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第三部 内容で勝ち、現実で負ける
社名は伏せておく。
商社系の、若手にもそれなりに権限が回ってくると言われている会社だった。
配属された部の課長は論理的な人で、私の作る資料の精度をある程度評価してくれた。
問題は二年目以降に始まった。
ある新規プロジェクトの立ち上げに関する会議で、部長が明らかに前提条件の数字を間違えていた。
市場規模の試算根拠が五年前の業界レポートに依存していて、その後の市場の変化を反映していなかった。
私は会議の中盤でそれを指摘した。
「すみません。その市場規模の数字、ベースになっているレポートが古いです。直近三年で市場構造が変わっているので、現状の数字はその試算より三〇%程度小さいはずです。私の試算では、こちらになります」
試算表は、出典付きで再現可能な形にしてあった。
部長はしばらく画面を見ていた。
「うん、わかった。数字の話はまた別の機会にしよう。今日は方向性の話をしている」
「いえ。方向性は市場規模を前提にしているので、市場規模が違えば方向性自体が変わります」
部長はもう一度、私を見た。
今度は少し、目に疲れがあった。
「君の言うことはわかった。あとで個別に話そう」
会議は、私の指摘を反映しないまま進んだ。
「お前、ああいう言い方やめたほうがいいぞ」
「内容として間違ってるか?」
「内容は合ってる。けど部長の顔、潰しただろ」
「顔の話なんかしていない。事業の話をしているんだ」
同期はため息をついた。
「そう。そうなんだよ。お前はいつも事業の話しかしない。だから、お前以外のみんなが何の話をしてるのか、お前にはわかってないんだよ」
そう言って行ってしまった。
私はその言葉をしばらく考えた。
考えた末に、こう判断した。
そして忘れることにした。
理由は表向きには、「別のプロジェクトに君のスキルが必要だから」だった。
私が回された別のプロジェクトは、ほとんど何も動いていない塩漬けに近いものだった。
私は課長に直接抗議した。
「私の指摘が間違っていたのですか」
課長は少しだけ困った顔をした。
「指摘の内容は間違っていなかった」
「では、なぜ外されるのですか」
「内容ではない。理由は内容ではないんだ」
「では、何ですか」
それから、こう言った。
「君は正しい。けれど、君と一緒に仕事をしたいと言う人間がいない」
その瞬間、自分の中の何かが冷たく固まったのを覚えている。
私は課長を見た。
できるだけ感情を出さずに言った。
「では、正しさよりも好かれることのほうが評価されるのですか」
課長は私を長く見た。
それから言った。
「そうじゃない。仕事は一人ではできないから、一緒に仕事ができる人間になることも能力のうちなんだよ」
私は頷かなかった。
このパターンが三十代を通じて繰り返された。
三回、転職した。
会社が変わっても結末は似ていた。
次の半年で、私の指摘が人を傷つけるようになる。
私は毎回、辞めるとき同じことを思った。
そのとき初めて、こう思った。
これに気づくのに二十年かかった。
二十年だ。
君がこれを二十二歳のうちに気づければ、私より二十年得をする。
二十年は長い。
本当に長い。
ここでKの話に戻る。
Kとは大学を卒業してから、ほとんど連絡を取らなくなっていた。
年賀状が最初の二、三年は来ていたが、私が返さなかったので自然と途絶えた。
記事は、ある業界の中堅企業の新規事業立ち上げに関するものだった。
写真の中のKは、大学のときと同じように口を大きく開けて笑っていた。
少しだけ太っていた。
けれどKは外されなかった。
なぜか。
Kは失敗の途中で、社内の他の部署の人間を何人も巻き込んでいたからだった。
開発の係長。
経理の若手。
Kは新規事業のために、社内のいろいろな人間に頭を下げて知恵を借りていた。
失敗が見え始めたとき、その人たちがKを助けた。
そう言ってKを庇った。
Kは結果として責任者の座を維持し、二年目に軌道修正に成功した。
「最初の半年で失敗したのは僕のせいです。市場の読みが甘かった。けど、その失敗を直せたのは僕一人の力じゃないです。社内のいろんな人が一緒に直してくれた。だからこれは、僕のチームの成果なんです」
私はこの記事を何度も読んだ。
そして初めてわかった気がした。
Kは最初から、「一人で正解を出す」ことを目指していなかった。
Kは最初から、「みんなで間違えて、みんなで直す」ことを戦略としていた。
私はずっとKを軽く見ていた。
Kは内容で勝てないから、人と仲良くするのだと思っていた。
違った。
だから内容で勝つかわりに、内容を直せる関係を作ることに力を注いでいた。
Kは、私が二十年かけても気づかなかったことを二十二歳のときにはもう知っていた。
中学校か高校のうちに、一度、自分より頭のいい人間に出会っていたのだろう。
そこで、自分が一人では勝てないことを学んでいたのだろう。
Kは十二歳か十三歳のうちに負けていた。
そしてその負けから、人と一緒にやることを学んでいた。
私は十八歳まで負けなかった。
その代償が、その後の二十年だった。
両親が立て続けに亡くなった。
父が先で、母がそのあとだった。
葬式に来た親戚や、父の昔の同僚や、母の友人たちは、私のことを「東大を出た立派な息子」として扱った。
私はその扱いを受け入れた。
受け入れるしかなかった。
葬式の最後、母の友人だったという、私の知らないおばさんが言った。
「お母さん、あなたのことをいつも自慢してたのよ。東大に入ったときも、いい会社に入ったときも。でもね、最近お母さんこう言ってたの。『あの子、結婚はしないのかしらね』って。心配してたわ」
私は笑顔で答えた。
「ええ、心配かけました」
その夜、実家の、自分が高校時代に使っていた部屋で一人で酒を飲んだ。
机の引き出しを開けると、高校時代の模試の成績表がまだ残っていた。
全国偏差値、七十六。
順位、全国八位。
その紙を長い時間見ていた。
そして思った。
三十年前の紙だ。
私はその紙を引き出しに戻した。
戻して、引き出しを閉じて、また酒を飲んだ。
涙は出なかった。
涙が出るような感情ではなかった。
もう少し乾いた、静かな何かだった。
母が亡くなって少し経った頃、私はMに偶然、駅で会った。
Mはすぐに私に気づいて「お前、変わらないな」と言った。
私はMに気づいていなかった。
Mは髪が薄くなり、少し太っていた。
スーツの肩のあたりがくたびれていた。
Mは結婚していた。
子供が二人いた。
Mは私の近況を聞かなかった。
たぶん聞かないほうがいいと判断したのだろう。
代わりに、駒場の頃の話をいくつかした。
「お前、覚えてる? あの語学クラスの和訳の輪。Kがやってたやつ」
「ああ」
「俺、あれに助けられたんだよ」
「助けられた?」
「うん。俺さ、地方から出てきて、最初お前と似たような感じだったじゃん。一人でやれば全部できる、みたいな。けどKがしつこく誘ってくれてさ。最初は俺も、うざいと思ってたんだよ。けど何回か行ってみたら、自分が見えてないところを他のやつが見えてたりするんだよな。それで俺、考え方を変えたんだ。一人で全部やる必要はないって」
Mが続けた。
「あれが俺の人生の、たぶん一番大きな転換点だった。あそこでKに引っ張ってもらえたから、俺、人と一緒に仕事ができる人間になれたんだよ。今の仕事、俺一人じゃ絶対できないからな。役所って根回しの世界だから」
私は頷いた。
