草津線6・貴生川駅
「琵琶湖線」の途中の滋賀県「草津駅」と「関西本線」の三重県伊賀市にある「柘植駅」を起終点とする「草津線」の各駅を各駅下車で訪問してみる。
今回は、「草津駅」から5駅目の甲賀(こうか)市の「貴生川(きぶかわ)駅」である。

「貴生川駅」が属する「甲賀市」は、隣の「湖南市」と同様に、平成16年に、水口町、土山町、甲賀町、甲南町、信楽町の5町が合併し、市政が施行された市である。
「貴生川駅」は、水口(みなくち)町に属し、草津線から水口町への入り口の位置にあり、市内を走る「近江鉄道」、「信楽高原鉄道」の起終点駅でもある。
「貴生川駅」で下車する。
駅舎の跨線橋部分からの北側、南側の眺めである。
北には近江鉄道のホーム、南には信楽高原鉄道のホームがある。

そしてホームへの降り口がある。
先ずは近江鉄道、そして信楽高原鉄道である。

駅舎の南口へと出る。

西方向へ少し歩くと「杣川(そまがわ)」が流れているので眺めてみる。
川の下流(北西方向)、対岸の公園、川の上流(南東方向)である。

駅まで戻り、次は北口である。

水口町の中心部に向けて街中の道を進む。
途中、「野洲川」の手前の「北内貴(きたないき)」と云う住所地の右手に、神社がある。
式内社並名神大社の「川田神社」である。
正面の鳥居を潜り、更に参道を進むと二ノ鳥居、石段を上がると境内へと達する。

社殿は右手にある。
先ずは舞台風の拝殿である。
そして、拝所、本殿であり、参道からUターンする方向にある。
本殿の祭神は、天湯川桁命 天川田奈命で、配祀は天児屋根命、大己貴命である。

この神社は、社伝によると、垂仁天皇の時代に創建されたと云われる。
倭姫命が天照大神を奉じて、甲可の日雲宮に止まった時、甲可山直郷に景勝の地があり、鎮座せんと欲するとの神託があり、人を遣わして川田山に祀らせたのが起源であり、川田二所明神と号したと云われる。
神社を後にして、野洲川を渡る。
橋は{内貴橋」である。

橋を渡って少し行くと、水口町・甲賀市の官庁街に至る。
市政に伴って、新しく建設された役所群が見られる。
甲賀警察署、滋賀県甲賀合同庁舎、甲賀市役所である。

市役所前から参道となり、再び神社に至る。
式内社「水口神社」である。
社頭は南向きである。
この神社にも滋賀県でよく見られる石造りの下馬橋が備えられている。
そして鳥居を潜ると拝殿である。

舞殿の先には神門があり、祝詞舎、そして本殿へと繋がっている。

本殿の主祭神は「大水口宿禰命(おおみなくちのすくねのみこと)」で、相殿に「大己貴命」「素盞嗚尊」「稲田姫命「」が祀られている。
大水口宿禰命は饒速日命 六世の孫出石心大臣命の子であり、祖母淡海川枯姫の縁により当地に居住されたと思われる土地開拓の祖神との説明がなされている。
境内には沢山の境内社が祀られているが、今回は割愛する。
神社の北側(裏手)には近江鉄道が通り、駅「水口城南駅」がある。
これを過ぎて少し北へ行くと、「水口城跡」である。

水口は、江戸時代になって幕府直轄領となり、東海道の水口宿として整備された。
そして徳川将軍が上洛の際の宿舎として築城されたのがこの水口城である。
別名、水口御茶屋とも云われる。
築城の奉行は二条城をも設計監理した名人大名小堀遠州で、二条城と似た作りであったと云われる。
しかし実際に使われたのは将軍家光の時の一度だけで、その後はこの地に水口藩が成立し、藩主加藤氏の居城となり明治維新まで続き、廃城となった。
現在残っているのは堀、石垣に囲まれた本丸と出丸の部分で、門と出丸櫓が復元されている。
下記の案内図は上部が南である。
広い本丸跡の部分は城の東にある水口高校のグラウンドとして利用されている。

本丸堀の周りを時計回りに一巡してみる。
出丸に架けられている木橋、出丸にある櫓の東側面、南側面である。
この櫓の内部は水口城資料館となっている。

堀の東側、南側である。
南側には明確な石垣は見られない。

堀の西側、北側である。
北西の隅には石垣が積まれている。
櫓が建てられていたのであろう。

本丸以外の縄張りでは、北側に藩主の居宅の二ノ丸があった。
藩主は決して幕府の持ち物である本丸御茶屋には入らなかったとされる。
その二ノ丸跡、現在は水口中央公民館とその駐車場となっている。
また東側には水口高校があるので、ここも縄張りの一部であったと思われる。
そして南側、西側は普通の住宅地となっている。
この地点で、「水口城跡」の探索と、「貴生川駅」のミニ探索を終了したのであった。
今回は、「草津駅」から5駅目の甲賀(こうか)市の「貴生川(きぶかわ)駅」である。

