はてなキーワード: 煎餅とは
セルクマ用にまとめました。
「食材増田」というのは、初めにブクマがついた増田にid:sonzincさんがタグ付けしていたので、そのまま名乗らせてもらいました。
時は令和、空前の「ASMRスイーツ」ブームが最高潮!ザクザク食感とか、パキパキ割れる音とか、みんなが「五感で楽しむ」と「新しい体験」を求めてた20XX年。そんな中、東京の原宿、竹下通りに、マジで浮世離れした女の子が現れたんだって!ちょっと古めかしい鎧っぽい服に、なんかこう、優しくて芯の強い、超絶オーラをまとったお方。「え?外国人モデル?コスプレイヤー?」ってみんなが遠巻きにしながらも、その圧倒的な存在感に目を奪われてたらしい。
え?マジで?あのフランスを救った聖女で、「オルレアンの乙女」ジャンヌ・ダルク様!?ゲキヤバ!って歴史好きのギャルたちがスマホで速攻ググり始めた瞬間、その超絶健気なお方、もといジャンヌ様は、あたりをキョロキョロしながら呟いた。「ここは…シノンではない、か…?ずいぶんと賑やかで、しかし活気にあふれた場所ですわね。」って、マジで中世ヨーロッパからタイムスリップしてきたみたい!「マジありえん!」ってみんな心の中でツッコミつつも、その透き通るような瞳に、何か強い信念を感じてたらしい。
そんなジャンヌ様に、恐る恐る話しかけたのは、原宿でタピオカ飲み歩きしてる、流行最先端ギャル、ヒカリ。「あの…もしよかったら、何かお困りですか?」「…はい、少々。見慣れぬものばかりで、いささか戸惑っておりまする。」って、意外と丁寧な言葉遣い!ヒカリ、その純粋そうな雰囲気にちょっとキュンとしつつ、「アタシ、ヒカリ!原宿のことなら、何でも聞いて!ジャンヌちゃん、マジで可愛いから、アタシが案内してあげてもいいよ!」って、キラキラ笑顔で声をかけたんだって。
次の日、ヒカリに連れられて、ジャンヌ様は初めて現代の日本を体験!クレープとか、最新のファッションとか、マジで全てが新鮮!でもね、ジャンヌ様が一番興味を示したのは、街角のお煎餅屋さんで、観光客が美味しそうに食べてたもの。「…この、平たいお菓子は、何というものでございますか?ずいぶんと素朴で、しかし音が出ますわね。」って、マジ真剣な眼差し。ヒカリ、まさかの渋すぎるチョイスに驚きつつ、「あ~、これ、パリセン(パリパリのお煎餅)ですよ!割る時の音がめっちゃ気持ちいいんです!」って教えてあげたんだって。
ジャンヌ様、一口食べてみたら…「な、なんなのだ、この奥深き味わいは!?噛みしめるたびに響く、この心地よい音と、素朴な米の旨味…まるで、神の啓示を聞いた時のような、確かなる響きである!これこそ、わたくしが求める、真の糧よ!」って、マジで聖女っぽい表現で感動してたらしいよ。
そこから、ジャンヌ様のパリセン愛がマジで爆発!毎日色んなお煎餅屋さんを巡って、パリセンを使った料理やスイーツを食べまくってたんだって。「米の種類、焼き加減、味付け…研究しがいがありすぎる!」って、もはやパリセンマイスターレベル!
でね、ある日、ジャンヌ様、マジで天下取りの野望を語り出したの。「わたくしは、このパリセンをもって、再び天下を…とは言いませんが、この甘味の世界において、人々の心に確かなる『響き』を与え、真の『希望』をもたらすパフェを創造してみせましょうぞ!これこそ、わたくしが目指す、『啓示パフェ』よ!」って!
え?パリセンパフェで天下統一?しかも「啓示」とか!マジで壮大すぎる!でも、ジャンヌ様の「神の啓示を聞いた」っていう魂があれば、きっと何か成し遂げるに違いない!ってヒカリも思ったらしいんだけど、ジャンヌ様の目はマジだったんだって。戦乱の世を救った情熱が、令和のパリセンパフェに新たな戦場を見出したのかもね!
そっから、ジャンヌ様のパリセンパフェ天下統一計画がスタート!まずは、SNSで「#ジャンヌ・ダルクのパリセン啓示」ってハッシュタグ作って、毎日自作の超絶斬新だけど美味しいパフェの画像をアップし始めたんだって。その奇抜すぎる見た目と、ジャンヌ様の哲学的なコメントが、一部のASMR好きギャルや、個性派の人たちの中でじわじわバズり始めた!
SNSはジャンヌ様のパリセン愛でじわじわ盛り上がり!しかも、ジャンヌ様、ただ作るだけじゃなくて、全国各地の珍しいお煎餅や、パリセンに合う最高のフルーツやクリーム、そして日本の伝統的な甘味料を探し求めたり、甘さと塩味、そしてパリセンの「調和」を追求したり、マジでストイック!「天下のパリセンパフェ」を目指して、日々試行錯誤を繰り返してたんだって!
で、ついに!ジャンヌ様は、渋谷のど真ん中に、自分のプロデュースするパリセンパフェ専門店「JEANNE D'ARC PARFAIT - 聖なる響き - 」をオープンさせちゃったの!お店の内装も、フランスの教会をイメージした、豪華絢爛ながらも厳かなデザインで、ジャンヌ様の美意識と信念を表現。店員さんも、騎士風のモダンなユニフォーム着てて、マジでクール!
オープン初日から、異色グルメ好きギャルや、好奇心旺盛なインフルエンサー、そして日本の伝統文化に興味を持つ人々まで、行列を作って押し寄せた!「SNSで話題のパリセンパフェ、マジで挑戦してみたい!」「ジャンヌ様って、なんかカリスマ!」って、新しいファンが続々!でね、一口食べたら、みんなその奥深い味わいにハマっちゃうらしい。「うわっ、最初はビビったけど、甘いのにパリセンの食感と音が最高!」「食べた後、なんか心が清められる気がする!」「ジャンヌ様、マジで神!」って、賛否両論ありつつも、リピーターが続出!口コミが広まりまくって、JEANNE D'ARC PARFAIT - 聖なる響き - はあっという間に人気店になっちゃったの!
しかもね、ジャンヌ様、ただお店やってるだけじゃないんだよ!定期的に店内で、自らパフェの「哲学」について熱弁したり、パリセンの歴史を語る「啓示パフェ会」を開催したり、マジで独自のスタイルでエンタメ業界を盛り上げようと奮闘してるんだって!
