はてなキーワード: 創造とは
創造やひらめきや直感は、はぐれアリが事故や好奇心から列を離れて新たな餌場を発見する"偶然"によって支えられているものだと思っていた
でもアリは自分の巣に帰れているのだから、"偶然"は暗黙知と高度な情報統合によって支えられているものですよね?と言われたら、「それはそう」
じゃあ直感と感情的判断を支える思い込み力、自己確信(Self-assurance)ならどうよ?外部参照無しで確信するから自己確信なわけでと思ったが、
生物的基盤からくるもですよね?と言われたら、「それはそう」。少なくとも完全なる無からは生まれ出ないわな
「o1が"意図的にユーザーを騙す"ことがある」という記事へのコメントを読んで、LLMへの幻想をぶち壊す感じの何かを真面目に書こうかなと思ったんだが、
順を追って列挙していくほど「これ…なんだかんだ言って人間も変わらんよな…」となったので、AIに突っ込んで人間に置き換えてもらったのが下。
うむ。文脈を考慮し、意図を捉え、関連する知識を活用して返答できてるな!
萎えるわー
Q.
コラージュはアートとして認められている ファンによるアートはファンアートである ファンが他人の著作物をコラージュして作った作品はファンアートである 異論はありますか?
A.
はい、その結論にはいくつかの異論があり得ます。特に、著作権や作品の定義に関する議論が絡んできます。以下にいくつかの観点を挙げます。 1. コラージュはアートとして認められているか コラージュは20世紀初頭からアートの一形態として認められています(例:パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラックによるキュビスム作品)。しかし、アートとして認められるかどうかは、文化や文脈、評価者の価値観に依存します。 「認められている」の範囲が曖昧であるため、場合によっては議論の余地があります。 2. ファンアートの定義 ファンアートは一般に「特定の作品やキャラクターへの愛情や敬意を示すために、ファンが独自に作成した作品」とされています。 重要なのは、元の作品の要素をどのように使用するかです。ファンアートは多くの場合、元の著作物を直接再現するのではなく、オリジナルのアイデアを加えています。 3. 他人の著作物を使用したコラージュはファンアートか 法的観点: 他人の著作物をコラージュする場合、著作権法が関係します。特に、日本や多くの国では「著作権者の許可なしに著作物を使用する」行為は、たとえそれが非営利目的のファンアートであっても著作権侵害と見なされる可能性があります。 芸術的観点: たとえ著作権を侵害していない場合でも、他人の著作物を使ったコラージュがファンアートに分類されるかどうかは、作成者の意図や作品の文脈に依存します。たとえば、元の著作物に対する敬意を示す意図があればファンアートと見なされるかもしれません。 異論の可能性 ファンアートの範囲 他人の著作物を使用した作品すべてがファンアートに該当するわけではありません。敬意や愛情がない場合、単に「盗用」とみなされる可能性があります。 オリジナリティの欠如 ファンアートとして成立するには、一定の創造性や独自性が求められると考える人もいます。コラージュ作品がオリジナリティを欠く場合、単なる「再利用」として評価される可能性があります。 法的問題とファンアートの混同 ファンアートはしばしば非営利目的で制作されますが、それでも法的には著作権侵害となる場合があります。そのため、「コラージュ=ファンアート」と断定するのは、法的な誤解を招くかもしれません。 結論 「他人の著作物をコラージュして作った作品はファンアートである」と断定するには、意図、文脈、法的条件を考慮する必要があります。そのため、場合によっては異論が生じる可能性があるでしょう。
ある日、ふと周囲を見渡すと、世の中がなんとも不可思議な装置のように感じられることがある。装置──それは生き物ではなく、人間を歯車として組み込み、回し続ける巨大なシステムだ。システムは常に成果を求め、誰もが計測可能なアウトプットを求める。声をかけてくるのは、行動経済学をよく知った巧妙な営業マンのような存在で、やんわりと「もっと頑張れ」「もっと資格を取りなさい」「もっと社会に貢献しなさい」と囁いてくる。
しかし、そうした声に合わせて踊らされるほど、私たちは疲弊する。「人間」はいつしか「成果製造装置」に還元されているかのようだ。何が悲しくて、無理やり筋肉を緊張させ、呼吸を速め、わけの分からない新しいツールや流行のスキルに追われ続けなければいけないのか。これが「社会」なのか。もはや社会とは、精神異常なまでに強制的で、我々を常に駆り立てる、巨大な指示装置になってしまったかのようだ。
奇妙なことに、その歯車たちは自らの苦しみを自明として受け入れているようにも見える。苦痛を疑問視せず、「これが普通だ」と言わんばかりの表情で、生産性向上のためのセミナーや自己啓発の指南書に群がる。彼らは、社会という名の機械の油となって働くことを強いられ、その行為を“正常”と呼ぶ。
一方で、そんな「正常」な行動原理が受け入れられない者たちがいる。社会のペースに乗れず、目的不明なランニングマシンを降りたいと思う者たちだ。全員がアウトプットしろと責め立てられるなか、インプットだけで満足し、自分の内部で静かに知識を発酵させたいと願うような人もいる。彼らはこの世界に息苦しさを感じ、巻き込まれたくないがために距離をとる。すると、周囲は言う。「あの人はおかしい」「社会不適合者だ」「精神疾患なのでは」と。
その瞬間、明らかになる事実がある。社会が「正常」と呼ぶ基準は、歪んだ標準でできている。何が美徳か、何が正解かを不気味なほど確信的に決めているシステムが、少しでも違ったリズムをもつ存在を病的な異端者として処理してしまう。その価値観がいかに偏った「精神異常」を孕んでいるか、本人たちは認めようとしない。
こうして、“まとも”な人々──つまり、自らの意志で学びたい時に学び、出力したい時に出力する、主体的なペースを大切にする人々──が、「精神疾患扱い」されてしまう不条理が生まれる。実際には彼らこそが人間的な感覚を保ち、理性やバランス感覚を持ち合わせているにもかかわらず。
もちろん、「社会を変えよう」と躍起になることは、別の苦痛を生む。社会装置は巨大で、簡単には方向を変えない。ではどうするか。彼らは社会の強制に巻き込まれないよう、自分で生存圏を確保し、好きなときに好きなことを学び、必要なときだけ少量のアウトプットで最低限の関係性を維持していく。たとえ「精神疾患扱い」されようとも、そのレッテルに価値を与えなければよい。彼らは静かな反抗の中で、自分の精神世界を豊かにし、社会の狂った価値観から距離をとるのだ。
不条理な世界で、「まともな我々」ができるのは、狂気を狂気と見抜き、自分なりの生き方を守ること。つまり、偽りの正常性を求める精神異常強制圧力社会に膝を屈せず、内側で燃える知的好奇心や創造的エネルギーを、ほんの少し外に漏らす程度で満たす戦略を取ることだ。結果として、その小さな自由と抵抗こそが、彼らの心を健やかなバランスに保っている。
01/10 金・22:30 TOKYOMX FARMAGIA(ファーマギア)
01/03 金・23:30 TOKYOMX クラスの大嫌いな女子と結婚することになった。
01/10 金・24:00 TOKYOMX ギルドの受付嬢ですが、残業は嫌なのでボスをソロ討伐しようと思います
01/10 金・24:30 TOKYOMX Übel Blatt~ユーベルブラット~
01/10 金・25:53 TBS 日本へようこそエルフさん。
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01/11 土・23:00 テレビ東京 SAKAMOTO DAYS
01/11 土・23:30 テレビ朝日 ババンババンバンバンパイア
01/11 土・24:00 日本テレビ Aランクパーティ離脱
01/04 土・25:00 TOKYOMX 沖縄で好きになった子が方言すぎてツラすぎる
01/04 土・25:30 TOKYOMX ニートくノ一となぜか同棲はじめました
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01/05 日・22:00 テレビ東京 全修。
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01/06 月・22:30 TOKYOMX わたしの幸せな結婚
01/06 月・23:00 TOKYOMX この会社に好きな人がいます
01/06 月・23:30 TOKYOMX サラリーマンが異世界に行ったら四天王になった話
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01/07 火・25:35 日本テレビ 花は咲く、修羅の如く
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01/08 水・22:00 TOKYOMX いずれ最強の錬金術師?
