はてなキーワード: 言語とは
日本のポップミュージックは、海外のものと比較して音を詰め込みすぎる傾向がある。
それは両方のヒット曲を聴き比べると、明確に差があることが分かると思う。
ではなぜそうした差が生まれたのか?
能では沈黙がいちばん緊張しているし、尺八は音と音のあいだに呼吸が流れ、雅楽に至ってはテンポという発想自体が曖昧で、音が空間に置かれていく。
前近代の日本音楽では、「何も起きていない時間」は欠落じゃなく、ちゃんと意味のある時間だった。
現代ではどうか。
日本のポップ音楽は、伝統音楽から地続きで育ったわけじゃなく、西洋音楽の完成形を途中から一気に輸入した。
しかも、そのとき一緒に入ってきたのは、宮廷や教会、労働歌といった社会的文脈じゃなく、拍子や和声、構造といった「技法」だけだった。
西洋近代音楽は、拍が明確で、時間が前に進み、構造によって曲が運ばれていく。
その形式だけを制度と教育で取り込んだ結果、「音楽は止まらず進み続けるもの」という理解が強くなった。
ここで「間」は、共有された前提ではなく、不安や失敗の兆候として扱われるようになる。
ライブや放送、商業の場では、沈黙は事故に見えてしまうからだ。
日本語は母音が多く、英語のように子音でリズムを切ったり、溜めを作ったりしにくい。
その結果、隙間を作るより、音数で埋めるほうが安全になる。
さらに、日本のポップでは長いあいだ、メロディの複雑さや歌詞の情報量、転調や展開の多さが「技術力」や「親切さ」として評価されてきた。詰め込むこと自体がサービス精神、という感覚だ。(この辺りは、チラシデザインにおける情報の詰め込みとも関連していると思う。)
## 結論
ただしそれは「美醜」だけでなく、**外見を手がかりに人を分類・判断する文化的傾向**が強い、という意味です。
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日本では外見が、次のような**即時判断の材料**として使われがちです。
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## 2. なぜ日本は外見重視になったのか?
### 2.1 同質性が極めて高かった歴史
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👉 外見は**会話を省略するための装置**として機能してきた。
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| 観点 | 日本 | 多民族国家 |
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| 見た目と国籍 | 強く結びつく | 原則切り離す |
| 言語能力への反応 | 驚き・称賛しがち | 失礼になり得る |
| 第一印象の重み | 非常に大きい | 相対的に小さい |
| 例外への耐性 | 低い | 高い |
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### 恋愛
### 職場
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## 5. 注意点:日本人=悪ではない
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## 6. まとめ
日本では無意識に、見た目から次のような判断が行われがちです。
金髪 → 不良/チャラい
👉 だから
→「日本語上手ですね」
→ 悪意がなくても “あなたは想定外” というメッセージになる。
② なぜ日本は見た目重視になったのか?