テレビや雑誌の取材も殺到!「令和のジャンヌ・ダルク」「パリセンパフェの聖女」とか呼ばれて、マジで時の人!ジャンヌ様の強烈な個性と、パリセンパフェの斬新な組み合わせが、新たなブームを巻き起こしたんだね!
でさ、最終的にどうなったかって?もちろん!ジャンヌ様のパリセンパフェは、全国のスイーツ好きに愛される定番メニューになったんだって!お取り寄せスイーツとしても人気が出て、全国のコンビニやスーパーでも「ジャンヌ印の啓示パフェ」が発売されるほどに!まさに、パリセンパフェでスイーツ界に新たな旋風を巻き起こし、天下を獲った!マジですごすぎ!
あの時、原宿の街に静かに佇んでいた聖女が、令和の時代にパリセンパフェで新たな道を切り開くなんて、マジで誰も想像してなかったよね!まさに、神の啓示がパリセンの音に変わり、新たな伝説を創り出した瞬間!
ヒカリも、「まさかジャンヌちゃんが本当にパリセンパフェでこんなに有名になるなんて!アタシ、マジで感動して泣いた!」って、号泣してたらしいよ。
ジャンヌ様は今も、さらなるパリセンパフェの可能性を追求して、日本全国を旅しているらしい。「わが啓示の道に、終わりはございません!」って、マジでストイック!
こうして、ジャンヌ・ダルクは、令和の日本で、パリセンパフェという新たな武器を手に入れ、見事、スイーツ界で唯一無二の地位を築いた!天下統一…ではないかもしれないけど、その強烈な個性と哲学は、多くの人々の心に深く刻まれたはず!めでたしめでたし…ってことで、マジでゾクゾクする衝撃的な物語、完全燃焼したわ!パリセンパフェ、マジ卍!
日米関税交渉が一段落した。もう終わったのでただの復習になってしまうが、合意内容の「米国産米の輸入枠拡大」などで勘違いをしている人がいるのでこれまでの日本の米に関する関税政策を整理しておこう。
まず、戦後の日本政府は米を含む農産品の自由化をしたくなかった。海外産の米と価格競争したら農業政策の根幹の農家保護が崩れてしまう。
敗戦で台湾、朝鮮半島、満州から大量の引揚者が戻ってきたが、この人らも農業で吸収するつもりだった。八郎潟の干拓もそうだし、成田空港問題の元の三里塚も引揚者に開墾させた土地だった。「先祖代々の土地じゃないから収用しても農地への執着は少ないだろう」とか思っちゃったのだな、国は。実際は死ぬ思いで引揚てきて(実際は思いどころか仲間は大勢ソ連に殺されてる)、ゼロから開墾したので猛烈に土地に執着があったんだな。
兎に角、米農家の安定は戦後農政の根幹であり、尚且つ自民党の岩盤支持者だから絶対解放したくない。
WW2戦後、ブロック経済が形成された事がドイツ、日本を中心とした国を経済的に圧迫して生存圏主張→戦争に至ったので、国連はGATTを発足させて関税をはじめとした先進国同士の貿易障壁を取っ払っていこうという事になった。それで工業産品の関税はどんどん撤廃されていった。
日本は焼野原のどん底からの再スタートなので復興後にこの流れに合流した。
さてそれで1986年からGATTウルグアイラウンドがスタートする。歴史とか政治経済の授業でウルグアイラウンドの名前は聞いた事あるだろうけど、それはこのラウンドが現在の状況を決定づけた重要なものだからだよ。
ウルグアイラウンドではサービスや農業の自由化を目指したのだが、これが全然まとまらない。どの国も農業の解放はイヤだったからだ。どの国も日本と同じ農政環境で、農家を不安定にさせたくない。
そもそも工業は家庭内手工業→問屋制→資本化と進んできたのに対し、農業は領地→プランテーション(資本化)→個人経営農家+農協という風な流れなので自由化すると元の搾取構造を復活させる危険もあるワケ。共産主義がまだ死んでなかった時代はプランテーションの搾取構造が革命の原因にもなっていたわけで。
だからそういう構造の違いを無視して自由化をゴリ押しするのはグローバリズムがイデオロギー化してる証左だ!という批判も出てきた。
そのようなわけでウルグアイラウンドは完全紛糾。
2.品目毎にミニマムアクセス(最低輸入量)を設定して各国はその量までは無関税か低関税で輸入しなければならない
これで、各国はそれまでの輸入禁止措置は出来なくなった。更に低関税か無関税で一定数の農産品を輸入しなければならなくなった。
そのミニマムアクセスの輸入量は国内消費量から計算されて、最初は4%。毎年その枠を上げていって最終的には8%まで上げる。
ただ、ミニマムアクセスを超えた分には高関税を掛ける事が出来るから価格競争に晒される分は4~8%でしかない。あと、自由化と言ったって生モノなので輸送時間とコストから競争にならないものもある。例えば日本であればモヤシやトマトを外国から海運するのは無理があるわな。
そういう訳で、ウルグアイラウンドの結果ミニマムアクセスなどが定められたが、それは自由化に反対する国が多くて妥協に妥協を重ねた結果であるってこと。
ミニマムアクセスが定められても、輸入量が伸びなければミニマムアクセス量に届かない場合も多々あある。そういうのは別に放っておいてもいい。
でも米の場合は多分そうはならずに市場価格に影響を及ぼしそうだ。
そこで日本政府はミニマムアクセス枠の米を全て買付けして枠を最初から押さえてしまう事にした。だから無関税で米を輸入できる民間業者は居ない。
更に、このMA米は一粒も市場に流さずに、全量を食品メーカー、飼料メーカーに売り払う。お煎餅とか柿の種とか味噌、醤油の原料になってるってことだね。あと日本酒。米菓や醤油、味噌、日本酒は日本的な食品だけど、メーカーによってはアメリカやタイ、中国の米が原料なのだ。
実際は商社系の問屋に卸してメーカーに販売という形をとってて、伊藤忠、丸紅、日本通運、神明の4社が長期契約してる。中小メーカーや酒蔵メーカーはそこから買う以外に月例販売という形で入札している。
このMA米の量なんだが、最初は42万トン、前述の通り増やしていって今は77万トンとなっている。
というわけで、これは実際は自由化を押し付けられたのに国家貿易と統制経済をやっているというのが輸入米の内のMA米の実情なのだ。共産主義の統制経済のこと知ってる人なら、中国鄧小平前やソ連の計画経済の輸入公社に似てるな、と思うかも知れない。外国通貨が国内計画経済に影響を与えないように必ず国家が間に入るのとかそっくりだ。
