「軽蔑」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 軽蔑とは

2026-05-10

地方進学校から東大に行った私が、大学一年生に祈ること2

第二部 学び直せなかった一年

ここで、君に正面から語りかけたい。

君が今、大学一年生だとして。

あるいは、これから大学一年生になるとして。

たぶん君の中には、私に近い感覚が少しはあるはずだ。

なくてもいい。

あったとしたら聞いてほしい。

入学して最初の数週間、君は周りを見てこう感じるかもしれない。

「あれ、この人たち、思っていたほどすごくないな」

サークル新歓に行く。

先輩たちがわいわい騒いでいる。

話の中身はたいしたことがない。

昨日のサッカー試合

誰々が誰々を好きらしい、という話。

バイト先のクレーマーの話。

君はそれを聞きながら、心のどこかでこう思うかもしれない。

「俺はこんな話をするために東京に出てきたんじゃない」

その感覚を、私は否定しない。

その感覚は半分は正しい。

ただ、残りの半分について、私が二十年かけて学んだことを君に伝えたい。

人間雑談関係を作る。

雑談関係を作って、その関係の上に本当に大事な話を乗せる。

雑談飛ばして、いきなり大事な話だけをしようとする人間は、長い目で見ると誰とも何の話もできなくなる。

これは二十年後に私が痛感したことだ。

けれど十八歳の私は、これをまったく理解していなかった。

理解する気もなかった。

入学して一週間ほど経った頃、駒場キャンパスで一人の同級生と話す機会があった。

彼は私の語学クラスにいた。

名前は仮にKとしておく。

Kは首都圏の有名な私立中高一貫校から来ていた。

背が高く、髪を少し茶色く染めていて、笑うとき口を大きく開けた。

授業の最初自己紹介で、彼は言った。

サッカーをやってました。あと、文化祭実行委員やってました」

それを聞いた瞬間、私はKにあまり期待しなかった。

文化祭実行委員

あの私を退屈させた連中の、東京版だろう。

そう思った。

ところがKはよく話しかけてきた。

授業のあと、「飯行かない?」と私を誘った。

最初は断った。

二度目も断った。

三度目に、Kは少しだけ困った顔をして聞いた。

「お前、誰とも飯食わないの?」

「いや、自分のペースでやりたいから」

私はそう答えた。

Kは少し笑った。

「ふうん。じゃあ、気が向いたら声かけて」

そう言って行ってしまった。

そのとき私は、自分がKに少しだけ優越感を持ったのを覚えている。

Kは、誰かと一緒にいないと不安タイプだ。

私は違う。

私は一人でも平気だ。

から私のほうが強い。

そう思った。

これが間違いの始まりだった。

Kは、誰かと一緒にいないと不安だったのではない。

Kは、一緒にいる時間のもの価値あるものとして認識する能力を持っていた。

そのことを、私は二十年後に理解した。

語学クラスでは、よく数人で集まって、課題フランス語和訳を持ち寄って見せ合っていた。

私は最初、その輪に入った。

けれど私の和訳はたいてい一番正確だった。

少なくとも私はそう思っていた。

ある日、Kが自分和訳を読み上げた。

明らかに文法係り受けを間違えていた。

私は指摘した。

「そこ、違う。主語はこっちじゃない」

Kは「あ、ほんとだ。サンキュー」と言ってすぐに直した。

それはいい。

問題はその次だった。

別の同級生、仮にMとしておく。

Mが読み上げた和訳も間違っていた。

Mは地方進学校から来た、私と似たタイプの男だった。

私は同じように指摘した。

「Mも、そこ違う」

Mは少し顔を赤くして、「うん……」と言った。

Kが軽く笑いながら言った。

「お前、間違いの指摘の仕方、ちょっと冷たくない?」

私はKを見た。

「冷たい? 間違ってるから間違ってるって言っただけだろ」

「いやそうなんだけどさ。なんかこう、もうちょっと、『あ、ここ、俺もよくわかんないんだけど、こうじゃないかな?』みたいな感じ、ない?」

私は内心で軽蔑した。

出た。

「言い方」だ。

Kは内容で勝てないから、言い方の話に逃げている。

私はそう判断した。

私は何も言わず自分和訳しまってその場から去った。

その日から、その輪には行かなくなった。

数週間後、その輪がMを含めて続いていることを知った。

Mは最初、私と同じように地方から来た孤独秀才に見えた。

けれどMは、Kの輪の中で笑うようになっていた。

間違いを指摘されても、頭をかいて「あ、ほんとだ」と言うようになっていた。

Mは変わった。

私が変わらなかったのに対して。

私はMのことを軽く馬鹿にした。

妥協したのだと思った。

今になって思う。

妥協したのはMではなかった。

Mは学んだのだ。

私は学ばなかったのだ。

二十年後、Mはある官庁課長補佐になっていた。

風の噂で聞いた。

家族もいて、子供が二人いるらしい。

私はそのとき無職だった。

三度目の転職活動最中だった。

大学一年の夏、私は一つだけサークルに入っていた。

法律研究系のサークルだった。

入った理由は、内容が真面目そうだったからだ。

実際、内容は真面目だった。

週に一回、判例を読んで議論する会があった。

そこには二年生にSという先輩がいた。

Sは私とは違うタイプの賢い人だった。

判例を読むスピードは私と同じくらいだったが、議論ときの立ち回りがまったく違った。

Sは自分意見最初に出さなかった。

まず、後輩や他の人の意見を聞く。

そして誰かの意見の中でいいところを見つけて、「それ、いいですね」と言う。

それから自分意見を、その人の意見に乗せる形で出した。

「○○さんが言ったところに加えて、こういう論点もあるんじゃないかと思って」

そう言った。

私はSのやり方を、最初ずるいと思った。

あれは自分の頭で考えていない。

人の意見に乗っかっているだけだ。

そう思ってSを軽く見た。

ある日の議論で、私はSの意見根拠が弱いと感じた。

真正から指摘した。

Sさんの今の論理は、判例の射程を超えていると思います。○○判決あくまで△△の場合に限った話で、これを一般化するのは無理があるんじゃないですか」

Sは私を見た。

少しの間、何も言わなかった。

それからゆっくりと言った。

「うん、たしかにそうだね。射程の問題は僕も気になっていた。じゃあ、君だったらどこまで一般化できると思う?」

私は答えた。

私の答えは、Sが言うべきだった内容をより精密にしたものだった。

Sは「それ、いいね」と言って、私の意見議論全体に位置づけた。

私は勝った気がした。

サークルが終わったあと、別の三年生の先輩が私を呼び止めた。

「君さ、頭はいいよ。間違いなく。ただ、Sのこと、ちょっとなめてないか?」

「いえ、なめてはいないです」

「Sはね、あの場で君のために負けてくれたんだよ」

私はその言葉意味がわからなかった。

「Sは、あの場の議論をいいものにするために、自分意見を引っ込めたんだ。君に花を持たせたんだよ。それはSがバカからじゃない。Sのほうが、議論っていう場全体を見てるからだ」

