普遍的だって言ってるけど、都合の悪いものが見えないのが、はてなのリベラル勢じゃないですか。
「教育勅語は友達を大事にしろってかいてあるから、今も使える」とか
https://anond.hatelabo.jp/20181004213650
結局、ここのブコメも含めて、大臣が普遍性のある部分もあると言ったああああって喚いてたアホの主張の要旨ってこれでしょ。真理性のある部分もあると認め得る、と回答したら、忠君報国しろと国の為に死ねとイコールになると、パヨパヨ直結回路で妄想飛ばしてるだけじゃんね。教育勅語には部分的に普遍性を認められるというのは、忠君報国して天皇陛下の為に死ねという時代錯誤な価値観の肯定とイコールなのかね?wまぁ、君らはそう思ってんだろな。だから、普遍性があると言った!教育に使うなんて許せない、戦前回帰だと吹き上がってたんだろ?やっぱりアホでしかないよね。呆れるほどアホだよね
しかもワザワザ、教育勅語についての見解を求めておいて、正解だと妄信してる全否定コメントが出なくて、部分的には普遍性を認めることも出来ると答えた事が気に入らないと暴れてんでしょ。笑えるよね。
に代表される様に、分かっている人は分かっている。アホだけは相変わらず、論理的な思考ができないのがよく分かった。教育勅語そのものには、罪がある訳ではない。かつて、どのように使われたかが気に入らないからと言って、教育勅語そのものには普遍性を認める事が可能な部分がある、それを改めて口にした事で大臣を攻撃する正当性は一切ないという事を理解すると良いだろう。教育勅語は軍国化の象徴だと、軍靴の音が聞こえてくる妄想から離れる事が出来ない君らには、論理的に考える事など不可能かもしれんが。現在に至るまで、大臣批判の正当性を言葉に出来たものなどブコメにもトラバにも一人もいない。幼児の様に感情が受け入れられないと、イヤイヤしてるだけなんだからなw
「教育勅語礼賛」の気持ち悪さ(古谷経衡) - 個人 - Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20170310-00068568/
この記事では、必ずしも教育勅語自体が問題なのではなく、教育勅語を礼賛する人々の矛盾を指摘している事を理解していないコメントが多すぎる。
教育勅語を礼賛とまではいかないが、信奉しているとみられる人達のコメントを見て、やはり教育勅語は間違っていると思った。
森嶋通夫「教育勅語の悪いのは、守れと言った徳目の中身―父母に孝行し、友達と仲良くせよ等―にあるのではなく、なぜ天皇や、国や、文部省が、国民一人一人の問題である倫理問題に口出しして、『億兆心を一にせよ』とか『徳を一にせよ』などと命令するのであるかという点にある。倫理は命令されて守るものではない。天皇や政府がこういう態度で倫理を教える限り、『精神そのもの、あるいは、人間そのものが、それ自体で自由である』という倫理の根本が、日本人に理解されることは絶対にない」
教育勅語の話になると、必ず「内容はすばらしいのに、なにが問題か」と騒ぐヤカラがでてくるんだけどさ。
明治神宮のホームページには教育勅語についていろいろ説明しているんだが、それによれば「12の徳目」というのが記載されているそうで、その中に「夫婦仲良く」とかそういうのが入っているんだが、最後は「非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません」と書いてあるそうな。
明治神宮によれば。
で、原文みると、おそらく該当の箇所はこうなる。
曰く、
「一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ」
「天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ」ってのはなんだか難しいけど、「天地に極まりないくらい永遠に続く皇室の運命をささえましょう」くらいの意味だよね。
直前に「國憲」とか「國法」って言葉が出てくるけど、「扶翼」するのは、あくまで「國」じゃなくて「皇」なのだね。