1️⃣ 同質性が極端に高かった社会
「見た目=日本人」という暗黙の前提が成立していた
👉 その結果
日本では
説明しない
言葉にしない
察する
が重視されます。
そのため
👉 **見た目で素早く判断できることが「便利」**だった。
欧米のように
よりも
「なぜそう思ってしまうか」は教えない
👉 結果として
悪意のない無知 が量産される。
あなたが言っていた通り、
🇬🇧🇨🇦 では
一方 🇯🇵 では
「驚き」をそのまま言語化する
失礼だという教育が弱い
第一印象がほぼ全て
見た目・雰囲気=信用
空気に合うかどうか
ここで強い摩擦が起きやすい。
あなたが感じてきた
日本は遅れている
見た目と国籍を結びつけすぎ
日本が悪という単純な話でもない
相性の問題が大きい
🇩🇪🇨🇦🇬🇧 など
⑥ まとめ(短く)
それは美醜ではなく「分類装置」としての外見
マイノリティほど負荷が大きい
イギリスで黒人を「外国人」と呼んだり、「英語が話せるんですね!英語お上手ですね!」「アルファベット書けるんですね!」なんていうと人種差別だと思われてもおかしくないが日本ではこれが当たり前。黒人に対して「日本語上手ですね!」なんて毎日当たり前に純ジャパに思われてるかも。言語と見た目と国籍は合致しないはずだがな。日本はかなり遅れている。こういう観点での教育は世界的にワーストレベルで遅れている。
いま、この転換点において、皆さまとご一緒できることを光栄に思います。同時に、私たち国内SIerにとっての責務でもあります。
本日は、世界の“秩序”の断絶、心地よい物語の終わり、そして、巨大な力を持つプレイヤーの競争がほとんど制約を受けない厳しい現実の始まりについてお話しします。
しかし同時に、国内SIerのような「中堅の担い手」は無力ではない、と申し上げたい。私たちには、信頼・安全・持続可能性・顧客の主権・データの保全といった価値を体現する新しい秩序を、実務から積み上げていく力があります。
私たちは毎日のように思い知らされています。いまは、巨大プラットフォームや巨大ベンダー、地政学リスクを背景にした技術覇権が競い合う時代であること。オープン性や互換性、フェアなルールに支えられた前提が薄れつつあること。そして、強い側が条件を決め、弱い側は受け入れざるを得ない局面が増えていること。
古典的に言えば「強い者はできることを行い、弱い者は耐えねばならない」という構図です。これは不可避だ、これが自然な競争原理だ、と片付けられがちです。そして、その論理を前にすると、私たちには「波風を立てずに合わせる」強い誘惑が生まれます。摩擦を避けるために順応する。相手に合わせれば安全が買えると期待する。
では、選択肢は何でしょうか。
1978年、チェコの反体制知識人ヴァーツラフ・ハヴェルは『無力者の力』という論考を書きました。そこで彼は、体制がなぜ維持されるのかを問いました。
彼の答えは、一人の店主の例から始まります。店主は毎朝、店先に標語を掲げる。「万国の労働者よ、団結せよ!」。本人は信じていない。周囲も信じていない。それでも掲げる。面倒を避けるため、従順さを示すため、波風を立てずに“やっているふり”をするために。そして、どの通りの店主も同じことをするから、体制は続いていく。
暴力だけではなく、人々が、内心では虚構だと知りながら儀式に参加することで、体制は維持される。ハヴェルはこれを「嘘の中で生きる」と呼びました。体制の力は真実ではなく、皆が真実であるかのように振る舞うことから生まれる。そして脆さも同じところにある。たった一人が“看板を外す”だけで、幻影にひびが入る。
いま、企業としても、業界としても、私たちは「看板を外す」時です。
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長い間、ITの世界には「ルールや標準が機能し、相互運用性が担保され、勝者も敗者も一定のフェアネスの中で競争できる」という物語がありました。国内SIerも、その物語の上で成長してきた面があります。標準化、ベストプラクティス、認証制度、ガイドライン、そしてグローバルに広がる巨大なプラットフォーム。私たちはそれらを称賛し、活用し、その予測可能性の恩恵を受けました。