私は不機嫌になった。

「いや、でも、内容としてSさん最初論理は間違っていました」

先輩はため息をついた。

「うん。まあ、そうかもしれない。でも君がこれから先、誰かと一緒に何かをやるなら、内容で勝つだけじゃ足りないよ」

私はその日、サークルをやめた。

正確に言えば、その日のうちにメールで退会の連絡をした。

理由は書かなかった。

二度とそのサークルには行かなかった。

夏休みに入る前、私はKにもう一度だけ会った。

Kは相変わらずにこにこしていた。

夏休みサークル合宿河口湖へ行くと言っていた。

彼女もできたらしい。

同じ語学クラス女子だった。

私はその女子を、可愛いとも可愛くないとも特に思っていなかった。

Kが別れ際に言った。

「お前さ、たまには誰かに頼ってもいいんじゃない?」

私は笑って答えた。

「誰かに頼って、その誰かが間違ってたらどうするんだ?」

Kは少し考えた。

「うーん。そうしたら、一緒に間違えて、一緒に直せばいいんじゃないかな」

私はその言葉を軽くいなした。

心の中で、「だから、お前は二流なんだ」と思った。

一緒に間違えて、一緒に直す。

そんなことに付き合っている時間はない。

私は一人で、間違えずに進む。

二十年後の今、私はKのあの言葉を一字一句覚えている。

正確には、二十年かけてようやく思い出せるようになった、と言うべきかもしれない。

ここで、君にもう一つだけ伝えたい。

私が地方進学校で身につけた「一人で考えたほうが正しい」という認知は、地方進学校の中ではたしか事実だった。

私の周りには、私より速く正解にたどり着ける人間がいなかった。

集団議論すれば、議論は私のレベルに引き下げられるか、私の意見が通らないかのどちらかだった。

から一人で考えるほうが効率が良かった。

その環境においては合理的戦略だった。

しか東京大学に来て、私の周りには私と同じか、私より速く正解にたどり着ける人間がたくさんいた。

その時点で、私は戦略を変えるべきだった。

もう一人で考えなくていい。

人と議論したほうが、自分一人で出せる答えよりいい答えが出る確率が高い。

人に頼っていい。

人に教わっていい。

人に「わからない」と言っていい。

それを大学一年生のうちに学び直すべきだった。

けれど私は学び直さなかった。

なぜなら、地方で身につけた認知は、私を東大まで連れてきた成功体験だったからだ。

それを捨てることは、自分人生否定することのように感じられた。

私は、変化が必要ときに変化を恐れた。

変化を恐れた本当の理由は、たぶんこうだ。

私には勉強で勝つこと以外に、自分肯定する根拠がなかった。

から勉強の戦い方を変えることは、自分のものを失うことのように感じられた。

後になって考えれば、ただの臆病だった。

けれど当時の私は、自分が臆病であることにまったく気づいていなかった。

しろ自分のことを強い人間だと思っていた。

孤独に耐えられる人間こそが強い人間だと思っていた。

孤独に耐えられない人間は、弱いから群れるのだと思っていた。

これは私の人生で、最も大きな勘違いの一つだった。

孤独に耐えられる、というのは強さではない。

ただの不器用さだ。

そしてその不器用さは、時間が経つほど修正が難しくなる。

大学一年の終わり。

私の春学期と秋学期の成績は、ほとんどがAとA+だった。

優三つの「優三つ」というやつだ。

私は自分選択は正しかったと再確認した。

一人でやれば結果が出る。

けれどその学年末駒場生協の前で、語学クラスのKたちが五、六人で集まって笑いながら写真を撮っているのを見た。

Kの隣にはMもいた。

Mは四月のときと比べて別人のように、いい顔で笑っていた。

私はその輪を遠くから見ていた。

その輪の中に入りたいとは思わなかった。

ただ、奇妙な感覚があった。

あいつらは、たぶんこれから先、どこかで会うのだろう。

結婚式に呼んだり。

子供の話をしたり。

転職相談をしたり。

俺には、たぶんそういう相手はいない。

それは感傷ではなく、観測だった。

私はその観測を、すぐに頭の中から押し出した。

別に必要ない」

そう自分に言い聞かせた。

その夜、私は寮の自分の部屋で二年生の科目の予習を始めた。

ここで私は、君に最も伝えたいことの一つを書く。

地方進学校から東大に行ったことの本当の不幸は、東大に行けたことではない。

本当の不幸は、自分天井を知るのが遅すぎたことだ。

もし私が首都圏中高一貫校に通っていたら。

私の家にそれだけのお金があったかどうかは別として。

もし通っていたら。

私は十二歳か十三歳のうちに、自分より賢い人間出会っていただろう。

自分より速く問題を解く人間

自分より深く考える人間。

自分より多くを知っている人間

そして、自分より性格のよい人間に。

そのとき私は悔しかたかもしれない。

泣いたかもしれない。

けれど十二歳の私はまだ柔らかかった。

十二歳のうちに負けることは致命傷にならない。

十二歳の負けは回復する。

十二歳の負けからは、人に頭を下げることを学べる。

十二歳の負けからは、「わからいから教えて」と言うことを覚えられる。

ところが私は、地方進学校で十八歳まで誰にも負けなかった。

私の認知の中で、「負ける」という選択肢が十八歳の段階ですでに消えていた。

そして十八歳で東大に入った瞬間、私は相対的普通人間になった。

このとき初めて、自分より上の人間出会った。

けれど、そのときにはもう遅かった。

十八歳の私は、十二歳の私のようには柔らかくなかった。

私は上の人間に頭を下げるかわりに、上の人間を見ないことにした。

上の人間と並走するかわりに、自分のレーンに引きこもった。

上の人間から学ぶかわりに、「あいつは要領がいいだけだ」と評価することにした。

これらは全部、私の防衛反応だった。

私の防衛反応は、地方進学校の中では合理的だった。

けれど東大の中では、もう合理的ではなかった。

私は戦場が変わったのに、武器を変えなかった。

それが私の人生で最大の戦略ミスだった。

から君がもし、地方から東京大学に出てきたばかりでこれを読んでいるなら、聞いてほしい。

早く、負けてくれ。

自分より明らかにすごい人間に会ったら、嫉妬する前に頭を下げてほしい。

「教えてください」と言ってほしい。

自分天井を知ることは不幸ではない。

それは君の性格を守るための救済だ。

天井を知らないまま二十代に入った人間は、たいてい私のようになる。

私のようになるな。

これは命令ではない。

お願いだ。

続き→https://anond.hatelabo.jp/20260510234046

2026-05-09

金持ちじゃないのに子供を作るとか考えられない

自分努力不足のツケを子供押し付けるとかよくそんな酷いことができるなと軽蔑してる

俺の父親金持ちだったし、俺も金持ちになってから子供を作った

この世は生まれが最も重要場所なんだから子供に有利な条件を与えてあげればいいのに

2026-05-08

anond:20260508100501

デモやってる団体政党がやればやるほど顰蹙を買って人、票、金、若さ時間を失っいどんどん消耗していった結果待っているのは彼らの仲間内でのエコーチェンバー、周囲から冷笑軽蔑により煮詰まった思想の影響でより危険攻撃的な存在になった無敵の人の量産だからちゃん批判してある程度のところで自発的にやめさせた方がいいんだよ

あん暴力の素質がある人たちを完全放置したらそれこそ戦争が始まっちゃう

2026-05-06

高位人外人間結婚した際に受ける社会的偏見とは?

高位人外人間結婚した際に受ける社会的偏見は、人間を「下位生物」とみなす彼らのコミュニティ視点から、極めて厳しく、かつ屈辱的なものとして描かれています

主な偏見の内容は以下の通りです。

1. 倫理的生理的な拒絶(獣姦異常性欲としての扱い)

高位人外コミュニティにおいて、人間との結婚ペット獣姦して入籍した本物の狂人という、生理的嫌悪感を伴う認識をされる可能性があります

2. 社会的地位の低下と「非モテ」の烙印

高位人外同士で対等な結婚可能スペックがあるにもかかわらず、あえて下位生物を選ぶことは、本人の社会的評価を著しく下げる要因となります

3. 人間配偶者に対する「哀れみ」と「嫌悪

高位人外女性同族女性からは、人間との結婚に対して、特有軽蔑が向けられることが示唆されています

4. 次世代ハーフ)への偏見

二人の間に生まれ子供についても、社会的な困難が予想されます

このように、高位人外から見た人間との結婚は、単なるロマンスではなく、社会的コストを支払い、同族から軽蔑や哀れみに晒される行為という側面が強調されています

高位の人外人間婚姻関係ファンタジーに関する考察

高位の人外存在(上位存在)が人間(下位生物)と婚姻関係を結ぶことについて、人外側のコミュニティから視点は、以下のいくつかの側面から考察されています

1. 倫理的生理的拒絶反応差別

多くの意見では、上位存在にとって人間との婚姻は、人間ペット家畜と性行為に及び、入籍するような「狂気として映るとされています

2. 社会的カーストの低下

上位存在コミュニティ内での相対的地位の低さが指摘されています

3. コミュニケーションと生態の乖離

上位存在人間の間には、埋めがたい「種としての格差存在します。

4. 考察のまとめ:人外側の視点残酷

人間側の視点では「一途な愛」や「身分差を越えた純愛」に見える物語も、上位存在社会から見れば、「知能の低いペットガチ恋して性処理も兼ねているキショい奴」という非常にグロテスクで厳しい評価さらされる可能性が高いと結論付けられています

