明智光秀の足音Ⅶ(最終回)・細川ガラシャ
光秀に明智玉(珠)という三女がいた。
後に細川忠興の妻となり、そしてキリスト教の洗礼を受けて「細川ガラシャ」となる女性である。
そのガラシャの足音も聞いてみる。
ガラシャは、光秀がまだ北陸・福井にいる時に、生まれた娘である。
光秀が信長に仕えて以降、15歳の時に信長の主命婚にて細川藤孝(幽斎)の子である細川忠興と結婚し、京都長岡の勝龍寺城を居として、2年間を過ごした。
城内の庭園には、細川夫婦の仲睦まじい像も建てられている。
そして、「ガラシャおもかげの水」や枝垂桜も見事である。
また主郭の北側には、隅櫓は模擬ではあるが、堀は当時の姿であると云われている。
この勝龍寺城で2年間を過ごした後、本能寺事件の2年前に、忠興が丹後国12万石を与えられたことから八幡山城を経由して、丹後宮津城へ移ったとされている。
宮津城の面影は殆どない。
唯一、宮津小学校の正門が城門の遺構であるとのことである。
そして本能寺事件が起こった。
事件後、ガラシャは主犯の子ということで、丹後半島の味土野に幽閉されたとされる。
その後の秀吉のとりなしで幽閉は解除となり、ガラシャは大阪城南にある細川屋敷へと移ったとされる。
細川忠興は越中守の呼称があり、現在も跡地は越中公園、越中井、そしてカトリック玉造教会などとなっている。
越中井の標柱にはガラシャの辞世が刻まれている。
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
である。
ガラシャは細川屋敷へ戻った時から監視が付けられていて、外出もままならなかったようである。
しかし、抜け出してはカトリック教会へと出向いたと云われる。
そして屋敷内において密かに洗礼を受けた。
それが洗礼名ガラシャである。ラテン語で意味は恩恵である。
現在も越中井の隣にカトリック玉造教会がその教会であろう。
教会の正面には、ガラシャの像、そして高山右近の像も建てられている。
関ケ原の戦いを迎えることになる。
石田三成は、秀吉の時の大名を西軍に組させようと大名の妻たちを人質に取り始めた。
ガラシャも人質にされようとしたが、断固として拒否したガラシャ、細川屋敷が包囲され、家臣の介錯にて若い命を絶ってしまったとされている。
そのガラシャの墓は、大阪市淀川区の阪急沿線の崇禅寺に祀られている。
ガラシャが忠興と過ごした宮津城の大手川を挟んだ向かいにカトリック宮津教会がある。
明治時代に造られたものであるが、ガラシャを偲んで建てられたと云われる。
教会正面には和服姿のガラシャが凛として立っているのが印象的である。
ガラシャ、淀君、そして日野富子、戦国の男性社会において、自らの意思を貫き通した女性3傑であると思われる。
光秀の足音はここで終了させていただく。
数年前に光秀に関する短編を纏めたことがある。
拙作の宣伝で申し訳ないが、URLを記載させていただく。
【前編】https://fujishirorei.com/2018/07/27/第%ef%bc%98話%e3%80%80明智光秀の前半生/
【後編】https://fujishirorei.com/2019/09/07/明智光秀の後半生/
<完>