琵琶湖線13・近江八幡駅
「京都駅」と滋賀県長浜市の「長浜駅」を起終点とし、琵琶湖の東部地域を走る愛称「琵琶湖線」を郭駅下車で訪ねてみる。
今回は「京都駅」から12駅目の滋賀県近江八幡市の「近江八幡駅」である。
「近江八幡駅」で下車する。
駅前広場には、「近江商人発祥の地」の石碑がある。
駅前広場から北西方向のバス通りを進む。
近江八幡市には国の重要伝統的建造物群保存地区がある。
そして、古代から祀られている「日牟禮(ひむれ)八幡宮」の西の八幡山に豊臣秀吉の甥の秀次が城を築き、城下町を安土城下から移転させて整備した城下町がこれにあたる。
保存地区は、日牟禮八幡宮、八幡堀、新町通り、永原町通りの4地区で構成されている。
先ずはバス通りの一本右の通りである「新町通り」の商家群である。
商家群には京街道が通っている。
重要文化財の旧西川家住宅、市指定の元小学校の旧伴家住宅などがある。
他にも近江商人のルーツとなる商家が数多くあり、商家の庭には見越しの松が植えられているのも特徴の一つである。
旧朝鮮人街道もある。
また、この地と関係が深いヴォリーズの記念館もあり、多彩である。
商家群が尽きると「八幡堀」である。
豊臣秀次が、城下町を造る時に、琵琶湖への船の出入りを考慮して、造られたものである。
「八幡堀」には幾つかの橋も架かっている。その一つの明治橋である。
堀の先は、「日牟禮八幡宮」の参道である。
右手には老舗の菓子舗「たねや」がある。
そして、神社の楼門が建っている。
楼門を潜ると拝殿、本殿拝所、そして能舞台である。
この神社の創建は2世紀とされ、当初は大国主神を祀っていたとされるが、時代は降って現在の祭神は、誉田別尊、息長足姫尊、比賣神とされている。
八幡宮の先には、八幡山に登るロープウェイがある。
これに乗って八幡山への登山である。
八幡山には、八幡山城跡がある。
283mの山頂を本丸とした城であった。
八幡山城は、信長が本能寺事件で亡くなった後、近江国を治めるために、安土城に代って南西のこの山に豊臣秀吉の手で築城されたもので、秀吉の甥の秀次が居住した。
しかし秀吉に実子秀頼が生まれたため、秀次に謀反ありとの理由で自害させられ、その後廃城となった。
本丸跡には秀吉の姉で秀次の母日秀尼が京都嵯峨に創建した村雲御所瑞龍寺門跡が城跡に移築されて来ていて、その山門が本丸への虎口である。
本丸周辺には石垣の遺構が残っている。
本丸石垣の下を歩く。
北の丸跡があり、北東方向に、手前に安土山そして右手に観音山(繖山)が良く見える。
様々な積み方の石垣が見られる。
さらに石垣に沿って回ると、今度は西の丸跡に到達する。
琵琶湖方向が良く見える場所である。
下山は登城道を辿ってみる。
近江八幡の市街地が見える。
秀次が安土の城下町を移築して産業商業の隆盛を図り、近江商人で知られる所となった。
さらに降りると、八幡公園内に秀次の像がある。
そして、近江八幡の地名の由来となった「日牟禮八幡宮」まで戻り、この地点で「近江八幡駅」のミニ探索を終了したのであった。
今回は「京都駅」から12駅目の滋賀県近江八幡市の「近江八幡駅」である。
「近江八幡駅」で下車する。
駅前広場には、「近江商人発祥の地」の石碑がある。
駅前広場から北西方向のバス通りを進む。
近江八幡市には国の重要伝統的建造物群保存地区がある。
そして、古代から祀られている「日牟禮(ひむれ)八幡宮」の西の八幡山に豊臣秀吉の甥の秀次が城を築き、城下町を安土城下から移転させて整備した城下町がこれにあたる。
保存地区は、日牟禮八幡宮、八幡堀、新町通り、永原町通りの4地区で構成されている。
先ずはバス通りの一本右の通りである「新町通り」の商家群である。
商家群には京街道が通っている。
重要文化財の旧西川家住宅、市指定の元小学校の旧伴家住宅などがある。
他にも近江商人のルーツとなる商家が数多くあり、商家の庭には見越しの松が植えられているのも特徴の一つである。
旧朝鮮人街道もある。
また、この地と関係が深いヴォリーズの記念館もあり、多彩である。
商家群が尽きると「八幡堀」である。
豊臣秀次が、城下町を造る時に、琵琶湖への船の出入りを考慮して、造られたものである。
「八幡堀」には幾つかの橋も架かっている。その一つの明治橋である。
堀の先は、「日牟禮八幡宮」の参道である。
右手には老舗の菓子舗「たねや」がある。
そして、神社の楼門が建っている。
楼門を潜ると拝殿、本殿拝所、そして能舞台である。
この神社の創建は2世紀とされ、当初は大国主神を祀っていたとされるが、時代は降って現在の祭神は、誉田別尊、息長足姫尊、比賣神とされている。
八幡宮の先には、八幡山に登るロープウェイがある。
これに乗って八幡山への登山である。
八幡山には、八幡山城跡がある。
283mの山頂を本丸とした城であった。
八幡山城は、信長が本能寺事件で亡くなった後、近江国を治めるために、安土城に代って南西のこの山に豊臣秀吉の手で築城されたもので、秀吉の甥の秀次が居住した。
しかし秀吉に実子秀頼が生まれたため、秀次に謀反ありとの理由で自害させられ、その後廃城となった。
本丸跡には秀吉の姉で秀次の母日秀尼が京都嵯峨に創建した村雲御所瑞龍寺門跡が城跡に移築されて来ていて、その山門が本丸への虎口である。
本丸周辺には石垣の遺構が残っている。
本丸石垣の下を歩く。
北の丸跡があり、北東方向に、手前に安土山そして右手に観音山(繖山)が良く見える。
様々な積み方の石垣が見られる。
さらに石垣に沿って回ると、今度は西の丸跡に到達する。
琵琶湖方向が良く見える場所である。
下山は登城道を辿ってみる。
近江八幡の市街地が見える。
秀次が安土の城下町を移築して産業商業の隆盛を図り、近江商人で知られる所となった。
さらに降りると、八幡公園内に秀次の像がある。
そして、近江八幡の地名の由来となった「日牟禮八幡宮」まで戻り、この地点で「近江八幡駅」のミニ探索を終了したのであった。