はてなキーワード: 軋轢とは
ミリオタの彼はウクライナVSロシアの戦争を由々しく思い、高校卒業してすぐにウクライナへ外人兵として従軍しに行った
注目されている相手にすぐうざ絡みする暇空茜はベビーレモンにもうざ絡み
目立ちたくて嘘を言ってると認知プロファイリングしたが、ベビーレモンは従軍の証拠を出してきた
今まで暇空が絡んできた相手は、自分と同じような陰キャオタク系か、下品なことを言われても下品なことを言い返せない「常識」という弱みを持つ顕名で活動しているような人だった
彼は若いオラつき陽キャで身バレ上等で、暇空がウザ絡みで攻撃的なことを言ったら、絡み返してもっと攻撃的に振る舞った
ベビーレモンは、現在ではウクライナから帰化して日本人になっているナザレンコ・アンドリーとも揉めた
ナザレンコは「本当は従軍したいが出来ない」と再三言っており、ベビーレモンは軍にナザレンコがこう発言しているが彼を従軍させてあげられないのかと問い合わせた
軍はとにかく人手がほしいのでナザレンコに従軍してほしいという
日本人従軍者は少ないので、ナザレンコが調べるとベビーレモンの素性はすぐにわかり、個人情報の流出をちらつかせてベビーレモンを脅かした
皮肉にもそれによって暇空の「従軍は嘘」という認知プロファイリングはハズレだと確定した
ベビレーモンが軍に個人情報を提出したのは、2024年6月26日だった
だがナザレンコは6月20日時点でベビーレモンの個人情報を握っていたという
ナザレンコにベビーレモンの個人情報を漏らしたのは、ウクライナ内務省や国家国境庁あたりだろうとベビーレモンは予測した
それらは昨年のことだが、最近になってまた進展
ナザレンコは右翼界隈でチヤホヤされていたが、帰化してから少しずつ軋轢が生まれた
「外から誉めてくれる外国人、それも白人男性」であればホルホルできるが、「外人のくせに日本国籍や選挙権を持ち、俺らよりもインテリで生活豊かそう」なナザレンコは敵となりつつあった
帰化仲間の元中国人の選挙出馬が右翼に激しく叩かれた際に、ナザレンコが仲間としてかばい、「純日本人なのに帰化者に負けるのが怖いのか」といった煽りをしたのが多くの怒りを買った
ナザレンコが「叩いてもいい相手」と化したので、暇空は「前にあいつにベビーレモンの個人情報を教えようかと持ちかけられた」と暴露した
ナザレンコがウクライナの中枢と深いつながりがあり機密情報にアクセスできる立場である、まではセーフでも、
それを部外者の暇空にまで漏らそうとした、となれば話が変わる
暇空は他人の個人情報を晒しまくるのが得意で、それで訴えられても晒したことによる収益の方が多いので無敵というスキームを生み出している
ナザレンコはベビーレモンが憎いので、暇空を個人情報暴露スピーカーにしてベビーレモンを追い詰めてもらおうとしたのだろう
残念ながら、暇空は「ちょっとガラの悪い若き陽キャ」が不得手でもう絡みたくないので乗らなかった
暇空の暴露を聞きつけたベビーレモンはナザレンコにブチギレ、ちょっと暇空のことを好きになった
公的機関から得た情報を流出させたナザレンコをウクライナ保安庁、国家汚職対策局に告発すると宣言し、ツテのあるウクライナ人に翻訳協力をもらい文書作成しているところだという
ナザレンコは国民民主の党員になっておりそのうち出馬しそうな気配だが、ベビーレモンは彼の帰化取り消しまで成し遂げたいそうだ
その感情が今までのジャンプバトル作品にある「俺がTSUEEEE!」じゃないところ。
むしろ鬼側が「俺がTSUEEEEE!だから好きなようにぶっ〇してやるぜ!」やってて、それを悪だと否定してくるところ。
その感情とは誰かを大事に思う気持ち。人間を肯定したい気持ちなんだけど、
「人間が好き」がメインの作品は今までにもあったけど、爆発し続けたまま最後まで走り抜いたのはちょっとほかに覚えがない。
だいたいバラード的抒情的なのんびりした流れでそれはそれの良さがあるが、爆発・疾走感はない。
あとは余計な軋轢も入れ過ぎて苦みばしったり、バランスが悪い。
人間の底知れない悪意、悪意すら自覚していない邪悪さがガザやウクライナで発揮されているのを見ると、
なんというかね、本当に「温厚な管理職」が出来る、人格者であったり調整能力が高いタイプの女性は
・我が強くないが故に埋もれている
か
・家庭に入りパートとか派遣とかしてる(その高い能力を家庭で発揮している)
のどちらか何だよね。
共働きで正社員を続けている人でも、ゆるく定時帰りで働きたい正社員志向だから、出世とは程遠いしオファーをしても家庭を理由にお断りされる訳。
・我が強くて確かに仕事は出来るけど、当たりが強くて人を育てるには向かない女
か
結果的には元鈴木とか仁藤夢乃さんの様な、女性視点では「強い女」が女性管理職になりがちなんだけど
彼女らの様な人間が上に立ち、軋轢やハラスメント、無駄な敵対、他責性の発揮が、起こらない筈もなく……
プラス、数合わせで出世してしまった様な女性管理職の存在が加わる事で、「優秀な女性管理職がいない」という状況が極めて発生しやすくなる、という訳。
こうならない為には、調整能力が高いタイプが率先して女性管理職になるべきであるのだけれども
そういった女性は仕事よりも家庭でその能力を発揮しがちだし、家庭に入りたい人間を無理にバリキャリ強制など出来る訳もなく
結果、「優秀だがハラスメント気質の『強い』女性管理職」か「無能な上にハラスメント気質の『強い』女性管理職」が圧倒的割合を占める、という。
AfD躍進はイスラム移民過剰による摩擦がどーたら、リベラルの綺麗事が嫌われてなんたら…と言われているんだがさ、元々AfDって旧東独で強い政党だったわけよ。
で今回もやはり同じ。ただ南方地方での得票が増えてるって特徴がある。
真っ青な東の中に赤と灰色の地域が見えるが、これはベルリン。東ベルリンではCDU、西ベルリンではSPDが強いって事になっている。
ドイツが統一して暫く後からネオナチの活動が問題になっていた。
当時犠牲になっていたのはトルコ人で、殺人や放火などの被害に遭っていた。当時のネオナチはスキンヘッドのフーリガンで、要するに愚連隊。だから直接の政治問題というよりクズの若者の問題と見做されていた。
東西ドイツは合併したように見えるが、実際は西への併合で、共産体制が否定されただけじゃなくて西側のやり方、価値観で上書きされてしまった。
西独はマイスター制で10歳でブルーカラーとホワイトカラーの進路が分かれる、結構不自由な社会だ。逆に言うとモラトリアム期間が認められていないから若者がアイデンティティで悩んだりする事も少ない。
社会主義から転換した東独は圧政からの解放によるアイデンティティの不安定さがあった。
西独はキリスト教の信仰が強く、政党まで作られているが、政治の世俗化などの近代の約束事の周知が前提となっている。
東独では宗教は縮小されて「歴史の必然到達点」である共産主義が全て解決すると教えられていたのに歴史の終点が蒸発したので近代の約束事が前例とか慣習に結びついていない。
西独には中間共同体が残っていてお祭も盛んだが、東独は社会主義国家が多くを破壊したので無い。
戦争の総括や反省は東独では「社会主義への進歩への反逆」のような文脈でされていて西独とは大いに異なる。
という風に、要するに大いなるアノミーと自由からの逃走ですな。そういう問題に苛まれた。
しかも「ドイツ」として参照されるのは西独ばかりなのでやな感じだ。
『グッバイレーニン!』という映画を知ってるだろうか?熱烈共産党員の母が意識不明になってしまったが、その間にベルリンの壁は崩壊し東独は無くなって資本主義の品々だらけになってしまった。目を覚ました母がショックを受けないように「家から見える資本主義」を全て無くす為に息子が奔放するって内容だ。面白いぞ。
なんでこんな映画が出来たかというとその背後に東独の痕跡を全部消されるような忸怩たる旧東独民の思いがあったわけよ。
ネオナチもこういうのを背景に旧東独で猛威をふるっていたわけで、当然AfDもそのベースは共有している。
旧東独地域は人口が減っている。旧西独側に流出しているのだな。
で、移民が来るには来るが、結局行くのって旧西独側ばかり。するとブレグジットで見られたように、移民が余り行かない地方の人が移民に反対しているって事になるわな。旧東独のあちこちに池袋や西川口や葛西があるってわけじゃ無かろう。
なので以上の事も含め、イスラム系移民との軋轢が原因というのはちょっと無理があるんじゃね?
