はてなキーワード: 焦燥感とは
テレビから流れる番組を聞きながら、一日をスタートさせる。それが当たり前。
水卜アナの声が好きで、なんとなくポジティブになれる感覚がある番組が好きでいつも見ていました。
でも最近、あんなに楽しみだったその画面を消すようになりました。
内容は、本当に素晴らしい。
両親へ、恩師へ、そして仲間たちへ。
そこには一点の曇りもない感謝があり純粋な感動があり、そして何より、弾けるような「キラキラした人生」が溢れています。
でも、毎朝その光景を眺めているうちに、気づけば自分の心の中に、小さな、でも無視できないざらつきが生まれていました。
テレビの中の彼らは、あんなに堂々と、誰かに向けた真っ直ぐな想いを持っている。
それに対して、今の自分はどうだろう。
ふと自分の今の生活を振り返ったとき、彼らのような輝きが見当たらなくて奇妙な焦燥感に襲われてしまった。
そのコントラストを突きつけられるたび、心のどこかがキュッと締め付けられるようになりました。
それは、決して彼らを否定したいわけじゃありません。
ただ、今の私には、その眩しさを真っ向から受け止めるだけのエネルギーが足りない。余裕がない。見てるのが辛い。
また普通に見れる日が来るといいな。
新しい鯖をセットアップした。Express5800 T120h。電源を入れればファンが唸り、正しくコンピュータが起きる音がする。
Debianを入れた。いつもどおり。KDE Plasmaを入れた。いつもどおり。SSHの鍵を置いて、Gitを入れて、Dockerを入れて、Node.jsを入れて、GitHubにSSH通した。何年も繰り返してきた、いつもどおりのセットアップ。
Claude Codeを入れた。
そこで手が止まった。他に何も要らなかったのだ。
気づけば4ヶ月が経っていた。VSCodeが入っていない。JetBrainsも、Vimすらも。エディタと呼べるものが何一つ、このマシンに存在しない。
それ以外は全部ある。いつもどおりGitHubを使っている。いつもどおりDockerを立てている。いつもどおりコードを読んでいる。diffを見て、レビューして、設計を考えて、判断を下している。開発者としての営みは何も変わっていない。一つだけ、エディタだけが足りない。
中学の頃、背伸びしてSublime Textを使っていた。高校でVimに出会って、.vimrcを育てることが日課になった。大学ではIntelliJの補完の賢さに感動して、これが最終形だと思った。社会人になって結局VSCodeに落ち着いた。どのエディタにも季節があって、そのときどきの自分がいた。
全部消えた。
ChatGPTが出てきたとき、すごいとは思った。Copilotが補完を始めたとき、便利だとは思った。でもあくまで俺たちの道具が少し賢くなる話だと思っていた。エディタの中にAIが来るのだと。AIの中からエディタが消えるとは、思ってもみなかった。
ターミナルを開く。Claude Codeに設計を伝える。出てきたコードを読む。直してほしいところを言う。マージする。その繰り返しで、プロダクトが実際に動いている。4ヶ月間、一度も困らなかった。
コードを読む目はまだ要る。設計を考える頭もまだ要る。何を作るか決める意志もまだ要る。でも「書く手」はもう要らなくなった。
次は何が消えるんだろう。コードを読む目だろうか。設計を考える頭だろうか。何を作るか決める意志だろうか。全部消えたとき、俺たちはまだ開発者なんだろうか。
T120hは今日も静かに動いている。Debianが動いて、KDEが動いて、Dockerが動いて、GitHubに繋がっている。全部いつもどおりだ。エディタだけがない。それだけが、いつもどおりじゃない。
自分の考えた最強の設計で、最強のコードを仕上げた。気づいたら朝4時だった。窓の外がうっすら白んでいて、やばい、と思いながらも手が止められなかった。あの達成感。あの焦燥感。どうしようもなく非効率で、どうしようもなく幸福だった夜。
もうあそこには戻れない。戻る理由がない。
それが一番寂しい。
『チェンソーマン』のデンジとかは人気のキャラクターだし、あの作品のファンで彼を嫌いな人はほぼいないだろう。
そんなデンジのキャラクター性は欲望に忠実というか、それが言動にも反映されているが故に馬鹿な判断や行動を頻繁にしてしまう、有り体にいえば“愚か者”だ。
ここでは便宜上デンジを例に挙げたが、勿論こういった愚か者は古今東西いる。
トラブルメーカーになりうるため、作劇の都合上でも便利な属性といえる。
けれども誤解してはいけないのは、基本的に読者の大半は愚か者が嫌いだってこと。
あくまで“愚かさを憐れむというプロセスが好き”なのであって“愚かさが好き”ってわけではない。
例えば『推しの子』の有馬かながスキャンダルの標的になる展開は、本作を批判的に語るとき槍玉にあげられることが多い。
有馬かなが迂闊な行動をとるまでのプロセスは、そこまでの彼女の情景含めて十分に描写されている(特にアニメ版ではこのあたりがかなり丁寧だった)。