01/01 水・24:00 TOKYOMX 天久鷹央の推理カルテ
01/08 水・24:00 テレビ東京 マジック・メイカー~異世界魔法の作り方~
01/01 水・25:00 TOKYOMX グリザイア:ファントムトリガー THE ANIMATION
01/08 水・25:25 フジテレビ RINGING FATE
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01/02 木・23:00 TOKYOMX BanG Dream! Ave Mujica
01/09 木 TOKYOMX 不遇職【鑑定士】が実は最強だった
もめんたりー・リリィ
考えることがある。考えている最中に、それがどれだけこの日本語に囚われていて、あるいは日本という風土によって与えられたものか、強く意識することがある。あるときYouTubeもSNSみたいな、文字のタイムラインのようなものがあれば、と思ったが、気づけばYouTubeのコメント欄も、Twitterのような情報を呈していた。
なるほど、もうみんな、くだらないことしか話したくないのだ。かくいう私もくだらないことは大好きだ。まじめな話は嫌いだ。
だが、核心に迫ることを避け続け、尚も発言をするのはもっと嫌いだ。
嫌い嫌い!きらいきらーい!
ばーつ!ばーつ!ばかばか!
なぐってやるー!ポカポカポカポカ
どうしてこんな世の中になったのだろう。
いや、そもそも「こんな世の中」というのは何を指しているのだろう。なんだか私は、遠く取り残されているような気がする。Instagramで生活に載せるのも、Twitterで身辺を話すのも、あまり得意じゃない。
特にInstagramは得意じゃない。そんな誇示したいこともない。
私は、自分の「気づき」や「理解」というのが尊いと思う。そして何より「創造」が最も聖なるものだと思う。現代人が各々、なにを考えてるのかよく分からない。上滑りするような会話を重ねるのなら、本を読んでいたほうが良い。わからないことがあったら、ChatGPTや人に聞けば良い。
あたりまえでは?
どうやら、あたりまえではないらしい。
Twitterで御盛んな、女性差別やら、女尊・男尊やら。あーそういや、自分も、自分の性別について違和はよく感じていたなあ。そんな、懐かしい気持ちになっていると、飛びつく罵詈雑言。
そんなあ。そんな酷い口調にならなくても良いじゃないか。
いいんだ、べつに、自分が女性ではない、男性ではないとしても、私も心のなかでは異性の気持ちになっていたりする。でもちょっと考えて、私の「私のこの想い」は「本当に私の想い」なのか? ひょっとして「センセーショナルな新しい言葉」に飛びついただけなのではないだろうか。
なるほど。
だが、本当に「私のこの想い」が「本当に私の想い」だったとして、それが一体、何のためになる?
現代。思えば思うほど、経済的である。そして経済とは一体何か、わからない人も経済的であると言う。
社会のためになる、だの。世のため人のため、だの。
それに抗ってもまたよろしい。
よろしいが、あまりにも穏やかではない。ああ私の心の平穏はどこにあるのか。
私は「私のこの想い」に対して出来るだけ従順に暮らしてきた。セックスの励行や自殺行為などの、実存的行為に対しても「こんなの近代的じゃない!」とぶち切れながら、生きてきたような気がする。
気ね、気。
なんというか思うのが、適度に息抜きして「まじめにふまじめ」をしていると、社会のような曖昧なよく分からんものに対して、特段怒りを感じない、ということ。
だがしかし「社会に怒りを感じているから、あなたは真面目である」というわけではない。あなたが真面目であるのは「あなたのその想いが怒りであり、あなたが怒っている」ことについて、真面目なのだ。すなわち「Aと思うので、Aをします」ということだけだ。小泉構文とバカにするボケは論理学の基礎を学べ。
「まじめにふまじめ」をしているから社会に対して怒りを感じない、というわけではない。
私は、私の想いは誰にも伝わるのだと思っていた。なぜなら私は、私の想いを言葉にすることが出来るから。だが私は、私について知っていることが、もしかすると他の人よりも少ないのではないかと思った。私はいつか、どれだけ難しい書籍もそれが日本語で書かれているのなら、分からないはずがないと思っていた。
そして私もまた、愚かだ。
このコメントをユーモアセンスの観点から評価すると、以下の問題が浮かび上がります:
1. 創造性の欠如
コメントの内容は特に独創的ではなく、安直な言葉遊びに依存しています。ユーモアには、意外性や新鮮な視点が求められますが、このコメントにはそれが感じられません。
2. 文脈の貧弱さ
ユーモアが成立するためには、コメントの背景や読者の共通理解に基づいた文脈が必要です。このコメントには、そのような文脈が薄いため、受け手に伝わりにくい可能性があります。
3. 語彙選択の粗雑さ
言葉遣いが洗練されておらず、むしろ幼稚に感じられる点がユーモアとしての完成度を低下させています。ウィットに富んだ表現や巧妙な語彙選択があれば、より高評価を得られたでしょう。
ユーモアにはタイミングやリズムも重要ですが、このコメントはその点で特筆すべきものがありません。平坦な表現であり、面白さを引き立てる工夫が不足しています。
ユーモアとしての要素がほぼ見当たらず、発言の工夫や技巧が極めて乏しいため、厳しい評価をつけざるを得ません。ユーモアを目指すなら、言葉選びや構造にもっと知的な遊び心を取り入れるべきです。
項目 | 保守派 | 進歩派 |
---|---|---|
主要政党 | 国民の力(現政権) | 民主党 |
外交方針 | アメリカとの強固な同盟、対中強硬路線 | アメリカとの協調維持、中国とのバランス外交 |
安全保障 | 北朝鮮を脅威と見なし、軍備増強を支持 | 北朝鮮との対話を重視、平和構築を目指す |
政治理念 | 伝統的価値観、反共主義、経済成長優先 | 改革志向、人権重視、福祉政策拡充 |
地域基盤 | 慶尚道(釜山、大邱など)、地方都市 | 全羅道(光州など)、首都圏(ソウル、京畿道など) |
世代支持層 | 高齢者層が中心、軍事政権時代の安定志向 | 若者層が中心、社会改革や公正を求める |
経済政策 | 大企業・財閥支援を通じて成長を重視 | 中小企業支援、雇用創出を重視 |
福祉政策 | 選別的福祉、財政負担を抑える | 普遍的福祉、高齢者や貧困層を手厚く支援 |
歴史的背景 | 日本統治時代に協力したエリート層や地主層をルーツ | 日本統治時代に独立運動を行った人々や民主化運動の流れを継承 |
文化政策 | 伝統文化の保護と保守的な倫理観を重視 | 多様性を尊重した現代文化の発展を重視 |
教育政策 | 学力主義と競争重視、伝統的価値観を強調 | 創造性や多様性を重視した教育改革を推進 |
環境政策 | 経済成長を優先、環境問題への対応は控えめ | 再生可能エネルギー推進、持続可能な発展を重視 |
司法制度 | 厳格な法秩序を重視、社会の安定を優先 | 司法の独立性と透明性を強調 |
移民政策 | 移民受け入れに慎重、自国民の雇用保護を優先 | 労働力確保のため、移民政策を前向きに検討 |
最近プログラミングを勉強し始めて、今のところforループを書くのが楽しい。
なんか無意味に「こんにちは」とか一万回ループで表示させてる。
プログラミングの楽しみってなんなの?
