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2024-12-14

anond:20241214052456

リベラルは嫌いなもの多いよな日本コンテンツ全部嫌いなんだもん

っていうかさあ

音楽ネットのものしか聞かないしアニソンしか知らないし本は読まないしリア充発言する声優は叩くしな

音楽

かにネットアニメゲームだけどそれは自分所属してるカルチャーの話であって極々一般的だよね?そういう人って

まさかリベラル的な年甲斐もなく流行キャッチし続ける人にならなきゃいけない訳?(笑)

普通自分守備範囲からは出てこないんだよ?知らないの?

そもそもオタクに限らず本を読まない人多いよね?(笑)

個人小説とかはたまに読んだりしてる、昔は新書とかの方が読んでたけど下らないなと思って一時期から全く読まなくなった

村上春樹は俺の守備範囲外で全く興味ないから読まないけどね

声優

アイドル声優もVもカバー範囲外だしストリーマーも一部の人以外は守備範囲外だね

リア充発言とか陽キャ発言って嫌味というか毒性強いから叩かれるんじゃないのって思う外野からはね

まあ声優興味ないから分からないし口出しするべきじゃないなって思うね

リベラルなら横からすっ飛んできて口出しするんだろうけどね(笑)

週休3日制を導入して1年経ったので書いてみる

すいません、タイトルちょっと盛りました。

週休3日制なんていうと、暦とした制度みたいに聞こえますが、一人法人フリーランスです。

スペック

アラフォーIT系フリーランスエンジニア

フリーランス生計を立てられるようになって12年くらい、法人化して7年が経過した。

いわゆる、つよつよエンジニアではない。

強みは技術力ではない。ディレクター意図を汲み取って、空気読んでいい感じに仕上げるのが得意なだけ。

都内在住。配偶者と二人暮らし。自宅でフルリモートで昼寝し放題。

宣言

ちょうど一年前くらいに、金曜日休み宣言をした。

昨年11月取引先各位に以下のように連絡した。

「来月12から金曜日原則稼働しないことにします。

リリース時などは柔軟に対応しますので都度ご相談ください。よろしくお願いします。」

取引から特に反発も驚きもなかった。

いや、驚いてたのかもしれないけど、ほとんどSlackメールで連絡したので、反応はよくわからん

理由

理由はあまり聞かれなかった。

理由を聞いてきた人も迷惑がっている感じはなく、素朴な質問だった。

ちょっと働きすぎだと思っているんですよね」と言っておいた。

実際そう。

これまで依頼がきた仕事可能な限り受けていて、時期によっては昼夜兼行で仕事してきた。(平日の昼間から昼寝したりするわけだけど)

フリーランスの働き方は自分に合っているので、長時間仕事し続けるのはそれほど苦ではない。

仕事自体は好きだし、それなりに楽しくもあるのだけど、

クライアントから依頼されて作っているものは、自分のものではない、自分がやらなければいけないことではないという思いが強くなってきた。

さらに言えば、大元クライアント大資本だったりするわけだが、正直この社会になくても構わないものばかり作っているなと思ってきた。(依頼を受けた以上はしっかりやるけどね)

