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2026-05-08

[]社会学者の分類と傾向

社会科学 vs 「ストーリーテラー

社会学には2つの極端なアプローチがあります。一方は、統計的因果推論的に厳密にデータ解釈を分離し、反証可能性担保する科学手法です。

もう一方は、自分イデオロギーナラティブ構造的抑圧、弱者発見権力批判など)を支えるためにデータを「都合よく選ぶ」(cherry-picking)手法です。この記事では後者を「ストーリーテラー(Storyteller)」と分類します。

1. 根本的な対立軸

実証社会学者(Empirical Social Scientist)


統計・大規模調査因果推論手法(差の差法、操作変数法、傾向スコアマッチングなど)を用い、相関関係因果関係を明確に区別

データ事実(Results)と研究者解釈(Discussion)を厳密に分け、矛盾するデータ提示し、反証可能性と頑健性(robustness)を担保する。社会科学として「科学」の基準を守る。

ストーリーテラー(Storyteller)


「社会科学」の看板を借りて、自分イデオロギーナラティブ物語)を広める人。データあくまで「自分ストーリーを魅力的に補強する道具」に過ぎず、都合の良い部分だけ選び(チェリーピッキング)、相関を即因果すり替え解釈データに混ぜ込む。文学的運動アプローチが強く、X(旧Twitter)やメディアで声が大きい loud minority として目立つ。

2. ストーリーテラーを見分ける実践チェックポイント

1 データの選び方

自説に有利な数字・事例だけか、全データ範囲と感度分析を示すか。

2 因果と相関

相関を即「構造的抑圧が原因」と断定し、因果推論手法名を明記しない。

3 データ解釈の分離

結果セクションですでに文学的ナラティブ(「これは権力証左」)が入っていないか

4 方法

質的研究批判理論(Foucault、Butler、上野系)が先行し、計量・因果推論論文引用が少ない。

5 態度

批判されると「文脈が違う」「差別者」とレッテル貼りするか、データ再検証提案するか。

6 発信スタイル

X・メディア構造批判弱者発見PC擁護が熱く、エンゲージメントが高い。

論文発言・X投稿をチェックすれば、9割以上見分けられます

3. ストーリーテラーの詳細分析

ストーリーテラーは、社会学を「科学」ではなく「物語を語る運動の場」に変える存在です。彼らはデータを使いつつも、最終的に一貫した

ドミナントストーリー」(支配的な物語

を構築・拡散します。これは、イデオロギーを補強するための選択物語化です。データは「証拠」ではなく「感情を揺さぶ小道具」として機能し、矛盾データ無視するか、「より大きな構造のせい」として相対化されます

なぜ社会学で目立つの

• 1970-90年代の「質的転回」(qualitative turn)でインタビュー参与観察理論解釈が主流化した歴史的土壌がある。

• X・メディアでは「弱者発見」「構造批判」といった感情に訴えるストーリーエンゲージメントを稼ぎやすい(loud minority効果)。

• 結果、学問の「科学性」が薄れ、活動家ごっこイメージが強まる(古市批判の核心)。

ストーリーの主な種類と特徴

1 弱者発見ストーリー


「弱者弱者のままで尊重される社会を」「頑張っても報われない人がいる」
→ 努力個人責任を「環境構造のせい」に還元し、永遠被害者像を描く。


例:東大入学式祝辞のような「恵まれ環境のおかげ」強調。データ合格率差)を使っても、逆差別努力差はスルー

2 構造的抑圧ストーリー

「家父長制・資本制・権力構造がすべてを決めている」
→ 格差ジェンダー移民問題を「システムのせい」に帰結解決策より批判が優先。


例:家事=「不払い労働」、教育格差を即「構造的抑圧」と断定。

3 日本人原罪ストーリー


「日本人多文化に耐えられない」「加害者性・反省不足が原罪」
→ 戦後教育の延長で、日本人全体を「構造加害者」に位置づけ。


例:日本社会の「単一民族神話批判や、歴史問題での自虐的ナラティブ

4 PCLGBTジェンダー構造ストーリー

異性愛規範・性二元制がマイノリティを抑圧」「性自認尊重正義」
→ ポリティカルコレクトネスを「進歩物語」として語り、反対意見を「差別」と一蹴。
例:女子枠反対を「弱者男性のワガママミソジニー」とレッテル貼り

5 権威主義ストーリー


「政府権力干渉学問の自由を脅かす」「新政権ツッコミどころ」
→ 学術会議問題などで「権力 vs 専門家」の二元論を展開。


例:法人化法案を「戦前回帰」「学問統制」と位置づけ。

6 ダブスタレッテル貼りストーリー

相手差別者歴史修正主義者・ミソジニー」
→ 都合の悪い女性政治家を「中は男」と属性攻撃するなど、二重基準を隠した攻撃ナラティブ。
ラベリング理論武器化。

これらのストーリー相互に連動しやすく(例:構造的抑圧+日本人原罪論)、データが出ても「より大きなナラティブ」で締めくくられます

結果、社会学は「文学亜流」や「運動の道具」と見なされやすくなります

4. 代表的社会学者のリスト

ストーリーテラー寄り(ナラティブ文学的イデオロギー重視。X・メディア学術会議ジェンダー/PC分野で発言多め)

上野千鶴子(東京大学名誉教授家族社会学ジェンダー研究)


代表的発言:「あなたたちが『がんばったら報われる』と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひとたちがいます。」(2019年東大入学式祝辞)


弱者発見構造的抑圧・ダブスタ代表
本田由紀東京大学大学院教授教育社会学

代表的発言:「女子枠に反対するのは弱者男性のワガママ」「ミソジニールサンチマンに溢れた快哉を叫ぶコメント」(2026年頃、女子反対論に対するnote引用投稿


→ レッテル貼りPC擁護差別者ラベリング
田中優子法政大学名誉教授・前総長)


代表的発言:「安倍さん女装して現れた」「言っていることは安倍さんのものだ」「だから、中は男でしょ。安倍さんでしょ」(2024年立憲民主党集会での高市早苗批判


→ ダブスタ属性攻撃の極み。
宮台真司(元東京都立大学教授など)


代表的傾向:「病ませる社会」が弱い人を症状化させる(近年、人生相談社会病理関連発言)


体制批判社会病理ストーリー
西田亮介(日本大学教授など、メディア政治社会学)


代表的発言:「なんで、いま、みんな日本学術会議に関心を持ってるの? 新政権ツッコミどころからというだけでしょう」(2020年学術会議任命拒否問題時)
→ 権威主義体制批判

小熊英二慶應義塾大学教授歴史社会学)


ネット右翼を「1%未満の愉快犯」と矮小化するなど、日本社会構造歴史ナラティブ批判

隠岐さや香東京大学教授科学史)


学術会議法人化法案が可決されてしまいました。日本は、アカデミー自律性を弱めることに加担した国の列に加わりました。」(2025年、X投稿)
→ 学問の自由危機ナラティブ

江原由美子東京都立大学名誉教授ジェンダー研究)


ジェンダー秩序・権力構造理論批判

瀬地山角東京大学教授ジェンダー論)


大規模講義構造抑圧・PC視点を展開。

岸政彦(京都大学教授生活史・質的研究

生活史・質的ナラティブ中心の文学的アプローチ

実証派・バランス派(データ駆動因果区別反証意識論文調査中心でXは控えめ)

筒井淳也立命館大学教授、計量社会学家族社会学)


大規模調査データ家族格差統計分析因果推論を意識した学術告知中心。

古市憲寿(社会学者・著述家)
社会学文学的偏向を自ら批判

データ現実観察のバランス感覚。

釜野さおり(国立社会保障・人口問題研究所)
 SOGI調査などジェンダー家族定量分析実証アプローチ
瀧川裕貴(東北大学など、計算社会学分析社会学)


計算手法因果メカニズムを組み合わせた実証研究

金澤悠介(立命館大学など)

戦後社会意識変化の計量研究

中井美樹(立命館大学など)

社会階層・ジェンダー平等の計量分析

樋口耕一(立命館大学など)


計量テキスト分析情報行動研究

5. 全体の傾向まとめ

X・メディア学術会議ジェンダー/PC分野で目立つのは圧倒的にストーリーテラー。彼らのナラティブ感情に訴えやす拡散されやすい一方、実証派は論文データで静かに勝負するため声が小さい。結果、社会学は「科学」より「物語を広める運動」が強まりやす構造になっています社会科学を本当に科学に戻すには、実証派がもっと積極的に声を出していくことが重要です。

関連記事:社会学者のアホ発言

https://anond.hatelabo.jp/20260507222858

2026-04-23

お伽草紙

太宰治


「あ、鳴つた。」

 と言つて、父はペンを置いて立ち上る。警報くらゐでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾かぶせ、これを抱きかかへて防空壕にはひる。既に、母は二歳の男の子を背負つて壕の奥にうずくまつてゐる。

「近いやうだね。」

「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」

「さうかね。」と父は不満さうに、「しかし、これくらゐで、ちやうどいいのだよ。あまり深いと生埋めの危険がある。」

「でも、もすこし広くしてもいいでせう。」

「うむ、まあ、さうだが、いまは土が凍つて固くなつてゐから掘るのが困難だ。そのうちに、」などあいまいな事を言つて、母をだまらせ、ラジオの防空情報に耳を澄ます

 母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう壕から出ませう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段絵本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。

 この父は服装もまづしく、容貌も愚なるに似てゐるが、しかし、元来ただものでないのである物語創作するといふまことに奇異なる術を体得してゐる男なのだ

 ムカシ ムカシノオ話ヨ

 などと、間まの抜けたやうな妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのづから別個の物語が※(「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88)醸せられてゐるのである

[#改頁]