Mが私をちらっと見た。
「お前は行かなかったよな、あの輪」
「うん」
「何で行かなかったんだ?」
しばらく答えられなかった。
それから、ようやく言った。
「行く必要がないと思っていた」
Mはそれ以上聞かなかった。
私たちはもう一杯ずつ飲んで別れた。
Mは終電で帰っていった。
最後に「また飲もうな」と言った。
私も「うん」と言った。
私たちはその後、一度も飲まなかった。
二人とも、それをわかっていたと思う。
Kに引っ張ってもらえたから、俺、人と一緒に仕事ができる人間になれたんだよ。
Kは私のことも引っ張ろうとしていた。
「気が向いたら、声かけて」
「一緒に間違えて、一緒に直せばいいんじゃないかな」
Kは私に何度も手を差し出していた。
私はその手を毎回振り払っていた。
Kを軽く見ていた。
そのプライドのために、人と一緒に何かをするということを、生涯、覚えそこねた。
電車の中で初めて認めた。
あいつは、ずっと間違えていたわけじゃなかった。
あいつは、正解を一人で出すことを最初から諦めていただけだった。
だから、みんなで間違えたあと、みんなで直すことができた。
俺は、一度も間違えないために、一度も誰とも直せなかった。
涙はまた出なかった。
「人生は、一度きり」
そんなことが書いてあった気がする。
正確には覚えていない。
ただ、もう一度だけ君に語りかけたい。
君がもし、私に少し似た人間なら聞いてほしい。
勉強がそれなりにできる。
一人でいることを苦にしない。
周りが少し幼く見える。
「言い方」を装飾だと思っている。
人に頭を下げることを敗北だと感じている。
もしそうなら聞いてほしい。
君が会っていないのは、君が悪いからではない。
たぶん環境のせいだ。
中堅校で一番頭がいい子。
学年で目立つ秀才。
これは君の責任ではない。
そこには君と同じか、君より上の人間が必ずいる。
中学生のときから、もっと厳しい競争を経験してきた人間が必ずいる。
それが君のこの先三十年を決める。
選択肢は大きく二つある。
一つは、その人間を軽く見ることだ。
「あいつは要領がいいだけだ」
「あいつは育ちがいいだけだ」
これは簡単だ。
すぐにできる。
何の努力もいらない。
プライドが守られる。
気持ちがよい。
私が選んだのはこっちだ。
そして、その代償をこの四十七年間で払い続けている。
もう一つは、その人間に頭を下げることだ。
「すごいですね」
「教えてください」
「どうやってそんなに上手くやるんですか」
そう聞くことだ。
これは難しい。
プライドが傷つく。
気持ちが悪い。
自分が小さく感じられる。
けれど、こっちを選べる人間は二十年後、ほぼ確実に生き残る。
なぜなら、こっちを選んだ瞬間から、君の能力は自分の能力だけでなくなるからだ。
君は自分より上の人間の能力を、少しずつ自分の中に取り込んでいけるようになる。
これは私が二十年かけて気づいたことだ。
自分より上の人間に、自分の間違いを笑いながら指摘されたときだ。
そしてもう一つ。
これは道徳の話ではない。
君が長く生き延びるための技術の話だ。
「性格をよくする」というのは、誰にでも愛想よくすることではない。
人と一緒にいるときに、その人が「君と一緒にいて楽だ」と感じるように自分の振る舞いを設計することだ。
これを十代後半のうちにやっておかないと、後からやり直すのが本当に難しい。
二十代の後半から急速に固まる。
三十代に入ると、ほとんど固まる。
四十代になると、もう変わらない。
私は四十代の自分を見て、それを知った。
君は今、二十歳前後だ。
固まる前に修正してくれ。
「ごめん」
「教えて」
「自分が間違っていた」
この四つを重く、特別なこととして言わなければならない人間は、私のように誰とも何も直せなくなる。
「私は完璧ではない」
「私は、変われる」
ここで最後に、一つだけ付け加えたい。
私はこれまで、「人に合わせるな」「集団は誤答を選ぶ」「会議はノイズだ」「調整は知性の敗北だ」と思ってきた。
だから誤答を直すには、自分の見え方の外側を持ってくる必要がある。
それを持ってきてくれるのが他人だ。
この関係を若いうちに作っておかないと、君の認知は君一人の中で閉じる。
その罰が、私の四十代だった。
君には、その罰を受けてほしくない。
この手紙を、ここで終える。
書きながら何度か、自分のことが嫌になった。
いや、本当のことを言えば、何度か自分のことをまだ正当化したくなった。
「Kは、俺ほど深くは考えていなかった」
そういう声が、今でも私の中で聞こえる。
たぶん、その声は死ぬまで消えない。
けれど私は、その声をもう信じない。
私は君に、私と同じになってほしくない。
私はもう、どこにも戻れない。
母も父も、もういない。
KともMとも、もう会わない。
私の若い頃のクラスメイトたちは、たぶんそれぞれの家庭で、それぞれの夕食を食べている。
私には夕食を一緒に食べる相手がいない。
これは自業自得だ。
誰のせいでもない。
けれど君は、まだ間に合う。
これから「ごめん」「教えて」「ありがとう」「自分が間違っていた」を毎日言える。
これから人と一緒に間違えて、人と一緒に直せる。
それを君のうちに習慣にしてほしい。
二十歳の君の習慣は、四十歳の君の人格になる。
二十歳の君が人に頭を下げることを覚えれば、四十歳の君は誰かに助けられる人間になる。
二十歳の君が自分の間違いを認めることを覚えれば、四十歳の君は間違える前に人に相談できる人間になる。
二十歳の君が雑談を大事にすることを覚えれば、四十歳の君には夕食を一緒に食べる相手がいる。
これは綺麗事ではない。
最後に、もう一度だけ。
正しさは、人に届かなければ現実を変えない。
一人で正解を出せる人間より、人と一緒に間違えて直せる人間のほうが長く生き残る。
けれど、誤答を直す力もまた集団の中にある。
その集団に、君が入っていけるかどうか。
それが君のこれからの三十年を決める。
私は入っていけなかった。
その理由をたくさん書いてきた。
けれど本当の理由は、たぶん一つだ。
私は怖かったのだ。
その怖さを、私は「孤独を選ぶ強さ」と自分に言い聞かせていた。
それは強さではなかった。
ただの臆病だった。
君が私と同じ怖さをもし持っているなら、その怖さに名前をつけてやってほしい。
「臆病」と。
名前をつけずに、それを「強さ」と呼び続ければ、君は私になる。
長くなった。
これで終わる。
君が今夜、誰かと夕食を食べられますように。
君が十年後、誰かと一緒にその失敗を直せていますように。
君が二十年後、私のように、見知らぬ若者へ誰にも頼まれない手紙を書く人間にならずにすみますように。
これは説教ではなく、
これは祈りだ。
どうか。
私のようには、ならないでくれ。
「議論してないから成立してないって言われても意味ない」って言ってますけど、じゃあ逆に聞きたいんですけど、成立してないやり取りをわざわざ続ける意味って何なんですか?時間の無駄って理解しててやってるってことですよね?
あと、「ただのレスバです」って自分で言っちゃってる時点で、中身の正しさより感情優先って認めてるわけじゃないですか。それって結局、「自分の発言は検証される前提にないです」って宣言してるのと同じなんですよね。
で、「だから何?」ってスタンス取るのは自由なんですけど、その場合って相手から「じゃあ中身ないよね」って扱われるのもセットで受け入れる必要があるんですよ。そこ切り分けて「これはレスバだから批判するな」はちょっと都合よすぎません?
