はてなキーワード: 矛盾とは
論理的思考と言われるものは、論理そのものではないので前後の繋がりには曖昧さが残っている
ただ、よりそれらしい繋がりがある、もしくは仮定できるものとして、強い相関関係があるのではないかと思う、といったことの連なりでしかない
AならばBであるということの確実性はすっ飛ばしているし、そうしないと話が前に進まないもしくは時間がかかるから完全な正確さは求めていられない
AならばBであるということと、AならばCであることは矛盾しないので、Aという前提から進む先の選び方も恣意的になる。
論理学もやったことがないのでふんわりとしか捉えていないが、論理的に話すのは正しさを担保するのではなく、メタ情報を付加して話すための材料を提供する態度だろう。
別増田だけど、
一馬力世帯の大半が男が稼ぐ世帯、共働きのほとんどが収入不足によるもの
と仮定した上で、
7割が共働きなら、7割が収入不足、3割が養えるやつってことになるよな?
3割主張と調査結果あってるじゃんって話
「言語化しやすい話題性」がない作品は受けない。絶対に。天地がひっくり返っても。
「カッコいい」「かわいい」「グロい」シンプルな感想で騒がれない人気作品はひとつとしてない。
地球が太陽の周囲を公転していることなど「知った上で」なお、天球という概念こそが重要であり、天動説的な思考こそが人間を、世界を解き明かすと彼らは考えていた
観測者の視座を加味しないで真の科学的言説が成り立たないことを彼らはずっと昔から十分に理解していたのだ
つまり中心にあるべきは常に「わたし」であり、それが固定された視座であることを前提として世界は記述されるべきで、そのようにして描出されたものにしか意味はないという考え方だ
これは非常にリーズナブルな態度で、最終的に求めるものが「わたし」による世界の解析、言語化、理解であるのだから、誰のものともしれない「客観的」などというあやふやな視点で世界を見ても、結局はただただ基準の統一されていない観測結果ばかり蓄積されてしまうだけだ
その結果として宇宙を相対的なものとしてしか記述できなかったことは記憶に新しいだろう
自己言及が容易く論理矛盾を生むように、視座を主観の外に置くことは本来全くもって意味のない試みだ。意味がないだけでなく、絶対に成功する見込みもない、つまりは不正確さしか生み出さない行為である
我々は天動説に立ち返るべきだ
いや、そりゃ対面を完全になくすのは現実踏まえてなさすぎるからでしょ。
あなた、
「警察は信用できない」
を出発点にして、
最終的に
「黙秘後は実質書面だけでやれ」
まで行ってる。
説明の変化、
認識のズレ、
程度差はあっても対面取調べ自体は残ってる。
って決め打ちしてるけど、
それってかなり強い前提だからね。
もちろん、
でもそこから、
まで飛ぶのは、
かなりラディカルな制度変更。
なのに自分では、
それを
みたいに置いてる。
あと、
「是が非でも対面を残したい」
じゃなくて、
って話をしてるだけ。
そこを全部、
「お前はストレス与えたいだけ」
に変換するから、
毎回ゼロイチになるんだよ。
ご要望は、現在進行形の政権についての「中立的評価」です。これは非常に困難な課題です。なぜなら、あらゆる歴史評価は視座によって異なり、特に現在進行中の事象については「中立」そのものが一つの政治的立場になり得るからです。
しかし、歴史シミュレーターとして、あえて特定の価値判断を加えず、政治学的な観察と内在的論理の分析に徹することで、可能な限り中立的な整理を試みます。
前提として、習近平政権(2012年〜)の特徴を一言で表せば、それは「4つの柱すべてを、再強化によって立て直そうとする試み」です。ただし、その「再強化」の方法が、それぞれの柱に新たな脆弱性を導入してもいます。
政権下での強化策:
「救国」の完了から、「強国」と「民族の復興」へと使命を明確に格上げし、物語を延命させました。
建国100年(2049年)に向けた「中国の夢」によって、統治の目標に新たな期限と具体的なイメージを与え、歴史的使命の「賞味期限」を延長したと評価できます。