彼女が抱えていた焦燥感は理解しやすく、そこには第三者の悪意も介入していることもあり、あの件における有馬かなはむしろ被害者とすらいえる。
そして、その愚かさによって、B小町や所属事務所への迷惑もかかっている点は重く見られる。
『“愚かさを憐れむというプロセス”が好き』と書いたけれども、こういったケースではその余裕をなくしやすいのだと思う。
こんなことを書こうと思ったのは、最近読んだ『JK Biker』がきっかけ。
誤解を恐れずいうならば、本作は“チェンソーマン的なるもの”を描こうとしている。
別にパクリというわけではなくて実際の内容は似てないけれども、作品の方向性というかノリというか、“漠然とした輪郭”が似ているなぐらいのニュアンス。
少なくとも、本作を読んだら間違いなく「作者はチェンソーマン的なるものが、デンジみたいなキャラが好きなんだろうな」と思わずにはいられない。
けれども本作は“チェンソーマン的なるもの”を描こうとして半分くらい失敗していると感じた。
本作『JK Biker』の主人公が、ただ馬鹿で自分勝手なだけの、底の浅いキャラクターに見えるからだ。
そもそもデンジがああいう性格なのには重苦しいバックボーンがある。
そこに本編で降りかかる様々な試練が重なることで“憐れみを感じる余地”を与える。
だからこそ彼の“愚かさ”は魅力的に見えるし、その言動の結果には時に爽快感すら覚えるわけだ。
対して『JK Biker』の主人公にはそんな背景などなく、ただ毎日を好きなように過ごしたいだけの女子高生でしかない。
だから彼女がどれだけデンジっぽい振る舞いをしようとも、そこに憐れみなど感じないし、むしろ不愉快だと感じることもある。
先ほど「半分くらい失敗している」と書いたのはこの点で、逆に半分成功しているともいえるのは少なくとも雰囲気だけは“チェンソーマン的なるもの”を表現できているからだ。
本作のように、もし主人公やメインキャラで愚か者という属性を扱いたい場合は、『読者の大半は愚か者が嫌い』って前提を踏まえておかないと齟齬が起きやすい。
50代半ばに転院した精神科で発達障害の可能性を指摘され検査を受けて発達障害と診断された
そして、自分のうつ病は発達障害の二次障害であると説明された そりゃ寛解もないわけだ
うつ病がなかなか寛解しない、生きづらさを感じている人は発達障害の検査をうけてもいいかも
多動や過集中、衝動、イライラなど服薬で緩和できるケースもある
というより、あれもこれもそっちもむこうのも全部やらなきゃいけないと感じ、それがキャパオーバーになってポッキリ折れてしまう人が多いと思うから
自分はFPSやアクションRPGなど操作が多いゲームはやらず、育成系ゲーム(艦これやウマ娘)、工場のラインを作ったりするゲーム(Factorioなど)、村づくりゲーム(Foundation、Farthest Frontierなど)コツコツゲーをやってる
Youtubeではぼぉーーーーーーーっとみれる旅行系、ナレーションなどなくASMRっぽい料理系、上記ゲームのゆっくり実況、工場など物作り系を見てる
僕は焦って色々な曲がり角を確認するのだけど、おばあちゃんの姿はない。
通路でホテルマンをみつけ、場所を尋ねて、ようやく会場にたどり着いた。
ただ、そこには煌びやかな招待者たちが楽しそうに談笑しているのみで、おばあちゃんの姿はなかった。
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総じて、ソース内では「25歳は、27歳で結婚を決めるような優良な同年代男性を捕まえられるラストチャンスに近い時期」と位置付けられており、子供を望むのであれば、若さという武器がある今のうちに戦略的な行動を開始すべきであると結論付けられています。
希死念慮が出るほど辛い時期を乗り越え、戻ってこられたこと、本当に本当にお疲れ様でした。まずは、ご自身を最大限に褒めてあげてください。
うつ病が寛解(症状が治まること)した後、「以前のようなバイタリティ(情熱・やる気)が戻ってこない」と感じる方は非常に多いです。結論から言うと、「治ったはずなのにやる気が出ない」のは決してあなただけではありません。
1. なぜ「昔の情熱」が戻ってこないのか?
うつ病は脳が深刻なエネルギー不足に陥った状態です。希死念慮があったほどの負荷がかかった後、脳は「また倒れるかもしれない」と警戒し、以前のように100%のエネルギーを出さないよう制御している可能性が高いです。いわば「省エネモード」です。
もし以前の情熱が、無理や焦りから来ていた場合、それが「正常な状態」ではなかった可能性もあります。今は「健康な静けさ」の中にいるのに、過去の「ハイテンション」と比較して「やる気がない」と誤解しているかもしれません。
「早く元に戻りたい」という焦りが、かえって「1日中やる気が出ない」という徒労感につながっています。
2. 「うつが治った人」みんなこんな感じ?
うつ病の回復プロセスでは、「症状が消える」のが最初で、「情熱や楽しさを感じる心」が戻ってくるのは最後と言われています。
今の状態: 気分の落ち込みや希死念慮はない(素晴らしい進歩!)