結局、「議論じゃないからセーフ」っていうより、「反論されたくないから議論の土俵から降りてる」だけに見えますけどね。そういうの、第三者から見ると普通に逃げてるように映りますよ。
朝6時に目が覚める。目覚ましは使わない。若い頃の習慣がまだ残っているのか、だいたい同じ時間に自然と起きる。しばらく天井を見てから、ゆっくり起き上がる。
台所で湯を沸かし、インスタントコーヒーを入れる。昔は豆にこだわっていた時期もあったが、今はこれで十分だと思っている。テレビはつけない。ニュースの音が妙に遠く感じるからだ。
朝食はトースト一枚とゆで卵。冷蔵庫の中身はいつも似たようなものだ。食べ終えると、軽く洗い物をしてから近所を散歩する。顔を合わせる人はほとんどいないが、それが気楽でいい。
帰宅してから、少しだけ古いアルバムをめくる。仕事で写った写真もあるが、見る時間は長くない。懐かしさよりも、どこか他人の人生を見ているような感じがする。
昼は簡単に済ませる。昨日の残りの味噌汁にご飯を入れて雑炊にすることが多い。食後はしばらく本を読む。昔は台本ばかり読んでいたが、今は小説や歴史の本が多い。
午後は特にすることがない日もある。掃除をしたり、古い服を整理したりする。捨てるかどうか迷う物が多い。結局そのまま戻してしまうこともある。
夕方、少しだけテレビをつける。バラエティ番組の笑い声が流れてくるが、自分がそこにいた頃のことはあまり思い出さないようにしている。思い出しても仕方がないと分かっているからだ。
夜は早めに風呂に入る。湯船に浸かりながら、特に何も考えない時間が一番落ち着く。上がってから、軽く夕食をとる。酒はほとんど飲まなくなった。
10時前には布団に入る。部屋は静かだ。誰かに見られることも、評価されることもない一日が終わる。それを寂しいと思う日もあれば、これでいいと思う日もある。
今日は、どちらでもない一日だった。
何よりも、自分よりも、この世の何よりも大事な娘が18年前に亡くなった。やさしくかわいく、娘が笑うと感じたことのない暖かさを感じた。娘が妊娠中に病気が見つかったけれど、娘は妊娠を継続し産むことを選んだ。私はまだ会ったことのない孫より、娘の方が大事だったので、何度も何度も治療を優先してほしいとお願いした。でも、娘は孫を産んで、「お母さん産むのを許してくれてありがとうね。先に死んじゃってごめんね」と言った。
孫の世話は私がすることになった。赤ちゃんのころは、育児のつらさよりも、娘がいないつらさがあり、ミルクをあげていても涙がとまらない夜も何度もあった。立ったり、歩いたりしても「娘に見せてあげたい」と思い、また涙がでた。代わりに自分が病気になればよかったのにと思ってまた泣いた。
幼稚園に入る頃には、孫は娘そっくりに育っていて、とてもかわいいと思うようになった。孫には「おばあちゃん」と呼ばれていた。周りを真似てママと呼ばれたことがあるけれど、ママはちがうと伝えた。娘が命をかけてもほしかったものを、私が奪ってしまうのは違うと思った。
孫には娘がしてあげたかったであろうことを全部してあげようと思った。さみしい思いやかなしい思いはしてほしくなかった。毎日楽しいことがたくさんあったけれど、楽しいと思うことが許されないことのように感じた。娘がしたかったこと、感じるべき楽しさを、私が得ることで、娘がいなくなってしまうような気がした。
娘にはあまり勉強を厳しく言わなかった。娘の夢はいつも「お母さんみたいなお母さんになりたい」だった。小学生になった孫には、科学教室や塾に通ってもらった。しんどそうにしていたら辞めてもいいと伝えていたが、「たのしい」と言っていたので安心した。中学受験もしてくれ、将来はお医者さんになりたいと言っていた。孫は「おじいちゃんの母校にいきたい」と言い、無事に合格してくれた。孫の祖父である私の旦那はとても喜んでいた。
孫は本当に良い子で、優しく、娘とそっくりの笑い方をする。今年あった関西万博にも何度も一緒にいってくれた。2人で年パスを買い、孫が3日前予約や当日予約を駆使してたくさんのパビリオンを回らせてくれた。「大学は忙しいだろうし、おばあちゃんとばっかり遊ばなくて大丈夫なのに」と伝えたら、「おばあちゃんといるのが楽しいだけ〜」と答えてくれた。いろいろな国のパビリオンを見る孫の顔を見ていたら、ふともうすぐ娘と過ごした時間よりも、孫と過ごした時間の方が長くなると思った。
娘が亡くなったことは受け入れられているけど、私が忘れてしまったら、娘はどうなるのか。娘と同じくらい、孫のことも本当にかわいく大事で大好きに思っている。それが私はとてつもなく怖かった。娘の気持ちを考えると胸が締め付けられるように痛くなった。
亡くなった祖母をアンドロイドの身体に移すことを扱ったパビリオンがあった。孫がおばあちゃんの心をアンドロイドに移して欲しいと希望する映像が流れた。孫は涙を流して、「私もおばあちゃんにはアンドロイドに移ってでも、ずっと一緒にいてほしい」と言った。私はパビリオンを出てからも、涙が止まらなくなった。私が泣いていたら、孫は「私がおばあちゃんからお母さんを奪ってしまったのに、ごめん」と言った。私は娘も孫もどちらも大事で、孫のことを娘を奪ったなんて思った事はない。娘から強く望まれて生まれてきたのに、私がそんな気持ちにさせてしまった。
私は2人ともが、楽しく元気に生活してほしかった。娘にも生きていてほしかったし、孫も生まれてきてほしかった。大屋根リングで座りながら、うまく伝えられたかはわからないけれど、孫も心から大事であることを伝えた。孫は照れくさそうに笑って、その日は、帰りのフェリーで子どもの時と、同じような顔で眠っていた。
なんだか誰にも言えないので聞いて欲しかっただけです。万博とても楽しかったですね。年齢などは少し変えて書きました。読んでくれてありがとうございました。
相手もいないし「おかあさん」に向いてない、それなのに子どもが欲しい。
子どもかわいいじゃん。いや、かわいいだけじゃないの知ってるけど。時と場合によればかわいさより大変さが勝るのも、それはそれはよく知ってるけれども。
卵巣予備能つって、卵子の在庫候補がいっぱいあるとかないとか血液検査で調べられるんだって。私の場合は調べたら結構あった。検査結果値が3とかそこら。
お金積んだら、卵子を注射針で取り出して急速冷凍して取っておけるんだって。
卵子の在庫候補の卵胞ってのがいっぱいあっても、中を吸い出したら空っぽだったとかで在庫候補の数そのまま卵子が取れるわけじゃないんだって。
でも、お金積んだら、薬で卵胞を複数育てて、一度に10個とか、卵子が取れることもあるんだって。
一時期死ぬほど話題になったから知ってる人は知ってるだろうけど、卵子は老化の影響で受精しづらい・受精しても育たない個体がちょっとずつちょっとずつ増えていくんだって。
そもそも10個なんて取れない人もザラだし、取るだけ取ったけどちゃんと熟してない卵だったりもするんだって。結果として一度に1個しか取れない人も普通にいるし、その1個が無事受精して着床して妊娠出産に至った人も結構いるんだって。
お金を積んだら、何回も何回も卵取りにチャレンジして、卵を凍らせて貯めておけるんだって。
私の場合は、在庫候補自体はうまいこと数が揃ったから、すごいラッキーだったら、10個取れるかもしれないんだって。
10個取れても出産に当たる確率は50パーあるかどうかで、トシを考えると25個以上は欲しいとこなんだって。
相手もいないのに卵子だけ。部署の女性陣は私以外みんな既婚子持ちだ。
大金かけて、薬の副作用にも耐えて、ひとりでみじめだしバカみたいだよね。
でもやる。
無駄な足掻きだと思うけど、どうせならやれるだけのことは全部やってから「だめだったあ!!」って泣き喚きたい。
今のところ目下の悩みは、普通に施術自体が怖いってこと。現時点でずっしり重い鈍痛がずっとあるこの下腹の、イクラの塊みたいに水胞でぷくぷくになってるであろう内臓に、局所麻酔だけで注射針ブッ刺してチューーーッて中身吸い出すんだって。
怖すぎる。
でも今更逃げられない。
あとそうやって直していくと他もどんどん直していってそのうち文章の個性がなくなりそう
モスバーガーはその個性のおかげでネット史に残っているという意味で成功例だと思っているぐらいなんで。
伝える努力というが、ぶっちゃけ中学ですら何言ってるのかわからない詩にいくらでも出会うからね。
草野新平のるだけ書いてるやつとか。それも正しさではなく個性をとった結果。
dorawiiより
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それは今の国語力を繕うことになるよね?それはよくないことだと思ってるんだよ。
あとそうやって直していくと他もどんどん直していってそのうち文章の個性がなくなりそう
モスバーガーはその個性のおかげでネット史に残っているという意味で成功例だと思っているぐらいなんで。
dorawiiより