MA枠を超えた部分の関税率は341円/1kgという高関税をかけている。因みに関税計算もMA枠も玄米が基準になってる。玄米を精製すると1割消える。だからカルロース米5kgは玄米だと5.55kg、これには関税が1894円かかってるってことやね。2800円だと67%が関税ってことやね
今回の日米合意はこのMA米の枠もMA枠を超えた分の関税率もいじらず、その枠内での米国産米の比率を増やすという合意になっている。
だけど海外的にはちょっと問題ある。タイや中国、豪州から一定数買うという事になってるわけで、そっちに影響出るのではないか?特にタイは日本が米騒動になる度に大量に輸入していて、その度に悪影響を与えている。
生産者や政府には金が入るから良いだろうが消費者としては市場から米が消えて高騰するのだからやってられない。って訳でその度に迷惑をかけているのでまたしわ寄せ行くのではないかと今回も心配するところだ。
あと、MA枠では一般的なうるち米の他、餅米もタイから輸入して食品メーカーに売り払っている。おかきとかああいう米菓に使用される。
アメリカ米に枠を取られて餅米が減ると、おかきなどの原料費が上がるかもしれない。
・MA枠はGATTウルグアイラウンドで決まったが農産品自由化が紛糾した苦肉の妥協策
・米のMA枠は政府が全量買いして加工原料として売り払っている
・今回の交渉では日本側はウルグアイラウンドで定められたMA枠を超えて低関税で輸入せよという要求に抗った
・MA枠内でのアメリカ産米の比率を上げて輸入量増やすことで合意した
・普通は輸出国比率を自由にいじる事は出来ないが実質国家貿易なので可能
アメリカ政権側はどうせ国際取決めもMAと関税の関係とかも分かってないだろうし「増やします」と言われて日本側を屈服させたと考えているのかも。頭ハッピーセットでよろしいことである。
2025年7月9日 syrup16g TOUR 2025 〜孤毒の百年〜@恵比寿The Garden Hall
いつも通りの読む価値ゼロの個人的健忘録です。レポらしいレポじゃないのであしからず…。
このライブの前に何か色々あって(察して欲しい)テンション下がってたんだけど(あと少し前にいったバインのライブが素晴らし過ぎたのもある…)これで暫くレミゼの曲も聴き納めかもだし気合い入れ直して行ってきました。
恵比寿ガーデンホールって初めて行ったんだけど、だだっ広い体育館みたいな本当にフラットな作りで驚いた。とりあえずマキさん側に行って待機(ステージ暗くてどの辺りがポジション的にマキさんが見えるのか全然分かんなかった)会場の暑さなのか何なのか分からないけど開演前に人が倒れた(その時は気が付かなかったけど最前列に居た方だったそうで…)り、開演直後(演奏前)に人が倒れたり(すぐに意識?取り戻したっぽい。五十嵐さんも大丈夫?って言ってた)途中で隣に立ってた方が抜けてったりアンコールでまた人が倒れたりして心配になった…。正直空調あまり効いてない感じだったし皆身体には気を付けて欲しい…。
メンバーが出てきて五十嵐さんがめちゃくちゃ良く見えるポジションだと初めて気づく…。マキさんも見えない訳じゃないけど…中畑さんは全く見えず(これは背が低いので想定済み)この機会に沢山五十嵐さんを見ました。本当に過去1ぐらいちゃんと見た笑 五十嵐さんのヘロヘロWピース(うつむき加減)見ると五十嵐さんだな…って思う(この感じ伝わって欲しい)
一曲目聴いて思ったけど、中畑さんの気合いがバキバキに入ってる。初っ端から迫力すごい。五十嵐さんの声の具合いも少し心配だったけど(連日ライブやってるので…)しっかり出てる印象。この日、全編通して中畑さんの気迫がすごかった。
不眠症…!?!?大好きな曲なので聴けて嬉しい!!中畑さんのドラムめちゃくちゃに良いな…!!転調の部分、いつ聴いても好きだしマキさんのベースも気持ち良い…。最高です…。
Don't〜、マキさんの運指が見えず残念…。と言うか五十嵐さんしかちゃんと見えてないのだが、こうして見ると本当に一生懸命弾いて歌ってくれてるんだなぁと思うなど…(失礼な感想だけど…)曲の完成度高くて聴いてて気持ち良い。
Alone〜、ツアー中ずっと気になってたんだけど「そして今夜もDance alone 中」の「中」の所、めっちゃ「ちゅ〜〜」って歌うなぁと思った笑
診断書、本当に好き!!大好き!!いつも1人だけ異様に盛り上がっている…(特に盛り上がる曲でもないのは分かってるけど…)診断書のドラム、めちゃくちゃカッコ良かったなぁ。
Dinosaur、やっぱバンド的お気に入り曲なのかな?めちゃくちゃ気合い入ってて完成度高かった。マキさんのベース本当にカッコ良い。曲自体がツアーを重ねて進化してる感じがして本当に嬉しい。シロップのライブでそれを感じられる事への喜びがある。
ex.人間。ヘルシー縛り!?と言うかダイマスさんの宣言通り(ニコ生)お蕎麦屋さんやったね…笑 マキさんもハモってた!!マキさんと五十嵐さん2人だけ(きてるね のってるねの所だったかな?)の所あって心の中で大興奮。マキさんも中畑さんもハモリが上手い。 ツアー終盤の昔の曲は喉が心配にもなる…。ギターの出だしミスしてやり直ししたんだけど、曲が終わってから最初のミスした部分を弾きながら「あー!!次来てくれた時はちゃんとやるんで…って毎回言ってますね…すみません…」って悔しそうにしてて良いんやで…って思った。五十嵐さんが一生懸命歌って弾いてくれてるのは充分伝わってるので気にしないでね…って心の中で思った。
うつしてめちゃくちゃ好きなので耳に焼き付けようと思って歌に集中した。この曲とにかくギターが難しいから原曲を追い求めるのは違うと思ってるけど、ラストのギターソロ、私が行った公演の中でも群を抜いて素晴らしくて胸が一杯になった…。最後あーなたのーの所、あーって伸ばして歌うのめちゃくちゃ良いよね…。
In My〜お煎餅屋の所、歌詞微妙に噛んだのか飛んだのかモニョモニョしてて笑ってしまった。