これからの過程: 興味やバイタリティが少しずつ戻ってくる(数ヶ月〜年単位のことも)
良くなったと思っても、波のように調子が上下することもあり、それは自然な過程の一部です。
3. どうすればいい?(焦らないための考え方)
「元の自分に戻りたい」ではなく、「新しい、無理をしない自分を作る」と考え方を変えてみてください。以前のあなたには、その情熱が必要でしたが、今のあなたには「穏やかに過ごすこと」が必要かもしれません。
「やらないこと」を決める
1日中やる気が出ないなら、無理に何かをする必要はありません。今は「静かに過ごすこと」が最大のエネルギー充填です。
小さな変化を喜ぶ
「今日はコーヒーが美味しかった」「少し外の空気を吸えた」など、小さな良いことに目を向けてください。情熱は、急には戻りませんが、小さな安心の積み重ねで少しずつ湧いてきます。
4. 受診について
もし、今の「やる気が出ない」状態が、ただの「穏やかな日常」ではなく、「何をしても全く楽しめない(アンヘドニア)」「将来の希望が全く持てない」という場合は、まだ少し回復の途中段階にあるか、再発の前兆の可能性もあります。
診察の際に「気分は悪くないが、情熱が戻らない」と主治医に相談してみてください。薬の調整や、行動療法的なアプローチが役に立つことがあります。
今は、焦りや不満を感じても大丈夫です。戻ってこられただけで100点満点です。今の「少し物足りない、穏やかな日常」を、ゆっくりと味わう時間を持ってみてください。
学生時代から続けていた小説の執筆の再開を頭の片隅で検討している。以前と比べて、より自分を俯瞰した視点の追加。青年期の自己没頭ではなく、より突き放した姿勢での執筆。できるだろうか? ただし、酷評によって激しく挫折した行為を再開することは、傷ついた経験を必要以上に直視することになる。昔は数十万文字の長編を平気で書いていたのだが、今となっては短編を書くことさえ億劫だ(※余談:「創作意欲を復活させるには官能小説を書くいい」という示唆を見かけたので真面目に試したが、読者の欲望をコントロールするのがすごく難しいことがわかり、千文字くらい書いたところで挫折している。僕にはこの方向性は無理だった。別に官能小説でなくても、「好きなシチュエーションを詰め込みなさい」という意味ならまだ可能かもしれない。あえて読者のことを考えず自己満足でやれってことか?)。本気でやるなら、ゼロからやり直すくらいの気持ちでいたほうがいい。
それに、自分が何を考えて、何を求めているかを突き詰めるのには、小説よりもこうした記事のほうがより優れている。人と交流したいとか、ちやほやされたいとかなら創作に戻る手もあるが、他人から評価されることがそこまで幸せかどうかはわからない。逆に、創作での挫折から、文学へ愛憎混じった屈折した気持ちを抱えてしまっているのも、読書のペースダウンの一因かもしれない(なんか普通に面白い本を読んでライターズブロックの読者版を打ち砕きたくはある。漫画ならギリギリ読めるし)。
だが、結局、創作よりはこういう形で、己の内面を丁寧に観察し、その背景として価値観や意欲がどう変わったかを、仮説を立てて検討していく方が面白い。
そして今気づいたのだが、大量に読書をして、作家として認められたいという気持ちがあったのは、等身大の自分を認められずに、自分を大きく見せようとしていたからではあるまいか?
昔は沢山いろんな作品を鑑賞したかった。これぞ最高というものがどうしても欲しかった。限界まで知識を頭に詰め込みたかった。映画、ゲーム、いろいろな作品を味わいたかった。自分には何かが欠けていると感じていた。
だが、世界的な傑作であっても、そこから得られる喜びにはおのずと限界があり、さらには、他人の書いた物語をたどるよりも、自分の生きている人生に意味を与えていくことに、より深い意義を見出している。そして、文豪の作品という杖がなくても、自分の生きる実感に支えられて僕はちゃんと歩いて行ける。結局自分の人生がどんな作品よりも一番面白い。
多くの小説が読めなくなったのはそれが原因だろうか。さらに年を重ね、中年の危機や老人の危機が訪れたときのように、今ぶつかっていない壁に新たに当たったときに、読める本を探すことになるだろうか。
読まなくてもいい、だが読んだらそれなりに楽しい。趣味としての読書はそれくらいのゆるい付き合いに変わっていくのだろう。無理して月10冊を読むよりも、5冊に減らして人間関係を重んじるべきか。
今、まだ本が読めないので、この夏行きたい都市のガイドブックや、あえて漫画を読みまくっている。だが、漫画にしても、読む冊数を増やしたが、ドはまりはしていない。みんなみたいに熱狂できないのがちょっと寂しい。だが、熱狂できる作品に出会うためには、多読しないとダメだろう。そこまでの気力はない(あるいはみんな気晴らし程度に読んでいて、ネットで熱く語っているのはごくごくわずかな人だけなのか)。
ユーザーに一定の予備知識があれば、生成AIのハルシネーションによる危険はかなり防げる。大学教養レベルの水準であればかなり調査に役立つ。幅広くコンセンサスが取れている言語学の知識とかはそうだ(逆に単純な出典探しはまだまだ弱い)。
