近鉄奈良線17・河内小阪駅
奈良市の「近鉄奈良駅」と大阪市の「近鉄難波駅」を起終点とする近鉄奈良線」の各駅を途中下車で訪問してみる。
今回は、「近鉄奈良駅」から16番目の駅の大阪府東大阪市の「河内小阪駅」である。
「河内小阪駅」で下車する。
南口の駅前ロータリーの一隅には、「平和を祈る乙女像」、そして「見守地蔵」が祀られている。
そしてロータリーにはアーケード商店街の入り口がある。
「スカイドーム小阪本通」である。
更に、「司馬遼太郎記念館」の案内もなされている。
アーケードを進むと、上部に「ドーム」がある。
更に進むと、食品スーパーがあり、アーケードの出口となる。
途中で商店街の名称が変わったのであろう。
出口側の表示は、「サザンモール」である。
その南には公園がある。
「中小阪公園」である。
園内には、「司馬遼太郎」からのメッセージ「21世紀に生きる君たちへ」の一文が掲げられている。
小説家の「司馬遼太郎」は、1964年から、この東大阪市の小阪に住まいし、多くの作品を書き上げていることは良く知られている。
その住まいは、現在は「司馬遼太郎記念館」として運営されている。
その「司馬遼太郎記念館」を訪ねてみる。
南へ下がって行くと、この辺りは「東大阪 歴史の道」である。
進んで行くと、「記念館」の正門へと到着する。
中に入ってみる。
「司馬遼太郎」の書斎がある。
歌碑もある。居宅もある。
左手へと進んで行くと、建築家「安藤忠雄」の設の展示室である。
「遼太郎」の蔵書は6万冊もあると云われる。
そのうちの約2万冊が、書棚に所せましと並べられている。
「司馬遼太郎記念館」を後にして、「河内小阪駅」方向へと進む。
記念館の西側に神社の参道が見えて来る。
「小坂神社」である。
この神社は、天正20年(1592年)豊臣秀吉の許しを得て、この小坂の地に十八軒の家が移り住み、新たに開いた農地が水に恵まれ作物が実るよう、吉野の子守明神(吉野水分神社)と勝手明神(勝手神社)を迎えて小坂神社は創建されたとされる。
鳥居を潜ると拝殿、本殿である。
本殿の祭神は、天水分神(あめのみくまりのかみ)、國水分神(くにのみくまりのかみ)、受鬘神(うけのりのかみ)とされる。
境内には三間社の末社合祀社があり、「白龍稲荷大神」、「金刀比羅宮」、「豊栄大神」が祀られている。
また、境外には「行者神變大菩薩」の標柱が建つ「金峰神社」が祀られている。
そして、「河内小阪駅」まで戻り、今回のミニ探索を終了したのであった。
今回は、「近鉄奈良駅」から16番目の駅の大阪府東大阪市の「河内小阪駅」である。
「河内小阪駅」で下車する。
南口の駅前ロータリーの一隅には、「平和を祈る乙女像」、そして「見守地蔵」が祀られている。
そしてロータリーにはアーケード商店街の入り口がある。
「スカイドーム小阪本通」である。
更に、「司馬遼太郎記念館」の案内もなされている。
アーケードを進むと、上部に「ドーム」がある。
更に進むと、食品スーパーがあり、アーケードの出口となる。
途中で商店街の名称が変わったのであろう。
出口側の表示は、「サザンモール」である。
その南には公園がある。
「中小阪公園」である。
園内には、「司馬遼太郎」からのメッセージ「21世紀に生きる君たちへ」の一文が掲げられている。
小説家の「司馬遼太郎」は、1964年から、この東大阪市の小阪に住まいし、多くの作品を書き上げていることは良く知られている。
その住まいは、現在は「司馬遼太郎記念館」として運営されている。
その「司馬遼太郎記念館」を訪ねてみる。
南へ下がって行くと、この辺りは「東大阪 歴史の道」である。
進んで行くと、「記念館」の正門へと到着する。
中に入ってみる。
「司馬遼太郎」の書斎がある。
歌碑もある。居宅もある。
左手へと進んで行くと、建築家「安藤忠雄」の設の展示室である。
「遼太郎」の蔵書は6万冊もあると云われる。
そのうちの約2万冊が、書棚に所せましと並べられている。
「司馬遼太郎記念館」を後にして、「河内小阪駅」方向へと進む。
記念館の西側に神社の参道が見えて来る。
「小坂神社」である。
この神社は、天正20年(1592年)豊臣秀吉の許しを得て、この小坂の地に十八軒の家が移り住み、新たに開いた農地が水に恵まれ作物が実るよう、吉野の子守明神(吉野水分神社)と勝手明神(勝手神社)を迎えて小坂神社は創建されたとされる。
鳥居を潜ると拝殿、本殿である。
本殿の祭神は、天水分神(あめのみくまりのかみ)、國水分神(くにのみくまりのかみ)、受鬘神(うけのりのかみ)とされる。
境内には三間社の末社合祀社があり、「白龍稲荷大神」、「金刀比羅宮」、「豊栄大神」が祀られている。
また、境外には「行者神變大菩薩」の標柱が建つ「金峰神社」が祀られている。
そして、「河内小阪駅」まで戻り、今回のミニ探索を終了したのであった。