お金はそれなりに稼いだのだけど、実はそんなに使いどころがない、というのもある。

家は買わない主義。車は10年前に中古で買ったのを大事に乗っている。愛着が湧いて手放せない。

接待されて嬉しいタイプではない(むしろ居心地が悪い)ので、どかんとお金を使うところがない。

外食行った時に値段を気にしないで注文したり、旅行の際に気軽にグリーン車タクシーに乗ったりできるのは嬉しい。

で、昨年イギリスで週休3日制の社会実験が行われたというニュースを耳にして、

これはいい、私もやろうと思った。

結果

良い。

単純に自由に使える時間が増えた。

フリーランスなんだから、ほんとうは全ての時間自由に決められるんだが、この日は仕事しないと宣言することには意味があった。

収入は前年の8割くらい。でも、私の収入は毎年2-3割のブレがあるので、通常のブレの範囲内。

始めた頃はさすがに金曜に稼働しなければならない状況は結構あった。

これは私が仕事を終わらせることができなかったのではなく、先方の都合で仕様の確定や素材提供が遅れてしまうのが原因であることが多かった。

あと、私が金曜に働かないというのを忘れてたり、知らなかったりする人が金曜にタスクを投げてきたりしていた。

でも、ここ数ヶ月は私が金曜日働かないマンであることがかなり浸透してきて、ほぼ休めている。一応Slackの通知は見ているけど。


お付き合いいただいている取引先の皆さまに深く感謝

どなたも二つ返事でご理解いただけてありがたい限り。

余裕ができた時間は、主に趣味創作活動に充てている。

もっと本読みたい。アニメ映画もみたい。ゲームもしたい。たまに旅行もしたい。

時間は、いくらあっても足りない。

量子力学義務教育

 最近、「量子力学って不思議学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。

 私たちの多くは、日常生活で「見たもの現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?

 量子力学は、この「当たり前感」を根本からさぶる。ミクロ世界では、粒子は同時に波であり、状態観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しか量子力学は「それが重要問題だよ」と言ってくる。

 もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやす実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学象徴している。

 これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界状態に影響を与えている。

 こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たち人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たち宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在しかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。

 これを知ると、自分が大きな宇宙自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベル世界想像してみれば、私たち確信なんてあやふやもので、宇宙もっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。

 現代ネットメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているか真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事判断できるようになるかもしれない。

 もちろん、義務教育量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本実験動画簡単ワークショップ体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。

 こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さなから世界には不確定なものがある」「見ていないとき世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的世界理解できる大人へと成長できるだろう。

 人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間いかにちっぽけで、世界理解が限られているかがよくわかる。

 その「ちっぽけな存在である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これから時代必要姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育量子力学エッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。

 見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。

量子力学義務教育

 最近、「量子力学って不思議学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。

 私たちの多くは、日常生活で「見たもの現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?

 量子力学は、この「当たり前感」を根本からさぶる。ミクロ世界では、粒子は同時に波であり、状態観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しか量子力学は「それが重要問題だよ」と言ってくる。

 もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやす実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学象徴している。

 これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界状態に影響を与えている。

 こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たち人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たち宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在しかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。

 これを知ると、自分が大きな宇宙自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベル世界想像してみれば、私たち確信なんてあやふやもので、宇宙もっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。

 現代ネットメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているか真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事判断できるようになるかもしれない。

 もちろん、義務教育量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本実験動画簡単ワークショップ体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。

 こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さなから世界には不確定なものがある」「見ていないとき世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的世界理解できる大人へと成長できるだろう。

 人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間いかにちっぽけで、世界理解が限られているかがよくわかる。

 その「ちっぽけな存在である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これから時代必要姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育量子力学エッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。

 見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。

量子力学義務教育

 最近、「量子力学って不思議学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。

 私たちの多くは、日常生活で「見たもの現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?

 量子力学は、この「当たり前感」を根本からさぶる。ミクロ世界では、粒子は同時に波であり、状態観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しか量子力学は「それが重要問題だよ」と言ってくる。

 もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやす実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学象徴している。

 これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界状態に影響を与えている。

 こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たち人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たち宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在しかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。

 これを知ると、自分が大きな宇宙自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベル世界想像してみれば、私たち確信なんてあやふやもので、宇宙もっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。

 現代ネットメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているか真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事判断できるようになるかもしれない。

 もちろん、義務教育量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本実験動画簡単ワークショップ体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。

 こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さなから世界には不確定なものがある」「見ていないとき世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的世界理解できる大人へと成長できるだろう。

 人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間いかにちっぽけで、世界理解が限られているかがよくわかる。

 その「ちっぽけな存在である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これから時代必要姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育量子力学エッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。