しかも、この「徳目」の部分は区切りなく一段落で続いていて、最後に「以テ天壤無窮󠄁ノ・・・」と続いているので、切りようによっては「親に尽くしたり夫婦仲良くしたり、いろいろして、それでもって皇室を支えましょう」と読めなくもない。
まあ、その辺は解釈の仕方だろうが。
いずれにしろ、明治神宮はちゃんと原文が読めてないみたいなので、「日本の文化と伝統を大切にしたい」と考えている方々は、指摘したほうが良いと思う。
https://this.kiji.is/207438898890506241
情報提供の受付
https://www.jbaudit.go.jp/form/information/index.html
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51052?page=2
「二次創作」の愛国教育は、戦後社会に見られるひとつの伝統芸であり、サブカルチャーであり、この分野に詳しい者にとっては見なれたものである。
「戦前っぽいもの」のパッケージは、戦後長らくつづいた保革対立のなかで形成されたものである。
保守勢力(自民党文教族、文部省など)は、教育の荒廃が叫ばれると、かならず国旗掲揚、国歌斉唱、「教育勅語」の再評価、修身の復活などを主張してきた。
国旗国歌問題に火をつけた第三次吉田茂内閣の天野貞祐文相は、その嚆矢である。内藤誉三郎(文部事務次官→参議院議員→第一次大平正芳内閣の文相)のように、「天壌無窮の神勅」を学校で教えるべきだと主張した例もある。
教育機関で国民国家の歴史や意義を教えることは必要である。国民国家は、現在の国際政治の基本的な単位だ。これを否定するつもりはない。
グローバリズムの時代、国民国家というシステムをいかに無理なく保守・管理・運用していくか。政府への盲従や排外主義などの欠陥は認識しつつも、こうした問題に取り組んでいくことは欠かせない。
パッケージを丸呑みするかいなかの二者択一は、あまりに単純すぎる。
ナショナリズムはいつどこで芽生えるか →戦争で負けている側である。
あるいは学歴を誇る人間はいつ登場するか。→落ちぶれてそこしか砦がなくなった時である
東大卒のりょーすけさんなどは、もう道具として使う。ふつうはそういうものだ。
東大生かくあるべし、みたいなことを言い出すのはかなり痛い
今日ほど「君が代」に関する議論が劣化した時代はほかにないだろう。
「君が代」を歌うか、歌わないか。問題はあまりに単純に二分化され、歌えば保守・愛国であり、歌わなければ左翼・反日であると即断される。そしてこの単純な白黒図式に基づき、「愛国者」を自任する者たちが、気に入らない相手に食って掛かるしかも、驚くべきことに、この「愛国者」を自任する者たちの多くは、「君が代」の歴史や意味をロクに知らないのだ。「君が代」は、敵と味方を判別し、敵を吊るし上げるための単なる「踏み絵」と化している
「ネットモブ」が「ネット右翼」と呼ばれたために、その主張も「保守」や「右翼」のものと勘違いされてしまった。この結果、昨今のナショナリズムの「再評価」とあいまって、歴史的な経緯に詳らかではないネットユーザーのなかで、劣化した議論が急速に肥大化してしまった。
1890年2月、帝国議会の開会を直前に控え、地方の治安維持をつかさどる県知事(内務官僚)たちは、「文明と云ふことにのみに酔ひ、国家あるを打忘れた」自由民権運動を抑制するため、「真の日本人」を育成する国民道徳の樹立を求めた。
→とはいえ、当初の「教育勅語」の内容は、後世の文書などにくらべて、意外にも慎ましいものだった。
「日本は神の国であり、世界を指導する権利がある」などという大それた神国思想は、「教育勅語」のなかに見られない。これは、『国体の本義』(1937年)や『臣民の道』(1941年)などで、教育界に広められたものである。
むしろ「教育勅語」の内容はかなり抑え気味だった。たしかに、「我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ」「天壌無窮ノ皇運」など神話にもとづく記述もあった。だが、そこに掲げられた個々の徳目は現実的で、日常的な振る舞いに関するものが多くを占めた。
日本が日清戦争や日露戦争に勝利し、帝国主義列強の一角を占めるにいたって、かえって問題が指摘されるようになった。大国日本の国民道徳として、「教育勅語」はあまりに物足りないのではないかと注文がつきはじめた