瘤取り

ムカシ ムカシノオ話ヨ

ミギノ ホホニ ジヤマツケナ

コブヲ モツテル オヂイサン

 このお爺さんは、四国阿波剣山のふもとに住んでゐたのである。(といふやうな気がするだけの事で、別に典拠があるわけではない。もともと、この瘤取りの話は、宇治拾遺物語から発してゐものらしいが、防空壕の中で、あれこれ原典を詮議する事は不可能である。この瘤取りの話に限らず、次に展開して見ようと思ふ浦島さんの話でも、まづ日本書紀にその事実がちやんと記載せられてゐるし、また万葉にも浦島を詠じた長歌があり、そのほか、丹後風土記やら本朝神仙伝などといふものに依つても、それらしいものが伝へられてゐるやうだし、また、つい最近於いては鴎外の戯曲があるし、逍遥などもこの物語舞曲にした事は無かつたかしら、とにかく、能楽歌舞伎芸者の手踊りに到るまで、この浦島さんの登場はおびただしい。私には、読んだ本をすぐ人にやつたり、また売り払つたりする癖があるので、蔵書といふやうなものは昔から持つた事が無い。それで、こんな時に、おぼろげな記憶をたよつて、むかし読んだ筈の本を捜しに歩かなければならぬはめに立ち到るのであるが、いまは、それもむづかしいだらう。私は、いま、壕の中にしやがんでゐるのである。さうして、私の膝の上には、一冊の絵本がひろげられてゐるだけなのである。私はいまは、物語の考証はあきらめて、ただ自分ひとりの空想を繰りひろげるにとどめなければならぬだらう。いや、かへつてそのはうが、活き活きして面白いお話が出来上るかも知れぬ。などと、負け惜しみに似たやうな自問自答をして、さて、その父なる奇妙の人物は、

ムカシ ムカシノオ話ヨ

 と壕の片隅に於いて絵本を読みながら、その絵本物語と全く別個の新しい物語を胸中に描き出す。)

 このお爺さんは、お酒を、とても好きなのである。酒飲みといふものは、その家庭に於いて、たいてい孤独ものである孤独から酒を飲むのか、酒を飲むから家の者たちにきらはれて自然孤独の形になるのか、それはおそらく、両の掌をぽんと撃ち合せていづれの掌が鳴つたかを決定しようとするやうな、キザな穿鑿に終るだけの事であらう。とにかく、このお爺さんは、家庭に在つては、つねに浮かぬ顔をしてゐるのである。と言つても、このお爺さんの家庭は、別に悪い家庭では無いのである。お婆さんは健在である。もはや七十歳ちかいけれども、このお婆さんは、腰もまがらず、眼許も涼しい。昔は、なかなかの美人であつたさうである若いから無口であつて、ただ、まじめに家事にいそしんでゐる。

「もう、春だねえ。桜が咲いた。」とお爺さんがはしやいでも、

「さうですか。」と興の無いやうな返辞をして、「ちよつと、どいて下さい。ここを、お掃除しまから。」と言ふ。

 お爺さんは浮かぬ顔になる。

 また、このお爺さんには息子がひとりあつて、もうすでに四十ちかくになつてゐるが、これがまた世に珍しいくらゐの品行方正、酒も飲まず煙草も吸はず、どころか、笑はず怒らず、よろこばず、ただ黙々と野良仕事、近所近辺の人々もこれを畏敬せざるはなく、阿波聖人の名が高く、妻をめとらず鬚を剃らず、ほとんど木石ではないかと疑はれるくらゐ、結局、このお爺さんの家庭は、実に立派な家庭、と言はざるを得ない種類のものであつた。

 けれども、お爺さんは、何だか浮かぬ気持である。さうして、家族の者たちに遠慮しながらも、どうしてもお酒を飲まざるを得ないやうな気持になるのであるしかし、うちで飲んでは、いつそう浮かぬ気持になるばかりであつた。お婆さんも、また息子の阿波聖人も、お爺さんがお酒を飲んだつて、別にそれを叱りはしない。お爺さんが、ちびちび晩酌をやつてゐる傍で、黙つてごはんを食べてゐる。

「時に、なんだね、」とお爺さんは少し酔つて来ると話相手が欲しくなり、つまらぬ事を言ひ出す。「いよいよ、春になつたね。燕も来た。」

 言はなくたつていい事である

 お婆さんも息子も、黙つてゐる。

「春宵一刻、価千金、か。」と、また、言はなくてもいい事を呟いてみる。

「ごちそうさまでござりました。」と阿波聖人は、ごはんをすまして、お膳に向ひうやうやしく一礼して立つ。

「そろそろ、私もごはんにしよう。」とお爺さんは、悲しげに盃を伏せる。

 うちでお酒を飲むと、たいていそんな工合ひである

アルヒ アサカラ ヨイテンキ

ヤマヘ ユキマス シバカリ

 このお爺さんの楽しみは、お天気のよい日、腰に一瓢をさげて、剣山にのぼり、たきぎを拾ひ集める事である。いい加減、たきぎ拾ひに疲れると、岩上に大あぐらをかき、えへん! と偉さうに咳ばらひを一つして、

「よい眺めぢやなう。」

 と言ひ、それから、おもむろに腰の瓢のお酒を飲む。実に、楽しさうな顔をしてゐる。うちにゐる時とは別人の観がある。ただ変らないのは、右の頬の大きい瘤くらゐのものである。この瘤は、いまから二十年ほど前、お爺さんが五十の坂を越した年の秋、右の頬がへんに暖くなつて、むずかゆく、そのうちに頬が少しづつふくらみ、撫でさすつてゐると、いよいよ大きくなつて、お爺さんは淋しさうに笑ひ、

「こりや、いい孫が出来た。」と言つたが、息子の聖人は頗るまじめに、

「頬から子供が生れる事はござりません。」と興覚めた事を言ひ、また、お婆さんも、

いのちにかかはるものではないでせうね。」と、にこりともせず一言、尋ねただけで、それ以上、その瘤に対して何の関心も示してくれない。かへつて、近所の人が、同情して、どういふわけでそんな瘤が出来たのでせうね、痛みませんか、さぞやジヤマツケでせうね、などとお見舞ひの言葉を述べる。しかし、お爺さんは、笑つてかぶりを振る。ジヤマツケどころか、お爺さんは、いまは、この瘤を本当に、自分可愛い孫のやうに思ひ、自分孤独を慰めてくれる唯一の相手として、朝起きて顔を洗ふ時にも、特別にていねいにこの瘤に清水をかけて洗ひ清めてゐるのであるけふのやうに、山でひとりで、お酒を飲んで御機嫌の時には、この瘤は殊にも、お爺さんに無くてかなはぬ恰好の話相手である。お爺さんは岩の上に大あぐらをかき、瓢のお酒を飲みながら、頬の瘤を撫で、

「なあに、こはい事なんか無いさ。遠慮には及びませぬて。人間すべからく酔ふべしぢや。まじめにも、程度がありますよ。阿波聖人とは恐れいる。お見それ申しましたよ。偉いんだつてねえ。」など、誰やらの悪口を瘤に囁き、さうして、えへん! と高く咳ばらひをするのである

ハカニ クラク ナリマシタ

カゼガ ゴウゴウ フイテキテ

メモ ザアザア フリマシタ

 春の夕立ちは、珍しい。しかし、剣山ほどの高い山に於いては、このやうな天候の異変も、しばしばあると思はなければなるまい。山は雨のために白く煙り、雉、山鳥があちこちから、ぱつぱつと飛び立つて矢のやうに早く、雨を避けようとして林の中に逃げ込む。お爺さんは、あわてず、にこにこして、

「この瘤が、雨に打たれてヒンヤリするのも悪くないわい。」

 と言ひ、なほもしばらく岩の上にあぐらをかいたまま、雨の景色を眺めてゐたが、雨はいよいよ強くなり、いつかうに止みさうにも見えないので、

「こりや、どうも、ヒンヤリしすぎて寒くなつた。」と言つて立ち上り、大きいくしやみを一つして、それから拾ひ集めた柴を背負ひ、こそこそと林の中に這入つて行く。林の中は、雨宿りの鳥獣で大混雑である

はい、ごめんよ。ちよつと、ごめんよ。」

 とお爺さんは、猿や兎や山鳩に、いちいち上機嫌で挨拶して林の奥に進み、山桜大木の根もとが広い虚うろになつてゐるのに潜り込んで、

「やあ、これはいい座敷だ。どうです、みなさんも、」と兎たちに呼びかけ、「この座敷には偉いお婆さんも聖人もゐませんから、どうか、遠慮なく、どうぞ。」などと、ひどくはしやいで、そのうちに、すうすう小さい鼾をかいて寝てしまつた。酒飲みといふものは酔つてつまらぬ事も言ふけれど、しかし、たいていは、このやうに罪の無いものである

ユフダチ ヤムノヲ マツウチニ

ツカレガ デタカ オヂイサン

イツカ グツスリ ネムリマ

オヤマハ ハレテ クモモナ

アカルイ ツキヨニ ナリマシタ

 この月は、春の下弦の月である。浅みどり、とでもいふのか、水のやうな空に、その月が浮び、林の中にも月影が、松葉のやうに一ぱいこぼれ落ちてゐる。しかし、お爺さんは、まだすやすや眠つてゐる。蝙蝠が、はたはたと木の虚うろから飛んで出た。お爺さんは、ふと眼をさまし、もう夜になつてゐるので驚き、

「これは、いけない。」

 と言ひ、すぐ眼の前に浮ぶのは、あのまじめなお婆さんの顔と、おごそかな聖人の顔で、ああ、これは、とんだ事になつた、あの人たちは未だ私を叱つた事は無いけれども、しかし、どうも、こんなにおそく帰つたのでは、どうも気まづい事になりさうだ、えい、お酒はもう無いか、と瓢を振れば、底に幽かにピチヤピチヤといふ音がする。