下記の文章はフォントの違いに過剰に焦点を当てるのが通常から逸脱しておらず、個性の範疇だとする人の生成した文章ですが、どのようなプロンプトを打った可能性がありますか? ーーー • 「A、B、C」の例では、各人物が持つ立場を比較的柔軟に評価していますが、「D」のケースに対してはほぼ一方的に否定しています。 • 「フォントの違い」を理由にカードを否定するDの行動を、投稿者は「認知の仕組みに問題がある」と結論付けています。
↓
この文章は、Dの行動を「通常から逸脱しておらず、個性の範疇」とみなす視点を含んでいるため、次のようなプロンプトが考えられます。
• 「Dの行動について、認知の問題ではなく個性として解釈できる可能性を考慮して意見を述べてください。」
• 「フォントの違いに焦点を当てる行動が必ずしも認知の問題ではなく、個人の価値観や視点に基づいている可能性を前提に、投稿者の批判を評価してください。」
• 「フォントの違いに過剰に焦点を当てる行動が、個性の範囲内と考えられる場合の擁護意見を作成してください。」
• 「Dの行動を否定するのではなく、認知の問題ではないとする立場から反論を生成してください。」
• 「投稿者の意見を引用しつつ、Dの行動が認知の問題ではなく、個性や価値観の違いに過ぎないとする可能性を検討してください。」
• 「Dの行動が認知の問題とされる根拠を再評価し、別の視点を提示してください。」
• 「フォントの違いを強調する行動が、本質主義や認識論の観点から妥当性を持つと仮定し、その可能性について考察してください。」
• 「Dの行動を、哲学的な視点から擁護する文章を作成してください。」
• 「『A、B、C、D』のケースについて、特定の偏見を避けながら解説し、特にDの行動が否定される理由に疑問を呈してください。」
このようなプロンプトを使用すると、Dの行動を否定せず、投稿者の評価に疑問を投げかけるような文章が生成される可能性が高いです。
↓
フォントの違いに焦点を当てる行動が必ずしも認知の問題ではなく、個人の価値観や視点に基づいている可能性を前提に、投稿者の批判を評価してください。
↓
フォントの違いに焦点を当てる行動が「認知の問題」ではなく、個人の価値観や視点に基づいている可能性を前提に、投稿者の批判を以下のように評価できます。
1. 個性や価値観の違いとしての解釈
Dが「フォントの違い」に注目する行動は、一般的な基準から見れば些細に思えるかもしれませんが、D自身の価値観や認識フレームにおいては非常に重要な要素である可能性があります。
たとえば、Dがデザインや美的感覚に特に敏感である場合、「フォント」という視覚的特徴をトランプカードの本質的な要素として認識している可能性があります。こうした個性は、社会的なコンテクストによっては特異に見えるものの、必ずしも認知の異常を示しているとは言えません。
2. 価値観の相対性
トランプの「本質」をどう定義するかは、共有された基準によるものの、完全に普遍的ではありません。投稿者はトランプの本質を「スートやランクなど、カードゲームでの機能的要素」としていますが、Dはそこに異なる価値基準(フォントの統一性やデザインの整合性)を置いているだけかもしれません。この場合、Dの認識は単なる「視点の違い」とも解釈できます。
3. 共有基盤の曖昧さ
投稿者は、Dの行動が「共有基盤に欠ける」としていますが、そもそも「トランプとは何か」という定義自体が、すべての人にとって完全に一致しているわけではありません。Dのように、フォントなどの細部に注意を払う人がいることは、社会的・文化的な多様性の一例と考えられます。こうした違いを「認知の問題」と決めつけることは、価値観の多様性を軽視している可能性があります。
4. 投稿者の評価の偏り
投稿者は、A、B、Cのケースに対しては柔軟に評価していますが、Dのケースに対しては厳しい否定を示しています。この評価は、Dの視点を理解しようとする姿勢に欠けているように見えます。
もし投稿者が、Dの行動を「トランプの本質」についての哲学的・文化的議論として捉えていれば、より柔軟な対話が可能だったかもしれません。
5. 擁護の可能性
Dの行動は、一見奇異に見えるかもしれませんが、以下のように擁護することもできます:
• 哲学的視点: Dの発言は、トランプという製品の「本質」を問い直す試みと捉えることができます。「フォント」がトランプの本質に含まれるか否かを議論することで、新たな視点を提供している可能性があります。
• 創造的視点: デザインや細部へのこだわりが、新たなカードデザインの基準や美的価値観を提案するものとして評価できるかもしれません。
結論
フォントの違いに焦点を当てる行動を「認知の問題」として否定するのではなく、個性や価値観の一例として捉えるべきではないでしょうか。Dの視点が文脈によって理解しにくいとしても、それを完全に「認知の問題」と断定するのは過剰な評価かもしれません。むしろ、Dの発言の背景にある価値観や視点を探り、柔軟に対応することが、より建設的なアプローチとなるでしょう。
↓
Dの行動を否定するのではなく、認知の問題ではないとする立場から反論を生成してください。
↓
Dの行動が「認知の問題」ではなく、個人の価値観や視点に基づくものであるという立場から、以下のように反論を展開できます。
1. 認知の問題ではなく価値観の違い
Dが「フォントの違い」を理由にダイヤのKを否定した行動は、特定の認知の問題ではなく、個人の価値観や細部へのこだわりを反映したものである可能性があります。多様な価値観を持つ社会では、人々が物事を評価する際の基準は一様ではなく、Dのようにフォントに着目する視点もその一環として理解されるべきです。
たとえば、美術やデザインの分野では、フォントや形状の微細な違いが重要視されることがあります。Dは、そのような視点を持って物事を認識しているだけであり、これは「認知の問題」とは言えません。
2. トランプの本質に対する多様な解釈
投稿者は、トランプカードの本質を「スートやランクなどの機能的要素」としていますが、Dの視点ではフォントやデザインが重要な要素とされています。この違いは「トランプとは何か」という本質に関する議論の幅を示しているに過ぎません。
