京阪電鉄交野線 宮之阪駅(その1):宮之阪駅から百濟王神社へ
関西の鉄道駅で思い付きの気ままな途中下車をして、近隣のミニ探索をしている。
今回は、大阪府の枚方市と交野市を結ぶ「京阪電鉄交野線」にて、「宮之阪駅」で下車し、駅の東方向の高台に鎮座する「百濟王(くだらおう)神社」を訪問することにしている。

「京阪電鉄交野線」は「枚方市駅」と交野市の「私市駅」を結ぶ「京阪電鉄本線」の支線である。
その「宮之阪駅」で下車する。
駅ホームは高架で、2面2線の相対式である。

駅の北方向に「宮之阪」と云う府道との交差点がある。
この府道「枚方茨木線」を東方向へ登って行くと、左手の高台に神社の木々が見えて来る。

そして、神社の石段下に到着する。
神社は「百濟王神社」で社号柱が建っている。
またその脇に、「史蹟 百濟寺跡」の石柱も建っている。

石段を昇ると、鳥居、社号柱が建ち、平坦な境内が広がる。

境内の案内図も掲げられている。

「百濟王神社」は、あまり見かけない神社名であるが、この神社は、古代の朝鮮半島にあった「百済国」に関係している。
我が国の飛鳥時代(7世紀)の頃、朝鮮半島の一国「百済国」は、唐・新羅の連合軍に滅ぼされ、国王一族を始め多くの国民が我が国に逃げ渡ったとされる。
来朝した百濟氏一族は、持統天皇や聖武天皇に重用され、「百済王(くだらのこにきし)」という氏族名が与えられたとされている。
そして当初の難波の地から、この地に移り、氏寺「百濟寺」や「祠廟」を創建したとされている。
しかしながら、その隆盛な長くは続かず、平安時代の中頃には動向が不明となったとされている。
その後、江戸時代になって、一族の後裔や関係者がこの地に「百済王神社」を創建し、現在に至っているとの事情を有している。
先ずは境内手前の右手には、祭神が「高龗神(たかおかみのかみ)」の境内社「浮島神社」が祀られている。

そして、その裏の隣には「旧拝殿」が祀られている。

境内正面は、一対の「狛犬」、「拝殿」が祀られている。

「拝殿」の左手には「社務所」、右手には塀が設けられ、その外側に朱色の葉を付けた木が見え、綺麗である。

そして「拝殿」の背後には「本殿」が祀られている。
この「本殿」は、江戸時代後期1822年の「春日大社」の造替に際し、その一棟が移築されたものとされている。
「本殿」の祭神は、「百濟王」、「牛頭天王(進雄命)」とされている。

「本殿」の背後には境内社3社が祀られている。
左から、「八幡神社」、「相殿社」、「稲荷社」である。

境内を一巡したところで、境内に入る鳥居の所から東方向への参道を辿る。
そして、参道口の風景である。
尚、背後の「土塀」はこの後に訪れる「百濟寺跡」のものである。

今回は、大阪府の枚方市と交野市を結ぶ「京阪電鉄交野線」にて、「宮之阪駅」で下車し、駅の東方向の高台に鎮座する「百濟王(くだらおう)神社」を訪問することにしている。

「京阪電鉄交野線」は「枚方市駅」と交野市の「私市駅」を結ぶ「京阪電鉄本線」の支線である。
その「宮之阪駅」で下車する。
駅ホームは高架で、2面2線の相対式である。



駅の北方向に「宮之阪」と云う府道との交差点がある。
この府道「枚方茨木線」を東方向へ登って行くと、左手の高台に神社の木々が見えて来る。



そして、神社の石段下に到着する。
神社は「百濟王神社」で社号柱が建っている。
またその脇に、「史蹟 百濟寺跡」の石柱も建っている。



石段を昇ると、鳥居、社号柱が建ち、平坦な境内が広がる。



境内の案内図も掲げられている。

「百濟王神社」は、あまり見かけない神社名であるが、この神社は、古代の朝鮮半島にあった「百済国」に関係している。
我が国の飛鳥時代(7世紀)の頃、朝鮮半島の一国「百済国」は、唐・新羅の連合軍に滅ぼされ、国王一族を始め多くの国民が我が国に逃げ渡ったとされる。
来朝した百濟氏一族は、持統天皇や聖武天皇に重用され、「百済王(くだらのこにきし)」という氏族名が与えられたとされている。
そして当初の難波の地から、この地に移り、氏寺「百濟寺」や「祠廟」を創建したとされている。
しかしながら、その隆盛な長くは続かず、平安時代の中頃には動向が不明となったとされている。
その後、江戸時代になって、一族の後裔や関係者がこの地に「百済王神社」を創建し、現在に至っているとの事情を有している。
先ずは境内手前の右手には、祭神が「高龗神(たかおかみのかみ)」の境内社「浮島神社」が祀られている。


そして、その裏の隣には「旧拝殿」が祀られている。


境内正面は、一対の「狛犬」、「拝殿」が祀られている。



「拝殿」の左手には「社務所」、右手には塀が設けられ、その外側に朱色の葉を付けた木が見え、綺麗である。



そして「拝殿」の背後には「本殿」が祀られている。
この「本殿」は、江戸時代後期1822年の「春日大社」の造替に際し、その一棟が移築されたものとされている。
「本殿」の祭神は、「百濟王」、「牛頭天王(進雄命)」とされている。



「本殿」の背後には境内社3社が祀られている。
左から、「八幡神社」、「相殿社」、「稲荷社」である。



境内を一巡したところで、境内に入る鳥居の所から東方向への参道を辿る。
そして、参道口の風景である。
尚、背後の「土塀」はこの後に訪れる「百濟寺跡」のものである。