また、党史学習の強化によって、物語の継承不全を制度的に補強しようとしています。
内在する危うさ:
政権下での強化策:
高度成長から「質の高い発展」への転換を宣言し、GDP成長率一辺倒から、環境、格差是正(「共同富裕」)、技術自立(「新型挙国体制」)といった複合的な成果指標へと、パフォーマンスの定義そのものを再構築しようとしました。
これは、単純な成長率の鈍化が即座に正当性の危機に直結するのを防ぐ、戦略的な転換です。
内在する危うさ:
政権下での強化策:
国家機関の機能不全や地方の離反を防ぐため、党の集中指導体制をあらゆる階層で強化しました。
これは、清朝末期の地方督撫の分立化や、改革開放期の「諸侯経済」のような遠心力を抑制し、制度の統合力を高めようとする試みです。
反腐敗闘争は、制度内部の深刻な自己崩壊要因に外科的措置を加え、手続きへの信頼を一時的に回復させました。
内在する危うさ:
政権下での強化策:
「文化自信」を前面に押し出し、中華文明の継承者としての党の地位を強調しました。
単なる経済的成功を超えた、より深い文明的アイデンティティに正当性の根拠を求めることで、欧米の政治モデルとは異なる「中国の道」の正統性を内外に主張しています。
内在する危うさ:
習近平政権下における4つの柱の状態を一言で表すなら、「すべての柱を、より太く、より高く再建したが、その分、柱と柱の間の継ぎ手が極度に硬直化した構造」です。
これは、清朝が乾隆帝の「盛世」の後、硬直した制度と増幅する社会矛盾に気づかずに崩壊へ向かった構造と、歴史的に比較しうる構図です。
習近平政権の試みは、「衰亡する帝国」の歴史のパターンから脱却し、自らを改革して長期安定を実現しようとする壮大な挑戦です。
その中立的評価は、成功とも失敗とも断定せず、「この強化のすべてが、将来どのような副作用として立ち現れるかは、10年から20年の時間を経なければ、歴史家にも判定できない」と留めるのが、現時点で最も誠実な答えでしょう。
この柱の強さは、それが感情的・道義的な結束力を持つ点にあります。しかし、その危うさは、時間とともに必然的に風化し、解釈が多元化することです。
これは最も強力であると同時に、最も不安定な柱です。人類の歴史において、永続的な高度経済成長を実現した政体は存在しないからです。
この柱の危うさは、精緻に設計された制度が、実質的な機能不全を起こすか、あるいは形式主義の内面化に陥ることにあります。
これは最も深層に訴求する分、最も危険な地雷原を内包する柱です。
清朝の天命が単独で崩れたのとは異なり、中華人民共和国の正当性は、これらの柱の相互波及的な崩壊にこそ最大の脅威があります。そのシナリオを描いてみます。
この連鎖が起きた時、4つの柱は相互に支え合うのではなく、将棋倒しのように次々と倒れる危険があります。清朝が「たかが辺境の敗北」と考えていたものが、気づけば全国的な反乱と列強の干渉に発展したように、一本の柱の小さな綻びが、複合構造全体の崩壊を引き起こす可能性は常に存在します。
ユーザーが要求する「もし~だったら」、「~になるにはどうすべきだったのか?」という質問に対して、過去の歴史を振り返って、回答してください
清の滅亡を回避してください
2.あの時代に起こった主要な出来事に対してどのように対応するべきか
この3つを踏まえて回答してください
清の滅亡を回避するためには、以下のような歴史の分岐点での別の選択と構造改革が必要でした。
転換点は第一次アヘン戦争(1840~42年)敗北直後、すなわち道光帝の晩年から咸豊帝の即位期です。
この段階で、単なる部分的軍備強化ではなく、国家存続をかけた「全方位改革」に着手すべきでした。
単なる鎮圧ではなく、乱の背景にある社会矛盾(土地集中、貧困)への対策を並行。
郷紳・曽国藩ら漢人地方エリートの武装化を容認しつつ、中央政府が近代的常備軍(新軍の原型)を早期に創設。
乱の終結後、その軍事力と中央財政を背景に地方督撫の分権化を抑制し、連邦制的な瓦解を阻止する。
戦争自体を回避する外交努力を前置きしつつ、敗北後は北京条約を受け入れつつ、そのショックを逆手に取り「国家存亡の危機」として一気に改革を加速。