高位人外男性×人間女性は人気のファンタジーですが

高位人外コミュニティにおいて、人間との結婚は「ペット獣姦して入籍した本物の狂人」や「異常性欲者」のようなものとして認識される可能性があります

これは、人間が飼い犬に対して性的に興奮し、プロポーズして婚姻届を出すような状況に例えられます

人間は高位人外に比べて知能が低く無力であるとされるため、人間欲情することは「無力な乳児に興奮する小児性愛者」のような位置付けで軽蔑されるという意見があります

また、人間に惹かれること自体が何らかの「フィリア(愛好症)」として病理化される可能性も示唆されています

同等のスペックを持つ高位人外同士で結婚できるはずなのに、あえて下位生物を選ぶことで、人外社会における男性側のカーストが低いとみなされることがあります

自国女性相手にされず、貧しい国の年端も行かない少女を買い叩きに行くような、卑屈な人間関係の構図に例えられています

高位人外女性からは、「哀れみ」や「嫌悪感」を持って見られる傾向があります

人間との関係が、知的なハンデがある存在一方的搾取しているように見え、「動物虐待から保護しなければならない」という倫理的批判対象になる可能性もあります

高位人外長命であるため、ハムスターのように寿命が短い人間との恋愛に本気になることは「異常性癖」として扱われる要因となります

2026-05-03

彼女への未練を断ち切るため、彼女のことを忘れるぐらい、

運動とかギターとか作曲とか絵とか頑張ろうと思った…😟

彼女仕事バリバリしてるし、裏ではどこかの男とケツ毛バーガーしてるのかもしれない、

でも、ボクとケツ毛バーガーしてくれるわけじゃない、

彼女はボクに興味がない、ボクを性的対象として見てくれない、

ボクは彼女性的対象として見てるだけでなく、人間として尊敬してるし、

欠点の部分は軽蔑というより、治してほしい気がするけど、

トータルで、ボクは彼女尊敬しているのだ、人間として…😟

ボクも彼女尊敬されるようなちゃんとした社会人になりたいし、

でも、ボクは訳あり人間だし、今からまともな人間になるのは不可能から

ボクなりの最善を尽くして、ボクなりの結果を出して、

きっと、それでひとりで死ぬんだろうけど、もうそれでいいや…😟

ボクは結局、何者にもなれないし、なれなかったし、なろうとも思わなかったけど、

平凡な絵の能力と、平凡な音楽能力が残った、

コンピュータに関する知識経験は、AIの登場とかで意味がなくなった、

碌な人生じゃなかった、不幸が多かった、そして、これからもっと多くの不幸が待ってる気がするけど、

これがボクの人生なんだ、これがボクの等身大だったんだ、

ある意味、後悔なんてない、最初から期待がないようなもの、期待すべき未来がなかったんだ、

このくだらない人生の総決算をして、何か形にして、それをボクの墓標にしようと思う…😟バイバイ

Google転職エントリでバズった某氏の変貌が見ていて辛い

マジで辛い

Google転職エントリ読んで影響受けた過去自分を消したい

最近中国称賛と日本disもやもやしてたけど

中国割れ筐体の店を好意的ポストしてるのをみてフォロー外した

から日本が嫌いなんだろうってことも薄々察してたし

日本より凄い中国が大好きなんだろうってこともわかってた

でも割れ筐体で遊び放題の中国は凄いをやるとは思ってなかった

窮屈な日本よりゆるい中国が大好き とかつてその人は言っていたけれど

違法筐体遊べる方が優れているという価値観なんか理解したくもない

どんなに優れた人でも割れサイトブクマしてたら冷める

能力が秀でていても人間としてのモラルがない人のことは軽蔑する

それと普通に良識的な中国からも消したほうが良いと諭されてるのに消さないところが本当にキツイ

anond:20260503142446

魔法の国ザンス」は、魔法を使えるのが当たり前の国で生まれ青年魔法を使えないがゆえに、魔法の国ザンス追放されるところから始まる物語

ピアズ・アンソニィ作のファンタジー小説で非常にユーモア色が強く、数十年前にはオススメ海外ファンタジーを挙げていけば最初の方に行き当たる作品だった。

のだが、性的小ネタが多く、昨今ではコンプラ的にアウトラインにかかっていて大手を振って紹介されることは最早無いだろう。

以下ネタバレになるが代表的性的ギミック



ある女性キャラ魔法の力により1ヶ月の中で容姿がとても美しい状態から、とても醜い状態へと変化していく。

一方で知能や知性は逆をたどる。

最も美しい状態の時が頭がパッパラパーで、最も醜い状態ときに知性がとてつもなく高くなる。

作品の中で、それは女性生理暗喩すると同時に最も美しいときに最も知性が低くなるという状態は様々な想像を起こさせる。

この設定の物語を書いて発表するのは、今の時代には若干の困難を伴うかもしれない。

また別のキャラクターは、極めて美しく性的な魅力に溢れているケンタウロスなのだが、

SEXに対しての道徳心が極めて高く自身欲情するオスを軽蔑する傾向にある。

また魔法に対する懐疑心がこの世界ケンタウロス一般的に強いという設定なっている。

しかし、ある事件が起きて、ザンスで一切の魔法が使えなくなるとそのケンタウロス性的で魅力溢れた容姿は崩れていき、誰からも注目されない存在となる。

実はそのケンタウロス自身は知らないうちに「魅了」の魔法を常時発動していたのだが、それを失った途端にそれまでの特権的な扱いを他者から受けなくなる。

その経験を通じて、そのケンタウロス魔法自身性的魅力が溢れていることに対する考え方を許容する方向へと変えるようになる。

と言った具合に、どうにも今の世の中ではキャンセルされそうな内容を多分に含んでいるのだ。

ハヤカワの古いFTシリーズは同作品も含めて、電子書籍から完全に置いてけぼりにされており、書籍の方も入手が困難状態が続いている。

ザンスもそうだが「妖女サイベルの呼び声」のような名作も無視されていて電子書籍化されないのは残念でならない。

2026-04-30

世界にXが翻訳されるようになって日本人男の醜悪さに世界軽蔑の目を向けてるのやっぱりこいつら最悪なんだなって正解気分だね

主語デカ~大多数はマトモな男です~なんていって、キモいポストに何万もいいねついて拡散されてる時点でマトモな奴出てこいよって話

世界にXが翻訳されるようになって日本人男の醜悪さに世界軽蔑の目を向けてるのやっぱりこいつら最悪なんだなって正解気分だよ

主語デカ~大多数はマトモな男です~なんていって、キモいポストに何万もいいねついて拡散されてる時点でマトモな奴出てこいよって話

anond:20260430153812

リアクションが薄いのはお菓子食べてないからだよ

お菓子よく食べる人はバカみたいに笑ったり怒ったりしてるから軽蔑する

SNSデジタルコンテンツは、男女間の相互理解を困難にし、対立を深める多角的な影響を与えています。主な影響は以下の通りです。

1. 有害個人可視化と増幅

SNSの普及により、極端で有害な異性の言動可視化されやすくなったことが、若い世代の異性観に影響を与えています

2. デジタルコンテンツによる異性観の歪み

現実の異性との交流よりも、商品化・美化されたデジタルコンテンツ依存することで、感性が歪む可能性が指摘されています

3. 同性社会への回帰安全志向

対立トラブルを避けるため、デジタル技術を介して「同性との交流」や「ソロ活」へ逃避する動きが加速しています

4. 国際的な悪評の拡散

SNS上の発言自動翻訳されて拡散されることで、対立国内にとどまら国際的問題として認識されるようになっています

このように、SNSデジタルコンテンツは、異性の「負の側面」を強調して見せると同時に、現実コミュニケーション代替・歪曲することで、男女の心理的距離さらに広げる役割果たしてます

