JR学研都市線 四条畷駅から四條畷神社へ
関西の鉄道駅で思い付きの気ままな途中下車をして、近隣のミニ探索をしている。
今回は、大阪市と木津川市を結ぶ「JR学研都市線」に乗車し、大東市にある「四条畷駅」で下車し、駅の東方向の丘陵地に鎮座する四條畷市の「四條畷神社」を訪問することにしている。
「四条畷駅」で下車する。
駅ホームは地上で、2面4線の島式で、改札・コンコースは階上である。
また、この駅に隣接している「四條畷学園」のキャンパスは、駅ホームからも望める。
また、駅構内には、黄色い「ドクターイエロー」も停まっている。
駅の東側へと出る。
駅前はバス停も兼ねている一本の道路があるだけで、広くはない。
先ずは北へと進み、突き当りを右折する。
このあたりの住所名は「楠公二丁目」で、「楠木正成」に関わる地名である。
この一直線の道路は、「四條畷神社」へ向かう参道である。
しばらく行くと、「東高野街道」と交差する。
その場所に、鳥居と社号碑が建てられている。
「一ノ鳥居」を潜り、参道を進む。
途中から緩やかな上りとなり、しばらくすると社頭に到着する。
「社号柱」とその横に趣のある「茶屋宿 伊勢屋」がある。
大正時代初期の創業とされている料理旅館である。
そして「二ノ鳥居」が建ち、石段が昇っている。
石段を昇り詰めたところには「注連縄柱」が建ち、その右手手前には「休憩所(展望台)」、右手奥に新しそうな「神社会館」が建っている。
「注連縄柱」の横には、一対の「狛犬」が祀られている。
神紋は「菊水」である。
そして左手(北側)が南向きの社殿群である。
その左側には、社務所に続いて「手水舎」、そして楠の前に「楠公慰霊塔」が建てられている。
右側には、境内社が祀られている。
左側が「楠天神社」、右側が「有源招魂社」である。
この「四條畷神社」は、明治22年の創建とされる。
明治時代になって、天皇家のために戦った楠木一族が評価され、「別格官幣社 四條畷神社」の社号の宣下が勅許され、神社が創建されたとのことである。
その背景は、南北朝時代の1348年1月に、この地で「四條畷の戦い」が行われ、南朝軍は北朝軍に敗北し、「楠木正行(まさつら)」、「正時」兄弟が自害したとの出来事によることが大きい。
社務所には、南朝の後醍醐天皇とその忠臣らを祀る神社の所在地も示されている。
また、「なにわ七幸めぐり」の寺社も示されている。
「三ノ鳥居」を潜り、透塀の中に入る。
右手には、楠木父子の「桜井の別れ」の像「忠孝両全」、左手には楠木母子の「母の誨論」の像「貞仁両全」が設置されている。
正面は「拝殿」、その背後は「本殿」である。
「本殿」の祭神は、主祭神が「楠木正行」、配祀は「楠木一族の将士24柱」とされている。
そして、「拝本殿」の左手は「御妣(みおや)神社」で、 「久子刀自命」(正行の母・久子)を祀っている。
この「四條畷神社」の頭上には「飯盛山(314m)がある。
山頂付近は、「織田信長」に先んじて畿内を統一した「三好長慶」が「飯盛山城」を築いたところである。
また、「飯盛山」も「楠木正行」と「高師直」が戦った「四條畷の戦い」の古戦場である。、
山頂には吉野山の方向を向いて、「楠木正行」の銅像が建てられているとのことである。
その登山口が神社の南端にあり、その案内を眺めて、「四条畷駅」のミニ探索を終了したのであった。
今回は、大阪市と木津川市を結ぶ「JR学研都市線」に乗車し、大東市にある「四条畷駅」で下車し、駅の東方向の丘陵地に鎮座する四條畷市の「四條畷神社」を訪問することにしている。
「四条畷駅」で下車する。
駅ホームは地上で、2面4線の島式で、改札・コンコースは階上である。
また、この駅に隣接している「四條畷学園」のキャンパスは、駅ホームからも望める。
また、駅構内には、黄色い「ドクターイエロー」も停まっている。
駅の東側へと出る。
駅前はバス停も兼ねている一本の道路があるだけで、広くはない。
先ずは北へと進み、突き当りを右折する。
このあたりの住所名は「楠公二丁目」で、「楠木正成」に関わる地名である。
この一直線の道路は、「四條畷神社」へ向かう参道である。
しばらく行くと、「東高野街道」と交差する。
その場所に、鳥居と社号碑が建てられている。
「一ノ鳥居」を潜り、参道を進む。
途中から緩やかな上りとなり、しばらくすると社頭に到着する。
「社号柱」とその横に趣のある「茶屋宿 伊勢屋」がある。
大正時代初期の創業とされている料理旅館である。
そして「二ノ鳥居」が建ち、石段が昇っている。
石段を昇り詰めたところには「注連縄柱」が建ち、その右手手前には「休憩所(展望台)」、右手奥に新しそうな「神社会館」が建っている。
「注連縄柱」の横には、一対の「狛犬」が祀られている。
神紋は「菊水」である。
そして左手(北側)が南向きの社殿群である。
その左側には、社務所に続いて「手水舎」、そして楠の前に「楠公慰霊塔」が建てられている。
右側には、境内社が祀られている。
左側が「楠天神社」、右側が「有源招魂社」である。
この「四條畷神社」は、明治22年の創建とされる。
明治時代になって、天皇家のために戦った楠木一族が評価され、「別格官幣社 四條畷神社」の社号の宣下が勅許され、神社が創建されたとのことである。
その背景は、南北朝時代の1348年1月に、この地で「四條畷の戦い」が行われ、南朝軍は北朝軍に敗北し、「楠木正行(まさつら)」、「正時」兄弟が自害したとの出来事によることが大きい。
社務所には、南朝の後醍醐天皇とその忠臣らを祀る神社の所在地も示されている。
また、「なにわ七幸めぐり」の寺社も示されている。
「三ノ鳥居」を潜り、透塀の中に入る。
右手には、楠木父子の「桜井の別れ」の像「忠孝両全」、左手には楠木母子の「母の誨論」の像「貞仁両全」が設置されている。
正面は「拝殿」、その背後は「本殿」である。
「本殿」の祭神は、主祭神が「楠木正行」、配祀は「楠木一族の将士24柱」とされている。
そして、「拝本殿」の左手は「御妣(みおや)神社」で、 「久子刀自命」(正行の母・久子)を祀っている。
この「四條畷神社」の頭上には「飯盛山(314m)がある。
山頂付近は、「織田信長」に先んじて畿内を統一した「三好長慶」が「飯盛山城」を築いたところである。
また、「飯盛山」も「楠木正行」と「高師直」が戦った「四條畷の戦い」の古戦場である。、
山頂には吉野山の方向を向いて、「楠木正行」の銅像が建てられているとのことである。
その登山口が神社の南端にあり、その案内を眺めて、「四条畷駅」のミニ探索を終了したのであった。