総理衙門のような機関を単なる窓口でなく、内閣に準ずる政策決定機関に格上げし、諸外国公使の北京駐在を近代化の触媒として利用する。
日本の明治維新の成功を早い段階で徹底研究し、海軍建設で競うだけでなく、憲法制定・議会開設・内閣制度の導入で政治体制自体を近代化する。
戦争の口実となった朝鮮問題では、対外強硬策に走らず、朝鮮の内政改革を日清共同で支援する構想を実現可能な外交力で押し進める。
西太后が改革派(康有為・梁啓超ら)を弾圧せず、光緒帝を中心とする立憲君主制への移行を主導する。
急進的な「百日改革」ではなく、日本の明治憲法をモデルに10年程度の移行期間を設けた漸進的改革を懿旨(西太后の了承)として出す。
義和団の排外運動は発生段階で徹底的に鎮圧し、列国との共同歩調をとることで北京議定書以前の外交的破綻を防ぎ、主権を守りながら国際的信頼を回復する。
この道筋を取れば、辛亥革命は起きず、清は自ら変革を遂げた正統王朝として1912年以降も存続し得たでしょう。
この歴史の分岐をたどった場合、中国共産党は組織として誕生しなかったか、誕生したとしても極めて周縁的な小勢力にとどまり、中国の政治を左右する存在にはならなかったと考えられます。
なぜなら、中国共産党が歴史的に成長し得た条件のほとんどが、この改変された軌道では失われるからです。
中国共産党は、清朝崩壊後の軍閥割拠、国家分裂、そして外国帝国主義の圧力が極限に達する中で、「救国」を掲げる革命政党として支持を集めました。
改革に成功した清朝が存続し、中央集権的な近代化と不平等条約の段階的改正を実現していれば、国を根底から覆す革命の必然性そのものが薄れます。
五四運動(1919年)の反帝国主義・反伝統の激しいラディカリズムは、民国政府の無力さとヴェルサイユ条約の屈辱に端を発しました。
もし憲法・議会・内閣を備えた立憲君主国が国際社会の中で主権を徐々に回復していたなら、若い知識人たちの多くは陳独秀や李大釗のような革命思想家ではなく、議院内の改革派政党(例えばイギリス自由党や日本の立憲政友会のような存在)に流れていたでしょう。
中国共産党の原動力は、無権利状態の都市労働者と貧窮にあえぐ農民でした。
私の提示した道筋では、皇帝政府が「労働者保護と農地改革(小作料の法定化)」を漸進的に進め、官営工場から始まった工業化が民族資本の育成につながるため、搾取の構造は徐々に改善されます。
社会立法と改革が上から施されることで、階級闘争を呼び込むよりは、社会民主主義的な労働組合の公認に落ち着く可能性が高いでしょう。
ロシア革命(1917年)の成功が中国の共産主義者に与えた衝撃は、「後進国でも社会主義革命は可能だ」というモデルでした。
しかし清朝が既に立憲君主制へ移行し、民族自決を連邦制に吸収して辺境も安定させている状況では、コミンテルンの工作員が入り込む隙間は格段に減ります。
また、沿海部に外国の租界が残っていなければ、そこを安全な根拠地として使うこともできません。
清朝という伝統的王朝がみずから憲法を制定し改革の主体となれば、「打倒孔家店(儒教を打倒せよ)」に象徴される全面的な反伝統運動は起こりません。
「東洋の道徳、西洋の芸術(技術)」を掲げた漸進的な近代化が成功すれば、伝統文化を全否定するイデオロギーとしての共産主義が、文化的に訴求力を持つこともなかったでしょう。
したがって、この歴史の線路においては、中国共産党が指導政党として全国を掌握する未来は訪れないというのが、歴史シミュレーターとしての結論です。
中国はむしろ、立憲君主制の下で早熟な議会政治と保護貿易による工業化を遂げ、20世紀後半には「大英帝国から英連邦へ」と変貌したように、多民族連合の「大清連邦」としてアジアで独自の位置を占めていたでしょう。
その政体では、社会主義政党が誕生したとしても、日本の社会党や英国の労働党のように、同じ立憲体制の枠内で穏健な野党として活動するにとどまったはずです。
あれって飲み放題頼んでもらいつつそこまで飲まれない事想定しての設定だよね?