増田的には、イタリアがやったような地域開発支援や、民俗学で東独地域の歴史や風俗を掘り返して祭復活させたりということを長く続けるしか無いように見えるんだが。
この増田がまとめている党是にも出てくるが、
https://anond.hatelabo.jp/20250224204010
再生エネのうち、風力だけが敵視されている。太陽光はおkなのね。
トランプ政権も風力発電敵視しているが、同じ再生エネの太陽光はおkになってるね。
イーロンマスクのXポストツリーにぶら下がってる最近の極右集団も同じなんだよね。
日本では展開されていないが、テスラ社は自動車だけじゃなくて電池部門も展開している。
それもモバイル向け小さいセルじゃなくて、蓄電池事業、例えばEcoFlowみたいな手軽な大きさのものから、家庭用、会社用の小型中型蓄電池システムを展開している。
データセンターとか医療用、精密工場なんかの無停電電源は専門業者に握られていて参入が難しいのでやらず、再生エネの拡大で出来たニッチを市場にしてるのよ。EV連携とかね。
一方、風力というのはそれなりの資本力が必要だから、これらの蓄電池システムと組み合わせ出来ない。
とすると、イーロンとしては再生エネはウォークだと腐しながら、太陽光は除外するしかない。そこで風力だけに憎悪が行く、というこういうワケなのだ。アフォらしいな。
なので、各地の極右が風力だけ憎むのは、パトロンとかタニマチ、若しくは強力シンパのビジネスの都合だろ、ってことなんであります。
つーことで、AfDなどの事を「イスラム移民との摩擦によるもの」と考えるのは無理があるんじゃね?ってお話でござった。摩擦が少ない地域で躍進してるわけで。他の原因無視しすぎ。
そもそも移民の毒を問題視するなら、今一番自国を滅茶苦茶にしてのってイーロンじゃん。あいつ放り出せ、ああいうのが来たらどうする!って言うはずだよな。
あ、バノンには言われてたのか。
また友人を失うかもしれない。
原因ははっきりしているのだけれど、それの帰責性が自分にあるのか相手側にあるのかが分からず(もちろん自分では自分に責めを負うべきところがないと思っているのだが(あれば治すし))、また、失いそうになっている。まァ帰責性の存否にかかわらず関係の維持は可能だとは思うが、これは後で検討する。
はてな匿名ダイアリーを初めて利用するのは、決してアドバイスや共感を得たいわけではなく、ただ文章に直す作業がしたかっただけなので、この文章に関しては一切の責任を負わないし、二度と思い出すこともない。
筆者は2002年生まれの現役の大学生で、一年、浪人している。関東出身。男。彼女はいない。いたこともない。最近オナホを買って心底がっかりした。冷たかった。東京の山手線の内側の狭い部屋で一人暮らししてる。社会科学系。専攻している分野が世間的にはマニアックなので、人との交流は少なく、一週間で会話することがあるのは先生(教授)と、バイト先の生徒や関係者など、片手で数えられる程度の人数しかいない。それでも、社会性を失いたくない(社会にアクセスするハードルを上げたくない)から身だしなみも整えてはいる。年がら年中オフィスカジュアルみたいなものを着て、いい酒が飲める店にいつでも入れるくらいの格好しか持っていない。もしかしたら自分がおかしい(もしや統合失調症でも発症しているのか!)のかと思い、精神科や家族に相談してみたものの、極めて正常ということらしい。彼らと相談する際によく耳にしたワードとして「時代だから」というのがあり、いささか疑問がありつつも、自分にもそう言い聞かせ、またそうするようにしている。なぜなら、理由は単純な方が良い。だけど、友人と自分は同じ時代を生きているし、同じ時代で育ち、同じ地域で、同じ中高で、同じ部活で過ごしたはずなのに、なぜ?
友人Aの場合
Aとは、本来であれば今年で10年超えの付き合いになる。Aは旧帝に落ちて私立大学に現役で進学した。たまさか、学部は違うけれど同じ大学に所属している。彼女はいない。チー牛という言葉が出始めた頃、漏れなくチー牛を自称していたが、そんなことはなく、月並みかそれ以上だろう。Aは、サークルに所属しており、友人と先輩と後輩がいる。Aが大学に入ってからは、「ちょっと変わった」先輩(男)のお世話をしていることを嬉しそうによく話していた。「ちょっと変わった」先輩の話というのは、おかしな行動や、服薬している薬の名前、就活の動向や、就労後の話など。確かに、「ちょっと変わっ」ていた。
書いていなかったけれど、筆者は大学院に進むので就活はやっていないし、大学院のあとにもその技能を評価してくれる機関があるので、レールは敷かれている(ただしそのレールは「完全に」壊れている!)。Aはそのことをあまり良く思っておらず、酒が回ってくると「お前はいいよな」といった風な言葉をかけてくれる。じゃあお前も俺と同じ孤独を大学の6年間とその後の人生をもって味わえ、とは言わない。分別があるから。
おそらく、Aには特殊な技能はない。英語も普通、スペイン語は自己紹介も忘れ、ゼミでは経済?に関してやっているらしい。人当たりもよく、声もデカいし、健康な、世間の求める「普通」が服を着たような大学生だ。そのため、「普通の就活」が必要だった。ただ、彼はそれをしなかった。
さっきの「ちょっと変わった」先輩の真似をして、大手とベンチャー合わせて10社くらい?しか受けず、結局小売大手に決まったらしい。この文を見ることはないだろうけど、おめでとう。体を壊すなよ。Aから聞いた話では、不動産大手の二次面接?に進んだがあえなくやぶれ、ベンチャーと大手の2つが手札にあった。そのことを聞いたのはAと今度失いそうな友人Bと、共通の友人Cが同席しているときだった。
大手は、CMでもよく流れてる企業。我々の地元だったらみんなが口を揃えて納得する企業だ。業績も悪くはないし、払いもそこそこ。いいじゃないか。
ベンチャーは、SIer派遣会社。「独自のシステム」をもとに「円滑な」派遣を行っているらしい(又聞きなので詳しくはわからない)。報酬は基本給と地域制限付きの家賃補助とボーナス代わりのストックオプションか新株予約権付きのストックオプション。新株予約権!?
悩む理由がわからねぇ~!!!マジで!!ポンジスキームもいいとこだろ!
仮に上場できたとして流通価額の低いゴミ株なんか持ってたってなんの役にも立たねぇし、最終的に株式合併して希釈されるのがオチだ。しかも持株会で買わされるのは目に見えてる。人材派遣会社の株式の価値が上がる要因ってなんなんだ、このAI時代に。
もちろん、Aを引き止めた。大手に行ったほうがいいともそのまま伝えた。が、彼は納得しなかった。彼の言い分は、「社長の人格に惚れた」、「成長する見込みはある」、「自分を認めてくれた」、「頑張りたいと思ってる」など。
今は、頑張れるのかもしれないし、きっとできる。でも1年後は?3年後は?10年後30歳を超えたお前はなんの技能も持たずに転職して別の業界に身を投じたいと「現時点で」考えているのか(そういう趣旨のことを言っていた)?という言葉がでてしまった。言ってしまった。
ああ、言ってしまった。言っちゃだめなのに。本当のことは話しては、いけない。
Aはしばらく考え込み、我々は、楽しい話をし、酒をたくさん飲むことになった。
そのあと電車で各自帰路につき、帰り道が同じAと筆者は散歩がてら話をした。桜の良い季節だった。
そして、AからAの意中の女子と上野に行く計画を聞いた。西洋美術館かなにかに初デートで行くとのことだった。桜の季節の上野の初デート?コロナ解禁のタイミングだったため、混むのは目に見えている。だから、助言をした。
「絶対混むから展示が終わったら速やかに上野を離れろ。飯を上野で食おうと思うな。歩かせたら文句が出る。散歩しながら店を見つけようとするな。地下鉄で移動しろ。バスっていうのも悪くないな」と。さっきも言った。これは、言ってはいけない。言っちゃいけなかったんだ。言い方が悪かったのか?それも、そうだ。とにかく、悪かった。
Aは怒ってしまった。曰く、筆者の「正しい価値観(原文ママ)」を押し付けてくれるな、ということだった。本当に、そうだろうか。
別に、筆者の助言を聞くのはAの義務ではないし、また、それをAが実行に移さなかったところで、筆者は何も思わない。聞き入れられなかったのか、と思うだけで、しかもそれは筆者の自由だ。Aの気にすることではない。さらに言えば、仮に筆者の予想が的中したとしても、それはそれで初デートかくあるべきというやつなのだろうから、それも、味かもしれない。苦みかもしれないが。
Aは筆者に怒りながら言い訳を始め、筆者はそれに真っ向から対応してしまった。いかんせん、二人共酔っていた。Aはそれを認めなかったが(己の適量というやつを知らんのか?)。
そうして小一時間ほど深夜の野外で大声で話し合ったが、トイレに行きたくなった。当たり前だ。春の夜は、寒い。
筆者が「俺、帰るから。もしまた同じことを聞きたくなったら電話してくれ。必ず同じ内容をもう一度言ってやる。何度でも、だ。今日はもう、寒くてトイレの限界だ。」と言ったら、Aは「これは喧嘩別れじゃないんだ!もういい年なんだし!」と漫画で見たような捨て台詞を吐いて帰っていった。
その後、彼からの連絡はない。こちらからも、電話はしない。きっと、恥ずかしいだろうから。風の便りで、行方は知っている。
もう分かっていると思うが、筆者は伝えてしまうのだ。論理的に考えれば当然の帰結や、大人かくあるべき社会人かくあるべきという規範から導かれる「正しい価値観」に基づいてした思考を、伝えてしまうのだ。言い過ぎてしまうというよりも、簡潔に伝えてしまうのだ。言ってはいけないのに。
もちろん、言わずに流すこともできる。今っぽく「へぇ~ そうなんですね~なるほど~いや~わかんないです~笑」みたいに言うのも可能だ。ただ、それは可能だ。友人が痛い目に会おうとしているところに、なぜ、助言してはならないのか。痛みに慣れるのは、あまりよくない。余計なお世話だろうし、たしかに、余計なお世話だ。でも、友人である俺が言わなければ誰が言うんだ?親か?上司か?先輩か?それとも後輩?はたまた八奈見さんみたいなマニック・ピクシー・ドリーム・ガールか?八奈見さんだったら言ってくれる。ケアも、ある。でも、八奈見さんは、現実には、いない。そう、いない。
きっと誰も、言わない。なぜなら、波風が立つから。
彼らからすれば、筆者は「不和を生み出す存在(原文ママ)」らしい。これを居酒屋で言われたときは泣いちゃうかと思った。もう、22の大人なのに。酒が入ってなかったら泣いてたんじゃないかな。それくらいに、悲しい。嘘は、つかない。
多分、彼らからすれば人から何かを言われることそれ自体が、加害性を含むものなのだ。そして筆者は、その意図がないにも関わらず、きっと加害性に溢れている。それは怒られることとか褒められることとかは一切関係ない。自分の世界とそうじゃない世界の区別が全然ついていない。自己免疫性疾患みたいなもので、感受性と言う名のレセプターが過剰に反応しすぎるんだろう。ガラス症みたいな若者で現代は溢れている。そしてそうじゃない奴は、加害性を一見伴わないフェードアウトをされて(実際は加害そのものだ!)、彼らの社会から排除される。確かに、彼らからすれば筆者は脅威で、筆者からしても彼らは異常な世界に住んでいる。関わりはなくても良い。でも、同じ時代を生きているし、同じ時代を生きていた。
「過去に見捨てられたのではなく、過去を見捨てたのだ!」という悪役のセリフがあったような気がするが、筆者は明らかに過去に見捨てられている。過去を捨てはしないが、過去が筆者を排除しており、またそうせざるを得ないのだろう。筆者は過去を懐かしむこともできず、自分の頭の中で改変されたナラティヴを都合のいいように楽しむ不誠実なことを実行する直前のところまで来ている気がする。防衛反応だったとしても、やっちゃだめなことはやってはいけない。でも、やるしかないかもしれない。やってはいけないんだけど、やるしかないかもしれない。許してくれなくてもいい。自分を許す権利は自己にしか存在しないし、また、そうあるべきだから。いや、そうでなくてはならない。俺は俺自身を許す。必ず、必ず
として振る舞うことによって世界に影響を与えようとしているように見えるんだけどあってる?