2026-04-29

あくま個人的に思ってるだけだけど、名探偵コナン映画を観に行く人間を心底軽蔑している

だってこの漫画って本来ならばとっくに黒の組織と決着を付けて終わっていてもいい筈なのに、映画が大きなコンテンツになりすぎたせいで終われなくなってるじゃん

このまま行くとベルセルクグイン・サーガのように作者が生きてるうちには終わらず、後任に引き継いでそれでも終わらず延々と続いていきそう

そんなふうに元の作者がいなくなった後の作品は、同じ作品とすら呼びたくない

まり、本当の意味ファンならば作品が綺麗に終わる事を望むべきであって

映画を観に行く事は作品に対する最大のアンチ行為と言っていい 

許せない

2026-04-27

釜山ゲストハウス小便テロ事件

外国人が~犯罪する~入れるな~!!といいながら、次々に外国で最低の犯罪を犯し国辱をばらまく日本人y染色体

ラオス児童買春したり、痴漢繰り返したり、もう世界中からクソキモいゲスどもと軽蔑されてる

心底迷惑

お前らこそ出ていけよ

2026-04-24

anond:20260424220527

自分が嫌いで食べたくない食材を好む他人を最大限に軽蔑してそう、しかもそれを本人の前では絶対に明らかにせずむしろ親切に接してそう、つまり下衆野郎

anond:20260424214131

増田はなにも間違ってない

ワイも二次創作10年後ですって言いながら乳だけやたらでかいのに他のパーツはそのまんまとかいう性欲の癌みたいなイラストを見て

こいつ高校中退してそうな頭してるなって思ったわ

反省しなくていい。心の中で軽蔑してそっとじが正解

2026-04-23

お伽草紙

太宰治


「あ、鳴つた。」

 と言つて、父はペンを置いて立ち上る。警報くらゐでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾かぶせ、これを抱きかかへて防空壕にはひる。既に、母は二歳の男の子を背負つて壕の奥にうずくまつてゐる。

「近いやうだね。」

「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」

「さうかね。」と父は不満さうに、「しかし、これくらゐで、ちやうどいいのだよ。あまり深いと生埋めの危険がある。」

「でも、もすこし広くしてもいいでせう。」

「うむ、まあ、さうだが、いまは土が凍つて固くなつてゐから掘るのが困難だ。そのうちに、」などあいまいな事を言つて、母をだまらせ、ラジオの防空情報に耳を澄ます

 母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう壕から出ませう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段絵本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。

 この父は服装もまづしく、容貌も愚なるに似てゐるが、しかし、元来ただものでないのである物語創作するといふまことに奇異なる術を体得してゐる男なのだ

 ムカシ ムカシノオ話ヨ

 などと、間まの抜けたやうな妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのづから別個の物語が※(「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88)醸せられてゐるのである

[#改頁]

瘤取り

ムカシ ムカシノオ話ヨ

ミギノ ホホニ ジヤマツケナ

コブヲ モツテル オヂイサン

 このお爺さんは、四国阿波剣山のふもとに住んでゐたのである。(といふやうな気がするだけの事で、別に典拠があるわけではない。もともと、この瘤取りの話は、宇治拾遺物語から発してゐものらしいが、防空壕の中で、あれこれ原典を詮議する事は不可能である。この瘤取りの話に限らず、次に展開して見ようと思ふ浦島さんの話でも、まづ日本書紀にその事実がちやんと記載せられてゐるし、また万葉にも浦島を詠じた長歌があり、そのほか、丹後風土記やら本朝神仙伝などといふものに依つても、それらしいものが伝へられてゐるやうだし、また、つい最近於いては鴎外の戯曲があるし、逍遥などもこの物語舞曲にした事は無かつたかしら、とにかく、能楽歌舞伎芸者の手踊りに到るまで、この浦島さんの登場はおびただしい。私には、読んだ本をすぐ人にやつたり、また売り払つたりする癖があるので、蔵書といふやうなものは昔から持つた事が無い。それで、こんな時に、おぼろげな記憶をたよつて、むかし読んだ筈の本を捜しに歩かなければならぬはめに立ち到るのであるが、いまは、それもむづかしいだらう。私は、いま、壕の中にしやがんでゐるのである。さうして、私の膝の上には、一冊の絵本がひろげられてゐるだけなのである。私はいまは、物語の考証はあきらめて、ただ自分ひとりの空想を繰りひろげるにとどめなければならぬだらう。いや、かへつてそのはうが、活き活きして面白いお話が出来上るかも知れぬ。などと、負け惜しみに似たやうな自問自答をして、さて、その父なる奇妙の人物は、

ムカシ ムカシノオ話ヨ

 と壕の片隅に於いて絵本を読みながら、その絵本物語と全く別個の新しい物語を胸中に描き出す。)

 このお爺さんは、お酒を、とても好きなのである。酒飲みといふものは、その家庭に於いて、たいてい孤独ものである孤独から酒を飲むのか、酒を飲むから家の者たちにきらはれて自然孤独の形になるのか、それはおそらく、両の掌をぽんと撃ち合せていづれの掌が鳴つたかを決定しようとするやうな、キザな穿鑿に終るだけの事であらう。とにかく、このお爺さんは、家庭に在つては、つねに浮かぬ顔をしてゐるのである。と言つても、このお爺さんの家庭は、別に悪い家庭では無いのである。お婆さんは健在である。もはや七十歳ちかいけれども、このお婆さんは、腰もまがらず、眼許も涼しい。昔は、なかなかの美人であつたさうである若いから無口であつて、ただ、まじめに家事にいそしんでゐる。

「もう、春だねえ。桜が咲いた。」とお爺さんがはしやいでも、

「さうですか。」と興の無いやうな返辞をして、「ちよつと、どいて下さい。ここを、お掃除しまから。」と言ふ。

 お爺さんは浮かぬ顔になる。

 また、このお爺さんには息子がひとりあつて、もうすでに四十ちかくになつてゐるが、これがまた世に珍しいくらゐの品行方正、酒も飲まず煙草も吸はず、どころか、笑はず怒らず、よろこばず、ただ黙々と野良仕事、近所近辺の人々もこれを畏敬せざるはなく、阿波聖人の名が高く、妻をめとらず鬚を剃らず、ほとんど木石ではないかと疑はれるくらゐ、結局、このお爺さんの家庭は、実に立派な家庭、と言はざるを得ない種類のものであつた。

 けれども、お爺さんは、何だか浮かぬ気持である。さうして、家族の者たちに遠慮しながらも、どうしてもお酒を飲まざるを得ないやうな気持になるのであるしかし、うちで飲んでは、いつそう浮かぬ気持になるばかりであつた。お婆さんも、また息子の阿波聖人も、お爺さんがお酒を飲んだつて、別にそれを叱りはしない。お爺さんが、ちびちび晩酌をやつてゐる傍で、黙つてごはんを食べてゐる。

「時に、なんだね、」とお爺さんは少し酔つて来ると話相手が欲しくなり、つまらぬ事を言ひ出す。「いよいよ、春になつたね。燕も来た。」

 言はなくたつていい事である

 お婆さんも息子も、黙つてゐる。

「春宵一刻、価千金、か。」と、また、言はなくてもいい事を呟いてみる。

「ごちそうさまでござりました。」と阿波聖人は、ごはんをすまして、お膳に向ひうやうやしく一礼して立つ。

「そろそろ、私もごはんにしよう。」とお爺さんは、悲しげに盃を伏せる。

 うちでお酒を飲むと、たいていそんな工合ひである

アルヒ アサカラ ヨイテンキ

ヤマヘ ユキマス シバカリ

 このお爺さんの楽しみは、お天気のよい日、腰に一瓢をさげて、剣山にのぼり、たきぎを拾ひ集める事である。いい加減、たきぎ拾ひに疲れると、岩上に大あぐらをかき、えへん! と偉さうに咳ばらひを一つして、

「よい眺めぢやなう。」

 と言ひ、それから、おもむろに腰の瓢のお酒を飲む。実に、楽しさうな顔をしてゐる。うちにゐる時とは別人の観がある。ただ変らないのは、右の頬の大きい瘤くらゐのものである。この瘤は、いまから二十年ほど前、お爺さんが五十の坂を越した年の秋、右の頬がへんに暖くなつて、むずかゆく、そのうちに頬が少しづつふくらみ、撫でさすつてゐると、いよいよ大きくなつて、お爺さんは淋しさうに笑ひ、