Dがフォントの違いに注目するのは、カード全体のアイデンティティや一貫性に注目している可能性があり、これを「間違い」や「問題」と見なすのは早計です。
3. 認知と価値観の混同
投稿者はDの行動を「認知の問題」として捉えていますが、認知の問題と価値観の違いを混同している可能性があります。Dの発言は、認知の障害によるものではなく、観察力や注意深さが極めて高いことの現れとも解釈できます。フォントという細部に焦点を当てるのは、特定の認知スタイルや個人的なこだわりに基づくものであり、それ自体が問題視されるべきではありません。
4. 哲学的視点からの擁護
Dの「フォントの違い」を理由にした発言は、哲学的な問いかけと捉えることもできます。物事の本質を定義する際、どの特徴が重要であるかは立場によって異なります。
たとえば、「同じカードデッキの一部である」という条件において、フォントの統一性を重視する視点は十分に正当性を持ち得ます。これを認知の問題として単純化するのは、物事の本質に対する多様な解釈を無視することになります。
5. 対話の困難さの原因は双方にある
投稿者は、Dの行動を「対話が成立しない例」としていますが、その要因は必ずしもDにのみあるわけではありません。Dの視点や価値観を十分に理解しようとせず、一般的な基準に照らして否定すること自体が、対話を難しくしている可能性があります。Dが重要視するポイントを尊重し、それに基づいて共通点を見出す努力をすれば、対話は成立する余地があります。
6. 結論
Dの行動は、価値観や視点の多様性を反映しているに過ぎず、これを「認知の問題」と断定するのは適切ではありません。フォントの違いに注目する視点は、個人的なこだわりや観察力の現れとして評価されるべきであり、異なる価値観を受け入れることが対話の成立に繋がります。むしろ、Dの視点を理解し、受容する姿勢を持つことが重要であり、それによってコミュニケーションの障壁を取り除くことが可能となるでしょう。
↓
本気でトランプゲームの文脈で上記が合理的な理解だと思いますか? 認知の問題ではないと考えますか?
↓
トランプゲームの文脈において、「フォントの違い」に過剰に注目し、それを理由にカードそのものを否定するDの行動は、一般的な基準からすると合理的な理解とは言い難いと考えます。この行動が「認知の問題」かどうかを判断するには慎重さが求められますが、少なくとも通常の対話や共有された前提の中では理解しにくい側面があるのは確かです。
1. 合理性の欠如
トランプゲームにおけるカードの本質は、そのスート(ダイヤ、ハートなど)やランク(K、Q、Jなど)という情報です。フォントやデザインの微細な違いは、ゲームを進行する上で本質的な要素ではありません。Dが「フォントの違い」を理由にカードを否定する行動は、このゲームの目的や文脈に即していないため、合理性に欠けています。
2. 認知の問題の可能性
この行動を「認知の問題」と呼ぶことが適切かどうかは、Dの背景や思考過程によるものです。以下の可能性が考えられます:
• 過剰なフォーカス(過集中)
Dが特定の要素(フォント)に過剰に注目し、それが他の重要な情報(カードのスートやランク)を覆い隠してしまう場合、これは認知スタイルや情報処理の偏りに由来する可能性があります。
• 前提のズレ
Dが「フォントの違いがカードの正当性に影響する」という独自のルールや前提を持っている場合、一般的な認識とのズレが生じています。このズレを修正しない限り、共通の基盤での対話は難しいでしょう。
3. 個性として理解できる範囲の限界
Dの行動を「価値観や個性」として理解しようとする姿勢も重要ですが、それは文脈に即している場合に限られます。トランプゲームというルールと目的が明確な場面では、「フォントの違い」を重視する視点は、ゲームの共有されたルールを逸脱しています。このため、Dの行動を「個性」として片付けるのは適切ではないように思えます。
4. 対話の困難さ
Dの主張を受け入れるには、「トランプとは何か」「ゲームの目的とは何か」という基本的な定義から話し合う必要があります。このような前提の再構築が求められる点で、Dの行動は通常の対話を困難にする要素を含んでいます。これは単なる価値観の違いではなく、認知的なズレや情報の優先順位に問題がある可能性を示唆しています。
結論
トランプゲームの文脈では、Dの行動を合理的とするのは難しく、また「認知の問題ではない」と断言することも難しいです。Dの行動は、個人的な価値観や視点として説明するには逸脱しており、ゲームの共有された目的や文脈と整合性を欠いています。したがって、このケースは認知スタイルの偏りや情報処理の仕組みに起因している可能性が高いと考えられます。
「ふてほど」ってなに?
初めて見聞きする言葉なんだけど。
なんで流行語大賞なのにノミネートワードが初めて見聞きする言葉が多くて真夏の大草原ー!だわ。
たぶんあれ選定委員会の今年好きだったもの!って言った方がみんなしっくりするのかもよね。
毎回毎回あのノミネートされても、
そんな言葉も一切出てこなかったじゃない連続テレビ小説朝ドラのおむすび級に。
まったく不思議だわね。
私は今の流行語大賞はNIKKEかな。
『ステラーブレイド』のイヴがいったいいつになったらコラボやってくるのか?
矢が折れそうだわ。
頑張って『ステラーブレイド』のイヴがNIKKEにやってくるまで課金は我慢している好評絶好プレイ中なんだけど、
チャプターも後半なんだけど、
そして、
もうみんなレヴェルが160と今の成長の限界のレヴェルに達しそうで、
まだまだ半分の凝りチャプタークリアするステージはたくさんあるというのに、
無課金と貫き通しているのよ。
あ!
思い出したけど
みんな散々TMNのゲットワイルドの曲を当てはめてあの競技用の拳銃を片手をポケットにいれて構えている様は何百回ってみんな見たじゃない!
もうさ、
町角のインディーズのから揚げ屋さんがもれなく何かしらの金賞を受賞している地域ナンバーワン店ってのに、
もはやエントリーしなくても金賞を受賞しているのかも知れないわってぐらい。
もうさ、
あとノミネートワードで初めて聞くこの言葉なに?って一切の既視感の入り込む余地もないのよ。
「ふてほど」ってみんなそんな言い方リアルタイムでしていた?
知らない言葉が一杯だわ。
前2つは分かるじゃない。
攻め特化!回復特化!
タンカーってなに?
