はてなキーワード: ペドフィリアとは
ちょっと違うな。
トランスの大元の理論をつくった人類学者のゲイル・ルービンGayle S. Rubinの「性を考える セクシュアリティの政治に関するラディカルな理論のための覚書」(1984)を読めばすぐわかる。
1950年代の共産主義者や同性愛者のように、小児性愛者は汚名を着せられているため、彼らのエロティックな指向性はおろか、市民的自由の擁護者を見つけることも難しい。その結果、警察は彼らを食い物にしてきた。地方警察、FBI、そして監視役の郵便局検査官が加わり、小児性愛者たちのコミュニティを一掃することだけを目的とした巨大な組織を作り上げた。20年かそこらで煙がある程度晴れれば、こうした男たちが野蛮で分不相応な魔女狩りの犠牲者であったことを示すのは、ずっと容易になるだろう。多くの人々がこの迫害に協力したことを恥ずかしく思うだろうが、獄中で一生を過ごした男たちのために良いことをするには遅すぎるだろう。
原文はこちら。
https://bpb-us-e2.wpmucdn.com/sites.middlebury.edu/dist/2/3378/files/2015/01/Rubin-Thinking-Sex.pdf
ペドフィリアを擁護しまくって、同性愛と同等の位置に置いている。
台湾出身のトランスジェンダー作家、李琴峰(Li Kotomi)は、自身を「女性」や「レズビアン」と認めない女性の権利擁護者やレズビアンを相手取り、名誉毀損訴訟を起こしている。李は台湾と日本で活動し、2021年に芥川賞を受賞。彼の作品は女性間の関係を主題とするが、出生時は男性として登録されており、この事実を批判する声に対して法的手段を用いて対抗している。
李は自身に対する批判を「誹謗中傷」とみなし、台湾での厳しい名誉毀損法を活用。彼の訴訟対象には主に女性が含まれており、既に数件の裁判で賠償金を獲得している。また、彼の行動や過去の発言には女性専用スペースへの反対やペドフィリアに対する議論など物議を醸す内容も含まれる。
ちょっと違うな。
トランスの大元の理論をつくった人類学者のゲイル・ルービンGayle S. Rubinの「性を考える セクシュアリティの政治に関するラディカルな理論のための覚書」(1984)を読めばすぐわかる。
1950年代の共産主義者や同性愛者のように、小児性愛者は汚名を着せられているため、彼らのエロティックな指向性はおろか、市民的自由の擁護者を見つけることも難しい。その結果、警察は彼らを食い物にしてきた。地方警察、FBI、そして監視役の郵便局検査官が加わり、小児性愛者たちのコミュニティを一掃することだけを目的とした巨大な組織を作り上げた。20年かそこらで煙がある程度晴れれば、こうした男たちが野蛮で分不相応な魔女狩りの犠牲者であったことを示すのは、ずっと容易になるだろう。多くの人々がこの迫害に協力したことを恥ずかしく思うだろうが、獄中で一生を過ごした男たちのために良いことをするには遅すぎるだろう。
原文はこちら。
https://bpb-us-e2.wpmucdn.com/sites.middlebury.edu/dist/2/3378/files/2015/01/Rubin-Thinking-Sex.pdf
ペドフィリアを擁護しまくって、同性愛と同等の位置に置いている。
ゲイル・ルービンGayle S. Rubinの「性を考える セクシュアリティの政治に関するラディカルな理論のための覚書」(1984)、クィア・スタディーズにおける超重要文献からの抜粋。ちなみに弟子のバトラーも親による子の虐待を正当化している。
1950年代の共産主義者や同性愛者のように、小児性愛者は汚名を着せられているため、彼らのエロティックな指向性はおろか、市民的自由の擁護者を見つけることも難しい。その結果、警察は彼らを食い物にしてきた。地方警察、FBI、そして監視役の郵便局検査官が加わり、小児性愛者たちのコミュニティを一掃することだけを目的とした巨大な組織を作り上げた。20年かそこらで煙がある程度晴れれば、こうした男たちが野蛮で分不相応な魔女狩りの犠牲者であったことを示すのは、ずっと容易になるだろう。多くの人々がこの迫害に協力したことを恥ずかしく思うだろうが、獄中で一生を過ごした男たちのために良いことをするには遅すぎるだろう。
原文はこちら。