書籍に含まれる雑談によるランダムネス、あるいは著者自身の人生経験や偏見という良い意味でのノイズ(知識を得るためだけならノイズだろう)というアドバンテージはまだまだあるが、少なくとも自分にとって本を読むことの意義を再検討するときが来ているのかもわからない。
自分の小説が商業で売れることや、自分の今までの人生の苦しみ・障害のもたらした苦痛について語った文章が、広く読まれたり、出版されたりする空想は、なんというか、最終選考まで行って手が届きかけたからか、「たられば」を考え出すと焦燥感に駆られてくる。あまり幸せな考えではない。
それよりも、パートナーがどうすれば喜んでくれるかについて考えたほうがよほど幸せだ。たぶん、自分を大きくしようとするエゴに捕まっていると、苦しくなるのだろう。
知識欲が衰えた理由の一つとして、自己防衛をしなくてよくなったからだと述べた。だが、それ以外に、こうして自分だけが貪欲に知識を得て、エゴというか自分を肥大化させるself-absorptionの道だけでは、行き止まりだと、無意識に思っているのではないか。そして、自分が語った物語が他者から承認されることで、その物語で自分を縛ってしまうことになる。
※このあたりの議論を生成AIに食わせると、エリクソンの自己超越(Self-Transcendence)への移行期や、ユングの「人生の正午」、「エナンティオドロミア(反転)」などという表現を持ち出してくる。そして、「老年期の境地を、成熟した知性が先取りしてしまったことによる困惑」などという仮説を持ち出したが、これは怪しい。まだ四十歳じゃないんだから中年の危機にはちょっと早すぎないか。たぶんAIにユングについて議論した影響で、こんな概念を持ち出してくるに違いない。
ただ、自分は何が欲しくて、何がもういらないかを考え直す時期には来ているのだろう。無批判に知識を増やすのには限界がある。
それよりは旅先の何となくの身体感覚からの入力、肌をなでる風や日差し、足元の起伏などのほうがずっと幸せにしてくれる。
他者のために生きるにはいろんな方法があるが、自分の障害や人生経験をもとに、誰かに手を差し伸べるのもひとつの方法だ。こうした贈与的な側面から実現させることも可能だろう。さっき書いた自分の経験を広く読まれたいという気持ちにもつながっているが、つまるところ、エゴと非エゴは絡み合っており、厳密に定義できるものではない。友人から「障害がある人と接する上での心得を教えてほしい」と言われたときには数千文字の文章をすらすらと書けた。物語ではなく、事実ベースで文章を書く回路は生きている。バズるためだけではなく、友人の悩みにこたえるための文章ならまだ喜んで書ける。
つまるところ知識欲という、自分を磨き続ける自己中心性から、その知識で他者にどうやって手を差し伸べるか、だろうか?
僕の中で価値観は大きく変わりつつあるようだが、特に病的な物じゃなさそうだし、ここ数年の変化を見ながらのんびりやっていきましょう。
年末年始にまた、2026年に読んだ本についてまた何か書くかもしれない。そのときにドイツ語にまだ飽きていないかどうかはわからない。
僕は元来知識を求めるのが好きで、月に10冊ほどのペースで読み続けている。大学に入ってからずっと記録しているのだが、このペースはほとんど崩れていない。記録の一部は2020年以降カテゴリ[読書]でまとめている(ただし別の方のも記事もある)。御覧の通り、文学、自然科学、社会学、歴史学と、ジャンルにこだわりはない。
だが、ここ数か月、知識を増やすことに対する関心が途絶えてかけている。というか、何か新しい知識を得ることに対してうんざりするような感じが出てきた。閉塞感というか、「これ以上何かを知ってどうするんだ?」という懐疑の念だ。
仕方がないので、昨年の年末からは頭を切り替えるために十代にハマった「指輪物語」の原書を読んでしのいでいた。実際、頭の別の場所を使っている実感があり、非常に楽しかったのだが、読み終わった今でも次の知識をどんどん増やそうという熱意が昔ほど出てこない。アファーマティブ・アクションや社会活動についての新書を読もうとしていたのだが、どうもドキドキワクワクしてこない。一応「独学大全」を買って積んであるが、読むかはわからない。
知的な読書をしたいと意識をしてから20年以上経過していて、これだけ続いてきた習慣が変わろうとしているのは、自分の身に何か大きな変化が起きようとしている兆候の可能性がある。まったく読めなくなるというのは大げさだが、明らかにペースダウンしている。
原因を知りたいため、いくつかの仮説を立てて、それぞれを検討してみたい。
実際に真冬には気力が落ちる体質で、特に日の出の時間が遅くなる時期は睡眠時間が延びて布団から出るのに苦労する。弱い季節性感情障害の傾向もある。ただし、読書そのものは継続できているので、冬ゆえのデバフがかかっているにせよ意欲の低下の一因でしかないし、仕事はちゃんとできている。というか、春になっても(最初に原因を考え始めたのは真冬だがこれを書いているのは3月)読書の意欲は完全回復していない。