アメリカが「世界の警察」のように振る舞うことで力を持っているのと同じように。
EUでは移民との軋轢が出てきているようだけど移民や多様性を否定してしまうと同時に力も失ってEUが潰れてしまうように思える。
おっさんです。
昨日出先において始めていくそして多分二度とはいかないような場所のセブンイレブンに行きました。
セブンはどこでもセブンなので買い物とか店舗にはミリも不満はなく、またレジ係の女の子も声小さかったけど対応問題なかったです。
そういうありきたりな不満の話ではなく今回の疑問はセブンイレブンの店員さんがつけてる胸の名札の件なのです。上記レジ係さんが「まりえる」と名札をつけてまして、このまりえるは情報保護的にフェイクなのですが、まぁ、洋風の名前で4文字でひらがなで、彼女はほぼ確実に日本人でっていう状況です。
おっさんはけっこう動揺しました。というのもそれは弊社で似たようなただし男子のキラキラネームで差別的な軋轢があって騒動が起きたからでした。
そこで有識者に質問なんですが、あの名札って本人の同意もしくは自己申告で作られてるっていう認識でいいんですよね?いじめてきななにかはないですよね?おっさんは他人事なのに変に心配です。
近年、日本国内の一部男性のあいだで、「メスとして可愛がられたり、責められたりする音声を聴きながら、乳首オナニーで“メス”のように喘ぎ、ペニスに触れずに射精する」「サキュバスのペットとして甘サドな責めを受ける」「ふたなり女性にアナルを“オマンコ”として犯されながらエネマグラと乳首刺激だけで連続絶頂を味わう」など、男性側が“女性的役割”を演じて被受動的に快感を得る性表現が大きな注目を集め、数多くの関連コンテンツ(音声作品・同人誌・アダルトゲームなど)がヒットしている。本来はニッチな性的倒錯と思われていたこれらのシチュエーションが、いまや数万人〜数十万人規模の市場を形成し、日常的に消費されるまでに至っているのはなぜか。
本稿では、この現象を「メスイキ」というキーワードを軸に整理し、以下の諸点を検討する。
このアプローチを通じて、単なる「変わった性趣向の流行」で片付けるのではなく、現代日本社会が抱えるジェンダー観やストレス環境、表現文化の特性などを総合的に捉え、ひいてはその社会的・歴史的意義に迫ることを試みる。
「メスイキ」という言葉は元々BL(二次元のボーイズラブ)文脈などで使われ始めた俗称で、男性が女性的な快感を得る状況を指す。一例としては、アナルや乳首など“男性にとってはサブ性感帯”とみなされがちな部位のみで絶頂に至る、いわゆる“ドライオーガズム”や“ノーハンド射精”である。それ自体は医学的にも「前立腺オーガズム」という可能性が示唆されており、必ずしも架空の概念ではない。
しかし、単に身体的な前立腺や乳首への刺激以上に、“女性的役割を演じる”ファンタジーが欠かせない場合が多い。すなわち、「男性であるにもかかわらず、女性のように可愛がられたり、喘いだり、“メス”として扱われる」心理的興奮が「メスイキ」の本質に含まれる。作品中では、下記のような演出が典型的である。
こうした要素が組み合わさることで“男性性からの逸脱”がより鮮明となり、結果的に「普通のオナニーにはもう戻れない」「自分はメスとして淫らにイキたい」といった強度の快楽イメージを打ち出す。
具体的には、以下のような状況が作品やプレイ実例として語られる。
「サキュバスの甘い囁きで毎晩乳首オナニーをさせられ、ペニスは触っちゃダメと言われるまま禁欲→限界に達し“メスイキ”させられる」
「ふたなりの姉さんキャラがアナルを穿つ音声を聴きながら、エネマグラ・両手による乳首刺激だけで連続絶頂に至る」
「サキュバスが襲来し、男性を“メス奴隷”に仕立て上げるシチュエーションで、男性はひたすら甘サドな責めにより何度も射精するが、いずれ自我も奪われてしまう」
「ふたなりキャラを用いた逆アナルもの。男性は自分のアナルを‘オマンコ’として使われ、女のように喘ぎまくる」
かつてであれば「かなり特殊な倒錯」と見られたこうした表現が、音声DLや同人誌マーケットで1万〜数万ダウンロードを記録するヒット作を次々と生み、隠れた大衆的支持を獲得しているという現実は、今日の日本社会におけるジェンダー観・性表現観の変化を如実に示している。
江戸時代の春画には、男女の交合や同性愛、豊満な性描写などが豊富に描かれ、多くの庶民や武士に愛されていた。公序良俗の名目で厳しく取り締まられていた時期もあるものの、実際には十分に流通しており、“性”を愉快に捉える庶民文化が存在していた。
武家社会では年長の武士が若い少年(若衆)を愛する男色の慣習が知られ、文化的にも一定のステータスを備えていた(衆道)。この風習の中で、受け手となる若衆の“女性的役割”が一定の様式として認知されていた可能性がある。また寺院などでも同性間の関係が容認される余地があり、“男性が被受動的立場を担うこと”への抵抗感が、キリスト教文化圏ほど強固でなかったと指摘される。
歌舞伎の女形文化は、男性が女性のしぐさや姿態を美しく表現する芸能として発展した。「男性が女性を演じる」ことは芸術的に認められ、現代の“男の娘”や“女性役を演じる男性キャラ”の系譜と捉えられる面もある。これら江戸以前の文化からも、日本にはもともと「男性=常に支配/攻め」の固定観念が絶対視されず、多様な性表現を“芸能”や“風俗”として許容する土壌があったと推察される。
近代国家形成とともに、西洋の性道徳や刑法の導入により、一定の規制(わいせつ罪)が敷かれた。一方で戦後の復興期にかけてアンダーグラウンドなエロ文化やストリップ、ピンク映画などの分野は逞しく生き延びる。さらに、実写AVに対する“モザイク修正”が長年法制度上定着したことにより、直接的な生殖器描写の回避策として、触手や人外キャラ、ファンタジー設定が豊かに発展する下地を作った。
1970〜80年代以降のアニメ・漫画の隆盛、1980年代〜90年代の同人誌文化の爆発的成長が、二次元における極端な性表現を加速させた。
これらの歴史的・文化的脈絡が集約した結果、「男性がメスとして扱われる」コンテンツがファンタジーの枠内で多彩に展開され、自然と受容されていくという経路が形成されたとみなせる。
日本はOECD諸国の中でも長時間労働やサービス残業が常態化しており、過労死やメンタル不調が問題化している。そうした社会的圧力下で多くの男性が「仕事では常に責任を負わされ、強さを求められる」状態に置かれ、プライベートで“逃げ場”を欲する。被受動的な性的快感は、その逃げ場として大きな魅力をもつ。サキュバスやふたなりキャラの“圧倒的支配”を受けるファンタジーは、日常の疲れを洗い流すカタルシスを提供するのだ。
近年、恋愛や性行為に積極的でない「草食系男子」という現象が頻繁にメディアで取り上げられてきた。こうした男性たちは、そもそも“男性が攻める/リードする”という役割に強いモチベーションを感じていない。草食化は、男性性を誇示しなくてよい新しいライフスタイルを指向する動きとして捉えることができ、メスイキや被受動的性行為をファンタジーとして消費するのは、彼らの価値観と自然に合致する面がある。
逆に、依然として「強くあるべき」「稼ぎ・リーダーシップ」を社会・家庭から強要される男性も多い。その反動として、「せめてプライベートの性の場面くらいは、自分が支配される側になりたい」「女性的立場に没入したい」という欲求が生じるパターンも指摘される。“甘サドな責め”や“徹底的にメス扱いされる”シチュエーションは、過度な責任感から解放される手段として歓迎されやすい。
ここ数年、YouTubeやニコニコ動画を中心にASMRブームが起き、耳かき音や囁き声などの癒し系コンテンツが人気となった。この流れがアダルト方面に波及し、“サキュバス責めASMR”や“乳首オナニー誘導音声”などが同人販売プラットフォームで人気化する現象が起きている。
DLsite等の大手プラットフォームでは、同人音声・漫画・ゲームが簡単に購入でき、購入者はレビューやコメントで感想を共有する。こうしたコミュニティの存在が、「メス化するのは自分だけじゃない」と気づく機会を与え、“暗黙の同志”が多数いることを可視化する。結果として、さらに関連作品を漁るユーザーが増え、新たな作品が生み出されるという好循環が生まれる。
男性が実際にアナル開発を行い、“メスイキ”をリアル体験する人が増え、経験談をネットに投稿→さらに興味を持つ人が増える。
VR空間内で自分視点が女性化キャラになるものや、ふたなり相手にアナル責めされるシミュレーションなど、より没入度の高い次世代コンテンツの登場も指摘される。
メスイキ嗜好が大きく受け入れられている事実は、「男性は常に強く・攻める立場でなければならない」という従来のステレオタイプが揺らいでいることを示唆する。しかし、フィクション上で男性が“メス化”することと、現実社会で男性が女性的立場を尊重したりジェンダー平等を実践したりすることは必ずしも直結しない。
