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はてなキーワード: 1890年とは

2024-12-04

韓国クーデターが防がれたことを左派が絶賛しているが…

そこで終わらせれば良いものを、そのまま「日本には民主主義は無い」「日本なら自衛隊国民に銃を向ける」とか日本sageに繋げるから

憲法に戒厳規定入れたのも現大統領選んだのも韓国人だし、軍部クーデターどころか共産主義者虐殺もやってましたよね…と宇宙猫な顔になる。

 

てか、日本1890年から現在に至るまで、戦時下被災下、パンデミック下、を問わず選挙実施している民主的な国なんですが…。

2024-09-29

ちょっと凹んだ、1890年代のアメリカ人主婦用の書籍

内容がほぼ家政学衛生学栄養学、生理学文字びっしり300頁

日本主婦は何してたんだろ

勉強していたらきっともっと健康維持ができたやで

2024-07-25

フィクションにおける「世界征服」の歴史を知りたい気分だ

いわゆる悪の組織が最終目標に掲げるような世界征服

この概念の形が定まったのはいつ頃のどんな作品群によってなのか

病院の待ち時間暇つぶしに調べるのにちょうどいいお題だ

世界征服目的とした組織自分がまず最初に思いついたのは仮面ライダーショッカーだな

さて、ここから過去に向けて掘っていくか

こういうときニコニコ大百科にだいたい独自研究がまとまっているから助かる

あー、サイボーグ009ブラックゴースト世界征服目的

おっと、仮面ライダーサイボーグ009のどちらも石ノ森章太郎作品じゃないか

じゃあ「石ノ森章太郎作風に影響を与えたものは何か?」のような路線で掘っていけば何か見つかるかもしれないな

そういった観点であれば何か参考文献も見つけやすそうだ

別の観点でも一旦調べるか……アメコミとかだとどうなんだろ

ファンタスティック・フォーに登場するヴィランドクター・ドゥームも世界征服目的として掲げている?

ドクター・ドゥームの初登場が1962年7月

サイボーグ009刊行がいつだっけ?1964年7月

ドクター・ドゥームの方が早いが……

ファンタスティック・フォーを読んだことないんだよな

登場してしばらくして世界征服とか言いだしたかもしれんし

判断できない

しかし興味深いな

確かドクター・ドゥームってのは何かの組織首領みたいな感じではないんだったか

それに対してブラックゴースト組織世界征服を掲げている

ヴィラン個人で掲げる世界征服悪の組織として掲げる世界征服という違いがあるのだなあ

サイボーグ009(というか石ノ森章太郎)が影響を受けている可能性がある作品として007シリーズがあるか

007世界征服を目論む輩はいたっけか

いるわ

スペクターですね

さて、これの初出は?

小説の『サンダーボール作戦』で1961年かな?

なんかこの時代らへんって世界征服をもくろむキャラクターが登場する有名作品が沢山誕生しているんだな……

冷戦下のスパイ小説とかが世界征服をもくろむ悪人キャラクターの源流なのかしら

もっと過去に遡れるのかどうか

ナチス崩壊1945年あたりまで遡れるかも、という勘がある

当時の人にとって「世界征服」はフィクションではなくREALに起こりうる危機という感覚があったのかしら

核戦争による終末はREALの感覚があったかもしれないけれど世界征服はREALだったのかNOT REALだったのか

こういう「当時の人がどのような意識でこれを読んでいたか」という肌感覚を知ることができたらなあ

石ノ森章太郎自伝だかルーツをたどるみたいな本は予想通りあるみたいだな

じゃあ病院帰りにジュンク堂に寄りましょうね……

国会図書館デジタルコレクションで「世界征服」で検索するとだいたい1890年~くらいの資料が見つかる

けれどモンゴル帝国世界征服だったりナポレオン世界征服だったりどこぞの国が世界征服をもくろんでいるので我が国富国していこう(←これ正しく読めてないかも)みたいな文脈での用例になる

今の興味はあくまフィクションでの世界征服なんでね

あー、「世界征服という単語がREALからフィクションでの出来事となったのはいつか?」というテーマにもできるのか

横道にそれた話→現実の話で「世界征服」と言ったとき、「世界」が「地球全土」とか「地球上に存在するすべての地域」とかを意味していない場合がある

1984』の刊行1949年

世界征服とはちょっと違うか?しかし少なくとも隣接ジャンル

石ノ森章太郎SFの人だから海外SF小説に源流を探しに行くのも面白そうだ

宇宙人による地球侵略も隣接ジャンルだけれど……探す範囲が広範になってしまうな

当時のトキワ荘メンバーに源流があるかどうか?も探すか

陰謀論世界征服にまつわる話があるかもしれんな

エンタメとしてフィクションの題材に用いられるような類の陰謀論ネタ歴史が古いモノが何かないか一応見ておくか

ある程度調べたら日記にまとめるか

一旦ここまで

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読む

黄禍論 百年の系譜

黄禍論日本人 - 欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』

2024-03-11

漫画家寿命は本当に短いのか

鳥山明さんが68歳という若さで亡くなったことで、にわか漫画家寿命話題になっている。

漫画家は魂を削って作品を生み出す過酷職業だが、果たして一部だけを切り取って短命というのはどうなのか - Togetter

https://togetter.com/li/2328789

大元調査ツイートにはさっそくコミュニティノートも付けられており、確かにこれだけで短命かどうかを判断することはできない。

https://twitter.com/monakayoshihiro/status/1766072771971576033

この調査では、1987年まれ享年36歳の人を調査対象に入れている一方、1987年まれ2024年現在も存命の人(享年が80歳や90歳になる可能性のある人物)は調査対象になっておらず、平均寿命より低い年齢が導出されるのは当然です。

平均寿命とは、各年に誕生した人間調査年時点で生存している「割合」を用いて算出されるものです。

また、平均寿命は、1947年から2023年のうちに、男性は30.99年、女性33.13年伸びています

このことからも、1890年代生まれ1980年代まれの人を混ぜ合わせた今回の調査不適切であると言えます

https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/life22/dl/life22-15.pdf

そこで、私は以前、そうした事情考慮した 将棋棋士の平均寿命は本当に短いのか という記事を書いていたので、漫画家についても同様の手法グラフにしてみることにした。



(追​記: なぜか時々404になるのでU​R​Lを変更し​ました)

📈グラフhttps://f.hatena.ne.jp/Knoa/20240311125534



このグラフを見る限り、いくらか予感していたことではあったが、将棋棋士とは異なり、確かに「漫​画​家の平​均​寿​命は、世の中の平均よりも短い」と言えそうである。(ただし、ひかえめに見ても10歳以上とかなりの差ではあるものの、後述の注意事項には目を通しておいてほしい)

私たちに夢や感動や笑いを与えてくれる漫画家という職業ではあるが、きっと健康長生きしてくれれば、結果的にはもっとたくさんの漫画を生み出してくれることにも繋がるはずだと思う。それは出版社などにとっても、息の長いビジネスという観点から考慮する価値のあることなんじゃないだろうか?


データと注意事項

最中義裕 @monakayoshihiro

https://twitter.com/monakayoshihiro/status/1766729822607221162

3月8日にUPした「鬼籍に入った漫画家リスト」に関し

多くのご意見及び情報提供を賜り、御礼申し上げると共に、それらを加味し大幅改造した表を再UPいたします。

変更点は下記

没年齢が不明の方の追加

死因を記しました(報道ウィキ公表されている場合のみ)

没年平均値計算は止めました

なお、人選には何の基準もなく、私が過去漫画家さんの訃報を聞く度に書き留めたデータ

今回、皆様から寄せられた情報構成されているため、当然ながら、情報の偏りと(訃報訃報ニュースにならないマイナー作家を中心に)かなりの漏れがありますことをお詫びいたします。

もう一つ変更点(書き忘れ)

自殺事故死の方々も残しました

漫画家男女のグラフは男女比までは考慮しておらず、時代と共に女性比率が増えて、それに伴って死亡年齢が高くなっている可能性がある。(性別は精査していない)

※ 「訃報ニュースにならないマイナー作家」という偏りについては、単に世の中の平均からより乖離した上澄みを対象にしているだけと見ればよいが、逆に自殺事故死などで死亡年齢が若い場合ほど、マイナー作家でもニュースになりやすという事情が考えられる。本来であれば将棋棋士のように一律の条件でデータが揃っていればよいのだが。なお、自殺事故死は政府統計にも含まれているので条件は同じである

漫画家という職業自体歴史はある程度長くても、まだまだ発展途上の職業で、人口ピラミッド比率日本人平均より若い世代に偏っているという事情も考えられる。極端な話、たとえば2018-2022年における「Webデザイナー」の死亡年齢をデータ化しても、少数の不幸な事例ばかりが集まり、80歳で天寿を全うした事例は見つからないだろう。これを考慮して検証するには、存命中漫画家データ必要となり、なかなかむずかしい。参考: プロ漫画家は日本に何人いるのか? - 漫画の真ん中