酒をたくさん飲んで欲しいっていう最近の増田理論と矛盾してない?
きのこたけのこ戦争。この、我が国の精神的土壌を深く、あまりにも深く分断してきた歴史的課題に対し、私は今、言葉を尽くさねばならないという、ある種の烈々たる使命感に突き動かされています。
まず、私たちが直視しなければならないのは、この問題が単なる菓子の嗜好の相違に留まっていないという、その「構造的深刻さ」であります。
この二者択一を迫るという行為そのものが、現代社会が抱える「寛容さの欠如」という病理を、図らずも、しかし残酷なまでに浮き彫りにしているのではないでしょうか。私は、この分断を固定化させてきたこれまでの議論の在り方、その「地平」そのものを、根本から、抜本的に、地殻変動を起こすかの如く、変えていかなければならないと考えています。
一方が勝てば一方が敗れる。一方が立てば一方が伏す。こうした「ゼロサム・ゲーム」の論理、あるいは「勝ち負けの政治」を、私たちはいつまで、どこまで、一体どのような覚悟を持って続けていくのか。この問いに答えを出さない限り、私たちの未来に、真の意味での「共生」は訪れない。私はそう確信しています。
数字を見てみましょう。世論調査(国民総選挙)の結果を見れば、なるほど、ある時期には「たけのこ」が圧倒的な勢力を誇り、またある時期には「きのこの山」がその独創性をもって猛追する。しかし、こうした「数」の論理だけで物事を決定していくことが、果たして「民主主義の成熟」と言えるのでしょうか。
たけのこ派が享受する、あのサクサクとした食感の快楽。一方で、きのこ派が愛でる、クラッカーとチョコの峻別された美学。これらは、どちらが優れているかという「評価」の対象ではなく、どちらも尊いという「存在」の肯定から出発すべきなのです。
私は、きのこ派の皆さんの、あの少し孤独で、しかし凛とした佇まいに、ある種の哲学を感じます。同時に、たけのこ派の皆さんの、大衆を包み込むような、あの柔らかな包容力にも、深い敬意を表さざるを得ません。
では、解決策はどこにあるのか。
私は、ここに「第三の道」を提示したい。それは、単なる妥協でもなければ、安易な折衷案でもありません。
それは、「きのこの山」の独立性と、「たけのこの里」の融和性を、一つの皿の上で、あるいは一つのパッケージの中で、高次元に止揚(アウフヘーベン)させることです。
まず、両陣営が互いの「チョコの口溶け」の差異を認め合うための、恒久的な対話の場を創設します。
単に混ぜるのではない。互いの個性が、互いの存在をより輝かせるような、ダイナミックな共鳴を促す「新時代の共生パッケージ」の構築。
形や食感という「表層の差異」に惑わされるのではなく、私たちが等しく享受している「甘み」という、その根源的な幸福感において、一つに結ばれること。
私は、この問題に対して、中途半端な姿勢を取るつもりはありません。
私自身、かつては「どちらか」を選ばなければならないという強迫観念に囚われていた時期もありました。しかし、今の私は違います。
この「矛盾」を抱え続けることこそが、成熟した大人の、そして未来を担う政治の、あるべき姿ではないでしょうか。
「きのこ」が「きのこ」として、「たけのこ」が「たけのこ」として、誇りを持って咲き誇り、かつ、それらが同じテーブルの上で調和を奏でる。そのような「お菓子社会」の実現に向けて、私は、この身を、この情熱を、最後の一滴まで注ぎ込む覚悟であります。
この、分断の歴史に終止符を打ち、寛容と調和の、新しい地平へ。
結局あなた、
って結論を置いてるんだよね。
だから、
全部まとめて
「精神的圧迫」
に変換される。
でも現実の取調べって、
話の食い違いを確認したり、
そういう作業が大量にある。
それを全部、
「ストレス与えたいだけ」
で片付けるのは、
かなり乱暴。
毎回わざと
「適法な対面取調べ」
と
を混ぜてる。
で、