「あるわい。」と、にはかに勢ひづいて、一滴のこさず飲みほして、ほろりと酔ひ、「や、月が出てゐる。春宵一刻、――」などと、つまらぬ事を呟きながら木の虚うろから這ひ出ると、

オヤ ナンデセウ サワグコヱ

ミレバ フシギダ ユメデシヨカ

 といふ事になるのである

 見よ。林の奥の草原に、この世のものとも思へぬ不可思議光景が展開されてゐるのである。鬼、といふものは、どんなものだか、私は知らない。見た事が無いかである。幼少の頃から、その絵姿には、うんざりするくらゐたくさんお目にかかつて来たが、その実物に面接するの光栄には未だ浴してゐないのである。鬼にも、いろいろの種類があるらしい。××××鬼、××××鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶところから見ても、これはとにかく醜悪性格を有する生き物らしいと思つてゐると、また一方に於いては、文壇鬼才何某先生の傑作、などといふ文句新聞新刊書案内欄に出てゐたりするので、まごついてしまふ。まさか、その何某先生が鬼のやうな醜悪の才能を持つてゐるといふ事実暴露し、以て世人に警告を発するつもりで、その案内欄に鬼才などといふ怪しむべき奇妙な言葉使用したのでもあるまい。甚だしきに到つては、文学の鬼、などといふ、ぶしつけな、ひどい言葉を何某先生に捧げたりしてゐて、これではいくら何でも、その何某先生も御立腹なさるだらうと思ふと、また、さうでもないらしく、その何某先生は、そんな失礼千万醜悪綽名をつけられても、まんざらでないらしく、御自身ひそかにその奇怪の称号を許容してゐるらしいといふ噂などを聞いて、迂愚の私は、いよいよ戸惑ふばかりである。あの、虎の皮のふんどしをした赤つらの、さうしてぶざいくな鉄の棒みたいなものを持つた鬼が、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである鬼才だの、文学の鬼だのといふ難解な言葉は、あまり使用しないはうがいいのではあるまいか、とかねてから愚案してゐた次第であるが、しかし、それは私の見聞の狭い故であつて、鬼にも、いろいろの種類があるのかも知れない。このへんで、日本百科辞典でも、ちよつと覗いてみると、私もたちまち老幼婦女子の尊敬の的たる博学の士に一変して、(世の物識りといふものは、たいていそんなものである)しさいらしい顔をして、鬼に就いて縷々千万言を開陳できるのでもあらうが、生憎と私は壕の中にしやがんで、さうして膝の上には、子供絵本が一冊ひろげられてあるきりなのである。私は、ただこの絵本の絵に依つて、論断せざるを得ないのである

 見よ。林の奥の、やや広い草原に、異形の物が十数人、と言ふのか、十数匹と言ふのか、とにかく、まぎれもない虎の皮のふんどしをした、あの、赤い巨大の生き物が、円陣を作つて坐り、月下の宴のさいちゆうである

 お爺さん、はじめは、ぎよつとしたが、しかし、お酒飲みといふものは、お酒を飲んでゐない時には意気地が無くてからきし駄目でも、酔つてゐる時には、かへつて衆にすぐれて度胸のいいところなど、見せてくれるものである。お爺さんは、いまは、ほろ酔ひである。かの厳粛なるお婆さんをも、また品行方正の聖人をも、なに恐れんやといふやうなかなりの勇者になつてゐるのである。眼前の異様の風景に接して、腰を抜かすなどといふ醜態を示す事は無かつた。虚うろから出た四つ這ひの形のままで、前方の怪しい酒宴のさまを熟視し、

「気持よささうに、酔つてゐる。」とつぶやき、さうして何だか、胸の奥底から、妙なよろこばしさが湧いて出て来た。お酒飲みといふものは、よそのものたちが酔つてゐるのを見ても、一種のよろこばしさを覚えるものらしい。所謂利己主義者ではないのであらう。つまり隣家の仕合せに対して乾盃を挙げるといふやうな博愛心に似たものを持つてゐるのかも知れない。自分も酔ひたいが、隣人もまた、共に楽しく酔つてくれたら、そのよろこびは倍加するもののやうである。お爺さんだつて、知つてゐる。眼前の、その、人とも動物もつかぬ赤い巨大の生き物が、鬼といふおそろしい種族のものであるといふ事は、直覚してゐる。虎の皮のふんどし一つに依つても、それは間違ひの無い事だ。しかし、その鬼どもは、いま機嫌よく酔つてゐる。お爺さんも酔つてゐる。これは、どうしても、親和の感の起らざるを得ないところだ。お爺さんは、四つ這ひの形のままで、なほもよく月下の異様の酒宴を眺める。鬼、と言つても、この眼前の鬼どもは、××××鬼、××××鬼などの如く、佞悪の性質を有してゐ種族のものでは無く、顔こそ赤くおそろしげではあるが、ひどく陽気で無邪気な鬼のやうだ、とお爺さんは見てとつた。お爺さんのこの判定は、だいたいに於いて的中してゐた。つまり、この鬼どもは、剣山隠者とでも称すべき頗る温和な性格の鬼なのである地獄の鬼などとは、まるつきり種族が違つてゐるのである。だいいち、鉄棒などといふ物騒なものを持つてゐない。これすなはち、害心を有してゐない証拠と言つてよい。しかし、隠者とは言つても、かの竹林賢者たちのやうに、ありあまる知識をもてあまして、竹林に逃げ込んだといふやうなものでは無くて、この剣山隠者の心は甚だ愚である。仙といふ字は山の人と書かれてゐから、何でもかまはぬ、山の奥に住んでゐる人を仙人と称してよろしいといふ、ひどく簡明の学説を聞いた事があるけれども、かりにその学説に従ふなら、この剣山隠者たちも、その心いかに愚なりと雖も、仙の尊称を奏呈して然るべきものかも知れない。とにかく、いま月下の宴に打興じてゐるこの一群の赤く巨大の生き物は、鬼と呼ぶよりは、隠者または仙人呼称するはうが妥当のやうなしろものなのである。その心の愚なる事は既に言つたが、その酒宴の有様を見るに、ただ意味も無く奇声を発し、膝をたたいて大笑ひ、または立ち上つて矢鱈にはねまはり、または巨大のからだを丸くして円陣の端から端まで、ごろごろところがつて行き、それが踊りのつもりらしいのだから、その智能の程度は察するにあまりあり、芸の無い事おびただしい。この一事を以てしても、鬼才とか、文学の鬼とかい言葉は、まるで無意味ものだといふことを証明できるやうに思はれる。こんな愚かな芸無しどもが、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。お爺さんも、この低能の踊りには呆れた。ひとりでくすくす笑ひ、

「なんてまあ、下手な踊りだ。ひとつ、私の手踊りでも見せてあげませうかい。」とつぶやく

ヲドリノ スキナ オヂイサン

スグニ トビダシ ヲドツタラ

コブガ フラフラ ユレルノデ

トテモ ヲカシイ オモシロ

 お爺さんには、ほろ酔ひの勇気がある。なほその上、鬼どもに対し、親和の情を抱いてゐるのであるから、何の恐れるところもなく、円陣のまんなかに飛び込んで、お爺さんご自慢の阿波踊りを踊つて、

むすめ島田年寄りやかつらぢや

赤い襷に迷ふも無理やない

嫁も笠きて行かぬか来い来い

 とかい阿波俗謡をいい声で歌ふ。鬼ども、喜んだのなんの、キヤツキヤツケタケタと奇妙な声を発し、よだれやら涙やらを流して笑ひころげる。お爺さんは調子に乗つて、

大谷通れば石ばかり

笹山通れば笹ばかり

 とさらに一段と声をはり上げて歌ひつづけ、いよいよ軽妙に踊り抜く。

オニドモ タイソウ ヨロコン

ツキヨニヤ カナラズ ヤツテキテ

ヲドリ ヲドツテ ミセトクレ

ソノ ヤクソクノ オシルシ

ダイジナ モノヲ アヅカラウ

 と言ひ出し、鬼たち互ひにひそひそ小声で相談し合ひ、どうもあの頬ぺたの瘤はてかてか光つて、なみなみならぬ宝物のやうに見えるではないか、あれをあづかつて置いたら、きつとまたやつて来るに違ひない、と愚昧なる推量をして、矢庭に瘤をむしり取る。無智ではあるが、やはり永く山奥に住んでゐるおかげで、何か仙術みたいなものを覚え込んでゐたのかも知れない。何の造作も無く綺麗に瘤をむしり取つた。

 お爺さんは驚き、

「や、それは困ります。私の孫ですよ。」と言へば、鬼たち、得意さうにわつと歓声を挙げる。

アサデス ツユノ ヒカルミチ

コブヲ トラレタ オヂイサン

ツマラナサウニ ホホヲ ナデ

オヤマヲ オリテ ユキマシタ

 瘤は孤独のお爺さんにとつて、唯一の話相手だつたのだから、その瘤を取られて、お爺さんは少し淋しい。しかしまた、軽くなつた頬が朝風に撫でられるのも、悪い気持のものではない。結局まあ、損も得も無く、一長一短といふやうなところか、久しぶりで思ふぞんぶん歌つたり踊つたりしただけが得とく、といふ事になるかな? など、のんきな事を考へながら山を降りて来たら、途中で、野良へ出かける息子の聖人とばつたり出逢ふ。

「おはやうござります。」と聖人は、頬被りをとつて荘重に朝の挨拶をする。

「いやあ。」とお爺さんは、ただまごついてゐる。それだけで左右に別れる。お爺さんの瘤が一夜のうちに消失てゐるのを見てとつて、さすがの聖人も、内心すこしく驚いたのであるが、しかし、父母の容貌に就いてとやかくの批評がましい事を言ふのは、聖人の道にそむくと思ひ、気附かぬ振りして黙つて別れたのである

