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数学者が7年悩んだ難問、AIが「80分」で解く──取り組んできた本人が美しいと評価
(リンク貼れないので略)
1196 Discussion Thread | Erdos Problems
(リンク貼れないので略2)
AIが解いたとされているエルデシュ問題#1196とAIによる証明についてだが、数学者になれてない自分でも証明を理解できたので解説してみる。
というか専門家でもない自分でも理解出来るような短くてわかりやすい証明が存在したからこそ、AIが見つけられたんだよねコレ。
リクトマン(AI以前に一番この問題の解決に肉薄してた数学者)が「神の書物の証明」と形容しているが、
昔から難しい問題(色んな実績のある数学者が挑戦したのに解けなかった問題と定義する)に簡単な証明があった時にこういう言い方をする。
さて、まず問題について説明するがエルデシュ問題#1196は自然数の集合Nの部分集合Aが原始集合なら
「Σ[a∈A,x<a]1/(a*log(a))=1+o(1)」を証明する問題となっている。
原始集合というのは例えば素数の集合{2,3,5,7,...}みたいにa<bかつbがaの倍数となるようなa,bを含まない集合の事である。
素数の集合に4を加えた集合{2,3,4,5,7,11,13,...}は2,4を含むし4が2の倍数だから原始集合ではない。
右辺の「1+o(1)」というのはxがとにかく非常に大きければ式の左辺が1に近くなるもんだと思っとけばいい。
原始集合Aに対してAから有限部分を除いた時に、各要素aに対して1/(a*log(a))を足してけば総和が1で近似出来る事を証明する問題だ。
そしてAIによる証明だがこれは特殊な双六(すごろく)ゲームを考えてそのゲームのとある確率を求める事で証明をしている。
・双六は完全な1本道でゴールがなく無限に長くて、各マスに1,2,3,4,...と自然数が順番に書いてある
・普通の双六はサイコロの結果にあわせて1~6マス進むが、この双六では例えばマス「7」に止まってる時は
次は「14」「21」「28」「35」...と止まってるマスの番号の倍数のマスのどれかに進むか、もしくは双六が強制終了する
このような双六ゲームではマス「a」に止まる事がある確率をv(a)とすると、Aが原始集合の時はΣ[a∈A]v(a)は必ず1以下になる。
例えばAが素数の集合を考えると、Σ[a∈A]v(a)はマス「2」「3」「5」「7」...のどれかに止まる確率になる。
マス「3」に止まる事があったらマス「7」に止まる事が無いようにΣ[a∈A]v(a)は排反事象の確率の和になるから1以下になる訳だ。
そして上記のような双六ゲームを考えてスタート地点がマス「n」である確率p(n)と
マスmに止まってる時に次にmの倍数kmに止まる確率p(m,km)を適切に設定する。
そうするとある定数Bがあってv(a)=1/(B*a*log(a))になる。
B*v(a)=1/(a*log(a))になるので、Σ[a∈A]1/(a*log(a)) = BΣ[a∈A]v(a) ≦ Bとなる。
このBがxが大きい時にB≦1+(C/log(x))となる事(Cは定数)を論文内の補題4を使って示しているので
Σ[a∈A]1/(a*log(a))≦1+(C/log(x))=1+o(1)より、証明が完成する。
上記のような双六ゲームを考えてこうやって確率を計算するアイデアは数学には昔からある有り触れた物である。
確率p(n)と確率p(m,km)を考えるのに使うフォン・マンゴルト関数は昔からよく使われてる物だし
確率の設定の仕方も有り触れた物だし論文内の補題4自体も数論の論文で見かける程度には有り触れた不等式によるものである。
するとこの論文は「双六ゲームを考える」「フォン・マンゴルト関数を使う」「確率を設定する」「有り触れた不等式を使う」と
4つの有り触れたアイデアを上手く組み合わせる事で完成している。
でも各段階でどのような有り触れたアイデアを採用するかで軽く10種類以上は選択肢があるし
大雑把に合わせると10000種類以上のアイデアの候補の中から証明出来るものを探す事になる。
この10000種類以上のアイデアを上手く絞ってく能力が高い人は数学者になれる可能性がある。(数学者は必ずこれが出来る必要はない)
が、AIの場合は上手く絞ってく必要もなく10000種類以上のアイデア全てについて試して証明が出来るか全数探索が出来る。
力技で正しい証明を見つけられる訳だ。
今回AIがエルデシュ問題#1196を解けたのはこうやって4つくらいの有り触れたアイデアを組み合わせて完成するような証明があったからである。
今まで考えられた事のないアイデアを必要とする場合や非常に多くのアイデアを組み合わせるような証明になると
AIがアイデアの組み合わせを全数探索する事では証明に辿り着けないから今回とは違うやり方が必要になる。
それでも数が多くはない有り触れたアイデアを組み合わせる事で証明出来るような問題には、今のAIは証明文を生成できるという事である。
時代は進歩したというべきか、4色問題をプログラムで力技で解いた時代と本質的には変わってないというべきか、
それは人によっては違うんだろう。
「どのような国を作り上げたいのか、理想の姿を物語るものが憲法です」
4月12日、東京都内のホテルで開かれた自民党大会。総裁の高市早苗首相は演説で、改憲に意欲を示した。
「理想の日本国を文字にして、歴史という書物の新たなページに刻もう。そのページをめくるべきかどうか、国民に堂々と問おうではありませんか。立党から70年、時は来ました」
党大会での力強さとは対照的に、高市氏は国会では、憲法の価値を語りたがらない。
トランプ米大統領から、イラン攻撃に伴いホルムズ海峡への艦艇派遣を求められていたが、3月19日の日米首脳会談では応じなかった。その時に憲法に触れていたが、国会では「法律の範囲内で、できることとできないことを説明した」と答弁。「9条を盾にしたということはない」とも主張した。
野党が繰り返し質問すると、高市氏はようやく「(トランプ氏に)憲法についても話した」と認めた。
9条も含めた改憲の旗を振りながら、トランプ氏の要求を憲法でかわす――。
過去の発言などをたどると、1955年に自民党が結党されて以来、根強くある「押しつけ論」と、いまの憲法では日本を守れないという意識が見えてくる。
押しつけ論とは、憲法は敗戦直後の占領下に、連合国軍総司令部(GHQ)に押しつけられたという考え方だ。高市氏が尊敬する安倍晋三元首相も同様の考えをもっていた。
高市氏は2000年の衆院憲法調査会で、「アメリカの心でなく日本の心を持った、私たちの時代の私たちの憲法を書き上げる強い決意」を示した。憲法の前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という部分について、「非常におめでたい一文を、改憲の機会があれば真っ先に変えよう」と語った。
4月の党大会の演説では、どの項目を改正するかには触れなかった。ただ、9条を念頭にした発言がちりばめられていた。
自衛隊は違憲との考え方や運用上の制約があることに触れ、「(自民党の)立党宣言では、自主独立の権威を回復することが政治の使命だとうたっている」と強調。「日本人の手による自主的な憲法改正は党是」と訴えた。
高市氏、戦力不保持は「不的確」
9条で「戦力不保持」を掲げる2項は、「独立した主権国家の憲法としては不的確な表現」であり、削除して「国防軍」をつくるというのが高市氏の持論だ。
首相になる数カ月前の衆院憲法審査会では、「9条については自民党の憲法草案がベスト」と発言した。「憲法草案」は、政権から下野した自民が12年につくった。その9条2項ではこう書かれている。
「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する」
「戦力不保持」を削り、国防軍を設ける。
連立政権を組む相手が、公明党から日本維新の会に代わると、連立政権合意書で、実現させる政策に9条改正が盛り込まれた。維新も「国防軍保持」を掲げている。
ただ、2月の衆院選中の演説で、高市氏は「憲法になぜ、自衛隊を書いちゃいけないんですか。誇りを守り、実力組織として位置づける。当たり前の憲法改正もやらせてください」と訴えた。
これは、安倍氏のもと自民党が18年にまとめた「改憲4項目」に沿った発言だ。優先すべき4項目の中に、戦争放棄・戦力不保持を掲げる9条への自衛隊明記がある。
自民党の草案は国防軍を設ける内容だが、改憲4項目は「戦力不保持」を維持し自衛隊を明記している。高市氏は首相になってからは、国防軍よりハードルの低い自衛隊明記を重視する発言が目立っている。
4月の参院予算委員会。立憲民主党の三上絵里氏に、目指すべき改憲と「専守防衛」の関係について問われ、「専守防衛は、現行憲法の精神にのっとったもので、我が国の防衛の基本的な方針として堅持してきている。私の考えとしても変わりません」と語った。
戦後の基本政策である専守防衛は、攻められて初めて使う必要最小限度の力を持つという、今の自衛隊を前提とした考え方だ。高市氏の持論の国防軍とは相いれない。
また、高市氏は別の議員に問われ、「9条を改正したからといって、現に戦闘が行われているところに自衛隊を派遣できる内容になるのかどうか」とも話した。
持論で自民草案や維新が掲げる国防軍か、それとも、改憲4項目にある自衛隊明記か。
高市氏は党大会で「改正の発議に何とかメドが立った、と言える状態で来年の党大会を迎えたい」と述べ、1年後を区切りに指定した。しかし、何を改憲するかは明らかにしていない。
平和主義を具体化した9条は世論調査でも支持が高い。また、中東情勢による経済危機を避けることが急がれる。高市氏が師と仰ぐ安倍氏も、まずは「アベノミクス」による経済政策を優先させ、国政選挙での勝利を重ねることを重視した。
その姿を、高市氏は見ている。
https://digital.asahi.com/articles/ASV512JQFV51UTFK00VM.html
「あ、鳴つた。」
と言つて、父はペンを置いて立ち上る。警報くらゐでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾をかぶせ、これを抱きかかへて防空壕にはひる。既に、母は二歳の男の子を背負つて壕の奥にうずくまつてゐる。
「近いやうだね。」
「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」
「さうかね。」と父は不満さうに、「しかし、これくらゐで、ちやうどいいのだよ。あまり深いと生埋めの危険がある。」
「でも、もすこし広くしてもいいでせう。」
「うむ、まあ、さうだが、いまは土が凍つて固くなつてゐるから掘るのが困難だ。そのうちに、」などあいまいな事を言つて、母をだまらせ、ラジオの防空情報に耳を澄ます。
母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう壕から出ませう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段は絵本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。
この父は服装もまづしく、容貌も愚なるに似てゐるが、しかし、元来ただものでないのである。物語を創作するといふまことに奇異なる術を体得してゐる男なのだ。
ムカシ ムカシノオ話ヨ
などと、間まの抜けたやうな妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのづから別個の物語が※(「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88)醸せられてゐるのである。
[#改頁]
瘤取り
ムカシ ムカシノオ話ヨ
ミギノ ホホニ ジヤマツケナ
このお爺さんは、四国の阿波、剣山のふもとに住んでゐたのである。(といふやうな気がするだけの事で、別に典拠があるわけではない。もともと、この瘤取りの話は、宇治拾遺物語から発してゐるものらしいが、防空壕の中で、あれこれ原典を詮議する事は不可能である。この瘤取りの話に限らず、次に展開して見ようと思ふ浦島さんの話でも、まづ日本書紀にその事実がちやんと記載せられてゐるし、また万葉にも浦島を詠じた長歌があり、そのほか、丹後風土記やら本朝神仙伝などといふものに依つても、それらしいものが伝へられてゐるやうだし、また、つい最近に於いては鴎外の戯曲があるし、逍遥などもこの物語を舞曲にした事は無かつたかしら、とにかく、能楽、歌舞伎、芸者の手踊りに到るまで、この浦島さんの登場はおびただしい。私には、読んだ本をすぐ人にやつたり、また売り払つたりする癖があるので、蔵書といふやうなものは昔から持つた事が無い。それで、こんな時に、おぼろげな記憶をたよつて、むかし読んだ筈の本を捜しに歩かなければならぬはめに立ち到るのであるが、いまは、それもむづかしいだらう。私は、いま、壕の中にしやがんでゐるのである。さうして、私の膝の上には、一冊の絵本がひろげられてゐるだけなのである。私はいまは、物語の考証はあきらめて、ただ自分ひとりの空想を繰りひろげるにとどめなければならぬだらう。いや、かへつてそのはうが、活き活きして面白いお話が出来上るかも知れぬ。などと、負け惜しみに似たやうな自問自答をして、さて、その父なる奇妙の人物は、