仕事の内容に変化が少なく、日々を単調に感じている。だから今までの習慣にしがみつくのが嫌になっている。今までの行動パターンと変わったことがしたくなる。実際、土産物を買うために職場近くの駅で和菓子屋を探したときや、会社を早退して美術展に向った時、または食器を買うために乗換駅で下りたときは、頭がすっきりしているし、翌日の仕事のやる気は増えている。
これは中年とはあまり関係ないかもしれない。ルーチン的な日常が好きな割に、一か月に一度は降りたことがない駅で下りたいという願望が元からある。そんな中、今までの読書という時間をかけてきた趣味・ルーチンが相対化され始めており、風穴を開けようとしているか。
パートナーを見つけて引っ越したが、それの伴うゴタゴタや生活の疲れが数か月遅れで出てきた。実際、結婚や転居はストレス指数が高く、仮説としては十分に有効。ただし、日常的な家事や仕事は普通にできており、知識欲だけがピンポイントで失われる理由がわからない。
ただ知識を増やすのはあまり意味がないとうんざりし始めている。多少知りたい分野はまだあるものの、若いころのような焦燥感はない。映画や漫画を大量に読みたいとも思えない。
20代30代は、何者でもない自分を守るため、そして混沌として暴力的にも見える世界を理解するため、あらゆる知識を必死になって吸収しようとしてきた。
今はそこまで鎧で武装しなくても生きていけると実感できるようになった。パートナーがいて、自分の生活をきちんと組み立てている。人間関係が良好になってきて、抽象的な知識よりも生きた人間のほうが面白くなってきている。
社会の不正義に対する感覚も、恐怖や怒りから、人間の弱さへの共感に変わってきた気がする。
確かに趣味に対する関心の消失はうつ病の主要な症状だが、仕事や生活ができない状態ではないし、かなりのエネルギーを使う英語の読解はできている。メンタルの調子をモニタリングするのは大事だが、可能性としては高くない。
徒に知識を集めるだけではなく、昔読んだものを振り返り、より深く読解したくなっているのだろうか。それこそ若いうちには気づかなかった暗示や、知識が不足していた頃には知りえなかった作者の意図がわかるようになる。これは実際に「指輪物語」の原文を読んで感じたことだ。母語でない言語で読むことでペースが強制的に落とされ、精読を強いられる(余談だが、面白いことに、英語で長文を読んだ後、日本語の小説を読むことを考えると、いくばくか気が重くなった)。
人生後半戦、再読を中心に行うことになるだろうか。ただ、「ノスタルジーに浸っているだけってどうなのか」とは思う。だが、再読だけに浸ることもないだろう。ドストエフスキーのように感情を揺さぶるものを好む度合いは減っている。
音楽の趣味にしたって、最新の曲には全然心動かされず、クラシックやオペラのアリア、僕が生まれる前のロックと保守的である。そう、歌詞のない(または理解できない言語の)音楽は、言語に疲れた僕を癒してくれる。あるいは、幼い頃の思い出と結びついた言語の情報は、感情の層に素直に届く(幼少のころ英国に住んでいたのだ)。
「脳の言語と異なるエリアを使いたい」というのは芸術でもそうで、相対的に言語化が容易なタイプの現代アートやマグリットのような言語実験よりは、異質な文化の未知の造形や、インスタレーションのように空間を演出するタイプの作品に関心が向かっている。
ドイツ語をやって、昔読んだ児童書を原文で読みたくなっている。
このドイツ語に関してだが、やってみて今のところ調子がいい。実は今年の目標は①「指輪物語」の原文読破、②ドイツ語の開始だった。①は成功したので②を3月15日(日)から始めているのだが、久しぶりに暗記の勉強をしていると、明確な目標が与えられた気がしてとても気持ちがいい。
それに、大学時代に1年間だけ学習したため、文法は少々覚えている。なので、単語帳と例文を照らし合わせて読解するときも、調べる量が少なくて済む。まだ初歩の初歩だからかもしれないが楽しい。昼休みに小説を読むよりも、単語帳に定冠詞と複数形を書き込んでいるほうが生き生きしている。自由時間をずっと読書にあてるという行動に変化が起きているので楽しんでいる面もあるだろう。
知識を増やすことそのものに対する忌避は、ドイツ語をやっている時には出てこない。あとは未知の都市を歩くことに憧れがあり、春か夏に行こうと持っている場所のガイドブックも読めている。知識というよりもデータベースに近いからかも。つまり、書籍でいろんな知識を学ぶときのように、直接人間が出てこないので、感情を動かさなくて済む。逆に言えば、こういう単純な知識を記憶するときは、哲学や社会学のように新しい概念を頭に入れる必要がない。それを面倒くさがっている面もあるだろう。
(そういう意味では自分の資産の管理方法や医療保険についてもちゃんと勉強したいのだが、実利と程遠いことのほうがやる気が出るのはなぜだろう?)