 家に帰るとお婆さんは、

「お帰りなさいまし。」と落ちついて言ひ、昨夜はどうしましたとか何とかいふ事はいつさい問はず、「おみおつけが冷たくなりまして、」と低くつぶやいて、お爺さんの朝食の支度をする。

「いや、冷たくてもいいさ。あたためるには及びませんよ。」とお爺さんは、やたらに遠慮して小さくかしこまり、朝食のお膳につく。お婆さんにお給仕されてごはんを食べながら、お爺さんは、昨夜の不思議出来事を知らせてやりたくて仕様が無い。しかし、お婆さんの儼然たる態度に圧倒されて、言葉が喉のあたりにひつからまつて何も言へない。うつむいて、わびしくごはんを食べてゐる。

「瘤が、しなびたやうですね。」お婆さんは、ぽつんと言つた。

「うむ。」もう何も言ひたくなかつた。

「破れて、水が出たのでせう。」とお婆さんは事も無げに言つて、澄ましてゐる。

「うむ。」

「また、水がたまつて腫れるんでせうね。」

「さうだらう。」

 結局、このお爺さんの一家於いて、瘤の事などは何の問題にもならなかつたわけである。ところが、このお爺さんの近所に、もうひとり、左の頬にジヤマツケな瘤を持つてるお爺さんがゐたのである。さうして、このお爺さんこそ、その左の頬の瘤を、本当に、ジヤマツケなものとして憎み、とかくこの瘤が私の出世のさまたげ、この瘤のため、私はどんなに人からあなどられ嘲笑せられて来た事か、と日に幾度か鏡を覗いて溜息を吐き、頬髯を長く伸ばしてその瘤を髯の中に埋没させて見えなくしてしまはうとたくらんだが、悲しい哉、瘤の頂きが白髯の四海波の間から初日出のやうにあざやかにあらはれ、かへつて天下の奇観を呈するやうになつたのである。もともとこのお爺さんの人品骨柄は、いやしく無い。体躯は堂々、鼻も大きく眼光も鋭い。言語動作は重々しく、思慮分別も十分の如くに見える。服装だつて、どうしてなかなか立派で、それに何やら学問もあるさうで、また、財産も、あのお酒飲みのお爺さんなどとは較べものにならぬくらゐどつさりあるかいふ話で、近所の人たちも皆このお爺さんに一目いちもく置いて、「旦那」あるいは「先生」などといふ尊称を奉り、何もかも結構、立派なお方ではあつたが、どうもその左の頬のジヤマツケな瘤のために、旦那は日夜、鬱々として楽しまない。このお爺さんのおかみさんは、ひどく若い。三十六歳である。そんなに Permalink | 記事への反応(0) | 18:24

2026-04-01

anond:20260401122812

コミュニケーションを利害の一致一致じゃないで二元化しているのが間違いだよ。白黒をつけようとすることがそもそも幼いんだって

2025-12-07

anond:20251207053619

タルムードは神と親の共同作業と明確に教えています

まりタルムードでは、身体の素材は親が与え、生命・魂・意識は神が与えるという明確な二元構造です。

タルムードは当然DNAという言葉を使いませんが、

親は自分遺伝を伝える、しか生命力そのものは神が注ぐという構造を示します。

したがって、「親がDNAを一から設計した訳ではない」という主張はタルムード的にも特に矛盾しません。

ただし、親の役割を小さくするような言い方はタルムード精神とは一致しません。

タルムードでは、

「親を敬うことは、神を敬うことと並ぶ」(キドゥシン30b–31a)

親は神と共に人間創造した共同パートナーであり、そのためカバド・アヴ・ヴェエーム(父母尊敬) が十戒に入るのです(出エジプト記20:12)。

タルムード的には次のように整理されます

1. 身体は親が、魂(意識)は神が与える →「共同創造

2. 親が生命神秘を完全に理解していなくても、身体供給である

3. 親の役割は神と並ぶほど非常に重要

4. よって「体を与えたのは親ではなく神」はタルムード的には 正確ではない。正しくは、親と神の両方が与えた。

2025-11-12

anond:20251112075517

おいおい、その主張、もはや論理でも思想でもねえ。ただの自己放尿だ。

自分脳内ヘイト世界にぶちまけて正義のつもりか? その構造、まんま加害の鏡写しだぞ。

まずな、集団を一括りにして有罪と決めつける時点で、自己放尿してる。

人間社会ってのは、統計構造責任の三層でできてんだよ。

個人犯罪率を構造的要因と分離しないまま性別で裁けと言い出すのは、文明を逆走する自己放尿だ。

お前の理屈が通るなら、ある集団に属しているというだけで死刑宣告できるわけだ。そんな法体系、瞬時に自壊する。

国家司法倫理も、根こそぎ崩壊する。お前が嫌悪してる暴力のもの制度化する提案になってるんだよ。気づいてないのか?

生きてるだけで加害って言葉は、思考を止めるための自己放尿だ。

お前の脳が現実の複雑さに耐えられなくなって、因果関係単純化してる。

人間社会を敵味方の二元に押し込むのは、知的怠惰以外の何ものでもない。

男が害だと叫ぶよりも、自分がどれだけ害を構造化して再生産してるかをまず見ろ。

お前が垂れ流してるこの自己放尿こそ、社会ヘイト再生装置だ。

吐くならトイレでやれ。公共空間を汚すな。

2025-10-27

anond:20251027080509

地方自治二元代表制であり内閣に相当するものがない。なので野党から何でも反対みたいなことは基本的になく、国政の代理戦争の場ではない。

地域の具体的な懸案については参政党だからってそんなに頭おかしいことは言わないのではないだろうか。

参政党に協力頼んだが和田参政党ではない

別にウヨクじゃねえし仕事はできるし、和田政宗でよかったのに。

6選はさすがに長すぎ。

2025-10-24

あなた身体や心ではない/ニサルガダッタ・マハラ

https://www.youtube.com/watch?v=SqQXvgaiZ_U

❤️ ニサルガダッタ・マハラジは、インドの非二元哲学の偉大な教師のひとりで、世界中スピリチュアル・シーカーに大きな影響を与えた存在です。彼の最も有名な著作は、弟子が語録をまとめた『I Am That(私は在る)』です。

❤️ 特徴

• 高名な僧侶グルでもなく、一般市民として目覚めを体現

シンプルで直接的な言葉で、「自己とは何か」を語る。

修行信仰よりも、“今ここに気づく”ことの力を強調。

❤️ 教えの核心:「私は在る」

ハラジの教えは、非常にシンプルかつラディカルです。その中心はこの言葉にあります

「私は在る(I Am)」という感覚にとどまりなさい。」

まり思考感情記憶身体役割などの一切を横に置き、ただ「私が存在している」というシンプル自己意識に集中しなさいという教えです。これを続けていくことで、やがて「私」という感覚すら超え て、真我(純粋意識)そのものに気づくと言います

anond:20251024125324

2025-09-16

anond:20250916123307

国会議員は万事党の単位で動くけど

市議会は必ずしもそうではない

あと、二元代表制なので市議同士はある意味いっしょに議会運営していく仲間でもある。

だいたい議題自体がまちサイズの身近なものなんだから、「選挙ときは敵だから」とかで周りと距離おいてたら話し合いに参加できない

2025-09-10

anond:20250910115447

解散リスクなしで不信任決議出せる方が対等じゃないでしょ

二元代表制じゃない国から書き込みはそのへんにして

2025-06-23

石丸氏に見るチェックだけ地方議会

都議選議席0に終わった「再生の道」。その代表である安芸高田市長石丸伸二氏は「二元代表制たる地方議会政策提案力は不要で、チェック機能だけあればいい」と主張している。この発言に感化されている人も散見されるが、これはいささかチェック機能シンプルに考え過ぎているきらいがある。

政策立案執行首長行政役割議会はそれを監視するチェック機関に特化すればよい」というのは一見するとシンプルで分かりやす役割分担論に思える。実際、地方議会の現状として、条例提案の大半は首長から出され、議員発議の条例はごくわずかだ。行政主導型の実態は否めない。

しかし、それをもってチェック機関特化でいいとするには、前提の欠如がある。

そもそも「チェック」とは何か。その行為は必ず何らかの価値判断基準に基づいて行われる。

この予算案は適切か、この条例案は望ましいか審査判断する際に、どんな価値観理念に照らして適切とするのかを持っていなければ、意味のあるチェックはできないだろう。

価値判断なきチェックは、単なる形式確認に過ぎない。それならば、監査委員と似たような組織でいいという話にもなろう。

なお、その監査委員においても、3E監査経済性、効率性、有効性)で政策の成果や効果性の観点から政策改善提案することを行い始めている。では、地方議会には何が求められるのか。

今更書くまでもないが、日本地方自治体首長議会をそれぞれ住民が直接選ぶ二元代表制だ。この仕組みの目的は、住民の多様な価値観複数ルート行政に反映することにある。

仮に議会提案力も価値判断も持たず、行政形式的チェックだけを担う存在なら、住民が直接選ぶ意義は極端に薄まる。それこそ先述のように監査委員にその役割を任せれば事足りるのかもしれない。

地方議会の意義は、選挙により住民の多様な価値観を代弁し、 価値観に基づいて政策判断を行い、審査し、あるいは提言することにある。

なお、面白いのは、石丸自身がその「議会のチェック機能」を尊重していないところにもある。彼が安芸高田市長時代に行った専決処分地方自治法179条)の乱発は知るところであろう。

本来専決処分災害などの緊急避難措置議会機能不全などの非常時などに限定されるもので、日常的に議会の反対を無視して首長権限で押し通す手段ではない。

議会はチェック機能だけでよいと言いながら、そのチェック結果を尊重せず、都合が悪ければ専決処分する。この姿勢は、形式的な議会すら軽視し、二元代表制の理念無視したある種専制的な発想ともいえよう。

提案力は不要、チェックだけでいい」という主張は一見合理的かもしれないが、実は政治価値判断という営みを抜き落としたナイーブ構造であると言わざるを得ない。何より、提唱する本人がそのチェックを軽んじていたのだから、なおさら空虚ものである

再生の道

から公約なんてものはあまり意味がないんよ。二元代表制を理解できないはてさよ。道は険しいなぁ。逆にこの前まで政治素人だった候補者がこれだけ得票出来たのはすごいと思う。党首は良くも悪くも関係ないよ。

anond:20250623102605

支持者ではありません。石丸さんのしたかたことは達成できた。

自身今回の選挙で、二元代表制の意味理解しました。その意味理解すればするほど、都政執行部を正すべき立場無所属以外の各党の息のかかったイエスマン当選させる意味ってありますか?