ムカシ ムカシノオ話ヨ
と壕の片隅に於いて、絵本を読みながら、その絵本の物語と全く別個の新しい物語を胸中に描き出す。)
このお爺さんは、お酒を、とても好きなのである。酒飲みといふものは、その家庭に於いて、たいてい孤独なものである。孤独だから酒を飲むのか、酒を飲むから家の者たちにきらはれて自然に孤独の形になるのか、それはおそらく、両の掌をぽんと撃ち合せていづれの掌が鳴つたかを決定しようとするやうな、キザな穿鑿に終るだけの事であらう。とにかく、このお爺さんは、家庭に在つては、つねに浮かぬ顔をしてゐるのである。と言つても、このお爺さんの家庭は、別に悪い家庭では無いのである。お婆さんは健在である。もはや七十歳ちかいけれども、このお婆さんは、腰もまがらず、眼許も涼しい。昔は、なかなかの美人であつたさうである。若い時から無口であつて、ただ、まじめに家事にいそしんでゐる。
「もう、春だねえ。桜が咲いた。」とお爺さんがはしやいでも、
「さうですか。」と興の無いやうな返辞をして、「ちよつと、どいて下さい。ここを、お掃除しますから。」と言ふ。
お爺さんは浮かぬ顔になる。
また、このお爺さんには息子がひとりあつて、もうすでに四十ちかくになつてゐるが、これがまた世に珍しいくらゐの品行方正、酒も飲まず煙草も吸はず、どころか、笑はず怒らず、よろこばず、ただ黙々と野良仕事、近所近辺の人々もこれを畏敬せざるはなく、阿波聖人の名が高く、妻をめとらず鬚を剃らず、ほとんど木石ではないかと疑はれるくらゐ、結局、このお爺さんの家庭は、実に立派な家庭、と言はざるを得ない種類のものであつた。
けれども、お爺さんは、何だか浮かぬ気持である。さうして、家族の者たちに遠慮しながらも、どうしてもお酒を飲まざるを得ないやうな気持になるのである。しかし、うちで飲んでは、いつそう浮かぬ気持になるばかりであつた。お婆さんも、また息子の阿波聖人も、お爺さんがお酒を飲んだつて、別にそれを叱りはしない。お爺さんが、ちびちび晩酌をやつてゐる傍で、黙つてごはんを食べてゐる。
「時に、なんだね、」とお爺さんは少し酔つて来ると話相手が欲しくなり、つまらぬ事を言ひ出す。「いよいよ、春になつたね。燕も来た。」
言はなくたつていい事である。
お婆さんも息子も、黙つてゐる。
「春宵一刻、価千金、か。」と、また、言はなくてもいい事を呟いてみる。
「ごちそうさまでござりました。」と阿波聖人は、ごはんをすまして、お膳に向ひうやうやしく一礼して立つ。
「そろそろ、私もごはんにしよう。」とお爺さんは、悲しげに盃を伏せる。
アルヒ アサカラ ヨイテンキ
このお爺さんの楽しみは、お天気のよい日、腰に一瓢をさげて、剣山にのぼり、たきぎを拾ひ集める事である。いい加減、たきぎ拾ひに疲れると、岩上に大あぐらをかき、えへん! と偉さうに咳ばらひを一つして、
「よい眺めぢやなう。」
と言ひ、それから、おもむろに腰の瓢のお酒を飲む。実に、楽しさうな顔をしてゐる。うちにゐる時とは別人の観がある。ただ変らないのは、右の頬の大きい瘤くらゐのものである。この瘤は、いまから二十年ほど前、お爺さんが五十の坂を越した年の秋、右の頬がへんに暖くなつて、むずかゆく、そのうちに頬が少しづつふくらみ、撫でさすつてゐると、いよいよ大きくなつて、お爺さんは淋しさうに笑ひ、
「こりや、いい孫が出来た。」と言つたが、息子の聖人は頗るまじめに、
「頬から子供が生れる事はござりません。」と興覚めた事を言ひ、また、お婆さんも、
「いのちにかかはるものではないでせうね。」と、にこりともせず一言、尋ねただけで、それ以上、その瘤に対して何の関心も示してくれない。かへつて、近所の人が、同情して、どういふわけでそんな瘤が出来たのでせうね、痛みませんか、さぞやジヤマツケでせうね、などとお見舞ひの言葉を述べる。しかし、お爺さんは、笑つてかぶりを振る。ジヤマツケどころか、お爺さんは、いまは、この瘤を本当に、自分の可愛い孫のやうに思ひ、自分の孤独を慰めてくれる唯一の相手として、朝起きて顔を洗ふ時にも、特別にていねいにこの瘤に清水をかけて洗ひ清めてゐるのである。けふのやうに、山でひとりで、お酒を飲んで御機嫌の時には、この瘤は殊にも、お爺さんに無くてかなはぬ恰好の話相手である。お爺さんは岩の上に大あぐらをかき、瓢のお酒を飲みながら、頬の瘤を撫で、
「なあに、こはい事なんか無いさ。遠慮には及びませぬて。人間すべからく酔ふべしぢや。まじめにも、程度がありますよ。阿波聖人とは恐れいる。お見それ申しましたよ。偉いんだつてねえ。」など、誰やらの悪口を瘤に囁き、さうして、えへん! と高く咳ばらひをするのである。
カゼガ ゴウゴウ フイテキテ
春の夕立ちは、珍しい。しかし、剣山ほどの高い山に於いては、このやうな天候の異変も、しばしばあると思はなければなるまい。山は雨のために白く煙り、雉、山鳥があちこちから、ぱつぱつと飛び立つて矢のやうに早く、雨を避けようとして林の中に逃げ込む。お爺さんは、あわてず、にこにこして、
「この瘤が、雨に打たれてヒンヤリするのも悪くないわい。」
と言ひ、なほもしばらく岩の上にあぐらをかいたまま、雨の景色を眺めてゐたが、雨はいよいよ強くなり、いつかうに止みさうにも見えないので、
「こりや、どうも、ヒンヤリしすぎて寒くなつた。」と言つて立ち上り、大きいくしやみを一つして、それから拾ひ集めた柴を背負ひ、こそこそと林の中に這入つて行く。林の中は、雨宿りの鳥獣で大混雑である。
「はい、ごめんよ。ちよつと、ごめんよ。」
とお爺さんは、猿や兎や山鳩に、いちいち上機嫌で挨拶して林の奥に進み、山桜の大木の根もとが広い虚うろになつてゐるのに潜り込んで、
「やあ、これはいい座敷だ。どうです、みなさんも、」と兎たちに呼びかけ、「この座敷には偉いお婆さんも聖人もゐませんから、どうか、遠慮なく、どうぞ。」などと、ひどくはしやいで、そのうちに、すうすう小さい鼾をかいて寝てしまつた。酒飲みといふものは酔つてつまらぬ事も言ふけれど、しかし、たいていは、このやうに罪の無いものである。
ユフダチ ヤムノヲ マツウチニ
この月は、春の下弦の月である。浅みどり、とでもいふのか、水のやうな空に、その月が浮び、林の中にも月影が、松葉のやうに一ぱいこぼれ落ちてゐる。しかし、お爺さんは、まだすやすや眠つてゐる。蝙蝠が、はたはたと木の虚うろから飛んで出た。お爺さんは、ふと眼をさまし、もう夜になつてゐるので驚き、
「これは、いけない。」
と言ひ、すぐ眼の前に浮ぶのは、あのまじめなお婆さんの顔と、おごそかな聖人の顔で、ああ、これは、とんだ事になつた、あの人たちは未だ私を叱つた事は無いけれども、しかし、どうも、こんなにおそく帰つたのでは、どうも気まづい事になりさうだ、えい、お酒はもう無いか、と瓢を振れば、底に幽かにピチヤピチヤといふ音がする。
「あるわい。」と、にはかに勢ひづいて、一滴のこさず飲みほして、ほろりと酔ひ、「や、月が出てゐる。春宵一刻、――」などと、つまらぬ事を呟きながら木の虚うろから這ひ出ると、
ミレバ フシギダ ユメデシヨカ
といふ事になるのである。
見よ。林の奥の草原に、この世のものとも思へぬ不可思議の光景が展開されてゐるのである。鬼、といふものは、どんなものだか、私は知らない。見た事が無いからである。幼少の頃から、その絵姿には、うんざりするくらゐたくさんお目にかかつて来たが、その実物に面接するの光栄には未だ浴してゐないのである。鬼にも、いろいろの種類があるらしい。××××鬼、××××鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶところから見ても、これはとにかく醜悪の性格を有する生き物らしいと思つてゐると、また一方に於いては、文壇の鬼才何某先生の傑作、などといふ文句が新聞の新刊書案内欄に出てゐたりするので、まごついてしまふ。まさか、その何某先生が鬼のやうな醜悪の才能を持つてゐるといふ事実を暴露し、以て世人に警告を発するつもりで、その案内欄に鬼才などといふ怪しむべき奇妙な言葉を使用したのでもあるまい。甚だしきに到つては、文学の鬼、などといふ、ぶしつけな、ひどい言葉を何某先生に捧げたりしてゐて、これではいくら何でも、その何某先生も御立腹なさるだらうと思ふと、また、さうでもないらしく、その何某先生は、そんな失礼千万の醜悪な綽名をつけられても、まんざらでないらしく、御自身ひそかにその奇怪の称号を許容してゐるらしいといふ噂などを聞いて、迂愚の私は、いよいよ戸惑ふばかりである。あの、虎の皮のふんどしをした赤つらの、さうしてぶざいくな鉄の棒みたいなものを持つた鬼が、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。鬼才だの、文学の鬼だのといふ難解な言葉は、あまり使用しないはうがいいのではあるまいか、とかねてから愚案してゐた次第であるが、しかし、それは私の見聞の狭い故であつて、鬼にも、いろいろの種類があるのかも知れない。このへんで、日本百科辞典でも、ちよつと覗いてみると、私もたちまち老幼婦女子の尊敬の的たる博学の士に一変して、(世の物識りといふものは、たいていそんなものである)しさいらしい顔をして、鬼に就いて縷々千万言を開陳できるのでもあらうが、生憎と私は壕の中にしやがんで、さうして膝の上には、子供の絵本が一冊ひろげられてあるきりなのである。私は、ただこの絵本の絵に依つて、論断せざるを得ないのである。
見よ。林の奥の、やや広い草原に、異形の物が十数人、と言ふのか、十数匹と言ふのか、とにかく、まぎれもない虎の皮のふんどしをした、あの、赤い巨大の生き物が、円陣を作つて坐り、月下の宴のさいちゆうである。
お爺さん、はじめは、ぎよつとしたが、しかし、お酒飲みといふものは、お酒を飲んでゐない時には意気地が無くてからきし駄目でも、酔つてゐる時には、かへつて衆にすぐれて度胸のいいところなど、見せてくれるものである。お爺さんは、いまは、ほろ酔ひである。かの厳粛なるお婆さんをも、また品行方正の聖人をも、なに恐れんやといふやうなかなりの勇者になつてゐるのである。眼前の異様の風景に接して、腰を抜かすなどといふ醜態を示す事は無かつた。虚うろから出た四つ這ひの形のままで、前方の怪しい酒宴のさまを熟視し、
「気持よささうに、酔つてゐる。」とつぶやき、さうして何だか、胸の奥底から、妙なよろこばしさが湧いて出て来た。お酒飲みといふものは、よそのものたちが酔つてゐるのを見ても、一種のよろこばしさを覚えるものらしい。所謂利己主義者ではないのであらう。つまり、隣家の仕合せに対して乾盃を挙げるといふやうな博愛心に似たものを持つてゐるのかも知れない。自分も酔ひたいが、隣人もまた、共に楽しく酔つてくれたら、そのよろこびは倍加するもののやうである。お爺さんだつて、知つてゐる。眼前の、その、人とも動物ともつかぬ赤い巨大の生き物が、鬼といふおそろしい種族のものであるといふ事は、直覚してゐる。虎の皮のふんどし一つに依つても、それは間違ひの無い事だ。しかし、その鬼どもは、いま機嫌よく酔つてゐる。お爺さんも酔つてゐる。これは、どうしても、親和の感の起らざるを得ないところだ。お爺さんは、四つ這ひの形のままで、なほもよく月下の異様の酒宴を眺める。鬼、と言つても、この眼前の鬼どもは、××××鬼、××××鬼などの如く、佞悪の性質を有してゐる種族のものでは無く、顔こそ赤くおそろしげではあるが、ひどく陽気で無邪気な鬼のやうだ、とお爺さんは見てとつた。お爺さんのこの判定は、だいたいに於いて的中してゐた。つまり、この鬼どもは、剣山の隠者とでも称すべき頗る温和な性格の鬼なのである。地獄の鬼などとは、まるつきり種族が違つてゐるのである。だいいち、鉄棒などといふ物騒なものを持つてゐない。これすなはち、害心を有してゐない証拠と言つてよい。しかし、隠者とは言つても、かの竹林の賢者たちのやうに、ありあまる知識をもてあまして、竹林に逃げ込んだといふやうなものでは無くて、この剣山の隠者の心は甚だ愚である。仙といふ字は山の人と書かれてゐるから、何でもかまはぬ、山の奥に住んでゐる人を仙人と称してよろしいといふ、ひどく簡明の学説を聞いた事があるけれども、かりにその学説に従ふなら、この剣山の隠者たちも、その心いかに愚なりと雖も、仙の尊称を奏呈して然るべきものかも知れない。とにかく、いま月下の宴に打興じてゐるこの一群の赤く巨大の生き物は、鬼と呼ぶよりは、隠者または仙人と呼称するはうが妥当のやうなしろものなのである。その心の愚なる事は既に言つたが、その酒宴の有様を見るに、ただ意味も無く奇声を発し、膝をたたいて大笑ひ、または立ち上つて矢鱈にはねまはり、または巨大のからだを丸くして円陣の端から端まで、ごろごろところがつて行き、それが踊りのつもりらしいのだから、その智能の程度は察するにあまりあり、芸の無い事おびただしい。この一事を以てしても、鬼才とか、文学の鬼とかいふ言葉は、まるで無意味なものだといふことを証明できるやうに思はれる。こんな愚かな芸無しどもが、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。お爺さんも、この低能の踊りには呆れた。ひとりでくすくす笑ひ、