一見、サキュバスやふたなり女性による男性支配は“女性の主導権”を肯定しているようにも見えるが、実際は「男性にとって都合の良い女性上位ファンタジー」だという批判もあり得る。
日本では、歴史的に「創作と現実を分ける」風潮が強く、男性がメス化するような過激な二次元表現が広まっても、現実社会でジェンダー平等が急進するわけではない。この乖離が“自由な表現市場”を守ると同時に、“現実の制度や意識の変革”には直結しないというねじれを生んでいる。
欧米では実写ポルノ規制が緩やかな一方、コミックやアニメに対しては厳しい風潮があったり、宗教的道徳感から「悪魔・淫魔」要素が強く忌避されることもある。一方日本は、モザイク規制や現実の同意年齢の議論など、実写への規制は独特に厳しいが、二次元のファンタジー領域では極めて寛容である。この対照性が「サキュバス責め」「ふたなり」などを日本発で世界に広める要因になっていると見られる。
個別ユーザーの嗜好に合わせ、AIがリアルタイムでサキュバスやふたなりキャラを生成・ボイス指示するような“フルカスタム・メスイキ体験”が一般化するかもしれない。
日本の同人音声やアダルト漫画が海外にも翻訳され、海外ファンを取り込む動きが活発化。文化的差異を越えて受容されるか、あるいはローカルな好事例に留まるか注目される。
フェミニズム団体や保守団体による表現批判、あるいは国際的な法規制強化との軋轢が起こり、これまでのような自由度が維持できなくなる可能性もある。
雁琳(がんりん)@ganrim_
DS、ディープステートはやはり実在した。その一角がUSAIDだった。そして間違い無く、これから手が入るであろうCIAもそうだ。いや、ここに書いたらアホだと思われ余計な軋轢を起こすと考えて言わなかったけど、色々な情報を収集して繋ぎ合わせている内にずっと前から実在すると思っていたのですよね。
x.com/ganrim_/status/1888487955985297725
「ただその一角についてはずっと言ってきた、大学・出版のオープンレターズ(トランスジェンダリズム)→日本共産党・立憲民主党の野党共闘勢→アメリカ民主党関連、という筋書きについては。これもまた、日本におけるディープステートの伸びた枝の一つであるということです。ぶった斬りましょう。」
x.com/ganrim_/status/1888489047494107578
今出ている情報をどう小さく見積もったとしても、暇空茜が頑張って暴いていたWBPC問題の世界版(WBPCみたいな日本のポリコレ左翼問題にも間違い無く関係があると思いますが)がUSAIDだった、ということはほぼ間違い無いのですよね……
○○部の部長、○○委員長、学級委員長、イベントの実行委員…こういうのを兼任させられた。
長になれば、責任があるし、仕事ができるし、周りの協力を得るためにお願いしまわったり、
いう事を聞かない生徒を注意したり、しんどいばかりで碌なことがない。
周りが楽しく盛り上がってたりするところを、こちらは戒めないといけない。
中には信じられないような馬鹿なことをしだすやつもいる。
内申書に良いだろうと言われたりもするが、別にそんな加点はいらない。欲しいと思ったこともない。
部活の部長は仕方ないと思うけど、生徒会のナントカ委員長とか実質不要なものもあるし、やめた方がいいと思った。
少なくとも兼職させるのは、その生徒に負担が多いのでやめるべき。
増田だけど
>「かっこいい男の子が困っている女の子を助け、その身を心を傷付けながらも敵役をやっつけてくれる。」ってフォーマットはむしろ少年漫画のものじゃない?
同意する
https://anond.hatelabo.jp/20250128091127
引用する
>(「かっこいい男の子が困っている女の子を助け、その身を心を傷付けながらも敵役をやっつけてくれる。」
>これをメインのテーマにしがちなのが少年漫画じゃないの?と思ってしまったので。
>少女漫画にも悪役や敵役は珍しくない。だけど悪役・敵役を「外部との葛藤・軋轢」とより大きく敷衍すると、基本的にはその「外部にある軋轢・葛藤と戦う」がメインになるのが少年漫画だと思う。
>ぶっちゃけると外部の軋轢・葛藤とは、すでに上位を勝ち取っている他の「強いオス」である。
>主人公をより「強いオス」と戦わせ、最終的に勝利した主人公を新たな「強いオス」として魅せる。
>「困っている女の子を助ける」は動機になりやすく、同時にこの困っている女の子(特別な美形)は「強いオス」に与えられる褒美である。
続き。
(「かっこいい男の子が困っている女の子を助け、その身を心を傷付けながらも敵役をやっつけてくれる。」
これをメインのテーマにしがちなのが少年漫画じゃないの?と思ってしまったので。
少女漫画にも悪役や敵役は珍しくない。だけど悪役・敵役を「外部との葛藤・軋轢」とより大きく敷衍すると、基本的にはその「外部にある軋轢・葛藤と戦う」がメインになるのが少年漫画だと思う。
ぶっちゃけると外部の軋轢・葛藤とは、すでに上位を勝ち取っている他の「強いオス」である。
主人公をより「強いオス」と戦わせ、最終的に勝利した主人公を新たな「強いオス」として魅せる。
「困っている女の子を助ける」は動機になりやすく、同時にこの困っている女の子(特別な美形)は「強いオス」に与えられる褒美である。
少女漫画は、「内部との葛藤・軋轢の解消」がメインになることが多いように思う。少女は外部を打ち倒すことに興味がない。
「推しの子」で各キャラクターの内面の葛藤は描かれるので、そこで「少女漫画的」と言われるとわかったような気になったかもしれない。
増田は「フォーマットが」少女漫画と言っているので、自分が誤読している可能性はある。
ただ自分が思う「推しの子」が少女漫画たりえない理由。少女は誰に感情移入して読むだろうか?女性キャラクターの誰かであるなら、その少女は「困っている女の子を助けてくれるかっこいい男の子」アクアとの恋愛感情に強く惹かれているはずだ。この点で、アクアがフラフラしすぎで次から次へと他の美少女とのフラグを立てまくり、各々に濃い感情を持つが、誰に対しても決定打ではないというのは少女漫画として致命的なのではないだろうか。
ヒーローが主人公で、次から次へと現れる美少女と…という少女漫画もある。しかし少女漫画の場合、早い段階で「誰との」恋愛か?あるいは「誰とも」恋愛しないか?の軸を読者に示すように思う。)
ただ、エントリを読んで3年前にきたがわ翔が「鬼滅の刃」は少女漫画の技法をふんだんに取り入れている、と評したことを思い出した。
「鬼滅の刃は少女漫画である」プロ漫画家が『天使なんかじゃない』からの影響を断言する理由(プレジデント・オンライン)
https://president.jp/articles/-/52048?page=1
モノローグに話を絞っても、吾峠呼世晴がモノローグを多用したのは「少女漫画の技法を取り入れたから」というよりも「ストーリー展開を爆速で進めるため」という明確な目的があるように見えたからだ。
「鬼滅の刃」には、「このギミックがなければもっとページ数を費やすことになっていたはず」という設定が非常に多い。
主人公たちの超五感や鎹烏、ムキムキネズミたち、他にも多数あるが、
これらを使うせいでまだるっこしい説明をせずに済み、結果、非常に速いテンポで話を加速させることが可能になっている。
結果論ではあるが、その圧倒的なスピード感は読者に飽きさせず熱狂させるという効果を生んだ。
「鬼滅の刃」でのモノローグもその一つに思う。モノローグを使うことで1コマで済ませられている場面が全話にある、それも一話につき大量にある。
漫画なのに描かずモノローグで説明する、ある意味掟破りの表現だと思うが、鬼滅は成功した。
ストーリーを超スピードで進めても、作者の言語センスにより濃いドラマを作りだせていたからに思う。
少年漫画ではモノローグ、特にキャラの心情を読ませることを、少年漫画や青年漫画の作家は避けがちだ。
多用される場合、それはキャラの心情ではなく、戦況や状況を(読者向けに)解説することがほとんど。
心情を描くのにモノローグを多用するのは明確に少女・女性向け漫画の手法である。
しかしそれも約20年かそれ以上前に「モノローグを多用する表現手法は滅んだ。最後の使い手は吉田秋生である。」的な評論がぼんやり記憶に残っているのでよくわからん。
(吉田秋生は「BANANA FISH」ではほぼモノローグを封印していたが、そしてだからこそ終盤でほぼ唯一のモノローグに強烈な効果が生まれたが、そこはさておき自分がそのコラムを読んだときは「ラヴァーズ・キス」か「海街diary」を連載していたはず。)
作者が影響を受けた作家、作品として名前に挙げたのはすべて少年漫画か青年漫画の作家だが(吾峠呼世晴は初読み切りを描いたとき、ご家族から一番好きな雑誌に応募したらと言われてジャンプに持ち込んだという逸話がある。)、少女漫画を読んだことがあってもおかしくはない。
