南海電鉄南海線24:貝塚駅
大阪市中央区の「なんば駅」と、和歌山市の「和歌山市駅」を、それぞれ起終点として結ぶ、「南海電気鉄道 南海線(本線)」の各駅を、「なんば駅」から順に、途中下車で訪ねてみることにする。
今回は、「なんば駅」から23番目の駅で、大阪府貝塚市にある「貝塚駅」である。
「貝塚駅」で下車する。
駅ホームは、2面4線の島式であるが、外側の2線は主として回送列車などの待避線として利用されるとのことである。
また、ホームには「水間観音」へ向かう「水間鉄道」への乗換案内も表示されている。
隣に停まっている「水間鉄道」の車両を眺め、駅舎の外へと出る。
駅の正面はロータリーがあり、その先はノンアーケードの「貝塚中央商店街」である。
今回は「貝塚寺内町」訪ねてみることにする。
駅から北方向の道を辿る。
右手に、「従是東西海塚領」と記された石碑が建っている。
直ぐに「中町通り」に出たので、これを左折し、西方向へと進む。
右手(北側)に神社の門があるので、境内へと入ってみる。
神社は「感田神社」である。
神社の創建は不詳であるが、安土桃山時代に海塚村の「牛頭天王社」、堀村の「天満宮」を勧請し、「天照皇大神」を中心として3神を祀る小祠が建てられたのが始まりで、江戸時代前期には本格的な社殿が造営されたとされる。
境内には、西向きに「拝本殿」が祀られている。
そして境内社や、寺内町環濠の名残である濠も残されている。
「拝殿」の正面は「神門」である。
「神門」から退出し、神社の社頭を眺めたのであった。
尚、この神社のほとんどの建物は「登録有形文化財」とのことである。
神社から西方向へと進む。
直ぐの西に、寺内町の中心寺院である「願泉寺」の門前へと出る。
「貝塚寺内町」の石標も建っている。
そして、この「築地塀」と「表門」は重要文化財である。
「表門」から境内へと入る。
入ると正面に、重要文化財の「目隠塀」がある。
その背後は、「本堂」で、「本尊」は「僧行基」作とされる「阿弥陀如来立像」である。
この「願泉寺」の起源は、「僧行基」が建てた「庵寺」が始まりと伝えられている。
そして応仁年間に本願寺の法主「蓮如」が立ち寄り、教義を説いたことから、地元の門徒衆が天文年間に、「卜半斎了珍」を招き、「庵寺」を再興させたとされ、これにより「浄土真宗本願寺派」の「貝塚道場」として成立し、その後、周辺は環濠が囲む「寺内町」とされたとのことである。
しかしその後、「織田信長」による紀州攻めの際に焼き討ちされ、全焼した。
そして、「信長」と和睦して石山合戦を終わらせた本願寺法主「顕如」は、紀伊の「鷺森御坊」に移動し、「鷺森御坊」を本山としたとされるが、その間に「了珍」と門徒たちによって「貝塚道場」を復興させたと云われている。
広い境内の両脇には、重要文化財の「太鼓楼」並びに「鐘楼」が建っている。
さて、寺内町と云えば、次は町屋である。
「願泉寺」を出て、順に登録有形文化財の町屋を眺めてみる。
先ずは、「並河家」、「山田家」、「利齋家」である。
そして、「願泉寺」の北側には「北小学校」があり、「竹本家」、「岡本家」がある。
更に、「宇野家」、「尾食家」があり、この北には寺内町の濠の役目もした「北境川」が流れている。
寺内町の北限まで行ったので、今度は南へと下がる。
「竹本家」がある。
そして寺内町を巡る道は、「貝塚寺内町めぐりみち」と云う。
最後に、「吉村家」、「廣海家」、「名加家」である。
そしてこの地点で、「貝塚寺内町」を一巡したので、「貝塚駅」のミニ探索を終了したのであった。
今回は、「なんば駅」から23番目の駅で、大阪府貝塚市にある「貝塚駅」である。
「貝塚駅」で下車する。
駅ホームは、2面4線の島式であるが、外側の2線は主として回送列車などの待避線として利用されるとのことである。
また、ホームには「水間観音」へ向かう「水間鉄道」への乗換案内も表示されている。
隣に停まっている「水間鉄道」の車両を眺め、駅舎の外へと出る。
駅の正面はロータリーがあり、その先はノンアーケードの「貝塚中央商店街」である。
今回は「貝塚寺内町」訪ねてみることにする。
駅から北方向の道を辿る。
右手に、「従是東西海塚領」と記された石碑が建っている。
直ぐに「中町通り」に出たので、これを左折し、西方向へと進む。
右手(北側)に神社の門があるので、境内へと入ってみる。
神社は「感田神社」である。
神社の創建は不詳であるが、安土桃山時代に海塚村の「牛頭天王社」、堀村の「天満宮」を勧請し、「天照皇大神」を中心として3神を祀る小祠が建てられたのが始まりで、江戸時代前期には本格的な社殿が造営されたとされる。
境内には、西向きに「拝本殿」が祀られている。
そして境内社や、寺内町環濠の名残である濠も残されている。
「拝殿」の正面は「神門」である。
「神門」から退出し、神社の社頭を眺めたのであった。
尚、この神社のほとんどの建物は「登録有形文化財」とのことである。
神社から西方向へと進む。
直ぐの西に、寺内町の中心寺院である「願泉寺」の門前へと出る。
「貝塚寺内町」の石標も建っている。
そして、この「築地塀」と「表門」は重要文化財である。
「表門」から境内へと入る。
入ると正面に、重要文化財の「目隠塀」がある。
その背後は、「本堂」で、「本尊」は「僧行基」作とされる「阿弥陀如来立像」である。
この「願泉寺」の起源は、「僧行基」が建てた「庵寺」が始まりと伝えられている。
そして応仁年間に本願寺の法主「蓮如」が立ち寄り、教義を説いたことから、地元の門徒衆が天文年間に、「卜半斎了珍」を招き、「庵寺」を再興させたとされ、これにより「浄土真宗本願寺派」の「貝塚道場」として成立し、その後、周辺は環濠が囲む「寺内町」とされたとのことである。
しかしその後、「織田信長」による紀州攻めの際に焼き討ちされ、全焼した。
そして、「信長」と和睦して石山合戦を終わらせた本願寺法主「顕如」は、紀伊の「鷺森御坊」に移動し、「鷺森御坊」を本山としたとされるが、その間に「了珍」と門徒たちによって「貝塚道場」を復興させたと云われている。
広い境内の両脇には、重要文化財の「太鼓楼」並びに「鐘楼」が建っている。
さて、寺内町と云えば、次は町屋である。
「願泉寺」を出て、順に登録有形文化財の町屋を眺めてみる。
先ずは、「並河家」、「山田家」、「利齋家」である。
そして、「願泉寺」の北側には「北小学校」があり、「竹本家」、「岡本家」がある。
更に、「宇野家」、「尾食家」があり、この北には寺内町の濠の役目もした「北境川」が流れている。
寺内町の北限まで行ったので、今度は南へと下がる。
「竹本家」がある。
そして寺内町を巡る道は、「貝塚寺内町めぐりみち」と云う。
最後に、「吉村家」、「廣海家」、「名加家」である。
そしてこの地点で、「貝塚寺内町」を一巡したので、「貝塚駅」のミニ探索を終了したのであった。