https://bpb-us-e2.wpmucdn.com/sites.middlebury.edu/dist/2/3378/files/2015/01/Rubin-Thinking-Sex.pdf
ジェン・アイザクソン「フーコーからサンフランシスコへ――クィア理論の不変のルーツ」
https://appinternational.org/2021/09/10/izaakson_from-foucault-to-san-francisco/
本稿は、イギリスのラディカル・フェミニストでマルクス主義者でもあるジェン・アイザクソンさんが、彼女の主催するサイト「On the Woman Question」に掲載された論文の全訳です。著者の許可を得て、ここに掲載します。クィア理論が本質的にペドフィリアを肯定するものであり、欧米左翼とアカデミズムがクイア理論によって蝕まれ、それがいかに政治的に危険であるかが明らかにされています。
クィア理論の成立を画するのは、ゲイル・ルービンが1984年に発表した「性を考える――性の政治学のラディカルな理論のための覚書(Thinking Sex: Notes For A Radical Theory of the Politics of Sexuality)」という広く知られている文書だ。
ルービンは「セックスを考える」の中で、子どものセクシュアライゼーションに反対するのは「エロティック・ヒステリー」であり、一種のリビドー的に引き起こされた道徳的パニックであると主張している。これは、性的境界線を保護することを求めるセックス・クリティカルなフェミニストを、性的に抑圧された堅物にすぎないとする例の古典的考え方と同類だとみなしうるだろう。
左派はクィア理論を採用することで危険を冒している。というのもそれは、ペドフィリア擁護論にもとづいているだけでなく、今なおその軌道がペド的起源からそれほど離れていないからだ。
俺もなんか頑張ろうと思った…😟
というか、クジラックスもそうだけど、町田ひらく、女性ファンが多いって本当なのか…
ロリコンペドフィリアの漫画を好んで読む女性の心情がよく分からん
町田ひらく漫画はすきなんだけど、ラストで少女愛に溺れた爺さんが池で溺れて死ぬんだったか、あんな感じのオチは俺も好きなんだけど、
最近の、ヤンキーDQNゴロツキばかり登場して、ひたすらレイプみたいなのは、ちょっと読んでてつらかったよ…
ロリペドの自分が読んでもつらい、ようじょを愛でる気持ちがひとかけらもないのはちょっと無理
銭湯の男湯で女子〇学生とエッチして、ラストでその少女の家の掟だったかなんだったかで、主人公が後ろから少女にカミソリで斬られるとかは面白かった記憶がある
分かってないな
女の子は可愛くエロく媚びてるのが正解!というメッセージとなって多感な時期の少年少女にそういう価値観を刷り込むから、性差別の流布と見なされるわけなんだが
写真と違って絵というのは、そういう欲望をあからさまに反映した代物だから問題になる
最近の萌えキャラ広告は戦略的にエロさを抑えてるからセーフみたいになってるけど問題はエロじゃなくて、頭のてっぺんからつま先まで「媚び」の表象で成り立ってるキャラ造形なんだよな
それが世の女性たちをげんなりさせるわけだ
「感動ポルノ」という言葉があるように、エロいからポルノなんじゃなくて臆面もない幻想や欲望を満たすコンテンツだからポルノと見なされるわけで
二次元ヲタも、LGBTと同じく、変えられない性的志向なんだろう
その上、レビューで、ロリコンは相手に人格を求めてない、とか書かれて憤慨した
ちげーよ!
人格は求めてるよ!
というか、クジラックスさんが言ってたという噂を聞いたのだけど、彼は大人の女性が苦手らしいのだけど、
そういうことだよ、俺は、大人の女性が嫌いなんだよ!
だから、女子小学生とかようじょとかに逃避するしかなくなったんだよ!
というか、大人が嫌いなの!
大人が嫌いなまま育って、大人になっちゃったの!このまま老人にもなっちゃうだろうなの!
ロリコンとか、まあペドフィリアは病気というカテゴリーなのかもしれないけど、
精神的な病気になった原因なんて、あまり求めるべきではない、どう治すかが重要、というのが医学的セオリーとして正しいんだけどさ、
あくまで自分にとってだけど、ロリコンとかペドフィリアってのはエクソダスなんだよ!
誰もが感じる閉塞的なこの社会からの脱出の、その単なる一種類なんだよ!
この社会が、世界が嫌いだし、それを作ってる大人が嫌いだし、大人の女性がほんとに目に入れたくないぐらい嫌いなの!
わかった?