 見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。

2024-12-13

anond:20241212190516

知る範囲では誰も使わない割にずっと装備され続けてるから

誰かが使い続けてて、進化も続いてるんだろうなと思っている

魚焼きを廃止して売れたガスコンロってあるのかしらね

選挙になると。

選挙になると誰も入れたい人がいない、のはよくあるはなし。

とはいえ!ほんとうに!どっち選んでも、というかむしろどっちも選んじゃダメでしょ!というのが最近多すぎる。

せめて現状維持がえらべるならともかく、どっちのマイナスがまだマシか的な感じ。

地方首長議会選挙でどうにもできない理想国家レベルの話をしないでほしい。

そんなの言われてもなんの判断材料にもならない。将来国政に出たいのねーとは思うけど。

なんとか道筋を立ててできる手立てがあるならともかく。

まずはここで!できる範囲で!何がやれてこれからどうしたいかを聞きたいのです。

anond:20241212003420

なんか、言うほど特別な話でも何でもないというか、30年前にはすでに都市部ではそうなりつつあったよって話がようやく広い範囲に浸透しただけという感じがある

チアプが当たり前に使われるようになっただけで後の本質平成と変わってない

20年前には普通にネット経由で色々出会って男も女も遊んでいたしね

野暮ったい人たちだけがウダウダ言い出すのであって、ほとんどの人は声をひそめているだけ

2024-12-12

anond:20241212121356

tank:弁慶(特技:「仁王立ち」致命攻撃を受けてもHP1となり倒れない。ただし、効果発動時はバトル終了後に死亡判定)

archer:那須与一(特技:「南無八幡」超長距離・ヘッドショット連射。ただし、「外れた場合自害する」との誓約に1ターンが必要

samurai:佐藤嗣信、忠信兄弟(特技:「忠誠(パッシブ)」それぞれリーダーに対する遠距離・近距離攻撃に対して自動的に「かばう」」を発動する)

hunter:駿河次郎(特技:索敵、bossに対する一撃必殺)

priest:常陸坊海尊(特技:「不老不死パッシブ)」魔法状態異常無効。致命攻撃に対しては「逃走」が選択できる。)

dancer:静御前(特技:「白拍子の舞」敵の性別が♂であればbossすら魅了できる)

……でもってリーダー

ninja:源義経(特技:気配を消す、侵入不可地形に侵入できる(効果範囲内の味方ユニット含む、同地形から攻撃には全て「不意打ち」効果がつく)、hasso-jumpbossクラスの敵に対して「逃走」または「不意打ち」が可能))

……というカリスマチート野郎なので、ダンジョン探索は源義経パーティーがいれば十分です。

韓国法に見る戒厳の要件と尹錫悦が実際にやったこととの比較

1 戦時・事変又はこれに準ずる国家緊急事態時、敵と交戦状態にあったり、社会秩序が極度に乱れ、

行政及び司法機能遂行が著しく困難な場合軍事上の必要、又は公共安寧秩序を維持する必要がある状況であること(憲法77条1項、戒厳法2条2項)

 →明らかにそういう状況ではない。要件を満たしていない。尹錫悦は戒厳をするために北朝鮮挑発した疑いがある。

 

2 戒厳を宣布したときに、大統領が、遅滞なくその旨を国会に通告すること

憲法77条4項、戒厳法4条)

 →国会に通告していないので、要件を満たしていない。

 

3 戒厳布告令その他の戒厳において取られた措置が、憲法及び法律によって予め授権の範囲であること(憲法77条1項、同3項、戒厳法9条等)

 →政治活動禁止国会閉鎖は、明らかに授権の範囲を超えている。要件を満たしていない。

 

4 戒厳の宣布に際して、国務会議の審議を経ていること(憲法89条、戒厳法2条5項)

 →まともに国務会議をやっていない。要件を満たしていない。

 

5 戒厳の宣布に際して、その理由、種類、施行日時、施行地域及び戒厳司令官公告すること(戒厳法3条)

 →これは多分OK?でも期限を定めていないからやっぱりアウト?