「こりや、いい孫が出来た。」と言つたが、息子の聖人は頗るまじめに、

「頬から子供が生れる事はござりません。」と興覚めた事を言ひ、また、お婆さんも、

いのちにかかはるものではないでせうね。」と、にこりともせず一言、尋ねただけで、それ以上、その瘤に対して何の関心も示してくれない。かへつて、近所の人が、同情して、どういふわけでそんな瘤が出来たのでせうね、痛みませんか、さぞやジヤマツケでせうね、などとお見舞ひの言葉を述べる。しかし、お爺さんは、笑つてかぶりを振る。ジヤマツケどころか、お爺さんは、いまは、この瘤を本当に、自分可愛い孫のやうに思ひ、自分孤独を慰めてくれる唯一の相手として、朝起きて顔を洗ふ時にも、特別にていねいにこの瘤に清水をかけて洗ひ清めてゐるのであるけふのやうに、山でひとりで、お酒を飲んで御機嫌の時には、この瘤は殊にも、お爺さんに無くてかなはぬ恰好の話相手である。お爺さんは岩の上に大あぐらをかき、瓢のお酒を飲みながら、頬の瘤を撫で、

「なあに、こはい事なんか無いさ。遠慮には及びませぬて。人間すべからく酔ふべしぢや。まじめにも、程度がありますよ。阿波聖人とは恐れいる。お見それ申しましたよ。偉いんだつてねえ。」など、誰やらの悪口を瘤に囁き、さうして、えへん! と高く咳ばらひをするのである

ハカニ クラク ナリマシタ

カゼガ ゴウゴウ フイテキテ

メモ ザアザア フリマシタ

 春の夕立ちは、珍しい。しかし、剣山ほどの高い山に於いては、このやうな天候の異変も、しばしばあると思はなければなるまい。山は雨のために白く煙り、雉、山鳥があちこちから、ぱつぱつと飛び立つて矢のやうに早く、雨を避けようとして林の中に逃げ込む。お爺さんは、あわてず、にこにこして、

「この瘤が、雨に打たれてヒンヤリするのも悪くないわい。」

 と言ひ、なほもしばらく岩の上にあぐらをかいたまま、雨の景色を眺めてゐたが、雨はいよいよ強くなり、いつかうに止みさうにも見えないので、

「こりや、どうも、ヒンヤリしすぎて寒くなつた。」と言つて立ち上り、大きいくしやみを一つして、それから拾ひ集めた柴を背負ひ、こそこそと林の中に這入つて行く。林の中は、雨宿りの鳥獣で大混雑である

はい、ごめんよ。ちよつと、ごめんよ。」

 とお爺さんは、猿や兎や山鳩に、いちいち上機嫌で挨拶して林の奥に進み、山桜大木の根もとが広い虚うろになつてゐるのに潜り込んで、

「やあ、これはいい座敷だ。どうです、みなさんも、」と兎たちに呼びかけ、「この座敷には偉いお婆さんも聖人もゐませんから、どうか、遠慮なく、どうぞ。」などと、ひどくはしやいで、そのうちに、すうすう小さい鼾をかいて寝てしまつた。酒飲みといふものは酔つてつまらぬ事も言ふけれど、しかし、たいていは、このやうに罪の無いものである

ユフダチ ヤムノヲ マツウチニ

ツカレガ デタカ オヂイサン

イツカ グツスリ ネムリマ

オヤマハ ハレテ クモモナ

アカルイ ツキヨニ ナリマシタ

 この月は、春の下弦の月である。浅みどり、とでもいふのか、水のやうな空に、その月が浮び、林の中にも月影が、松葉のやうに一ぱいこぼれ落ちてゐる。しかし、お爺さんは、まだすやすや眠つてゐる。蝙蝠が、はたはたと木の虚うろから飛んで出た。お爺さんは、ふと眼をさまし、もう夜になつてゐるので驚き、

「これは、いけない。」

 と言ひ、すぐ眼の前に浮ぶのは、あのまじめなお婆さんの顔と、おごそかな聖人の顔で、ああ、これは、とんだ事になつた、あの人たちは未だ私を叱つた事は無いけれども、しかし、どうも、こんなにおそく帰つたのでは、どうも気まづい事になりさうだ、えい、お酒はもう無いか、と瓢を振れば、底に幽かにピチヤピチヤといふ音がする。

「あるわい。」と、にはかに勢ひづいて、一滴のこさず飲みほして、ほろりと酔ひ、「や、月が出てゐる。春宵一刻、――」などと、つまらぬ事を呟きながら木の虚うろから這ひ出ると、

オヤ ナンデセウ サワグコヱ

ミレバ フシギダ ユメデシヨカ

 といふ事になるのである

 見よ。林の奥の草原に、この世のものとも思へぬ不可思議光景が展開されてゐるのである。鬼、といふものは、どんなものだか、私は知らない。見た事が無いかである。幼少の頃から、その絵姿には、うんざりするくらゐたくさんお目にかかつて来たが、その実物に面接するの光栄には未だ浴してゐないのである。鬼にも、いろいろの種類があるらしい。××××鬼、××××鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶところから見ても、これはとにかく醜悪性格を有する生き物らしいと思つてゐると、また一方に於いては、文壇鬼才何某先生の傑作、などといふ文句新聞新刊書案内欄に出てゐたりするので、まごついてしまふ。まさか、その何某先生が鬼のやうな醜悪の才能を持つてゐるといふ事実暴露し、以て世人に警告を発するつもりで、その案内欄に鬼才などといふ怪しむべき奇妙な言葉使用したのでもあるまい。甚だしきに到つては、文学の鬼、などといふ、ぶしつけな、ひどい言葉を何某先生に捧げたりしてゐて、これではいくら何でも、その何某先生も御立腹なさるだらうと思ふと、また、さうでもないらしく、その何某先生は、そんな失礼千万醜悪綽名をつけられても、まんざらでないらしく、御自身ひそかにその奇怪の称号を許容してゐるらしいといふ噂などを聞いて、迂愚の私は、いよいよ戸惑ふばかりである。あの、虎の皮のふんどしをした赤つらの、さうしてぶざいくな鉄の棒みたいなものを持つた鬼が、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである鬼才だの、文学の鬼だのといふ難解な言葉は、あまり使用しないはうがいいのではあるまいか、とかねてから愚案してゐた次第であるが、しかし、それは私の見聞の狭い故であつて、鬼にも、いろいろの種類があるのかも知れない。このへんで、日本百科辞典でも、ちよつと覗いてみると、私もたちまち老幼婦女子の尊敬の的たる博学の士に一変して、(世の物識りといふものは、たいていそんなものである)しさいらしい顔をして、鬼に就いて縷々千万言を開陳できるのでもあらうが、生憎と私は壕の中にしやがんで、さうして膝の上には、子供絵本が一冊ひろげられてあるきりなのである。私は、ただこの絵本の絵に依つて、論断せざるを得ないのである

 見よ。林の奥の、やや広い草原に、異形の物が十数人、と言ふのか、十数匹と言ふのか、とにかく、まぎれもない虎の皮のふんどしをした、あの、赤い巨大の生き物が、円陣を作つて坐り、月下の宴のさいちゆうである

 お爺さん、はじめは、ぎよつとしたが、しかし、お酒飲みといふものは、お酒を飲んでゐない時には意気地が無くてからきし駄目でも、酔つてゐる時には、かへつて衆にすぐれて度胸のいいところなど、見せてくれるものである。お爺さんは、いまは、ほろ酔ひである。かの厳粛なるお婆さんをも、また品行方正の聖人をも、なに恐れんやといふやうなかなりの勇者になつてゐるのである。眼前の異様の風景に接して、腰を抜かすなどといふ醜態を示す事は無かつた。虚うろから出た四つ這ひの形のままで、前方の怪しい酒宴のさまを熟視し、