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20260423135916# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaemnJgAKCRBwMdsubs4+ SOqPAP41shvGLpp12Gzg7OJzpuBFQySgGLYJkJDH2Y+FnYjtngEA1WWJrwqkBfau tDDeRCIj8SJDpvCbWjJ1HkHBLQtSgAs= =7jW3 -----END PGP SIGNATURE-----
男女間のトラブルにおいて常に女性が責められる背景には、「男性には責任能力がない」という前提に基づいた、以下のような特異な論理構造があります。
トラブルの主導権や非がどこにあるかにかかわらず、最終的な責任を女性に帰結させる論理が展開されています。
女性が被害に遭った際、加害者である男性を責めるのではなく、被害者である女性側に落ち度を求める論理です。
男性の不適切な行動(マナー違反や衛生観念の欠如)さえも、周囲の女性の責任とされる論理です。
これらの論理の根底には、男性を「常に心神喪失状態」にある存在として扱う、皮肉的な前提があります。
男性には「ありとあらゆる能力が欠如している」ため、そもそも責任を問うこと自体が無意味であり、消去法的に女性が全ての責任を負うべきだという極端な思考モデルが提示されています。
このように、「男性は責任を取れない存在である」という免責と、「女性はあらゆる事態を予測・管理すべきである」という過度な責任付けが組み合わさることで、「あらゆるトラブルにおいて常に女性が責められる」という不条理な論理が完成しています。
出典の内容に基づくと、男女間のトラブルにおいて常に女性が責められる背景には、「男性には責任能力がない」という前提に基づいた、以下のような特異な論理構造があります。
この主張の中では、トラブルの主導権や非がどこにあるかにかかわらず、最終的な責任を女性に帰結させる論理が展開されています。
女性が被害に遭った際、加害者である男性を責めるのではなく、被害者である女性側に落ち度を求める論理です。
男性の不適切な行動(マナー違反や衛生観念の欠如)さえも、周囲の女性の責任とされる論理です。
これらの論理の根底には、男性を「認知症」や「常に心神喪失状態」にある存在として扱う、皮肉的な前提があります。
このように、「男性は責任を取れない存在である」という免責と、「女性はあらゆる事態を予測・管理すべきである」という過度な責任付けが組み合わさることで、「常に女性が責められる」という不条理な論理が完成しています。
海賊版論争を見るたびに思うのだが、この話で人々が最初にやる間違いはだいたい同じだ。
日本側は「海賊版は窃盗だ。作者に敬意がない」と言う。 海外側は「正規で読めないんだから仕方ない。供給しない側が悪い」と言う。
そして両者とも、自分だけが現実を見ているつもりでいる。 もちろん、いつものことだ。インターネット論争というのは、だいたい自分の見ている半分の真実を宇宙の全真理だと思い込んだ人たちが、残り半分を見ている人間を野蛮人扱いすることで成立している。
だがこの件で本当に面白いのは、双方とも半分ずつ正しいということだ。 そして、半分ずつ正しい議論というのは、完全に間違った議論より始末が悪い。なにしろ本人たちは「自分は正しい経験」を実際に持っているので、相手が何を見てそう言っているのかを理解しようとしない。
その結果、海賊版論争はいつも道徳劇にされる。 盗人だの、既得権益だの、敬意がないだの、時代遅れだの。 気持ちはわかる。人は道徳劇が好きだ。構造の話より、悪人の話のほうがずっと気分がいいからである。
しかし残念ながら、この問題の核心はモラルではない。 価格であり、供給であり、制度であり、インセンティブである。
道徳は「海賊版はいけない」と言うことはできる。 だが「なぜ、いけないことがこれだけ大規模に起きるのか」は説明できない。 それを全部「モラルの低下」で説明するのは簡単だが、簡単であることと有能であることは違う。風邪を全部「気合いの不足」で説明する人間が医者ではないのと同じだ。
海賊版が広がるのは、人々が特別に邪悪だからではない。 正規版より安く、速く、便利だからである。 まずこの当たり前の事実から出発しないと、議論は最初の五分で終わる。
まず、「海外は海賊版に寛容で、日本だけが厳しすぎる」というやつ。 これが魅力的に見える理由はわかる。実際、日本では海賊版に対する嫌悪感がかなり強く、クリエイターの怒りも前面に出やすい。他方で海外では、違法視聴や違法閲覧がかなりカジュアルに語られることがある。だから「日本だけが異常に神経質なんじゃないか」という印象が生まれる。
でも、ここで「海外は自由で進歩的、日本は閉鎖的で遅れている」という、いかにもSNS向きの雑な物語に飛びつくとだいたい失敗する。 違うのは、著作権保護の有無というより、どこに責任を集中させるかという制度設計の差だ。日本は権利者の感覚が強く前に出やすいし、英米圏はプラットフォーム責任やフェアユースの議論が混ざる。見え方が違うだけで、どこも別に著作権を仙人のような寛容さで見守っているわけではない。
次に、日本側に多い「海賊版はモラルの欠如だ」という説明。 これももちろん一理ある。違法コピーなのだから、悪いに決まっている。 だが、何百万人規模で繰り返し起きる行動を、ひたすら人々の人間性の腐敗で説明しようとするのは、説明というより願望である。自分は悪人を見抜いたつもりになれて気分はいいが、なぜその行動が再現されるのかは何一つ説明していない。
逆に海外側には、「正規供給が遅いのだから海賊版が広がるのは当然」という説明がある。 これもかなり正しい。とりわけ連載マンガや毎週更新アニメのようなコンテンツでは、内容そのものだけではなく、みんなと同時に消費すること自体が価値になる。ネタバレは飛んでくるし、議論にも乗り遅れるし、数か月後に合法的に読めますと言われても、その頃には祭りは終わっている。
ただし、これも全てではない。 供給が改善されても海賊版が消えないなら、問題はタイムラグだけではない。そこには「ゼロ円」で「検索一発」で「広告で維持される違法供給」と、「固定費を回収しなければならない合法供給」の競争条件の差がある。
つまり、よくある説明は全部、一理ある。 だが一理あることと、それで全体が説明できることは別だ。 SNSではこの区別がしばしば消える。なぜなら、一理ある話のほうが、複雑だがより正確な話より、ずっと気持ちよく怒れるからである。
マンガやアニメのようなデジタル・コンテンツのやっかいなところは、作るのには金がかかるのに、複製するのにはほとんど金がかからないことだ。
1話作るのは大変だ。 1冊作るのも大変だ。 人件費がかかる。編集がいる。作画がいる。翻訳も必要だ。監修もいる。配信網もいる。固定費は重い。
しかし、いったんできたものを、もう1人に読ませるコストはほぼゼロだ。 すると何が起きるか。 当然、固定費を払っていない側が圧倒的に有利になる。
正規事業者は、その固定費を回収しなければならない。だからゼロ円にはできない。 だが海賊版サイトは、その固定費を負担していない。他人の投資で生まれたものをコピーしているだけなので、極論すればほぼタダで配れる。 この時点で、「正規版が正しいのだから勝つべきだ」という願望は、経済学的にはかなり厳しい。正しさはコスト構造を変えないからだ。
日本で700円が普通でも、別の国では高い。 英語圏では払えても、別の言語圏では厳しい。 なら国ごとに価格を変えればいいじゃないか、という話になるが、デジタル財は国境と相性が悪い。安い地域の価格が高い地域に流れ込むのを完全には防ぎにくい。VPNの時代に、地域別価格は理論上は正しくても、実務上は簡単に穴があく。
しかも翻訳にはコストがかかる。 ライセンス交渉にも時間がかかる。 市場規模が小さい言語圏では、そもそも商売として成立しないこともある。
その結果として起きるのは、非常に単純なことだ。 ある国では合法的に安く速く読める。 別の国では高いか、遅いか、そもそも存在しない。 その空白を埋めるのが海賊版である。
ここで「海賊版利用者は泥棒だ」とだけ叫んでも、たぶん何も起きない。 なぜなら、その人はたいてい、検索一発で読めるゼロ円の選択肢と、見つけるのも面倒で高くて遅い正規版を比べて行動しているからだ。 不快だろうが、それが現実だ。
この問題をさらにややこしくしているのは、単に値段や供給速度の違いだけではない。 著作権そのものに対する感覚が、かなり違う。
日本では、作品は比較的強く「作者のもの」だと感じられている。 これは単に収益権の話ではない。人格の延長として受け止められやすい。だから無断転載や無断翻訳に対して、単なる売上の損失以上の怒りが生まれる。
海外、とくに英米圏には、もちろん著作権保護はあるが、それと並行して「公表された作品は議論や変形的利用の素材にもなる」という感覚が日本より強い。フェアユース的な発想がその象徴だ。