2025-04-12

anond:20250412101324

部屋とワイ

シャツと私

🎓️「これは二元対立論を表しとるんじゃよ」

2025-02-16

anond:20250216095605

天皇権威を基盤とした武家政権構造考察

序論:権威権力二元構造

本論では、鎌倉幕府を中心とする中世武家政権天皇権威を不可欠な基盤として成立した事実を、制度的・経済的象徴次元から多角的検証する。

日本史上の権力構造が「権威天皇)」と「権力武家)」の二元性によって特徴付けられることを示し、摂関政治から江戸幕府に至るまで一貫してこの原理機能したことを論証する。

制度正統性の源泉

官位体系による権力正統化

鎌倉幕府創始者源頼朝が1192年に「征夷大将軍」に任命された事実は、武家政権法的根拠朝廷官位授与に依存していたことを端的に示す。

この官職律令制下で蝦夷征討を目的とした令外官であったが、頼朝はその任命を以て東国支配権公認を得た。

特に1185年の「寿永二年十月宣旨」において、頼朝東国における荘園国衙領警察権公式に認められたことが、朝廷との制度紐帯を強化した。

守護地頭制の双務

承久の乱(1221年)後に全国に拡大した守護地頭制は、幕府朝廷荘園管理システムに介入する手段となった。

地頭による年貢徴収権の獲得(1221年「新補地頭法」)は、一方で幕府経済基盤を強化しつつ、他方で朝廷一定の税収を保証する相互依存関係形成した。

この共生関係は、幕府朝廷経済的存続を担保することで自らの支配正当性を補完する機能を有していた。

象徴権威継承構造

三種の神器王権

鎌倉時代後期の両統迭立期(持明院統大覚寺統)において、幕府皇位継承に介入した背景には、三種の神器所在正統性根拠とされた神権政治論理存在した。

例えば後嵯峨天皇の治世(1242-1246年)において、幕府は神器の継承過程監視しつつ、自らが「治天の君」選定の仲裁者となることで権威の源泉を掌握しようとした。

宗教的儀礼の共用

朝廷主宰する新嘗祭大嘗祭などの祭祀は、中世を通じて天皇神聖性を可視化する装置として機能した。

幕府はこれらの儀式への供御人派遣財政支援を通じて、伝統権威への恭順姿勢を示すとともに、自らの支配を「神国」の秩序に組み込む戦略を採った。

特に伊勢神宮賀茂社への寄進は、武家宗教的権威を利用して支配正当化する典型的手法であった。

経済的相互依存構造

荘園体制媒介機能

鎌倉幕府経済基盤となった関東御領(約500箇所)の多くは、元来が朝廷貴族荘園であった。

幕府地頭を通じた年貢徴収合理化を図りつつ、従来の荘園領主へ「得分」を保証することで旧勢力との妥協を成立させた。

この「本所一円地」への不介入原則が崩れた蒙古襲来後も、朝廷幕府軍事課税を追認した事実は、両者の経済的共生関係の強固さを示す。

貨幣経済媒介者としての朝廷

平清盛日宋貿易以来、朝廷が保持していた対外交易権は、鎌倉期においても「大宰府」を通じた外交貿易管理として継承された。

幕府実質的外交権を掌握した後も、形式的には朝廷を窓口とする建前が維持され、明との勘合貿易室町期)に至るまでこの構図が持続した。

政治的相互作用の諸相

摂関政治から幕府政治への連続

藤原道長の「御堂関白記」にみられるように、摂関家天皇外戚として権力を掌握する構造は、後に武家が「征夷大将軍」の官位媒介権力正当化する手法と同根である

平清盛が「太政大臣」に就任した事実(1167年)は、武家伝統官制依拠せざるを得なかった制度的制約を示す。

院政執権政治の相似性

白河院政(1086-1129年)が開いた「治天の君」の政治形態は、北条泰時執権政治(1224-1242年)において「得宗専制」として再構築された。

いずれも名目上の君主天皇/将軍)を背景に実権を掌握する点で、権威権力の分離という中世政治構造典型を示している。

思想的基盤の分析

神国思想政治的利用

北畠親房の『神皇正統記』(1339年)が主張した「神器継承正統性」論は、建武の新政崩壊後も南朝方政治的正当性を主張する根拠となった。

これに対し足利尊氏光厳上皇擁立した事実は、北朝方も同様の神権論理依存せざるを得なかったことを示す。

朱子学の影響と国体

鎌倉後期に伝来した朱子学大義名分論は、水戸学における南朝正統論(『大日本史編纂)を経て、明治期の南北朝正閏論争(1911年)にまで影響を及ぼした。

この思想系譜は、天皇権威武家政権正統性を超時代的に規定してきた事実を逆照射する。

結論権威権力の持続的共生

以上の分析から鎌倉幕府を頂点とする武家政権天皇権威を不可欠の基盤として成立・存続したことは明白である。この構造は単なる形式的従属ではなく、

官位体系による権力正統化

荘園経済媒介とした相互依存

③神権思想に基づく支配正当化——という三重メカニズムによって支えられていた。

明治維新に至るまで継続たこ権力構造本質は、権威祭祀権)と権力軍事力)の分離・補完にこそ存し、日本政治史の基底を成す特質と言えよう。

2024-11-15

自己責任論とかいう個責論

言わんとする事を言おうとすれば、タイトルのようになるしかないのだが、この事実が既に矛盾を抱えていて、「自己責任論という対象への批難をする他己責任論」の蔓延であるように思える。というと、他己責任論者と詰られたと勝手に感じた自意識過剰ずんぐりむっくりの干渉的なタイプ人間が、あんたはじゃあ失敗のすべては個人責任で、被抑圧的な対象に同情しないんだね、みたいなことを言ってくるのだが、まあまて。

誰もそんな事言ってなければ、あんたを責めもしていないから、一度聞け。

そんな自分を責めている被抑圧者の要求がなにを求めているのかといえば、あんたの勝手自意識の解消ではなく、まず問題の正しい把握である

自己責任論が批難される理由は、まあ端的にそういうことなのだが、自己責任論とは個人に生じた悪い現象自業自得だとする論理だ。

しかし、世の中通り一片では語れない。

ここでは、

悪い現象責任個人に帰責するのはやめろ→自己責任論は諸悪の根源攻撃→他己責任論者への転回(自己責任論への詰責、被害者加害者への転身)

という一連のプロセスが発生しているのであるが、これは個人的にも社会的にも同時並行で進行する。

個人問題社会の大問題拡張されうれば、

護身のための具術は他人へ剥ける牙にもなり得るのだ。

デフレへの視点で捉えるとわかりやすい(経済的問題はいつも視点が一点集中していて、多角的視点からつの現象を捉えようとはしない。)

通り一片というのは、負の側面だけを捉えているということで、個にとって悪質な自己責任論を撤廃、廃絶させてしまった先に何が残るのかという事を、《自己責任論者》は考えようとはしない。

そもそも彼らがしているのは、存在しない自己責任論者に対するテクストの訂正行為じみたもので、勝手に「自己責任論」という議題を設定して問題を追求しようとしているようなものだ。

まり、そのような対象(自己責任論者)は現実人格としては存在しないに等しい。だから、それに対する攻撃は、そもそも何に対して怒っているのか、攻撃しているのかがわからない。

から彼ら自身が《自己責任論者》となる。

が、彼らの攻撃自己責任論者として現実人格を叱責する。換言すれば、自己責任論の問題現実に帰責し、具体化する(してしまう)ことで、無関係他者を詰問する。

このような状態人格二元性と名付ける。この名称自体にそんな錯誤と矛盾が表れている。あたかも「自己責任論」のように。

そのような状態では言論攻撃的か、批難的か、あるいは攻撃的に批難的かになる。

整理しよう。

自己責任論の負の側面は悪い現象自業自得になるということだが、では正の側面は良い現象自業自得=本人の努力という捉え方に回収される事だろうか?

