阪神電鉄本線7・杭瀬駅
大阪市の「大阪梅田駅」と神戸市の「元町駅」を起終点とする「阪神電鉄本線」の各駅を各駅下車で訪ねてみることにする。
今回は、大阪側の起終点の「大阪梅田駅」から6番目の駅で、「左門殿川」を渡り、兵庫県尼崎市に入ったところの「杭瀬(くいせ)駅」である。
「杭瀬駅」で下車する。
駅ホームは高架で、2面2線の相対式である。
駅の直ぐの北側に公園がある。
「宮前公園」と云い、その横の北向きの道は神社への参道である。
進んで行くと、「熊野神社」の社頭となる。
鳥居を潜ると、正面は「拝殿」である。
そして「拝殿」の背後には、「本殿」が祀られている。
祭神は、「素盞嗚命」、「天児屋根命」、「応神天皇」とされている。
この「熊野神社」は、江戸時代の初期、「尼崎城」の際、城下町の東に造営されたものとされる。
また、境内社として、「稲荷神社」、「神功皇后」を祀る「子安の池」なとが祀られている。
そう広い神社ではない。
裏参道には、社号石碑が建てられている。
そしてその前の道路は、「国道2号線」である。
先ほどの「宮前公園」まで戻り、神社側の入り口から入る。
公園には、遊具広場や多目的広場が設けられている。
公園の東側には、「神光宮」が祀られている。
神道系の宗教団体の様である。
祭神は、「天御中主神」、「高皇産霊神」、「神皇産霊神」、「大日孁貴」、「大己貴命」、「若宇賀能売命」、「八百萬大神」と記されている。
「神光宮」の正面は、鳥居、社号柱、そして「拝本殿」である。
また背後から本殿を眺めてみるが仏教の「本堂」のようにも見える風景であった。
次に、東方向の「左門殿(さもんど)川」の手前の「梶ヶ島」へと向かう。
尚、「左門殿川」とは、尼崎城主の戸田左門が、この地の洪水を憂慮し、新たに水路を開拓したことの名付けとされている。
その川の手前の「梶ヶ島」には、南向きに、「住吉神社」が祀られている。
境内へと入る。
広い境内で、社殿は少ない。
正面には、「拝殿」、「狛犬」が祀られている。
「狛犬」は天保2年の奉納とのことである。
「拝殿」の背後には「本殿」が祀られている。
本殿の祭神は、住吉三神(「底筒男命」、「中筒男命」、「上筒男命」)と「神功皇后」とされている。
この神社の創建は古く、「神功皇后」の「三韓征伐」の帰途、船団の一部がこの地に立ち寄り、「住吉三神」の守護のお礼として、軍船の舵を用いて神像を三体彫刻し、奉斉したとのことに基づくとされる。
また、舵から神像を刻んだことから、この地は「梶ヶ島」と呼ばれるようなったとされている。
そして、この地点で、「杭瀬駅」のミニ探索を終了したのであった。
今回は、大阪側の起終点の「大阪梅田駅」から6番目の駅で、「左門殿川」を渡り、兵庫県尼崎市に入ったところの「杭瀬(くいせ)駅」である。
「杭瀬駅」で下車する。
駅ホームは高架で、2面2線の相対式である。
駅の直ぐの北側に公園がある。
「宮前公園」と云い、その横の北向きの道は神社への参道である。
進んで行くと、「熊野神社」の社頭となる。
鳥居を潜ると、正面は「拝殿」である。
そして「拝殿」の背後には、「本殿」が祀られている。
祭神は、「素盞嗚命」、「天児屋根命」、「応神天皇」とされている。
この「熊野神社」は、江戸時代の初期、「尼崎城」の際、城下町の東に造営されたものとされる。
また、境内社として、「稲荷神社」、「神功皇后」を祀る「子安の池」なとが祀られている。
そう広い神社ではない。
裏参道には、社号石碑が建てられている。
そしてその前の道路は、「国道2号線」である。
先ほどの「宮前公園」まで戻り、神社側の入り口から入る。
公園には、遊具広場や多目的広場が設けられている。
公園の東側には、「神光宮」が祀られている。
神道系の宗教団体の様である。
祭神は、「天御中主神」、「高皇産霊神」、「神皇産霊神」、「大日孁貴」、「大己貴命」、「若宇賀能売命」、「八百萬大神」と記されている。
「神光宮」の正面は、鳥居、社号柱、そして「拝本殿」である。
また背後から本殿を眺めてみるが仏教の「本堂」のようにも見える風景であった。
次に、東方向の「左門殿(さもんど)川」の手前の「梶ヶ島」へと向かう。
尚、「左門殿川」とは、尼崎城主の戸田左門が、この地の洪水を憂慮し、新たに水路を開拓したことの名付けとされている。
その川の手前の「梶ヶ島」には、南向きに、「住吉神社」が祀られている。
境内へと入る。
広い境内で、社殿は少ない。
正面には、「拝殿」、「狛犬」が祀られている。
「狛犬」は天保2年の奉納とのことである。
「拝殿」の背後には「本殿」が祀られている。
本殿の祭神は、住吉三神(「底筒男命」、「中筒男命」、「上筒男命」)と「神功皇后」とされている。
この神社の創建は古く、「神功皇后」の「三韓征伐」の帰途、船団の一部がこの地に立ち寄り、「住吉三神」の守護のお礼として、軍船の舵を用いて神像を三体彫刻し、奉斉したとのことに基づくとされる。
また、舵から神像を刻んだことから、この地は「梶ヶ島」と呼ばれるようなったとされている。
そして、この地点で、「杭瀬駅」のミニ探索を終了したのであった。