→君主たるもの、特定の政治的、宗教的、思想的、哲学的立場に肩入れする言葉を使うべきではなく、またその訓戒も「大海の水」のごとくあるべきで消極的な否定の言葉を使うべきではない
また、井上は帝国憲法の起草者として立憲主義を尊重し、「君主は臣民の良心の自由に干渉せず」と述べて、「勅語」を軍令のように考える山県の構想も牽制した。
もちろん、自由民権運動対策が念頭にあったこともあり、独立自治などにつながる徳目が慎重に排除されていることは見逃せない。その一方で、その内容は、神国思想や軍国主義の権化のごとき過激なものでもなかった。
追加修正
西園寺公望は、明治天皇の内諾を得て、「第二の教育勅語」の起草に着手した。
1919年、『勅語衍義』の執筆者・井上哲次郎によって「教育勅語に修正を加へよ」という論考が発表された
この提言の背景には、同年に朝鮮で起きた三・一独立運動の衝撃があった。
結果的に、「教育勅語」の不足分は、ほかの詔勅の発布で補うかたちが取られた。1908年発布の「戊申詔書」、1939年発布の「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」などがそれにあたる。
1948年6月の衆参両院の決議では、「教育勅語等」として「教育勅語」だけではなく「軍人勅諭」「戊申詔書」「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」などがセットで排除および失効確認されている。これらの詔勅が一体的に理解されていた証左だ
「教育勅語」は、狂信的な神国思想の権化ではないが、普遍的に通用する内容でもなく、およそ完全無欠とはいえない、一個の歴史的な文書にすぎない。その限界は、戦前においてすでに認識されていた。
今朝、バスの運転手が混雑した車内に「妊娠している方以外の若い方はお年寄りに席を譲ってください」と放送し、あまつさえ〈年配ではない〉特定の乗客を指して「席を立って譲ってください」と呼び掛けていたが、これはマナー・気遣いの啓発を超えた、行き過ぎな指図だと思った。
座席は満席、揺れて不安定な足元、圧迫感のある車内で、年配の方に配慮して席を譲るのは「よい行い」で「必要なこと」であることは否定しないが、〈年配ではない〉乗客が、立っていられない事情を抱えて路線を利用している可能性を、運行主に否定してほしくない。
「お年寄り(に見える人)に席を譲る」のは、あくまで〈年配の〉乗客が〈年配ではない〉乗客にくらべて、体力や体調などに不安要素を抱えていて立つのが大変である可能性が高いからであり、またその可能性を想定しやすい(外見的特徴として分かりやすい)からだと私は考えている。
けれど、例えば車内で急激な腹痛に襲われていたり、低血圧だったり、パニック障害などの精神的な不安要素を抱えていたりで、〈外見的には何の問題も無いように見える〉が、立つのもやっと、或いは、立っていられない状況の乗客は、年配であるか否かという基準に関係なく存在する。というか、今日、自分が突然そのような状況になるかもわからない。
(実際に、車内放送で呼び掛けられた〈年配ではない〉特定の乗客が、「昨日、大きな手術を受けたばかりだ。タクシーを呼べないから(バスに)乗っている」「何度も言われて座っているのには理由があるのだ」と返答していた。)
この路線に乗って長いが、今日のようなアナウンスを聞いたのは初めてだったので、それが運行会社の新たな方針なのか、その運転手個人の主義に基づく主張なのか不明だが、釈然としなかった。
立って乗車する余裕のある人が立つべきだとは思う。けれどそれは、あくまで立つ余裕のない人に対しての、個人から個人への配慮ではないのか。
「高齢者⇒席を譲る」「妊婦⇒席を譲る」という図式的な徳目は、根拠から行為のプロセスを単純化することで、その配慮行動(席を譲る)を誰もが深く思い悩まず実践できることに、寄与している。
しかし、思考を硬直化させ、想定以外の可能性を考慮しなくなることで、その配慮の本質は形骸化してしまう。形骸化した配慮行動を上から押し付けることで、見えにくい困難を抱える人を排除しないでほしい。