政府統計は5歳ずつの階級中間値で平均して求めた(たとえば80-84歳での死亡を一律で82歳とみなしている)。新生児高齢者本来の死亡年齢より高く、それ以外は低く算出されやすいが、結果的にある程度相殺される。

政府統計は「その年」に死亡した男女だが、漫画家統計は「その年の前後5年(2020年なら2018-2022年)」に死亡した漫画家男女である2025年分の漫画家データは期間途中であり、今後2027年にかけて変動する。

政府漫画家誕生日までは考慮していないので、「80歳と11ヵ月」で死亡しても80.0歳として計算される。(どうしても平均寿命と比べたいなら、+0.5するとよいが、本来人口ピラミッドの影響も差し引かなくてはならない)


あとがき

データを公開してくれた最中義裕さんに感謝します。

記事グラフは、引用だけでなく他の職業などへの転用も歓迎します。

2024-02-28

軍艦建造シムしながら襲撃ドローン撃破ゲームを探した

これが惜しかった

1890年から1940年ごろまでの各国で軍拡競争が行われていた時代ベース

2023-10-15

anond:20231015181406

1905年明治38年3月会社としての古河鉱業経営となった。当時の明治政府富国強兵政策を背景に、銅山経営久原財閥日立鉱山住友家別子銅山とともに急速な発展を遂げた。20世紀初頭には、日本の銅産出量の40%ほどの生産を上げる大銅山に成長した[1]。

しかしこの鉱山開発と製錬事業の発展の裏では、足尾山地樹木が坑木・燃料のために伐採され、掘り出した鉱石を製錬する工場から排出される煙が大気汚染引き起こしていた。荒廃した山地を水源とする渡良瀬川洪水を頻発し、製錬による廃棄物を流し、足尾山地を流れ下った流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、広範囲環境汚染公害)を引き起こした。いわゆる、足尾鉱毒事件である1891年明治24年)、田中正造による国会での発言で大きな政治問題となった。1890年代より、鉱毒予防工事渡良瀬川改修工事は行われたものの、鉱害よりも銅の生産を優先し、技術的に未熟なこともあって、鉱毒被害は収まらなかった。

2022-10-21

anond:20221021121219

調べてくれてありがとうじゃねえよごめんなさいだろデコ助野郎

数字をもって主張するなら最初から自分情報源を示してください

どこから引っ張ってきた情報かによって読み手判断が変わるんで

60年代以前って具体的にいつだよ

総合すると明治1960年までのいずれの年も穀物自給率が120%を超えてたって主張に読めるんだけど

https://www.maff.go.jp/j/zyukyu/zikyu_ritu/ohanasi01/01-03.html

お米の自給率は、1890年代には100%を下回り、大正時代には94%、昭和初頭には85%まで下がりました(*1)。ただし、この頃、朝鮮半島台湾のお米は、輸入ではなく「移入」とされ、当時の日本政府は、日本本土朝鮮半島台湾を含めた圏内での自給を目指していくことになります(前掲の自給率は、移入も輸入に含めて計算されたもの)。大正6(1917)年の輸移入は、朝鮮半島のお米が48%、台湾のお米が31%、外米(英領インドビルマ)、仏領インドシナタイ)が21%となっていました

米だけでもこんなんだぞ

2022-05-28

明治時代、庄屋の娘が夫のDVから逃げて上京議員財政を立て直した話

矢島 楫子(やじま かじこ、1833年6月11日天保4年4月24日〉 - 1925年大正14年6月16日)は、日本女子教育者社会事業家

肥後国上益城郡津森村杉堂(現・熊本県上益城郡益城町)の惣庄屋矢島左衛門直明・母鶴の1男7女の6女(末子)に生まれ、かつと命名された。極端な男性社会にあって度重なる女児誕生は歓迎されず、名付け親10歳違いの姉である三女・順子であった。順子(竹崎順子)は、横井小楠の高弟である竹崎茶堂と結婚し、熊本女学校校長となった教育者である。また、順子のすぐ下の姉・久子(徳富久子)も同じく横井小楠の高弟である徳富一敬結婚し、湯浅初子・徳富蘇峰徳冨蘆花兄弟を生んでいる。蘇峰は明治大正昭和にかけての大論客、蘆花は明治大正文豪である。また、かつのすぐ上の姉つせ子(横井つせ子)は横井小楠の後妻となった。この姉妹4人は「肥後の猛婦」、「四賢婦人」と呼ばれた。

かつは学校などない当時、一通りの教育を母から厳しく身につけさせられるが、もとより勝気で秘めたる情熱の持ち主だったかつは、やがて母亡きあとは母に替わって兄・直方のために尽くす。その兄も妹のために良縁を求め、かつ25歳の時、初婚にはもはや遅いとして既に2男1女を儲けていた富豪林七郎(1828年生) を家柄・人物ともに相応と認め、後妻として嫁がせる。林は武家出身で、横井小楠弟子であった。後年楫子自身の口からも「この人は気品の高い、竹を割ったような人でした」と語らせるが、家族への乱暴など夫の酒乱の悪癖にかつは極度の疲労と衰弱で半盲状態に陥り、かつ自身も三人の子まで儲けながら、このうえは身の破滅と思い、末子達子を連れ家出する。迎えに来た使いの者に見事に結い上げていた黒髪を根元からプッツリ切って紙に包み、無言の離縁を言い渡したのである明治元年(1868年)、これを転機に新しい一歩を踏み出す「新生元年」ともなった。

妹たちの間を転々とする間、兄・直方が病に倒れ、達子を置いて上京を決意する。長崎東京行き蒸気船に乗り込み、船上にて自ら「楫子」と改名する。兄は大参事副知事兼務左院議員で、神田の800坪の屋敷に書生、手伝いらはもとより千円という借金を抱えていた。楫子はその放漫財政を正し、3年で借金を片付けると、生来の向学心から教員伝習所に通うこととなる。明治6年学制が施行され全国に小学校が設置、訓導試験合格した楫子は芝の桜川小学校(現・港区御成門小学校)に採用される。当時教員初任給3円のところ、楫子は5円という破格の待遇であった。

このころ長姉・藤島もと子が息子二人と、直方の妻・糸子も子供をつれて上京、兄宅は一気に賑やかになった。しかしそうした喧騒の中、楫子は妻子持ちの書生との間に女児を宿す。堕胎父親に渡すべきだと諭す姉の言を受け入れず、楫子は妙子(鵜飼猛の妻、湯浅清子の母)と名付け、練馬農家に預けて独り下宿生活に戻る。そんな折届いた兄から手紙で、熊本に残してきた長子・治定がキリスト教徒になったのを知り愕然とする。熊本学校生徒35名による花岡キリスト教奉教同盟事件である。治定だけでなく甥の横井時雄、徳富蘇峰徳冨蘆花も参加している。やがて熊本学校廃校になり、彼らの一部は、新島襄同志社入学し、熊本バンドと呼ばれることとなるが、この熊本バンド札幌バンド横浜バンドと並び日本におけるキリスト教の三大源流と言われている。教え子の居宅で父親の酒害を目撃し、寂しさでタバコを覚えた楫子だったが、悩める楫子にとってもキリスト教はわが子の信じる宗教であり、遠い異国の宗教ではなくなった。

明治11年(1878年)、楫子は後半生に多大な影響を受ける米国宣教師教育者マリア・ツルー夫人運命的に出会う。明治7年(1874年)にB六番女学校として設立された築地居留地にある新栄女学校教師に請われ、住み慣れた下宿を引き払い、同女学校寄宿舎舎監室に移る。

自ら吸いかけのタバコによるぼや騒ぎを起こして禁煙を決意、翌12年(1879年築地新栄教会ディビッド・タムソンから洗礼を受ける。ほぼ同時期に、三人の姉である富久子、横井つせ子、竹崎順子洗礼を受けている。当時17歳キリスト教徒であった甥の徳富蘇峰は、純粋がゆえに楫子の洗礼に際して、「過去の過ち(1.幼いわが子を置いて家を出たこと 2.妻子ある人の子を産んだこと)」を告白すべきでないかとの手紙を送っている。しかし、楫子は幼い妙子のことを考え、死ぬまで「過去の過ち」を公表することはなかった。

明治14年(1881年)夏、櫻井女学校の校主(現在校長理事長を兼ねた職)代理就任。楫子は校則を作らず、「あなたがたは聖書を持っています。だから自分自分を治めなさい」と生徒たちを諭したという。