「なんてまあ、下手な踊りだ。ひとつ、私の手踊りでも見せてあげませうかい。」とつぶやく。
スグニ トビダシ ヲドツタラ
コブガ フラフラ ユレルノデ
お爺さんには、ほろ酔ひの勇気がある。なほその上、鬼どもに対し、親和の情を抱いてゐるのであるから、何の恐れるところもなく、円陣のまんなかに飛び込んで、お爺さんご自慢の阿波踊りを踊つて、
赤い襷に迷ふも無理やない
嫁も笠きて行かぬか来い来い
とかいふ阿波の俗謡をいい声で歌ふ。鬼ども、喜んだのなんの、キヤツキヤツケタケタと奇妙な声を発し、よだれやら涙やらを流して笑ひころげる。お爺さんは調子に乗つて、
大谷通れば石ばかり
笹山通れば笹ばかり
とさらに一段と声をはり上げて歌ひつづけ、いよいよ軽妙に踊り抜く。
ツキヨニヤ カナラズ ヤツテキテ
ヲドリ ヲドツテ ミセトクレ
ソノ ヤクソクノ オシルシニ
と言ひ出し、鬼たち互ひにひそひそ小声で相談し合ひ、どうもあの頬ぺたの瘤はてかてか光つて、なみなみならぬ宝物のやうに見えるではないか、あれをあづかつて置いたら、きつとまたやつて来るに違ひない、と愚昧なる推量をして、矢庭に瘤をむしり取る。無智ではあるが、やはり永く山奥に住んでゐるおかげで、何か仙術みたいなものを覚え込んでゐたのかも知れない。何の造作も無く綺麗に瘤をむしり取つた。
お爺さんは驚き、
「や、それは困ります。私の孫ですよ。」と言へば、鬼たち、得意さうにわつと歓声を挙げる。
コブヲ トラレタ オヂイサン
ツマラナサウニ ホホヲ ナデ
オヤマヲ オリテ ユキマシタ
瘤は孤独のお爺さんにとつて、唯一の話相手だつたのだから、その瘤を取られて、お爺さんは少し淋しい。しかしまた、軽くなつた頬が朝風に撫でられるのも、悪い気持のものではない。結局まあ、損も得も無く、一長一短といふやうなところか、久しぶりで思ふぞんぶん歌つたり踊つたりしただけが得とく、といふ事になるかな? など、のんきな事を考へながら山を降りて来たら、途中で、野良へ出かける息子の聖人とばつたり出逢ふ。
「おはやうござります。」と聖人は、頬被りをとつて荘重に朝の挨拶をする。
「いやあ。」とお爺さんは、ただまごついてゐる。それだけで左右に別れる。お爺さんの瘤が一夜のうちに消失してゐるのを見てとつて、さすがの聖人も、内心すこしく驚いたのであるが、しかし、父母の容貌に就いてとやかくの批評がましい事を言ふのは、聖人の道にそむくと思ひ、気附かぬ振りして黙つて別れたのである。
家に帰るとお婆さんは、
「お帰りなさいまし。」と落ちついて言ひ、昨夜はどうしましたとか何とかいふ事はいつさい問はず、「おみおつけが冷たくなりまして、」と低くつぶやいて、お爺さんの朝食の支度をする。
「いや、冷たくてもいいさ。あたためるには及びませんよ。」とお爺さんは、やたらに遠慮して小さくかしこまり、朝食のお膳につく。お婆さんにお給仕されてごはんを食べながら、お爺さんは、昨夜の不思議な出来事を知らせてやりたくて仕様が無い。しかし、お婆さんの儼然たる態度に圧倒されて、言葉が喉のあたりにひつからまつて何も言へない。うつむいて、わびしくごはんを食べてゐる。
「瘤が、しなびたやうですね。」お婆さんは、ぽつんと言つた。
「うむ。」もう何も言ひたくなかつた。
「破れて、水が出たのでせう。」とお婆さんは事も無げに言つて、澄ましてゐる。
「うむ。」
「また、水がたまつて腫れるんでせうね。」
「さうだらう。」
結局、このお爺さんの一家に於いて、瘤の事などは何の問題にもならなかつたわけである。ところが、このお爺さんの近所に、もうひとり、左の頬にジヤマツケな瘤を持つてるお爺さんがゐたのである。さうして、このお爺さんこそ、その左の頬の瘤を、本当に、ジヤマツケなものとして憎み、とかくこの瘤が私の出世のさまたげ、この瘤のため、私はどんなに人からあなどられ嘲笑せられて来た事か、と日に幾度か鏡を覗いて溜息を吐き、頬髯を長く伸ばしてその瘤を髯の中に埋没させて見えなくしてしまはうとたくらんだが、悲しい哉、瘤の頂きが白髯の四海波の間から初日出のやうにあざやかにあらはれ、かへつて天下の奇観を呈するやうになつたのである。もともとこのお爺さんの人品骨柄は、いやしく無い。体躯は堂々、鼻も大きく眼光も鋭い。言語動作は重々しく、思慮分別も十分の如くに見える。服装だつて、どうしてなかなか立派で、それに何やら学問もあるさうで、また、財産も、あのお酒飲みのお爺さんなどとは較べものにならぬくらゐどつさりあるとかいふ話で、近所の人たちも皆このお爺さんに一目いちもく置いて、「旦那」あるいは「先生」などといふ尊称を奉り、何もかも結構、立派なお方ではあつたが、どうもその左の頬のジヤマツケな瘤のために、旦那は日夜、鬱々として楽しまない。このお爺さんのおかみさんは、ひどく若い。三十六歳である。そんなに Permalink | 記事への反応(0) | 18:24
izureさん、こんにちは。 あなたは社会問題や政治にすごく興味を持って、はてなで積極的にコメントされているんですね。それは本当に素晴らしいことです。ただ、中学生の公民で習うはずの基本的な社会科の知識がズレてしまっているコメントがありました。
特に社会科(憲法・政治制度・民主主義)の部分で誤解が見られるコメントを丁寧に引用しながら、優しく訂正しますね。 学校の教科書で習うポイントを簡単に添えて説明します。一緒に確認していきましょう。
izureさん、三権分立の言葉をちゃんと知っていて、使おうとしているのはえらいですよ! でもここで少し大事なポイントが混ざってしまっています。
中学校の公民で習う三権分立とは、立法(国会)・行政(内閣・政府)・司法(裁判所)の3つが、互いに独立しながら、相手をチェックし合う仕組みのことです。 「国会議員の序列が上」という「指揮系統」のイメージは、軍隊や会社の上下関係に近くて、社会科の説明とは違います。
• 大臣(閣僚)が国会議員から選ばれやすいのは議院内閣制という日本の制度の特徴です(内閣総理大臣は国会で指名され、閣僚も多くは国会議員から任命されます)。
• 三権分立の大事なところは、司法(裁判所)が立法や行政から独立している点も含みます。小池晃議員の発言を三権分立で擁護しようとしたのは、ちょっと制度の「分立(独立・牽制)」の意味を逆にしてしまった感じですね。
「小学生からやり直せ」という言葉は、相手を傷つけてしまうかも…。izureさんも一緒に、もう一度教科書の「三権分立」と「議院内閣制」のページを振り返ってみると、もっとクリアになると思いますよ。
自衛隊のニュースを見て「怖い」と感じるizureさんの気持ちは、とても真剣で優しいですね。 でも「民主主義も法治主義も機能していなかった」とまで言うのは、少し大げさになってしまっています。
今回の自衛隊の件も、国会で質問が出たり、メディアが報道したり、世論が動いているのは、まさに民主主義と法治主義が働いている証拠です。 完璧ではないけれど、「虫食いだらけで機能していない」とまでは言えないと思います。制度は少しずつチェックをかけながら動いていますよ。
izureさんのコメント(2026/04/15)
日高屋のプラスチック容器発注制限のニュース、izureさんは「生活への影響」として心配されているんですね。
ただ「馬鹿に権力を持たせた馬鹿共」という表現は、政策を決めた人たちを一括りにしてかなり強いですね…。
良い悪いは別として、単なる「馬鹿共のツケ」ではなく、一定の根拠に基づいた判断です。
izureさん、日常生活への影響を気にする優しい目線は素敵ですが、相手を「馬鹿」と呼ぶと、せっかくの指摘が伝わりにくくなってしまうかもですよ。
→ これは経済やイデオロギーの話で、社会科の範囲を超えています。いいバランス感覚の言葉が出てきているので、素敵だと思います。ただ「滅びる」と断定するのは、歴史的事実としてはもう少し慎重に考えた方がいいかも。
izureさんは用語自体(三権分立、民主主義、法治主義など)はしっかり覚えています。でも、それを現実の政治に当てはめるときに「分立=独立と牽制」という本質が少しずれやすい印象を受けました。
これは決してizureさんだけじゃなく、日本のネットでよく見る「公民の知識を部分的に持っているけど、応用でつまずく」パターンです。 もし教科書をもう一度読み直したり、わかりやすい憲法の解説動画を見たりすると、きっと「なるほど!」となると思いますよ。
他にも気になる点があれば、遠慮なく教えてくださいね。一緒に優しく見ていきましょう! izureさんがもっと楽しく、正確に政治や社会のことを話せるようになるといいなと思います。
[追記]
削除要請されました㊗️
言及元のアカウントによる削除申請が行われると、内容のいかんを問わず削除されます。いつ消えるか楽しみにしています。
https://anond.hatelabo.jp/20260416111920
プロンプトも公開。
https://ganot.hatenadiary.com/entry/2026/04/16/140558
AIと会話した記録。五毛ではない。
本稿は、日本のECサイト「楽天」に代表される高密度情報型デザインと、書物文化に見られる静的・省略的デザインとの対照を軸に、現代の情報嗜好と知的傾向の分岐を検討する。
近年の統計によれば、日本では「1か月に1冊も本を読まない」者が6割を超え、読書離れが急速に進行している一方、ECサイトにおける視覚的デザインの工夫が購買意欲を有意に高めることが報告されている。
本論では、これらのデータを参照しつつ、楽天的デザインに親和的な層と、これを忌避する層の間に見られる情報処理様式と時間意識の差異を、読書行為の変容という観点から理論的に位置づける。
デジタル空間のデザインは、単なる視覚表現ではなく、そこに関与する主体の認知特性や価値観を反映する文化的装置である。
楽天市場のようなECサイトでは、価格情報やポイント倍率、キャンペーンバナーなどを画面上に高密度で提示する設計が長らく採用されてきた。
一方、近年のECトレンドとしては、ホワイトスペースを活用したミニマルなレイアウトや「視覚的な疲労を軽減するクリーンなデザイン」が推奨されるなど、楽天的デザインとは対照的な志向も強まっている。
ある調査によると、「1か月に1冊も本を読まない」と回答した者は6割を超え、数年前の調査から大きく増加している。
このような状況は、視覚情報の大量消費を前提とするウェブ環境と、静的・継時的な読書体験との間に、選好や習慣のレベルで断絶が生じている可能性を示唆する。
楽天的デザインの志向原理は、「即時的理解」と「報酬感覚」に集約される。
新規UIについてユーザビリティテストやA/Bテストを反復し、「操作性」と「わかりやすさ」を定性的・定量的に評価する枠組みが整備されていることは、「ユーザーが短時間でお得さやメリットを理解し、すぐに行動できる設計」が企業側にとって合理的であることを示している。
視覚デザインが行動に与える影響については、ファッションECサイトを対象としたオンライン調査が参考になる。
ある調査では、15~69歳の男女100名に対し、「デザインされたページ」と「文章のみのページ」のどちらが購入意欲を高めるかを問うたところ、過半数が前者を支持し、後者は一桁台にとどまった。
この結果は、情報の「量」だけでなく、「視覚的構成」が購買行動を強く規定することを示す。
楽天的知性とはすなわち、こうした視覚的・即時的な情報環境に最適化された判断様式であると言える。
これに対し、書物のデザインは、伝統的に情報量を統制し、余白と行間によって「読者の内的処理」に委ねる構造を維持してきた。
読書離れの進行は、この「時間を要する認知様式」が、スマートフォンやSNSを中心とした即時的情報処理様式と競合し、相対的に不利な選択肢となっていることを意味する。
したがって、「楽天的知性」と「読書的知性」の対置は、単なる趣味嗜好ではなく、情報処理コストと報酬構造の差異に根ざした構造的分岐とみなすことができる。
では、この分岐を超えて、楽天的知性と読書行為を再接続することは可能だろうか。
EC分野の調査が示すように、視覚的にデザインされたページは、文章のみのページに比して明確に高い購買意欲を喚起しうる。
この傾向を読書の文脈に適用するならば、「読書したくなる本のデザイン」を設計する余地があることになる。
具体的には、以下のような方向性が考えられる。
章ごとに要約やインフォグラフィックを挿入し、視覚的な「到達点」を明示すること。