In The Air〜、本っっっ当に好き!!1人だけ頭を振り乱し爆盛り上がり。この曲こそ手をあげて盛り上がる曲では!?何度も書くけどこの曲の中畑さんのドラム最高…。マキさんのベースもカッコ良い…。
ソドシラソ…!?!?また好きな曲が…!?嬉しすぎる!!当時の無茶苦茶なシロップが感じられる歌詞がすごく好き。どうにでもなれ!!って感じが全面に出てるのが良い。「歌うたって 稼ぐ 金を取る」からの下りが特に好き…。この曲のドラム気合い入っててカッコ良かった〜!あとギターソロ、素晴らしかったです…感動しました…。
新緑、照明が緑になってるのこの日初めて気づいた(?)かも。めちゃくちゃ緑だった笑 この辺りから何故か中畑さんがよく見えたんだけど(多分前の方の人が少しずつ移動してる)この曲の時本当にニコニコしてるなぁ。
レミゼ、照明が明るくなるのが曲の雰囲気に合ってて好き。本当に良い曲だなぁと聴く度に思う。五十嵐さんのソングライティングセンスが全面に現れた素晴らしい曲。そう思える曲を過去曲じゃない新しい曲で聴かせてくれるの感謝しかないなと思う。
vampire's store、五十嵐さんだけで出てきて弾いてた時に何回もステージ袖ちらちら見ててこっちがハラハラしたので笑 中畑さん早く出てきてあげて…と思ってしまった笑 新しい曲で盛り上がるの良いね。どんどんこう言う感じになって欲しい。マキさんが出てきた時「マキリン登場!」みたいな感じの事を言っていて頑なにマキリン呼び続ける五十嵐さん、笑う。私は二度とマキリンとは呼べません…(と言うかもうずっと呼んでないけど…)
Deathparede、めちゃくちゃカッコ良かった。サビの所のSo many deathの前の伸ばす所、中畑さんの声大き過ぎて五十嵐さんの声かき消されてたの笑った。しかも中畑さんの方がめちゃくちゃ声伸びる笑 中畑さんの気迫が伝わってきてこっちもテンション上がった。
Stop brain、大好きなのでこのツアーで沢山聴けて嬉しかった。マキさんのベースが大好きな曲。この曲、声が結構厳しそうだからツアー最後まで歌いきれるのかなって思ってたけどすごく良かった。また1人だけめちゃくちゃ盛り上がっていた…。
正常…!?!?驚きと喜びが隠しきれなくてふぁ〜!!ってなってたら前にいた人に振り返えって見られてしまった。声出してないしマスクしてたのに…多分無意識にめちゃくちゃリアクションしてた…恥。 正常、めっっっちゃカッコ良かった…!!!メンバーも気合い入ってるの伝わってきて更にテンション上がる。最後のマキさんのベース、いつ聴いても美し過ぎてずっと演奏してくれ…って思ってしまう。あと歌がね、めちゃくちゃ良かったです…。この曲一曲だけでも来て良かった…って思った。
五十嵐さんが「おじさんは疲れたので…この一曲で終わります…」って言ってて笑った。4月のシャイボーイで中畑さんがニコニコしながら五十嵐さん指さすの何か良いなって毎回思う。シャイボーイって事??(違)最後五十嵐さんがマキさんのマイクで「ありがとう」って言ってはけていった。
客電完全について帰ってく人もいたけど、絶対用意してると確信してたので粘ってたら割とすぐ出てきた笑 出てきた時にマキさんが前に出てきてお客さん煽った時に反射的にはしゃいでしまい恥…。だって、マキさんに煽られたらテンション上がっちゃいますよね…!?その後のマキさんのベースがかっこよすぎてバカでかボイスで「カッコいい!!」って言ってしまって恥2回目。本当に無意識に口から出てしまった…。
最後は落堕。いや、本当この曲完成度高くてヤバい(語彙力なくした感想)桁違いに完成度が高い。中畑さんの咆哮にテンション上がらない人いるのかな?とにかくマキさんがカッコ良くて頭ブンブン勢になってしまった。最後の辺りの演奏、ちゃんとアレンジと言うか演奏に工夫が見られる所が今のシロップを見せてくれてる感じがして大好き。
全て終わってアナウンス入った後に皆で拍手して終わるのとっても良いなっていつも思う。
以下、MCなどの覚え書き。
·中畑さんが何度もありがとう、楽しいって言ってくれてそれはこちら側の台詞だよ〜!!って思った。あと割と何度も辛くないですか?って聞いてくれてた。
·中「(会場が)一杯だ〜ありがとう」五「こんな事、おかしい…!!(人が集まってる事に関して笑)」中「ありがたいよねぇ…ありがとう」中「ありがとうって言葉にするのは簡単だけど…ありがとうじゃ足りないよね」五「うん」中「その分演奏でお返し出来たら…」
·中「シロップの曲が好きで……シロップの曲が好きだから………何て言おうとしたんだっけ?」五「ん!?笑」中「シロップの曲が好き、シロップの曲を叩くのが好きなんです」五十嵐さん目を瞑って両手を胸に当てて嬉しい感じを出す。中「シロップの曲を叩くのが好きなので一生懸命叩きます」
この一連の会話、本当〜に感動して泣くかと思った…。中畑さんがいてくれたらシロップは安心だなって思えたし、当たり前(?)だけどずっとシロップのドラマーでいて欲しい…。
·辛い人いませんか?って中畑さんが聞いた時にマキさんがすっと真っ直ぐ手を上げてて笑った。中「キタダさんだけですね笑」って笑ってた。
·いきなり鼻をかみだす五十嵐さん。その音がめちゃくちゃマイクに入ってて笑う。「すみません」って言ってた笑
上でも書いたけどここ最近、何やかんやあっていまいちモチベーション上がらなかったけど、この日ライブを観てやっぱり私はsyrup16gの楽曲が好きだしsyrup16gと言うバンドが大好きだなと思った。私は私の好きを大事にしてこれからも彼らの活動が見れたら良いんだって思えた。何より五十嵐さんが一生懸命、精一杯歌って弾いてくれてるのが分かって嬉しかった。この言い方合ってるのか分からないけど、上手いとか上手くないとかは置いといて彼らにしか鳴らせない音楽があるなと改めて感じた。あと今回のツアーで五十嵐さんがちゃんと自分の喉に配慮してコントロールしながらライブをやってる姿に感動(?)を覚えた。
