はてなキーワード: 責任能力とは
着せ替えと模様替えとガチャとSNSを模したコミュニケーションのアプリだが普通に大人はいる
ここ最近、40代の匿名書き込みで、グループホームにいるけど辛い、みたいなお手紙が何件か
たぶん同じ人だろう
文章の慣れてなさだったり、住んでいる市を言ってしまうような不注意さだったり
けどその辿々しい言葉は続けた
正直怖いと思ってしまった
いや、やめといた方がいいよたぶん、と
申し訳ないけどろくなことにならない、という想像しかできなかった
その年齢でその辿々しい言葉の彼氏と結婚を夢見つつホームにいるという状況
自宅では面倒が見切れない程度に状況は悪く
お金はかかるだろうが、専門のスタッフに任せられるとホームに入れられていて
その彼氏とやらはホームに彼女を入れた相手ではないだろう、彼女の生活や人生に一切の責任を持っている家族としての連れ添っている相手ではないだろう
なけなしの全エネルギーを注いで憧れの人をデートに誘ったら恋愛経験の無さや性的特徴を揶揄するセクハラされた上で告白する前にフラれて以来、自暴自棄になって無敵の人となった者です。
> 無敵の人はどうすれば暴発しにくくなるか。
まず、いつぞやの増田のように「少子化は甘ったれた男が悪い」って責めてくれるのは嬉しいんだよ。でもそれを大衆が鼻で笑って冷笑して却下するのは、とても、とても、哀しい気持ちになる。
主張を受け入れるか反論するかは別として、男の責任を議論するならば、男は責任を背負える余地がある、という前提がある。
でもそれを大多数の男たちが有耶無耶にして明日も普通にミソジニーという男女不平等が横行していくのは、自分たちがいかに責任能力を欠いた劣勢人間であるかを見せられてるようで、とても辛い。
だけど、責める言説が冷笑されなくなることが、いわゆる暴発を防ぐカギかと問われると、ハッキリ言って違うと思う。
1994年、あの時、壁画法の解釈が拡大してグラフィティは肥大化していった。スプレー缶は飛ぶように売れて、すべてが無地の壁に吹き付けられた。ラクガキを消すには上書きをするしかなく、上書きできるのはより優れたグラフィティのみ、これを犯せば裁判。場合によっては私刑で、その最高刑は極刑だった。
2024年、今、もはやまっさらな壁など見当たらない。コンクリートが重力に逆らって立てば、生乾きのうちに壁画になる。いかなるミキサー車もスケートボードに乗った悪童を2,3人は引き連れているといった次第だ。30年前と違うのは遊び心。壁画の殆どは広告であり、すべてに自然に、あるいは義務感を帯びて唐突に3次元コードが埋め込まれている。半VRグラスを介して3営業セカンド以内に購買の意思決定が行われる。本人が決めるのではない。18年以上グラスを着用している責任能力のある成人本人から学習したモデルが機械的に500ms以内に決定、本人の拒否が2.5秒以内に行われなければ購買が成立する。広告は、機械とシステムが行う作用になった。
義務教育の遠心力で飛び出したガキが壁画の制作過程を出稿主か代理店かに見せて報酬を受け取る。多くの場合は公共の配信サービス上に動画が上がるので、それをもとにウマそうな場所を特定して上書きする。
元動画に紐付けられたマウントは、その手早さによっては追加報酬が得られる。元動画を上げたガキは数時間分の報酬しか得られなかったりなんてことはザラで、腕が悪いなら夕方にこっそり上げるのがスジだったりする。昼は不良が、深夜はバイト帰りの専門学生が、朝はプロが徘徊しているのだ。