「気持よささうに、酔つてゐる。」とつぶやき、さうして何だか、胸の奥底から、妙なよろこばしさが湧いて出て来た。お酒飲みといふものは、よそのものたちが酔つてゐるのを見ても、一種のよろこばしさを覚えるものらしい。所謂利己主義者ではないのであらう。つまり隣家の仕合せに対して乾盃を挙げるといふやうな博愛心に似たものを持つてゐるのかも知れない。自分も酔ひたいが、隣人もまた、共に楽しく酔つてくれたら、そのよろこびは倍加するもののやうである。お爺さんだつて、知つてゐる。眼前の、その、人とも動物もつかぬ赤い巨大の生き物が、鬼といふおそろしい種族のものであるといふ事は、直覚してゐる。虎の皮のふんどし一つに依つても、それは間違ひの無い事だ。しかし、その鬼どもは、いま機嫌よく酔つてゐる。お爺さんも酔つてゐる。これは、どうしても、親和の感の起らざるを得ないところだ。お爺さんは、四つ這ひの形のままで、なほもよく月下の異様の酒宴を眺める。鬼、と言つても、この眼前の鬼どもは、××××鬼、××××鬼などの如く、佞悪の性質を有してゐ種族のものでは無く、顔こそ赤くおそろしげではあるが、ひどく陽気で無邪気な鬼のやうだ、とお爺さんは見てとつた。お爺さんのこの判定は、だいたいに於いて的中してゐた。つまり、この鬼どもは、剣山隠者とでも称すべき頗る温和な性格の鬼なのである地獄の鬼などとは、まるつきり種族が違つてゐるのである。だいいち、鉄棒などといふ物騒なものを持つてゐない。これすなはち、害心を有してゐない証拠と言つてよい。しかし、隠者とは言つても、かの竹林賢者たちのやうに、ありあまる知識をもてあまして、竹林に逃げ込んだといふやうなものでは無くて、この剣山隠者の心は甚だ愚である。仙といふ字は山の人と書かれてゐから、何でもかまはぬ、山の奥に住んでゐる人を仙人と称してよろしいといふ、ひどく簡明の学説を聞いた事があるけれども、かりにその学説に従ふなら、この剣山隠者たちも、その心いかに愚なりと雖も、仙の尊称を奏呈して然るべきものかも知れない。とにかく、いま月下の宴に打興じてゐるこの一群の赤く巨大の生き物は、鬼と呼ぶよりは、隠者または仙人呼称するはうが妥当のやうなしろものなのである。その心の愚なる事は既に言つたが、その酒宴の有様を見るに、ただ意味も無く奇声を発し、膝をたたいて大笑ひ、または立ち上つて矢鱈にはねまはり、または巨大のからだを丸くして円陣の端から端まで、ごろごろところがつて行き、それが踊りのつもりらしいのだから、その智能の程度は察するにあまりあり、芸の無い事おびただしい。この一事を以てしても、鬼才とか、文学の鬼とかい言葉は、まるで無意味ものだといふことを証明できるやうに思はれる。こんな愚かな芸無しどもが、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。お爺さんも、この低能の踊りには呆れた。ひとりでくすくす笑ひ、

「なんてまあ、下手な踊りだ。ひとつ、私の手踊りでも見せてあげませうかい。」とつぶやく

ヲドリノ スキナ オヂイサン

スグニ トビダシ ヲドツタラ

コブガ フラフラ ユレルノデ

トテモ ヲカシイ オモシロ

 お爺さんには、ほろ酔ひの勇気がある。なほその上、鬼どもに対し、親和の情を抱いてゐるのであるから、何の恐れるところもなく、円陣のまんなかに飛び込んで、お爺さんご自慢の阿波踊りを踊つて、

むすめ島田年寄りやかつらぢや

赤い襷に迷ふも無理やない

嫁も笠きて行かぬか来い来い

 とかい阿波俗謡をいい声で歌ふ。鬼ども、喜んだのなんの、キヤツキヤツケタケタと奇妙な声を発し、よだれやら涙やらを流して笑ひころげる。お爺さんは調子に乗つて、

大谷通れば石ばかり

笹山通れば笹ばかり

 とさらに一段と声をはり上げて歌ひつづけ、いよいよ軽妙に踊り抜く。

オニドモ タイソウ ヨロコン

ツキヨニヤ カナラズ ヤツテキテ

ヲドリ ヲドツテ ミセトクレ

ソノ ヤクソクノ オシルシ

ダイジナ モノヲ アヅカラウ

 と言ひ出し、鬼たち互ひにひそひそ小声で相談し合ひ、どうもあの頬ぺたの瘤はてかてか光つて、なみなみならぬ宝物のやうに見えるではないか、あれをあづかつて置いたら、きつとまたやつて来るに違ひない、と愚昧なる推量をして、矢庭に瘤をむしり取る。無智ではあるが、やはり永く山奥に住んでゐるおかげで、何か仙術みたいなものを覚え込んでゐたのかも知れない。何の造作も無く綺麗に瘤をむしり取つた。

 お爺さんは驚き、

「や、それは困ります。私の孫ですよ。」と言へば、鬼たち、得意さうにわつと歓声を挙げる。

アサデス ツユノ ヒカルミチ

コブヲ トラレタ オヂイサン

ツマラナサウニ ホホヲ ナデ

オヤマヲ オリテ ユキマシタ

 瘤は孤独のお爺さんにとつて、唯一の話相手だつたのだから、その瘤を取られて、お爺さんは少し淋しい。しかしまた、軽くなつた頬が朝風に撫でられるのも、悪い気持のものではない。結局まあ、損も得も無く、一長一短といふやうなところか、久しぶりで思ふぞんぶん歌つたり踊つたりしただけが得とく、といふ事になるかな? など、のんきな事を考へながら山を降りて来たら、途中で、野良へ出かける息子の聖人とばつたり出逢ふ。

「おはやうござります。」と聖人は、頬被りをとつて荘重に朝の挨拶をする。

「いやあ。」とお爺さんは、ただまごついてゐる。それだけで左右に別れる。お爺さんの瘤が一夜のうちに消失てゐるのを見てとつて、さすがの聖人も、内心すこしく驚いたのであるが、しかし、父母の容貌に就いてとやかくの批評がましい事を言ふのは、聖人の道にそむくと思ひ、気附かぬ振りして黙つて別れたのである

 家に帰るとお婆さんは、

「お帰りなさいまし。」と落ちついて言ひ、昨夜はどうしましたとか何とかいふ事はいつさい問はず、「おみおつけが冷たくなりまして、」と低くつぶやいて、お爺さんの朝食の支度をする。

「いや、冷たくてもいいさ。あたためるには及びませんよ。」とお爺さんは、やたらに遠慮して小さくかしこまり、朝食のお膳につく。お婆さんにお給仕されてごはんを食べながら、お爺さんは、昨夜の不思議出来事を知らせてやりたくて仕様が無い。しかし、お婆さんの儼然たる態度に圧倒されて、言葉が喉のあたりにひつからまつて何も言へない。うつむいて、わびしくごはんを食べてゐる。

「瘤が、しなびたやうですね。」お婆さんは、ぽつんと言つた。

「うむ。」もう何も言ひたくなかつた。

「破れて、水が出たのでせう。」とお婆さんは事も無げに言つて、澄ましてゐる。

「うむ。」

「また、水がたまつて腫れるんでせうね。」

「さうだらう。」

 結局、このお爺さんの一家於いて、瘤の事などは何の問題にもならなかつたわけである。ところが、このお爺さんの近所に、もうひとり、左の頬にジヤマツケな瘤を持つてるお爺さんがゐたのである。さうして、このお爺さんこそ、その左の頬の瘤を、本当に、ジヤマツケなものとして憎み、とかくこの瘤が私の出世のさまたげ、この瘤のため、私はどんなに人からあなどられ嘲笑せられて来た事か、と日に幾度か鏡を覗いて溜息を吐き、頬髯を長く伸ばしてその瘤を髯の中に埋没させて見えなくしてしまはうとたくらんだが、悲しい哉、瘤の頂きが白髯の四海波の間から初日出のやうにあざやかにあらはれ、かへつて天下の奇観を呈するやうになつたのである。もともとこのお爺さんの人品骨柄は、いやしく無い。体躯は堂々、鼻も大きく眼光も鋭い。言語動作は重々しく、思慮分別も十分の如くに見える。服装だつて、どうしてなかなか立派で、それに何やら学問もあるさうで、また、財産も、あのお酒飲みのお爺さんなどとは較べものにならぬくらゐどつさりあるかいふ話で、近所の人たちも皆このお爺さんに一目いちもく置いて、「旦那」あるいは「先生」などといふ尊称を奉り、何もかも結構、立派なお方ではあつたが、どうもその左の頬のジヤマツケな瘤のために、旦那は日夜、鬱々として楽しまない。このお爺さんのおかみさんは、ひどく若い。三十六歳である。そんなに Permalink | 記事への反応(0) | 18:24