明治23年(1890年)、櫻井女学校新栄女学校合併して女子学院となり、初代院長に推される。

明治29年(1896年)、恩師のツルー夫人が55歳で客死。楫子64歳であった。

一方、恵まれなかった結婚生活小学校教師時代に抱いた心の疑問から、楫子は「一夫一婦制の建白」、「海外醜業婦取締に関する建白」を政府に提出、国会開設と共に二大請願運動として継続する。

楫子の情熱日本に止まら日本国外にも向かい明治39年(1906年)、74歳にして渡米、ルーズベルト大統領と会見。激務のため白内障を患う。大正9年(1920年)には欧米の旅に出掛け、翌10年(1921年)には満州に、同年から11年(1922年)にかけては三度渡米、このとき楫子89歳であった。教職大正3年(1914年)、女子学院院長を後裔に譲り、齢81で名誉院長として退いた。その後は禁酒運動公娼制度廃止運動等に尽力するも、大正もその幕切れを迎えんとする大正14年1925年6月半ば、楫子は眠るように大往生を遂げた。明治大正といういまだ婦人が一個の人間として尊重されることのなかった時代に、楫子は婦人福祉のためにその一生を捧げたのであった。

大正時代華族の娘が50歳の男に売られた話

anond:20220526160552

2022-02-25

anond:20220225205755

2.お米が経済を回していた時代江戸時代

現代では、国の経済の規模はお金で表し、給料税金お金で支払われますが、江戸時代にはお米がその役割を担っていました。

加賀百万石」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。領地経済規模はお米の単位「1石(こく)」(≒150kg)の価値に換算して表されていました。1石は、当時1人が1年間に食べるお米の量とされていました。

また、お米1石が収穫できる田んぼの面積が「1反(たん)」(≒10a(アール))とされていました。1反の田んぼがあれば1人が1年間に食べるお米が確保できるということで、どれだけの田んぼ領地にあれば何人養えるかが大体わかるということになります自給率の考えに似ているところがありますね。

江戸時代は、外国との貿易が限られていたのでお米の自給率はほぼ100%だったと考えられます。大規模な新田開発によって耕地面積は1600年頃から1720年頃にかけて1.3~1.8倍に増えたと言われており、耕地が増加した分、多くの人口を養えるようになりました。1600年頃に1,000~2,000万人だった人口が1720年頃には3,000万人程度まで増えたと言われています(*1)。

一方で、災害異常気象によるお米の不作が原因となって幾度にわたり飢饉が起きた時代でもありました。大飢饉経験を踏まえてお米の備蓄やかんしょ(サツマイモ)の栽培奨励されたことは、現代の食料安全保障に通じるものがあります

3. 花形輸出品だったお米 ~明治時代前期~

明治時代に入り、新政府は、外貨獲得のため殖産興業貿易促進に力を入れていましたが、生糸お茶に並んで重要輸出品に位置付けられていたのが実はお米です。お米が最も盛んに輸出されていたのは神戸港で、明治11(1878)年と明治21(1888)年にお茶を抜いてお米が輸出額第1位になっています(*2)。

どのくらいのお米が輸出されていたのでしょうか。当時の政府文書によれば、明治12(1879)年~明治21(1888)年の十年間の平均で、酒造用を除いた国内消費量3,129万石(約470万トン)に対して34万石(約5万トン)が輸出されていました(*3)。

輸出先は、主に英国ドイツフランスイタリアなどの欧州で、日本産米は品質が高く評価されていました。欧州でもイタリアスペインを中心にお米が生産されており米料理を食べる文化があったのです。

明治時代に入って海外に輸出するようになったきっかけは、連年の豊作で米価が暴落したことでしたが、やがて外貨獲得の手段としても政府が自ら欧州での販売状況を情報収集し、産地でも輸出向けの品質改善に取り組みました(*4)。

このように、明治時代前期はお米を海外に輸出して自給率100%を超えていたのです。

(図1)明治時代のお米の需給と輸出

(図1)明治時代のお米の需要と輸出

4. 輸出国から輸入国へ ~明治時代後期~

お米の輸出国から輸入国への転換はあるとき突然やってきました。

お米の輸出量が過去最大となった年の翌年、明治22(1889)年に暴風雨による水害で収穫量が前三か年平均の85%まで落ち込むと、米価が暴騰し、翌年には不足分を賄うため193万石(約29万トン)のお米を輸入することになりました(*5)。米価高騰は簡単には収まらず、富山を始め各地で米騒動が起こり都市部では餓死者が出ました(*6)。

(図2)お米の輸入量の推移

(図2)お米の輸入量の推移

明治の初年からお米の輸入は行われていましたが、このときを境に大量の輸入がだんだんと恒常化し、盛んだった輸出は縮小していきました。

いったい何が起こったのでしょうか。原因は、人口の増加と1人当たり米消費量の増加でした。明治前期(1876~1885年)に比べて20年後(1896~1905年)には人口が1.21倍、1人当たり米消費量も1.21倍に増えたと推計されています(*7)。それまで、農村では米だけを主食とする(できる)人は少なく、米に麦・雑穀・いも等を混ぜるのが一般的で、実質の米食率は5割程度でした。好景気によって、農村米食率が上昇するとともに米食中心だった都市人口が増大したことで、お米の消費量わず20年で約1.5倍に増えたのです。

明治時代に入ってから近代的な土地改良や栽培技術の導入でお米の生産量は増加していましたが、明治25(1892)年の大蔵省主計局『米価ヲ平準二スル方案』は、生産増加だけでは人口増加に追いつかないと結論づけ、不作時の米価高騰を抑えるためにも外国からお米を輸入しやすくすべきと述べています

人口はその後も増え続け、明治前期に3,700万人だった人口は、明治44(1911)年には5,000万人、大正15(1926)年には6,000万人を超え、昭和15(1940)年には7,200万人にまで達したのです(*1)。

5. 輸入に頼らざるを得なかった時代大正時代昭和初期~

お米の自給率は、1890年代には100%を下回り、大正時代には94%、昭和初頭には85%まで下がりました(*1)。ただし、この頃、朝鮮半島台湾のお米は、輸入ではなく「移入」とされ、当時の日本政府は、日本本土朝鮮半島台湾を含めた圏内での自給を目指していくことになります(前掲の自給率は、移入も輸入に含めて計算されたもの)。大正6(1917)年の輸移入は、朝鮮半島のお米が48%、台湾のお米が31%、外米(英領インドビルマ)、仏領インドシナタイ)が21%となっていました(*8)。

大正7(1918)年には、二年連続の不作によって長期的に米価が高騰し、再び富山を始め各地で米騒動が起こりました。政府は、不足分を賄うため大規模な外米輸入を図ろうとしました。しかし、外米産地でも洪水や干ばつで不作が起こったことや、国内の米価高騰を抑制するため外米産地の政府が輸出制限輸出禁止を行ったため、円滑に輸入が進まず厳しい外交交渉を強いられました(*8)。

また、昭和16(1941)年に始まった太平洋戦争では、戦況の悪化とともに外米輸入のための商船が確保できなくなり、昭和18(1943)年にはお米の輸入が半減、翌年にはほぼ途絶し、日本国内食糧不足が深刻になりました(*9)。

6. 約70年ぶりの自給の達成 ~昭和中期~

昭和20(1945)年に終戦を迎えた日本は、戦争による耕地の荒廃、農業労働力不足に加え、朝鮮半島台湾からの輸移入に頼っていた需給構造崩壊したため、深刻な食糧危機に直面しました。しかし、本格的にお米の輸入ができるようになったのは昭和25(1950)年以降でした。タイビルマミャンマー)、米国エジプトからお米を輸入することで国内の米不足を賄いました。

昭和27(1952)年には、10年後までに米麦の国内自給の達成を目標とする「食糧増産5ヵ年計画」を立てて生産量の増大に取り組み、昭和25(1950)年の938万トンから昭和47(1962)年の1,445万トンへと約20年で1.5倍になりました(*5)。約70年ぶりにお米の自給が達成されることとなったのです。

7. お米の消費減少と食料自給率低下 ~昭和後期から現在

増産によりお米の自給が達成された一方で、高度経済成長によって食生活多様化したことで、お米の一人当たり年間消費量は、昭和37(1962)年度の118.3kgをピークに減少に転じていました。

生産需要を上回り大量の過剰在庫が発生するようになったため、昭和46(1961)年から生産調整が本格実施されるようになり、1,200万トン前後だった生産量は、約50年で約800万トンにまで減少しました。一人当たり年間消費量も約50kgまで減りました。自給率の高いお米の消費が減ることで食料自給率カロリーベース)は昭和40(1965)年度の73%から40%程度まで低下することとなったのです。

2022-01-27

anond:20220127123628

牛丼は前述のように牛鍋を丼飯にかけた料理が原型となっており、当時は牛飯もしくは牛めしという名称1890年代には発売されており、この時期の東京にはあったが京阪には無かった。その後、1899年創業した吉野家の牛丼も同様の料理であり、当時は「牛鍋ぶっかけ」と呼ばれ、主客である日本橋の魚河岸の人々に親しまれた。浅草上野広小路一帯にも牛丼屋台が沢山出ており、そこでは「かめちゃぶ」の俗称も使われた。

2021-10-08

anond:20211007234035

とりあえずググってみたら1890年代くらいの文章がたくさん引っかかった。

島田三郎ほか『近世泰西通鑑』1884年

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/776556?contentNo=219

然レドモ此ノ陰謀最モ熱心ナル助成者ノ一人ハ「ノウゴロド」ノ大僧正「セッチン」ナルカ、「セッチン」ハ俗帝ニ反シテ其ノ管内ニ在ル所ノ衆多ノ法皇即チ道士煽動セリ

今回見つけた中では最も古かった。これはトーマスヘンリー・ダイアーの『History of Modern Europe』の翻訳で、原文では以下のようになっている。

But one of its most zealous supporters was Setschin, Archbishop of Novgorod; who incited the multitude of popes or priests in his jurisdiction against the "profane" Emperor.