ここでよくあるのが、「海外は自由で、日本は古い」という雑な整理である。 インターネットはこういう二元論が大好きだ。たぶん脳のカロリー消費を抑えられるからだろう。 だが現実はもう少し不快に複雑だ。
日本には日本なりの整合性がある。 作品の同一性や作者の意思を重く見るのは、単なる後進性ではなく、一つの権利思想である。 英米には英米なりの整合性がある。 作品が公共的な議論に開かれるべきだというのも、一つの思想である。
問題は、両方が自分の前提を「普通」と思っていることだ。 そして普通同士がぶつかるとき、人は驚くほど簡単に相手を野蛮人だと思う。
日本では、多くの二次創作は法的にはかなり危ういのに、実務上はかなり広く黙認されてきた。 これは綺麗な制度ではない。かなりいびつだ。 だが、そのいびつさの上でコミュニティが回ってきたのも事実である。 つまり日本では、明文化された一般ルールより、「権利者が最後の統制権を持ったまま、周辺をお目こぼしする」という形で秩序ができている。
英米的な感覚からすると、これはかなり不透明に見えるだろう。 ルールがあるのかないのか、はっきりしろと思うはずだ。 そして「二次創作はよくて海賊版はなぜダメなんだ」という問いも出てくる。
だが日本側の感覚では、そこは全然同じではない。 前者は、少なくとも創造的な付け足しやコミュニティ内部の礼儀の中にある。 後者は、単なる無断コピーの流通だ。 この差は、日本側には大きく見えるし、海外側にはしばしば曖昧に見える。
つまり、ここでも両者は同じ単語を使いながら、別のゲームをしている。
ここで話を少しずらす。
日本では、古い建物を壊して新しく建てることへの心理的抵抗が比較的低い。 街は更新される。建物は入れ替わる。古いものをそのまま残すことより、機能的に更新することのほうに価値が置かれやすい。
一方、欧米では、歴史的建造物の物理的な形態そのものに重い価値が置かれることが多い。 もちろん全部ではないが、「オリジナルを残すこと」自体が道徳的含意を持つ。
これはそのまま著作権の話ではない。 建物とマンガを同じにするのは乱暴だ。 だが、文化的な資産を誰のものとして、どう扱うかという深層の感覚には少し通底するものがある。
日本では、作品は最後まで作者や権利者の意思に強く帰属するという感覚がある。 絶版にしたいなら絶版にする。再公開しないならしない。 乱暴に言えば「それは持ち主の権利だ」という発想だ。
他方で海外には、「公表された文化は公共財的な性格をある程度帯びる」という感覚が日本より強く存在する。 だから「絶版作品をアクセス可能にするのは文化保存だ」という理屈が出てくる。
この理屈は、気持ちはわかる。 実際、消えた作品や読めない作品があること自体を損失だと感じるのは自然だ。 だが、その理屈がそのまま海賊版の免罪符になるかというと、そこはかなり怪しい。 文化保存は美しい言葉だが、翻訳も配信もアーカイブもタダではない。そして、そのコストを誰が負担するのかという最も不愉快な問題になると、急にみんなロマン主義者になる。
つまりここでも、対立は善悪ではなく優先順位の違いだ。 統制を優先するのか。 アクセスを優先するのか。 作者の意思を重く見るのか。 文化の開放性を重く見るのか。
どちらかが完全に正しい、という話にしたがる人は多い。 たぶんそのほうが気持ちがいいからだ。 しかし残念ながら、社会はだいたい、気持ちよさより面倒くささの上にできている。
海賊版の蔓延は、モラルの崩壊ではない。 デジタル財のコスト構造、国際市場の分断、価格差別の難しさ、翻訳とライセンスの遅さが合成された結果である。
ここで「市場の失敗」と言うと、すぐ誰かの悪意の話だと思う人がいる。 いつものことだ。 だが市場の失敗というのは、必ずしも誰かが怠慢だったという意味ではない。 むしろ、全員がそれなりに合理的に動いた結果としても起こる。
日本の権利者は、国内収益を守りつつ海外展開のリスクを管理しようとする。 当たり前だ。 海外のユーザーは、手に入らない、遅い、高い、読めないという状況で、もっとも低コストな選択肢に流れる。 これも当たり前だ。 海賊版サイトは、トラフィックが集まり広告収入が入るなら供給を続ける。 それも当たり前だ。
つまり、全員がだいたい自分の立場で合理的に振る舞った結果、全体としてはひどい均衡ができる。 これが市場の失敗でなくて何なのか。
日本側が見落としがちなのは、「海賊版は悪い」と百万回言っても、便利さと価格で負けている限り、人の行動は変わらないということだ。 海外側が見落としがちなのは、「供給が不十分だから仕方ない」というのは説明にはなっても、正当化にはならないということだ。 権利者の投資回収が完全に崩れれば、長期的には供給そのものが痩せる。当たり前の話である。魔法のように作品が生えてくると思っているなら、それは経済学ではなく信仰だ。
もっと安くする。 もっと速くする。 もっと見つけやすくする。 もっと地域ごとの現実に合わせる。 そして違法供給の資金源を断つ。
要するに、説教より設計である。 断罪より供給である。 徳の話より、インセンティブの話である。
たぶんこれしかない。 なぜなら、人間はインターネットで急に聖人にはならないからだ。
インターネットは国境を消した、とよく言われる。 実際には、消したのは国境そのものではなく、国境が見えなくなるまでの時間だけだった。
法制度の差は残った。 所得の差は残った。 言語の差は残った。 権利処理の遅さも残った。 その上に、誰でも一瞬でコピーできる技術だけが乗った。
だったら海賊版が広がるのは、むしろ当然である。 不道徳だから広がったのではない。 広がるように世界ができていたから広がったのだ。
そして海賊版論争がいつまでたっても噛み合わないのも、同じ理由である。 人々は、自分の道徳感情の話をしているつもりでいる。 だが実際には、価格表が未完成の世界で起きている摩擦を、善悪の物語に翻訳しているだけなのだ。
こういうと冷たいと言われるかもしれない。 しかし冷たいのは現実のほうである。 現実はしばしば、魂の堕落より、流通設計の不備で説明できてしまう。
人は悲劇を道徳劇にしたがる。 だが今回の話はたぶん違う。 これは堕落の物語ではない。 文明の衝突ですら、半分しか正しくない。
アメリカの大学で経営学を学んでいたころ、効率という言葉はまるで神様みたいに扱われていた。
少ない資源で最大の成果を出すことが世界の進歩だと信じられていた。
1908年に850ドルで登場し、ほとんどモデルチェンジをせずに作られ続け、最後には260ドルまで値段が下がった。
まるで同じ夢を何度も繰り返して見るみたいに、同じ形を作り続けることで、完璧を手に入れたのだ。
でも、日本に来てから、私はその夢から少し覚めたような気がする。
スーパーの棚に並んだしょうゆを見て、まず足が止まった。
狭い空間に、味も色も少しずつ違う瓶がぎゅうぎゅうに詰まっていて、その景色はまるで小さな惑星が密集している銀河のようだった。
アメリカのスーパーではありえない光景だ。あちらの棚は広大だけれど、どれも同じメーカーの同じ製品ばかり。
効率はそこにあったけれど、選ぶ楽しみはどこにもなかった。
アメリカで働いていたときは、ゴールがいつもはっきりしていた。
最短距離をまっすぐ走ればよかった。
でも日本では、道がいくつもあって、そのどれもが正しいように見える。
効率というコンパスが効かなくなる。最近はそのせいで、少し迷うようになった。
スーパーで棚の前に立ち尽くしていたあの日の私と、仕事のデスクに向かっている今の私が、どこか似ている気がする。
けれど、その迷いにこそ、人間らしさがある。
私はときどき思う。
フォードの工場のラインを流れていたあの黒い車たちは、本当に幸せだっただろうか。
今は私はベビーカーに子供を乗せて、エレベーターを探す生活をしているがとにかく不便で仕方ない
今日は車椅子を押す女性と車椅子に乗った男性のカップルを見かけたが、男性の見た目がいかにも好青年で
「身体に障害があって、異性にモテるには、健常者以上の高い精神性が求められるんだろうな」と思った
そして、私は家族には「性格の良さ」よりも五体満足の健康体の方を求めるかもしれないと思った
私はベビーカーを押す生活から、1年後くらいには卒業して、エスカレーターや階段を自由に使える生活に戻るはずだ。ベビーカーに乗ってる下の子はもう歩けるが、上の子と下の子を両方歩かせると危険だから、下の子をベビーカーに乗せている
下半身に障害がある、車椅子に乗る家族がいたら不便な生活がずっと続いてしまう
私自身も老いたら、自分の身かどんなふうに弱っていくのか知らないが、自分の足で動けて、不便のない生活が長く続いてほしい
車椅子に乗る人が、友達なら長く付き合えると思う。優しい人間のふりをして、障害に理解があるような顔をしてずっと笑顔で付き合えるんだと思う
でも、家族に車椅子の人がいたら、いちいちエレベーターを探さないといけないし、狭い店には入りづらいし
私のストレスは募る
今の健常者の生活を知っているだけに、不便さに大きなストレスを感じると思う
それか、慣れるのかな?