母親ミルクアンチダルい

まだ産まれてないんだけど、既に「いか母乳が素晴らしいか」「粉ミルクがどれだけ悪か」をことあるごとに解いてきてめんどくさい。

育児について相談途中ならまだしも、無関係な話でも「そういえばわかってると思うけどミルクなんて〜」と言い続けてくる。「いやそれこの話と無関係じゃん笑」と適当に流すけど定期的に巻き戻してくるので困る。

ちゃんとしていれば普通に母乳は出るんだから」が最近の口癖だ。私は幼少期からこの「ちゃんとしていれば普通は〜」の口癖に苦しめられた。そして最後に「あの女みたいなのは駄目だからね」と〆る。

あの女、というのは私から見て叔母にあたる。彼女はいとこが通っていた英語教室外国人教師不倫して、ある日突然離婚届相手故郷であるイギリス結婚すると手紙を残して消えたらしい。私が産まれた時には叔父は既に別の人と結婚していたので知らなかったが(そして叔父は合計4回結婚離婚を繰り返し、もうすぐ5回目の結婚をする)。

叔母はいつもいとこたちにミルクを飲ませるよう、母や祖母に頼んで出かけていたらしい。きっとその間にも不倫していたのだと母は見ているが実際のところは知らない。その時いつも「ミルクだったらこうして預かってもらえて楽ですね」と言っていたそうだ。

まぁそういうこともあって母はミルクのこともミルクを与える親のことも楽をしていると軽蔑し、蛇蝎の如く嫌っている。

苦労して母乳で育てた人間が一番偉いと思っている。

私としては、自分の食べたもんが赤ちゃんに飲ませられるものに化けるのはすごいことだと思うし、こんなふうに栄養あげられるなんてミルクってすごいねくらいの意識なんだけどな。

ダルいな〜〜。半日はかかる距離から、里帰り出産もしないし帰省もしばらくやめる予定なんだけど、遠方にいてこれならうちに来た時どうなんのかな〜〜なんかいい感じに断れないかな〜〜〜本人は絶対行くって乗り気なんだよな〜〜〜。

2026-04-22

日本って今ではコンテンツ立国みたいになっちゃってるから

コンテンツに対する敬意がすさまじいんだよな

から違法ダウンロードで遊んでる奴は軽蔑対象人間と思われない

これが50代くらいになると「割ってなんぼ、買うとか馬鹿」って奴らが大量にいたか

割るって行為をかるーく見るんだよな

ド直球の違法行為で、日本を内から腐らせていくシロアリみたいな存在なのにな

anond:20260422104916

教科書引用しているだけのお前の言うことは全て正しい、という前提の上でなお、今日本でやってるデモ行為軽蔑されてしかるべきだよね?

 

テーマ設定は自己誘導的であって、全体利益正義への希求は薄いわりに、自己実現欲求ばかり盛んで、中身にも賛同できないのに、賛同しない大衆政治意識が薄いバカ扱いする。

2026-04-21

オタク”と呼ばれる絶滅危惧種について

東浩紀が「現代オタク批評を求めなくなった」と語って久しい。

この言葉をめぐる議論は尽きないが、問題所在もっと単純で、もっと厄介だ。

現代の由々しき自称オタクたちは価値を問う前に、数で判断してしまう。

いま話題映画『超かぐや姫!』に対して、「ファン数字としてしか見ていない」という批判が起きた。

だが見落とされているのは、その“数字の回路”が観客側にも内面化されているという事実である

再生数。動員。ランキングトレンド

それらは本来作品がどれだけ届いたかを示す一つの指標に過ぎない。

しかしいつの間にか、その指標は昇格した。

「伸びている=良い」

この短絡が、判断を肩代わりする。

判断を委ねられるのは楽だ。

なぜ良いのかを考えなくていい。

なぜつまらないのかを言語化しなくていい。

ただ「伸びている」という事実に乗れば、外れない気がする。

こうして数は価値を示すものではなく価値の代わりになる。

その瞬間、何が起きるか。

制作側は数に最適化する。

受け手は数で選ぶ。

両者が同じ回路で接続されるとき作品は均質化し、消費は加速する。

ここで批評はどうなるか。

批評とは、本来「なぜそれが価値を持つのか」を言葉にする営みだ。

だが価値判断がすでに数に委ねられているなら、その問いは必要条件ではなくなる。

必要がなければ要求もされない。

要求されなければ育つこともない。

から現代オタクは、批評を「嫌っている」のではない。

批評必要としない環境適応しているだけだ。

ここでよく持ち出されるのが「コミュニティの優しさ」である

誰でも参加できる、同じ温度で「好き」と言える空間

そこでは差異は摩擦になる。

摩擦は居心地を壊す。

批評差異を生む。

理解の深さを露出させる。

したがって優しさを維持するには批評の圧を弱める方が合理的になる。

結果として残るのは、「好き」と言うことだけが流通する空間だ。

それは居心地がいい。

だが同時に、価値を問う回路を手放した空間でもある。

重要なのは、ここに道徳的善悪を持ち込むことではない。

これは怠慢ではなく、構造だ。

数は便利である

数は速い。

数は裏切りにくい。

から私たちは数を使う。

そして使い続けるうちに気づく。

数で足りてしまうことに。

だが、その“足りてしまい方”こそが問題だ。

なぜ良いのかを問わないまま良いとされるもの

なぜ悪いのかを考えないまま避けられるもの

そこでは作品評価されているのではなく、処理されている。


本来オタクは、そういった存在ではなかった。

しろ対極に視座していた存在である

数に従わない。

流行に媚びない。

理解されなくても、自分の「好き」を引き受ける。

それは、ある種の孤独を前提とした態度だった。

だが今や、その孤独を引き受ける必要はない。

なぜなら数が、それを代行してくれるからだ。

「伸びているものを好きでいればいい」

「皆が好きなものを好きでいればいい」

それはあまりにも合理的で、あまりにも優しい。

からこそ、抗う理由がなくなる。

気づけば、私たちは数に寄り添いながら、

かつて軽蔑していたはずの「多数派」に回収されている。

数に抗う

己の好きを貫き通す。

そうした武士道のような清さを持ったオタクは、既に死に絶えつつあるのだ。

anond:20260420190640

自分は少なくとも21世紀になってから子供を作った人間の事は、性別国籍障害の有無を問わず全て軽蔑してる。

2026-04-20

[] チック・リット

チック・リット(英語: chick lit)は大衆小説ジャンルで、「個々の主人公の試練と苦難に焦点を当てた、ヒロイン中心の物語構成されている」もののことを指す[1]。このジャンルは多くの場合現代における「女性らしさ」の問題恋愛関係女性友情職場での問題など)をユーモラスで軽快な方法で取り扱っている[2]。

 

このジャンルが始まった当初、チック・リットの主人公は「独身白人異性愛者、イギリス人アメリカ人女性20代後半から30代前半、大都市圏在住」である傾向が高かった[1]。このジャンル1990年代後半に人気が出てきて、チック・リットの小説ベストセラーとなったり、チック・リットに特化した出版社ができたりした[3]。チック・リットの批評家の間では、チック・リットのジャンルの始まりイギリス作家キャサリンアリオットのThe Old Girl Network1994年)であり、チック・リットの「原典」として広く知られているヘレン・フィールディングの『ブリジット・ジョーンズの日記』(1996年)は、これにインスピレーションを受けたものであるということで合意している[4]。

 