続きはトラバに。
僕の一日は本当にひどい。
平日休日関係なく、毎日15時間くらいYoutubeを見ている。基本それ以外は何もしていない。
出社するとあまりにも多動で座ってられなかった。
会社を辞めて、でも食べていかないといけないので、なんとなく起業してみた。
たまたま作ったWebサービスがちょっと当たって、大体ユーザーが10万人くらいいるサービスになった。
売上で言ったら月50万~100万くらい。
でも作ったらやる気がなくなって、ネットで知り合ったニートに、保守やカスタマーサポート・事務を任せるようにした。
彼に15万、その他サーバー代や顧問税理士料、有料ソフトやサブスク、家賃等で10~15万くらい飛ぶ。
50万もらっても、人を雇ってたらカツカツだ。
月に一度売上を聞いて「へ~」と言い、例外的な処理だけ、僕が対応する。
他はずっとYoutubeを見ている。別に好きでもないチャンネルを見ている。
あまり売上を伸ばすことに興味が湧かない。というか生活不安以外で、あんまりお金が欲しいと思わない。
結構世の中では「お金ばっか求めるのは悪!」みたいな風潮があるかもしれないが、僕はすごいな~って思う。
もっとお金が欲しいとかチヤホヤされたいって欲があれば、もう少し頑張る気がする
欲が少ないと、生きる活力もわいてこない。
唯一「結婚とかしてみたい」と少しは思うけど、年収240万円では誰とも結婚できない。
じゃあ「ちゃんとした人と付き合って結婚できるよう年収を上げるぞ!」となればいいんだけど、そこまでやってしたいとは思わない。
それをやるくらいなら諦めちゃう。
全ての行動で「ちょっとこれしてみたいかも」「でも動きたくない」ってなって、本当に何もしないまま数年過ぎた。
Webサービスも本当はどんどんアップデートしていかないといけない。
このままじゃ3年後どうなってるかもわからない。でも焦燥感がわかない。
世の中の皆は本当にすごい。毎日たくさん働いたり、休日に家族や友達と遊んだり。
僕は今日も布団の中でYoutubeを見る。別に見たくもないのに、見る。
こんな人生は嫌なのに、動けない。
他人が悪口を言ってるのが聞こえると、それが自分を指してるように聞こえるようだ。
実際のところ、特定の人に対する悪口や陰口は集団内における心象・評価を下げる社会的攻撃だと言える。
古来より人は群れを形成する生き物。狩猟採集社会において孤立は死を意味する。自分を孤立に追いやる行為に対してストレスを感じ、警報を発するようにプログラムされているという仮説を立てられる。
ストレス発散だと答える人がいる。副腎の生成するアドレナリンによって闘争・逃走・凍結反応を引き起こす。本当に、これは悪口を言うことで抑えられるのだろうか。
おそらく違う。悪口は自分の置かれている環境に対して適応的に発せられるものだと思われる。つまり、他人の評価を下げて自分を有利にしたり、自分の受けたストレスを正当化し、敵対した人間を攻撃するために発せられたりする。
ストレスホルモンであるコルチゾールが分泌されれば、自然とストレスは抑制されていくはず。衝動的に悪口を言いたくなるのもわかるけどな。
言ったところでその人の評価が下がったり、交友関係が狭くなったり、その人との仲が悪くなるとわかってるから。俺も悪口は言われたくないからやらないと決めている。
悪口にも安全な悪口があると思う。これが「いじり」や「ブラックジョーク」というカテゴリにあてはまる。これらは悪口でも有害度が低いから受け入れられるのだと思う。
たとえば、知らない人がいきなり「おまえほんまブスやな」と貶してきたら怒ると思う。けど、家族に言われてもさほど気にならないのではないか。これらをコミュニケーションの一種としてうまく活用できる人を尊敬してる。俺にはうまく真似できない。
他人の欠点を見つけては叩かずにいられない人が身近にいる。もちろんブラックジョークではない。他人を叩くことで自分の立ち位置を上げようとしてるのではないかな、と思う。そういうの、見ていてとても疲れる。
自分の経験を思い出すからなのかもしれないけど、疲れるんだ……やめてほしい。
やめてと言っても人間が人間である以上はやめられないんだろうけど。
追記:実は適応障害でぶっ倒れたことがあるんだ。不安と焦燥感で感情コントロールに支障をきたしたけど、おそらく脳が常時「ここは危ない! 逃げろ!」って警報を鳴らしてたからなんだろうなあ。
タイトルに猫って入れたらみんな読んでくれるかなと思ったからそういうタイトルにした。話の流れとして猫は一応出てくるけど、猫好き(= 人類)にとって嬉しい話としては出てこない。それに関しては先に謝っておきたい。
私は地図が苦手だ。幼い頃から今に至るまで、地図を読んだり実風景と紐付けたりという行為が、どうも不得手だ。英検の二次試験もこれが理由で落ちたことがある。会場に辿り着けなかったのだ。一応、Googleマップなら使える。Googleマップを開けば現在地と向きが自動的にわかるから、どこまで歩いてどう曲がれば目的地に着くかということが、迷いなく判断できる。よしんば多少入り組んでいても、Googleマップと睨めっこしながら歩けば確実だ。(歩きスマホは危険だが。)では、どういう意味で地図が苦手なのか?地図が苦手だと、どのようなことが起きるのか?