注意してほしいのはここで人格二元化された観念的な状態区別することだ。

まり、”自己責任論の正の側面として何らかの良い現象を受けている個人なんていないということ”だ。

たか上級国民に向けられる復讐根性のように、これ自体が正の論理から、負の論理はわからないとか、そういう事もない。

なんていうか、まずその、あなたの負の状況というものが無い。その穴も都合よくつくられたシチュエーションである

自己責任論も単なる視点にすぎず、良い現象も悪い現象もない。

にもかかわらず自己責任論が個人である私を批難しているように”現実において”感じるとしたら、それはたぶん観念的な他者への他責社会意識にまで拡張された時代からで、だからって別に一方的他責されてる被害者がいるわけではない。そんなふうに思うやつがいれば自身が目の敵にする迫害者と同じ。だが、そんなふうに思うやつが実在するわけではない。

その社会においては、皆が被害者で、加害者だ。

しかし、そのような変質を受けたものではない、自己責任という語句意味については肯定されるべきで、本当に憂いるべきは誤った負の観念が正しい意味まで同時に否定してしまう事だ。

さて貴方が本当に否定したいのは、自己責任論ではなく、それ自体誤った自己責任論の状態であり、求めているのは、廃絶という意味ではない負の否定である。負は無限に廃絶されるべきだ。だがその循環自体廃止は誰も望んでいない。

負の状態否定するために廃止を望んではならず、この廃止を望んでいる状態廃止された状態が負の状態といえるのではないか

一定結論を出すために、個人個人責任を持つべきだし、持てる社会状態が結局は望まれている。

しかし、「自己責任論」に限らずに、誤った観念がそれを阻害している。その状態改善こそが求められている。だから問題なのは自己責任論」そのものではない。「自己責任論」という記号問題にまつわる状態の全て。「自己責任論」がどのように社会において問題にされているかというシチュエーションが最も討議すべき根幹的な問題。それを問わない結果が誤った方向に行く。諸悪の原因は本当はこれ。なので、誤った社会的観念における誤った状況の防止のために、誤った社会的観念個人の逸脱の原因という意味で、社会責任のがれなんかせずに、「自己責任論」なんて議題の設定の仕方はやめて「個人責任」とか「個責主義」とか、もっと現代的な抑圧論に結びつけて考えたらいいし、そうするべきだと思う。

問題なのは自分の及ばない範囲問題まで自分責任にされているというか、そうだからって自己責任否定するんじゃなくて肯定するのが大事だっていう事なんだけど、その自己責任っていうのは正しい言葉意味肯定しようってことで、社会的に捻じ曲げられた仮置の信号として解釈すべきでなく、そこに置くべきではない。社会的には個人社会責任があるという自負でよくないか

自己責任論の提起のされ方がどこか病理的に思える。

テクストの訂正と、自己責任《論》

2024-10-25

anond:20241025015512

二元ミステリーは好きだし好きな人多いと思うが

からこそ昨年の映画ベルモットと灰原の馴れ合い感がマジで無理だった

なんかもっとあの辺の緊張感は大事にしてほしい

名探偵コナン史上最も重要事件10選(ではなくて)

流行に乗る。

名探偵コナンに追い付くために読んでいたほうがいいエピソードは既にいろんな所でまとまっているし、10エピソードどころではおさまらない。

なので読んでほしい回を下記に書く。(傑作集とでも言うべきか)

というのもコナンの人気エピソード投票はよくしているのだが、どうしてもキャラクター活躍する回とか、話が大きく動いて流れが変わる回とか、幼少期のアニメ視聴者が絵的インパクトのみで記憶に残ってるとか、妙にネットでこすられた回がピックアップされてしまうのだ。

今回はそういうの無しで行きたいと思う。

順不同だ。あと見るなら原作おすすめする。アニメ原作からちょっといじってるし、漫画の絵が良いんだよコナンは。

ミステリー作家失踪事件

19巻に収録された3話構成エピソードだ。

行方不明推理小説家を探すというもの。鍵は作家が残した原稿にある暗号ミステリーである。この暗号を解くまでのコナンが良い。あまり知られていない蝶ネクタイ変声機の弱点も知れる。推理小説好きは好き。

奇術愛好家殺人事件

20巻に収録された5話構成エピソード

原作で読んでほしいと先に書いたが、これはトリック漫画ならではの構図の絵が美しいのが特徴だ。

雪山山荘燃えさかる吊り橋、何も起きないわけがないと知ったあの頃を思い出す。

天狗伝説殺人事件

11巻に収録された3話構成エピソード

これは初期作品でなかなかにインパクトが強い絵面が楽しめる事件だが、これがあるから名探偵コナン国民的になれたのではないかと感じる。こんなん誰が思いつくねん、という事件

殺人犯工藤新一/新一の正体に蘭の涙

62巻に収録された6話構成エピソード

この辺は入れとかないと誰かに刺されるかなと思った。コナンの設定を生かした事件で本当に唯一無二だと思うが、その中でも特に驚きが強く展開が読めないので面白い

県警の黒い闇

86巻~87巻に収録された5話構成エピソード

まぁこれはなんというか来年映画のために見とけよってかんじではあるのだが、好評だったからメインに長野県警が選ばれたわけで、それは大事なことだろう?

コナン唐突にくるグロ回が好きなのだが、長野県警が出ると大体グロいので良い。コナングロなら平気~って人もこの回はヒェッとなるかも。多分作中ベスト3に入るグロさ。

36マスの完全犯罪パーフェクトゲーム

97巻に収録された5話構成エピソード

まぁこれもなんというか来年映画のために見とけよってかんじでは(以下同文)

97巻ともなると人物相関図がややこしくなるが、かなり緊張感があったのでそういう楽しみ方もできるし、出てくる暗号コナンを読んでいればいるほどミスリード的なお遊びがあり、ほどよい難易度だった。ぜひ一旦解読してみてから進んでほしい。

殺意コーヒー香り

60巻に収録された3話構成エピソード

地味な話ながら地味にファン人気があるエピソード。地味なファンに人気があるエピソードとも言おうか。地味に面白くて地味に残るものがあるシンプルで良い回だ。結構悲しい話。

黒の組織と真っ向勝負 満月の夜二元ミステリー

42巻に収録された6話構成エピソード、だがベルモット編の終結とも言えるのでそこまでの流れを見ている方が良い。

とにかくここまでの流れの完成度が高く、すべてがうまく行っている。ある種の名探偵コナン一部完結といった感じもあり、おそらくここまでを読み込めば名探偵コナンラストが予想できるのではないか…といった考察もある。もちろん80巻以降毎回のように重要情報を出すようになったので全巻読まないといけない仕組みなのだが…。

正直この事件が入っていない人気投票系のエピソードランキングは信用していない。これは必ず入っておくべき、と思う二元厄介オタク

毒と幻のデザイン

74巻~75巻に収録されている6話構成エピソード

一回読んだだけだと理解できず、何度も見返して「なるほど」となったので印象深い。謎一つ一つはクイズ番組であるようなものなのだが、それを事件に繋げて複雑化していくのでなかなか読めない。

あ、これも長野県警出てるから来年映画のために…いや、これは読まなくていい。

大体このエピソードライト層におすすめしてくるファンとは関わらない方が良い。

でもこの場はそういうのを書いていい場所だと聞いたので。

二十年目の殺意 シンフォニー連続殺人事件

23巻に収録されている6話構成エピソード

お札を見せるやつねって言ったら覚えてる人多いかな。

毒と幻のデザインと同じくコナンと平次の共闘と言っても、上の話と違ってこれをおすすめしてくるコナンファンはとても優しい。大事にした方が良いと思う。このエピソードは完成度が高く、映画を見たかのような満足度がある。


1000話超えてるのであれが入ってないとかこれが入ってないとかあると思うけど、まあそういうのは各自おすすめしてください。

2024-09-10

なぜリコールの話が全く出ないのか

市長を辞めさせたいということで、市長本人に辞職の意思がない場合議会の動きだけでは解職まで時間手続きが嵩むというニュースを見た。

議会とその構成員たる議員は、例え地方であっても固定票に支えられており必ずしも市民意思を正しく代表できているとは限らないのはみなさん御存知の通り。

政治利権争いで、議員達が勝手市長を解任させられないというのは当然のことなのだ。それはすでに壊れているとはいえ二元代表制を土台から崩すものである


不思議なのはリコールについてさほどニュースにならないことだ。

リコール市民投票によって行われ、市長本人の意思関係ない解職させられる。

リコールさえ成立させればいいのだ。

なぜ起きない?起こさない?

私の考えでは、リコールは「民主主義」の言い訳からだ。リコールなぞ成立しないと、立法側も理解しているのだ。リコールが成立するより、面倒で時間もかかる議会による解職運動のほうがまだ実現可能性が高いと議会側ですら思っているかである

2024-08-18

煮詰まる」はいかにして「結論が出る」という意味になったか

それでは夏休み自由研究を発表したいと思います

最初

現在のところ「煮詰まる」という言葉は、「議論交渉がまとまって結論が出る」という用法が正しいとされ、「議論が進まなくなって行き詰まる」という用法誤用であるとされている。「煮詰まる」という言葉がどのように用いられてきたのかに興味を持ったので、その変遷を辿っていこうと思う。ソースはだいたい国会図書館デジタルコレクションである

注意として、ここでは「煮詰まる」と「煮詰める」を区別して、「煮詰まる」の用例のみを追っていくこととする。現在においても「煮詰める」のほうには「行き詰まる」という用法はなさそうだからである

白樺派の例

調べてまず気付くのは武者小路実篤が「煮詰まる」を多用していたこである。そして同じく白樺派有島武郎長与善郎、その影響を受けたという岸田劉生木村荘八なども「煮詰まる」を用いている。まるで実篤から伝染したようである。それらは概ね「無駄な修飾を排して凝縮されている」あるいは「態度が一つに決まっていく」というような用法であり、いずれもポジティブ意味で使っているところが共通している。いくつかの例を挙げる。

大正10年 武者小路実篤自分脚本に就て』

僕は脚本はどうしても人間精神のあらわれである上に、煮つまったものであることを要求します。


大正10年 有島武郎『筆頭語』

心が二元的である間は、即ち或る機縁によって煮つまって一元的にならない間は、どこまでも二元なり多元なりの生活を押し通して行くがいいと思う。


大正11年 木村荘八『泰西名画家伝』

長官デリニのあやが「うまく」かかるもかからぬもなく、競技――即(すなわち)対抗の空気は忽ち煮つまるばかりであった。


大正13年 長与善郎『書斎より』

牛のよだれのようにだらだらした書きぶりがいかんのは問題にもならぬ事であるが、さればと云って何でも只無暗に簡潔に端折って書きさえすればいいと云う事を一つおぼえて、まるで電報文句のような言葉さえつかえば煮つまったいい文章だ、と思っている人の文章は又不自然な、とらわれた感じのするものである