しかしこうも過熱すると壁画を消してしまうということにも利益が発生する。法律上それは許されないはずだが、色彩過敏科のある10床以上の規模の医療機関を構成する壁、清掃会社の本棟東側の壁、にはあらゆる清掃が可能等々の例外がある。そこにライバル会社の広告を出稿させ、消してしまう。清掃の場合、動画に上書きの証拠を紐付ける必要はなく、ストリートビューが更新されるまで発覚しない。消えている間は無駄な広告費が発生する。それはライバル会社の利益といえる。
そして2025年、近未来、下井草というとらえどころの無い土地では「童z(ワッズ)」「株式会社アトカブ」「キエルヒャーCorp 北日本支部」による、傾斜60度以上の平面の塗り合い、毛試合が始まろうとしていた…長い長い戦史はライフの西側の壁から始まる。
紅白歌合戦での楽曲変更について、あまりに浅はかで間抜けで、星野さんにも失礼なことを「義憤として」「良かれと思って」喋っているバカを何人も見て心からげんなりした。本当に星野さんが可哀想だ。
『地獄でなぜ悪い』の件に関する議論というか了解は、まず下記の四つの要素から成っている。
①『地獄でなぜ悪い』の詞は、星野源さんが闘病生活中に感じたことを綴ったものであり、それぞれの孤独と苦境の中で動けないでいる人の肩を優しく抱く連帯の歌である。
②紅白歌合戦は、公共放送を標榜するNHKの、とりわけ注目度の高い看板番組のひとつであり、老若男女に高い知名度を持ち一種の権威であるとされてきた。アーティストのファンが自ら視聴するライブやフェス、民放の音楽番組とは異なる一定の「公共性」を持った場であると多くの人に認知されている。
③『地獄でなぜ悪い』は園子温の映画の主題歌としてオファーを受けて発表されたもので、かつ映画と同名であること。園子温は性加害・ハラスメントの告発を受けており、被害者が自殺しているという経緯があること(さらに言えば同映画には、園の性暴力の共犯とされた俳優も出演している)。
星野源は『ドラえもん』など、主題歌のオファーに対して真摯に対象作品に向き合って楽曲をつくるアーティストのひとりと目されており、同曲にも映画を念頭にした要素(「地獄」という言葉の使い方など)はある。
④タイミングとして、滋賀医大のレイプ事件の逆転無罪判決や、性行為強要があった岸和田市長の不信任決議を受けての議会解散、さらには中居正広とフジテレビのレイプ疑惑など、「男性による性暴力が、市民感覚として正しく罰せられていない」という印象を覚えるニュースが立て続いていた時期だった。
【1】星野源さんの体験をもとにした、切実でかつポジティブなメッセージを含んだ楽曲である『地獄でなぜ悪い』を、ことさらに封印・タブー視する必要はない。ファンが『地獄でなぜ悪い』を愛することに何の問題もない。
【2】ただし、その成立の経緯から「性暴力の加害者を連想させる」という指摘が難癖とは言えないほど隣接しているのは確かだ。
(「星野さんの個人体験をもとにした歌なんだから園子温は関係ないじゃないか!」という反論は無理筋である)
【3】公共放送の権威的な番組で【2】のような要素を含む楽曲を、世論が性加害の報道に敏感になっている時期に放送するのは、「NHKは園子温の性加害を大した問題とは思っていないし、国民の多くもそうだろうと考えている」というメッセージになりかねない。
(「過去に何度もフェスで演奏されてたし、NHKの番組でも流れたのになんで急に怒られなきゃならないの!?」という反論への回答)
この【1】~【3】を、問題視する側もそれに反発する側も取り違えてはいけないと思うし、ほとんどの人はちゃんと腑分けして語れていたと思う。