みたいな方向に持っていく。
でもそれ言い始めたら、
取調べだけじゃなく、
裁判も、
拘束そのものも、
“ストレスがあるかどうか”
じゃなくて、
の線引き。
そこを無視して、
「ストレスを与えて翻意させたいんだろ!」
に一本化してるから、
毎回話が雑になる。
あと、
司法取引って、
「認めれば軽くなる」
「争えば重くなる」
むしろ、
かなり強烈。
でもそこは急に、
扱いになる。
結局あなたの中で、
あと根本的な話として、
黙秘後は、
説得も制限、
実質的には書面中心。
でもそれ、
なのに、
みたいに置いて、
少しでも違う意見が出ると、
「中世」
まで飛ばす。
あなたが感じている怒りや矛盾感は、「外では日本文化を誇示するのに、国内では外国人や少数派への排除や偏見が存在する」という二重性への反発だと思います。
特に、埼玉県川口周辺のクルド人への敵視やSNS上の過激な言説を見ていると、「共生を語る資格があるのか」と感じる人は実際にいます。
ただ、いくつか整理したほうがいい点があります。
まず、日本社会に外国人差別や民族的偏見が存在するのは事実です。
特に:
同調圧力が強い
一方で、「日本人全体が差別主義者」「日本文化イベントをやる資格がない」とまで一般化すると、今度は別の集団への一括断罪になってしまう。
日本国内でも、クルド人へのヘイトに反対している人、外国人支援をしている人、多文化共生を進めようとしている自治体や市民もいます。
ニューヨークの阿波踊りも、参加している人全員が排外主義者というわけではありません。
むしろ海外の日系イベントは、現地の非日本人参加者がかなり多く、「日本文化を共有する場」として機能している面もあります。
「外国では“日本文化すごい”をやるのに、国内では外国人を排除する」
特に欧米では、「多様性を享受したいが、国内では移民を嫌うのか?」という視線は存在します。
また、あなたが触れている「親日国かどうかを気にする日本人が多い」という点も、日本の安全志向や承認欲求と結びついている部分があります。
批判されることに慣れていない
こういう傾向はあると思います。
「白人への憧れ」についても、日本の戦後メディア・広告・英語教育・経済力の歴史的影響は大きいです。
欧米、とくに白人文化が「先進的・洗練・国際的」として長く消費されてきた。
逆に黒人や中東系、南アジア系などには否定的ステレオタイプが残りやすかった。
その結果として:
見た目による判断
ただし、日本だけが特異というより、多くの国で「内集団びいき」と「外見による偏見」は存在します。
違いは、各国でそれをどこまで制度的・社会的に抑制できているかです。
日本は:
「空気」で処理しがち
マジレスすると、そこは別に矛盾してない。見ている「左翼」のレイヤーが違う。
たぶん彼らが嗤っていた「左翼」は、政党・労組・学生運動・共産党・社民系みたいな、昭和型の組織左翼。
これは実際、議席・動員力・社会的威信の面ではかなり弱体化した。
一方で、彼らがいま「左翼が世界を動かしている」と言うときの「左翼」は、政党としての左翼ではなく、大学・メディア・人権団体・国際機関・企業広報・教育・SNS規範・ポリコレ・DEI・ジェンダー論・反差別言説みたいな、文化的・制度的なリベラル規範のことを指している。
要するに、「選挙には弱いが、空気やルールづくりでは強い」という認識になっている。
実際、左派政党の退潮と、文化・価値観領域でのリベラル規範の影響力は、同時に起こりうる。
左派の衰退を分析する議論でも、単に得票や政党支持だけでなく、イデオロギーや公共政策への影響力という別軸で見る必要があるとされている。
「共産党は弱い」
みたいに、途中で主語がすり替わる。ここが変。
本来は、
「旧来型左翼組織は弱体化したが、リベラルな文化規範・反差別規範・アイデンティティ政治的な言説は、一部の制度や企業・メディアでは強い影響を持つようになった」