紙・電子を問わず、読了進捗を可視化し、小さな達成感を連続的に与えるUIを導入すること。
QRコードやリンクを通じて、関連資料や動画・図解にアクセスできる多層的テクスト構造を提供すること。
これらは、伝統的な読書観からすれば「楽天的すぎる」異端と映るかもしれない。
しかし、ユーザーの本音や行動データを基にUIを不断に更新していく実務的枠組みがすでに存在する以上、読書体験側もまた、利用者の認知特性を前提とした再設計を回避することはできないだろう。
本稿は、楽天的デザインと読書的デザインの対立を、現代日本における情報嗜好と知的様式の分岐として整理し、いくつかの実証データを通じてその背景を補強した。
「不読率」が多数派となったという事実は、読書行為がもはや自明の文化資本ではなくなった現状を示し、
一方でEC調査は、視覚的に構成された情報環境が行動喚起に非常に強い影響力を持つことを明らかにしている。
「楽天的インテリジェンス」を単に俗流と切り捨てるのではなく、現代の支配的認知様式の一形態として理解し、それに応答するかたちで読書メディアを再デザインすること。
この課題を引き受けるとき、読書文化は「静的知性」と「動的知性」の二者択一を超え、それらを連結するハイブリッドな知的実践へと移行しうる。
超弦理論では、この宇宙は非常に繊細な物理定数のバランスの上に成り立っていると考えられます。
ほんのわずかでも値が違えば、星も、生命も存在できなかった可能性がある。いわゆる奇跡的なfine-tuningです。
一方、創世記では
トーラーは物理理論を教える書物ではありません。しかし、ラビ的思想では、自然界の秩序そのものが神の知恵の現れと考えます。
つまり、宇宙の精妙さや法則性は神の作品であるという見方です。
ミドラーシュ(創世記ラバ9章)では、「とても良い」とは死や困難すら含む、と説明します。なぜなら、それらも最終的には神の計画の一部だからです。
その全体像が「とても良い」なのです。
もし宇宙が極めて精妙な条件のもとに存在しているなら、それはトーラー的世界観では矛盾しないと思われます。
宇宙の構造が精妙であることは、舞台が整えられていることを示す。しかし、その舞台でどう生きるかは人間に委ねられている。
奇跡とは自然法則の破れではなく、自然法則そのものが神の知恵であると見ることが多いです(ランバンの見解)。
だから、
この二つは競合ではなく、層が違うのです。
もし宇宙が奇跡的なバランスで存在しているなら、それは「とても良い」と宣言できるほど整えられている、という考えと響き合います。
かつて聖都があったとされるその場所は、今や鬱蒼とした原子林に覆われ、文明社会から隔絶された「忘れられた土地」となっていた。
第3魔法科学師団、ノア准尉はホログラムディスプレイに表示された『LOST』の文字を見て嘆息した。
最新鋭の偵察ドローン「シュタルクmk9」が、これで5機目だ。
「原因は?」
「不明です。魔力反応なし。物理的損傷なし。ただ、通信が途絶え、機体が消失しました」
オペレーターの報告は、まるで幽霊話だ。だが、ノアは科学の信奉者だった。魔法とは解明された物理法則の一種であり、不可解な現象など存在しない。
そして、こちらを見上げる小柄な影。
『……ん? 変な鳥だねぇ』
エルフの老婆だった。
年齢不詳。ボサボサの白髪に、今どき博物館でも見ないような古臭いローブ。
彼女はドローンに向かって、しわくちゃの手を差し出した。 『お腹、空いてるのかい?』
次の瞬間、映像は花畑のような極彩色のノイズに包まれ、途絶えた。
***
森に侵入したのは、自動歩行戦車「ゾルトラーク・カノン」の小隊だった。
かつての「人を殺す魔法」の名を冠した兵器は、その名の通り、人類最速の殺人機構を備えている。
対する老婆――フリーレンは、あばら屋の前で座り込み、古い書物を読んでいた。
戦車のセンサーが彼女をロックオンする。 「警告。直ちに退去せよ。さもなくば実力を行使する」
無機質な合成音声。
フリーレンは顔を上げ、眩しそうに目を細めた。 「……うるさいねぇ。今、いいところなんだよ」 「攻撃開始」
容赦はない。戦車の主砲、収束魔導レーザーが放たれた。岩盤をも貫く熱線。
だが。
「――防御魔法」
フリーレンが指先を軽く振るうと、六角形の幾何学模様が空中に展開された。
最新科学が生み出した破壊の光は、その薄い膜ごときにあっけなく弾かれ、森の木々を薙ぎ倒して空の彼方へ消えた。 「……硬いな」
フリーレンはあくびを噛み殺した。「昔より、ちょっとだけ威力が上がったかな。でも、構成が雑だ」
放たれたのは、黒い閃光。
それは戦車の装甲をバターのように貫き、次々と鉄塊に変えていく。
燃え上がる最新兵器の残骸の横で、彼女はひどく心細そうな顔をした。
「どこに行ったんだろう……また怒られちゃうな」
homarara
homarara 今の子は、若気の至りがネットに残っちまって大変だな。そんなの「あの頃は若くて馬鹿だった」で済ませられるべき思い出なのだが。
bowbow99
bowbow99 読んでて「ワカルー」感と「ワカンネ」感を両方とも強く感じた。
mmhry
mmhry 『結局、自分なんてのはいなくて他人の寄せ集めで出来ているのです。でもそういう他人の寄せ集めのことを「自分」と呼ぶことになっているのです』ってのを読んだ事があって、それで結構楽になった記憶がある。
chintaro3
chintaro3 そういう失敗は誰しもあるもんだと思うよ。自分も1つ間違えば狂気や犯罪のすぐ隣に居る、と気づいて自制することで大人になって行くのさ。
Gonzoo
Gonzoo いろんな人のいいところを抽出して、ちょっと自分のエッセンスを加えて自分ってものを作るんじゃないのかなあ。全部ゼロイチから作ってたら非効率でしょ
stressersyo-gunn
tanority ノートとペン持ってタリーズに行ってくるね。コレすら誰かのロールだと思ってしまう。 いや、悪いことではないと思うけど、なんか不思議。自己啓発などは真似しろよだけど…。
KariumNitrate
KariumNitrate 服装とか所持物とかでそういうのを気味悪がられる漫画は見たことがある。そういう人の気持ちが分からないのであれば無難に徹するべきなのでは。俺も人の気持ちが分からんのでなるべく慎重にしてる(つもり)。
jou2
jou2 “ただ、わたしが彼女を好きすぎて”書いた人が女性だとわかる前はウゲーって思った。書いた人が女性だとわかったら、まぁ、こんな事もあるかなと納得。なるほどなー。HAGEXがこういう人の被害者たまにまとめてたよね
lbtmplz
lbtmplz 相手がやめるまでってのは一体どんな異常性なんだ…
duckt
duckt そもそもそういうのを「ロールモデル」って言うんか?
2019/07/29 リンク yellowyellowyellow
kozilek
kozilek 相手から「影響」を受けない付き合いに、何の意味があるのか。全く同じ個人はいないんだし、影響を受けた上で自分で消化すればいいだけ。それを隠していたのだけ、ちょっと失敗だったかもね。
HiroPiano
HiroPiano 全部真似されても嫌だけどなりすましアカウントはそりゃ恐怖だ。何が好きかわからないならこれから自分と向き合えば好きなものが沢山見つかる可能性があるのだから色々やってみて、増田の好きを楽しめるといいね。
amsfish
amsfish その人を真似したいというより、その人を真似して周りにちやほやされたかったんじゃないの?なりすましみたいなことは良くない。ロールモデルがあるのは別におかしくないと思う。
fourddoor
fourddoor 名言集だって、あたかも自分が考えたかのようにベラベラ披露してたら元ネタ知ってる人はドン引きするよ…増田がやったのはそういうことでしょ
puruuuun
puruuuun そういうのを解決するためのサービスになってほしいと、密かに応援してるサービスがある。https://camp-fire.jp/projects/view/158148
HanaGe
HanaGe 真似は誰もが通る道。でも成りすましはね、ちょっとね。ノートに「自分の取説」書いてみると、客観的になれるかもね。
onionskin
onionskin 学びがある
tripleflat
tripleflat 10代後半から10年くらいは自分も思い当たる節があるな。いろいろ恥ずかしい思い、反省を踏まえて今は自分で好きだと言えることを楽しんでいる。
bengal00
bengal00 増田が何がしたい人なのか明確じゃん。人のマネがしたいんだよ
ysync
ysync ストーカーチックなのがキモい原因じゃ?師匠扱いなら別にお互いさほど気まずくならんくね?
ymtk0815
Alice1017
Alice1017 “「映え」を意識して行動できなくなったら、見栄を誰に張っていいか、どう張っていいかわからなくなった。”映えを意識して見えを張ることでアイデンティティを保っていたのか
fatpapa
fatpapa 憧れてる人と同じ事をし同じ物を好きになりたいって同化欲求は多かれ少なかれあろうがSNSで晒し承認欲求をも満たそうとするのは自分に自信がないゆえか。いつまでも真似ばかりでは成長できず歯止めがきかなくなるから
nakab
nakab コピーなんてしようと思ったことないから、一種の才能なんだと思う。
namisk
namisk あゆとかあむろちゃんとかに熱狂して外見まで真似る周囲の女子たちが不可解だった。今は対象がSNSの有名人になるのね。距離が近い人を真似すると問題あるかもね。 増田 人生
ht_s
ht_s これ、会ったり手紙のやりとりしてなかったら特に問題ないのでは? 何から何まで真似してしまうほど憧れてる相手とリアルにつながったのがミスなだけで。真似された側は当然不気味でしょう。
droparound
droparound 絵とかもまずは模倣から入って自分の絵柄を探すものだし、ロールモデル自体は悪くないのでは。悪いのは自作発言だよね
2019/07/29 リンク yellowyellowyellowyellow
satovivi
satovivi なりすましをした理由を掘り下げていけばいいかも。したいことより、したくないこともいっしょに掘り下げるといいよ。徹底的にイヤイヤ言っていたら、絞り込み検索になるから。
abeeei
abeeei リアルでそれをやられた側になったことがあるのでトラウマを思い出した。/ お金や時間を使って試行錯誤した労力をかすめ取られたような気持ちになる。ぜひご自分で努力を重ねて欲しい、あともっと適当で良いと思う。
peketamin
peketamin 真似を通じてでも獲得した感性は自分のものだし、いいと思う。感受性が高くて器用だから理想が高いのかな。追い求めるのが苦しくても楽しければ辞めなくてもいいと思う。あとはこれは増田本人の話なのかどうか _FAV_
behuckleberry02
behuckleberry02 書物にロールモデルを求めてリアルで真似してた頃はなんの問題もなかった訳で。ネットとリアルを切断出来なくなった若い世代特有の問題っぽいな。とりあえず昔の人からロールモデルを探せば解決。
tsu_nyan
tsu_nyan みんな、誰かが作った服を着て、誰かが作ったものを食べて、誰かが作った家に住んで、誰かが作ったサービスを享受している。個性なんてものはその組合せに過ぎないから気にしなくて良いのでは
anepan
anepan 最初は戦慄してたけど最後まで読んだらなんか救われた気持ちになった
e_pyonpyon21
e_pyonpyon21 30年くらい前は、月刊誌に女優さんやモデルさんの長いインタビュー記事がきれいなグラビアと一緒に載っていた。いまはそれがSNSで各人ごとにカスタマイズされている。二十歳過ぎ?わかいわかい。
sand_land
sand_land 程度問題。
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2019/07/29 リンク yellowyellowyellowyellowyellowyellowyellow
itotto
itotto 真似してただけじゃなくてなりすましに近いことをしてたってこと?やり直せるかどうかは人によりけりだけど自分はこういう人は無理じゃないかなと思う。 増田生活雑記
2019/07/29 リンク yellow 9 clicks
toaruR
toaruR うんうん。ジュブナイル
heaco65
heaco65 なりすましがまずかっただけで、大なり小なりみんな誰かの真似で生きてると思うけどね
kkobayashi
rue325
rue325 私は、真似られるの大歓迎よ。全然気持ち悪くないし怖くないわ。人の真似をするって罪悪感を持たなくてはいけないことなのかしら…。
yubi1guitarbook
yubi1guitarbook 失敗の度合いによるでしょ?