問題になっているのはあくまで【3】、「今、紅白歌合戦で流すのには、ふさわしくないバックボーンを持つ曲なのではないか」という一点のみだ。
そして、星野さんサイドは昨日、披露する楽曲を『ばらばら』に変更すると発表した。
その数時間前にあまりに醜悪な松本人志の無反省で無神経なインタビュー記事で目を汚してしまっていた私は、あのステートメントの星野さんの(ご本人の、あるいは事務所としての)バランス感覚に心打たれた。
論点になっている各レイヤーに言及し、問題が【3】であることを正しく解説し、「私たちは、あらゆる性加害行為を容認しません。」と結ぶ。そしてもちろん、楽曲を愛するファンへのフォローも忘れない。
変更された楽曲が『ばらばら』なのも良い。
かつて星野さんはこの曲についてインタビューでこう語っていたそうだ。
>みんながばらばらなことを考えながら集団を持続させていくのって、むちゃくちゃめんどくさいんですけど、それが健全なんじゃないかなと思います。ばらばらのままでも「ひとつ」のものを生み出せるだろうっていう、そんな歌だと思います。
今回の件で、撤回しろと怒りの声を上げた人も、それに対して楽曲と星野さんを守ろうと反駁した人も、楽曲変更に安心した人も悲しんだ人も、誰も間違っていたとは言わない。「ばらばらのままで良い」そのままで良いと優しく抱きとめるような選曲だ。
あーあ!直接の加害者でもなんでもない星野さんたちがこんなに「正解」を叩き出して聴く人を安心させてくれたのにさ!松本人志はさ!!!!
……というのはさておくとして。
冒頭に立ち返る。私が憤っているのは、これだけ誠実でバランスの取れた回答を星野さんサイドが出したのに、まだ上記のような論点整理をごちゃごちゃにしたまま、とんだお門違いな文句をぶーこらぶーこら垂れているファンがいることなのだ。
そういう奴は大抵、最近覚えたからよく意味も分からずに「キャンセルカルチャー」という言葉を使う。
「ファンでも被害者当事者でもない第三者のクレームで楽曲が踏みにじられて悔しい」とか「歌いたい曲も歌えない源さん可哀想」とか言うんだ。挙句には、「『ばらばら』の選曲は最高の皮肉だ!『クレーマーとは分かり合えないし分かり合う必要もない』という決別の表明だ!」みたいなこと言ってはしゃいでる奴まで。
害悪だよ。気持ち悪い。こんな奴らが「私たちが源さんを一番心配してるし一番気持ちが分かってる!」と息巻いて、批判者への人格攻撃を繰り返す。
お願いだ。もう喋らないでくれ。SNSアプリをぜんぶ削除しろ。
楽曲変更の前に「星野さんはNHKから頼まれたから歌うだけなのに叩かれて可哀想!」みたいなことを言ってる奴もいたな?お前らもだよ。
何か?星野源はNHKから「あの歌うたってくださいよ~」とオファーされたら、自分の頭で何か考えることもなく「は~いうたいま~す」と脊髄反射で答え、歌うなと言われたら「は~いうたいませ~ん」とこれまた脳みそを経由せずに答えるような、思考能力も責任能力もない無自我のデクの坊の昆虫だとでも思ってるのか?
星野源は「こういう経緯でつくられた曲だから、性被害者への二次加害になりかねないよ」と言われて、「うるせえな!俺の芸術に文句をつける愚民どもがよ!」と開き直って批判者たちに背を向けて嘲笑するために紅白で歌うような傲慢で性格の悪いカスだと思ってるのか?
いくら自分が傲慢で性格が悪くて無能のデクの坊だからって、それを星野さんに投影するのは失礼だよ。
あの選曲に悪意や皮肉が込められてるって言う奴は、「飯を食い糞をしてきれいごとも言うよ」「嘘で何が悪いか ただ地獄を進む者が悲しい記憶に勝つ」という星野さんの歌を聴いたことがあるのか???