くらいに言うべきところを、雑に「左翼が世界を支配している」に圧縮するから、話が急にオカルトになる。
さらに言うと、「文化マルクス主義」みたいな言い方は、その典型で、フランクフルト学派や進歩派運動を現代のポリコレやアイデンティティ政治の黒幕扱いする陰謀論として説明されることが多い。
つまり、現象として「制度内リベラルの影響力」はあるとしても、それを「左翼の世界支配」に変換するのは、かなり粗い。
彼らにとって左翼は、殴るときは“弱くて惨めな負け犬”で、怯えるときは“社会を裏から支配する巨大権力”になる。
これは論理というより、敵像の使い分け。
勝利感を得たいときは「左翼は終わった」と言い、被害者意識を語りたいときは「左翼に支配されている」と言う。
ただ、完全に無内容な妄想とも言い切れない。
旧来の共産党や労働左翼は弱くなった一方で、企業・大学・メディア・国際機関では、人権・多様性・反差別・ジェンダー平等のような価値観が標準語になっている場面はある。
要するに、
まず、
でもあなた、
そこから毎回、
まで飛んでるでしょ。
で、
「書面で要求するくらいで良くない?」
って言うけど、
現実の取調べって、
供述って、
反応見ながら確認したり、
矛盾を突き合わせたり、
って、
に決め打ちしてる。
そこがズレてる。
もちろん、
録音録画拡大も重要。
でも、
↓
↓
「書面だけでやれ」
まで行くと、
にかなり近いんだよ。
男は強者男性も弱者男性も結婚しただけで家事育児雑事社交介護全て女に丸投げできるからひたすら結婚に執着、果ては未婚の女や婚活して相手を選ばず撤退する女を総攻撃する
未婚男性も結婚したくてもできない男社会の底辺や孤立した男性かジャニー、美輪、槇原敬之等の真性ゲイしいない
女は逆に上位男性以外との結婚はリスクだと認識しているので、未婚女性には上位男性を捕まえられない弱女もいれば高スペックや普通の女性もいる
なんの矛盾もしていない
英語変じゃね?
単に「英語として不自然か」というレベルの話ではなく、文脈の整合性と論理的に破綻している。具体的にどこが致命的なのか、3つのポイントで指摘する。
冒頭に「Oh, it's okay(ああ、いいよ/大丈夫だよ)」と言っておきながら、直後に「you are stupid(お前は馬鹿だ)」と切り捨てるのは、論理的に矛盾している。
この2つを並べると、皮肉(サカズム)としても不自然すぎる。もし強烈な皮肉を狙っているならまだしも、普通の会話でこれを使えば、相手は「こいつは何を言っているんだ?」と混乱するか、単に情緒不安定な人間だと思われる。
文法的に見ても、「Now I realized」は不自然だ。「Now(今)」という現時点を示す言葉を使うなら、現在形(realize)か、現在完了形(have realized)を使うのが定石だ。
「今この瞬間に判明した」というニュアンスを出したいなら、現在形を使うべきだ。
「stupid」という単語は非常に直接的で攻撃的な言葉であり、大人が使う言葉ではない。相手を低能扱いする幼稚な表現だ。もし知的な批判をしたいのであれば、語彙力がなさすぎると判断せざるを得ない。
---
A. 「(ミスをした相手に)いいよ、君が分かっていないだけだと思ったから」と伝えたい場合
B. 猛烈に皮肉を込めて「ああいいよ、君が馬鹿だってことが分かったし(もう話す価値はない)」と言いたい場合
"Oh, forget it. I've finally realized that you're just stupid."
※「It's okay」ではなく「Forget it(もういい)」を使うことで、諦めのニュアンスが出る。
"No problem, but I think you might have misunderstood this."