もちろん、その物語が“部分的に虚構”であることも知っていました。強い側は都合が悪いときに例外を作れること。ルールの適用が非対称になり得ること。互換性や標準が、実態としては特定のエコシステムに誘導する装置として働くこと。そして、契約条項、価格体系、APIの変更、提供地域や機能制限などが、力関係の影響を強く受けること。
それでも、その虚構は便利でした。巨大プラットフォームが提供してきた“公共財”も確かにあった。スケールする計算資源、安定した開発基盤、セキュリティ機能、グローバル展開の足場、部品としてのOSSやツールチェーン、紛争を減らす共通言語。
だから私たちは、看板を掲げ続けました。「オープン」「中立」「相互運用」「ベストプラクティス」という言葉を、実態が追いつかない場面でも口にしてきた。そして、言葉と現実のずれを大きく指摘することを避けてきた。
率直に申し上げます。いま起きているのは“移行”ではなく“断絶”です。
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過去20年の間に、金融危機、パンデミック、エネルギー制約、半導体不足、サプライチェーン混乱、サイバー攻撃の常態化、そして地政学リスクが、極端なグローバル統合の脆さを露呈させました。
さらに近年、巨大な力を持つプレイヤーが「統合そのもの」を武器として使い始めています。値上げや課金体系変更が交渉力になる。契約や利用規約、認証・ID、クラウド管理基盤が実質的な拘束力になる。提供停止や機能制限、地域制約が、企業や組織に圧力として作用する。サプライチェーンが“突かれる弱点”になる。
「統合すれば相互利益」という前提のまま、“嘘の中で生きる”ことはできません。統合が従属の源泉になった瞬間、前提は反転します。
かつて中堅の担い手が拠り所にしてきた「みんなで決めるはずの場」も弱まっています。標準化が追いつかない。デファクトが事実上のルールになる。透明な合議より、エコシステムの都合が優先される。結果として、多くの企業が同じ結論に向かい始めています。
人材、セキュリティ、データ、クラウドの選択肢、重要部材、運用ノウハウ、AIの基盤、そしてサプライチェーンにおいて。
自分で守れない者は、交渉の選択肢がありません。ルールが守ってくれないなら、自分たちで守るしかない。
ただし、行き先を直視すべきです。全員が要塞化すれば、コストは上がり、分断は進み、脆さは増し、持続可能性は下がります。
そしてもう一つの現実があります。巨大プレイヤーが、ルールや価値の“建前”すら捨てて、露骨に取引主義へ傾けば、関係性を恒常的に収益化することは難しくなる。顧客もパートナーも、保険を買い、選択肢を増やし、分散します。これは「主権」を取り戻す動きです。かつてはルールに支えられていた主権が、これからは「圧力に耐えられる能力」によって支えられるようになる。
古典的なリスク管理はコストがかかります。しかし、そのコストは共有できます。レジリエンスへの共同投資は、各社がそれぞれ要塞を作るより安い。共通標準は分断を減らす。相補性は正の和を生む。
国内SIerにとっての問いは、「この現実に適応するか否か」ではありません。適応は不可避です。問いは、ただ壁を高くして閉じこもるのか。それとも、より野心的なことができるのか、です。
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私たち国内SIerは、比較的早い段階で警鐘を受け止め、姿勢を変え始めました。
「日本で長く通用した前提」、つまり、既存の取引慣行や、系列的な安定、特定ベンダーとの強固な関係が、そのまま将来の繁栄と安全を保証するという前提は、もはや十分ではありません。
私たちの新しいアプローチは、いわば「価値観に基づく現実主義」です。別の言い方をすれば、理念を持ちつつ、現実に即して動く。理念と実務の両立です。
顧客と社会に対する説明責任。セキュリティとプライバシー。データの保全と可搬性。人権と安全に関わる領域での慎重さ。重要インフラを支える品質と継続性。