ぷはー!って一杯やりたいじゃない!
そう言う時はだいたいハイボール決めるんだけど、
その日の体調によって一口目が、
めちゃうまー!って時と
なんかドカーンとくる美味さがない、
要はなんか美味しくないかも?ってのは
自分的には体調の良し悪しというかそれでコンディション自分の体調のコンディションを測れるのよね。
最近は
お風呂上がりのこの一口目がうまー!ってのが連発していてなんか調子いいかも知れないわ!
いつもだいたい決まった配合の分量で作っているので、
その配合のブレでのうまー!とまずー!の違いの誤差は限りなく小さいはずなので、
単純にその時の体調や気分が計測できる感じのハイボール。
そうなるってーと
分かるわよね?
くー!
あんまりハイボールのお供にお野菜ってのも味は美味しいかもしれないけれど味気ないじゃない?
とはいえ、
食べるラー油をそのまま小さなスプーンですくって直接ダイレクトに口に含んで、
なんか終わったような気がしてやったことはないのよね。
だから、
何かおつまみ欲しいじゃん!
最近惣菜売り場でたくさんバラエティーに富みに富みまくりまくりすてぃーなラインナップ多いじゃない!
迷っちゃうの!
ここはじっくりお総菜売り場の今日の私を見て!って輝いている惣菜の声に耳を傾けてみよう!ってすると、
なぜか聞こえてくるの!
今日の私美味しくできてるわよ!とか
今日の私ブランニューなの!つまり新製品新登場なの!美味しそうでしょ?とか
今日はこれだー!って選ぶようにしているわけ。
白いドレスにオレンジのお花を纏ったような煌びやかなお総菜が私を呼んだような気がして、
「ぷるもち水餃子さくさくガーリックかけ」ちゃんが私を呼んでいるの!
おおお!
白いぷるんとして小さな水餃子にオレンジ色の餡にからまったさくさくガーリックがとても美味しそうで思わず手に取って今日のハイボールのお供にしましょ!って。
ションテン爆上がりじゃない?
ぱく!
早速食べてみるわ!
うーん、
見た目の華やかさより地味な感じの味で要はなんかあんまり美味しくなかったかも?
全部が全部スターじゃないというか。
でもこれはこれで見かけ派手に繕ってる苦労をしているあんまり人気なさそうな水餃子をお総菜売り場で登場できるように頑張って厨房のお総菜担当のひとが考えたレシィピだと思うと感慨深いわ。
でさー、
お総菜を買うと言っても、
好き放題買っていたらお金がたくさんかかるから慎重に選びたいじゃない。
とはいえ、
あんまり買うと高くなっちゃうしー!って世界が抱える最大のジレンマ。
お総菜トロッコ問題!
線路の先にいる人を避けずに走る線路は先にいる人を轢いてしまうけれど、
トロッコの中のトレーに10貫ほどバラエティーに富んだお寿司が入っているパックはひっくり返らない。
とはいえ、
線路の先にいる人は助けられるけれど、
トロッコの中の美味しそうなトレーに10貫ほどバラエティーに富んだお寿司が入っているパックは、
トレーのパックの中でお寿司がひっくり返りまくるじゃない?
それがジレンマだわー。
だから、
お総菜をたくさん買っても最後マーケットのお寿司も美味しそうだな!って私を呼ぶ声が聞こえるけど、
ここは涙を我慢して売り場を通り過ぎるの!
ううう、
ゴメンね!
でも私の目の前に救世主が現れるの!
それはなんと!
おおお!
これは1つを当たり前の値段で買うより300円ぐらい安くなるヒーローなの!
そのお総菜の三選手を選ぶべく、
でもさ、
お総菜で1000円とかって高いなぁって長中期的に躊躇してしまって、
そのお惣菜コーナーの前を行ったり来たりして、
一向に迷って手が付けられない事態ってあるじゃない。
それをえいや!って背中押してくれるよりどり3セット1000円セールなの!
でもここで我を忘れないでちゃんとお総菜の声も聞くのも大切なのよ。
ちゃんと私輝いているでしょ?って、
ジブリ作品のタイトルに一文字足してくださいって大喜利で『耳をすませば』を「耳をすませバカ!」ってなって怒られちゃうから、
ここはしっかりとよりどり3セット1000円セールだからといって油断できないの。
大切な1000円じゃない?
でもさー、
これが見方を変えると値段の値打ちが高いから安いになっちゃう呪文があるの、
私はそれを唱えたの!
お総菜の値段で考えるとちょっと高かな?って思うけど、
居酒屋で「おつまみ贅沢三種盛りセット1000円!」って唱えるとのなんか安く感じない?
ルービーやハイボールとかの酒代別として「せんべろ」コース待ったなしじゃん!って。
見方を変えたら安く見える呪文を自分に唱えてみたら美事安く見えるじゃない!
見えるというか安く感じるじゃない!って。
そうなると3種類選定選ぶ作業がまた楽しくなるってものじゃない?
でも私にはタイムリミットがあって早く買ってハイボールを決めたい気持ちに拍車をかけて逸っているから、
フレンチカンカンを頭の中に曲を流して買い物競争かの如くタニコーの五徳の上に乗せたフライパンでお総菜温め待ったなしって寸前までそこまで想像して、
いそいで3種類の、
私はやったー!ってまるで熊の子見ていたかくれんぼお尻を出した子一等賞ってばりにお尻は見せないけれど一等賞を取った選手かのように、
よりどり3セット1000円セールで買った3つのお総菜を高く掲げてゴールテープを切るの!
そして、
帰ってから白いプレートによりどり3セット1000円セールで買った戦利品を並べるとパックのままよりかはまたお総菜の見栄えの迫力が増すから、
パックのままよりかは一旦お皿に盛った方が良いってのは秘密にしておくわね!
よーし!
昨日張り切って買いに行ったけれど、
お惣菜コーナーの売り場はマーケット閉店間際ですっからかんだったわ!
思わず拍子抜けしそうになった私は
100メートル走のスタートでみんな選手クラウチングスタートの構えでピストルが打ち鳴らされるのを待っているけれど私だけスタンディングスタートのポーズで、
あーあ、
お総菜売り場全部完売だわー!って。
しくしく。
うふふ。
昨日食べたかったけどなんとなく止めておいて買わなかった納豆巻きにしました!
イエーイ!納豆巻きめちゃうま朝のネバネバ美味しさマックスで沁みるわー。
朝の元気の源よ!