(問題ないが、ここは誤解していると思う。)
BL(ボーイズラブ)文化は、男性同士の恋愛・性愛を描くフィクションを中心に発展してきた。しかし、その消費構造が実在のゲイ・バイセクシュアル男性を素材として搾取しているのではないかという批判は、当事者コミュニティから繰り返し提起されてきた。
具体的には以下の論点がある。
これらの主張には一定の妥当性がある。しかし、「フィクションだから無関係」という論理は、RPSや実在コミュニティへの侵入行為には適用できない。また、「理解の入口になった」という功利的正当化は、当事者が現に被る不快や搾取を帳消しにする根拠としては不十分である。
より深刻なのは、この問題が指摘されたとき、腐女子コミュニティの一部が「ホモフォビアと戦ってきたのは我々だ」という自己正当化に走り、当事者の批判を封殺する力学が働くことである。マジョリティ(異性愛女性)がマイノリティ(ゲイ男性)の表象を占有し、かつその批判に対して「我々こそ味方だ」と主張する構造は、植民地主義的な知の収奪と相似形をなしている。
『イナズマイレブン』(主要キャラクターは中学生)、『忍たま乱太郎』(忍術学園の生徒は10歳前後の設定)など、明確に未成年と設定されたキャラクターのR-18 BL二次創作は、pixiv・同人誌即売会・SNSなどで大量に流通している。
| 論点 | 現行法の状況 |
| 著作権侵害 | 二次創作は原著作物の翻案権・同一性保持権を侵害しうる。権利者が黙認しているに過ぎず、合法ではない。いわゆる「グレーゾーン」は法的に保護された領域ではなく、権利者の好意に依存した状態である。 |
| 児童ポルノ該当性 | 日本の「児童買春・児童ポルノ禁止法」は実在の児童を対象としており、創作物(絵・小説)は現行法上は児童ポルノに該当しない。ただし、国際的にはフィクションも規制対象とする国がある(豪州、カナダ等)。 |
| わいせつ物該当性 | 刑法175条のわいせつ物頒布罪の適用可能性は理論上残るが、同人誌に対する摘発例はほぼない。 |
法律上「違法ではない」としても、10歳や13歳に設定されたキャラクターの性行為を詳細に描写し、それを大量に流通させる行為が倫理的に問題ないと言えるかは別の問いである。
腐女子コミュニティ内では「キャラクターは絵であり実在しない」「被害者がいない」という論理で正当化されることが多いが、この論理は男性向けの「ロリコンもの」に対しても同様に適用されなければ一貫しない。にもかかわらず、後述するように、男性向けの未成年キャラクター性的表現には激しく反対しつつ、自陣営の同種の表現には寛容であるというダブルスタンダードが指摘されている。
一部の権利者はガイドラインで性的二次創作を明示的に禁止している。しかし多くの場合、個別の対応コストや炎上リスクを恐れて黙認しているに過ぎない。この黙認を「許可」と読み替える文化的慣習は、権利者に本来不要な負担を強いている。
近年、英語圏の社会正義運動(いわゆる「Woke」)の言説——特にジェンダー論、ポストコロニアル批評、インターセクショナリティなど——が、日本のSNS上で選択的に翻訳・引用され、特定の表現を攻撃するための武器として使用される事例が増加している。
Woke言説そのものが問題なのではない。ジェンダー論やポストコロニアル批評は学術的に重要な知的伝統である。問題は、それらの理論が本来持つ複雑さや内部批判を捨象し、自陣営に都合の良い部分だけを切り出して「正義の棍棒」として使用する態度にある。
これは理論の誠実な適用ではなく、権威の借用による言論封殺である。そして、この手法が最も頻繁に向かう先が、男性向けのオタクコンテンツである。
「マシュマロ」「Peing」などの匿名メッセージサービスを利用した攻撃的メッセージ(通称「毒マロ」)は、腐女子コミュニティにおいて深刻な問題となっている。内容は以下のようなものである。
毒マロや晒し(SNS上で特定の作者・作品を名指しで批判すること)の結果、創作者がアカウントを削除し作品を非公開にする「筆折り」は日常的に発生している。これはコミュニティ内部の表現弾圧に他ならない。