天野為之『高等経済原論1891年

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/799370?contentNo=128

「グドウィン・サント」ヨリ成リ世界中最モ不毛土地ナリシ「フランダース」ノ「ペース・デ・ウエース」モ勤労ノ効ニ依リ豊饒ナル性質ニ変シ今ニテハ欧州最モ生産多キ土地の一ト為レリ

こちらはJ・S・ミル『Principles of Political Economy』の翻訳で、原文は以下のとおり。

One of the barrenest soils in the world, composed of the material of the Goodwin Sands, the Pays de Waes in Flanders, has been so fertilized by industry, as to have become one of the most productive in Europe.

最初の「One of the barrenest soils」については「世界中最モ不毛土地」と訳しているあたりに苦心がうかがえる気がする。

田口卯吉『史海 第7巻 光明皇后1891年

光明子は嘗て我邦土の上に生れ出てたる最も明敏なる婦人の一人に御座すなり

日本評論」誌による竹越與三郎『マコウレー』評

https://books.google.co.jp/books?id=y3ljPfzhz6EC&pg=PP11

加ふるに本書の主人公マコウレーは、著者が最も同情を表せる一人にして、其著作は著者が日夕誦読精通する所、其時代は著者が最も熟通せる所なりといへば、本書の著者が本書に置ける得意想ふべきなり。

竹越與三郎『マコウレー』は1893年刊行らしいので批評も近い時期に出たのではないか。「日本評論」は、後の日本評論社の雑誌ではなく、1890年から村正久が発行したという同名の雑誌のことと思われる。

森鴎外『月草』1896年

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/871718?contentNo=235

されどすべての文字上にあらはれたる人心の形象を文学なりとして、新聞紙最も重要なる文学の一つとせむは、文学の義をあまりに広く取り過ぎたるものにて、これがために青年文学会の進歩の多少障碍さらるべきは惜むべき事なり。

竹越與三郎『二千五百年史1896年

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993477?contentNo=128

良房藤原氏中、無学無術、最も拙劣なる政治家の一人なりき。

再び登場の竹越與三郎。今度は本人の文章である

外山正一『藩閥之将来 附教育之大計』1899年

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/809188?contentNo=11

リーランド・スタンフォルド」大学ノ如キハ、千八百八十五年ニ「リーランド・スタンフォルド」氏及其夫人ヨリノ莫大ナル寄付金ニ依ッテ創設セラレタル大学デアルガ、今日デハ、米国ノ諸大学ノ中デ最モ盛大ナルモノノ一デアル



このように並べてみても、通説のとおり英語の「one of the most 〜〜」構文を直訳したものから「最も〜〜の一つ」構文が広まっていったように思える。つまり「誰が言い始めたの?」という質問に対しては「明治初期の翻訳家のうちの誰か」が答えになる。明治といえば、いわゆる言文一致運動があったように、まだ「近代日本語」自体が固まりきらず模索されていた時期であるし、またここに挙げた森鴎外田口卯吉・竹越與三郎・外山正一などは、いずれも英語の使える教養であるので、意識的に「直訳」的な表現を取り入れていったのだろうとも思われる。ちなみに、そもそも「〜〜の一つ」といった言い方自体が、英語の「one of 〜〜」から多用されるようになったという話もあるらしい。そうした文体は「欧文脈」「欧文直訳体」だとか言われて研究対象になっているので、気になるなら本格的に調べてみてはどうだろうか。

2021-02-21

赤毛組合

この事件の発生年代については、1890年10月9日に「赤毛組合」が解散したと明記されているが、シャーロキアンの間では、発生を1887年1888年1889年1890年とする説がある[1]。「赤毛組合」は「ワトスン博士の日付の間違いの最も顕著な例」と評される作品でもある[3]。作中の記述によれば、ウィルスンが組合員の募集を知ったのは1890年4月27日付『ザ・モーニングクロニクル英語版)』紙の広告で、その広告を読んだワトスンはちょうど2ヶ月前だと発言している。ウィルスンは翌日から仕事を開始し、その8週間後に組合解散張り紙を見たと書かれているのである。 まず、1890年4月27日日曜日で、当時日曜日には新聞が発行されていないうえ、『ザ・モーニングクロニクル』紙は既に廃刊となっていた[4]。解散10月9日と書かれているので、2ヶ月前や8週間後では計算が合わない。また、この1890年10月9日木曜日だが、ホームズ今日土曜日で逃亡に2日の余裕ができるため、今夜犯行に及ぶはずだと推理しているのである

正典60編の事件を発生年代順に並べた『詳注版 シャーロック・ホームズ全集』を発表したベアリンググールドの説では、新聞広告1887年8月27日土曜日のもので、事件は「赤毛組合」が解散した1887年10月29日土曜日から30日の日曜日までとしている。短編の冒頭に「去年の秋」(発表は『ストランド・マガジン1891年8月号)とある点については、発表のかなり前に事件原稿にまとめていたのだと解釈した[4]。 リチャード・ランセリン・グリーンオックスフォード全集注釈で、4月27日新聞広告について、ドイル原稿では AG8月)となっていたのを、AP4月)と読み間違えて発表されてしまったのだろうとしたが、発生年については触れていない[5]。

2020-11-10

フレンチ・カンカンの穴あき見せパントップレスのショー

カンカンとの出会い

フレンチ・カンカン、というかラインダンスとの出会いは、おそらくは文明堂のCMだ。それからドレミファソネットどしたらできるの」で有名なso-netのCMだ。なぜかこのCMではおじさんの脚線美を見ることになるのだがそれはさておいて、Youtube検索すると今でも天国と地獄に合わせて踊る動画確認できる。

カンカン歴史、当時の見せパン

本題に移ろう。Can-can dressについてはウィキペディアではおおよそこのように述べている。ドレス基本的に何層にもなった大量のフリルがついていて、当時の下着の上に縫い付けられていた。脚は黒いストッキングや網タイツで覆われていた。つまりレオタード姿のソネットCMフレンチ・カンカンではないのである。足の動きの速さからしてまるで違う。

衣装ではなく、カンカンダンスのものについては、日本語版ウィキペディア英語版ウィキペディアで書いてあることが若干違う。おそらく英語から訳したときの版が違うのだろう。

両者の記述を比べてみたが、フレンチ・カンカンにおける見せパン起源はかなり曖昧らしい。足を思い切り上げてスカートの中が見えてしまう動きは、ショーの場では1820年代にアクロバット的な動きで知られるCharles Mazurierがバレエの大開脚を取り入れたことにさかのぼるようである。初期のダンサー娼婦セミプロ役者だけであったのだが、1890年代になるとムーラン・ルージュではトゥールーズロートレックの絵で知られるLa Goulue(食いしん坊さん、的な意味)やJane Avrilなどの高給を取るスターが生まれた。La Goulueのページでは当時の衣装とセットの見せパン確認できる。これらのスター生活は華やかだが晩年は不遇であることもあった。この二人もビジネスの失敗や大恐慌財産を失い、寂しく亡くなっている。

さて、カンカンは足を高く蹴り上げるので、当然スカートの中身が丸見えになる。しかも、それや当時としてはよりスキャンダラスであった。というのも、当時の下着であるpantalettesは衛生上の理由からロッチ部分が開いていたからである。要するに性器丸出しになるわけであるもっとも。そのあとにこんな記述がある。カンカンのための特別下着を用いていたという記録はないが、ムーラン・ルージュでは下着露出は禁じられていたことになっていた、と。どうもこのあたりの記録は曖昧というか[要出典]をつけたくなる箇所が多い。ウィキペディア普段自然科学記事を読むことが多いが、そこよりも曖昧記述が多い印象だ。文体もなんだか違う。