昭和5年 岸田劉生演劇美論』

全体として、一つの美しさを出すけれど、旧劇の如く煮つまった味はなく、その美は甘く、低級である


白樺派以外の例

もちろん白樺派以外の用例も同時期にあった。意味的にはさまざまだが、ネガティブ用法も多かったようだ。

明治40年イヴィッド・パーリー『くらげ』

この説明には余程可笑しな点がある、で、僕は云った。

『じゃ、この国では、宗教煮詰まって了ったのですネ。』

もとは『The Scarlet Empire』というタイトルアメリカ小説である。原文は「It looks as if religion may correctly be said to have gone to seed, in this country.」となっており、「gone to seed」は「盛りを過ぎて衰える」という意味なので、つまりそういった意味で「煮詰まる」が使われていると考えられる。「加熱しすぎて水分が飛んでしまった」ようなイメージだろうか。

大正9年 ドストエフスキー白夜

私が余りに余計なことを喋舌り、私の心の中で長い間煮つまっていたことを必要もないのに述べ立てたことを、而もそれに就いては私は書いたものから読むように話すことが出来たのだ

こちらも翻訳書。英文は「I had unnecessarily described what had long been simmering in my heart」。「心の中でくすぶり続けていた」とか「ずっと感情が渦巻いていた」といったイメージか。

大正10年 岡本一平へぼ胡瓜』

何処かに法華宗があると見え、この熱気の世界の中へ煮詰まった声でお題目をいきみ出してる。

真夏暑い日に遠く法華宗お題目が聞こえてくる…という場面で、この「煮詰まった声」は「重苦しく絞り出している」ような印象を受ける。もの煮詰まったあとのドロドロとしたイメージだろうか。

大正12年 佐々木味津三『呪はしき生存

単にそれを考えるだけでも、彼は天地が煮つまるように感じていたたまらないような震撼を覚えた。

「居た堪らない」というので、世界が煮られて、そこにいられなくなるような感じだろうか。ぎゅっと狭窄するような感覚もあるかもしれない。

昭和2年歌舞伎 第三年第十三号』

森金之丞は正直にこれに答えるが、だんだん議場(公議所)の空気が煮つまって行き怒声、罵声騒然たる裡に第一場は閉じて行く。

議論が悪い方向に盛り上がってヒートアップしているという描写結論が出そうにないという点では現在の「誤用」のほうに近いか

昭和6年 大高巌『近代支那文学史上の先駆者

かるが故に自己生活を安泰ならせんが為には儼然として己れが階級城壁を固守しなくてはならない。科挙制度がそれだ。かかる試験制度採用することは一に権力者に反抗する意志学問の為に煮つまらせ、又一には士大夫階級思想擁護有為なる人材を作ることになる。

こちらは「集中させる」「浪費させる」ようなニュアンスか。

昭和9年 式場隆三郎バーナード・リーチ

高村光太郎は余り外に出ない。併し仕事は煮つまってきていると思う。暫らく作品を見ない。

この式場隆三郎白樺派との交流があったらしいが、「作品を見ない」ということは、ここでの用法は「行き詰まる」に近いのではないか

昭和10年 丸山幹治『黒頭巾を脱ぐ』

勿論コチコ官僚型で煮つまって、倒さにふっても水っ気もないような人ではなく、時代に対する感受性は強く、好んで人の長所認識する感服癖さえある。

こちらは「頭が固い」というような用法

昭和10年 ギュスターヴ・フローベールジョルジュ・サンドへの書簡

では左様なら。もう遅いのです。頭がまるで煮詰まりそうです。

翻訳書。英文は「Adieu, it is late, I have an aching head.」なので、普通に頭痛がすることを言っているのか、それとも「悩んで行き詰まっている」的な意味なのかはわからない。

戦後の例

戦前武者小路実篤を中心に、小説詩歌戯曲などの文学的文脈で使われることが多かった「煮詰まる」だが、戦後になると現在のような「議論交渉煮詰まる=結論が出る」といった用法が登場し、やがて支配的になっていったようだ。

それに関してわかりやすいのは「国会会議検索」で、戦前の「帝国議会会議検索」では「煮詰まる」はほとんどヒットしないが、国会会議録では1950年代あたりから見られるようになる。さらに用例を確認していくと1960年代から爆発的に増えていったようだ。労使交渉文脈が多いように思われるので、そのあたりをきっかけに流行りはじめたのかもしれない。

となると次に気になるのは「議論煮詰まる」=「行き詰まる」という用法がいつごろ確立されたのかということである。どうやって調べればよいか。たとえば「煮詰まってしまった」みたいな形だとネガティブ文脈で使われていそうだ。ということで検索してみよう。

昭和34年週刊現代

しか日本側は表面上は「朝鮮総連相手にせず」とその抗議を重視せず、裏では字句は修正せずとも運用面に幅をもたせるという妥協の動きに期待を寄せていた。それが、日赤相手にせざるをえない北朝鮮赤十字から真向に攻撃を受けたのだから問題は煮詰ってしまった。


昭和44年『先見経済

やはり人間災害にあってみないとなかなかわからないもので、そういったことで安堵感を持っている。しかしジワジワと危機に瀕してきているわけで、そのとき判断をあやまると、残念ながら煮詰まってしまう。


昭和47年ミュージックライフ

ハイスクールからジュニアカレッジヘと進んだアリス達は2年間のカレッジライフ煮詰まってしまい、カリフォルニアに向かったのである


昭和50年キネマ旬報

その後の二本は結局むしかえしのドラマをやるしかなくて、無残な作品になってしまった

あれも、会社方針企画貧困の為せる業で、プロデューサー監督も完全に煮詰まってしまったんですよ


昭和51年レコード芸術

あい自由さが背景にあってのこの音楽じゃなくて、すごい煮詰まっちゃってて、つらいだろうなというところで出て来る音なんですね。


昭和53年スイングジャーナル

でも、いつか自分のやりたいことをやらないと苦しくなるというか煮詰まちゃうわけだよね。


昭和54年ジャズ批評

昔は、自分が何をやっていいかからなかった。やり過ぎると煮詰まってしまうし。


昭和56年週刊読売

「でも、仕事ばっかりしていると煮詰まちゃう」「煮詰まちゃうってのは、息詰まる、退屈する、スランプに陥るって意味なんです。」


昭和60年 毛利子来岡島治夫・末永蒼生『「体」発、宇宙へ』

たとえば原稿書いてて、もう煮詰まっちゃって、しょうがない、寝よう、横になると、ア、と思いついちゃう


昭和60年 チャールズ・シェフィールド放浪惑星

その問題ととっくんでいるうちにわたしの頭は煮詰まってしまい、あとをマッカンドリューにゆだねた。


昭和60年 松浦理英子いちばん長い午後』

実はそれは性的遊戯の一環ではなく、二人の交際煮詰まってしまったあげくのもがき合いであった。


結論が出る」用法と比べれば圧倒的に少ない。とはいえ1970年代くらいからは、日常語として「行き詰まる」的な用法もわりと広まっていそうな感じはする。というか「結論が出る」用法議論交渉文脈しか使えず、それ以外のときは「行き詰まる」用法になることが多かった、という感じではないか

ちなみに、この「行き詰まる」用法誤用として問題視されるようになったのは2000年ごろらしい。実際、Google Booksで「煮詰ま誤用」などと検索すると2000年以降の書籍しか引っかからない。

まとめ

といったところか。

煮詰まる」のコアイメージは「熱されることで水分がなくなっていき固形分だけが残る」というようなものであろう。

それをポジティブに捉えると「余分なものが削ぎ落とされて本質がはっきりする」といった意味合いになり、ネガティブに捉えると「瑞々しいものが失われて停滞する」といった意味合いになる。たとえば「議論」にポジティブイメージ適用すると「論点が整理されて結論がはっきりする」になり、「思考」にネガティブイメージ適用すると「新しいアイディアが生まれなくなり行き詰まる」になるわけだ。

もともとの料理としては「美味しくするために煮詰める」ことも「熱しすぎて煮詰まってしまう」こともあるわけで、どちらのイメージで使うのも自然感覚である。当初から煮詰まる」は多義的比喩表現だったのだから、「これが唯一正しい用法なのだ」などとはあまり気にしなくていいのではないだろうか。

発表は以上となります。ご清聴ありがとうございました。

2024-07-16

ちんちん取りたいと思わない人は男です!

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240710/k10014507081000.html

ちんちん下げたまま女を名乗って生きにくいと思わないなら男です!

性別女なのに全麻手術でちんちんボロンするのを生きにくいと思わないなら男です!

こちとら死ぬほど泣いて悩んで、このままなら死んだ方がマシだし死んでもいいかと思って、全財産持って言葉通じない海外病院まで行って手術したんだ。

なんでちんちんついたまま女名乗って「生きやす〜い」なんてなるの?