久しぶりのツアー、セットリストがレミゼの曲主体で組まれてて私は本当に嬉しかった。ずっともう一度レミゼの曲を生で聴きたいと思ってたので…。今回名古屋、大阪、追加の恵比寿と3カ所行って、それぞれの会場でしか観れないシロップが観れたのも良かった。恵比寿ではマキさんのベースに工夫と言うかアレンジがあったり、曲の入り方や繋ぎ方に工夫があって「バンド」って感じがしてとっても良かった。全てを曝け出して今を演奏するsyrup16g、バンドが生きてるなって思った。まだシロップを見続けたいので健康第一で身体を大切にしてこれからも活動していって欲しいと強く思う。
1.I Will Come(before new down)
2.明かりを灯せ
3.不眠症
4.Don't Think Twice(It's not over)
5.Alone In Lonely
6.診断書
7.Dinosaur
12.ソドシラソ
13.新緑のMorning glow
14.Les Mise blue
En.1
1.vampire's store
2.Deathparede
3.stop brain
En.2
1.正常
En.3
1.落堕
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱
一
辺鄙な、村はずれの丘には、いつの間にか、華やかな幕を沢山吊るした急拵ごしらえの小屋掛が出来て、極東曲馬団の名がかけられ、狂燥なジンタと、ヒョロヒョロと空気を伝わるフリュートの音に、村人は、老おいも若きも、しばし、強烈な色彩と音楽とスリルを享楽し、又、いつの間にか曲馬団が他へ流れて行っても、しばらくは、フト白い流れ雲の中に、少年や少女の縊くびれた肢体を思い出すのである。
トテモ華やかな、その空気の中にも、やっぱり、小さな「悩める虫」がいるのだ。
一ノ二
親方は、野卑な言葉で、そう呶鳴どなると、手に持った革の鞭で、床をビシビシ撲りつけながら、黒吉くろきちを、グッと睨みつけるのだった。
「済みません、済みません」
そんな事を、呟くようにいうと、ぼろぼろに裂けた肉襦袢じゅばんの、肩の辺を擦さすりながら、氷のように冷めたい床の上に、又無器用な体つきで、ゴロンゴロンと幾度も「逆立ち」を遣り直していた。
饑ひもじさと、恐ろしさと、苦痛と、寒気と、そして他の座員の嘲笑とが、もう毎度の事だったが、黒吉の身の周りに、犇々ひしひしと迫って、思わずホロホロと滾こぼした血のような涙が、荒削りの床に、黒い斑点を残して、音もなく滲しみ込んで行った。
鴉からす黒吉。というのが彼の名前だった。しかしこれは舞台だけの芸名か、それとも本当の名前か、恐らくこれは字面じづらから見て、親方が、勝手につけた名前に違いないが、本名となると彼自身は勿論の事、親方だってハッキリ知っているかどうかは疑わしいものだった。
黒吉自身の記憶といっては、極めてぼんやりしたものだったけれど、いたましい事には、それは何時も、この曲馬団の片隅の、衣裳戸棚から始まっていた。
それで、彼がもの心のついた時からは、――彼の記憶が始まった時からは、いつも周囲には、悲壮なジンタと、くしゃくしゃになったあくどい色の衣裳と、そして、それらを罩こめた安白粉おしろいの匂いや、汗のしみた肉襦袢の、ムッとした嗅気が、重なり合って、色彩っていた。
こうした頽廃的な雰囲気の中に、いつも絶えない、座員間の軋轢あつれきと、華やかな底に澱む、ひがんだ蒼黒い空気とは、幼い黒吉の心から、跡形もなく「朗らかさ」を毟むしり取って仕舞った。そして、あとに残った陰欝な、日陰の虫のような少年の心に、世の中というものを、一風変った方向からのみ、見詰めさせていた。
彼は用のない時には、何時も、太い丸太が荒縄で、蜘蛛の巣のように、縦横無尽に張りまわされている薄暗い楽屋の隅で、何かぼんやり考えこんでいた。それは少年らしくもない憂欝な、女々しい姿だった。
「オイ、こっちへこいよ」
と声をかけられるのを恐れているように見えた。
他の少年座員達は、誰も、この憂欝な顔をした、芸の不器用な、そして親方におぼえのよくない黒吉と、進んで遊ぼうというものはなかった。(それは恐ろしい団長への、気兼ねもあったろうが)寧ろ彼等は、黒吉の方から話しかけても、決して色よい返事は、しないように思われた。
結局、黒吉はそれをいい事にして、独りぽつねんと、小屋の隅に忘れられた儘、たった一つ、彼に残されたオアシスである他愛もない「空想」に耽っていた。
一ノ三
憂欝な少年黒吉が、何を考えているのか。
――その前に、彼が、なぜ親方のおぼえが悪いのだろうかという事をいわなければならない。
(それは、彼の憂欝性にも、重大な影響のある事だから)
黒吉は、どう見ても、親方の「お気に入り」とは思えなかった。それは、勿論彼が、芸の未熟な不器用だった事も、確かにその原因の、一つだったけれど、他の大きな原因は、彼が醜い容貌だ、という先天的な不運に、禍わざわいされていたのだった。
男の子の容貌が、そんなにも、幼い心を虐しいたげるものだろうか――。
如何にも、舞台の上で生活するものにとって、顔の美醜は非常に大きなハンデキャップなのだ。彼の同輩の愛くるしい少年が、舞台で、どうしたはずみか、ストンと尻もちをついたとしたら、観客は
「まあ、可哀そうに……あら、赤くなって、こっちを見てるわ、まるで正美さんみたいね」
そういって可愛い美少年は、失敗をした為に、却って、観客の人気を得るのだ。けれど、それに引きかえて、醜い顔だちを持った黒吉が、舞台でそれと同じような失敗をしても、観客は、何の遠慮もなく、このぎこちない少年の未熟さを嘲笑うのだった。
この観客にさえ嗤わらわれる黒吉は、勿論親方にとって、どんなに間抜けな、穀潰ごくつぶしに見えたかは充分想像が、出来るのだった。従って、黒吉に対する、親方の仕打ちがどんなものだったかも――
(俺は芸が下手なんだ)
(俺は醜い男なんだ)
薄暗い小屋の片隅で、独りぽつんと、考えこんでいる黒吉は、楽しい空想どころか、彼の幼い心には、この二つの、子供らしくもない懊悩が、いつも吹き荒すさんでいるのだった。
そして、それは彼の心の底へ、少年らしい甘えた気持を、ひた押しに内攻して仕舞って、彼を尚一層、陰気にする外、何んの役にもたたなかった。冷たい冷たい胸の中に、熱いものは、ただ一つ涙だけだった。