ところで、今のフレンチ・カンカンとして知られる、大人数の女性10分以上高度な振り付けを続けるスタイルは、1920年代アメリカで人気が出たスタイル逆輸入したものでそうである

実際、19世紀から20世紀初頭にかけては女性の脚部を見せるということでかなりスキャンダラスものとしてみられていた。また、陰部を覆う白い生理用(?)下着と黒いストッキング対照エロティックだとして見られていた。さらに、体を折り曲げてスカートを後ろからまくり上げ尻を見せる動作もあったという。先述のLa Goulueはこの芸で知られていたとのこと。また、前の席の客の帽子を蹴り飛ばすほど近づいて、スカートの中身を見せることもあった。もっとも、顔を思い切り蹴られる危険もあったのだが。

結論から言うと、当時のフランスに見せパンのものであったかどうかはわからないが、パンツが見えることは覚悟の上だった、ということになりそうだ。女性器が見えていたかどうかまでは根拠が怪しい。もっとも、今ほど表現自由でなかった当時のこと、そんなことを文学絵画で記録に残せたかどうかは怪しいものだ。ちなみに女性器を堂々と描いて当時の偽善的風潮に反発したクールベの「世界起源」が1868年ヌードスキャンダルを生んだ「草上の昼食」が1863年である

著名なキャバレーについて

パリはいくつも有名なキャバレーがあり、それは近現代芸術芸能に多大な影響を与えてきた。たとえば、ムーラン・ルージュ活躍した人物としてFrank SinatraやCharles Aznavourがいる。それらのすべてをここで述べるのは大変なので、地球の歩き方広告が載っていたと記憶しているものピックアップして簡単に述べる。子どもの頃、トップレス女性旅行ガイドに載っているのを見てドキドキしていたものだ。もっとも、その女性の姿はせいぜい五ミリくらいの大きさしかなかったのだけれども。

学生時代パリを訪れたときには、そこには寄らなかった。一日中美術館で過ごしてぐったりしていたし、まだ女性経験がなくて図々しくなれなかったからだ。今となってはいい思い出である

ムーラン・ルージュ

赤い風車で名高いキャバレーで、ここを舞台にした映画は数知れず。トゥールーズロートレック作品群でも有名。著名なダンサーも多く、全員を紹介するのはとても無理だし、別のキャバレーにも出演していて、キャバレー別に紹介するとややこしくなるので端折る。

ところで、ウィキペディアだけからヌードがどの程度ショーに盛り込まれていたかはわからないが、1893年舞踏会に裸の女性いたことがスキャンダルになったそうである。なんでもヌードモデルが活人画として周囲を歩き回り、裸の女性が深夜にテーブルに立っていたとのこと。一方、英国劇場のように活人画、すなわち生きた人間絵画再現する目的としてならヌード猥褻ではない、という意識もあったようである。例えば英国では劇場ヌードが現れたとき当局1930年代に裸の女性が動くことを禁じた。この禁令をかいくぐるために、モデルたちは活人画のように止まったままとなった(ストリップ記事を参照)。また、戦後日本でも「額縁ショー」と呼ばれるストリップのさきがけのようなものがあった。動かなければ猥褻ではないという謎理論がまかり通っていたのである。当時のGHQが何を意図していたのかはよくわからない。

これまたよくわからないのがゾラ1880年小説「ナナ」では、ヒロインがヴェリエテ劇場でほぼ全裸披露して観客を魅了するという場面があるのだが、実際のところどうだったのだろう? 本記事カンカンについてなので劇場ヌードについては語りつくせないので、今後の課題としておきたい。

1889年開業1915年に一度焼失するも再興し、ドイツ占領時代にも営業を続けて今に至る。

フォリー・ベルジェール

モネ絵画「フォリー・ベルジェールのバー」舞台としても知られる。また、黒人系の女性Josephine Baker活躍したキャバレーとしても知られる。バナナ型のスカート以外はほとんど身に着けていないエキゾチックな姿がオリエンタリズム流行した当時ヒットしたのだが、後にその恰好人種差別的だとされるようになり、そこからネグリチュード黒人意識の発展にも寄与した。また、彼女黒人人権活動家としても知られている。最近グーグル彼女の生涯を記念するドゥードゥルトップにした。

1869年開業1872年に今の名前になる。けばけばしい衣装で知られ、時としてヌード披露されることで知られる。

リド

映画「ファイアbyルブタン」で有名。セミヌードを含む映画公式予告がyoutubeに上がっている。身体をやわらかな特殊素材のように扱ったショーは性欲やエロスの向こう側に行ってしまっており、すごいものになっているとしか言えない。リンクを貼ったら怒られそうなので検索してください。もちろん、そこまで独特なものではなく、もっとわかりやすいショーもある。

ユニークなのはそのショーの一部をyoutubeの公式チャンネルで公開していることだろう。かなり古い白黒のものである。それと、公式ホームページ見ていたら驚いたのだけれども、リド自体には12歳以下の子どもでも入場できるそうであるヌードトップレスがないショーならOKなのか、それとも芸術ヌードならOKなのか。フランス映画年齢制限がないやつでも割と普通におっぱい出てくるし、表現規制の国ごとの温度差を示す実例であるのかもしれない。

1946年開業1920年代の人工的な砂浜をその前身とする。

クレイジーホース

ストリップティーズ」の項目によれば1960年代全裸のショーが行われた、とある

現に、創業者であるアランベルナルダン芸術性を伴った女性ヌードショーを見せるという着想に至ったそうで、要するに最初から全裸である

とはいえ、ただの全裸ではなく、巧みな照明技術により女性の裸体をキャンバスのようにとらえ、万華鏡のようなカラフルかつシャープな模様をダンサーの肌に映し出していることに特徴がある。ただ脱いだだけではないそうだ。1951年開業

余談

天国と地獄の曲を初めて聞いたのは文明堂CMと、音楽ファンタジーゆめでだ。後者CG黎明期であったせいかサイケデリック表現が多く、当時の感覚としても幾分薄気味悪いと同時に、今から振り返ってみると技術の未熟さ(失礼!)から来るアルカイック芸術のような独特の魅力があったように思われる。

ところで、この曲は地獄オルフェとしても知られている。タイトルからすると、ギリシア神話オルフェウスが死んだ妻を冥界から取り戻そうするとする話のはずだ。なのに、なんでこんな軽快な曲なのだろうと思って調べたら、ギリシア神話パロディ的なオペレッタからだそうだ。なるほど。

まとめ

今後の展望

こうしたレオタード姿のラインダンスカンカンではないと述べたが、それではこれはいからあるのか調べたい。おそらく日本国内では宝塚歌劇団関係している。また、バーレスク的なものとの関連について知りたく思う。そもそもバーレスクとは何か、僕はよくわかっていない。日本語版ウィキペディアバーレスクの記事には、乳首と陰部に前貼りを貼っただけの姿でパフォーマンスをする女性写真がある。リンクは張らないが、鍛えられたきれいな体だなあ、僕も筋トレ頑張らなきゃなあ、とは思う。しかし、欲望はそこまで感じなかった。隙がないのである

また、劇場において全裸が許容されたのはいからか、それも調べねばならない。

だが、まずはラインダンス調査に移りたく思う。

2020-07-07

anond:20200703231855

あなたは優しい人なんだね。でも、あなたのような優しい人はほんの一握りなのだろう。

女の子はみんな、強そうなヤンキーやチャラチャラしたギャル男、そして、イケイケのテニサー男が好きなんでしょ?実際、優先的に恋愛対象になるのは、決まってそういう男たちばかりだ。そして、女性たちは恋愛対象にならない男を自分の周りから排除しようとする。

私は「恋愛対象になれない非モテ男はさっさと死ね!」というのが、日本中女性が持つ普遍的価値観だと思っている。

実際、非モテ排斥を主張するフェミニズム日本中で広く支持されている。男叩きの番組視聴者の間で人気が出ている。恋愛対象にならない男を人間扱いしない漫画SNSでバズっている。

いずれ、恋愛対象になれない非モテ男が当たり前のように殺害される時代がやってくるだろう。日本中女性たちが非モテ男を性加害する汚らわしい害獣と見なして駆除を訴える。一方、日本中恋愛対象になりうる「まともな男性たち」の間では「女性はか弱い生き物だから自分たちが守るべき」という風潮が極めて強い。だから、「まともな男性たち」は非モテ男を殺害する。そして、警察検察は腐敗して、非モテ男の殺害実質的合法化される。

