【新駅訪問】北大阪急行電鉄箕面萱野駅(その2)萱野三平記念館
大阪府の「大阪メトロ御堂筋線」と繋がっている「北大阪急行電鉄」が北部方向に延伸され、2駅の新駅が開業されたので、これを訪問してみる。(開業:2024年3月24日)
今回は、前回の「箕面萱野駅」の周辺に次いで、(その2)として、駅の南西方向で「西国街道」に沿ったところにある「萱野三平記念館(旧邸跡)」を訪問してみることにする。
「箕面萱野駅」の南に通る「国道171号線・西国街道」を西進する。
そして「西国街道」は左折するので、それに沿って左折、そして右折し進む。
「西国街道」を進んで行くと、左手に「向畑公園」がある。
そして左手奥に、「箕面市立病院」の建物が見える。
住所地は「萱野三丁目」である。
街道の右手には、「芝公堂」の看板が掲げられた建物や、趣のある長屋門が見えてくる。
更に進むと左手にも白壁の長屋門が見えてくる。
門前に「萱野三平邸址」の石柱が建つ北向きの長屋門である。
長屋門に続く塀に沿って左折すると、冠木門が建ち、邸址への入り口である。
門を入ると「涓泉(けんせん)亭」の表示がなされ、左手は長屋門、右手が記念館の「涓泉亭」である。
尚、「涓泉」とは、「萱野三平」の俳号とのことである。
「萱野三平」とは、江戸時代中期の赤穂浪士の討ち入りで知られる「赤穂藩」の武士である。
江戸城にて、藩主「浅野内匠頭」の刃傷沙汰の報告を急ぎ赤穂に伝えた人物で、その後、世話になっている「旗本 大島氏」との関係で、討ち入りに参加すべきかどうかを悩んだ末、この屋敷にて自刃したとされている人物である。
先ずは、左手の長屋門の風景である。
「義士萱野三平之舊踞」の石柱も建っている。
更に、西の端に自生の句碑も建てられている。
「晴れゆくや 日頃心の 花曇り 涓泉」である。
そして、長屋門の一室が、「萱野三平」の自刃の間である。
次に、長屋門の向かいの「涓泉亭」(記念館)の内部である。
かつての屋敷全体の模型が作られている。
また、この屋敷は街道の休憩所であったとのことで、その逗留者の表示板も残されている。
尚、「萱野三平」の墓は、先ほど眺めた「箕面市立病院」の地にあったが、病院建設により、共同墓地に移されたとのことでもある。
そしてこの地点で、「箕面萱野駅」のミニ探索を終了したのであった。
今回は、前回の「箕面萱野駅」の周辺に次いで、(その2)として、駅の南西方向で「西国街道」に沿ったところにある「萱野三平記念館(旧邸跡)」を訪問してみることにする。
「箕面萱野駅」の南に通る「国道171号線・西国街道」を西進する。
そして「西国街道」は左折するので、それに沿って左折、そして右折し進む。
「西国街道」を進んで行くと、左手に「向畑公園」がある。
そして左手奥に、「箕面市立病院」の建物が見える。
住所地は「萱野三丁目」である。
街道の右手には、「芝公堂」の看板が掲げられた建物や、趣のある長屋門が見えてくる。
更に進むと左手にも白壁の長屋門が見えてくる。
門前に「萱野三平邸址」の石柱が建つ北向きの長屋門である。
長屋門に続く塀に沿って左折すると、冠木門が建ち、邸址への入り口である。
門を入ると「涓泉(けんせん)亭」の表示がなされ、左手は長屋門、右手が記念館の「涓泉亭」である。
尚、「涓泉」とは、「萱野三平」の俳号とのことである。
「萱野三平」とは、江戸時代中期の赤穂浪士の討ち入りで知られる「赤穂藩」の武士である。
江戸城にて、藩主「浅野内匠頭」の刃傷沙汰の報告を急ぎ赤穂に伝えた人物で、その後、世話になっている「旗本 大島氏」との関係で、討ち入りに参加すべきかどうかを悩んだ末、この屋敷にて自刃したとされている人物である。
先ずは、左手の長屋門の風景である。
「義士萱野三平之舊踞」の石柱も建っている。
更に、西の端に自生の句碑も建てられている。
「晴れゆくや 日頃心の 花曇り 涓泉」である。
そして、長屋門の一室が、「萱野三平」の自刃の間である。
次に、長屋門の向かいの「涓泉亭」(記念館)の内部である。
かつての屋敷全体の模型が作られている。
また、この屋敷は街道の休憩所であったとのことで、その逗留者の表示板も残されている。
尚、「萱野三平」の墓は、先ほど眺めた「箕面市立病院」の地にあったが、病院建設により、共同墓地に移されたとのことでもある。
そしてこの地点で、「箕面萱野駅」のミニ探索を終了したのであった。