しっかり食べてしっかり働いているように端から見たらそう見えるようにするわ。
そろそろ水出しルイボスティーウォーラーも作っておいていいかしら?って思うぐらいだんだん暖かくなってきているので、
水出しルイボスティーウォーラーをこしらえていてもいいかも知れないわ!
ゆっくり飲んで温まったら、
よい1日のスタートよ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ホンダという会社は、いつも夢の中と現実のあいだを行ったり来たりしているように見える。
彼らがF1から去るとき、それはまるで、長くつき合った恋人に「少し距離を置こう」と告げるみたいに静かで、どこか苦々しい決断だ。
だけど、時間が経つと、やっぱりもう一度会ってみたくなる。風の匂いやピアノの音みたいに、熱がふと蘇るのだ。
表向きは「環境技術への集中」「サステナブルな未来」など、理性的で整った言葉を並べる。
理想と現実の調停をするようでいて、彼らの内側にはどうしようもなく「燃やすこと」への郷愁がある。
ピストンの上下に感じるリズム、燃焼の拍動、風洞の夜に響くファンの低音──それらを身体が覚えている。
結局のところ、ホンダは血の中に残るオクタンの記憶に引き戻される。それは理屈ではなく、生理の問題だ。
そして戻ってくるたびに、彼らは苦戦する。
まるで数年ぶりにジャズ・クラブに戻ったサックス奏者が、昔の楽譜を前にして手が震えるように。
ステージの照明も、観客の空気も、かつてのそれとは微妙に違う。
ターボの構造一つ、人間関係の温度一つが、うっかりすれば全体を狂わせる。
だが、それでも彼らは吹こうとする。音が少し濁っても、それでも演奏をやめられない。
だがホンダにとって、それは速度そのものではなく、「走ること」の意味を探す行為に近い。
パワーユニットという名の命の鼓動。
だから敗北も、痛みも、呼吸の一部として受け入れられる。
それが、自分たちが今も「HONDA」であることの証明だからだ。
その繰り返しは、まるで潮の満ち引きのようだ。海がすべてを洗い流すたびに、砂の上に新しい足跡が刻まれる。
RA272の白い車体も、ターボ時代の赤いヘルメットも、マクラーレンとの栄光も、レッドブルとの別れも──それらすべてがひとつの連続した夢の断片だ。
ホンダが戻る理由を、合理的に説明することは難しい。勝ちたい、というだけではない。
たぶん、世界最高峰のレースには「自分たちが何者であるか」を証明させてくれる何かがあるのだ。
私は思う。
ホンダにとってF1とは、勝つための舞台ではなく、火を灯し続けるための場所なのだと。
理屈で測れる効率や戦略の外側に、燃え続ける願いのようなものがある。
彼らはそれを、内燃機関という形で世に送り出す。
数字の正確さよりも、内部に漂う体温のようなものをどこか信じている。
その熱を保つこと──それが彼らの誇りであり、同時に呪いでもある。
勝てない週末、壊れるPU、届かない速さ。
けれど彼らは、それでも手を離さない。
火のある場所に留まろうとする。
ホンダという夢の出入り口は、きっとこれからも開いたり閉じたりを繰り返す。
その奥底ではいつも燃焼の音が続いている。
これが決定版だよ。界隈のスタンダードになるよ。
A. 基本情報
1. 立場
東京 / 神奈川 / 千葉 / 埼玉 / 関東広域 / 遠征可
早朝可 / 深夜可
今後やりたい作品
4. 金銭感覚の目安
選択式
実費精算中心
内容により相談
有償依頼歓迎
有償依頼のみ
上位3つまで選択
顔や表情がはっきり見える写真
引きの構図で成立する写真
顔が小さく写っていてもよい
顔が見えなくてもよい
表情が読み取りにくくてもよい
後ろ姿中心でもよい
シルエット中心でもよい
背景比率が高くてもよい
人物が小さくてもよい
演出的な色味でもよい
暗めの写真でもよい
*「私は雰囲気写真も好きです」をかなり平和に言い換えた項目です。
7. 公開しにくい条件
顔の写りに不安がある
表情が見えにくい
体型が気になる写り
キャラらしさが弱い
背景が強く、人物が目立ちにくい
一枚では意味が伝わりにくい
サムネイルで印象が弱い
C. 撮影で優先したいこと
上位3つまで選択
キャラの顔や表情
色や光の印象
背景や空間の使い方
被写体の魅力
上位2つまで選択
顔・表情の再現
色や光の印象の再現
本人らしさも活かした表現
顔の写りより空間を優先されること
世界観より本人の魅力を優先されること
本人の写りより世界観を優先されること
一枚ごとの完成度を重視する
記録として残したいものを重視する
まず本人が納得できることを重視する
自分で選びたい
ある程度カメラマンに任せたい
E. 加工・仕上げ
13. 公開時の仕上げについて
色味や明るさの調整が中心
強い加工より自然な見え方を重視する
*「加工厨」「加工薄め」みたいな界隈語を避けた建設的な表現にしました。
14. 加工で避けたいこと
顔立ちが別人に見える変化
体型印象が大きく変わる変化
肌補正が強すぎる仕上がり
色演出が強すぎる仕上がり
*ここまでしても、加工し過ぎな人ほど「加工しすぎってどうかと思う」とか言いがち問題は解決できませんが、おまじないとして効きます
交流として楽しみたい
制作としてしっかり作りたい
単発でも作品が強ければよい
例:
朝型で都内近郊移動が苦でない人
「エモい」「綺麗に撮れる」「加工OK」では、相性が分からない。
③ 撮影後に起きる衝突を予防できない
今回の設計はそこを逆にしているので、かなりマッチング精度が上がります。
ここが大事です。
どうですかみなさん。自由に使っていただいていいんですよ。
The Giving Pledgeを調べてみた。例の、バフェットとゲイツが音頭を取って「資産の半分以上を寄付しようぜ」みたいなやつ。理念としては立派だし、寄付文化の薄い国から見ると眩しい。眩しいんだけど、眩しすぎる光ってだいたい輪郭が見えなくなる。で、輪郭を見ようとして資料を追うと、なんというか、思ったより“きちんとしてない”。
まず誓約が法的拘束力を持たない。ここで一気に「はい解散」感が出る。もちろん、寄付は自発性が命で、強制したらそれは税だ、という理屈は分かる。でも「誓う」って言葉の強さに対して、実態が「宣言したら偉い」くらいのノリなのは、どうにもSNSのプロフィール欄みたいだ。意識高いことを書いておくと、本人の内面が整う、みたいな。整うのは内面だけで、外部の世界は別に整わない。
次に、寄付の“いつ”と“どこへ”がふわっとしている。生前なのか死後なのか、どの分野にどれだけ出すのか、途中で気が変わったらどうするのか。要するにKPIがない。寄付の世界にKPIを持ち込むのは野暮、という反論もあるだろうけど、じゃあこれは何なのか。社会運動というより、富豪同士のサロン的な連帯の儀式に見えてくる。署名して仲間入り、みたいな。
そして一番もやっとするのが、寄付が“善行”として語られることで、富の形成過程や税の話が霧散する点だ。寄付は素晴らしい。でも寄付が素晴らしいほど、「本来は税として民主的に配分されるべきだったのでは?」という問いが出てくる。寄付は選べる。税は選べない。選べる善意は気持ちいい。選べない義務は気持ちよくない。だからみんな善意のほうを称える。でも社会の設計としては、気持ちよさより再現性のほうが大事だったりする。
バフェットやゲイツが悪いと言いたいわけではない。たぶん本人たちは本気で良いことをしている。問題は、良いことをしている人がいる、という事実が、そのまま制度の実効性の証明にはならないことだ。Giving Pledgeは、寄付を増やす“きっかけ”にはなるかもしれない。でも、きっかけ止まりのものを、社会のセーフティネットの代替みたいに持ち上げると、だいたい歪む。歪んだまま「善意があるから大丈夫」と言い出すと、最後に残るのは善意の気分だけで、困っている人の生活は別に大丈夫じゃない。