こうした雰囲気の中に、閉じこめられた鴉黒吉が、真直に伸びる筈はなかった。
――そして、蒼白い「歪んだ心」を持った少年が、ここに一人生成されて行った。
世の中の少年や少女達が、喜々として、小学校に通い始めた頃だろうか。勿論黒吉には、そんな恵まれた生活は、遠く想像の外だった。
しかし、この頃から黒吉は、同輩の幼い座員の中でも、少年と少女とを、異った眼で見るようになって来た。
「何」という、ハッキリした相違はないのだが、女の子に莫迦にされた時には、不思議に男の子に罵られたような、憤りは感じなかったのだった。寧ろ、
(いっそ、あの手で打ぶたれたら……)
と思うと、何かゾクゾクとした、喜びに似た気持を感じるのだ。
これが何んであるか、黒吉は、次第に、その姿を、ハッキリ見るようになって来た。
一ノ四
安白粉の匂いと、汗ばんだ体臭と、そして、ぺらぺらなあくどい色の衣裳が、雑巾のように、投げ散らかされた、この頽廃的な曲馬団の楽屋で、侮蔑の中に育てられた、陰気な少年の「歪んだ心」には、もうませた女の子への、不思議な執着が、ジクジクと燃えて来たのだ。
――そして、それを尚一層、駆立てるような、出来事が起った。
それは、やっと敷地に小屋掛けも済んで、いよいよ明日から公開、という前の日だった。
団長は、例の通り、小六ヶ敷こむずかしい顔をして、小屋掛けの監督をしていたが、それが終って仕舞うと、さも「大仕事をした」というような顔をして、他のお気に入りの幹部達と一緒に、何処か、遊びに出て行った。
団長の遊びに行くのを、見送って仕舞うと、他の年かさな座員や、楽隊ジンタの係りの者なども、ようやくのびのびとして、思い思いの雑談に高笑いを立てていたが、剽軽者ひょうきんものの仙次が、自分の役であるピエロの舞台着を調べながら
「オイ、親父おやじが行ったぜ、俺の方も行こうか」
恰度それが、合図でもあったかのように、急に話声が高くなった。
「ウン、たまには一杯やらなくちゃ……」
「ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か」
「ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ」
「いやじゃねエよ」
「ハハハ、五月蠅うるせえなア」
と、如何にも嬉しそうに、がやがや喋りながら、それでも大急ぎで支度をして、町の中に開放されて行った。
そして、何時か、このガランとした小屋の中には、蒲団ふとん係りの源二郎爺さんと、子供の座員だけが、ぽつんぽつんと取り残されていた。子供の座員は、外出を禁じられていた。それは勿論「脱走」に備えたものだった。その見張りの役が、今は老耄おいぼれて仕舞ったが、昔はこの一座を背負って立った源二郎爺じじいなのだ。
結局、幼い彼等は、小屋の中で、てんでに遊ぶより仕方がなかった。
男の子は男同志で、舞台を駈廻り、女の子は女らしく、固かたまって縄飛びをしていた。――そして、黒吉は、相変らず小屋の隅に、ぽつんと独りだった。
しかし、何時になく、黒吉の眼は、何か一心に見詰めているようだ。
(この憂欝な、オドオドした少年が、一生懸命に見ているものは、何んだろう)
誰でも、彼の平生を知っているものが、この様子に気付いたならば、一寸ちょっと頸をかしげたに相違ない。そして、何気なくこの少年の視線を追って見たならば、或はハッと眼を伏せたかも知れないのだ。
黒吉の恰度眼の前では、少女の座員たちが、簡単服アッパッパを着て、縄飛びをしていた――。しかし彼の見ているのは、それではなかった。この少女達が、急いきおいよく自分の背丈せい位もある縄を飛んで、トンと下りると、その瞬間、簡単服アッパッパのスカートは、風を受けて乱れ、そこから覗くのは、ふっくりとした白い腿だった――。
(十やそこらの少年が、こんなものを、息を殺して見詰めているのだろうか――)
そう考えると、極めて不快な感じの前に何か、寒む寒むとした、恐ろしさを覚えるのだ。
しかし、尚そればかりではなかった。
二
この憂欝な少年の心を、根柢から、グスグスとゆり動かした、あの「ふっくりとした白い腿」がたえまなく、彼の頭の中に、大きく渦を捲いて、押流れていた。
やがて、その心の渦が、ようやく鎮まって来ると、その渦の中から、浮び上って来たのは、この一座の花形少女「貴志田葉子きしだようこ」の顔だった。
だが、それと同時に、黒吉は、いきなり打ち前倒のめされたような、劇しい不快な気持を、感じた。
(ちえッ、俺がいくら葉ちゃんと遊ぼうったって、駄目だい。俺は芸が、下手くそなんだ。それに、あんな綺麗な葉ちゃんが、俺みたいな汚い子と遊んでくれるもんか……)
だが、この少年の心の底へ、しっかり焼付られた、葉ちゃんへの、不思議な執着は、そんな事ぐらいでは、びくともしなかった。寧ろ
(駄目だ)
と思えば思う程、余計に、いきなり大声で呶鳴ってみたいような焦燥を、いやが上にも煽立あおりたてているのだ。
――この頃から、彼のそぶりは、少しずつ変って来たようだった。それはよく気をつけて見たならば、相変らず小屋の片隅に、独りぽっちでいる黒吉の眼が、妙な光を持って来たのに、気がついたろう。そして、その時は彼の視線の先きに必ず幼い花形の、葉子が、愛くるしい姿をして飛廻っていたのだ。
葉子は、まだ黒吉と同じように、十とう位だったが、顔は綺麗だし、芸は上手いし、自由な小鳥のように朗らかで、あの気六ヶ敷い団長にすら、この上もなく可愛がられていたから、この陰惨な曲馬団の中でも、彼女だけは、充分幸福なように見えた。
そして、勿論、この陰気な、醜い黒吉が、自分の一挙一動を、舐めるように、見詰めているとは気づかなかったろう。
黒吉自身は、彼女が、自分の事など、気にもかけていない、という事が「痛しかゆし」の気持だった。無論彼女に
「こっちへいらっしゃいよ」
とでも、声を掛けられたら、どんなに嬉しい事だろう。――しかし、その半面
「だらしがないのねエ、あんたなんか、大嫌いよ」
といわれはしまいか、と思うと、彼女に話かけるどころか葉子が、何気なくこっちを見てさえ、
(俺を嗤うんじゃないか)