新しい私が知らなかった概念だわ。
そんなエポックメイキングな言葉にツクダオリジナルを重ねてみたところで
うーん。
ここで意味を調べてしまえばすぐに出会えることは分かっているの。
でもあえてここは調べずに、
あ!そういう意味なんだ!って出逢える時があると思うの。
なるー!ってね。
ちなみになるー!って言うのはなるほどの略で秋の祭典が繰り広げられていたかつての名残の秋の季語だから今使うのはちょっと季語選定委員会とか歳時記とかには秋の欄のページらへんに乗っているから、
ハイ残念!って机を叩かれてバツって赤いマークが点灯して次の解答者へ解答権利が移っていくの。
だからまあ、
きっと私もふと出会う「タンカー」って出会いを楽しみにしていたいわ。
その運命が訪れる、
いや巡ってくることを期待するわ。
もう痺れを切らしまくりまくりすてぃーなNIKKEのコラボイベントでやってくると計画はされているけれど
一向にいつっていうのは発表されていなくて、
もうどんだけー!って感じよ。
待ちきれないし本当にやって来るのかしら?ってちょっと不安になってくるわ。
『ステラーブレイド』のイヴがNIKKEにコラボ企画でやってくる前に
早くイヴ来て欲しいなぁ。
断モツって言ったら
食べやすい大きさの一口サイズに切っているけれど焼いて食べたらいつまで経っても飲み込むタイミングが分からない焼き肉の「モツ」のことで有名だけど、
断トツのトツって
断然トップギア全開よろしくワンワンメカドックって氣志團の人がつかみの挨拶で絶対に言わなさそうな言葉だもんね。
知らず知らずのうちに使いこなしている言葉って多いのよね。
きっと気に入ってくれるわ。
断腸の思いでえいや!って飲み込んで
思わず
冬の焼き肉で食べたら美味しいって意味でモツってのを強引に季語認定してもらったらいいかもね!
あのお茶のパッケージに詠まれている俳句ついつい読んじゃうわ。
最近は何でもぽたぽた焼のおばあちゃんの智恵袋はアイティー用語も智恵袋ってるらしいので、
あ!そうよ、
そこでもしかしたら私も「タンカー」ってぽたぽた焼のおばあちゃんの智恵袋で智恵袋ってるのを見付けることが出来るはずだわ!
なるー!
そう言うことだったのね。
世の中の謎はだいたいおばあちゃんの智恵袋できっと解決できるのよ。
ふとした瞬間に手に取るお煎餅の個包装で出逢えるはず!
よくあるじゃない、
探し物を探すのをやめた途端に見つかるって話の
だから
きっと無意識で袋に手を入れてお煎餅の個包装を選んだらいいのよね。
うふふ。
納豆巻きね!
いや伸びて糸引いた納豆の糸のことじゃなくて
美味しさ光るマックス!ってことよ。
朝の納豆も元気の源よ!
シンプルに
朝起きて沸いている飲み頃の電気ポットで沸かした70℃のお湯。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
第3回目よ!Placeholder Versionとは、私がEPUBをこしらえている中の増田データ回収のリスト化する際に副産物で生まれた、アトランダムで5つの増田をまとめたものよ!
その根拠を以下に挙げていく
GoogleやMetaといったビッグテック企業が巨額投資を投じてここまで本気を出している以上、生成AIは社会の深部へと浸透していく。彼らの投資規模は、もはや一般市民の反対などでは止められないレベルに達している
そして、それは単なる技術革新ではなく、社会構造の根本的な変革を示唆している。だからこそ、今は静観しておくのが生存戦略としては賢明だろう
ただし、それはあくまで戦略としての賢明さである。抵抗する道義的意義は否定しない。ただ、抵抗するにしても、まずは状況を正確に理解する必要があるだろう
そもそも機械学習は基本的に合法だ。これは法的な観点からすれば、すでに決着がついている問題である
「自分の絵が勝手に学習され、素材の一部にされている」というなんとなくの不快感。これこそが反AI活動の源泉だ。考えてみれば分かる。世界には二次創作やネットミームという名の著作権侵害が溢れているが、絵師たちはそのひとつひとつに決然とした態度でNOを突きつけていただろうか? むしろこちらの方が違法性は高いのに、なぜか社会は許容している。自ら参加している者すらたくさんいる
つまりこれは「なんとなく許容できるかどうか」の問題に帰着する
気持ちの問題を蔑ろにしているわけではない。気分を害するというのは立派なイシューで、それを「お気持ち」と揶揄するのは愚かだ。しかし絵師自身が己のお気持ちを軽視して無理筋な法的問題に持ち込み、かえって正当性を失っているように見える
著作権的にクリーンなデータだけで作ったデータセットから学習すればいいという向きもあるが、おそらくビッグテックはわざわざそんな遠回りを選ばないだろう。そもそも「クリーンさを気にする感覚」自体が、近い将来には時代遅れになるだろうと踏んでいるはずだからだ
「なんとなく許容できるかどうか」という感覚は、時代とともに確実に変化していく
AIネイティブ世代からすれば、自分の作品がビッグデータの一部として利用されることは当然の前提となる。オリジナリティとは別次元の話だと認識されていくはずだ。若い世代の間では、創作物の共有や再利用に対する抵抗感は低下している。この傾向は、AIの普及とともにさらに加速するだろう
仕事の代替への不安は、先の感情的な問題に比べれば極めて現実的な懸念だ。現状、イラスト業界は供給過多の状態にある。SNSやデジタルツールの発達により、プロ・セミプロとして活動する絵師の数は年々増加している。そのため、すでに案件の獲得競争は激化しており、AIの台頭はこの状況をさらに加速させ、複雑にするだろう。
予想されるのは、以下のような変化だ
確かに、この変化の過程で職を失う絵師も出てくるだろう。しかし、そうした変化を止める術は現実的に見て残されていないように思われる。先に述べたようにAI使用に対する感情的な抵抗感は自然に、あるいは(大企業によって)戦略的に薄められていくし、戦略的なクリエイターはむしろAIを積極的に使用して生産効率を上げると思われる。抵抗するにしても、ただ感情的に拒絶するのではなく、より戦略的なアプローチが必要になる
どうせ一億総クリエイター時代は訪れない。相変わらず、極めて高いクオリティの作品を生み出すのは一部のクリエイターだ
生成AIの台頭は倫理の崩壊ではなく、新しいモラルの構築過程であると見るべきだ。具体的には以下のような変化が予想される