 

 

 

大統領の職権だからOK!これを内乱罪に問うたら戒厳できなくなる!みたいな擁護してるやつ見かけるけど、

全然法令守ってないんだよなあ・・・

anond:20241212003113

この日記範囲外の(´・ω・`)←コレは脱走したやつだから、即撃っていいからね(*´ω`*)

anond:20241212173118

重課金必要ゲームはやめたほうがいいよ

必要じゃないのに重課金してたんだとしたら、月2000円くらいの課金でもきちんとやりくりすれば十分遊べるということを脳と体に刻み込んでいく修練が必要

強くなるために課金に頼るって考え方は、本来ゲーマーとしては失格なんだよ

必要ないことは理解しつつもシナリオとかが素晴らしすぎてつい可処分所得を超えて支払ってしまったなら、まあその心意気は素晴らしいとは思うしそういう人が今のゲーム業界を動かしているとは思うが、無理のない範囲投げ銭できるよう、感動の対価と経済力バランスは考えるべきだ

「しなくていい」の解釈

「出社しなくていい」って言われた場合自分は「不要」ではあるが「禁止」までの強いニュアンスが含まれてるとは解釈しない

指示者からすれば否定寄りな指示で、それを実行することで君に不都合が生じるかもしれないが君の責任範囲で軽微なものなので自己判断してくれと解釈する

この指示で出社したことに対するペナルティを受けるとまでは思わない

株式会社フュディアコミュニティ」が管理してる「ゼクシア南千住」だが、振り分けタイプの2DKかと思ったら、そうじゃなかった。

こういうタイプの奴は築古になるとマジでまりにくい。

頼むから振り分けタイプと思いきや実は貫通タイプでしたみたいな間取りを作るのやめてくれ。

これは個人的意見だけど、ジュースボックスをなくして、台所の方に洗面台を向けた作りにすれば、なんとか洗面台付きと書くことができるんで、無理してトイレのほうに洗面台はおかないほうがいいと思う

