京阪交野線2・宮之阪駅
京阪電鉄の支線で、「枚方市駅」と交野市の「私市(きさいち)駅」を起終点とする「交野線」の各駅を探索してみる。
今回は、「枚方市駅」の次の駅である枚方市の「宮之阪駅」である。
「宮之阪駅」で下車する。
「宮之阪」という駅名・地名は、駅の東にある丘陵地にあった宮殿に至る坂と云うことであろうか?
この地は、8世紀後半に百済王の末裔である百済王氏( くだらのこにきしし)が、難波からこの地に移り住み「百済寺」、「百済王神社」の造営を行ったとされていて、現在は特別史跡公園となっている所である。
駅前の道路を北へと進む。
アーケード庇の商店街があるが、その先の交差点を右折し、府道の坂を上る。
左手に、「百済王神社」の参道である社号柱と石段があるので、これを昇る。
石段を昇り切ると、丘陵地の上に出て、鳥居、社号柱が建っていて、この先、「百済王神社」の境内である。
境内の案内図があり、正面は拝殿である。
拝殿には主祭神「百済国王 牛頭天王」の扁額も掲げられている。
「百済王神社」は百済王氏の氏神として、後に探索する氏寺「百済寺」と共に創建されたと云われている。
拝殿の奥は本殿である。
本殿は、奈良の「春日大社」から移築されたとされている。
また、拝殿の手前右には旧拝殿が残されている。
そしてその手前の外側に、「浮島神社」が祀られている。
本殿の背後周囲には、八幡神社、多くの神の相殿社、そして稲荷神社が祀られている。
「百済王神社」は丘陵地の西の部分に鎮座している。
そして東側の広い部分は、国の特別史跡「百済寺跡」の公園となっている。
寺院は、奈良時代750年に、百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)によって建立されたとされている。
復元図や「西塔」、「東塔」のイメージ図が掲げられている。
先ずは、神社側から東方向を見てみる。
手前が「回廊」跡、先は「西塔」跡、「東塔」跡である。
「中門」跡と「回廊」跡、そして「中門」跡と「南門」跡の間の参道である。
次に「百済寺跡」を南から辿ってみる。
「南門」跡(写真の右下隅の白い礎石)とその北の「中門」跡である。
「中門」を潜ると右手には「東塔」跡が整備されている。
西側の「西塔」跡と礎石である。
両塔の間を北へと進むと、「金堂」跡である。
そしてその先に「講堂」跡、そして「食堂」跡と続く。
「百済寺跡」の主要部分は網羅したので、東方向へと廻ってみる。
そこには「標柱」、「枚方八景」の説明板がある。
そしてその南には、「百済港神社」の案内塔と、その先には朱塗りの鳥居が建っている。
また、道路の南側は大きな病院で、「旧中宮病院」の大阪府の「大阪精神医療センター」である。
「百済寺跡」の西の「回廊」跡を北へと進み、通り抜ける。
学校の建物が見える。
正門へ回り込んでみると、「枚方市立明倫小学校」である。
正門前の道路は「殿山百済寺道」と云う。
この道路の向かい側に、ラグビー全国優勝7回の名が知れ渡っている学校がある。
「啓光学園中高校」である。
グラウンドを見てみようと、学校横の道路を進んでみる。
しかしながら高いフェンスが貼られていて、生徒たちの声が聞こえるのみであったのは残念である。
裏門から校内が少し覗けるのみであった。
裏門から丘陵地の下へと降りる。
途中の寺院の墓地に「天保義民」の墓があった。
また、「枚方市駅」方向に、「関西医科大学」の学舎と病院が見える風景があった。
そしてこの地点で「宮之阪駅」のミニ探索を終了したのであった。
今回は、「枚方市駅」の次の駅である枚方市の「宮之阪駅」である。
「宮之阪駅」で下車する。
「宮之阪」という駅名・地名は、駅の東にある丘陵地にあった宮殿に至る坂と云うことであろうか?
この地は、8世紀後半に百済王の末裔である百済王氏( くだらのこにきしし)が、難波からこの地に移り住み「百済寺」、「百済王神社」の造営を行ったとされていて、現在は特別史跡公園となっている所である。
駅前の道路を北へと進む。
アーケード庇の商店街があるが、その先の交差点を右折し、府道の坂を上る。
左手に、「百済王神社」の参道である社号柱と石段があるので、これを昇る。
石段を昇り切ると、丘陵地の上に出て、鳥居、社号柱が建っていて、この先、「百済王神社」の境内である。
境内の案内図があり、正面は拝殿である。
拝殿には主祭神「百済国王 牛頭天王」の扁額も掲げられている。
「百済王神社」は百済王氏の氏神として、後に探索する氏寺「百済寺」と共に創建されたと云われている。
拝殿の奥は本殿である。
本殿は、奈良の「春日大社」から移築されたとされている。
また、拝殿の手前右には旧拝殿が残されている。
そしてその手前の外側に、「浮島神社」が祀られている。
本殿の背後周囲には、八幡神社、多くの神の相殿社、そして稲荷神社が祀られている。
「百済王神社」は丘陵地の西の部分に鎮座している。
そして東側の広い部分は、国の特別史跡「百済寺跡」の公園となっている。
寺院は、奈良時代750年に、百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)によって建立されたとされている。
復元図や「西塔」、「東塔」のイメージ図が掲げられている。
先ずは、神社側から東方向を見てみる。
手前が「回廊」跡、先は「西塔」跡、「東塔」跡である。
「中門」跡と「回廊」跡、そして「中門」跡と「南門」跡の間の参道である。
次に「百済寺跡」を南から辿ってみる。
「南門」跡(写真の右下隅の白い礎石)とその北の「中門」跡である。
「中門」を潜ると右手には「東塔」跡が整備されている。
西側の「西塔」跡と礎石である。
両塔の間を北へと進むと、「金堂」跡である。
そしてその先に「講堂」跡、そして「食堂」跡と続く。
「百済寺跡」の主要部分は網羅したので、東方向へと廻ってみる。
そこには「標柱」、「枚方八景」の説明板がある。
そしてその南には、「百済港神社」の案内塔と、その先には朱塗りの鳥居が建っている。
また、道路の南側は大きな病院で、「旧中宮病院」の大阪府の「大阪精神医療センター」である。
「百済寺跡」の西の「回廊」跡を北へと進み、通り抜ける。
学校の建物が見える。
正門へ回り込んでみると、「枚方市立明倫小学校」である。
正門前の道路は「殿山百済寺道」と云う。
この道路の向かい側に、ラグビー全国優勝7回の名が知れ渡っている学校がある。
「啓光学園中高校」である。
グラウンドを見てみようと、学校横の道路を進んでみる。
しかしながら高いフェンスが貼られていて、生徒たちの声が聞こえるのみであったのは残念である。
裏門から校内が少し覗けるのみであった。
裏門から丘陵地の下へと降りる。
途中の寺院の墓地に「天保義民」の墓があった。
また、「枚方市駅」方向に、「関西医科大学」の学舎と病院が見える風景があった。
そしてこの地点で「宮之阪駅」のミニ探索を終了したのであった。