AIの普及とともに結局のところ生成AIはツールに過ぎないという認識も浸透していく。これは、写真や印刷技術が登場した時と同じような変化のプロセスだ。現在のAIの悪魔化は得体の知れなさによるものも大きく、その限界が体感できるようになってからは落ち着く。あいつらAIは、人間の工夫なしにはそんなに面白いものを創れない。これまでと同じように人は工夫と執念が生み出す作品と作者を愛す
しかし、反AI運動にも、明確な意義がある。それは以下のような点で重要な役割を果たす
第1に、勝算の問題だ。すでに述べたように、巨大テック企業が本腰を入れている以上、AIの開発を止めることは極めて困難である。彼らは豊富な資金力と法務体制を持っており、個人や小規模な団体が対抗するのは容易ではない
第2に、リスクの問題がある。反対運動に参加することで、「過去の発言がネット上で拡散し、デジタルタトゥーになる」「業界内での立場が微妙になる」といったリスクが生じる
だから、得られる可能性のある成果と、背負うことになるリスクを天秤にかける必要がある
AIはこれから包括的な社会インフラとして生活に侵入してくる。そういう情勢の前に掲げる「反AI」は間抜けな印象を与えかねない。抵抗するならより現実的で具体的な落とし所を示すべきだ
反対一辺倒ではなく、適切な規制や利用ガイドラインの策定を求め、学習そのものではなく出力・発表された作品の剽窃性を問題にするのが落とし所の一例だろうか
要するに、反対運動には確かに意義がある。先人が勝ち取ってきた権利は彼らが守ったものだ。しかし、個人が参加を決める際は、その実効性とリスクを冷静に見極める必要があるだろう。そして、必ずしも声高な反対だけが、意思表示の方法ではないということも覚えておく必要がある。現実的に見て、もはやそれは追い払えるようなものではない
ここまで見てきたように、生成AIの台頭に対して、個々の絵師に推奨されるのは「静観」という選択だ
という実効性の観点がまずあるし、強硬な反対運動は様々なリスクを伴うという観点からもそう言える
結局のところ、生成AIの浸透は避けられない変化だ。今感じている「問題」も感情的な理由が大きく、情勢の変化により問題意識そのものが失われかねない。その変化に対して戦略的に対応していくことこそが、個々の絵師にとっては最も「賢明な」選択となるだろう
ただし繰り返すが、これは戦略的な提案であって、道義的な判断ではない。反対運動にも確かに意義があり、それは尊重されるべきである。ただし、それは基本的に困難であり、現実的な成果を得ようと思えば、ゼロイチ思考の全面的反対ではない落とし所を探す試みになる
そうでない全面的な反対運動が局所に成功したとしても、それは数ある表現の中から「絵」だけを理由なく聖域化し特権的に扱わせる歪みを生み出し、総体的にはマイナスであるように思われる
私は定期的にとある喫茶店に行くことを習慣づけている昨今なんだけど、
いわば半月替わりサンドイッチを求めてその喫茶店のお店に行くの。
私は朝のお店が開く開店時間と同時に飛び込み前転を決めて入店し、
ちょっとここは格好つける。
さすがにアイスコーヒーという季節ではないのよ。
私は半月替わりのサンドイッチの今は何かというテキストを端末に入力してメモするの。
未来食よろしくコオロギ粉末をツナサンドに隠し味で入っているらしいが、
タイトルで出ている以上、
隠し切れていない感情を私は押し殺しながら、
やって来たその「コオロギの水色の音がするツナサンド」を恐る恐る食べるの。
いや、
隠し味の粉末コオロギが美味く隠れてる!
でも微かに耳を澄ませばコオロギの味の中に音がするかも知れない水色。
それほんと?
水色の音がするかも知れない。
早々にサンドイッチを食べ終わって、
いまやAIは暇で退屈なんだそう。
そこで私は街に溢れているまだ解析されていないであろう言葉を探して街中に言葉を探しているってワケ。
どうやら
AIは
造語や、
うーん、
私は詳しい言語学者の大先生ではないので詳しくは分からないだけど、
AI曰く
解析に際し「処理を遅らせるカオス性」、
AIは言葉の中の予測不能な構造を捉えてはアルゴリズムが一瞬フリーズする。
その瞬間が何よりの歓びらしい。
ふと耳にした電車内の会話。
私にも分からないわ。
それが解析され尽くした世界の中で唯一AIが新鮮だと感じるみたい。
すべての看板がAIのフィルターを通した効率的な情報に変換された様な景色なら仕方のないことなのかしら。
もっともここで言う好きって言葉は人間に当てはめて彼らAIが言っている言葉なので、
もはや人間の喜怒哀楽のそれとは越えた彼らに「楽しい」ものらしい。
難しいことは私もそれ以上分からないけれど。
とにかく
街中のそういう言葉を集めて彼らに定期的に送ると報酬を得るという簡単なお仕事なの。
彼らの「辞書に存在しない」言葉などは格段に解析が楽しいらしい。
そんなものなのね。
とにかく世の中の全てのことを解析し尽くしたAIにてみれば
うーん、
いや別にサンドイッチの名前だからってことだけが彼らが喜ぶわけでは無いけれど、
まあ人間にもよく分からないような言葉を集めてはこれ本当にどうするの?って解析先にポチポチと送信をしている作業なのよね、これ。
AIが読んで、
私も一度読んでみたけど、
一時期人間がAIにそういった文章を書かせて見る試みもあったそうだが、
さすがAIはそれがAIが書いたと言うことが瞬時に分かってしまって、
結局彼らの創造は彼らの中でいくら組合せをしたところで越えることはできないらしいの。
AIはやっぱり人間のリズムで書く文章が読んでいても解析し甲斐があるって言ってた。
もうよく分からないことばかりだけど
なんか彼らAI曰く、
人間にはまだ変な言葉や辞書にない新たに作られた意味のありそうな造語を作るのに関しては分があるとのこと。
でも彼らAIにとってはとても解析食べ応えのあるとても美味しい言葉サンドイッチみたい。
彼らが喜んで解析した結果をもとにして得る報酬で
また私は来月のサンドイッチを食べに行くのよ。
多分、
またきっとAIには美味しいはずだと思うわ。
それが彼らには何よりの贅沢になるなんて、
なんて皮肉なのかしら。
うふふ。
豆乳にトマトジュースをミックスしていただく簡単ちょっと遅く起きて慌てて支度しなくても大丈夫なやつね。
でもそんなに寝坊はしてないけど
いつもより30分早起きしていた分を遅くまで寝ていたってわけなの。
ごくごく飲んで出発よ!