「貴生川駅」が属する「甲賀市」は、隣の「湖南市」と同様に、平成16年に、水口町、土山町、甲賀町、甲南町、信楽町の5町が合併し、市政が施行された市である。
「貴生川駅」は、水口(みなくち)町に属し、草津線から水口町への入り口の位置にあり、市内を走る「近江鉄道」、「信楽高原鉄道」の起終点駅でもある。
「貴生川駅」で下車する。
駅舎の跨線橋部分からの北側、南側の眺めである。
北には近江鉄道のホーム、南には信楽高原鉄道のホームがある。



そしてホームへの降り口がある。
先ずは近江鉄道、そして信楽高原鉄道である。



駅舎の南口へと出る。


西方向へ少し歩くと「杣川(そまがわ)」が流れているので眺めてみる。
川の下流(北西方向)、対岸の公園、川の上流(南東方向)である。



駅まで戻り、次は北口である。


水口町の中心部に向けて街中の道を進む。
途中、「野洲川」の手前の「北内貴(きたないき)」と云う住所地の右手に、神社がある。
式内社並名神大社の「川田神社」である。
正面の鳥居を潜り、更に参道を進むと二ノ鳥居、石段を上がると境内へと達する。



社殿は右手にある。
先ずは舞台風の拝殿である。
そして、拝所、本殿であり、参道からUターンする方向にある。
本殿の祭神は、天湯川桁命 天川田奈命で、配祀は天児屋根命、大己貴命である。



この神社は、社伝によると、垂仁天皇の時代に創建されたと云われる。
倭姫命が天照大神を奉じて、甲可の日雲宮に止まった時、甲可山直郷に景勝の地があり、鎮座せんと欲するとの神託があり、人を遣わして川田山に祀らせたのが起源であり、川田二所明神と号したと云われる。
神社を後にして、野洲川を渡る。
橋は{内貴橋」である。


橋を渡って少し行くと、水口町・甲賀市の官庁街に至る。
市政に伴って、新しく建設された役所群が見られる。
甲賀警察署、滋賀県甲賀合同庁舎、甲賀市役所である。



市役所前から参道となり、再び神社に至る。
式内社「水口神社」である。
社頭は南向きである。
この神社にも滋賀県でよく見られる石造りの下馬橋が備えられている。
そして鳥居を潜ると拝殿である。



舞殿の先には神門があり、祝詞舎、そして本殿へと繋がっている。



本殿の主祭神は「大水口宿禰命(おおみなくちのすくねのみこと)」で、相殿に「大己貴命」「素盞嗚尊」「稲田姫命「」が祀られている。
大水口宿禰命は饒速日命 六世の孫出石心大臣命の子であり、祖母淡海川枯姫の縁により当地に居住されたと思われる土地開拓の祖神との説明がなされている。
境内には沢山の境内社が祀られているが、今回は割愛する。
神社の北側(裏手)には近江鉄道が通り、駅「水口城南駅」がある。
これを過ぎて少し北へ行くと、「水口城跡」である。


水口は、江戸時代になって幕府直轄領となり、東海道の水口宿として整備された。
そして徳川将軍が上洛の際の宿舎として築城されたのがこの水口城である。
別名、水口御茶屋とも云われる。
築城の奉行は二条城をも設計監理した名人大名小堀遠州で、二条城と似た作りであったと云われる。
しかし実際に使われたのは将軍家光の時の一度だけで、その後はこの地に水口藩が成立し、藩主加藤氏の居城となり明治維新まで続き、廃城となった。
現在残っているのは堀、石垣に囲まれた本丸と出丸の部分で、門と出丸櫓が復元されている。
下記の案内図は上部が南である。
広い本丸跡の部分は城の東にある水口高校のグラウンドとして利用されている。


本丸堀の周りを時計回りに一巡してみる。
出丸に架けられている木橋、出丸にある櫓の東側面、南側面である。
この櫓の内部は水口城資料館となっている。



堀の東側、南側である。
南側には明確な石垣は見られない。


堀の西側、北側である。
北西の隅には石垣が積まれている。
櫓が建てられていたのであろう。


本丸以外の縄張りでは、北側に藩主の居宅の二ノ丸があった。
藩主は決して幕府の持ち物である本丸御茶屋には入らなかったとされる。
その二ノ丸跡、現在は水口中央公民館とその駐車場となっている。
また東側には水口高校があるので、ここも縄張りの一部であったと思われる。
そして南側、西側は普通の住宅地となっている。
この地点で、「水口城跡」の探索と、「貴生川駅」のミニ探索を終了したのであった。