マジでいい加減にしてくれ。せめて星野さんが可哀想なんて言わずに「俺は心が狭くて想像力がないから『地獄でなぜ悪い』を紅白で歌われて傷ついたり不快に思う奴の気持ちなんて分からん!そんな奴は俺の敵だから死ね!」と正直に言ってくれ。正義ヅラすんな善人ヅラすんな。私は星野源じゃないからお前らと共存なんかしたくない。
時間も経って私の怒りも落ち着いたので、あわよくば同じく統失、激しいメンタル疾患の友達と喧嘩した人の気晴らしになればいいなー、と思って書く。
と書き出してみたのだが、気持ちが凪いでしまい、今となってはほとんど書くことがない。どうしよう。
上澄みだけ書いてみる。
まず、なんかしらんがやたらハイテンションなメッセージがたくさん来るようになって、「大丈夫か?」と思っていたら私が転職を始めた話をしたことをきっかけに大爆発を起こした。
転職はビッチのすることであり、人事のチンポをしゃぶって職にありつこうとする卑しい行為だという。付き合いの長い自分の方があなたのことを理解しており、卑しくも人事のチンポを咥え込む立場となることは勘弁してほしい。あなたは独身だがそれは謙虚さに欠けるからだ。自分の母も配偶者も心配している。云々。
当時こそ訳が分からなかったが、おそらくきっかけはなんでも良かったんだと思う。全能感がバキバキのテンション高い時期に、私が思い通りの反応を示さなかったのでブチギレたというか。
こうなってしまうとどうしようもない。もうその人は早いとこ医療の手に預けるしかない。ちゃんと寝かせて食わせて薬を飲ませる。常人にはどうしようもない。
本人はそれでなんとかなる。
メンタル疾患の大爆発に巻き込まれると、滅茶苦茶ダメージを受ける。
正直、カウンセリングに行ってもいいと思う。友達だった人の豹変は大変なショックを与える。
私はカウンセリングには行かなかったが、とりあえず自分の受けたショックを整理した。疾患の悪魔が言わせていることもある。でもそれは友達が普通の時もうっすら思っていたであろうことをなんとなく感じ取ってしまう。もしくは思っていなくても、「効果的に私を傷つけるにはどうしたらいいか」をわかって発しているといるという時点で言いようもなく不愉快だ。
爆発を起こしたことに対して罪悪感を感じることもないではない。
でもおそらく、それに関しては毎日会っているとか一緒に住んでいるとかでない限り(というかそうであってもおそらく)、メンタル疾患の人の大爆発は起こるべくして起こったなにかであり、きっかけになった人、こと、ものに大きな責任はない。
多少の咎はあっても責任を取るほどではない。遅かれ早かれ爆発していたものだと考えた方がいい。
そのあとジャッジをする。メンタル疾患の人は裁判で責任能力なしで無罪になることがあるという。責任能力がないということは、もはや責任を取る権利もないということだ。ならば責任能力のある私には、この関係を一方的にジャッジする権利がある。
私はもうこれをいい機会に、連絡を断つことに決めた。連絡先は全部ブロックした。付き合っていられない。
病気という悪魔が言わせているからその人は無実だという考え方もあるかもしれないが、無実だからと言って付き合いを強制される謂れもまたない。
共通の友達経由で、私と「仲直り」がしたいと言っているらしいと聞いた。
「謝罪したい」と思っているわけではないらしい。
吹っ切れた。もう2度と連絡はとらない。
https://x.com/hinabe_ch/status/1868187172324716804
「破れるタイツはミソジニー」騒動へのブコメ見てたらすっごいのな。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2480935
女側の言動には一切触れずスルーして「企業側の態度がー」てブコメや、「陰謀と言われても仕方ない」と元ツイを肯定是認するブコメがスター集めて上位ブコメになってる。
自分らが誇り持って日々いいものをなるべく安くで提供しようと努力してるところに、何の根拠もなく「女性差別の意図でわざと破れるように悪意を持って作ってるんだ」なんてデマ広げられたら事実の提示による訂正が最優先になるのが当たり前じゃないか。
普段「お客様は神様ではない」「企業と客は対等」「カスハラには毅然とした対応を」「陰謀論はきっぱりと否定を」とのたまってるのは一体どこに消えてしまったんだよ。
これ男女逆で、男性向けの製品を作ってる企業の女性広報担当が、根拠レスの悪意のデマツイートしてバズらせた男に対して同じ口調でデマ否定してたらどんな反応になってた?