玄関側に置くと水が飛び散る弱点はあるけど、ここら辺はぎりぎり妥協できる範囲だと思うし…

もしくは独立洗面台をやめて、台所で手を洗う設計にした方がいいと思う

うちが住んでる家は独立洗面台があるけど、独立洗面台は使ったことがない

anond:20241212111149

あれは信仰なんだから無意味さを述べることが無意味

合理性信仰を捨てるわけないだろ。

ふんわり実害無い範囲尊重しておけばいいんだよ。

キリスト教イスラム教の人への対応と同じ。

俺の同級生みたいな範囲人間ですら確かにギターボーカルクズ野郎だしドラムはまだマシな人間なのウケんな

1合目で引き返す

私は飽き性で向上心がない


キラキラ上澄みに憧れて行動を起こすが

挫折未満で投げ出す


山の頂上の景色が綺麗なのはわかるけど

いざ登ると1、2合目でやめてしま

そういう人間である


そういう人間なので

少しでもだらけていたいし

無駄時間を過ごすのが苦ではない

よく転職とかで

しばらく仕事から離れると

そろそろ仕事をしたくなってくる

みたいなことを言う人がいるが


私には一切想像がつかない

だらけられるならだらけたい

好きなことがしたいとかじゃない

とにかくだらけて無駄時間を過ごしたいのだ


何事においても

自分からアクションを起こしたくはない

言い出しっぺに押し付けるのが世の常だし

言われたらやる

指示待ちと言われたらそうなのかもしれない


そういう風に流れ流され生きているのに

割と自我があるのが厄介なところだ


嫌なことやりたくないことは

ギリギリまで引き伸ばすし

人にやってもらえるならやってもらう

手持ちのタスクはない方が嬉しいなとも思う


一方で自分がやりたいと思ったことは

割と手放さず、筆が乗れば早い

筆が乗らないと引き伸ばす


そういう性質をわかっているか

手に収まる範囲で、ちょっとやる気が出る

そういう、職に就いておくことが

ギリギリ正常なフリができる方法なのだ


人の目には弱いので指示待ちにならない

から何もしてないと思われるのは

なんだか怖いからだ


やっているフリでは誤魔化せる人間ではない

嘘がつけないからだ


正直モノであるからではない

嘘をつくのは下手だ

嘘をつくけれどバレやす


これで、正直モノだったら

たまのバレバレの嘘にも可愛げがあるが

普段から正直モノでないので

きっと、うっすら信用を失うし

大事な場面で頼りにされないだろう


なので私は人のわかりやすい道を行くことにした

大学を出て、就職して会社員をやる

大企業には行かない

下っ端でも社会的責任が大きいと思うから


時代的な考え方のような気もするが

環境が人を作る

もっというと人の形を作らせるのだと思う


私みたいな人間は水だとか油とかだけになって

どんどん人の形を失うのだ


から社会でなんとか型を探す

体積が足りなくても

型には入れるし

型に入っておけば

型破りはできなくても

型なしにはならずに済む


型があれば、入れる型を探すことができる

そう思ってなんとか型の中に居る

埋まるか埋まらいかからない型を

徐々に心地いい温度にしながら

なんとか人の形で生きていくのだ


1合目にはきっとこのくらいの文章がちょうどいい

読んでくれた方、ありがとう

毎日ルーティンからか何か夜になると鬱になる

仕事楽しいはずだけど…

持ってるスキル範囲内で仕上げすぎてる感はある

日常もずっと同じだし

新しいことしてないな、最近

新しい漫画でも読むか…?

脳汁出したい

かに激烈にハマりたい

漫画アニメあんまり没入できてないな

ご飯も太るからあんま食べたくないし

運動だけひたすらしてるけど脳死で体動かしてるだけ

毎日ループなので割と虚無かも

何かやらなきゃ感あるけどな、何がいいんだろ

2024-12-11

anond:20241211234136

この程度は並であってそこまで変ではない

まだまだ普通範囲

anond:20241211175102

婚活にて女性地雷男性を避けるために気をつけることを僭越ながら私なりに記載してみた。

スマホなので読みづらかったらスマン。

 

◾️プロフィール写真の選定がおかし

自撮り運転免許証などの証明写真集団写真自身の顔が拡大された解像度粗めの画像など。

公共トイレの鏡越しで自撮りなんてもっての外(実際2名ほど見かけたよ。小便器が少し見えてたよ)

 

◾️メッセージの時点で誤字脱字

ちょっと抜けてるってレベルじゃねーぞ

メッセージのやりとりで3ラリーに1度は誤字脱字のある人は何かしら持ってるので避ける。

 

◾️すぐLINE交換に移りたがる、もしくはすぐ会いたがる

こちらの気持ちお構いなしにズカズカ入り込むタイプか、ヤリたいだけの人と思われる。

やんわり断ったとき既読スルーする人はヤリたい人と思ってる。

 

◾️プロフィール文章情報更新されてない

私が婚活してた時期は丁度令和になって2年くらいたった頃だったが「令和になったので婚活頑張りたいです」と記載してる人がいた。

どうみても長々活動してる人=選ばれない人です。

 

◾️プロフィールからからさまなオタクアピール

声優の◯◯が好きで出てるアニメは全てチェックしてます」とか。

実際にこういうタイプと会ったけど、ありのままの俺を好きになって欲しい感があってこちらの興味関心ありそうな会話を広げる気は無さそうだった。

 

思い出せる範囲でこのくらいだろうか。

結局私の場合は途中でコロナ禍に入ってしまい、自粛期間で婚活進まなかったので緊急事態宣言開けにすぐ結婚相談所に駆け込んで短期決戦で無事成婚いたしましたとさ。

anond:20241211181514

Q.

コラージュアートとして認められている
ファンによるアートファンアートである
ファン他人著作物コラージュして作った作品ファンアートである
異論はありますか?

A.