結局これ、富豪が富豪のまま“良い富豪”になるための仕組みなんじゃないか、という冷笑が頭をもたげる。寄付で救われる人がいるのは事実としても、救う側の権力が温存される構図もまた事実で、そこを「美談」で上書きするのは雑だ。雑さが気になる。きちんとしてない。実効性がない。そういう感想だけが、調べれば調べるほど、妙に手触りとして残った。
大きく言うと、日本人がそこに何を投影してきたかの違いだと思います。
香港は長く、
超高密度
高層住宅
狭さとスピード感
みたいな要素を持っていて、
日本人の目には「アジアなのに未来都市っぽい」と映りやすかったんです。
が重なっていました。
未来への憧れと資本主義への不安を同時に映せる鏡だったんです。
古い家並み
湿った空気
です。
失われた昭和っぽさや
を重ねているところがあります。
だから、
香港=外側が強い
台湾=内側が強い
とも言えます。
香港映画は、
夜の街
が強かった。
速い、危ない、光っている場所になった。
台湾映画は、
静かな喪失感
長回しや余白
が強い。
一言でまとめると、
として受け取られやすい。
だから、香港にはサイバーパンク、台湾にはノスタルジーが宿る。
ただし本当は、これは現地そのものというより、
それでも日本人がそう見たがるのは、
この話、かなり面白いので、次は
みたいに横へ広げても深いです。
自己放尿とは何か。それは政府が自らの失敗を再生産し続ける構造、すなわち誤ったインセンティブ設計の帰結だ。
感情論は捨てろ。ここは価格理論の世界だ。人間は善意ではなく制約と誘因に従って動く。
政府という主体を分析するとき、ナイーブに公共善の最大化を目的関数に置くのはやめろ。
むしろ合理的無知と集中利益・分散費用のフレームで見ろ。政策は望ましいからではなく、通るから成立する。
ここで自己放尿が発生する。
たとえば規制。名目は安全や公平だが、実際には既得権益を保護する装置になる。
なぜか?情報コストが高い大衆は無関心で、利益を得る少数は必死にロビー活動をするからだ。
結果、規制、補助金、関税のトリプル放尿が成立する。これは偶然ではない。均衡だ。
ではどう生きるか。
第一に、価格は情報であるという原理に従え。政府の自己放尿は、価格メカニズムを歪めることでシグナルを破壊する。だからこそ、公式のナラティブではなく、実際の価格・報酬・機会コストを見ろ。そこに真の情報がある。
第二に、合理的無知を自覚的に使え。すべてを知ろうとするな。それは非効率だ。だが、自分の意思決定に影響する領域では徹底的に情報を取れ。車を買うときと同じだ。投票よりも、就職やスキル選択に時間を使え。リターンが違う。
第三に、制度を前提に最適化せよ。世界を変えようとする前に、そのルールの中で利得を最大化しろ。これは冷酷に聞こえるが、合理的行動だ。企業が利潤最大化するのと同じだ。感情ではなく制約条件を見ろ。
第四に、例外的機会を探せ。自己放尿は完全ではない。むしろ歪みを生む。価格統制があれば闇市場が生まれるし、過剰規制はイノベーションの余地を生む。歪みはチャンスだ。均衡のズレに利益がある。
第五に、ルールを設計する側に回れ。これは上級編だ。政治市場では、需要と供給がある。政策を消費する側から供給する側へ移行すれば、自己放尿の生成メカニズムそのものにアクセスできる。もちろん倫理的コストはある。そこは自分の目的関数で決めろ。
最後に言っておく。政府の自己放尿を嘆くのは自由だが、それ自体には何の価値もない。重要なのは、それを前提条件としてどう行動するかだ。
市場は完全ではない。だが、分散した知識を統合する唯一の使える装置だ。政府の自己放尿はその装置を鈍らせる。しかし完全に破壊することはできない。だからこそ、貴様はその残存機能を使え。
感情ではなくインセンティブを見ろ。スローガンではなく価格を見ろ。
それが、生き残るということだ。
本当はこんなこと思いたくないんだけど。
まず前提としてストグラの説明を少ししておくと、
ストグラ(ストリートグラフィティロールプレイ)は、配信者たちが同じゲームサーバーに集まって、それぞれキャラクターとして生活するロールプレイ型の配信コンテンツだ。
警察やギャング、市民などを演じながら、人間関係やストーリーが自然に生まれていく。
で、その中で恋愛ロールプレイをしているA(男)とB(女)がいる。
現状は友達以上恋人未満みたいな関係で、特にBのファンは「いつくっつくんだろう」と楽しみにしていた。
「AさんとBさんって付き合わないんですか?」
とぶっこんだ。
するとAが
「付き合ってないし、恋人を作るつもりもない」
と明言。
Bはかなりショックを受けて、キャラ引退(そのキャラでプレイするのをやめること)も考えているという話になった。
この流れだけ見ると、Cがやらかしたように見える。
ただ実際には、この展開はAを演じてる配信者とうちの推しが相談して決めたものだったらしい。
進展のない関係性にカンフル剤を入れるための展開で、要するにCは物語を動かす役を頼まれたのだ。
ロールプレイとしては、まああり得る流れだと思う。
ただ問題はその後だった。
ロールプレイなんだから、キャラクターとして嫌われるのはある程度仕方ないと思う。
そういう役回りになることもあるだろうし。
本来は推しも、推しが演じるCというキャラも、街の中で仲間や友人を作って楽しい時間を過ごしたいと思っている。
それでも、Cが配信画面に映るだけでB側のコメント欄が「あ…」みたいな空気になったり、
しかもBを演じている配信者は結構大きい事務所に所属していて、ファンの数もかなり多い。
その分、今回の件でCに向かうヘイトの規模もかなり大きくなっているように見える。
ちなみに俺の推しも事務所所属ではあるので、個人配信者が大手に叩かれているみたいな単純な話ではない。
ただ、ファンの母数が多いと、それだけで空気の圧みたいなものはどうしても生まれてしまうんだなとは思った。
ストグラって本来「配信者がキャラを演じてドラマを作るコンテンツ」のはずなのに、
ロールプレイ配信って、ドラマみたいに楽しむもののはずなのに、
気づいたら視聴者がドラマの登場人物を本気で憎み始めているみたいな状態になっている。
それって本来の楽しみ方だったんだろうか、と少し思ってしまう。
あと正直に言うと、AもAでちょっとフォローしてやってくれよとは思っている。
Cがあの役回りをやったのはAと相談して決めた展開だったわけだし。
こういう空気の中でキャラを演じ続けること自体が、普通に推しのメンタルを削っているように見える。
本来予定されていた通常配信がメンバー限定配信に変更されるくらいには。
最近も推しは連日ログインしているけど、それは楽しそうだからというより、
今回の件のフォローとか人間関係の調整のために続けているように見える。
ストグラ自体も、同じ事務所の先輩に誘ってもらった縁で参加して最初はすごく楽しそうだったけど、最近は楽しさよりも誘ってもらった先輩やゲームでお世話になった人への義理で続けている感じに見えることもある。
もともと推しのキャラは破天荒ポジションで、周囲からもわりと雑に扱われることが多かった。
「お前レア感ないしもういいや」
みたいなことを言われて、いつもみたいに「色々あったんだよ!」と言い返しながら途中で感情が爆発して泣きながらしゃべっている場面を見たときは、正直かなりしんどかった。
推しが楽しそうなら、多少のトラブルがあっても「配信のドラマだよな」で見られると思う。
でも、今みたいにメンタル削られているのを見ると、
正直ストグラって界隈が嫌いになりそうになる。
たぶん本来は、こういう感情で見るコンテンツじゃないんだと思う。
ここまで書くと「じゃあストグラ配信を見るのをやめればいいじゃん」と言われるだろうし、それも一理あるとは思う。
ただ、上に書いたようにストグラの影響で他の配信活動にまで影響が出ているのを見ると、
実際、泣いたり凹んだりしている姿を見てしまうと、
いっそストグラ辞めてくれたほうがいいんじゃないかと思ってしまう。
配信者が楽しそうにしているのを見るために見ているはずなのに、
正直かなりつらい。