Ayrtonism
Ayrtonism 「誰にも頼らずじぶんの言葉でなりたい姿を考えるべき」とは思わないな。むしろ、なりたい姿になって、でもSNSで発信する必要がないくらい自分のものにすればいいんじゃないかな。
hoihoitea
hoihoitea 運動と瞑想をしない者の末路はいつも悲惨だ。なぜやらなかったのか。もう駄目かもわからんね。 増田
viperbjpn
kimmugi
kimmugi タリーズで読んでたから最後の文書ちょっと怖かった
minoton
minoton こんだけロールモデルがいるなら、混ぜてアウトプットできれば、誰にも迷惑はかからないんでは
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false_alarm 相棒でもこういう話あったな、あれは麻薬売買とかに絡んでいったけど
roja123
roja123 自分以外は他人ということがわかってなかっただけ。他人へのリスペクトがあればこんなことは起こらなかっただろ。人はみんな他人のマネでできている生き物だからマネするのはしょうがないだろ( ・ω・)
akanama
akanama “一人だったら何がしたいとも思わない” … それはそれで才能だと思うから突き詰めてほしい。… 私は自分が好きなものを忘れてしまって、今もがいているので少し親近感がある。 応援はしてる自分語り
junglejungle
junglejungle 漫画の主人公に憧れて邪気眼のほうがマシだったか。
vaginally
vaginally 増田なんかやらない方がいい
iasna
iasna “だって自分だったら、自分みたいになりたくて自分の真似をして生きてる人がいるとしたら気持ち悪いっていうか、怖くない?”←だいぶあたまおかしいなこの人
natukusa
natukusa 自分なんかは寄せようとしても寄せ切れない「へたくそな模倣」しかできないので、影響元がわかるくらい「うまい模倣」ができるのは一種の適正に思う。当事者を怖がらせない範囲で、適度に使えば才能だよ。
ustam
ustam お、『世にも奇妙な物語』の新作かな?
q-Anomaly
q-Anomaly おおーすごい、レディコミの怪談話に出てきそうな。最後は外見まで入れ替わるやつ。実在するの?
deep_one
deep_one 割とよくあるやつ…
jinjin442
jinjin442 クソくだらねぇ。もっと大きな悩みを抱えてなくてよかったなとしか思えないが(というか早く最初の街を出て冒険に旅立てと)、いつか大きくなって見返してもらえたら悔し嬉しい。
pollyanna
pollyanna 人真似の寄せ集めで自己形成しようとする人はネットでもリアルでもよく見かけるけど、増田のこの文章はとってもおもしろいし、もうひとりだちしても全然大丈夫なのでは。「食戟のソーマ 美作昴」で検索だ。
cunlingusmaster
cunlingusmaster 憧れの先輩や同輩の真似するのって健全で、2年も経てばそんな時期もあったなくらいにしかならんのよね
timetrain
timetrain 自分も最初は隣のクラスのとんでもなくすごい同級生の真似というか劣化コピーだったので、それに気づいてからが人生の本番じゃないのかなと思う 増田人生SNS
kura-2
kura-2 見栄をはる必要のなさ。自分のために生きていないのは虚しい
pandachoco
pandachoco やり直せる。 パクるのは1人だけだからよくない。10人からパクって混ぜたらもうオリジナリティになる。みんなやってること。ただ、みんな誰から影響されたかあまり考えてないだけです。
white_cake
white_cake 全然やり直せるし、真似しているつもりでも続けていけばそのうちどうしても真似したくない、あるいは真似じゃないけどやりたいことが出てくる気はする。そんなに真似できることがすごいとも思うし。
2019/07/29 リンク yellow 87 clicks
ayumun
ayumun “自分みたいになりたくて自分の真似をして生きてる人がいるとしたら気持ち悪いっていうか、怖くない?” それが割と平気な人がなるのが芸能人ですやん。
gimonfu_usr
gimonfu_usr ( はてな匿名ダイアリは21世紀の純文学テーマの倉庫 ) web作法
north_god
north_god 自分の人生において主役になれない人は無理しても辛いので、誰かのファンとして尽くす人生もそれはそれでいいと思うんですよ。こんな数行で済む事を馬鹿にされないよう長々と書く人が我が道を行く何て無理でしょ
towerman
towerman 丸パクするからうまくいかないし、逆に、オリジナルを生み出そうとすると無理がある。少しずつバラして、寄せ集めて、ちょっとだけ変えれば、それはもう自分のものになる。
srng
srng こういうの、女性社会ではSNS外でも普通によくある話と聞いたことがあるが
aienstein
aienstein 全然大丈夫だと思うけど…3ヶ月でやるべき事を全部書いてみる、次にその中に「ちょっとやってみたい事」、気になる映画を見るとか、名前だけ知ってる温泉に行くとかを織り交ぜていくのは。色々やってみるのが大事。
nowandzen
dora_m
dora_m ブコメが自分を空っぽだって認めるところがスタート、と言ってる人が多くて意外だった。能力が無いし辛いとかはよく思うけれど、自分を空っぽだと思ったことは(短時間とかはあるけど)なかったから
dbfireball
dbfireball 「ロールモデルとして参考にしてた」っていうより「熱狂的なファン」だった感。相手が芸能人だったら何も問題はなかったんだろうけどね。 社会
nuu_n
nuu_n 簡単に自分の好みや思いを足せって言う人いるけどその好みや思いが他人と丸被りなんだろう。その結果自分がなくなったように錯覚する。それが嫌なら自分の好みを曲げてでもあえて人が選ばなさそうな選択を心がけては
kagecage
kagecage 心の声を聞くんだ、ってトイストーリーでもいってたなあ
Ereni
Ereni 好きだと思うものって、自分とどこかしら似てるんだと思う。そういうのは後から気づく事がある。ネットだと意識が肥大化するのでやり過ぎになりがちで、その自分を客観的に見れるのならまあ大丈夫ではないのかな。 増田
yoiIT
yoiIT 何かにならなくて良いよ。モブの人生を受け入れよう。
pandaman47
pandaman47 無駄な労力は費やしたくないからインプットは大切だけど意思決定までコピペはまずいよね。持ち家派/賃貸派とかのライフスタイル選択とか政治の右派/左派とか根深いレベルでもあり得る話なんで気をつけたい。
chikayours
chikayours 何者にもなれないのが自分であるということの受け入れどきでは?その後にどうするかで決まると思うよ。誰もが何者かになれるわけじゃないからね…そしてそれは悪いことじゃなくて、ほぼ全ての人が当てはまる。
2019/07/29 リンク yellowyellowyellow
hungchang
hungchang こんなヤバい奴がこんなにも自分を客観視できるものなのか。 増田
2019/07/29 リンク yellow 6 clicks
Ni-nja
Ni-nja 参考元が近過ぎただけで、雑誌の読モとかインスタインフルエンサーはむしろウェルカムだと思う。彼女の作った成果をパクるんじゃなくて彼女の元ネタを聞ければよかったのかな 増田人生考え方
2019/07/29 リンク yellow 5 clicks
alt-native
alt-native そこまでわかってるなら とくに言えることはない。時間が解決するし、黒歴史になるだけ。誰だって 黒歴史の2つや3つ 抱えてる。清いまま生きてる奴なんかいない。
perl-o-pal 何言ってるの?自分は空っぽだ、って気づく所が大抵の人の出発点じゃない?//まあ、SNSの人からは嫌われたかもだけど、周囲の人からは支持されてるんだからいいんじゃない?
Recheru
Recheru 憧れる人がいて羨ましい。わたしは美人にしか憧れることが出来なくて、それ以外の女性のどこが優れていても憧れは持てないから、目指すことができない。こういう考え方を忌み嫌ってるのに、自分がまさにそれ。
houyhnhm
houyhnhm 邯鄲の歩み、というやつだなあ。別に何も真似せんでええんやで。
2019/07/29 リンク yellow 5 clicks
shikiarai
shikiarai お前はお前だ。自分で分からなければ人に聞け
chihiro-ikw
ikarino-ikaring
練り物は、自作に限る。 市販の、あのツルリとして計算され尽くした弾力も悪くはない。だが、宇宙の真理に触れようとする者が、誰かの手によってパッケージングされた「完成品」に甘んじていてはいけない。
私は冷蔵庫からアジを取り出した。 三枚におろし、皮を剥ぎ、ぜいごを取り除く。包丁の腹で叩き、粘り気を出していく。この、銀色の皮膚を持った生命体がドロドロの肉塊へと変貌していくプロセスこそが、エントロピーの増大を象徴している。
そして、ここで私の「秘儀」を投入する。 まな板の隅で出番を待っているのは、黄金色に輝く「たくわん」だ。
おでんの具材としての練り物に、たくわん。 一見、調和を乱す異分子のように思えるかもしれない。だが、この細かく刻んだたくわんこそが、混沌とした宇宙を一つに繋ぎ止める「重力」の役割を果たす。
トントントン、と軽快な音が響く。 たくわんを刻むたびに、大根が天日干しされ、糠に漬けられ、時間をかけて発酵してきた記憶が解放される。それは土の記憶であり、太陽の記憶だ。
アジのすり身という「海の混沌」に、たくわんという「陸の秩序」を混ぜ合わせる。 これを丸めて鍋に放り込む。 アジの脂が溶け出し、たくわんのポリポリとした食感が、柔らかすぎる世界に「核」を与える。
一口、その自作の練り物を噛み締める。 その瞬間、脳内でビッグバンが起きた。
「……美味い」
ただの美味ではない。これは「調和」だ。 たくわんの適度な塩気と、発酵由来の酸味。それがアジの生臭さを高潔な旨味へと昇華させている。 そして、何よりもこの「食感」だ。 柔らかいすり身の中で、たくわんが弾ける。その振動が歯茎を通じて頭蓋骨に響き、私のニューロンを直接刺激する。
その時、私は確信した。 「たくわんを食べれば、地球は平和になる」
突飛な発想に聞こえるだろうか。だが、考えてみてほしい。 紛争、格差、ネット上の誹謗中傷。それらすべての根源は「自分と他者は相容れない」という分離感にある。 しかし、この練り物を見てほしい。 アジという動物性の暴力性と、たくわんという植物性の忍耐が、一つの団子の中で完璧に和解している。
もし、国境を争う指導者たちが、あるいはキーボードを武器に誰かを叩き続ける荒らしたちが、この「たくわん入り練り物」を一口でも食べたらどうなるか。 彼らの口内には、海と陸の融和が訪れる。 たくわんのポリポリという音は、脳波をアルファ波へと導き、攻撃的なホルモンを抑制する。 「あ、自分は今まで何をカリカリしていたんだろう。たくわんの方がよっぽどカリカリしていて心地よいのに」と、彼らは気づくはずだ。
たくわんとは、待つことの象徴だ。 大根が収穫され、干され、漬け込まれる。その気の遠くなるような時間を経て、初めてあの黄金色の輝きと深みが生まれる。 現代社会に足りないのは、この「漬け込みの時間」ではないか。 即レス、即リプライ、即論破。 誰もがスピードという病に侵されているから、言葉が尖り、刃物になる。 だが、たくわんを噛み締めている間、人は喋ることができない。ただ、咀嚼という内省の時間を与えられる。
私は鍋を見つめながら、壮大なプロジェクトを夢想した。 国連の議場に、巨大なおでん鍋を持ち込む。 各国代表に、私が今朝叩き上げたばかりのアジとたくわんの練り物を配るのだ。 重々しい沈黙。そして、会場に響き渡るポリポリという軽快な咀嚼音。 その音は連鎖し、やがてオーケストラのような調和を生むだろう。
アジ(海)とたくわん(陸)の結婚。 それは、対立する二元論の終焉。 おでんという宇宙の中で、すべては一つの出汁に溶け込み、たくわんという平和の種子がその中に点在する。
私はスマホを手に取り、先ほどの掲示板をもう一度見た。 相変わらず、荒らしが誰かを執拗に追い回している。 私は、彼をNGにするのをやめた。 代わりに、心の中で彼に「たくわん」を差し出した。
君の心の中に、まだ発酵していない大根があるのなら、私がそれを漬けてあげよう。 君が誰かを傷つけたいと思うそのエネルギーを、アジを叩く力に変えてみないか。 そうすれば、君の手元には「憎しみ」ではなく「美味しい練り物」が残るはずだ。
私はおでんの汁を最後の一滴まで飲み干した。 身体が芯から温まり、細胞の一つ一つが「平和」の信号を発している。 宇宙の真理は、図書館の難解な書物の中にあるのではない。 台所のまな板の上、叩かれたアジと刻まれたたくわんが混ざり合う、その境界線にこそ宿っているのだ。
窓の外では、夜の街が静かに息づいている。 明日、私は出社し、同僚たちにたくわんを配ることから始めようと思う。 小さな一歩かもしれないが、それは地球を巨大なおでん鍋という理想郷へ導く、確かな第一歩になるはずだ。
昨年(anond:20241217085132)に引き続いて挙げてみる。今年は元日から今日までのあいだに296冊読みました。いまはアンドリ・スナイル・マグナソン『氷河が融けゆく国・アイスランドの物語』(2019年)とR・F・クァン『バベル オックスフォード翻訳家革命秘史』(2022年)、ジョセフ・ヒース『資本主義にとって倫理とは何か』(2023年)、かまど&みくのしん『本が読めない33歳が国語の教科書を読む』(2025年)を読んでいるところ。
ちなみに上の冊数には漫画は含んでいないのだけれど、漫画は数えてないから何冊読んだのかわからない。とりあえず『微熱空間』『ひまてん!』『うまむすめし』『ルリドラゴン』『祝福のチェスカ』『放課後帰宅びより』『拝啓、在りし日に咲く花たちへ』『桐谷さん ちょっそれ食うんすか!?』あたりが好き。あと最近ようやく『LIAR GAME』と『ナナマルサンバツ』を読んだけど超面白かった。ウマ娘だと、去年はシーザリオに狂っていたけど今年はブエナビスタにどハマリしています。ブエナ、実装されたら絶対引きたいと思ってたから80連で引けてよかった。ビリーヴシナリオもラヴズオンリーユーシナリオも良かったし、ようやくラインクラフトも入手して育成できたし、来年こそカレンブーケドール実装に期待だな!