歴史

用語起源と発展

"chick"は英語で「雛鳥」を意味し、転じてアメリカスラングで「若い女性」を意味する。"lit"は"literature"(文学)の短縮形である。チック・リットの研究者は、この用語の初出は、1995年クリス・マッツァ(英語版)とジェフリー・デシェル編集したアンソロジーChick Lit: Postfeminist Fictionであるとしている。これは、マッツァとデシェルの「ポストフェミニスト作品を」という呼びかけに応えた22の短編小説を収録したものである[5]。1990年代半ばには、女性作家女性読者のために書いたフィクションを指す言葉として、様々なメディアでこの言葉が使われるようになった。

 

この用語を、この用語が生まれる以前の同様の女性向け作品についても適用して、"chick lit in corsets"(コルセットを着たチック・リット)と呼ぶことがある[6]。また、このジャンルの要素と青春物語を組み合わせた、若い読者向けのチック・リットのことを"chick lit jr."(チック・リット・ジュニア)という[6]。

 

論争

チック・リットは、読者の間では非常に人気となったが、批評家の大半はこのジャンルを支持しなかった。『ニューヨーク・タイムズ』紙の書評において、アレックス・クジンスキー英語版)はフィールディングの小説特に非難し、「ブリジットは男に狂わされた無力感に浸っている哀れな姿であり、彼女の愚かさは言い逃れできない」と書いた[7]。作家のドリス・レッシングはこのジャンルを「すぐに忘れられてしまう」とし、ベリル・ベインブリッジ英語版)は「泡のようなもの」(a froth sort of thing)と呼んだ[8]。編集エリザベス・メリック英語版)は、2005年アンソロジーThis Is Not Chick Lit(これはチック・リットではない)を出版した[9]。メリックはこの本の紹介文の中で「チック・リットのお決まりパターンは我々の感覚麻痺させる」と主張した[9]。編集者ローレン・バラッツ=ログテッドは、メリックの本に対抗して2006年にThis Is Chick Lit(これがチック・リットだ)[10]を出版し、このプロジェクトは「怒りからまれものである」と述べた[10]。

 

このジャンル作家たちは、その弁護に乗り出した。チック・リット作家ジェニー・コルガン(英語版)は、すぐさまレッシングとベインブリッジに反撃した[11]。『グッド・イン・ベッド(英語版)』(2001年)や『イン・ハー・シューズ英語版)』(2002年)など数多くのチック・リット小説を著したジェニファー・ウェイナー(英語版)は、常にチック・リットを擁護した[12]。『スレート』誌2013年5月22日号では、『ウーマン・アップステアーズ(英語版)』(2013年)の著者である小説クレア・メスード(英語版)が、女性小説主人公好感度について語ったコメントに対する、ウェイナーの記事掲載した[13]。ウェイナーはその記事の中で、商業小説特に女性商業小説存在する偏見に疑問を投げかけた。ウェイナーは、『ニューヨーク・タイムズ』紙に"The Snobs and Me"を執筆するなど、チック・リットに対する人々の認識に挑戦し続けている[14]。この記事では、自分作品を軽視する文化的風土の中で、自分作品を信じようとする彼女個人的葛藤が綴られている[15]。

 

ダイアンシップリー[16]などの他の作家もこのジャンル擁護している。特にフェミニストグロリアスタイネムがウェイナーの意見共鳴し、女性文学に対する偏見に注目しながら、自分たちがこの言葉を使っていること、そしてこの言葉女性女性小説について何を語っているのかを問うよう人々に求めた[17]。

 

その後の状況

出版社がこのジャンルをプッシュし続けているのは、売上が高い状態が続いているかである作品市場性を高めようとして、この用語の様々な派生語が造語されてきた。

 

リファインリー29(英語版)』のライター、ローレン・ルヴァイン(Lauren Le Vine)は、2016年3月に"The Chick-Lit Books That Won't Destroy The Feminist Inside You"(あなたの中のフェミニスト破壊しないチック・リット本)と題して、女性女性のために書いた8冊の本を紹介した[18]。ルヴァインは、女性を題材にした小説文学伝統には、時に、買い物に夢中になって夫とはぐれた女性が夫を探すという物語が含まれており、このような本はフェミニスト価値観矛盾しているということを認識している。しかし、ルヴァインはヘレン・フィールディングの1996年小説ブリジット・ジョーンズの日記』を紹介する際に、「一人の女性個人的な満足感(それは彼女にとって愛、キャリア成功身体の受容を意味する)を見つけようとすることにのみ焦点を当てた本であり、それはフェミニズム(どの波に乗っても)とは何かということである」と書いている[18]。

 

パブリッシャーズ・ウィークリー』誌の編集であるサラ・ネルソン英語版)は、2008年に、チック・リットというジャンルの中で考えられるもの定義が、より完成度が高く、「成長した」ものになってきていると示唆している[19]。

 

2000年、『シドニーモーニングヘラルド』は、女性読者を対象とした小説の新しいトレンドについて、次のように述べた。「ポストトーリーポストグランジの軽やかさの精神が、雑誌を読む女性テレビを見る女性たちの間に広まっていった。この小説は、『チック小説』(chick fiction)または"chicfic"いう『出版現象』の誕生であり、主題パッケージマーケティングによってすべてが統一されている。キャンディブライトで、ピンク蛍光色の重い表紙、『キャンディブライト』なタイトルにより、簡単に消化しやすく、良い笑いを提供することをほのめかしている。そのような本は、雑誌記事小説小説化されたものテレビと、自宅で一晩で消化できる快適な食べ物ハイブリッドとして市場位置づけられている[20]。」

 

構成

チック・リットは一般的女性主人公であり、プロットの中でその女性らしさが重要テーマとなっている。ほとんどの場合現代世界舞台としているが、歴史上の時代舞台とした作品もある。扱われている問題は、しばしば消費主義よりも深刻なものである。例えば、マリアンキーズ(英語版)の『子持ちクレアの逆転勝利』(Watermelon)は、現代世界母親であることに悩む主人公を描いている。宗教的なチック・リットの市場も成長している。他のタイプ大衆小説と同様に、著者や出版社は多くのニッチ市場ターゲットにしている[3]。主人公民族、年齢、社会的地位配偶者地位キャリア宗教などは様々であるgoodreadsでは、チック・リットは恋愛小説サブジャンルとしては扱われていない。それは、チック・リットは、プロット恋愛の要素が含まれていることもあるが、恋愛関係と同じくらいにヒロイン家族や友人との関係重要であることが多いかである[21]。チック・リットのやや厳しいジャンルルールにより、チック・リットの作家が異なるジャンル進出するのは難しくなっているが、チック・リットは歴史小説に結びつくこともできる。

 

女性作家の中には、自分作品が「チック・リット」というレッテルを貼られるのを避けるために行動している人もいる。例えば、『ガーディアン』紙の2010年の記事によれば、ユーモア作家のD・J・コンネルは、自身作品がチック・リットとされるのを避けるために、ペンネームを「ダイアンから「D・J」というイニシャル表記に変更した[22]。コンネルは、女性名でユーモアを書くことは、自身作品危険さらすことになり、チック・リットのレッテルが貼られた場合、その作品真剣に受け取られないだろうと言った。別の例では、作家ルース・ギリガン英語版)は、自身作品がチック・リットとみなされることで、どのように一般の人々、エージェント出版社から軽蔑されたかについて書いている[23]。ギリガンは、大学キャンパスでの性的暴行についての小説で新しいスタイルを試したが、出版社は明るい花のような表紙を提示し、ギリガンはこれを失礼だと感じた。

anond:20260420202706

2026-04-18

人生が下手くそから人生上手い人は羨ましいし凄いと思うけど別に尊敬してるわけじゃない

見下してもいないけどね。

単に「人生が上手い・人生が下手」っていうのが「尊敬する・軽蔑する」と一切の相関性を持つことがない脳内ロジック他人査定してるってだけ。

でも「羨ましい・憐れんでしまう」や「凄い・ショボイ」といった評価軸とは若干の相関性があるから尊敬軽蔑もしてないけど羨ましさは感じるし凄いとは思う」ってなかな珍しい感覚が出力されるんだよね。

ごめん。オチはないよ

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん