大阪環状線18・野田駅
「大阪駅」を起終点とする「大阪環状線」を、「大阪駅」から時計回りに各駅下車で訪ねてみる。
今回は、「大阪駅」から時計回りの17番目で、大阪市福島区にある「野田駅」である。
「野田駅」で下車し、駅の南東側から出る。
隣には大阪メトロの「玉川駅」があり、乗換駅でもある。
駅の正面の風景には「野田城跡」がある。
城跡の脇の道を入る。
少し行くと浄土真宗の寺院がある。
「野田御坊 極楽寺」と云う。
門前には「野田城趾」の石柱が建つ。
他にも「證如上人御舊跡」の灯篭も建っている。
野田城は戦国時代に織田信長やそれに敵対する三好三人衆、はたまた本願寺側の拠点となった所である。
当初、畿内の奪回を目指す三好三人衆が四国で挙兵し、野田城によった。
させじと信長は急遽北国から反転、天王寺・海老江に対陣したが、石山本願寺の挙兵もあり苦戦を強いられ京都へ退いた。
その後野田城は、本願寺側や信長軍の拠点ともなったが、残念ながら遺構も見つかっていない。
字名からこの辺りが城跡であろうとされている所である。
「野田御坊 極楽寺」の右隣には神社がある。
「恵美須神社」と云う。
広い境内の正面には拝殿・本殿が祀られている。
祭神は、事代主大神、天照皇大神、八幡大神である、創建は12世紀の初めとされる。
野田城と一体であったようで、戦災にあったが、三好氏により社殿が造営されたとの記録もある。
境内社として、熊野神社、金刀比羅神社、稲荷神社も祀られている。
また境内には、野田藤の藤棚、神具庫、地車庫などもある。
恵美須神社の北側には、本願寺派の「円満寺」と云う寺院がある。
その寺院の門前の一角に灯篭や石碑が建っている。
1533年、福島・野田を訪れた本願寺の証如上人が、近江の佐々木六角定の軍勢によって襲撃され、守ろうと門徒の百姓衆が鋤・鍬・鎌を持って敵兵に立ち向かい、証如上人を無事に紀州に逃したが、信徒21人が犠牲になり、その慰霊である。
東側の阪神高速の高架道路の向こうに、朱塗りの鳥居が見えるので行ってみる。
「影藤大神」、「白藤大神」である。
「野田藤」に係る由緒書きもある。
第2代将軍足利義詮の有名な歌も記されている。
「いにしえの ゆかりを今も むらさきの 藤なみかかる 野田の玉川」である。
また、その並びには「玉川南公園」があり、野田藤の藤棚もある。
そして、道を奥へと入ると野田藤の「春日神社」である。
春日神社であるので、藤原氏の祖人を祀っているが、この野田村の庄屋であった「藤氏」の氏神として祀られていたとのことである。
野田藤の標柱や、門前にも藤棚が設けられ、まさに野田藤の拠点である。
南方向へと行く。
堂島川と土佐堀川の合流点でこの先、安治川となるが、そこには「船津橋」が架かっている。
堂島川の向こうには、中之島のシンボルでもある「NCB(中之島センタービル)」が見える。
そして橋の手前の右手には「大阪市中央卸売市場 本場」の入り口がある。
この地点で、「野田駅」のミニ探索を終了する。
尚、「野田駅」の発車メロディーは、この市場に関係するロシア民謡の「一週間」である。
冒頭の「日曜日に市場へ出かけ ・・・」に因んでいる。
今回は、「大阪駅」から時計回りの17番目で、大阪市福島区にある「野田駅」である。
「野田駅」で下車し、駅の南東側から出る。
隣には大阪メトロの「玉川駅」があり、乗換駅でもある。
駅の正面の風景には「野田城跡」がある。
城跡の脇の道を入る。
少し行くと浄土真宗の寺院がある。
「野田御坊 極楽寺」と云う。
門前には「野田城趾」の石柱が建つ。
他にも「證如上人御舊跡」の灯篭も建っている。
野田城は戦国時代に織田信長やそれに敵対する三好三人衆、はたまた本願寺側の拠点となった所である。
当初、畿内の奪回を目指す三好三人衆が四国で挙兵し、野田城によった。
させじと信長は急遽北国から反転、天王寺・海老江に対陣したが、石山本願寺の挙兵もあり苦戦を強いられ京都へ退いた。
その後野田城は、本願寺側や信長軍の拠点ともなったが、残念ながら遺構も見つかっていない。
字名からこの辺りが城跡であろうとされている所である。
「野田御坊 極楽寺」の右隣には神社がある。
「恵美須神社」と云う。
広い境内の正面には拝殿・本殿が祀られている。
祭神は、事代主大神、天照皇大神、八幡大神である、創建は12世紀の初めとされる。
野田城と一体であったようで、戦災にあったが、三好氏により社殿が造営されたとの記録もある。
境内社として、熊野神社、金刀比羅神社、稲荷神社も祀られている。
また境内には、野田藤の藤棚、神具庫、地車庫などもある。
恵美須神社の北側には、本願寺派の「円満寺」と云う寺院がある。
その寺院の門前の一角に灯篭や石碑が建っている。
1533年、福島・野田を訪れた本願寺の証如上人が、近江の佐々木六角定の軍勢によって襲撃され、守ろうと門徒の百姓衆が鋤・鍬・鎌を持って敵兵に立ち向かい、証如上人を無事に紀州に逃したが、信徒21人が犠牲になり、その慰霊である。
東側の阪神高速の高架道路の向こうに、朱塗りの鳥居が見えるので行ってみる。
「影藤大神」、「白藤大神」である。
「野田藤」に係る由緒書きもある。
第2代将軍足利義詮の有名な歌も記されている。
「いにしえの ゆかりを今も むらさきの 藤なみかかる 野田の玉川」である。
また、その並びには「玉川南公園」があり、野田藤の藤棚もある。
そして、道を奥へと入ると野田藤の「春日神社」である。
春日神社であるので、藤原氏の祖人を祀っているが、この野田村の庄屋であった「藤氏」の氏神として祀られていたとのことである。
野田藤の標柱や、門前にも藤棚が設けられ、まさに野田藤の拠点である。
南方向へと行く。
堂島川と土佐堀川の合流点でこの先、安治川となるが、そこには「船津橋」が架かっている。
堂島川の向こうには、中之島のシンボルでもある「NCB(中之島センタービル)」が見える。
そして橋の手前の右手には「大阪市中央卸売市場 本場」の入り口がある。
この地点で、「野田駅」のミニ探索を終了する。
尚、「野田駅」の発車メロディーは、この市場に関係するロシア民謡の「一週間」である。
冒頭の「日曜日に市場へ出かけ ・・・」に因んでいる。