欧州文学だと、フランス文学のサン=テグジュペリ『人間の大地』(1939年)やアイスランド・ミステリのアーナルデュル・インドリダソン『厳寒の町』(2005年)、バスク文学のキルメン・ウリベ『ビルバオ-ニューヨーク-ビルバオ』(2008年)も非常に良かったのだけれど、どれか1つと言われたら迷った挙げ句にアルバニア文学の本作を推す。ノーベル賞を獲りそこねたアルバニアの国民的作家イスマイル・カダレの作品で、10年以上前に『死者の軍隊の将軍』(1963年)を読んで以来。復讐という因習によってふたりの青年の軌跡が交錯し破滅へと導かれるという、銃声のような余韻を残す一冊だった。エンヴェル・ホジャの独裁政権下という執筆の時代背景もあってか『死者の軍隊の将軍』同様にやたらと雰囲気が暗く、Wikipedia先生とか地球の歩き方先生とかを参照するにいちおうビーチリゾートとかが盛んな地中海の国であるはずのアルバニアをここまで暗鬱に描けるのは逆にすごい。アルバニアの高地に心が囚われていく描写がすごいのよ。こっちも引きずり込まれそうというか。
何年も前に『雪が白いとき、かつそのときに限り』(2017年)を読んで面白かったので本作も買ったのだが長らく積読になってしまっていたので思い切って崩してみた。女と女の重い感情が全編にあふれていて最高だった(粉みかん)。巫女の伝統によって歪められる幾通りもの女と女の関係が胸を裂くような切なさを漂わせていてエモい(語彙力)。古代中国百合ミステリというオタクの好きなものを詰め込んだハッピーセットなので読みましょう。
軍艦が出てきて艦隊決戦とかするみんな大好き宇宙戦争スペオペかと思わせておいて、いやもちろんそういう作品でもあるのだけれど、根本的に異質な知性との交渉過程がセンス・オブ・ワンダーに溢れていて最高だし、高度な知性体だと思ったら実はプランクトンとして生まれ共食いしながら成長していく生物だったというのものすごい発想で驚嘆させられたし、徐々にこの世界の起源が明らかになっていくの面白すぎるでしょ。タイトルの兵站要素は徐々に影が薄くなっていくかと思いきや最後まで割としっかり描写されるし謎のイチャイチャシーンも増える。なぜ。とにかくすごく良いSFでした。
カラオケやウォークマン、ポケモンといった戦後日本を代表する発明品やソフトパワーがどのように作られていったのか、という歴史を掘り起こす書物で、非常にエキサイティングな読書体験だった。町工場のおっちゃんがふと思いついた小さなアイデアが不格好な試作品を生み、それらが徐々に洗練されてやがて日本や世界を席巻するという歴史としての面白さとサクセスストーリーとしてのワクワクが詰まっている。外国出身の歴史家が書いたとは信じられないほどに同時代史料や当事者のインタヴューを積極的に活用していたり、オリエンタリズムに陥ることなく個々の発明家の物語として語られているのも好感度が高い。大満足の一冊。
外国人研究者の日本研究だと、ほかにスーザン・ネイピア『ミヤザキワールド』(2018年)も良かった。日本社会のコスモポリタン性がクリエイターの土壌となっていることを英語圏の読者に向けて解説してるところ、根強く蔓延るオリエンタリズムを駆逐しようという気概に満ちていて好き。ただ『もののけ姫』に関する記述で照葉樹林文化論に触れてくれるのはすごく良いのだけれど網野善彦には言及があっても良かったのでは(旧著では言及してるんだし)。ノア・スミス『ウィーブが日本を救う』(2025年)の提言は非常に面白かった(経済学に疎くてよくわからない箇所も多々あったけれど)。
超・超・超傑作。面白すぎる。いや今更すぎるけど。もうとっくに面白いって知れ渡ってるけど。でも増田が読んだのは今年なんだよ! なんでこれをもっと早くに読まなかったんだろう? SFの面白さを四方八方から浴びせられて読むのが止まらなかった。そしてSFとしてだけではなくバディものとしても100点満点中300点くらいの出来だという。「いまいくからな、バディ。待ってろよ」のシーンほんと大好き。ぼくは洩れやすい宇宙のぶよぶよの塊。ぼくは本作を読む、映画を待つ。よい、よい、よい!
上述のとおり増田は流行についていけないマンなのだが一昨年になってようやく青崎有吾の存在に気づき、『体育館の殺人』(2012年)にはじまる裏染天馬シリーズとか『アンデッドガール・マーダーファルス』(2015年~)とかを昨年までに履修したのだが、今年に入ってから本作と『ノッキンオン・ロックドドア』(2016年)を読んだ。勝負事に対して天才的な嗅覚を持つ女子高生が次々と独自ルールのゲームに勝利していく話なんだけど、詰みに持ってくまでの伏線とロジカルさがすごいというか。しかもほのかな百合要素まであるんだよ。もう最高。毎話クライマックスにさしかかる度に「あれって伏線だったんだ!」と心の中で叫んじゃったもん。ルールには合致していても刑法に引っかかるだろ! みたいな絡め手がバンバン出てきて感覚麻痺してくる。好きな話は表題作と「だるまさんがかぞえた」かなぁ、やっぱり。だーるーまーさーんーがーかーぞーえっ! ……えっ? 漫画版、絵がどっかで見た人だと思ったら『めだかボックス』の人なのね。超納得。
同じく今年履修した『ノッキンオン・ロックドドア』では「十円玉が少なすぎる」が一番好き。タイトルから察しがつくようにみんな大好き9マイルものです。「十円玉が少なすぎる。あと5枚は必要だ」という謎めいたセリフをもとにすごい結論へとたどり着いていてよかった。発想のロジカルな飛躍は9マイルものの醍醐味だよなぁ。
今年読んだ日本の学術書の中ではいちばん面白い。戦後日本のSM雑誌を博捜し、「変態性欲」の論争のなかに分け入りながら、投稿者の正体を暴きエリートたちがSMを通して戦後民主主義を生きようとした姿を浮かび上がらせている。戦後に生まれたSM雑誌の系譜を整理する第1部の時点で既にガッチガチの実証研究すぎて圧倒されてしまうが、第2部以降が本番というか、脳汁ドバドバの快楽を味わえる。女性解放を唱える歴史学者が筆名でSM雑誌に投稿していた、というだけで既に面白いのだが、著者はテクストを丹念に読み込むことで、彼の歴史学者としての女性解放論とSM論が相互に補完しあう関係であり、戦後民主主義の実践とサディズム・マゾヒズムが彼の中では繋がっていたことを明らかにしていく。また、第3部では『家畜人ヤプー』の再評価にも挑み、作者をとある裁判官だと特定したうえで、マゾヒズム小説だと思われていた作品の新解釈を提示する。戦後思想史をSMから読み直すという非常に大胆な本だった。「豚に歴史はありますか」ってそういう意味だったんだ。むっちゃオススメ。
おっさんと少女のバディもの、みんな好きだよね? 増田は大好物だ。ということで本作はバディものとしてもミステリとしても非常に上質だったので最高だった(語彙力)。瀕死の重傷を負い「幽霊」になった主人公と少女がタッグを組んで少女の両親を殺した犯人を追い詰めていく話なのだが、謎解きが二転三転し次々とどんでん返しが襲い来る構成で目が離せない。傑作ミステリですわ。個人的には◯◯さんには生きていてほしかったな……
2015年に始まったシリーズが10年ごしで完結した。めでたいめでたい。姉弟子と一番弟子の怪獣大戦争がついに決着。もう納得するしかない決着でしょうこれは。あと正妻戦争も完全に決着。天衣ちゃんが澪ちゃんに超弩級のデレをかましていてすごい(語彙力)。桂香先生、ギャグ方面に振り切るかと思いきや泣かせてくるのはズルいでしょ。ちくしょうそういえばこの作者はネタキャラ扱いでさんざんイジっておいて最後に泣かせる芸風だったな(山刀伐さんファン並の感想)。そしてラストが美しすぎる。オタクは序盤の再現が好きなので……。いや~、10年続いたシリーズにふさわしい大団円で最高でした! まあ、でも、それはそれとして女流棋士制度は歪んでるので是正(というか廃止)すべきだろなという思いを新たにした。もちろん民間団体だからムリヤリ廃止するなんてことは結社の自由があるのでできないが、将棋連盟からは切り離すべきでは。
百合SFアンソロ『アステリズムに花束を』(2019年)に掲載された短編が長編になったやつで、リアルタイムで読んでいたものがついに完結した。体格差のある百合カップルが男女の婚姻しか認められないガス状惑星社会で漁をしながら関係を築いていく宇宙SFなんだけれども、まず設定がすごい。その漁で獲るのは普通の魚ではなく、ガスの海を泳ぎ回る昏魚(ベッシュ)たち。そして彼女たちが操るのも普通の漁船ではなく、粘土を自由自在に変形させて網を編み上げる船。ガス状惑星に発生した特異な生命といえばやはり著者の代表的な短編の1つ「老ヴォールの惑星」(2003年)が思い浮かぶし、なんなら著者の最高傑作『天冥の標』(2009~2019年)でも描かれてたわけだけれど、それらの設定を超える宇宙生物を出してきていて最高。本作(4巻)はその宇宙を駆ける2つのサイクロンの物語の大団円だ。惑星規模・宇宙規模での繁殖というでかい問いをどーんとぶち上げてくるのさすが小川一水という貫禄だし、宇宙レベルの話と「ふたりの話」を並行してSFと百合を両立させているのはセンス・オブ・ワンダーの極みと言ってよい。非常に良い作品でした。『天冥の標』で従来の小川一水成分を絞り尽くしたと思ったらまた新しい境地に達していて素晴らしい。
表題のとおりです。
事の発端は、12月12日に飯田一史さんは記事「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はどこが間違っているのか(抄)」 https://ichiiida.theletter.jp/posts/0aa160a0-d70f-11f0-aa07-8582de6095b5 (以下、飯田の批判)において、三宅香帆さんの著作『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1212-b/ (以下、三宅本)の誤りを指摘したことでした。
これに対し、翌日の13日に三宅香帆さんは記事「「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はどこが間違っているのか」はどこが間違っているのか」https://note.com/nyake/n/na2d317b47bc5 (以下、三宅反論)を投稿し、飯田の批判に対する反論を試みました。
このエントリでは、両者の主張に対する見通しを良くすることを目的に、飯田批判と三宅反論の論点を整理したのち、それぞれの問題点を指摘していきます。
まとめたのは人文系の話には疎い人間のですので、誤りも多いかと思いますので、まあ話半分で読んでもらえればと思います。
なお、飯田批判は、飯田一史さんの新著『この時代に本を売るにはどうすればいいのか』(星海社新書)https://ji-sedai.jp/book/publication/konojidaini.html からの抜粋であることを念の為補足しておきます。
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📰 0. 三行要約(問題点)
・飯田批判は、特に「三宅本は(出版流通における)「書籍」と「雑誌」を分けていないからダメだ」という主張に相当問題があると思う。
・三宅反論は、そもそも「反論」できてない。言い換えると、飯田の論理展開をあまり追えておらず、誤読を基に論理を展開するため実のある話があまりない。
・三宅反論は、三宅本の議論の前提に基づく問題を、あたかも飯田のデータ処理の問題にすり替えていて、個人的にあまり心象が良くない。
以下、飯田批判と三宅反論についてより詳細に検討していきます。
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飯田の批判の主張とその根拠、主張を正当化する論証について整理を行います。
理屈が明晰な箇所もある一方、煙に巻くような箇所もあって、議論を追うのはすこし大変だったような印象です。
・直接的には指摘ではないものには「◯」
また、論拠を準備していない主張には大括弧[]で囲っておきます。
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(「・働き始める前から読書量は減り、働き始めた後も日本人の読書量は減らない」の節)
◎主張1-1. 三宅本は、労働により読書量が減少することを前提にする。
しかし、これは誤りであり, 読書量は労働が始まってから変化してはいない。
<主張1-1の論証>
根拠1-1-1および1-1-2は, 読書量の低下は, 労働が始まる前の現象で、それ以降では起きていないということを示す。
これは、三宅本の前提を棄却するデータであり、ゆえに主張1-1が示される。
<論証おわり>
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◯主張1-2. 書籍における「買う」(=出版売上)と「読む」(=読書量)の間の関係は明白ではない。
<主張1-2の論証>
*根拠1-2-2. データ: 紙の書籍の推定販売金額と月の平均読書冊数
根拠1-2-1, 1-2-2, 1-2-3のいずれも、書籍に関しては、「買う」の増減から「読む」の増減を帰結することやその逆を主張することは難しいことを表している。
<論証おわり>
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◯主張2-1. 雑誌における「買う」(=出版売上)と「読む」(=読書量)の間の関係は明白である。
<主張2-1の論証>
*根拠2-1-1. データ: 紙の雑誌の推定販売金額と月の平均読書冊数
根拠2-1-1は、雑誌に関しては、「買う」と「読む」の間に相関があることを示している。
<論証おわり>
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◎主張2-2. 三宅本では、書籍と雑誌の区別ができていない。
<主張2-2の論証>
根拠2-2-1は、三宅本において雑誌と書籍を区別できていないことを示している。
<論証おわり>
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[◎仮設2-3. 三宅本は、「読書離れ」を論ずる際には雑誌と書籍を区別するべきである。]
(これは明示的に飯田批判にあらわれていないが、以下の主張2-4の論証において機能する暗黙の前提である、と私は思う。)
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◎主張2-4 三宅本は、『読書世論調査』における「読書時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張する。しかし、これは不適切である。
<主張2-4の論証>
*根拠2-4-1. 「読書時間」は「書籍+雑誌との接触時間」である。主張2-1から、雑誌の接触時間は減少傾向であると推察されるので、
「読書時間」の減少は(書籍ではなく)雑誌との接触時間の減少と解釈するのが自然である。
*根拠2-4-2. そもそも「読書時間」もそれほど減っていない。
*根拠2-4-3. 『読書世論調査』の総括では, 読書率はあまり変化がない.