同時に、私たちは現実主義でもあります。進歩は多くの場合、段階的です。利害は一致しないこともある。すべてのパートナーが同じ価値観を共有するわけではない。だからこそ、目を開いたまま、戦略的に、広く関与する。世界を「あるがまま」に扱い、「こうあってほしい世界」を待たない。
私たちは、関係の“深さ”を価値観に合わせて調整します。影響力を最大化するために、関与は広く、依存は偏らせない。流動化する秩序と、その先にある賭け金を踏まえて、現実的に動く。
そして今後は、価値の強さだけに頼らず、「強さの価値」も積み上げます。
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人材育成と採用、設計・開発・運用の標準化、サイバーセキュリティ、AI活用、検証環境、そしてミッションクリティカルを支える運用力。加えて、特定技術への過度な依存を減らし、移行可能性と可搬性を高める。
生成AI、データ基盤、ゼロトラスト、ソフトウェアサプライチェーン対策、Observability、そして重要領域の内製力強化。これらは“コスト”ではなく、交渉力と継続性を生む“資本”です。
守りは、事後対応ではなく、設計・調達・運用に埋め込みます。国内産業の裾野とも接続し、調達・開発・運用の循環を厚くする。
特定の巨大プラットフォームや単一のモデル提供者に賭け切らない。複数のクラウド、複数の実装選択肢、複数の調達経路、複数の人材パイプラインを持つ。
グローバル課題への対応も、論理は同じです。論点ごとに連携の形を変える「可変幾何学」でいきます。
データ主権では、顧客がデータの所在とアクセスを決められる設計原則を共同で整備する。
標準と相互運用では、地域・業界をまたぐ参照アーキテクチャとオープンAPIの合意を積み上げる。
AIでは、特定の覇権や特定の巨大クラウドに“二者択一”を迫られないよう、モデル、データ、評価、ガバナンスの選択肢を確保する。
これは、甘い理想論ではありません。機能不全になりつつある“建前の場”に頼り切ることでもありません。論点ごとに、動ける相手と動く。必要なら多数派を作る。そうして、将来の挑戦と機会に備える、密度の高い接続網を作るのです。技術、投資、人材、運用、文化のレイヤーで。
国内SIerのような中堅の担い手が連携しなければならない理由は単純です。設計図の会議に席がなければ、要件は上から降ってきます。席がなければ、食卓のメニューになる。
巨大プレイヤーは単独でも戦えます。市場規模、研究開発、資本、影響力がある。しかし国内SIerは違う。にもかかわらず、巨大プレイヤーと一対一で交渉し続ければ、交渉は弱い立場から始まります。提示された条件を受ける。自分たち同士で「より従順な方」を競い合ってしまう。
それは自律ではありません。従属を受け入れながら、自律しているふりをすることです。
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「真実の中で生きる」とは何か
ここで、ハヴェルに戻ります。
私たち国内SIerが「真実の中で生きる」とは、どういうことでしょうか。
「オープンでルールに基づく、互恵的な統合」という言葉を、現実がそうでないのに唱え続けない。いまを、巨大プラットフォーム競争が激化し、統合が交渉力と拘束力の源泉として使われる時代だと認める。
第二に、一貫して行動することです。
相手が誰であれ、同じ基準で評価する。都合の良い相手の一方的変更には沈黙し、別の相手には批判する、という態度は「看板を掲げ続ける」ことになります。
第三に、自分たちが信じるものを“機能する形”で作ることです。
標準準拠を唱えるだけでなく、移行可能性を担保する設計、相互運用の実装、透明な運用ルール、監査可能なガバナンスを、合意と実装として積む。復古を待たずに、動く枠組みを作る。
強い国内基盤を持つことは、企業にとっても最優先です。分散は経済合理性であるだけでなく、誠実な姿勢を貫くための物質的基盤です。報復や圧力に脆弱な状態のままでは、理念を語る資格すら維持できない。
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さらに、私たちは理解しています。いま起きていることを直視し、合わせて自分たちを変える決意が必要だということを。