こうした感じが、脈管の中を、火のように逆流するのだ。それで、つと眼を伏せて仕舞う彼だった。
黒吉は、自分でさえ、このひねくれた気持を知りながら、尚葉子への愛慕と伴に、どうしても、脱ぎ去る事が、出来なかった。
×
思い出したように、賑やかなジンタが、「敷島マーチ」を一通り済ますと、続いて「カチウシャ」を始めた。フリュートの音が、ひょろひょろと蒼穹あおぞらに消えると、その合間合間に、乾からびた木戸番の「呼び込み」が、座員の心をも、何かそわそわさせるように、響いて来た。
「さあ、葉ちゃんの出番だよ」
「あら、もうあたしなの、いそがしいわ」
「いそいで、いそいで」
葉子は周章あわててお煎餅せんべいを一口齧かじると、衣裳部屋を飛出して行った。
恰度、通り合せた黒吉は、ちらりとそれを見ると、何を思ったのか、その喰たべかけの煎餅を、そっと、いかにも大事そうに持って行った。
二ノ二
葉子が、喰いかけて、抛り出して行った煎餅を、そっと、拾って来た黒吉は、座員達が、こってりと白粉を塗った顔を上気させながら、忙しそうに話し合っている所を、知らん顔して通り抜けると小屋の片隅の、座蒲団が山のように積上げられてある陰へ来た。
黒吉は、経験で、舞台が始まると、こんなところには、滅多に人が来ない事を知っていた。
それでも、注意深く、あたりに人気のないのを見澄ますと、こそこそと体を跼かがめながら、いまにも崩れそうに積上げられた座蒲団の隙間へ、潜り込んで行った。
その隙間は、如何にも窮屈だったが、妙にぬくぬくとした弾力があって、何かなつかしいもののようであった。黒吉はやっと※ほっ[#「口+息」、16-9]とした落着きを味わいながら、あの煎餅のかけらを持ち迭かえると、それがさも大切な宝石でもあるかのように、そーっと手の掌ひらに載せて見た。
そう思うと、つい頬のゆるむ、嬉しさを感じた。……大事に大事にとって置きたいような、……ぎゅっと抱締めたいような――。
黒吉は、充分幸福を味わって、もう一遍沁々と、薄い光の中で、それを見詰めた。こうしてよくよく見ると、気の所為せいか、その一かけの煎餅は、幾らか湿っているように思えた。
気をつけて、触ってみると、確かに、喰いかけのところが一寸湿っていた。
黒吉の、小さい心臓は、この思わぬ、めっけものにガクガクと顫えた。
彼は、いくら少年だとはいえ、無論こんな一っかけの煎餅を、喰べたいばかりに、拾って来たのではなかった。黒吉には「葉子の喰べかけ」というところに、この煎餅が、幾カラットもあるダイヤモンドにも見えたのだ。
しかし、触って見ると、このかけらは湿っている……
(葉ちゃんの唾だな)
その瞬間、黒吉の頭には、衣裳部屋で、葉子が忙しそうにこの煎餅を咥くわえていた光景と、それにつづいてクロオズアップされた、彼女の、あの可愛い紅唇くちとが、アリアリと浮んだ。
それと一緒に、彼は、思わずゴクンと、固い唾を飲んだ。
黒吉は、妖しく眼を光らせながら、あたりを偸ぬすみ見ると、やがて、意を決したように、その葉子の唾液つばきで湿ったに違いない煎餅のかけらを、そっと唇に近づけた……。
(鹹しょっぱい――な)
これは、勿論塩煎餅の味だったろう。だが、黒吉の手は、何故かぶるぶると顫えた。
彼の少年らしくもない、深い陰影かげを持った顔は、何時か熱っぽく上気し、激しく心臓から投出される、血潮は、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをひくひくと波打たせていた。
そして、もう手の掌に、べとべとと溶けて仕舞った、煎餅のかけらから、尚も「葉子の匂い」を嗅ぎ出そうと、総てを忘れて、ペロペロと舐め続けていた……。
「こらっ。何をしてるんだ、黒公」
ハッと気がつくと、蒲団の山の向うから、源二郎爺の、怒りを含んだ怪訝な顔が、覗いていた。
「出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ」
「ウン」
黒吉は、瞬間、親方の顔を思い出して、ピョコンと飛起きた。そして、ベタベタと粘る手の掌を肉襦袢にこすりこすり、周章あわてて楽屋の方へ駈けて行った。
二ノ三
黒吉は、命ぜられた、色々の曲芸をしながらも、頭の中は、いつも葉子の事で一杯だった。
これが、彼の歪められた心に発生わいて来た、たった一つの望みだった。
彼がもっと朗らかな、普通の子供であったならば、いつも同じ小屋にいる葉子だもの、そんな事は、造作なく実現したに違いない。
しかし、それにしては、黒吉は、余りに陰気な、ひねくれた少年だった。――というのも、彼の暗い周囲がそうさせたのだが――。
そして、早熟ませた葉子への執着が、堰せき切れなくなった時に彼が見つけたのは、あの煎餅のかけらが産んだ、恐ろしい恍惚境エクスタシーだった。
一度こうした排はけ口を見つけた、彼の心が、その儘止まる筈はなかった――寧ろ、津浪のようにその排け口に向って殺到して行ったのだ。
彼は、そっと、人のいないのを見すまして、衣裳部屋に潜り込み、葉子の小ちっちゃい肉襦袢に、醜悪な顔を、埋うずめていた事もあった。
その白粉の匂いと、体臭のむんむんする臭いが、彼自身に眩暈めまいをさえ伴った、陶酔感を与えるのだ。
そして、ふと、その肉襦袢に、葉子のオカッパの髪が、二三本ついていたのを見つけると、その大発見に狂喜しながら、注意ぶかく抓つまみ上げて、白い紙につつむと、あり合せの鉛筆で、
「葉子チャンノカミノケ」
そんな文句を、下手糞な字で、たどたどしく書きつけ、もう一度、上から擦さすって見てから、それを、肌身深く蔵しまいこんで仕舞った……。
こうした彼の悪癖が、益々慕って行った事は、その後、葉子の持ち物が、ちょいちょい失なくなるようになった事でも、充分想像が出来た。
失くなるといっても、勿論たいした品物を、曲馬団の少女が、持っている訳はなかったから、もうすり減った、真黒く脂肪あぶら足の跡が附いた、下駄の一方だとか、毛の抜けて仕舞った竹の歯楊子ようじだとか、そういった、極く下らないものだった。それで、
(盗られた)
という気持を、葉子自身ですら感じなかったのは、彼にとっては、もっけの幸いだった。しかしこれらの「下らない紛失物」が、黒吉にとって、どんなに貴重なものだったかは、また容易に想像出来るのだ。