フェミニストが頻繁に使用する「セクハラ」という言葉は便利な凶器だ。自分の気に入らない男を排除してもらうために「私はあの男が嫌いだ」と言っても、誰もその男排除してくれない。だが、「セクハラ」という言葉を使えば排斥を容易に正当化できる。実際、痴漢冤罪社会問題になった。いずれ、気に入らない男を指して「こいつがセクハラした」と叫べば、その男警察逮捕してくれる、不良やヤクザ拉致してくれる。そして、凄惨拷問を加えて殺害してくれる。そんな時代がやってくるだろう。

普通の人が当たり前のように殺人をしていた時代と言えば、公民権運動前のアメリカになるだろう。当時は、黒人人権に反感を持つ白人たちが、黒人を当たり前のように殺害していた。それを象徴する事件として、1916年に黒人労働者のジェシー・ワシントン氏がリンチを受けて殺害された事件が挙げられる。そして、Wikipediaのページになって申し訳ないが、白人たちが黒人リンチしていた時代的背景として次のような記述がある。

1890年から1920年の間に、約3,000人のアフリカ系アメリカ人犯罪加害者であるとされ、リンチに参加した群衆によって殺害された。これらは法律の枠外で行われ、容疑者刑務所法廷から連れさられるか、逮捕される前に殺害された。リンチの支持者たちはこの慣行アフリカ系アメリカ人犯罪性のためであるとし、彼らに対する優位を主張する手段として正当化した。

太字の部分をフェミニズム風に言い換えれば「キモい非モテ男は加害性を持つからリンチ正当化できる」になる。いずれ、この風潮が日本中蔓延していくだろう。

はっきり言って、私は日本中女性が怖い。恋愛対象にならない非モテ男を社会から排除するべきという排斥志向を遠回しに言う主張が女性を中心に日本中で支持されているのが怖い。30代になっても彼女ができない私は、いつか屈強な男たちから凄惨拷問を受けて殺されてしまうのではないかと思う。

女性に好かれない男は、外を歩くことができない社会が到来している。

補足

薄々気づいている人もいると思うが、フェミニストの言う「男性」は「自分が嫌いな男性」「自分にとって恋愛対象にならない男性」の略であり、専ら、非モテ男のことを指すと考えられる。したがって、非モテ男を擁護する女性は「名誉男性」になるのだろう。

2020-05-07

anond:20200507202952

https://quoteinvestigator.com/2018/01/14/time-art/

ピカソ説は英語で探してもあやしいビジネス書しか出てこないので確実に嘘だが

ジェームズ・マクニール・ホイッスラーという画家1878年にほぼ同じ意味の会話をしており、こちらは1890年刊の自伝に確かなソースがあるので、これが元ネタである可能性が高い

彼は『黒と金色のノクターン - 落下する花火』という抽象画酷評されたことに腹を立てて批評家ラスキン告訴したのだが、その時のホーカー法務長官とホイッスラー対話が下記

しかし実際あなたは2日で描いた作品に200ギニーもの値段をつけたわけですよね?」

「いや、私は生涯をかけた知識の対価として要求したのだ」

 

日本語ソースの方がよければ一橋大学あたりで

https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10613/26/ronso1220300820.pdf

2020-03-28

家畜冠状病毒和狗呼吸系统冠状病毒来自于1951年的一个共同祖先家畜冠状病毒和人类冠状病毒OC43于1899年开始分别独立演化。18世纪家畜冠状病毒由马冠状病毒中分离出来。人类冠状病毒OC43也有可能是于1890年家畜冠状病毒中分离出来的产物。

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2020-01-03

松本俊彦医師ストロングチューハイ規制論に反対

松本 俊彦 - ストロングZEROは「危険ドラッグ」として規制した方がよいのではないか。…(以下略)『https://www.facebook.com/matsumoto.toshihiko/posts/2647659768647332/

 ストロングチューハイ松本医師は「ストロングZERO」と商品名表記、この文章では以下「ストロング系」と表記する)による健康被害社会問題になっていることはニュースで重々承知のことだが、それでも私は規制に反対である

 ストロング系のアルコール度数は約9%であり、ビール(約5%)よりは高いが日本酒(約15%)・ワイン10~15%)・焼酎20~30%)よりは低い値となっているので、アルコール度数だけの問題ではないことは明らかだ。ストロング系は炭酸が込められた缶飲料なので、缶ビールと同じ感覚で飲めてしまうことが問題と言えるだろう。だがこれは、ストロング系そのもの問題というよりそれを飲む人の問題である日本ではアルコール摂取20歳以上の成人のみに認められているので、たとえ適切に摂取できなかったとしても成人としての自己責任範疇に収まる問題であるストロング系の歴史が浅くてまだ社会に馴染んでいないことがストロング特有問題である錯覚させるが、年月が過ぎればストロング系の問題は他のアルコール飲料と同程度の問題へと収束していくだろう。

 仮に規制をするとしても、どのような方法規制するというのだろうか。一定度数以上の缶飲料禁止するのだろうか。アルコールを感じさせにくくする為の炭酸封入を禁止するのだろうか。医薬品のように販売規制をするのだろうか。はたまた「ストロング」の名称禁止するというのだろうか。いずれの場合も、メーカー市場を混乱させてアルコール飲料多様性を失わせるなどのデメリットばかりで、健康被害が縮小するとは考えにくい。そもそも、紙パックやワンカップで手軽に飲み切れる日本酒や、ペットボトル詰めの焼酎といったストロング系を超える度数アルコール飲料コンビニで気軽に買えるというのに、特定商品だけを槍玉に挙げることに何の意味があるというのだろうか。

 医師という社会的使命を帯びた者が軽々しく規制を口にして、飲酒を楽しむ人に対して不当に罪悪感を植え付るようなことは慎むべきである。他のアルコール飲料比較するなどのエビデンス提示せず、個人的な臨床経験とやらで特定商品を有毒性の薬物であるかのように喧伝するのは、メーカー営業妨害という範疇をも超えた、飲酒文化に対する不当な圧力といえるだろう。「お酒お酒らしい味をしているべきであり」という松本医師表現からは、飲酒文化の在り方を押し付けるかのごとき傲慢さを感じる。

 また、「公衆衛生アプローチを考えれば、本来酒税は含有されるアルコール度数の上昇に伴って傾斜すべきです。」という医師記述からは、根本的に酒税法を理解していないことがうかがえる。そもそも酒税法は明治政府が安定した財源を確保するために制定したものであり、1890年代(日清戦争の頃)は酒税収入国税の約30~40%を占めていたのである(ちなみに現在酒税収入国税の2%ほど)。公衆衛生酒税を絡めた記述から松本医師酒税収入公衆衛生の為の目的税特定財源)と勘違いしている節があるが、明治時代から現在に至るまで酒税収入一般財源として扱われている。さらに、酒税アルコール度数関係だが、「アルコール度数の上昇に伴って傾斜すべきです」と松本医師は述べているが、現在基本的にそうなっているのである

 酒税法において、酒類1キロリットル当たりの税率はアルコール度数1度ごとに1万円の加算税率が原則である清酒焼酎ウイスキーリキュール果実酒もそのように設定されている。例外としてビールだけは税率が高く設定されている。1度ごとに1万円の原則を当てはめるとビールは5万円程度が妥当だが、実際は22万円である。これには理由があり、酒税法制定当時にビール国内醸造しておらず、舶来品としての贅沢税扱いされていたという由来がある。ビール国内醸造されるようになり、酒税法が改訂されてもビール酒税は高いままとなっている。このことが、ストロング系はビールに比べて酒税が不当に安いと勘違いされる要因になっている。実際にはビールけが不当に高いのであり、ストロング系は清酒焼酎ウイスキーリキュール果実酒と同様に、1度ごとに1万円の原則に当てはまっているである。だからストロング系の酒税を上げろと主張するのは間違いであり、正しくはビール酒税を下げるべきなのであるストロング系に何らかの規制を課そうとするのはお門違いも甚だしい。

参考:

文化研究所レター24日本酒税制度の軌跡をたどる『http://www.sakebunka.co.jp/archive/letter/pdf/letter_vol24.pdf

国税庁の酒税一覧表『https://www.nta.go.jp/taxes/sake/qa/01/03.pdf

2019-12-09

anond:20191209103938

教育現場御真影1890年代頃から本格的に配布されるようになり、これらは天皇と同一視され、最大級の敬意をもって取り扱われるようになり[1]、1920年代からは奉安殿に保管されるようになった[2]。