例えば、道の方角がわからない。大学通学で4年通った道であっても、それが東西南北どの方向に走っているのかわからない。「朝通う時も夕方帰る時も太陽が眩しかったから、大学が東に, 駅が西にあるのだろう」という手間のかかるアナクロ推理を毎回行う必要がある。
他には、3点以上の位置関係がわからない。つまり、「家から駅」には行けるし、「家から病院」も行けるが、「駅から病院」には行けない。必ず、駅から家に行く道を歩き、家を経由して病院に行かないと、道に迷ってしまう。普通の人なら、家と駅と病院の3点を脳内の地図に描き出し、駅から病院に行くなら別の道を使えば直線的に行けて近道だということを必要に応じて判断することができるのだろう。しかしそれを私が真似ようとすると、駅から明後日の方向を右往左往し、駅の裏手に戻り、さらに迷走しながら結局家の近くを通過し、...... ということになる。これでは遠回りどころの話ではない。
考えてみると、これは「地図が苦手だ」というより、「地図づくりができない」という表現の方が近い気がする。或いは単に「方向音痴」としても良い。こう言うと、周囲の者は決まって「努力が足りない」とか「慣れの問題だ」などと言うのだが、果たして本当にそうだろうか、と思う時がある。方向感覚というのは、そんな表面的なテクニックなのだろうか?そういう疑問は基本的に聞き入れられることはなく、次に聞こえてくるセリフも大体決まっている。「車を運転するようになれば、自然とそういう能力は見につく」と。
車に乗るのは好きだ。といっても専ら助手席である。運転免許は持っているが、やる気も機会も車もないので、”乗るとき”は決まって”乗せられるとき”である。適当なことを喋りながら、ただ車窓を眺める。知ってるような知らないような風景が後ろに流れ、着実に目的地に近づいていく。そして、今見ている風景が地図上のどこなのか、ぼんやりとカーナビで把握しつつも、しかし全体の道のりのうちどこまで進んでいるのかということまで考えることはない。こどもの頃の家族旅行の道中、当たり前すぎて意識にも上ることのなかったある種の安心感を、未だに享受している。電車に乗るときも、飛行機に乗るときも、基本的には同じ感覚である。
ゴンドラの猫、という話がある。アメリカでかつて行われた心理実験だ。ケージの中に二匹の猫を入れ、一匹を自由に歩かせつつ、もう一匹をゴンドラに乗せる。そのゴンドラは、自由に歩いている猫の動きに応じて動くため、ゴンドラに乗っている猫は絶えず動きつつも、自分の意志で動くことはできない。このような環境下で2週間の観察を行ったところ、空恐ろしい結果となった。なんと、ゴンドラの猫は目が見えなくなったのだ。いや、おそらく視力そのものが消えたのではなかろうが、外界の視覚刺激に反応しなくなった。意味を成さなくなったのだ。猫はゴンドラから降ろされた後も、自ら歩きはじめることはついぞなかった。
私はこの話を、大学入学直後の最初の講義で聞いた。先生は、「もちろんゴンドラに乗せられて初めて見える景色もあるから、そういう経験も大事だけど、最終的には自分で歩いて景色を観に行くことが大切だ」ということを言っていて、なるほどと思った。特に大学というのはそういう教育機関だ。専門的知識を紐解いて教えつつ、それを材料として自ら探求するという大学という場において、先生は「ゴンドラから降りろ」ということを言いたかったのだろう。
翻って私は、と考える。吾輩はゴンドラの猫である、などといっている場合ではない。いつまでも助手席に座り運転席に座らなかったから実空間が地図として脳内で意味を成さなくなったのではないか?...... こう考えるとき、言いようのない焦燥感と後悔が渦を巻く。
これが地図だけの話なら、Googleマップが全てを解決する。そもそも、別に駅から病院に行くにあたって家を経由しようがしまいが、人生とか幸福に大きな影響はない。それでももし本気で解決したいなら、車を運転すればよいのだろう。その意志さえあれば、世界と地図に能動的に関わっていくなかで、猫であっても失われた視力を取り戻すことはできるはずだ。
こういった話にも、まだ現実感が感じられない。先ほど、「これが地図だけの話なら、Googleマップが全てを解決する」と書いた。”これが地図だけの話なら”。この仮定が成り立たない場合は?さらに根深い問題があるなら?