根拠2-4-1, 2-4-3から、 「読書時間」の減少は書籍との接触時間の減少を導くのは難しい。
[仮設2-3]から, 「読書離れ」は特に書籍の読書時間減少を意味すると解釈するべきであり、
また, 根拠2-4-2の存在は、特に読書時間の減少が生じていないことを示唆する。
<論証おわり>
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◎主張3-1. 三宅本は、日本人が現在も長時間労働であることを前提にしている。
しかし、労働時間を「全産業平均」の観点で見たとき、この前提は不適当である。
<主張3-1の論証>
*根拠3-1-1. 厚生労働省「わが国の過去50年間(1973年~2023年)の労働時間の推移についての考察」
<論証おわり>
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◎主張3-2. 三宅本は、次の(i), (ii), (iii), (iv)を主張する:
(ii) 自己啓発(労働による自己実現)のための読書(=「情報」摂取型、「ノイズを除去する」「〈社会〉を遠ざける」)時間が増加した.
(iii)代わりに、人文書や小説などのための読書(=「アンコントローラブル」な「ノイズ」や「他者の文脈」を含む)時間が減少した
(iv) 読書離れと自己啓発書の伸びはまるで反比例のグラフを描く
<主張3-2の論証>
*根拠3-2-2. グラフを書くだけの定量的な根拠はない(提示されていない)
根拠3-2-1から、労働者の 「自己研鑽」 = 「学習・自己啓発・訓練(学業以外)」の時間は減少している。
これは(ii)を否定する。
主張1-1および(ii)より(iii)は成り立たない。((iii)が成り立つためには(ii)が成り立つ必要があるため。)
根拠3-2-2は、(iv)を否定する。(少なくとも、(iv)の主張を肯定するだけの理由はない。)
<論証おわり>
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◎主張3-3. 三宅本では、自己啓発書市場の拡大から自己啓発書のほうが文芸よりも市場が大きいかのように解釈する。
言い換えれば、次の(1),(2)を主張する:
(2)(1)が正しいのであれば、「自己啓発書のほうが文芸よりも市場が大きい」は正しい。
<主張3-3の論証>
根拠3-3-1は、「年間ベストセラーにおける自己啓発書の冊数割合は増大している」ことを主張する。
しかし, 根拠3-3-2は 自己啓発本の市場は小説市場よりはるかに小さいということを意味する。
これは、(1)が正しいのに「自己啓発書のほうが~」が間違っているので、(2)は正しくない。
<論証おわり>
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[◎主張3-4, 三宅本は, 上の(1), (2)が成立するとしていたことが原因で、(i)から(ii)および(iii)を導いた]
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以下で、飯田批判を読んでいたときに、個人的に気になった点を列挙します。
●飯田主張2-4について:「書籍」と「雑誌」の区別は本質的か?
主張2-4の背後には「書籍と雑誌は分別するべきである」という暗黙の前提(仮設2-3)があるように思う。
三宅本の「読書」から「雑誌」を除外することは本当に妥当かを考えたい。
といっても自分は出版業界の人間ではないので正しい理解かは怪しいのだが、調べた範囲のことをまとめておく。
(間違ったこと言ってたらごめんなさい)
「書籍」「雑誌」の辞書的な定義はたとえば布川ほか編『出版事典』(出版ニュース社)のp.217およびp.167にある。
ざっくりまとめると「書籍」と「雑誌」の違いは一定の編集方針の下で定期的に刊行されているかどうかという部分のようである。
これは、1985年のユネスコの出版統計上の「図書」と「新聞及び定期刊行物」の違いともおおむね合致しているように見える。
("図書、新聞及び定期刊行物の出版及び配布についての統計の国際的な標準化に関する改正勧告". 文部科学省. https://www.mext.go.jp/unesco/009/1387396.htm)
より実際的な取り扱いは, "既存の雑誌が「創刊」とは、これ如何に". 出版科学研究所オンライン. https://shuppankagaku.com/column/20070111/
によれば、
そもそも本というのは「書籍」と「雑誌」に大別されますが、出版業界では「雑誌コード」が付されたものを厳密に「雑誌」と区分しているのです。
一見雑誌のように見える本も、このコードがなければ「雑誌」ではなく「書籍」ということになります。
ということらしい。(しかし、これはあくまでコラムの中の記述でありカチッとした話ではないことに注意)
「書籍」と「雑誌」の実際上の取り扱いの違いは、「雑誌コード」の有無、つまり流通上の取り扱いの違いから生まれてくるという。
日本では、「書籍」はISBNコードを持ち、「雑誌」はISSNコードや雑誌コードを持っている。
その中間にあたるムック本では、ISBNコードだけでなく雑誌コードも付随しているようなものは「雑誌」の対象とするようである。
("「雑誌」の定義と出版統計". 出版科学研究所オンライン. https://shuppankagaku.com/column/20060911/)
ともかく、「書籍」と「雑誌」を分けるのは明らかに内容やジャンルではない。定期的に刊行するかどうかであったり、それを根拠に雑誌コードが付いているかどうかだったりである。
コミック誌を除外したとしても、『anan』のようなファッション誌もあれば『文學界』や『オール読物』のような文芸誌も、また『Nature』や『ナショナルジオグラフィック』のような理工系の雑誌もまとめて「雑誌」にカテゴライズされる。
さらに言えばサイエンス社の『SGCライブラリ』シリーズの書物は, それぞれ内容的に全く独立しており実質的に単行本ではあるのだが、『SGCライブラリ151』までは『数理科学』の臨時別冊という扱いだったのでそのカテゴリは「雑誌」になっている。(なお『SGCライブラリ152』以降は「書籍」である)
一方、書肆侃侃房の『文学ムック たべるのがおそい』は確かにムック本ではあるが、雑誌コードを取得しておらず取り扱いは「書籍」であった。
このように「書籍」と「雑誌」の区分はそもそも出版流通上の区分であり内容面での区分ではないばかりか、その区分が出版物の実情と必ずしも合致しているわけでもない。
この区分はかなり表面的、形式的なものであると見るべきだろう。
・以上を踏まえて、飯田の批判、つまり「書籍」や「雑誌」という出版流通における区分の不徹底でもって三宅本を批判したことの妥当性ついて吟味してみよう。
それは、「「書籍+雑誌との接触時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張するのは不適切である」(主張2-4)という批判である。
そして、なぜ飯田が「不適切である」と主張するかといえば、「書籍」と「雑誌」は分けて考えるべき(仮設2-3)だからと考えているからであり、
特に三宅本の「読書離れ」の定義としては「書籍の読書量(≒読書時間)の低下」を採用するほうがより妥当である、という飯田が信念を持っているからである。
ここで注意したいのは、主張1-2, 2-1は「「書籍+雑誌との接触時間」の減少を根拠に「読書離れ」の存在を主張するのは不適切である」(主張2-4)の根拠ではない。
飯田はその直前に「「書籍の読書量と出版売上」の相関は弱い(主張1-2)一方で、「雑誌の読書冊数と出版売上」が正の相関関係にある(主張2-1)という事実を指摘してはいるものの、飯田はこれらを「読書量を測定するにあたって「書籍」と「雑誌」を区別するべきである」(仮設2-3)の根拠にはしていない。主張2-4は仮設2-3からは出てくるものの、主張1-2, 2-1には立脚していない。三宅反論で大いに誤読したのは、主張1-2, 2-1があたかも主張2-4の根拠になっているかのような書きぶり、配置の魔術ゆえであろう。
ともかく、飯田の批判の妥当性を吟味する際はこの信念「三宅本の「読書離れ」の定義としては「書籍の読書量(≒読書時間)の低下」を採用すべきである」という部分に注目すればよい。
三宅本で対象としている「読書」は、大方「人文書や小説などのような(「ノイズ」や「他者の文脈」を含む)書物を読む行為」と解釈するのが妥当だろう。
したがって「読書離れ」は「人文書や小説などの書物を読む頻度が減ったり、そのために費やす時間が減少している」ということだろう。たとえば理工書や技術書、ファッション誌、ゴシップ誌などを読むことは端から三宅本の「読書」に含まれていないと見るべきである。
転じて言えば、たとえば「雑誌」であっても文芸誌を読む場合は「読書」に含まれるべきだろうし、「書籍」であっても理工書を読むことは「読書」に含まれない(と三宅本では考えている)かもしれない。
要するに、「読書」といったときに、読まれるべき書物を分類できていないと批判するならば、むしろそのジャンル(文芸・歴史書・哲学書・理工書・サブカル・ゴシップ・ファッションなど)の違いに着目するべきなのであり、出版流通における「書籍」「雑誌」という区分は、少なくとも直接的には重要でないだろう。もしこれが重要なのであれば、それは驚くべきことなので、別でこれを論証すべきである。
もちろん、おそらく「雑誌」の出版売上の中でファッションやゴシップが支配的で文芸誌や理工系雑誌は影が薄いだろうから、その意味で「書籍」「雑誌」の区分で売上を観測することがジャンルの傾向をよく記述するとは言えるかもしれない。言い換えれば、「ジャンルによる読書量の違い」を捉えるにあたって「出版流通における Permalink | 記事への反応(0) | 20:21
46歳男性。3児の父です。
最近この先の人生の方向性に迷っており、何を目指して生きていこうかと日々悩み中なのでアドバイスをもらえたらうれしいです。
現在こんな感じです。
自分で書いてて別に何も不満に思うことないじゃん、という気もするし、「こいつすごく恵まれてるくせに何を言ってるんだ」という感じがします。感じ悪いです。読んで不快になった人もいるかと思います。ごめんなさい。
でも、「熱中できず、満足できなくて、日々鬱々としている」のです…。
究極的には人生なんてずっと暇つぶしなのだから、時間の無駄とか、自分の成長がとか言ってないで何か楽しいことをやって満足できればいいのだろうというのは頭ではわかっているのですが…。
小さいころからずっと、稼げるようになるために勉強しまくって、ブラックな職場でも頑張って仕事しまくって。子供ができてからは子供に時間をささげまくって。ひと段落しちゃってやることなくなって趣味に力を入れてみたけど、いろいろと思い通りにいかなかったり先が見えてきてしまって。
よく言う、仕事ばっかりやっていた人が退職した後にやりがい無くして…みたいな感じの軽いやつを今味わってる気がしてます。おそらく多くの人が状況は違えど多かれ少なかれこういう感じになる時期があるんじゃないかと思うのですが…。
こういう時ってどういう感じで思想を広げて、感じ方を変えていけるんでしょうか?