――ここまでは、黒吉少年の心に醗酵した、侘わびしい(しかし執拗な)彼一人だけの、胸の中の恋だった。
だが、ここに葉子が、暴風雨あらしを伴奏にして、颯爽と、現実の舞台へ、登場しようとしている。
×
極東曲馬団は、町から町、盛り場から盛り場を、人々の眼を楽しませながら、流れ移っていた。
そして、ある田舎町に敷地を借り、ようやく小屋掛けも終ったと殆んど同時に、朝から頸を傾かしげさせていた空模様が、一時に頽くずれて、大粒の雨が、無気味な風を含んで、ぽたりぽたり落ちて来たかと思うと、もう篠つくような豪雨に変っていた。
団長等は、早々に、宿屋に引上げて仕舞ったが、子供の座員や、下っぱの座員などは、経費の関係で、いつも、この小屋に泊る事を言渡されていた。子供等の方では、これは当然だと思っていたし、又団長がいないという事で、却って喜んでいたようでもあった。
しかし、この急拵えの小屋が、この沛然はいぜんと降る豪雨に、無事な筈はなく、雨漏りをさけて遁げ廻った末、やっと楽屋の隅で、ひと凝固かたまりになって、横になる事が出来たのは、もう大分夜が更けてからだった。
黒吉は、眼をつぶって、ようやく小降りになって来たらしい、雨の音を聴いていると、もう肩を並べた隣りからは、幽かな寝息さえ聴えて来た。
それと同時に、黒吉は、何かドキンとしたものを感じた。
二ノ四
瞬間、黒吉は自分の頭が、シーンと澄み透って行くのを感じた。
(果して、隣りで寝ているのは、葉ちゃんだろうか)
それは勿論、第六感とでもいうのか、極く曖昧なものだった。が、あの騒ぎで、皆んな、ごたごたに寝て仕舞ったのだから、全然あり得ない事でもないのだ。
そう思うと、隣りと接した、肩の辺が、熱っぽく、暑苦しいようにさえ感じた。そして、心臓はその鼓動と伴に、胸の中、一杯に拡がって行った。
黒吉は、思い切って、起上り、顔を覗き見たい衝動を感じた。あたりは真暗だが、よく気をつけて覗きこめば、顔の判別がつかぬ、という程でもないように思われた。
彼は、そーっと、薄い蒲団の縁へりへ、手をかけた。だが――
(まてまて。葉ちゃんならば、こんなに素晴らしい事はない。けれども、こんなにぎっしり寝ている処で、ごそごそ起きたら、どうかすると、彼女は眼を覚ますかも知れない。
それだけならいいが、眼を覚まして、俺が覗きこんでいた事を知ったら、きっと葉ちゃんは、真赤になって、この醜い俺を罵り、どこか遠くへ寝床をかえて仕舞うに違いないんだ。
――そんな莫迦な事をするより、例え短かくとも、夜が明けるまで、こうして葉ちゃんの、ふくよかな肩の感触を恣ほしいままにした方が、どれ程気が利いていることか……)
黒吉の心の中の、内気な半面が、こう囁いた。
彼は、蒲団にかけた手を、又静かに戻して仕舞うと、今度は、全身の注意を、細かに砕いて、彼女の方へぴったり、摺り寄って行った。そして、温もりに混った、彼女の穏やかな心臓の響きを、肩の辺に聴いていた……。
フト、冷めたい風を感じて、何時の間にかつぶっていた眼を明けて見ると、あたりには極くうっすらと、光が射しているのに、気がついた。
それと一緒に、思わずガクンと体の顫えるような、口惜くやしさに似た後悔を感じた。
(葉ちゃんは……)
黒吉は、先ずそれが心懸りだったので、ぐっと頸を廻して隣りを確めようとした。
(おや……)
彼の眼に這入ったのは、葉子より先きに、キンと澄み切った、尖った月の半分だった。
急拵えの小屋の天幕は、夕方の大暴風雨あらしに吹きまくられてぽっかり夜空に口を開け、恰度そこから、のり出すように月が覗き込み、地底のようにシンと澱んだ小屋の中に白々とした、絹糸のような、光を撒いているのだ。暴風雨あらしの後の月は物凄いまでに、冴え冴えとしていた。
(まだ夜中だ)
黒吉は※ほ[#「口+息」、22-9]っと心配を排はき棄てた。
彼の隣りには、葉子が、いかにも寝苦しそうに寝ていた。先刻さっきは、確かに葉子だ、とは断言出来なかったが、いまでは極く淡い光ではあったが、その中でも、段々眼の馴れるに従って、黒吉には、ハッキリ葉子の姿が、写って来た。
黒吉は、意を決したように、半身を蒲団から抜出し、月の光を遮らないように――、音のしないように、そっと彼女の顔を覗きこんだ。
眼の下には、月の光を受けて、いつもより蒼白く見える葉子の、幼い顔が、少しばかり口さえ開け、寝入っていた。もう少し月の光が強かったら、この房々としたオカッパの頭髪かみのけが、黄金のように光るだろう――と思えた。
又、襟足の洗いおとした白粉が、この幼い葉子の寝姿を少年の心にも、一入ひとしお可憐いじらしく見せていた。
暫く、ぼんやりと、その夢のように霞んだ、葉子の顔を、見詰めていた黒吉は、ゴクンと固い唾を咽喉へ通すと、その薄く開かれた唇から、寝息でも聴こうとするのか、顔を次第次第に近附けて行った。
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、凹へこますのを感じた。
二ノ五
黒吉の、唇に感じた、葉子の唇の感触は、ぬくぬくとして弾力に富んだはんぺんのようだった。妙な連想だけれど、事実彼の経験では、これが一番よく似ていたのだ。
唯、違った所――それは非常に違ったところがあるのだが――残念ながら、それをいい表わす言葉を知らなかった。
彼は、そーっと腕の力を抜こうとした。途端に、肘の下の羽目板が、鈍い音を立てた。造作の悪い掛小屋なので、一寸した重みの加減でも、板が軋むのだ。シンとした周囲あたりと、針のように尖った、彼の神経に、それが幾層倍にも、拡大されて響き渡った。
黒吉の心臓は、瞬間、ドキンと音がして止ったようだった。
「ク……」
周章あわてて顔を上げた彼の眼の下で、葉子は、悪い夢でも見たのか、咽喉を鳴らすと、寝返りを打って、向うを向いて仕舞った。
(眼を覚ましたかな)
黒吉は、思いきり息を深くしながら、葉子の墨のような、後向きの寝姿を、見守った。(いや、大丈夫だ)
寝返りをした葉子は、幸い、眼を覚まさなかったと見えて、直ぐ又かすかな、寝息が、聴えて来た。
彼は、ようやく※ほ[#「口+息」、24-4]っと、熱