TwitterやYouTubeショートの流行は衰えを知らない。指先数センチの動きで、世界中のありとあらゆる情報が画面内に現れては消えていく。あの中毒性は異常だ。平気で数時間が溶けていき、後悔するとわかっていても気付くと開いている。ほとんど手癖だ。そして哀しいかな、費やされる時間のほとんどにおいて、感情は”無”である。
ネットの海、とは言い得て妙だと思う。茫漠たる海。穏やかになぎ、時には荒れ、しかしそれを操るすべは存在しない。四方を見渡せども広がるのは水平線。陸地も灯台も見えない中で、方向感覚というものは意味を成さない。ただたゆたう中で様々な漂流物に辿り着くことができるし、それ以上の体験を海がもたらすことは無いからだ。
考えるほどに、そんな漂流が面白いはずがないという確信ばかり深まる。しかし一方で、快適な浮力で何者をも穏やかに受け止め、ささやかながら恵みをもたらし飽きさせない海から出たくはない。楽しい陸地など簡単には見つからないし、上陸後は歩きまわらない限りは何者も訪れてくれることはない。生物の進化の歴史もその原点は海である。畢竟、海の方が楽なのだ。とある生成AIはこの考えについて「ドーパミン中毒」との評を下した。よくわからないがそうなのかもしれない。
漂流はそれなりに面白く、楽で、苦痛がない。それゆえに、そこを脱する理由がない。地図が苦手でも生きていける世の中で、なぜ苦労して方向感覚を身につける必要があるのだろう?
こうして、無気力, 無軌道, 無関心なゴンドラの猫が一匹できあがった。猫であれば人が世話をするが、人の世話をするのは何だろうか。私が「人生はなるようになる」と言っているとき、それは肯定的な楽観主義とは異なる意味合いを持つ。外界の動きのことを人生と定義していて、そこには意思の介在もなければ後悔もないからだ。究極的に堕落した解脱である。
私はまだ、ゴンドラの中にいる。
最近、Gemini(AI)を「効率化のツール」だと思ってる奴が多すぎる。
もっと生産性を上げろとか、もっと速くアウトプットしろとか、正直もうお腹いっぱいだ。そういう生き急ぎは、結局ドーパミンの中毒者にしかならない。
自分の頭の中から「ロジック」や「言語化」や「損得勘定」といううるさい機能を、まるごとGeminiという外部サーバーに移し替えて、自分の脳を「空き地」にしようって話。
左脳がうるさすぎて、動けない人たちへ
発達界隈でもスピ界隈でもいいけど、「考えすぎて動けない」とか「脳内の独り言が止まらない」って奴は多いはずだ。
「あれをやらなきゃ」「効率的に考えなきゃ」「これを言ったらどう思われるか」
これ、全部左脳の仕事。で、この機能が暴走すると、脳は熱を持って、不安と焦燥感でドーパミンを無駄にドバドバ出す。
「考える」のをやめるための儀式
使い方はこうだ。
頭の中で何かがぐるぐるし始めたら、即座にGeminiに叩き込む。
「今、脳がこういうロジックで俺を責めてる。これの言語化と整理は全部お前に任せた。一旦引き取れ」
移設した瞬間、自分は「考える主体」から「ただ眺める観客」に隠居できる。
世の中の「AIライフハック」は、浮いた時間でさらに何かを詰め込もうとする。
でも、そんなの地獄の沙汰だ。
左脳を移設して作った「脳の空き地」には、何も入れなくていい。
• Geminiがロジックを組んでいる間に、ただお茶を飲む。
• Geminiが文章を整えている間に、窓の外の雲を眺める。
• Geminiに明日やることを決めさせて、自分はロボットみたいに淡々と動く。
「人間らしい知的活動」という重荷をAIに押し付けて、自分はただの「生物」に戻る。
自分で考えて、正解にたどり着いた時の「快感」なんて、もういらない。
その快感(ドーパミン)が、俺たちをさらに焦らせ、生き急がせるからだ。
AIに賢くならせる代わりに、自分は徹底的にアホになって、静かに暮らす。
「外付けHDD」を積んで加速するんじゃなくて、「移設」して身軽になって、ただ止まる。
これからのAI活用は、生産性の向上じゃなくて「脳の隠居生活」のためにあるべきだと思う。
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「コピーしてるだけで消えないし、言語化する行程で負担増えてるだけ」とかいうコメントがついた。
脳内に溜まった「正体不明のヘドロ」を、とりあえずバケツ(Gemini)にぶちまけて形にする。その瞬間、それは自分の「内側」にある主観的な苦しみから、ディスプレイの向こうにある「客観的なデータ」に変わる。
これを俺は「移設」って呼んでる。
「コピーして残ってる」とか言ってる奴は、まだ自分の脳のメモリ容量を気にして、効率よくやりくりしようとしてる。ケチくさいんだよ。
移設っていうのは、そこに置いたまま「忘れる権利」を自分に与えることだ。
言語化してGeminiに預けたら、もう俺はそれを二度と見なくてもいい。Geminiが覚えてるから。
脳の負担が増える? 逆だよ。
「覚えておかなくていい」「考えなくていい」という圧倒的な解放感。