「推しの子」も「少年漫画と少女漫画の技法をブレンドしている」と言われれば、納得できたように思う。
作画自体がこのハイブリッドに感じる。おそらく女性のためか絵柄が柔らかく、目の表現に力があり、強い魅力を放っている。コマ割りや陰影の処理は青年漫画より。
個人的に、やはり「推しの子」のフォーマット自体は青年漫画に思う。
乱暴にカテゴライズするなら「推しの子」はハーレムもの、多くの美少女の間でいったりきたりする主人公という男性向けラブコメの亜種である。
どちらかというと、原作者の作家として育った環境が強く反映されているフォーマットに思われるため、これが「少女漫画から出てくる」という発想自体に驚く。
もし、「推しの子」が少女漫画だというのであれば、「推しの子」以前からとっくに青年漫画あたりに少女漫画は移行していたのではないだろうか。
また「推しの子」が少女漫画から出てきたのであれば、それは「少女漫画がやらなきゃならなかったこと」だからではなく、
「不法」移民を追い出すというのは、遠く離れた国から見ているだけなら
まっとうに聞こえても仕方がないけど、
詳しく見てくとなんかきな臭い話になってきたりすんのよ
ただしこの真偽は今のところ不明だ、始まって間もないのと「逮捕されているなら本人が真偽を証明できない状況にいるから」だ
取れないようになってるの
代わりにアメリカには「先住民族証明書」というのがあるんだけど…
なんで「移民か」というと、アメリカには新大陸は神がアメリカ人に与えたもうた「約束の地」だから、
アメリカ大陸にアメリカという偉大な国が誕生することは宇宙開闢のときに決まっていた運命であり、
先住民族たちは不当に侵入し、あまつさえ土地を奪った狼藉者である、
という主張があるのよ
荒唐無稽だと思う?
あなたはきちんとした普通の常識人なので想像が追い付かないんだと思う、
さて、トランプの「不法移民対策がまっとうである」と首肯する前に、
もう少し彼が「不法」移民と主張する人々がどういうグループを指しているか、調べてみてほしいと思う
またトランプ大統領や(DOGEで危うく米政府を「俺の宇宙開発のための使い放題財布」とすることに成功しそうだった)イーロン・マスクのどちらも、
移民については都合よすぎる玉虫色ということを知ったうえで、「まとも」かどうか判断すべきとも思う
たとえばイーロンマスクもトランプも「不法移民どもは赤ちゃんを生きたまま食べるような野蛮な奴らだ」といったポストをしてるよね
イーロン・マスクの経歴知ってる?
彼は南アフリカ生まれで、アメリカの永住権欲しかったけどうまくいかなかったのでカナダ経由でアメリカに学生として留学し、
不法移民と、トランプ大統領の移民対策両方について彼の玉虫色の意見を知ってもらいたい
アメリカは大失業時代で(人手不足時代でもあるんだが…)、国民の多くは物価高と収入減に喘いでいる
大衆としては歓迎したくなる態度だろう?
さて、トランプ大統領を支持してきたMAGAと呼ばれる支持層たちとトランプとの間で軋轢を生じさせているのが
これは特殊技能や高度な専門職である超高級人材に割り振られる就労ヴィザだが、
年間発給上限があるので各企業間では奪い合いとなっている
これに古くからのMAGA層※がかみついた
なぜならアメリカ人からすれば「移民が不当にアメリカ人から高給職を奪っている」話だからだ
だから当選前はトランプもこのH1Bヴィザに手を入れると約束していた
ところが当選後は手のひらを返した
だって彼、もともと自分の事業ではH1Bを大勢雇っていたんだもん
ていうか、奥さんも不正入国疑惑がいまだ晴れない移民なんだもん
もともと、トランプ自身には「移民」そのものを攻撃するつもりはないと思われる
ガンダムシリーズは1979年の『機動戦士ガンダム』放送開始以来、実に40年以上にわたって発展と進化を続けてきた巨大なメディアミックス作品である。その長い歴史においては数多くの派生作品や設定拡張、さらに小説や漫画、ゲームをはじめとするスピンオフが生まれ、今もなお新作が絶えず登場している。一方で、シリーズが長大化すればするほど、ファンコミュニティ内にさまざまな「こだわり」や「価値観の違い」も生じてくる。その中で昨今特に話題となるのが、いわゆる「一年戦争おじさん」と呼ばれるファン層だ。
「一年戦争おじさん」とは、初代『機動戦士ガンダム』に登場する一年戦争(宇宙世紀0079年から始まる連邦軍とジオン公国の戦い)を絶対視し、そこから外れる設定や作品を“ガンダムらしくない”“正史として認めない”と主張してしまうタイプのファンを揶揄する言葉である。もちろん一年戦争をこよなく愛するだけであれば、ただの好みの問題だ。しかし問題は、彼らの一部が新しい作品や異なる時代設定に対して攻撃的だったり、他者の好みに干渉しすぎたりするケースがあるという点にある。そうした態度が「有害な一年戦争おじさん」として批判される一因となっている。
彼らはなぜこうも一年戦争にこだわるのか。まず考えられるのは、1979年からのガンダムをリアルタイムで経験した世代、あるいはビデオやプラモデル、雑誌などを通じて“初代の衝撃”に強く感化された世代が、自分たちの「原体験」を何よりも重視しているという背景だろう。『機動戦士ガンダム』は、それまでのロボットアニメの常識を覆すようなリアルな戦争描写や群像劇、そしてプラモデル(ガンプラ)文化を生み出すなど、大きな社会現象となった。幼少期にそれを目の当たりにしたファンにとって、当時の熱狂と衝撃は特別な思い出であり、“ガンダムとはこうあるべき”という固定観念が強く根付くのも無理はない。
しかし、「ガンダムが好き=初代(または宇宙世紀)が絶対」という方程式は、近年のファンコミュニティにおいては必ずしも通用しなくなっている。ガンダムシリーズは大きく分けると宇宙世紀系と、それ以外の独立した世界観を持つアナザー系(『Gガンダム』『ガンダムW』『ガンダムSEED』『鉄血のオルフェンズ』など)に枝分かれしており、さらに宇宙世紀内にも『Zガンダム』『逆襲のシャア』『UC』『閃光のハサウェイ』など、数多くの作品が展開されている。もはや「ガンダム」と一言でくくっても、それぞれに異なるストーリー・設定・テーマを持った多彩な作品群になっているのだ。
にもかかわらず、「有害な一年戦争おじさん」は一年戦争こそが至高で、それ以外はすべてガンダムとは呼べない、あるいは認める価値が低いといった偏狭な主張をすることがある。具体的なエピソードとしては、新しいガンダムが発表されるたびにネット上やSNSで「こんなのガンダムじゃない」「富野(由悠季)監督が関わってないから駄作」などと早々に断じる、若いファンが語るアナザー系の魅力を嘲笑する、あるいはプラモデルに対して「やはりザクやガンダム(RX-78-2)が本命で、○○なんて邪道」などと強い調子で言い切ってしまうといった行動が挙げられる。
こうした振る舞いがファンダムに与える悪影響はいくつもあるが、その中でも特に顕著なのが「新規ファンの参入障壁を上げてしまう」という点だ。ガンダムシリーズはすでに膨大な設定を持ち、どこから見ればいいのか分からないという声もよく聞かれる。そこに対し、「本当のガンダムは一年戦争だけだ」「初代を見ないならファンではない」などと押し付ければ、初心者は萎縮してしまいかねない。もちろん、初代の重要性を説くこと自体は悪いことではないのだが、その言い方や姿勢が高圧的なものであれば、ガンダムに興味を持ちかけている人を遠ざける要因になってしまう。
さらに、「有害な一年戦争おじさん」はしばしば他の作品やファン同士の交流の場を“自分たちの思想”で塗りつぶそうとする傾向がある。例えばSNSや掲示板などで新作ガンダムについて語ろうとしても、「やっぱりガンダムは宇宙世紀じゃないとな」「○○監督なんて富野監督の足元にも及ばない」などというコメントが繰り返され、まともな議論が成立しなくなることも珍しくない。こうした現象は、結果的にコミュニティ内で対立や分断を生み出し、せっかく多様な楽しみ方を受け入れる余地のあるガンダムコンテンツの可能性を狭めてしまうのだ。
また、宇宙世紀作品や一年戦争そのものに強いこだわりを持つことは悪いことではない。作品世界への愛が深ければ深いほど、より詳しく設定を掘り下げて考察する楽しみもあるし、一年戦争を舞台にした外伝作品(『MS IGLOO』や『ザニーが登場する漫画作品』など)に注目することで、新たな切り口を見いだすこともできる。だが、「有害な一年戦争おじさん」が問題視されるのは、その深い愛情が排他主義や攻撃的な態度につながる場合が少なくないからだ。自分と同じくらい初代を崇拝しない人を“にわか”呼ばわりしたり、そもそもアナザー作品を語ろうとするファンを見下したりするような行動は、コミュニティ全体の雰囲気を悪くする大きな原因となる。