ジェン・アイザクソン「フーコーからサンフランシスコへ――クィア理論の不変のルーツ」
https://appinternational.org/2021/09/10/izaakson_from-foucault-to-san-francisco/
本稿は、イギリスのラディカル・フェミニストでマルクス主義者でもあるジェン・アイザクソンさんが、彼女の主催するサイト「On the Woman Question」に掲載された論文の全訳です。著者の許可を得て、ここに掲載します。クィア理論が本質的にペドフィリアを肯定するものであり、欧米左翼とアカデミズムがクイア理論によって蝕まれ、それがいかに政治的に危険であるかが明らかにされています。
クィア理論の成立を画するのは、ゲイル・ルービンが1984年に発表した「性を考える――性の政治学のラディカルな理論のための覚書(Thinking Sex: Notes For A Radical Theory of the Politics of Sexuality)」という広く知られている文書だ。
ルービンは「セックスを考える」の中で、子どものセクシュアライゼーションに反対するのは「エロティック・ヒステリー」であり、一種のリビドー的に引き起こされた道徳的パニックであると主張している。これは、性的境界線を保護することを求めるセックス・クリティカルなフェミニストを、性的に抑圧された堅物にすぎないとする例の古典的考え方と同類だとみなしうるだろう。
左派はクィア理論を採用することで危険を冒している。というのもそれは、ペドフィリア擁護論にもとづいているだけでなく、今なおその軌道がペド的起源からそれほど離れていないからだ。
まず、「定義的におかしくなる」という指摘は、クィアという概念の範囲とその含意についての議論に基づいています。この議論は、クィアという用語が本来指す範囲が広義であること、つまり「正常」とされない性的指向を包括するため、ペドフィリア、ズーフィリア、ネクロフィリアなども含むべきであるという論点に関わるものです。ここで焦点となるのは、社会的に「正常」とされるか否かであり、性的同意の問題とは異なる概念です。
性的同意の有無は重要な倫理的かつ法的な要素ですが、この文脈において議論されているのは、性的同意とは無関係に「クィア」という言葉の適用範囲がどこまで広がるべきかという問題です。「定義的におかしくなる」という主張は、性的同意の有無ではなく、クィアという概念が本来持つ意味の一貫性や範囲についての議論であり、これに対して反論するためには、その意味論的な広がりとその正当性についての理解が重要です。
したがって、この文脈では「性的同意があるかどうか」という要素は、本来の議論の焦点ではなく、クィアという概念の定義やその社会的・文化的な適用範囲を巡る議論が主題となっているため、性的同意の話に持ち込むこと自体が議論をすり替えるものであると言えるでしょう。
「ペドフィリアはセクシュアリティの一つだと思うし、ペドファイルはセクシュアルマイノリティです」
少なくともペドフィリア差別に反対しますタグがバズった昨年時点では「Q+にペドフィリアが含まれるか否かについはLGBT運動家の中でも意見が割れている」と纏められる程度に「ペドフィリアをクィアに含める人間が一定数いる」と捉えられてただろ。
https://www.bookbang.jp/review/article/763764
小出版社「ころから」が、「ペドフィリアを含むあらゆる内心の自由について、いかなる制限もなく保障されるべきだと考えております」との告知を掲げた。目を疑うべき事態である。
あらましはこうだ。昨年8月、ころからは『イン・クィア・タイム』というアジア系クィア作家アンソロジーを翻訳出版し、作家の王谷晶に帯文を依頼した。ところが、王谷がペドフィリア差別発言をしていると本書訳者の村上さつきとその連帯者が指摘し、帯文の撤回を要求したのである。王谷の「『LGBTQのQにペドフィリアが含まれる』はデマだ」というツイートが糾弾されたようだ。
というかトランスアライ自身が「#ペドフィリア差別に反対します」とかやって暴れてるやん
節穴なんか
https://note.com/000gwen/n/n1f395563e1b7
「あらゆる差別に反対します」と反差別を掲げるなかで特に先鋭的な意見の人たちが、積極的に「#ペドフィリア差別に反対します」というハッシュタグを使っていた。
そして一部の(アカウント名の横にレインボーフラッグやトランスフラッグを載せているような)人たちが、そのハッシュタグに連帯したりペドフィリアに擁護的な発言をしていた。
このスクリーンショットをみると「王谷晶はペドフィリア差別を発信しています ペドフィリアをチャイルドマレスターと混同し、そしてLGBTQ+と一緒にしてはならない、としています」と主張し、「Qにペドフィリアが含まれるのはデマ」という王谷晶さんのXでの発言を問題視していた。
つまり、コバヤシアヤノさんは「ペドフィリアがLGBTQ+に含まれないことがペドフィリア差別である」と考えているということだ。
https://x.com/orionaveugle/status/1823916782882808148
谷口一平が、トランス排除の人たちと小児性愛者を連帯させるべしと主張していることには触れておく。雑誌が出る前だが、同様の主張は当人がSNSで垂れ流している。支離滅裂かつ非倫理的。
クィアがペドフィリアを含んでいることは、クィア理論の支柱となった文献をみれば明白なんだよね。
岡和田は非倫理的というが、クィアというのはもともと倫理の逆張りだ。
以下はトランスの教祖の一人、ゲイル・ルービンGayle S. Rubinの「性を考える セクシュアリティの政治に関するラディカルな理論のための覚書」(1984)、クィア・スタディーズにおける超重要文献からの抜粋だ。ちなみに弟子のバトラーも親による子の虐待を正当化している。
1950年代の共産主義者や同性愛者のように、小児性愛者は汚名を着せられているため、彼らのエロティックな指向性はおろか、市民的自由の擁護者を見つけることも難しい。その結果、警察は彼らを食い物にしてきた。地方警察、FBI、そして監視役の郵便局検査官が加わり、小児性愛者たちのコミュニティを一掃することだけを目的とした巨大な組織を作り上げた。20年かそこらで煙がある程度晴れれば、こうした男たちが野蛮で分不相応な魔女狩りの犠牲者であったことを示すのは、ずっと容易になるだろう。多くの人々がこの迫害に協力したことを恥ずかしく思うだろうが、獄中で一生を過ごした男たちのために良いことをするには遅すぎるだろう。
原文はこちら。
https://bpb-us-e2.wpmucdn.com/sites.middlebury.edu/dist/2/3378/files/2015/01/Rubin-Thinking-Sex.pdf