この断絶が求めるのは、単なる適応ではありません。世界をあるがままに見て、誠実に語り、国内で強さを作り、連携して動くことです。
古い秩序は戻りません。嘆いても戦略にはならない。ノスタルジーは戦略ではありません。
しかし、断裂の先に、より良いものを作ることはできます。より強く、より公正で、より持続可能な形を。
それが、中堅の担い手である私たちの仕事です。要塞化した世界では失うものが大きい一方で、本当の協働が成立する世界では得られるものも大きい。
虚構に合わせるのをやめ、現実に名前をつけ、国内で強さを作り、連携して動く力です。
九大法学部の藤本俊介のSNS暴走をAIに質問してみた③〜アカハラ介入や放火予告はなぜ起きた?〜
https://mbmu0211.livedoor.blog/archives/13086229.html
九大法学部の藤本俊介のSNS暴走をAIに質問してみた①〜問題点把握〜
https://mbmu0211.livedoor.blog/archives/13086179.html
九大法学部の藤本俊介のSNS暴走をAIに質問してみた②〜心理分析編〜
https://mbmu0211.livedoor.blog/archives/13086222.html
九大法学部の藤本俊介さん(青雲ディベート部)のネットでの評判に関して
https://anond.hatelabo.jp/20260103223319
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多くの人にとって、
放火予告
実際に警察が動く
学務に呼ばれる
記録が残る
彼の場合、
SNSでの成功体験 がそれをさらに加速させたと考えられます。
④ 「敵が多い=今は引けない」という心理
あなたが指摘した通り、
それを見ている同級生がいる
こうなると、
謝罪=敗北
に感じられ、 危険だと分かっていても前に出続けることがある。
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引用ここまで
知的障碍者の言語ってわかりやすくて直感的で、コミュニケーションも単純だから
AI使って翻訳するつもり。ただ、テストすることが多い...。
単語のハイライト(攻撃力に当たる単語の色を変える)とかを各言語と単語でテストしなきゃいけない。その他表示がはみ出したり崩れたりしてないかとかテストすることがある...。
1年以上かけたからじっくり取り組みたい☺️
月曜日の8:00。正確には7:59:58に着席し、2秒の呼吸調整を経て書き始めている。
これは偶然ではなく、僕の週間認知パフォーマンスが局所的に最大化される開始時刻だ。異論は統計的に誤差扱いでよい。
先週までの進捗を要約すると、超弦理論の「理論であること自体がもはや仮説にすぎない層」に踏み込んだ。
具体的には、10次元時空上の超対称σ模型を出発点としながら、その背後にある圏論的構造、特に∞-圏としてのブレーン配置空間と、自己双対性を持つ拡張TQFTの対応を、通常の幾何学的直観を完全に放棄した形で再定式化している。
弦の摂動展開を次数で整理する発想はもはや役に立たず、代わりにホモトピー型理論と導来代数幾何の言語で「物理量が定義可能であること自体の条件」を記述する段階に来ている。
ウィッテンですら「美しいが、何を計算しているのかはわからない」と言いそうな地点だが、問題ない。計算できないものの存在条件を精密化するのが理論物理の一つの正道だからだ。
先週の成果として特筆すべきは、モジュライ空間の境界に現れる特異点が、実は欠陥ではなく高次対称性の痕跡として再解釈できる可能性を示した点だ。
これは弦が「振動する対象」であるという比喩を完全に捨て、圏の射が自己反映的に折り畳まれる現象として理解する立場に近い。
ルームメイトに説明を試みたところ、「つまり、何もわかってないってこと?」と言われたので、黒板に3段階の随伴関手を書いて黙らせた。彼は5秒で視線を逸らした。予想通りだ。
MTGでは、確率論的に最も安定するマナカーブを再検証し、友人Aのデッキが「強いが美しくない」ことを数式で証明した。