さらに、一年戦争の時代考証を「現実の軍事・政治的状況」に照らし合わせて論じる人々も少なくない。これはガンダムの世界観がある種のリアリティを大切にしていることの証でもあり、そこに惹かれるファンがいるのも理解できる。しかし、「有害なおじさん」は自分たちの“リアル論”こそが唯一の正解だと思い込み、他人の解釈や新解釈を一蹴する態度を取ることがある。たとえば「この機体は設定上あり得ない」「この時期にこんなMSは存在しない」などと、過剰に“リアル”を押し付けることで、多様な楽しみ方を否定してしまうのだ。
そして、こうした状況は次第に当事者以外のファンをも疲弊させていく。たとえばSNS上でガンダムについて呟くと、「その解釈は間違っている」「ちゃんと資料を読んでから発言しろ」と“マウント”を取られることがあり、ファン同士のやり取りが萎縮してしまう。また、イベント会場やプラモデル展示などリアルな場においても、一年戦争関連の作品や考証に異常な熱量で突っかかり、他のファンが楽しもうとする空気を壊してしまう例も耳にする。ガンダムは多様性を重んじる作品世界であり、多くのクリエイターがそれぞれの解釈やテーマで作品を生み出してきた経緯を考えると、こうした空気はあまりに残念としか言いようがない。
では、この「有害な一年戦争おじさん」問題にどう向き合えばいいのか。まず大切なのは、ファンコミュニティ全体が「自分の好きな作品を語るのは自由だが、他者の好きな作品を否定することは違う」という意識を共有することだろう。ガンダムは作品数が膨大であるがゆえに、自分の“推し”や“こだわり”を持ちやすい。それ自体はポジティブなことだ。しかし、それが「他の作品や意見を認めない」という姿勢につながっては、多様性がガンダムの魅力であるはずなのに、それを損なってしまう。
次に、若い世代や新規ファンが萎縮しないように配慮した場作りも必要だ。初心者には初心者なりの視点や疑問があるし、アナザー作品から入ったファンが後に宇宙世紀を好きになることだって十分あり得る。むしろ、入り口がどこであれ「ガンダムに触れて興味を持った」という事実こそが大切なのだ。そこを「いや、まずは初代を全部観ろ」や「一年戦争を知らないなんて話にならない」と圧をかけるのは、コミュニティ全体にとってマイナスだろう。作品世界を広げるためには、受け入れの姿勢が何よりも重要になる。
また、一年戦争こそが「リアルで硬派なガンダム」で、アナザー系は「子ども向け」や「リアルさが足りない」というステレオタイプなイメージも根強い。だが、実際にはアナザー系でも『ガンダムW』の政治劇や『SEED』の遺伝子差別問題、『鉄血のオルフェンズ』の社会構造批判など、リアルかつヘビーなテーマを扱う作品は多い。こうした多彩なテーマ性こそが、ガンダムシリーズ全体の魅力を支えているのであり、一年戦争だけが特別なわけではない。むしろ、宇宙世紀とアナザー系を併せて楽しむことで、ガンダムが描こうとしている「戦争」「人間性」「社会」の幅広さを再確認できるのではないだろうか。
さらに、宇宙世紀内の作品ですら、一年戦争を舞台にした『08小隊』や『0080』『0083』などは、初代から少し視点やテーマを変えて描かれている。その際にも、一部のファンから「こんなのは本当の一年戦争じゃない」と批判された例がある。だが、もともとガンダムという作品は多面的に戦争の悲惨さや人間模様を描くことを目指しており、一つの正解や正史しか認めないという態度は、ガンダムが持つ本来の魅力や思想に反するものではないか。ゆえに、「一年戦争」に対するこだわりも、ある程度の柔軟性を持って接するのが望ましい。
結局のところ、「一年戦争おじさん」が有害かどうかは、その人自身の立場や主張よりも、コミュニティにおける振る舞いに起因する部分が大きい。いくら一年戦争を崇拝していても、それを押し付けずに「自分はこう思う」「初代が好きだけど、他の作品も尊重したい」といった態度を示している人は、むしろ知識を共有し合える良き先輩ファンとなるだろう。問題なのは、自分の視点を唯一絶対のものとし、他の意見や好みを封殺してしまうタイプのファンである。これはガンダムに限らず、あらゆる長寿シリーズのファンダムで起こりうる軋轢と言える。
だからこそ、ファン同士が互いを尊重し合い、多様な切り口や解釈を認める姿勢が大切になる。ガンダムは「戦争を描くリアルロボットアニメ」であると同時に、「キャラクターを通じて人間性を問いかけるドラマ」であり、さらに「巨大産業として世界中に展開する商業コンテンツ」でもある。その多層的な側面を一括りにするのは困難であり、そこに魅力や可能性が詰まっているのだ。もしも“一年戦争だけ”という狭い視点に固執してしまえば、その豊かさの大半を見落としてしまうことになる。
以上を踏まえると、「ガンダムコンテンツにおける有害な一年戦争おじさん」は、単に宇宙世紀を愛するファンを指しているわけではない。むしろ、そうした愛情が誤った形で表出し、他者を排除しようとする態度が問題の核心にある。長寿シリーズとしてのガンダムがこれからも発展していくためには、新規ファンが参入しやすい環境と、多様な視点を受け入れる懐の深さが欠かせない。その一方で、ベテランファンが築き上げてきた蓄積や考察が大いに役立つ場面も多く、実際に後輩ファンを導く存在として機能しているケースもある。だからこそ、一年戦争ファン自身が自らの態度を省みるとともに、コミュニティ全体で「排他主義」に歯止めをかける仕組みを作ることが重要なのだ。
結論として、「有害な一年戦争おじさん」の存在は、ガンダムコンテンツの楽しみ方やファンコミュニティの健全さを損ねる要因になり得る。しかし、それを否定するだけでなく、彼らが抱く一年戦争への熱意や知識も、うまく共有・活用できればガンダムの魅力をより深く味わえるきっかけになるはずだ。問題なのは“一年戦争を好きかどうか”ではなく、“他を認められるかどうか”という姿勢にある。そしてガンダムという広大な世界を最大限に楽しむためにも、多様な視点や好みに対してオープンであることが求められる。もしガンダムの世界観が「戦争」によって多くの犠牲を生む愚かしさを描き出しているのだとすれば、ファンダムもまた、内部対立を生むのではなく、互いの違いを理解し合う歩み寄りこそが望ましいはずだ。そうすることで、ガンダムシリーズはこれからも世代や国境を超え、より多くの人々の心をつかんでいくことだろう。
世界中のメディアがイーロン・マスクを天才経営者として讃えるたび、心の奥底に沸き起こるのは猛烈な反発心だ。彼の壮大なビジョンや野心的な計画がもたらすインパクトは計り知れない。電気自動車での革新、宇宙事業への投資、さらにはSNSプラットフォームを買収して世界の言論空間を一変させようとする姿勢――どれをとっても、彼が稀有な才能を持つリーダーであることは否定できないだろう。しかし、その裏側には、人を顧みない強引さや、誰もが乗り気でない環境を一方的に変革しようとする独善性が垣間見える。彼は常に「未来を創る」と言うが、その方法に正当性はあるのか。私は強い疑問を抱かずにはいられない。
特に、彼がSNS上で見せる軽率な発言は、私の中にある嫌悪感をさらに増幅させる。刺激的なツイートで株価や暗号通貨の相場を乱高下させ、批判者を嘲笑し、炎上を煽るかのような行動を繰り返す姿は、リーダーというより権力を得た“トリックスター”のようだ。彼の言動を追いかける投資家や支持者は多く、SNSでは絶え間なく祭り上げられている。しかし、そうした「熱狂」が生まれるほどに、私は逆に強い反発を覚える。確かに並外れた頭脳や行動力を持つ人物ではあるが、その影響力をどう使うかという点で、彼はあまりにも無自覚ではないだろうか。
テスラの急成長がもたらした電気自動車市場の拡大は、間違いなく自動車産業に大きな変革をもたらした。それまでガソリン車が主流だった市場をひっくり返し、世界的な環境意識の高まりに合わせて時代を先取りする――その功績は称賛に値する。だが同時に、「内部告発を試みた社員への圧力」「過酷な労働環境」などが報じられるたび、私は苛立ちを禁じ得ない。美しい未来を掲げる一方で、その裏では「効率化」「革新」という名のもとに弱い立場の人々を切り捨ててはいないか。企業トップとして、多大な責任を負っているはずの人物が、利益とスピードのためなら人間性を犠牲にしても良いと思っているのではないか――そんな疑念が拭えないのだ。
さらにツイッターを買収したことによって、彼の性格がより露わになったと感じる。コンテンツ規制や言論の自由をめぐって賛否両論あるのは当然だが、長年にわたって築き上げられてきたプラットフォームの秩序を、一夜にして根本から覆そうとする様子には乱暴さを感じる。彼が純粋に「言論の自由」を守りたいと考えている部分もあるのかもしれない。だがそのやり方は、あまりにも一方的で、議論よりも強制が先に立っているように見えるのだ。市場やユーザーコミュニティに計り知れない影響を及ぼすのに、まるで実験場のように扱っている――そんな印象を拭えない。