「迷惑男を一刀両断!カスハラにはこうでなくっちゃ!バカに配慮の必要なし!〇〇社への好感度上がった!」て絶賛してたろ。
デマ書き込んでるのが女で、はてブ大好きな「ミソジニー糾弾」のお題目使ってるから、デマ女には一切触れず「企業の態度ガー!」と矛先逸らししてんだよな。
「お客様は神様ではない、でも女性は神様」「企業と客は対等、でも企業と女性なら女性が上」「カスハラには毅然とした対応を、でも女性からの怒りには懇切丁寧に対応しろ」「陰謀論はきっぱりと否定を、でも女性には優しく指摘しろ」ていう、「か弱い女の子は守ってあげな」的な家父長フェミ志向、ちんぽ騎士団の意気込みが見え見えなんだよ。それで普段は男女平等とか綺麗事宣ってるんだからほんっと汚らしい。
そして普段「低質な客を切り捨てることになるから却って良かったのでは。これに不快感じる客は客ではない」てよく使うロジックはどこに行ったんだよ。
つい先日に女声優がツイートを高額サブスク化したときそんなブコメがたくさんついてスター集めて上位ブコメになってたの忘れてないぞ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/encount.press/archives/719183/
アニソンフェスの日、SNSで揉めた相手だと勘違いし全く関係のない別人(同じ推しのグッズを持っていた)を誤ってナイフで刺し重傷を負わせる
10月から精神鑑定を行っていたが、責任能力がないと判断され不起訴へ
佐久市で9月、アニメソングの野外フェスで参加者の男性が刺された事件で、長野地検は、殺人未遂の疑いで逮捕された38歳の男性について、刑事責任を問えないとして13日、不起訴処分にしました。
長野地検は、男性の刑事責任能力を判断するため、10月からおよそ2か月間、鑑定留置を行ってきましたが、精神鑑定の結果を受けて不起訴処分としました。
トランスジェンダーの性自認に関しては世間で散々疑われてるけど、個人的には解離性同一性障害もなかなか胡散臭いと思ってる。
多重人格とかただの中二病としか思えないし、犯罪を犯しても「別の人格がやった犯行で〜」とか言い訳してるのを見ると「は?」ってなる、責任能力がないとかふざけんな。
記憶を共有してない()とかいうのも嘘っぽい。どんな人格がいるか質問するのもタブーって、結局思い込みでしかないから辻褄が合わなくなるってだけでしょ。
幼少期のトラウマとか言ってるけど、本当にそんなのある?誰しも幼少期にショックな出来事の一つや二つあると思うけど、多重人格になんてならないんだわ。
トランスジェンダーもそうだけど「私は体は男だけど心は女なの!」とか「俺の中には何人もの人格があるんだ!」とか、統合失調症の集団ストーカー妄想と同じただの病気なんだから、真面目に取り合っちゃダメなんだって。
統失の妄想を真に受けて「それじゃあSPを雇いましょう!」って言う奴がいるか? お前のそれはただの病気で思い込みだと切り捨てる方が、絶対その人のためになるんだよなぁ…。
この話題は非常にデリケートであり、多くの感情や視点が交錯するテーマです。この問題をどのように考え、対応すべきかについて、多くの観点から掘り下げることが重要です。
知的・精神的な障害を持つ人々が加害行為を行った場合、その行為が責任能力を問われない場合があることは事実です。しかし、これは「やりたい放題を許す」という意味ではありません。責任能力がない人が加害行為を行った場合、刑事罰を受けなくても、適切な支援や介入が必要です。具体的には、以下のような対応が取られるべきです:
• 支援者の介入:暴力行為を防ぐために、十分なマンパワーを投入。
こうした対応が不十分である場合、被害を受ける側が「理不尽」と感じるのは当然のことです。したがって、被害者の視点を軽視せず、問題行動を抱える人々への適切な支援と、周囲の安全確保を両立することが求められます。