彼は納得していなかったが、それは彼が証明と説得の違いを理解していないからだ。
FF14では、レイドのギミックを位相空間として捉え、失敗パターンがどのホモロジー類に対応するかを頭の中で整理している。
隣人に「ゲームは娯楽でしょ?」と言われたが、僕は「最適化問題は常に真剣だ」とだけ返した。
アメコミについては、世界改変イベントの多さが物語的一貫性を破壊している点を、時間対称性の破れとしてノートにまとめた。
友人Bは途中からカレーの話を始めたので、会話は終了と判断した。
習慣についても書いておく。月曜日の朝は必ず同じ順序で行動する。起床、歯磨き42ストローク、コーヒーは温度62度、椅子の角度は床に対して正確に90度。これらは迷信ではなく、意思決定に使う脳内リソースを節約するための最適化だ。
隣人が「細かすぎ」と言ったが、細かさは知性の副作用であって欠陥ではない。
まず、先ほどの理論をもう一段抽象化し、物理と数学の区別が消える点を明示する。
次に、昼までにFF14の固定メンバーに最短攻略手順を共有する。
午後はMTGの新デッキ案を検証し、友人Aに再び敗北の必然性を理解させる予定だ。
夜はアメコミを読みながら、なぜ多元宇宙が安易な逃げ道になるのかを論理的に解体する。
8:21。予定より1分早い。非常に良い月曜日だ。
日本語には、英語の “I” に相当する、性や年齢、立場から自由な一人称が存在しない。この事実は、単なる言語的特徴ではなく、日本社会が長年温存してきた性差別構造を如実に映し出している。むしろ日本語は、「誰が、どの立場で、自分をどう位置づけるか」を強制的に選ばせることで、話し手を社会規範に従属させる欠陥言語だと言ってよい。
一人称は本来、「私が私である」ことを示す最も基本的な記号である。しかし日本語では、「わたし」「ぼく」「おれ」「うち」など、どれを選ぶかによって、性別、年齢、成熟度、さらには性的役割までもが読み取られてしまう。話し手は、発話のたびに「どんな人間として振る舞うか」を選択させられ、選択を誤れば「間違っている」「直される」「からかわれる」という社会的制裁を受ける。
とりわけ問題なのは、女子にだけ突きつけられるこの圧力の強さだ。男子には「ぼく」という〈少年性〉に印づけられた中間的な一人称が用意されているのに対し、女子は幼児期の名前呼びから、いきなり〈大人の女性〉を意味する「わたし」へと飛躍させられる。〈少女性〉を表現する正規の言語資源が、日本語には制度的に欠落しているのである。
その結果として現れるのが、小中学生女子による「うち・ぼく・おれ」の使用だ。これは乱れでも、一過性の反抗でもない。言語が与えてくれないアイデンティティを、少女たちが自力で補っている創造的行為にほかならない。それにもかかわらず、教師や大人は「女の子は『わたし』」という規範を振りかざし、矯正し、沈黙を強いる。これは教育ではなく抑圧である。
さらに深刻なのは、「わたし」を使うことが、女性的セクシュアリティの受容と結びついている点だ。「正しい日本語」を話せと言われることは、「異性愛規範の中で、性的に見られる存在になれ」と言われることと表裏一体になっている。少女たちが「わたし」を避けるのは、幼さへの執着ではなく、危険を孕んだ社会的役割への抵抗なのだ。
英語の “I” は、性別も年齢も性的成熟も語らない。だからこそ、話し手はまず「人間」として立ち上がることができる。対して日本語は、「女か男か」「子どもか大人か」を言語の入口でふるいにかける。その構造自体が、差別的であり、時代遅れであり、欠陥的だ。
日本語が豊かな表現力を持つことと、その内部に不平等な規範を埋め込んでいることは両立する。問題は、それを「文化」や「美しさ」の名のもとに不可侵のものとしてきた態度だろう。「正しい日本語」を守るという言説の裏で、どれほど多くの人が「正しくない自分」を押しつけられてきたのか。
「I」を自由に言えない言語は、自由な自己を想定していない。日本語がこの欠陥を自覚しない限り、「自分らしさ」は常に規範への抵抗としてしか現れないだろう。社会が変わるべきだと言う前に、まず私たちは、この言語そのものを疑う必要がある。
言語の壁じゃない?