イーロン・マスクを支持する人々は、彼の天才性に魅せられているのだろう。既存の常識を打ち破り、火星移住やハイパーループなど、大胆不敵な夢を語る。そのビジョンの壮大さは、多くの人の心を掴むだけのパワーを確かに持っている。だが私は、その華々しい夢の裏側を常に見てしまう。膨大な資金を動かし、何千何万という人々を働かせ、社会のルールを変えてしまうほどの権力を持っていながら、彼の言葉からは「共感」や「謙虚さ」が感じられない。むしろ「自分だけが正しい」という慢心が透けて見え、周囲を振り回すことで注目を集めているようにすら思う。
なぜここまで拒否反応が強いのか。それはひとえに、彼が持つ「影響力の大きさ」にある。誰かが極端な意見を言うこと自体は、表現の自由の範疇だろう。しかし、イーロン・マスクほどの知名度や資本力を伴う人間が放つ言葉は、社会全体を揺るがしかねない重みを持っている。ところが、その発言や行動に時として慎重さがまるで感じられないのだ。「自分はあくまで一般人としてツイートしている」というような言い訳をするが、何千万・何億というフォロワーがいる「一般人」など存在するはずもない。こうした言動を繰り返す彼に対して、憎しみすら覚えてしまうのは、私だけではないだろう。
また、彼のコミュニケーション・スタイルがしばしば相手を嘲笑するように感じられることも、嫌悪の理由だ。議論や批判に対して真摯に向き合うより、自分の正当性を訴え、批判者をからかったり攻撃したりする。そのような姿勢は、強いリーダーシップというよりは、単なる攻撃衝動に近いものではないかと思う。カリスマ性を持つトップがそのように振る舞えば、多くの人が追従し、さらに対立や分断が深まる構図が生まれるだろう。まるで、大きな声で威圧した者が勝つかのような、乱暴な言論空間を助長しているようにさえ感じる。
もちろん、メディアは過剰に彼を煽っている部分もあるかもしれない。私たちが知るイーロン・マスク像は、メディアとSNSを介して編集された一面だけだろう。しかし、そこから受け取れる情報だけでも十分に「過激」であることは間違いない。もし彼に穏やかで思いやり深い一面があったとしても、表に出るのは挑発的な発言や、予測不能な行動ばかり。まるで、彼は注目を浴びるために、あえて波風を立てているようにすら見える。そして、その姿勢こそが彼のカリスマを強化し、信奉者を増やす一方で、私のような反発を覚える人間を確実に増やしているのだ。
私はイーロン・マスクの実績をすべて否定するつもりはない。電気自動車市場の発展は、環境問題への意識を高め、産業構造を大きく変えるほどの影響力を持った。また、宇宙事業への参入によってスペース業界全体が活性化した面もあるだろう。だが、それらの「功績」がすべて肯定されるべきかというと、そうとは思えないのだ。なぜなら、そのプロセスや彼の姿勢に数多くの疑問や問題が散在しているからである。テスラの工場では社員への過重労働が報じられ、Twitter社の買収後には大量解雇が行われた。一方的なリストラは、社員だけでなく利用者の信頼も損ねる結果になったはずだ。
「革命児」と呼ばれる彼だが、そもそもその革命は誰のためのものなのか。人類全体の未来を切り開くために行動しているのか、それとも自己顕示と自己満足のためなのか。もちろん、野心や自己顕示欲が全否定されるわけではないし、彼のような強烈なビジョンに突き動かされてこそ社会が進歩する面もある。だが、そこに「協調」や「周囲への配慮」が欠けていれば、残るのは混沌と犠牲だけではないだろうか。彼の一連の言動を見ていると、より良い未来を本当に望んでいるのか、それとも周囲を振り回しながら称賛を得ることに酔いしれているのか、判断に迷ってしまう。
彼のメディア露出やSNSでの動向は常にセンセーショナルだ。発言のひとつひとつが見出しになり、多くの人が熱狂的に反応する。その状況がさらに彼の影響力を拡大し、支持者は彼を「現代の発明王」として崇拝する。だが、それは彼自身が意図して作り出しているイメージ戦略でもあるかもしれない。自動車からロケット、そしてSNS運営まで、多岐にわたる分野で「既存の常識を壊す男」としてのブランドを強烈に打ち出す。その裏には、おそらく綿密なマーケティングも働いているはずだ。
こうした「自己プロデュース」の巧みさもまた、私の嫌悪感をあおる。もし彼が本当に未来のためだけを思って行動しているのなら、わざわざ挑発的な言動を繰り返したり、周囲を見下すような態度を取ったりしないのではないか。むしろ、その尖った姿勢こそが注目を集める秘訣であり、巨額の利益を生み出すエンジンになっている――そう考えると、ますます彼への不信感が募るばかりである。
また、彼のビジネス戦略や資金調達の手法も、ときに「投機的」であるとして批判されてきた。彼のツイートひとつで暗号通貨の価格が乱高下する様子は、社会全体を巻き込む大博打のようにも見える。もちろん、投資家たちはリスクを承知のうえで参入しているのだろうが、そこに新たに巻き込まれる一般層もいるだろう。巨大な影響力を手にした人物が、その力をどこまで自制しているのか、外からは判断がつきにくい。彼がいかに「自由」を標榜したところで、そうしたパワーバランスの偏りは真の自由からはほど遠いのではないか。
イーロン・マスクが嫌いだ、と口にすると、彼を称賛する人々から「嫉妬」や「時代遅れの思考」と批判されることもある。しかし、それでも私は彼の一挙手一投足に警戒心を解くことができない。彼のような存在が絶対的支持を集める社会は、一種の危うさを孕んでいると感じるからだ。リーダーが強引に物事を推し進めることで、一見スピード感のある変革が進んでいるように見える。しかし、その過程で切り捨てられる価値観や人々の声を、私たちは本当に無視してよいのだろうか。
私が彼を憎む理由は、こうした「社会的影響」を踏まえてもなお、彼があまりにも自己中心的に感じられるからだと言えるかもしれない。自分のビジョンこそが絶対に正しいと信じ、批判する者には容赦なく噛みつき、さらには軽率な一言で世界中を混乱させる。そのカリスマが絶大だからこそ、多くの人が振り回されてしまう。それが彼の望む未来の形であれ、人々に「ついていかざるを得ない」状況を作り出すことこそが、彼の真の目論みなのではないか。そう疑ってしまうほど、彼の支配力は強力だ。
もちろん、この強烈な拒否感は私自身の問題でもある。彼のように型破りな人間を受け入れられない、自分の閉鎖的な思考が投影されているのかもしれない。あるいは、あれほど自由奔放にふるまいながら次々と成果を上げていく姿への嫉妬心や劣等感もあるのだろう。しかし、それでもなお、「イーロン・マスクが憎い」という感情は消えない。むしろ、その感情が湧き上がるほどに、彼の存在が大きいこと、そして社会全体に与えるインパクトが桁外れであることを痛感させられる。
だからこそ、私は敢えて彼を批判し続ける必要を感じている。イーロン・マスクのような人物を「天才」「革命児」として無条件に称賛する風潮は、危うい夢を見せると同時に、多くの問題を覆い隠してしまう可能性がある。私たちは、彼のような突出した才能を「絶対の存在」として祭り上げるのではなく、その言動の裏にある思惑や影響力の行使について常に疑問を持ち、検証し続けなければならない。彼がもたらす革新が本当に世界を良くしているのか、それとも特定の価値観や層だけが恩恵を受け、他の多くが犠牲を強いられているのか、冷静に見極める必要があるのだ。
最終的に、イーロン・マスクをどう評価するかは人それぞれだろう。彼の型破りな行動力こそが新しい地平を切り開く鍵になると信じる人もいれば、私のように憎しみや反発を覚える人もいる。しかし、多様な意見が存在することこそが社会を前進させる。この「憎しみ」の声すらも、一つの大切な批判的視点として意義があるのではないかと思う。彼の眩いばかりの成功とカリスマに目を奪われる一方で、その裏側で踏みにじられているかもしれない人々の声に耳を傾ける必要がある。そうでなければ、未来を創るという名のもとに、ただ独裁的な支配が生まれてしまうかもしれないのだから。
私は、イーロン・マスクの存在自体をすべて否定するわけではない。むしろ、彼ほどの影響力を持つ人間が、もう少し「他者に対する配慮」や「謙虚さ」を備えていれば、今よりももっと多くの人々から純粋に支持されるだろうに、と残念でならない。そして、この憎しみの感情は、そんな「あり得たかもしれない別の姿」への期待を裏切られ続けてきた結果なのだろう。私は彼の言葉を聞くたびに、ああ、また無責任な発言で誰かを傷つけているのではないか、と心配になる。その繰り返しが、私の中の反発心を強固なものにしているのだ。
イーロン・マスクが語る夢やヴィジョンは確かに魅力的だ。火星移住に胸を躍らせる人もいるだろうし、電気自動車によるクリーンな未来に希望を見いだす人もいるだろう。彼が巻き起こしているイノベーションは、間違いなく人類の歴史に残る大きな一歩でもある。だが、その過程で生まれる軋轢や混乱、そして彼自身の傲慢ともいえる態度を見過ごしてはいけない。そこには、私たちの社会が本来持つべき「相互理解」や「多様性の尊重」が欠けているように思えてならない。