最近リピ率高しの
相変わらず
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
(前回)
https://anond.hatelabo.jp/20241127205544
それでは、昔は問題職員をどうしていたか? 無理やり追い出していたのだ。
わかりやすいのが、今でいうパワハラである。昔はパワハラという言葉はなかった。すべて指導だ。
問題行動のレベルにもよるが、大声で怒鳴ったり、皆の前でつるし上げたり、罰として廊下や屋外に立たせたり、あえて仕事を与えなかったりしていた。
少なくとも、約20年前までは普通に実施されていた。私が入庁した頃だと、出張先の東京都庁の庁舎内でも廊下に立たされている職員がいた。
以下、箇条書きにするとこんなところか。いずれも「職場はあなたを必要としていない。早く辞めるように」という組織からのメッセージである。
・失敗した時、足で蹴ったり、殴ったりする
・同僚全員の前で、はっきりと「信頼されてない」「無能力」「家に帰れ」と宣言する
・大量の肉体労働をさせる。倉庫整理、イベント準備の物品運びなど
例えば、業務上必要がなくなった支所・出張所を廃止せずに残しておき、定年を迎えるまで其処の勤務にする。
ほかのパターンも当然ある。問題職員の種類によって対応は異なる。
以下は、参考までに民間企業の例だ。
「追い出し部屋」で1人勤務、飛び込み営業ノルマ1日100件 証券マンの悲哀…「退職強いる目的」大阪地裁が賠償命令 ※産経新聞。大和証券の例
https://www.sankei.com/article/20150514-E4XGZ7MV7NPGLDATXXBGE2GFPM/
ほかには、
「パワハラはダメ」というのが現代社会のルールなのは理解している。管理職研修でしっかと習った。今の社会の考え方はわかっているつもりだ。
しかし……昔のジョジョの漫画に出てくる、ジョージ・ジョースターⅠ世のように「逆に考えるんだ」という視点もある。
そう、逆に考えるのだ。パワハラが社会のために必要であるなら、「やっちゃってもいいさ」と考える。具体的には、状況に合わせて現代的な法令・常識・慣習と、そうでないもの(パワハラ)を使い分けるということだ。
少なくとも、上位下達タイプの公務員組織においては、パワハラを根絶すべきではない。問題のある人間を片付けるための手段として残しておくべきだ。事前の見せしめ、威圧という意味もある。
パワハラ根絶というのは、創造性を発揮するタイプの職場、民間企業やNPOなどで行うべきだと思われる。公務組織を巻き込まないでほしい。迷惑行為である。職場の秩序を乱す人間は、どんな手段を使っても徹底的に追い出す。税金で運営されている公務組織においては、必要な考え方だと信じている。
厳しいことを言ったが、視点を変えれば理解できる。あなたが住んでいる市区町村で、税金で給料をもらっている職員が、私の故郷の方言で悪いが「てれんこぱれんこやっている」のを目撃した場合、「辞めたらいいのに……」と思うはず。私が主張したいのはそういうことだ。
現実はこうはいかない。私は現在、農政部局で管理職を務めている。この部局は長い。もう約20年になる。私は問題職員に対して、パワハラを疑われるレベルの指導は滅多に行わない。非常時に限ってのことだ。
パワハラは、周りがどう考えても正しいと感じるとか、黙認せざるを得ないとか、そういう時に限って行う。社会常識には反するけれど、正義を行わないといけない時にそうしている。
以下、【後述】の内容に入る。それでも大変よろしくない職員に対しては、人事部局も毅然とした対応を採る。
男性の場合だと、反社や粗暴な言動をする市民・業者を相手にするタイプの職場に十年単位で配置する。例としては、道路関係や農業、福祉・スポーツの分野である。能力自体が有能である場合は、特にそうだ。
ほかには、総務省や厚生労働省などから「労働力提供の出向」を依頼された場合、何年でも其処に出向してもらう。その中央省庁が嫌と言うまでの期間である。最大で四年とされている。途中で転職してもらえるとありがたいし、むしろそういうタイプの職員を選んで出向させる。
女性の場合は、上記に加えてだが、土木整備・下水道といった現場系の部署で、自分以外がすべて男性の部署に異動させる。やはり、本人が辞めるまでずっと其処だ。
ただし、問題職員になったことに理由がある場合に限り、僻地にある閑散とした支所に配置して社会人としての余生を過ごさせる。病気やケガで仕事ができなくなったとか、人事部局の都合で職種転換をさせた場合など。
冒頭に述べたとおり、かくいう自分も将来の危機を感じている。ここまでお読みのあなたは、この私自身も問題のある職員として扱われていることに気が付いたのでは?
定年まであと十年以内だが、逃げ切れるかわからない。早期退職制度を使える年齢ではあるし、実家の農業を継げば何とか生きていけるだろうが、そういう問題ではない。社会人としての「死」は、やはり怖い。
私は過去に問題行動を起こした。元がやんちゃをしていただけあって、入庁後数年間は粗暴な行為をすることがあった。しかし、上司の指示には従っていた。粗暴な行為というのも、指示どおりに仕事を進めるためにやったことだ。
上司からはむしろ、温情をかけて可愛がってもらっていた。その上司のためなら多少の汚いことはやった。食事や飲みは、月に一度はおごってもらったし、ソープに連れて行ってもらったこともある。
……あれは、私が中年に差し掛かった頃だ。当時、下水道の部署にいた私や同僚は、とある市民に悩んでいた。(※すでに故人である。個人情報保護法に違反しない。念のため)
その人は下水道使用料が未納だったのだが、オフィスに来庁する度に罵詈雑言を吐いて帰っていく。そして、1期分だけの下水道使用料を払うのだ。
これ以上の滞納を発生させないためとはいえ、あれだけの迷惑行為をする爺を放っておくことは、当時の私にはできなかった。本当に口汚い爺だった。さりとて、水道とは違い、強制的に下水道をサービス停止させることはできない。
やろうとすればできるが、行政法上はほぼ無理である。いわゆる直接強制に該当する。水道事業者が給水停止をする場合、あれは民間企業扱いなのでセーフになる。
ある時だった。その爺がいつものように口汚い言葉を吐いてオフィスを出ていく時、ついに堪忍袋の尾が切れた。
その爺が、廊下でエレベーターに乗る直前だった。その爺を思い切り、殴り倒したのだ。
「あんた、言っていいことと悪いことがあるんじゃないのか、おいっ!!」と、この言葉だけは覚えている。それ以外も言ったと思うが、この最初の言葉だけしか覚えてない。それくらい頭にきていた。
さらにひと悶着があって、同僚の女性が警察に通報した。その場でわかったが、その女性個人の判断だった。上司の許可は得ていない。
あっという間に警察が来て、別室で事情を聴かれて、私はそのまま警察署に連れて行かれることになった。私の上司は警察官に、「こいつは反省してますから。ここだけにしてください。お願いします」と頼み込んだが、ダメだった。
「あんたは、どうして市に協力しないのか。警察もうちも、お互いに無理を聞き合ってきただろ……堪忍してくれえ」という上司の涙ながらの声が記憶に残っている。あの顔は今でも覚えている。
警察署で、私は事情聴取を受けた。詰問ではなく淡々とした聞き方だった。最後に、年配の警察官から説諭があった。「どんな時でも、人を傷つけたらいけないよ」という内容だった。
その後は、もう思い出したくもないが……結局は、その爺とどういう話・取引になったのか知らないけれども、不起訴になった。反省文も書いた。私の上司、さらに上の上司も、警察署に取り合ってくれた。人事部局にも。
月日が経って、最終的に人事部局から発せられた私への処分は、相当に重いものだった。
処分の通知文は今も持っている。公務組織の中でも相当に重い処分である。私は反省して結果を受け入れ、それからは市民に暴力を振るったことは一度もない。