2019-09-20

球技がいつ始まったかとかのまとめ

名前開始時期発祥備考
ラ・スール12世紀フランス町の住人が敵味方に分かれて目標地点までボールを運んだり妨害したりする地域行事
マス・フットボール14世紀イギリス町の住人が敵味方に分かれて目標地点までボールを運んだり妨害したりする地域行事
ゴルフ15世紀イギリススコットランド発祥。源流は諸説ある。イギリスで爆発的に広まったのは19世紀後半。
クリケット16世紀イギリスバット・アンド・ボールゲームの原型。現在イギリスインドオーストラリアなどを中心に人気。
ジュ・ド・ポーム16世紀フランスラケットゲームの原型。現在も「リアルテニス」などと呼ばれ一部でプレーされている。
カルチョ16世紀イタリア1チーム27人で乱闘しながらフィールド内に指定されたゴールにボールを入れる。17世紀あいだに廃れた。
フットボール16世紀イギリスパブリックスクールプレーされたフットボールサッカーラグビーのより直接的な原型。
ラウンダーズ18世紀イギリスクリケットから派生野球ソフトボールのより直接的な原型。
野球1850年アメリカ地区で行われていたラウンダーズルール統一したもの
ラクロス1860年カナダネイティブアメリカン伝統競技バガタウェイ」が白人にも広まり、そのルールを整備したもの
サッカー1860年イギリスパブリックスクールで行われていたフットボールルール統一したもの
ラグビー1870年イギリスラグビーユニオン。1871年サッカーから分裂。ラグビー校で整備されたルールをもとにプレー
テニス1870年イギリスローンテニスジュ・ド・ポームをもとに芝生で行うようにしたもの
フィールドホッケー1870年イギリス19世紀半ばにパブリックスクールで発展し、1875年協会設立スティックを用いたサッカー
アイスホッケー1870年カナダフィールドホッケーやラグビーを組み合わせて氷上で行うようにしたもの
バドミントン1870年イギリス植民地時代インドで生まれ軍人が持ち帰ったものが普及したと言われる。
アメフト1880年アメリカ大学で行われていたラグビールール統一して様々な変更を行ったもの
ラグビーリーグ1890年イギリス1895年ラグビーユニオンから分裂。
バスケットボール1890年アメリカ屋内でプレーできる安全球技としてサッカーラグビーラクロスなどをもとに考案された。
バレーボール1890年アメリカ屋内でプレーできる安全球技としてテニスバドミントンなどをもとに考案された。
ハンドボール1900年デンマーク北欧ドイツを中心にルールが整備される。
ドッジボール20世紀初頭アメリカアフリカ発祥説などがあるが不明

2018-06-27

氷河期世代よりかわいそうな世代はいるか?

1970年代まれ氷河期世代

幼児期高度成長期価値観で育つ、成人した頃にバブル崩壊で職につけない

1920年代まれ(戦中派世代

幼児期から昭和不況、成人した頃は大戦末期で特攻隊に行かされる

1890年代生まれ清朝貴族

幼児期からすでに清朝は没落期、成人した頃に辛亥革命地位を失う

1850年代生まれ武家

→成人した頃に明治維新薩長藩閥以外の武士は総失業

・1760年代生まれフランス貴族

→成人した頃に大革命が起きて財産没収一族郎党ギロチン行き

・1490年代まれ北米先住民

→成人した頃に白人征服される。とくにカリブ海の島民は伝染病絶滅

・1160年代まれの平安貴族

→成人した頃に武家社会成立で貴族は没落、鴨長明のように引きこもる

・4~5世紀まれローマ貴族

→成人した頃にはゲルマン人の天下でローマ帝国は没落の一途

紀元前3~2世紀まれ縄文人

→成人した頃に弥生人が農耕を広めて狩猟民は時代遅れ扱い

・2万年ほど前のネアンデルタール人

→成人した頃にクロマニヨンが台頭して絶滅に追いやられる

・6500万年ほど前の恐竜

→成人した頃にユカタン半島に巨大隕石が起きて絶滅

……なんか無限にできそうな気がするがこの辺でやめとく

2017-05-19

ルジャンドルフランスウラン(Oullins)に生まれランス大学およびパリ大学に学んだ[1]。父親のJean-François Legendre-Héralは人物像を得意とした古典主義彫刻家エコール・デ・ボザールの教師[2]。24歳のときニューヨークの著名な弁護士の娘であったクララヴィクトリア・ミュロックブリュッセル結婚した。結婚後すぐに米国移住し、帰化した。

南北戦争[編集]

1861年に南北戦争が勃発すると、ルジャンドルは第51ニューヨーク志願兵歩兵連隊兵士募集に協力し、1861年10月29日に同連隊少佐に任官した。その後ノースカロライナでの戦闘従事し、1862年のロアノーク島の戦いにも参加した。しかしながら、1862年3月14日、ニューバーンの戦いで重傷を負った。

負傷にもかかわらず、ルジャンドルは軍を離れず、同年9月20日には中佐に進級。1863年には第9軍に配属され、多くの戦闘に参加した。1863年3月14日には大佐に進級。ヴァージニア荒野の戦いではユリシーズ・グラント将軍の指揮下にあったが、その最中の1864年5月6日ルジャンドルは再び重症を負った。今回は顔面を撃たれ、左目と鼻を失った。アナポリス病院入院したが、その間にも南軍最後攻撃から街を防衛するための準備を手伝った。その後ニューヨーク移送され、そこで第9軍の兵士募集を手伝った。1864年10月4日名誉除隊したが、1865年3月13日には准将名誉進級した。

中国[編集]

1866年7月13日ルジャンドル厦門米国領事に任命された。7月ニューヨークリバプールに向けて出港し、その後ヨーロッパアジア大陸旅行12月厦門に到着した。領事として、ルジャンドルは5つの条約港、すなわち厦門基隆台北、淡水および高雄責任を持った。そこでは、年季奉公人の不正取引抑制に尽力した。

1867年3月12日米国ローバー号が台湾遭難し、その乗員が台湾原住民殺害されるローバー事件(en)が発生した。ルジャンドルは福州へ赴き、台湾中国側当局問題解決圧力をけるように、福建・浙江総督を説得した。福建総督は自ら行動は起こさなかったが、ルジャンドル台湾に行く許可を与え、台湾知事が協力するように紹介状を書いた。

ルジャンドルは、遭難現場訪問のために米国船アシュロット号を雇い、台湾当局に行動させようとした(これは失敗した)。その後アメリカ合衆国海軍ヘンリーベル少将懲罰作戦実施したが、これも失敗した。さら情報を集めるため、ルジャンドルは再び台湾に出向いた(このときは、紹介状は無しであった)。

中国へ戻ったルジャンドルは、南台湾に軍隊派遣するよう福州の総督を説得し、ようやくこれに成功した。ルジャンドルは400〜500人の規模を希望したが、これよりはかなり小さな遠征隊が、1867年7月25日台湾に送られた。ルジャンドル砲艦派遣ベル提督要請したが、これは拒否された。このため、武装商船ボランティア号が雇われた。ルジャンドル9月4日台湾上陸したが、上司に対しては全くの傍観者として行動したと報告している。

ルジャンドル直ちに本来任務を開始した。南台湾の険しい山岳地帯を通りぬけ、原住民酋長と難破した欧米の船員の安全保証するための条約協議した。

1871年9月6日琉球宮古島)の船が台湾沖で遭難したが、ローバー事件と同様に、多数の船員が殺害された(宮古島島民遭難事件)[3]。1872年2月29日ルジャンドルは先に結んだ条約日本人船員にも適用するよう拡大するため、台湾に出向いた。任務は不成功に終わり、またルジャンドル北京駐在米国公使フレデリックロウ(en)とも不仲になってしまった。

日本[編集]

1872年厦門から米国へ戻る途中、ルジャンドル日本に立ち寄り、明治政府台湾問題武力解決提唱した。これは副島種臣外務卿意見とも一致しており、ルジャンドル米国領事の職を辞し、1872年12月12日外交および軍事顧問として明治政府雇用された[1]。1873年2月、副島は2年前に台湾で起きた宮古島殺害事件の処理交渉特命全権公使外務大臣として北京派遣されたが、ルジャンドルもこれに参加した。この交渉部分的には成功であったが、引き続きルジャンドル1874年台湾出兵の準備を手伝った。台湾問題に関して、ルジャンドル駐日米国公使チャールズ・デロングの支援を受けており、また個人資格でこの遠征に参加するつもりであった[4][5]。加えて、2名のアメリカ軍人が雇用された。ところが、デロングの後任の米国公使ジョン・ビンガムは、ルジャンドルを支持せず、1874年4月19日台湾出兵は一旦延期とされた。ルジャンドルらは長崎で出征準備を整えていたため、大久保利通長崎に向かった。結局遠征部隊5月18日長崎を出港したが、ルジャンドル大久保と共に東京に戻った。その後、ルジャンドル交渉のため福州に派遣されることとなったが、アメリカ総領事職場放棄の罪に問われ、短期間ではあるが上海収監されてしまったため、遠征には参加できなかった。1875年には日本政府から勲二等旭日重光章を授与されたが、これは外国人としては最初のものであった[1]。その年の末には顧問を辞任した。