きっと、現状を変えるという手もあるけど、完全に今の状況のままで心穏やかに毎日満足しながら幸せに過ごせる感じ方に自分が変われればそれでよいのだと思うのですけれども。
頭ではそう思っててもなかなかそうはいかないんですよね。
同じように感じていたところから、感じ方が変わった人がいたら、どういう経緯をたどったのかなど教えてもらえると嬉しいです。
アリババです。一ヶ月ほどインターン勤務を離れて充電してきたところ。
乃木坂(村を荒らしてきた46人の盗賊団)の首領Fidoに狙いを定めた。奴は俺の遣唐使生活を掻き乱した悪人だが、急がば回れ、ここで恩を売ってアピールしておくのだ。実はFidoは、村では変装して、零細の飛脚屋を営業している。白髪混じりの髭をツルツルに剃って、黒髪の鬘を被り、村では、寄付をしないケチな実業家として知られている。労働基準法もびっくりの二重賃金価格を設定して、人の移動から引越しまで、社員をこき使っているのだ。
さて、俺は大陸で禅の修行をしていたある日、「アールワン」と禅師が叫ぶのを聞いた。日本語でいうところの、「喝」と考えてもらっていい。その瞬間、俺は閃いてしまったのだ。これは、Fidoの運送業務の難題を解決する新規経路アルゴリズムの鍵となる可能性を秘めていた。そこで俺は、派遣末期にインディードをiPadで検索し、そこにしれっと出ていたFido飛脚屋に応募、いや正確には、なにくわぬ顔をしてFidoにコンタクトを取った。Fidoは、「どうしてもやりたい事が見つからなければうちに来てもいい」と言ってきた。勿論俺は、そんなチンケな飛脚屋で飼い殺しにされるつもりはなく、禅の公案を考えていた最中に浮かんだアイデアを試したいだけだ。
ところが生憎、Fidoは初め俺を奴の素晴らしいアイデアを証明するための突破口へと突撃させるポーン♟️として利用しようとした。俺は「毒蛇は急がない」というどこかの国の諺を知っていたので、殊勝顔で業務を遂行するフリをした。糸口としては面白いが、今俺が身を切る理由はどこにもないので、客観的に業務日誌を付けるよう心がけた。
遂に好機がやってきた。ある夏の日、最新の大陸の禅書に、アールワン(とはどこにも書いてなかったが)を売り込む口実を見つけたのだ。衒学的なFidoは、飛脚屋だが最新の禅書を揃えて並べるのを趣味としている。書物の配列に暗号を仕込んであるらしいのだが、俺の頭では解読できそうもない。
早速俺は、Fidoへの業務報告の機会にPRを始めた。「これは大陸の権威ある禅者が著したもので、このように言ってます。これが斯界の新潮流です。しかしながら、文脈Qで、世界でアールワンの謎に気づいているのは私だけです。これがうまくいけば、我が社の経路探索問題の解決に質的な飛躍が起きます。つまり、全ての道はローマに続くことが分かれば、飛脚は走るだけで良いのです」
その時、Fidoの眼が黒く光ったのを俺は見逃さなかった。これで我が社も一息つける、天下りのネタに使おう、そのために馬車馬となってもらおう、等々。大陸で孫子の兵法を学んだ俺は、学究心に溢れた修行僧のように見える目つきをして、このFidoの皮算用を逆に利用することにした。Fidoがこれを読んでヘソを曲げられても困るので、詳細は書かない。
必ず一年に一度、俺はなぜか無性にピザを食べたくなり、国際ピザシンジケートのホームページから、ピザ屋の広告を眺めた。すると、あら不思議、いつもその直後にFidoの魔の手が俺に迫ってきたため、その度に俺は比叡山延暦寺に身を匿ってもらわないとならなくなった。何度か、「本当に危ない目」に遭った。ちなみに、二度目の時だったかと思うが、事の直前に俺は紅葉を見に寺社に行ったのだが、ブリタニアのピザ屋の社員と思われる男が本邦の女性と秋を楽しむ名目で、俺の様子をそれとなく気にかけるのを見た。日本人の心性を探って日本進出への足掛かりとするなど、なかなか忍術兵法に熱心ではないか。能天気な俺は、自分がどんな目に遭うのかこれっぽっちも思い至らないので、そんな雑駁な感想になるのだ。
俺は着実に、飛脚屋最適経路問題を解決すべく新規アルゴリズム開発の歩を進めた。実を言うと、それはすでに出来上がっているのだが、Fidoが本来の盗賊稼業に忙しいので、いまだに実装されていない。世界の片隅でこっそり言おう、Fidoの飛脚屋が効率的な仕事をする時がもし来るとすれば、それは俺のお陰である。東洋の島国のローカルな飛脚屋の発明がインパクトをもつとは思わないが、未来の運輸業界の歴史家は、もしかしたら寛大にも俺にウインク😉をくれるかもしれない。
さて、国際ピザシンジケート及び我が国の検非違使がFidoへのラブコールを表明しているのは、周知の通りである。俺のような馬の骨はFidoのようにはモテないので、最新のピザを真っ先に試食できるFidoが羨ましくてたまらない。が、それはいい。
🇮🇱のピザ屋がFidoにピザをどうしても食べてもらいたいと熱心だったので、6月の広告を見た後、俺は間に立って青田買いを控える協定に合意してもらった。
🇺🇸のピザ屋は、ドンドンパチパチ薪が爆ぜる窯焼きピザを推しているようだ。
🇬🇧のピザ屋は最も狡くピザ販促において謀略を仕組み、また、村の井戸端に広告を出している。Fidoがこれまでピザを食べたことがなかったのは、村人(の言論活動)にもかなり責任があると俺は思うので、これから先、村人には文明開化の香りを堪能して欲しい。
俺は、Fidoの今後には二つのシナリオがあると思っている。二つ目は一つ目が起きない時で、あと20年、Fidoは俗界で過ごすだろう。一つ目は、あと5年俗界、その後5年ワンルーム(カーテンコール)。タイムスリップのキーとなるのは🇮🇱のピザ屋の動きだ。なぜなら、一番美味い😋との噂だからだ。
しかし俺は愛国者なので、検非違使が国際ピザ販売業務の統括か、自国のピザ販売をして欲しいと思う。
話はまだまだ続く
・めちゃくちゃ面白かった
・
・朝井リョウ作品は物語というより「物語というフォーマットを使って、朝井リョウから見た時代定点観測報告を教えてくれる」書物として読むとよい
・もし朝井リョウが思想家とかでTwitterで文だけで観測結果を教えてきてくれたらちょっとビビるから「物語」としてコーティングして伝えてきてくれるの、助かる
・物語として読み進めると急にキャラクターに朝井リョウ本人が憑依して語ってくることあるからぬい作者状態になってビビる
・
・朝井リョウ、冬野梅子とかカレー沢薫とか鳥トマトとかどんな感じで見てるんやろ
なんかやっぱ「男から見た女」感が滲み出てるんだよな 色々今風の言葉を重ねても「男から評価されるのが女性にとってよい」っていう感じ→「メイク」という行為がセルフケア・ひいては他人との毛づくろいに繋がるっていう話だったんやね…
・朝井リョウ得意文体「◯◯は◯◯している。まるで△△のように。」△△でこれを示唆したい感すごい
・朝井リョウのかく「ミジメ」の反対=正しい 描写、広告代理店の描くキラキラ生活っぽさある
そういう「読者にミジメと思わせたい」ポイント描写の根拠=対比する正しさ がそもそも広告代理店の「作った世界」っぺえからなんか
「おっ 朝井くん、今回も「思想」、押し付けてきとるね!!」ってなる
・そら家で友達とダベる時に飲む飲み物と、テレビに出る時に添えられる飲み物は違うやろ…
・2.5次元推し界隈の言語創造力がおもろいのはそれはそう ピューロ流しとかテニプリ脱走兵とか女子の悪口のセンスとオタク気質が魔合体して独特の面白さ、ある
・登場する女性、どいつもこいつも政治話題に対する反射神経が高すぎる こわいよ〜
いやでも転職とかで「選択肢がそもそも非正規しかない」とかそういう状況だと病むよな
・っぱ女オタクの感情の機微描写はガチ恋粘着獣がナンバーワン!
「まあ推しはするけど飽きたらポイやでー」成分がなくて「男の考えた女」感ある こんなひたむきな性別問わず人間おらんやろ そういう面でガチ恋粘着獣の「報われたい」「ズルしたほうがよかったじゃん」とかそういう人間の生々しさ「健気なふりしてるけどやっぱりかけた分だけの報酬が欲しい」っていう「人間のくさみ」、ない
・「ミジメ」さと、「イヂマシ」さと、「男の目を気にしない貧困女、終わっとる」でできてるオタクパート
・ワイは、「自分」を売り物にできるくらい魅力的な人間、とりわけ「容姿」をウリにするタイプは絶対裏でオタクからの「人気」をスパイスにパコりまくってると思っとるからこんな「物語」だのなんだの認識できん!!
・ふぅん…「普通の幸せ」について、まだその「領域」なんやね…
・な、なんで??!
現時点で評価されてる若手脚本家とか起用したほうが色々ええじゃろ
・「やってみたい」のくだりは萌えた
ほんまもんの「いじましさ」、あった
おっさんズラブとかじゃなくて「必要とされたい」「寂しいのはかなしい」っていう人間の原初的な感情がおぢ面子お仕事会話の中で不意な流れで浮上してきたの、萌えた
・意識高い高いのだ…
・飯食う前にこんな話長々されたらキレる
・いい友達
・INFPっぽいよねって電車好きそうの女verだろ
わかりやすくフレメニーすぎやろ
・急に悟ってビビる
いいことゆうとるけど直前まで身分不相応の意識高い高いINFP大学生に滅茶苦茶賢い朝井リョウが憑依するからビビるってこれ 急にIQと自己洞察能力が上がるやん
・安定した?会社も会社でおぢの面子合戦があったり大変なんだよなぁ…
・大学出てブルーワーカーのパターンもあるので… 大卒がみんなホワイトワーカーになれるという認識を持ってる時点でまだ甘々やで〜!
・破滅ルート、回避!→カスやん…発達障害傾向以前に人間性がカスやん…
・シラフで現実、見れっかよォ!の一人語りはそれな…(死語)ってなった
・行っちまったんだ…「あっち」側に…
・それぼく
・爆仕事イケイケ同期おじが説得しにいったら逆に屈服させられたエロスを感じる
・それぼく
・発達障害として生き続けるのにうんざりするの、わかるでぇ…!
・文の長い押し付けがましいYouTube動画なんてろくなもんがねぇ
・この引き込み方は生身を持ってファンと同じ現実の時間軸を生きる3次元だからこそできる売り出し方やんな
・ママみを感じてキショいな…
そういう自他境界の少ないタイプを狙い撃ってるんやろうがキショいな… 自他境界が少ないって、(適量で留まれるなら)よく言えば面倒見がよいというかママみがあるってことなのかな
・セルフうっとりしながらジェットコースターのごとくハマっていくくだり、キショくて最高にオモロい
・「優しくて真面目で繊細」という悪口
・「推し活」の良いところも悪いところも書いてくれるレンジ力つょい
・うわぁ急に朝井リョウが出てきた!2回目
・着々とフラグが積み上げられる父曇らせ
・男性同士のケアにまで言及するんか・?レンジがちょっと広げすぎかも
・「女性の連帯」の正の側面も負の側面も描き切る筆致、さすが作者様やでぇ…
・絶対これデビュー前にINFP君カノバレして爆破のやつじゃん
・ヘルシーなファンだ…
・ここまで極端な奴、そうそうおらんやろ
・どいつもこいつも主語がでけぇ!
ウシジマくんでたまにえる底つき体験して一周回って爽やかになるハピエン回じゃった…
・朝井リョウが左右から語りかけてくる…バイノーラル朝井リョウだ…
・急なちいかわ草なんだ
○ご飯
朝:カシューナッツ。昼:そば。いなり寿司。夜:焼きカレーうどん。目玉焼き。ピーマン、大根、玉ねぎ、キノコのスープ。ギョニソ。バナナ。ヨーグルト。間食:羊羹。
○調子
むきゅーはややー。おしごとはそれなりー。
○ポケットモンスターパール(メスのみポケモンの旅)
ユキワラシの粉雪でサクサクと遊べているが、ミノムッチとミツハニーの技の無さが凄まじくレベル上げもままならない。
大袈裟に言ったけど、ユキメノコとハピナスがいればどうとでもなりそうだから、その辺のバランス感は自分ルールのもどかしさとして楽しもう。
のはずが、全く救援に流れてこないので仕方なくシエテHLも並行して周回。
・ピングポング
金持ちのポイポイを好む主人公にそれらしさを提供しつつ、可愛いポーズやお洋服、そして二人の絆を確認と、日常回ながら重要なエピソードがいっぱいで面白い。
そして五戦目の相手は実業団の選手で元コーチと、本物の実力者。
卓球の自力では勝る主人公が舞台装置に翻弄される展開だったが、今回は一味違う流れになりそう。
・さむわんへるつ
日常パートでも伝わらないボケが止まらないヒロインのくらげちゃんは実にハガキ職人気質だなあ。
ハガキ職人あるあるに「読まれたときではなく、送るときが一番気持ちいい」というのがあるらしいので、割と典型的なのかもしれない。
・ロボコ
僕は「相手が誰だろうとゴムゴムの戦斧だ」「モップはてめえが」「最高の福があらんことを」「臆病者は腹をくくらないよ」「やはりおまえの父は誇り高い世界チャンピオンだ」がそれぞれ好きです。(そういう話じゃないな)
もしかして、「認識をアップデート」しているのではなく、「自分に有利な最新理論だけを厚遇している」というだけなのでは?
肥満に関わる意思決定の話は色々出てるけど、個人的には『快感回路 なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか デイヴィッド・J・リンデン』が名著だと思うな。
はてなーは本読むのが好きなはずだから、おすすめの本紹介したら「いや、おれはこっちの本でこういう風に書いてあったのを信じてるよ」と返してくれるよね?
まさか「ソースはないけど、俺の脳内ではこうなってるんだ。ソースはないけど俺がそう感じるからそうなんだ」なんて言い出さないよね?
愚者は己の経験に学び、賢者は書物から他者の経験を借りるとはよく言ったものだが、たった一人の経験なんてものはN=1以上の価値がないことを、知らないはずがないよね。
○ご飯
朝:なし。昼:王将(キムチ、ニンニク増し餃子、肉団子の甘酢かけ、炒飯、生中、瓶ビール)。夜:天かす梅干しうどん。間食:柿の種。チョコボール。アイス。。
○調子
むきゅーはややー。おしごとはおやすみ。
願望の話なんだけど、オフ会で始めましての女性がめちゃくちゃ香水臭くて辟易してたら急に近づいて来て耳元で「おまえのために1週間風呂入ってねえから。誤魔化すの面倒だったんだから責任取れよ」って囁かれたい。
オリジンクラス解禁をしてレベル30まで上げて40のキャップを外すところまで。
40→50は書物集めが大変なので一旦ここで区切ってレベル上げは日々のPRO消化に身を任せておこう。
色々と使い出がある能力みたいなので、古戦場までには50にしておきたいな。