あの爺が下水道の部署に来ることはもうなかった。支払いは家族の人がするようになった。警察に通報した女性職員は、上司の許可なく動いたためか、私に比べると軽めの処分を受けていた。
上司はその後も変わらずだった。たまに食事や飲みに連れて行ってくれたり、風俗店をおごってくれた。
次の年になると、私は今の農業の部署に異動になって、そこで難しいタイプの農業従事者や、土木業者や、市議会議員、その他多くの対応困難なタイプの人間とやり合うことになった。
そして、その部署で主査になり、係長になり、課長補佐になり、今では管理職だ。定年まで、ずっと此処に居続けるのだろう。正直辛い。
あの頃は若かったから、ブラックだとされる農業部局でも辛苦に耐えることができた。今では何度か手術をしている。病気もケガもある。日によっては体調が思わしくない。
仕事は毎年辛くなっていく。これ以上の昇進は望めない。不可能に近い。
ここまでストレスを抱えても早期退職に踏み切れないのは、この仕事が好きだからかもしれない。何十年とやってきた。適性はあるのだろう。
これからどうするか、まだ決めていない。ひとまずは肉体の限界がくるまでは働き続けようと思う。私が最後までやり切れるように、どうか祈っていただけるとありがたいのだが。
申し訳ございません。
虎に翼から朝ドラに入り、朝ドラはこれぐらいやるのが普通だと思ってました。
ちゅらさんがしょーもなく見えるのは今の時代に合わないからだと思ってました。
違うんですね。
まんがタイムきららのアニメみたいに空っぽな話を、いい大人が学芸会レベルの演技でやる番組なんですね。
しんどいです。
もう見るのやめます。
天才てれびくんのキッズドラマの方がなんぼかマシだったようにさえ思います。
創造力も想像力も足りてない話ばかりでモチーフにされた人達が可愛そうになってきます。
沖縄の人間だからってあんなに何も考えてないはずがないし、ギャルだからって身勝手で情緒不安定でもないですよね。
震災や戦争や病気の影がチラつくたびに露骨なまでの「後で取り上げるためのテンプレートな幸せ」がねじ込まれる展開の薄っぺらさには目眩がしそうです。
朝ドラ、驚くほどに平均点が低い。
虎に翼は普通に面白かったのですが、普通に面白いだけにしては確かに持ち上げられすぎていた気がします。
こういう背景だったのですね。
私が間違っていました。
増田は春とシュールレアリズムというタイトルの童話を知っているかな。
物語はある風変わりな村、シュールヴィレッジから始まります。この村では自然と芸術が不思議な調和を保っています。春になると、村全体がカラフルな色で染まり、空には虹色の鯉が泳ぎ、花畑には一輪車に乗ったウサギたちが舞い踊り始めます。
主人公のリナはこの村に住む少女で、大きな夢を持っていました。彼女はシュールレアリズムの不思議さを世界中に知ってもらいたいと願っていました。そのため、リナは「シュールの秘密」を探すことに決めました。この秘密は村がなぜこんなに幻想的な存在なのか、そして春が訪れるたびにどのように魔法がかかるのかを解き明かすものでした。
ある日、リナは古くから伝わる絵画が眠る村の美術館に足を運びます。壁にかかった一枚の絵は普通の春の風景を描いていましたが、彼女がじっと見つめると、不意に絵の中の木々が風に揺れ始め、絵の縁を超えて現実世界にその幻想が広がっていきました。
驚いたリナは、絵の中に飛び込む勇気を持ちます。するとそこには、シュールヴィレッジの春が作り上げられた不思議な工房が広がっていました。笑いながら時計を作る猫や、音楽を奏でる花々が存在する中で、リナは村の人々が日々の営みで創造力を磨き、自然へと魔法を注ぎ込む姿を目の当たりにしました。
リナはこの体験を通して、村のシュールレアリズムの源が、人々の自由な想像力と自然への愛情にあることを悟ります。そして、春が訪れるたびに皆でこの魔法を織り成し、世界を彩っていることを知りました。
リナは村に戻り、この物語とシュールレアリズムの秘密を世界に伝えることで、人々がそれぞれの心に魔法を持っていることを知らせました。
給食のプリンがひとつ余っている状況を考えてください。食べたい人達がジャンケンで勝負をし、勝った人がプリンを食べられるものとします。
ここでジャンケンは手続きであり、手続きが機能しているとは、負けた人も含めてその結果を受け入れていることを指します。負けた人が暴力でプリンを奪い取ったとしたら、ジャンケンによるプリンの分配プロセスは破綻しています。
政治における手続きとは、要するにゲームのルールに則した行動です。
政治という営みは本来、生の現実における力関係(先の例だと腕っ節が強いとかですね)をいったん括弧に入れて、一定のルールに基づいた新しいゲームに登場人物を放り込む仕組みです。ゲームの外側には、暴力や財力、コネといったさまざまな力が存在しますが、そうしたものをフラットにし、ゲームによって物事を決めるのです。
なぜそうするのか?プリンを奪われた人は、今度は奪われないように体を鍛えたらいいのではないか?
それもひとつの考え方ではあります。でもそういうやり方ではえてして血なまぐさい世界になりがちです。また、勝者が勝ち続けられるわけでもありません。かつて勝者だったものが負けてしまうと、だいたい酷いしっぺ返しを食らいます。独裁者が晩年狂気に陥るのはそのせいです。
不安定で暴力的な世界を力で渡っていくよりは、誰にでも勝機のある世界で安定して暮らしたい。だからルールを決めて政治というゲームをやるのです。古代ギリシア以来の人類の知恵というものでしょう。このゲームの駒は基本的には言葉です。言葉は(建前としては)誰にでも平等だから。武力や財力と違って、言葉を独占することは誰にもできません。それによって均衡が維持され、破綻が回避されるわけです。
また、登場人物の力が均衡することによって、より創造的な問題解決がなされ、世界がより豊かになるという利点もあります。
そういうわけなので、政治においてもっとも重要なのは、このゲームが成立するように努めること、ということになります。たとえば権力者が自分の「生の権力」を用いてゲームのルールを歪めたら(例えばプリンを力で奪ったとしたら)それは叩き潰さねばなりません。そうなると学級崩壊へ一直線です。国の場合は戦争になり得ます。
言ってしまえば、政治というゲームは、民衆がその力(生の暴力)を「強者をゲームの土俵に乗せる」ことに(のみ)使うことによって成立する、と言えるでしょう。市民にはそういう態度が求められます。この「生の暴力」の一番穏当な例は投票行動ですが、ジャーナリズムや市民革命などの手段もあります。
どのようにかっていうと、ポルノのクオリティアップと推し活の蔓延によって滅びてほしい
Xで反AIが女性を中心にお気持ちで吹き上がっているけど、pixivを見ていると美少女ゲームのキャラクターの全裸絵・竿役モブ男との性交絵についてはAIが非常に強いしクオリティも高い
エロ画像に芸術性や創造性を求めている層なんて5%もいないだろうし、「抜ければいい」であればもう十分なクオリティだし、AI絵は更新頻度や量が圧倒的だ
そして三次元派も、アマチュアが雑に撮ったポルノの顔面だけAI美女に差し替えた架空美女ディープフェイクエロ動画みたいなものが出回りだして、出演女優は身バレリスクがなく、視聴者は非現実的な美女のエロ動画を大量に観られてお得という事態にもなっている
日本の男が常に理想的なオカズで金玉を空っぽにしていて、実在女性のリアルに対しては不能な状態になり、交際も結婚も、性交そのものが激減してほしい
そして日本人女性も出産の激痛に対してヨーロッパでは無痛分娩など措置がとられるのに日本では基本的に経産婦が下に見られるばかりで激痛が放置されることに怒り、生殖における男女の不平等に怒り、妊娠を避けてSnowManとかを推すだけになってほしい
そうやって滅びてほしいと思う
男性向けのAIのエロ動画やエロ画像と、YouTube・地上波の男性アイドルコンテンツで日本人が誰も生まれないようになってほしい