だからこそ、「イーロン・マスクが憎い」という私の感情は、単なる個人の感情以上の意味を持つのだと信じたい。彼のように突出した存在が現れるとき、社会は否応なく揺さぶられ、さまざまな価値観の衝突が起こる。そのとき、無批判に称賛するだけでは、本質的な問題には気づけないかもしれない。むしろ、強い反発心を抱く人々の声にこそ、彼の手法や態度が孕む危うさが映し出されていると考えてもよいのではないか。
私たち一人ひとりが彼をどう捉えるかによって、社会の未来は微妙に変化する。もしイーロン・マスクが真に誰もが幸せになる未来を望んでいるのなら、批判や反発の声にも耳を傾け、何が問題とされているのかを真摯に考えてほしい。その一方で、私たちもまた、自分たちが彼に何を求めているのかを見直す必要があるのだろう。彼の冒険心に夢を見たいのか、それとも彼が作るかもしれない新たな秩序に身を委ねたいのか。そして、そうした未来像に抵抗を覚えるならば、なぜ覚えるのか。その理由を自分自身に問い続けることこそが、彼のような巨大な存在に対する「本当の対抗手段」になるはずだ。
私がイーロン・マスクに憎しみに近い感情を抱くのは、彼が象徴するものが、私たちの社会の抱える矛盾や欲望をはっきりと映し出しているからかもしれない。彼の波乱万丈の行動は、私たちの心の奥底にある「常識を超えたい」「歴史に名を残したい」という野心を代弁している。同時に、そのためには他者を踏みにじってもよいという暗黙の了解すら示唆している。私はそこに嫌悪感を覚えずにはいられない。より良い未来を見たいと思いつつ、その実現手段にどうしようもない違和感を覚える。この相反する感情が「憎しみ」という強い言葉となって表出しているのだ。
最終的に、イーロン・マスクを憎むかどうかは個人の価値観によるだろう。彼を救世主のように思う人もいれば、私のように嫌悪感を募らせる人もいる。ただ、どちらの感情も社会にとっては大切な警鐘であり、そこから生まれる議論や検証こそが真の進歩へと繋がっていくのではないかと思う。彼が生み出す革新の光と影を直視し、その功罪を冷静に評価する。それこそが、私たちが「イーロン・マスク」という巨大な存在と向き合うために欠かせない姿勢ではないだろうか。私が「イーロン・マスクが憎い」と感じるのは、きっと彼が放つまばゆい光の強さに目が焼かれ、影に潜む危険を見逃せないからなのである。彼は目を背けられないほどの影響力を持っているがゆえに、私たちに葛藤を強いる。だからこそ、その存在について問い続けることが、社会の未来にとっても重要なのだろう。
https://anond.hatelabo.jp/20250101200024
が、その性質上、「どれが差別か」で揉めるというのが30年以上起きている印象だ
ややこしい話をするが、現代において「差別主義者は差別されている」と一部で言える傾向がある
それを社会の大半が是としている以上、「差別は良くない」には目的語がつく、「◯◯を差別するのは良くない」のように
・社会的に不利益な区別をする(より重い昔からある差別:狭義)
となるだろう
1800年代、1900年代に問題になったのは狭義の差別行動だ、就職できないとか、結婚できないとか、人権がないとか
広義の話はもちろん昔からあっただろうが、問題になってきたのは最近の話だ
1800年代、1900年代半ばまでの話題の中心は先天的な属性だった
1900年代半ばから2000年代までの話題の中心は後天的な属性だった
そして1900年代末頃から台頭してきたのが自己選択した属性に対する差別だ
これは「オタク」とか「ネトウヨ」と同じで、そのレッテルが差別対象になると攻撃手段になるからだ
ネトウヨがわかりやすくて、「ネトウヨ差別者」は誰かを攻撃する際に「お前はネトウヨだ」というレッテル張りをするわけだ
すると多用しすぎると「ネトウヨの定義ってなんだよ」みたいな話になっていく
ややこしいがレイシストも差別対象なので、「レイシスト差別者」は誰かを攻撃する際に「お前はレイシストだ」と言うわけだ
まずここがややこしいんだけど
社会的な差別以外は差別ではないと思ってる層が居ると思う(厳密ではなくともグラデーションで存在する)
例えば「白人専用」が無くなった時点で人種差別は無くなったと思ってる人だが
こういう人たちは現代においてはあまり声を上げないことに注意が必要だと思う
より理想的に、個人の好き嫌いレベルで差別を無くそうという人達も大勢居て
それはまた究極的平等主義者と、属性至上主義者(例えば黒人至上主義、女性至上主義=過激フェミニスト)で混ざってると思う
彼らの主張は一部は素晴らしいが、行き過ぎると今度は自由主義者と軋轢を生む(最近のポリコレ界隈とかがそれ)
「レイシストは全員死刑にしろ」という主張があったとして、この人自身は死刑になるべきだと思うだろうか?
別にその必要はない、と思ってるのは目的語有り派の人だ、つまり「◯◯差別主義者は死ね」の意味だと捉えている
この人も死刑だろ、と思ってるのは目的語無し派の人で、つまり「差別とは行動であり、誰に対してもそうするべきではない」と思ってる人だ
どっちが正しいかというわけではなくて
差別を取り巻く社会現象からルールを学習した結果、どっちかになるんだ、議論を尽くしてない社会が悪い
例えばタトゥーがわかりやすい、自分でタトゥーを入れたことで温泉に入れなかったとして、それを差別だという人と、自己責任だという人がいる
元増田が言ってる焦点はこれ
どっちが正しいというわけではないが、日本は自己責任論者が多いと言われていると思う
奇妙に思うかもしれないが、例えば以前のアメリカにおいては「黒人差別」は存在するが「白人差別」は存在しなかったレベルと言って良いと思う
目的語が明確に存在しているから、黒人は白人に無限に要求するものだし、女性は男性に無限に要求するものだった
それが崩れてきたのは、定義問題がぐちゃぐちゃなせいと、狭義の差別がかなり減ったからだろうと思う
社会的不利益のみが差別派:じゃない方に対する差別など現代においてほとんど存在していない
こんな風に、自分の考える定義から出てきた結論が他の主義者の主張とかぶるから、話がぐちゃぐちゃになる
反属性至上主義者、例えば反フェミニストみたいなものが存在するが、彼らの主張と女性差別者の主張の見分けがつきづらい
結果どうなるかと言えば、男性vs女性のような、今までのは何だったんだ?というような陳腐な争いになってしまう
そしてLGBTQもややこしい、彼らが先天的なのか後天的なのか自己選択的なのかがわからないし、LGBTQの属性至上主義者もいるし、反ポリコレもいる
大してどうもしなくていい、誰かに何かを理解させようとか思わなくていいし、誰かに苛つく必要もない
対立煽りをしてるのはメディアであり商業主義であるということを忘れてはならない
テラスハウス新東京編は木村花が自殺に追い込まれた原因として有名になってしまった番組だ
出演者に香織という人がいた
新進気鋭のイラストレーターで、オタク系ではなくオシャレ雑誌に載っているタイプ
テラスハウスは男女6人の同居というテイで進むリアリティ番組だが、実際には一部のニートやフリーターなどは豪邸を楽しむために本当に住み込んでいたりするが、ほとんどの人は収録日にだけ通ってくる
香織は通い組であり、けっこうそのことをSNSでポロポロ漏らす
というかガチ富豪お嬢様の香織にとっては話題作りのためにテラスハウスに出されたこと自体が不本意で、「よくわからない男たちと本当に同居なんかしてないからね!」と知人友人らに表明したかったのだろう
でも香織のSNSをじっくり見ればわかるのだが、香織には長い付き合いの婚約者がおり、その相手はスープストック創業者のイトコのやはり上級国民の男である
番組収録中は忙しいからと香織は飼い犬を婚約者に預けており、その飼い犬の写真をはじめ、二人はテラスハウス進行の裏で「番組なんか嘘っぱちで僕らは愛し合ってます」というSNSでのコソコソした表明を絶やさなかった
金持ち子息令嬢同士で婚約済みでそのことを隠してもいないが、番組では翔平とラブっぽいことをやってた方がカメラによく映してもらえるから演技してるだけだった
そんなことはリアリティショーにはありがちなのだろうが、番組MCの山里亮太は「ネットで婚約者がいると噂になってる」とテラスハウスのサブ番組のようなYouTubeチャンネルでバラした
金持ちの坊ちゃんは、婚約者が低俗な番組に出てしまうのをただでさえ苦慮していたのに、許可なく自分まで晒し者にされて怒り金剛だった
その数シーズン前から、テラスハウスは「カメラの前ではいい格好してる演者の性根を暴く」路線になっていた
SNSの発達で、暇人が勝手に調べて番組側に垂れ込むことも増えたのだろう