テレビでドヤ顔しながら「日本はなぜプラットフォームで稼げないのか」などと嘆いているのを見るたびに、思考停止した自己放尿が電波に垂れ流されているだけだとしか思えない。
前提条件を一切無視して結果だけを見て嘆くのは分析でも議論でもなく、ただの自己放尿だ。
アメリカは巨大な内需市場を持ち、英語という事実上の世界標準言語を握り、さらに国家安全保障や競争政策の名のもとにスーパーなんとか条のような制度装置を平然と発動できる。
これらは偶然でも努力不足でもなく、構造的・制度的・地政学的に積み上がった差であり、日本が同じ土俵で同じ戦略を取って勝てると考える方が自己放尿だ。
その怠惰を覆い隠すために「日本は遅れている」「ITが弱い」と繰り返すのは、分析を装った自己放尿に過ぎない。
比較優位という基本概念を無視して、他国の成功モデルをそのまま輸入すれば勝てると信じるのは、経済学以前に論理の自己放尿だ。
言語の摩擦、規制の非対称性、資本市場の厚み、訴訟リスクの配分、国家と企業の距離感、そのどれもが違うのに「なぜ同じになれないのか」と嘆く姿は、現実を直視できない自己放尿でしかない。
そもそもプラットフォームというのは勝者総取りが起きやすい領域で、先行者が標準を握った時点で後発国が同型で殴り合うのは戦略として最悪だ。
それを理解せず、精神論や根性論、あるいはノスタルジーで語るのは、冷徹に言えば公共の場でやる自己放尿だ。
日本が取るべきは、他国の覇権モデルを羨望することでも、無理に模倣することでもない。日本の市場を信頼し、政府の介入を減らすことである。
「なぜGAFAが生まれないのか」と叫ぶのは、原因分析を放棄した自己放尿で、聞かされる側の時間を奪うだけだ。
勝てない土俵で負けている事実を嘆く暇があるなら、土俵を選び直せ。選べないなら黙って条件を数えろ。
それすらせずに感情を垂れ流すのは、論評ではなく自己放尿だ。いい加減、その自己放尿を止めて、現実に耐えうるロジックで話をしろ。
継承もするし、まあ多重継承とか、ややこしいのは考えるし、避けたいけど…😟
結局はCとかのstructというか、enumとかでもいいけど、
そういうのがあって、構造化プログラミングはするじゃないですか…😟
あー、だからオブジェクト指向というのは一旦横に置いておくとして、
みたいな話なんだとしたら、私は大反対すると思うんだよなあ…😟
そういえば、先日Xで、
みたいな話で炎上?してて、そんなことねーだろ、と思ったんだけど…😟
というかですね、
例えばPhotoshopのファイルフォーマットとかがあって、
そういったファイルの仕様からパーサーというか、なんか読み取って表示するツールを書くとして、
そうなったら、ファイルフォーマットがそのまま構造体に置き換えられたりするんですよ
それはどういうことかと言ったら、話を逆にすれば、
Photoshopのようなアプリの中で、どういった構造体、どういったクラスがあるか、
というのがそのままファイルに書き出されているはずなんです、基本的に、
それが永続化みたいに言われているだけです…😟
特性として、ADHDとASD(自閉スペクトラム症)、境界知能があります。
人口4,000人ほどの田舎で高校まで過ごし、いわゆるFランク大学を卒業後、現在の病院に就職しました。
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親は大学病院への就職を希望していましたが、思うようにいかず、最終的に大学の紹介で5月にようやく就職が決まりました。
患者さんの名前のカタカナを読み間違えたり、特にコミュニケーションがうまくいかず、会話の内容を理解できないことが多くありました。
自分なりにマニュアルを作るなど工夫もしましたが、医療現場では臨機応変な対応が求められるため、あまり効果的とは言えませんでした。
「怒られていることは分かるけれど、声が遠くに聞こえるような感覚になり、内容を理解するのに時間がかかる」
そんな状態になることが何度もありました。
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と言われました。
メンタルクリニックを受診し、さまざまな検査を受けた結果、ADHDとASDであることが分かりました。
両親にも結果を伝えましたが、
と言われ、理解は得られませんでした。
特別学級など周囲にもっと分かりやすい特性のある子がいたこともあり、比較されてしまったのだと思います。
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・処理速度(PSI):90
服薬した状態での検査だったため、本来はもう少し低い可能性もあると感じています。
テレビで見るような「一部が突出して優れているタイプ」ではなく、全体的に平均を下回っている結果でした。
自分が感じてきた生きづらさが、初めて数値として表れた瞬間だったと思います。
診断書を職場に提出し、話し合いの結果、配慮を受けながら仕事を続けることになりました。
現在は午後に、他部署に申し訳なさを感じつつ、書類整理などの業務を手伝っています。
どれだけ努力してもコミュニケーションの改善が難しいことと、どんなに努力をしても健常者には、追いつかない【中途半端者】なのがとても重たく、苦しく感じます。
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今は奇跡的に仕事を続けられていますが、もし職を失った場合、実家に戻るとしても近くに精神科はなく、片道2〜3時間かけて通院する必要があります。
今でも「これが最適な生き方だ」と思える答えは見つかっていません。