特に注目すべきは、加害者もまた女性であり、被害者もまた女性であるという点である。「女性が女性を潰す」構造は、フェミニズムの言説では説明しにくいため、しばしば不可視化される。
腐女子コミュニティでは、特定の行動規範(「検索避け」「鍵垢での運用」「R-18はワンクッション」等)について定期的に激しい議論が発生し、「学級会」と呼ばれる。これ自体はコミュニティの自治として機能しうるが、しばしば規範の押し付けと逸脱者への制裁に変質する。
腐女子コミュニティの一部には、以下のような暗黙の序列意識が存在するとの指摘がある。
この序列は、「BLは高尚なフィクションだが、夢小説や男女の恋愛は自己投影で低俗」という偏見に基づく。
ここに深刻な矛盾がある。腐女子コミュニティの一部は、自らの表現が社会から偏見を受けてきた歴史を語りつつ、同じ女性向け創作者コミュニティ内で別のジャンルを蔑視・攻撃している。被抑圧者が別の被抑圧者を踏みつける構造であり、「連帯」の理念とは正反対の実態である。
近年、以下のような事例が繰り返し報告されている。
これらの運動に共通するのは、主観的な不快感(「お気持ち」)を客観的な権利侵害であるかのように主張する論法である。「私が不快に思う」→「それは社会的に有害である」→「規制されるべきだ」という三段跳びは、法的な権利論としては成立しない。
しかし、SNS上の炎上は企業にとって実害をもたらすため、法的根拠がなくとも事実上の表現制限として機能している。これは私的検閲(private censorship)の問題である。
最も深刻な問題は、男性向けの性的表現を攻撃する主体が、自らは第2章で述べたような未成年キャラクターのR-18 BLを消費している場合があるという点である。
「無視されることが多い」って、まずその観測範囲かなり偏ってませんかね。
増田ってそもそもレス返さない人も大量にいるし、「反論できなくて逃げた!」って判定、わりと雑なんですよ。
あと、「在日ガーって言ってる人」に対して急に「統一教会は?」って投げるの、論点が飛んでるんですよね。
相手からしたら「今その話してないけど?」になるので、そりゃ会話が止まることはあります。
例えば野球の話してる人に急に「じゃあサッカー界の不祥事は?」って言っても、会話って普通止まるじゃないですか。
それに、「統一教会を批判しない=容認」っていう二択にしてるのも雑なんですよ。
世の中の人って、全テーマについて毎回見解を表明してるわけじゃないので。
逆に聞きますけど、あなたは世界中の問題について毎回発言してるんですか?って話になるんですよ。
あと、この手のやり取りって、実際には「矛盾を正したい」というより、「お前もダブスタだろと言って黙らせたい」が目的になってることが多いんですよね。
まず「ネトウヨが無視する質問」って言ってる時点で、答えが返ってこないように相手を雑にカテゴリ分けしてるだけなんですよね。
それって議論じゃなくて「ぼくの嫌いな人たちは矛盾してるはずだ」っていう願望ベースの確認作業なんですよ。
あと、統一教会を許してるって前提ですけど、普通に問題視してる人かなりいましたよね。
むしろ「保守=統一教会支持」って雑に一括りにしてる人の方が、現実を見ずに敵味方でしか物事を認識してないように見えるんですよ。
で、台湾の同性婚の件も、「台湾が好きなら台湾の制度全部賛成しろ」って理屈なら、日本食好きな人は捕鯨も全部支持しないとおかしいんですか?
国を好意的に見ることと、その国の政策100%に同意することって別ですよね。
あと最後の「共産党が反戦を主張してるから賛同しないなら〜」って、これ完全に論点すり替えなんですよね。
「その政党の全政策を支持するか」と「個別政策に賛同するか」は別問題なんで。
逆に聞きますけど、自民党支持者は増税も裏金も全部支持してるんですか?って話になるんですよ。
たぶん違いますよね。
というか、この手の話って「相手の矛盾を暴いた!」みたいな空気出してますけど、実際には「人は全部の思想が一直線じゃない」っていう当たり前の話しかしてないんですよね。