「障害者との共生」を目的とした交流教育は、理念としては重要ですが、現場での適切なサポートがなければ、逆効果になる場合があります。具体的には:
• 暴力行為がある場合:暴力を受ける側に「耐える」ことを強いるのではなく、加害行動が予測される状況を回避する仕組みが必要です。
• 教育の方法論の見直し:一律に交流を推進するのではなく、個別のニーズに合わせたアプローチが必要です。例えば、暴力行為が頻発する子供については、別の方法で社会との関わりを構築する道を模索するべきです。
投稿者の感情は、自身や周囲が暴力の被害を受けた経験に基づくものであり、その「恐怖」や「怒り」を差別と一刀両断にすることは不適切です。重要なのは、こうした感情を理解しつつ、次のような議論を深めることです:
• 加害行為と障害の関係を分けて考える:暴力行為への怒りを「障害者全般」への差別に拡大しない。
• 「隔離」以外の解決策を模索する:加害行為を行う人々が暴力を振るわないよう、効果的な支援や制御手段を検討する。
• 被害者へのケアの充実:暴力を受けた側の心理的なケアやフォローが十分であるか検討する。
この問題の背景には、社会が障害者支援に対して十分なリソースを割いていない現実があります。障害を持つ人々が適切な支援を受けられず、結果として周囲に被害を及ぼしてしまう場合、それは「個人の責任」ではなく、「社会の責任」として捉えるべきです。
• 支援体制の強化:暴力行為が予測される障害者に対して、専任の支援者や療育プログラムを提供する。
• 地域社会の負担軽減:特定の地域や施設だけに問題を押し付けず、国全体で責任を分担する。
5. まとめ
共生を目指す社会において、現実的な困難や矛盾に直面することは避けられません。投稿者の経験と感情を否定するのではなく、それを出発点に、次のような問いを共に考えるべきです:
このような問題に関しては、個人の体験や感情が非常に深く関わるため、慎重に議論し、包括的な解決策を考える必要があります。あなたの体験が、恐怖や無力感、憎しみといった感情を引き起こしたことに共感します。それが障害者差別という言葉で一括りにされることに抵抗があるのも理解できます。しかし、この問題を解決するためには、いくつかの視点で整理し考えることが重要です。
知的・発達障害のある人の中には、衝動をコントロールするのが難しい人がいるのは事実です。ただし、その行動には必ず背景があり、適切な支援や環境調整がなければエスカレートすることがあります。
一方で、「責任能力がない」という理由で社会がその行為を放置することは許されません。被害者の苦痛を軽視することは、問題のさらなる拡大を招きます。
被害者の保護: 暴力行為を受けた子どもたちが恐怖を感じたりトラウマを抱えたりするのは深刻な問題です。学校や地域コミュニティは、安全な環境を保証するために、加害行為をする障害者の行動を監視・制御する仕組みを整備するべきです。
加害者の支援: 暴力行為をする障害者に対しても、責任能力の有無を問わず、適切な支援が不可欠です。
差別と合理的批判の違い: 特定の障害を持つ人すべてを否定するのは差別です。しかし、具体的な加害行為に対して恐怖や怒りを感じ、それを訴えることは差別ではなく、合理的な批判といえます。
批判が建設的であるためには、行動に焦点を当て、解決策を模索する姿勢が重要です。
あなたのケースでは、障害者との交流教育がかえってトラウマを生む結果となりました。この失敗から学ぶべきは、教育プログラムを「健常者に偏見を持たせないため」という一方的な目標だけで設計してはいけないということです。
加害行為を行う障害者だけでなく、それに対応する社会制度の不備も問題の一部です。
