近鉄田原本線2・黒田駅
奈良県田原本町の「西田原本駅」と、奈良県王寺町の「新王寺駅」を起終点とする「近鉄田原本線」の各駅を途中下車して探索してみる。
この路線は、奈良県内の磯城(しき)郡/田原本町・三宅町、北葛城郡/広陵町・河合町・王寺町の郡部のみを通り、市部を通らない珍しい路線である。
今回は、「西田原本駅」の次の駅である田原本町の「黒田駅」である。

「黒田駅」で下車する。
線路は単線、単式1面ホームである。

この「黒田駅」の近辺は、紀元前の縄文・弥生時代から歴史に登場する地域である。
それは第7代の「孝霊天皇」がこの地に「廬戸宮(いおとのみや)」を遷都したことに始まる。
「黒田駅」の西側には「聖徳太子」の「筋違道」が通っている。
そしてそこには、古墳時代後期の「黒田大塚古墳」がある。
全長86mでそう大きなものでは無く、周濠は埋め立てられている。

駅側(東側)が後円部、西側が前方部である。

古墳の西側は寺院「法楽寺」である。
寺院前には、「孝霊天皇黒田廬戸宮趾」の石柱、そして「桃太郎誕生伝説地」の標柱も建っている。

「法楽寺」の参道へ入る。
この「法楽寺」は、「廬戸(いおと)宮跡」に、後年、「聖徳太子」により開基されたとされる。
「桃太郎」の説明石板もあり、当時大寺院であった「法楽寺」の境内図もある。
境内には、後程訪れる鎮守社の「孝霊神社」も描かれている。
尚、「桃太郎」は「孝霊天皇」の皇子の「吉備津彦」であるとされ、この宮で生まれたとされている。

突き当りは「本堂」である。
「子安地蔵」との標示がある。

また、「本堂」の柱には「法楽寺」の寺号が記され、「鐘楼」も建っている。

「法楽寺」を後にして、東南方向へと進む。
そして「筋違道」を南へ進むと、右手に神社がある。

石段の上には「鳥居」が建ち、「扁額」には廬戸神社」と記されている。
「孝霊天皇」を祀る「孝霊神社」である。

境内正面は「拝殿」・「本殿」である。

神社の南側は「黒田池」である。
この池は、明治時代に灌漑用として造られたものとのことである。

池の東側は「筋違道」である。
「桃太郎」の生誕看板も建っている。
更に東方向を眺めると高架の「京奈和道」が通っている風景がある。

そして、この地点で「黒田駅」のミニ探索を終了したのであった。
この路線は、奈良県内の磯城(しき)郡/田原本町・三宅町、北葛城郡/広陵町・河合町・王寺町の郡部のみを通り、市部を通らない珍しい路線である。
今回は、「西田原本駅」の次の駅である田原本町の「黒田駅」である。

「黒田駅」で下車する。
線路は単線、単式1面ホームである。



この「黒田駅」の近辺は、紀元前の縄文・弥生時代から歴史に登場する地域である。
それは第7代の「孝霊天皇」がこの地に「廬戸宮(いおとのみや)」を遷都したことに始まる。
「黒田駅」の西側には「聖徳太子」の「筋違道」が通っている。
そしてそこには、古墳時代後期の「黒田大塚古墳」がある。
全長86mでそう大きなものでは無く、周濠は埋め立てられている。



駅側(東側)が後円部、西側が前方部である。


古墳の西側は寺院「法楽寺」である。
寺院前には、「孝霊天皇黒田廬戸宮趾」の石柱、そして「桃太郎誕生伝説地」の標柱も建っている。



「法楽寺」の参道へ入る。
この「法楽寺」は、「廬戸(いおと)宮跡」に、後年、「聖徳太子」により開基されたとされる。
「桃太郎」の説明石板もあり、当時大寺院であった「法楽寺」の境内図もある。
境内には、後程訪れる鎮守社の「孝霊神社」も描かれている。
尚、「桃太郎」は「孝霊天皇」の皇子の「吉備津彦」であるとされ、この宮で生まれたとされている。



突き当りは「本堂」である。
「子安地蔵」との標示がある。



また、「本堂」の柱には「法楽寺」の寺号が記され、「鐘楼」も建っている。


「法楽寺」を後にして、東南方向へと進む。
そして「筋違道」を南へ進むと、右手に神社がある。


石段の上には「鳥居」が建ち、「扁額」には廬戸神社」と記されている。
「孝霊天皇」を祀る「孝霊神社」である。


境内正面は「拝殿」・「本殿」である。


神社の南側は「黒田池」である。
この池は、明治時代に灌漑用として造られたものとのことである。


池の東側は「筋違道」である。
「桃太郎」の生誕看板も建っている。
更に東方向を眺めると高架の「京奈和道」が通っている風景がある。



そして、この地点で「黒田駅」のミニ探索を終了したのであった。