ルジャンドル1890年まで日本滞在し、大隈重信個人的顧問を務めた。

韓国[編集]

1890年3月ルジャンドル日本を離れ、朝鮮王高宗顧問となった。1899年9月1日漢城(現 ソウル)で卒中により死亡するまで、その職を務めていた[6]。

朝鮮朝鮮王朝(李朝)の高宗31(1894)年に起こった反侵略,反封建の農民戦争東学党の乱ともいう。高宗1年,東学1世教主崔済愚が,邪教を広めたとして処刑された。第2世教主崔時亨は東学公認を求め,同 29年以降「教祖伸寃」の請願教徒大衆行動でしばしば行なった。しかし「教祖伸寃」という宗教的訴えは,かえって狡猾な地方官に農民収奪の口実を与えることになった。そこで農民たちの運動は貪官汚吏の処分など政治的要求へと変わっていった。反乱は同 312月全羅道古阜郡の民乱を契機にして始まり,一応の成果を得て解散した。その後政府派遣の按覈使(あんかくし)の不法弾圧激怒した全琫準は,全羅各地に呼びかけ,5月古阜,泰仁で本格的な闘争に立ち上がった。全羅各地で蜂起した農民軍は白山に集結,大多数が農民東学徒は少なく,指導者東学接主であった。全琫準ら指導者は,農民軍を軍隊式に編成,四大綱領を発表し,反封建,反侵略を訴えて広範な農民層の支持を得た。農民軍は黄土峴,長城で政府軍撃破し全州を占領した。閔氏政権はこれに驚き清国出兵要請する一方,農民軍の弊政改革案を受け入れた。全州和約後,農民軍の大半は解散したが,全羅道 53郡に農民軍の自治機関である執綱所が設置され,実質上の政権機関として機能した。日清戦争が起こるとまもなく,全琫準ら農民軍は再起したが,日本軍政府軍の圧倒的な軍事力の前に敗北した。

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デジタル大辞泉解説

うご‐のうみんせんそう〔カフゴノウミンセンサウ〕【甲午農民戦争

1894年朝鮮李朝末に起こった東学信徒を中心とした農民の反乱。鎮圧のため李朝政府清国派兵要請日本出兵して乱は鎮圧されたが、日清戦争を誘発する結果を招いた。東学党(とうがくとう)の乱。

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百科事典マイペディア解説

甲午農民戦争【こうごのうみんせんそう】

李朝末期の1894年(甲午の年)に朝鮮南部で起こった農民反乱。圧政に苦しむ農民の間に広まった民衆宗教東学〉は1890年代には活動公然化させるが,全羅道古阜で全【ほう】準(ぜんほうじゅん)に率いられた農民たちが同年2月郡庁を襲撃し,5月以降全羅道一帯に及ぶ蜂起に発展,閔(びん)氏政権の打倒と日本人駆逐をかかげて各地を転戦した。

→関連項目大院君|李朝朝鮮

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世界大百科事典 第2版の解説

うごのうみんせんそう【甲午農民戦争

1894年(甲午の年)に朝鮮南部でおこった農民反乱。李朝末期の朝鮮では封建的収奪に反対する民乱が続発し,とりわけ南部地方開港後の外来資本主義との接触によって矛盾が激化していた。圧政に苦しむ農民の間に広まった東学は,1890年代に入ると活動公然化するようになった。こうした情勢のもとで,94年2月全羅道古阜の農民は,規定外の税をとるなど暴政を行った郡守趙秉甲(ちようへいこう)に抗議し,全琫準を指導者として郡庁を襲撃した。

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大辞林 第三版の解説

うごのうみんせんそう【甲午農民戦争

朝鮮1894年(甲午の年)東学信徒が主導した農民戦争地方官の悪政に反対した全羅道農民が蜂起したのに始まる。朝鮮王政府鎮圧のため清しんに出兵を求め、清に対抗して日本出兵日清戦争の契機となった。東学党の乱。 → 東学

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

甲午農民戦争

うごのうみんせんそう

1894年(甲午の年)に起こった朝鮮の歴史もっとも大規模な農民蜂起(ほうき)。この戦争きっかけとして、中国、清(しん)の勢力排除朝鮮支配することをねらっていた日本政府は、公使館警護と在留邦人保護名目大軍を繰り出し、日清戦争引き起こした。

 当時、朝鮮民衆は、朝鮮政府財政危機を取り繕うための重税政策官僚たちの間での賄賂(わいろ)と不正収奪の横行、日本人の米の買占めによる米価騰貴などに苦しんでいた。それにまた、1890年代の初めには干魃(かんばつ)が続いて未曽有(みぞう)の飢饉(ききん)に悩まされていた。これに耐えかねた農民たちが、日本への米の流出の防止、腐敗した官吏罷免租税減免要求して立ち上がったのがこの戦争の始まりである指導者には、急速に教勢を拡大していた民衆宗教である東学教団の幹部であった全準(ぜんほうじゅん)や金開南らが選ばれた。そのため東学党の乱とよばれたこともあった。5月初め、全羅道古阜(こふ)郡で結成された農民軍は、全羅道配備されていた地方軍や中央から派遣された政府軍を各地で破り、5月末には道都全州を占領した。農民軍の入京を恐れた朝鮮政府清国に援軍を出してほしいと要請した。ところが、ここで予期しないことが起きた。清軍の到着と同時に日本軍が大挙して朝鮮侵入してきたのである朝鮮政府は急遽(きゅうきょ)方針を変更して農民軍と講和交渉を行い、農民たちの要求をほぼ全面的に受け入れることで停戦した(全州和約、6月10日)。

 全羅道の各郡には執綱(しっこう)所という機関が設けられ、農民たちの手による改革が始まった。農民戦争はこれで終わったかみえた。ところが、朝鮮上陸した日清両軍は、朝鮮政府のたび重なる要請にもかかわらず撤退しようとしなかった。それどころか、日本政府朝鮮の内政改革を求め、朝鮮政府にこれが拒否されるや、1894年7月23日王宮占領し、親日政府組織させた。

 清国がこうした日本の行動を批判したのを好機として始められたのが日清戦争である日本政府日清戦争と併行して朝鮮植民地化する政策を推し進めた。この日本勢力を追い出すため、朝鮮農民たちは10月かばになって再決起した。全準たちは東学組織を使って各地の蜂起を統一したものにしようとした。このとき立ち上がった農民20万人を超えたといわれる。日本軍朝鮮政府軍相手にして農民軍はよく闘った。しかし、日本軍の圧倒的な火力の前になすすべはなかった。翌年1月農民軍は壊滅し、全準は3月末、ソウル処刑された。[馬渕貞利]

[参照項目] | 日清戦争

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世界大百科事典内の甲午農民戦争言及

【崔時亨】より

92から翌年にかけて東学合法化をめざす教祖伸冤運動を展開。94年の甲午農民戦争では,東学本来非暴力的な教化主義立場から武力蜂起に消極的で,全琫準らの主戦論対立したが,のちに農民軍への合流を教徒に指示した。農民軍の敗北後,98年に江原道原州で逮捕され,ソウル処刑された。…

朝鮮】より

しかし,金玉均ら開化派が政権奪取をめざした甲申政変(1884)は内外の困難を克服しえずに挫折を強いられた。一方,民衆の反封建・反侵略変革運動は,壬午の軍人反乱(壬午軍乱,1882)を先駆として,甲午農民戦争(1894)に大きく花開いていく。甲午農民戦争こそ朝鮮社会近代への移行の決定的転換点となる可能性をはらんでいたのだが,日本侵略意図に立つ軍事力行使がこの可能性を破壊してしまったのである。…

日清戦争】より

… 朝鮮では王妃一族閔(びん)氏を中心とする親清派と国王の生父大院君派および金玉均独立派(開化派)が抗争しており,政治は乱れ,官吏不正日本商人の買占めで民衆の不満は高まっていた。1894年春,民間宗教東学を奉ずる農民分散した民衆の不満を結びつけ,朝鮮南部を中心に汚職官吏の掃滅と外国人排除を求める大規模な反乱を起こし,5月には各地で官軍が敗北するという重大な事態となった(甲午農民戦争)。朝鮮政府日本亡命中の金玉均らが農民反乱に呼応することをおそれ,上海に誘い出して暗殺した。…

※「甲午農民戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています

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2017-05-04

http://anond.hatelabo.jp/20170501202303

日本工業化なんて1890年辺りから始まってるわけだから

世界的な先進国の中でも相当に早い方だ

インフラでもアメリカを除くほとんどのヨーロッパ先進国ほとんど変わらなかったし

そうした中で当初の技術から学ぶのも全くおかしくなかったどころか

明治維新から30年で当時の先進国比較できるほどの工業化の目途が立ってたのは驚異としか言いようがない

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