憎しみや恐怖を抱くことは、人間として自然な感情です。しかし、その感情を持ちながらも、他者とどのように向き合うべきかを考えることが、私たち一人ひとりの課題です。この問題に対して、どのような対応が可能であり、現実的かをさらに議論していくことが重要です。
このような文章は障害者の方々を傷つける可能性があります。障害者の中には、社会の理解と支援を必要としている人々が多くいます。彼らの気持ちを考えれば、決してこのような差別的な発言をするべきではありません。
障害者が特権的な存在で、それをいいことに好き放題やっているという認識は、完全に誤りです。障害者もまた、社会の一員として尊重されるべきです。彼らが特権的な存在であるという認識を改めることが、差別をなくすための第一歩です。
無罪でやりたい放題だという認識自体が差別そのものです。障害者が責任能力を持たない場合でも、それは彼らが特権を持っているわけではなく、単に法的な対応が異なるだけです。このような認識を持つことは、障害者に対する理解を阻害し、差別を助長します。
多様性を尊重し、弱者に優しい社会を実現するためには、全ての人が平等に尊重され、支援されることが必要です。これは社会全体が負うべきコストであり、障害者に対する理解と支援を欠かさないことが重要です。
障害者施設がある地域は性犯罪が多いという直球の差別が話題になっていたけど、
障害者による加害行為が無罪でやりたい放題なのも事実なんだよな。彼らには責任能力がないから。
俺が通っていた小学校は養護学校と隣の場所にあって、隔週で養護学校の子と一緒に給食を食べるスケジュールになっていた。
同学年の養護学校の子は2人いて、俺の通ってる小学校は1学年2クラスだったので、1クラスに1人ずつ養護の子が来る。
2人のうち1人は知的障害があり喋れないがおとなしい子だった。
もう一人は喋れないし大音量の奇声をあげて誰彼構わず殴りまくる子だった。
殴りまくる子が来るときは付き添いの養護の先生、担任、クラスの誰かが殴られる。
養護の子が来る週は、「おとなしいほうが来てくれ!」と祈ってたし、殴るほうが来るときは「ハズレ回だ…」と絶望してた。
俺も殴られたことあるし、友達も殴られたし、女子が殴られて号泣してたりもしたし、ハズレ障害児が来る日は暗黒だった。
そして殴られる側はどうすることもできなかった。障害児には責任能力がないからな。
怖がって泣きながら走り回る女子もいた。俺は怖がって走り回るのがダサいと思っていたから着席して耐えた。
着席していても走り回っていても殴られるときは殴られるし、
養護の先生や担任がハズレ障害児を拘束するまで何発もグーで殴られながら耐えるしかなかった。
養護の子との食事ルールは、障害者に偏見を持たないための交流教育を目的として設けられていたのだろうけど、
健常者だから責任能力があり人を殴ると逮捕される「健常悪魔」と、
障害者だから責任能力がなく人を殴っても逮捕されない「障害悪魔」の二種類があり、
絶対に逮捕されない「障害悪魔」とはとにかく物理的な距離をおいて暮らしていくしかないという学習だけが刷り込まれた。
実際、どうするんだよ。どれだけの暴力行為をしても逮捕されない奴とどう暮らしていくっていうんだよ?
養護のおばさんや担任やクラスの面々がグーで殴られまくって阿鼻叫喚、俺も4回殴られ(計4発ではなく、拳で連打されるハズレ日が4回あったということ)、
とにかく耐えるしかないという経験は、本気で憎悪が刷り込まれるトラウマになってるし、それを「障害者差別だ」と言われても反発心しかわかない。
あと障害者全員を差別してない。殴らない方の子に対しては怒りも憎しみも一切持ってなかった。
むしろ人を殴る健常者よりも、殴らない障害者のほうが好ましい。重要なのはまず殴るか殴らないかであり、次に殴るやつを隔離できるかどうかだ。