心が女なのにちんちんついていることが一番生きにくいはずなんだよ。

ジェンダーレインボーは好きにしてほしいけど、性別二元制の世界レインボー持ち込まないで。

2024-07-10

蓮舫党首による野党共闘路線新党

蓮舫は立憲民主党内の野党共闘路線の大きな一角だったのでは?論を書いた増田だけど、立憲・小沢氏、次期代表「泉氏でやったらまた沈没」 支持しない考え:毎日新聞を読んで、更に立憲民主党内で野党共闘支持派が都知事選野党共闘を行ったことによって現職小池百合子都知事へ肉薄するという華々しい結果を持って蓮舫立憲民主党代表就任を目論んでいたのではないか

ただ、その計算石丸二元安芸市長の想定外出馬によって狂ってしまい、野党共闘路線を裏で糸引いていた小沢一郎も流石に計画修正をせざる得ず、泉立民代表への不信を内外へ煽って野党共闘支持派の結束を高め、豪腕として知られる政界破壊小沢一郎は立憲民主党を割って計画修正を最小限で留められる野党共闘路線新党設立を目論んでるのではないか?という予想

もちろん立憲民主党割れ政党として規模の優勢が得られにくくなるが悪い話ばかりでない。以前から批判を浴びている泉立民代表派閥野田元首派閥などの野党共闘路線不支持しか取れない歯切れの悪さ、非協力的な姿勢立憲民主党として動いている間は利害関係から如何ともしがたかったが、蓮舫新党であるならば純粋野党共闘路線政党なので政党内の意思統一は容易い

野党共闘支持派が抜けた立憲民主党の泉立民代表派閥野田元首派閥からしても小沢一郎派閥蓮舫派閥との利害関係拘束力が弱まり、外部政党として交渉可能なのでこれまで以上に動きやすくなり、何なら国民民主党と再合流なんてのも非現実的じゃなくなる

蓮舫新党野党共闘ハブとして駆動することによって、都知事選で力の入った支援をしてくれた日本共産党と友好な関係を築きつつ、古巣立憲民主党旧民主党として繋がりのある国民民主党との連携はもちろん、包括的野党共闘を実現するため日本維新の会交渉することだって可能になってくる

蓮舫新党野党共闘によって自民党の悪政を打倒し日本初の女性首相を生み出すという志に希望を見出す国民のための非常にわかやす政党となるのではないか、そしてこれは今最も望まれている政党なのだと思いたい

2024-07-09

当選してたらきっと東京でもとんでもないことしてましたよ」

過去最多の56人が立候補した都知事選投票率60.62%(前回55.00%)で小池氏が291万8015票で圧勝、続いて石丸氏は165万8363票を集め、蓮舫氏は128万3262票の3位に終わった。

人口約2万6千人の安芸高田市首長を辞し、500倍以上の人口約1400万人を擁する首都東京に乗り込んだ知名度もない男が、強烈な旋風を巻き起こした。

さぞや地元で実績を残して絶大な人気を誇り、「後継者」がすんなり当選を決めたのかと思いきや、当選したのは反石丸色を前面に打ち出した元郵便局長の無所属新人藤本悦志氏(51)だった。

市議会で数少ない「石丸派」として路線継承を訴えた前市議の熊高昌三氏(70)は2000票以上差をつけられ、次点にとどまった。藤本氏は昨年11月末に立候補を表明、「石丸氏は市議会市民との対話も少なく、その手法対立と分断を招いた」と訴えていただけに、石丸市政の落とした影は思いのほか色濃かったようだ。

♯1で報じたように、地元公立中高を経て京都大学経済学部に進学、卒業後は三菱東京UFJ銀行に入行、ニューヨーク駐在員も経験した石丸氏は2020年7月に突如、安芸高田市長選に立候補して当選

華々しいキャリア凱旋救世主感に満ちていたが、他者を寄せ付けない攻撃的な一面が次第に表面化し、その摩擦と軋轢広島の小都市疲弊した。現職の安芸高田市議は今回の都知事選の結果を含めた一連の経緯をこう分析した。

「危うく東京都民も騙されるとこだったから、小池さんが3選してよかったって思いますわ。石丸さんが掲げる政治再建や財政再建は、よく聞くと中身もほとんどないんだけど、人気取りだけは上手いからね。

安芸高田市長選の時もそうでしたけど、『よし、わしらが手伝ってやる』と名乗り出た地域のおじさんたちの手を『選挙カー応援もいらない。1人でやる』と払いのけ、駐車場にイスを並べて演説ばっかりしてましたよ。それで『このニューヨーク帰りの若者は何かやってくれそう』という期待感であっという間に人気者になりました。

今回の都知事選でも小池さんや蓮舫さんは政治の話ばかりでしょうから、そんな中で『石丸ちゅうんは面白い』と思われて人気は出たんでしょう。でも、あれが当選してたら、きっと東京でもとんでもないことしてましたよ」

「これまでより市政は間違いなくよくなると思う」

安芸高田市の現況を例に挙げ、市議は続けた。

「今回、当選した藤本さんは『市議会市民との対話大事』と言い続けている人で、議会と激しく対立ばかりしていた前任者と比べたら、わしらも大歓迎です。

結局、市民石丸市政はダメだって気づいたって事ですわ。人気取り市長になったものの、やったことは自分意見を押し通すだけ。

彼が議会の反対を押し切って進めてきた認定こども園問題も、藤本新市長は方針を改めるそうなので期待しています。この問題吉田町(旧高田郡吉田町)内にある保育所幼稚園の立地場所に土砂崩れ危険性があり、別の地区移転必要があるとされたことに起因します。

普通なら町内のなるべく他の場所移設しようと考えようもんですが、石丸さんは『校区をまたいで移設する』と言い出した」

石丸氏の提唱する移設先には私立保育園もあった。ところが…

「そんな地域であれば、まずは計画書を持って地元の人や私立保育園説明すべきだと議会は主張したんだけど、石丸氏は『予算使って計画書なんて作っても反対されたらお金をドブに捨てるようなもんでしょ』でしたからね。

その移設計画に関しても藤本新市長はまずは吉田町の中で土地しから始めようという方針です。議会市長も、対立ではなく対話できる関係の方がいいでしょう。今まで異常だったことがようやく平常に戻っていけそうです」

別の市議もこう胸をなでおろした。

「そりゃあもう選挙藤本さんが市長に選ばれたんだからそれが民意なんでしょう。市民石丸市政の継続を望んでいれば、後継者である熊高さんが当選したはずですから

石丸は結局のところ、4年間何の実績もなく安芸高田市をガタガタにするだけして、このままじゃ次の選挙は無理だと思って東京に逃げていったわけでしょう。

彼は地方議会の特色である二元代表制をまったく重んじることなく、とにかく自分の好き勝手物事を進めるだけの独裁者でしたから。

そのパワハラぶりについて今、こと細かにうつもりはありませんが、議会議員をアホ呼ばわりしたり、私自身も高圧的な物言いをされたことがありますよ。

こうして『対立』を選んだ前任者に対し、新市長の藤本さんは『対話』を重視すると言っているので、これまでより市政は間違いなくよくなると思うし、またよくしていかないといけません。

一方でなんの実績もない石丸氏が知名度抜群の蓮舫さんをおさえて2位になった都知事選に関しても、東京都民の『民意』なんだと思います

その都民民意が反映された都知事選後の民放各社の選挙特番で、石丸氏はコメンテーターアナウンサー質問をはぐらかしたり逆質問でキレてみせる様子がSNSなどで拡散され、パワハラ体質が早くも懸念されている。

今後は「まだ決めていない」としながら国政転身について「選択肢としては当然考えます。例えば衆院選広島1区。岸田首相選挙区です」と述べるなど、強気キャラにも拍車がかかったようだ。驕る平家は久しからず。どうぞご随意に。

https://news.yahoo.co.jp/articles/742c4dea089b23506482ee3bccf5a568cc58b0b2

なるほどなあ

石丸氏は結果に責任を持たないタイプなんだろうな

石丸氏はよく言えば人事を尽くして天命を待つタイプ、悪く言えば結果に責任を持たないタイプなのだろう。そしてこれを補助線として引くとなぜ選挙速報後のインタビューが噛み合わなかったのか、安芸高田市議会との対立問題と捉えていなかったのかがわかってくるように思える。

普通選挙(速報)後のインタビューではその結果を受けて自身活動の振り返りや今後の活動に向けた反省について聞かれることが多いし、実際石丸氏もインタビュワーにそういった質問を受けていたように思う。

一方、石丸氏にとっては順位得票数メディア報道有権者側の資質など様々な要因が絡んだうえでの『結果』でしかないのではないか。つまり彼にとっては自身東京都知事候補者としてなすべきをなしたという点が最も重要と考えており、その結果として都民がどのような決断を下したかにまではあまり興味がない。よって自身が直接結果を左右できない(責任を持てない)結果についてどう思うかと聞かれても回答できないし、なぜそんな質問をするのかも理解できないのではないかと思う。

また武田砂鉄氏がインタビューで指摘していたように石丸氏の著書では『自身責任範囲定義する』、『(自身責任を外れた)相手問題がどうなっても関知しない』ということをメンタルの強さを保つ秘訣として書かれているようで、選挙後のインタビューでのやりとりに加えて上記の推論の補強材料になるのではないかと思う。

安芸高田市議会との対立についても『石丸氏は自身がすべきと考えた提案を行う』、『議会提案に対してどのような決断を行うかは自身問題範囲外』と二元代表制を表面的に捉えていたのであればああ言った態度も頷ける。議会対立した結果、市政が混乱したとしてもそれは市長責任を外れた範囲問題と捉えていたのだろう。

個人戦略として結果に責任を持つべきかどうかは結論の出ない命題だろう。もちろん結果に責任を持つ人の方が信用されるが、自身能力裁量を超えた結果に責任を負ったことでメンタルを病んだ人を自分は何人も知っているし、自分自身も眠れないつらい日々を過ごしたことがある。

しか政治結果責任であるし、議会との関係性を他責で片付ける人はいくら有能でも責任ある立場には向かないのではないだろうか、と一有権者としては思う。

anond:20240708200656

日本二元代表制の実態首長優位で、対立構造とするにははなから不均衡だ。

いうほどか?結局専決しようがその後の審議で落とされてるじゃん

個の権限市長のがあったとしても最終的には多数派議員のやりたいような結果に事実なってるよね

いくらカタログスペックで語ったところで結果が伴わないんだったら全体的なバランス取れてる=対立構造になってるんじゃないの

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