はい、その結論はいくつかの異論があり得ます特に著作権作品定義に関する議論が絡んできます。以下にいくつかの観点を挙げます。

1. コラージュアートとして認められているか
コラージュ20世紀初頭からアートの一形態として認められています(例:パブロ・ピカソジョルジュ・ブラックによるキュビスム作品)。しかし、アートとして認められるかどうかは、文化文脈評価者の価値観依存します。
「認められている」の範囲曖昧であるため、場合によっては議論余地があります。

2. ファンアート定義
ファンアート一般に「特定作品キャラクターへの愛情や敬意を示すために、ファン独自作成した作品」とされています重要なのは、元の作品の要素をどのように使用するかです。ファンアートは多くの場合、元の著作物を直接再現するのではなく、オリジナルアイデアを加えています。

3. 他人著作物使用したコラージュファンアートか
法的観点: 他人著作物コラージュする場合著作権法が関係します。特に日本や多くの国では「著作権者の許可なしに著作物使用する」行為は、たとえそれが非営利目的ファンアートであっても著作権侵害と見なされる可能性があります芸術的観点: たとえ著作権侵害していない場合でも、他人著作物を使ったコラージュファンアートに分類されるかどうかは、作成者の意図作品文脈依存します。たとえば、元の著作物に対する敬意を示す意図があればファンアートと見なされるかもしれません。

異論可能ファンアート範囲
他人著作物使用した作品すべてがファンアートに該当するわけではありません。敬意や愛情がない場合、単に「盗用」とみなされる可能性がありますオリジナリティの欠如
ファンアートとして成立するには、一定創造性や独自性が求められると考える人もいますコラージュ作品オリジナリティを欠く場合、単なる「再利用」として評価される可能性があります。

法的問題ファンアート混同
ファンアートはしばしば非営利目的制作されますが、それでも法的には著作権侵害となる場合があります。そのため、「コラージュファンアート」と断定するのは、法的な誤解を招くかもしれません。

結論他人著作物コラージュして作った作品ファンアートである」と断定するには、意図文脈、法的条件を考慮する必要があります。そのため、場合によっては異論が生じる可能性があるでしょう。

anond:20241211123519

標高が)高い山・低い山

❶小さくて高い山。「峻岑シュンシン」

❶高く大きな山。たけ。「雲岳」「山岳」

❶大きな山。

❶高くそびえるさま。たか-い・タカ-シ。「岧嶢チョウギョウ(=山が高いさま)」

❶山が高大なさま。

❶山が高いさま。けわ-しい・ケハ-シ。「巍峨ギガ(=ぎざぎざした山のさま)」

❷高い。「峨冠(=高い冠)」

❶山が小さいが険しいさま。

ちょっと多過ぎてピックアップするのも飽きたけど、「高い山」を示す名詞や山の高さを表す形容詞は、どうやらものすごく沢山あるみたいだ。

山の小ささを示す名詞形容詞はさしあたり山+8画の範囲では見つからなかったので、そのあたりにヒントがあるかもしれない。

このように、園児児童、生徒、学生ってそれぞれ定義があるんだから

中学生女児呼ばわりはおかしいと思うんだけどね。

https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/gimon/143.html

学校教育法学校教育制度の基本を定めた法律で、まず第1章第1条で小中学校高等学校大学幼稚園など「学校範囲」を定めています。そのうえで、それぞれの学校に就学・入学入園する者について第2章以降の条文の中で、小学校は「学齢児童」「児童」、中学校は「学齢生徒」、高等学校は「生徒」などという表記呼称を使っています放送でも原則として、この法律の条文をはじめ文部科学省公文書、それに教育現場で実際に使われている表記呼称に準ずるかたちで使い分けています

具体的には、

幼稚園・・・・・・・・・・・・園児

小学校・・・・・・・・・・・・児童

中学高校・・・・・・・・・・生徒

大学高等専門学校・・・・・・学生

また、生徒(中学生高校生など)に関連した場合でも、「学生~」と付く語があります

<例> 学生割引、学生服、学生アルバイト

このほか、学校教育法上の「大学」とは異なり、国の行政機関・省庁が管轄する教育施設に「大学校」(防衛大学校気象大学校など)があります。これらの「~大学校」では、大学校生の表記呼称を「学生」としているところが多い一方、中には「研修生」などとしているところもあり、放送では随時確認する必要があるでしょう。

また、児童福祉法による児童福祉施設厚生労働省所管)の一つである保育所対象児は、法律では「乳児」(満1歳に満たない者)と「幼児」(満1歳から小学校就学の始期に達する者)と記されていますが、放送一般的に言う場合は「園児」と言っています

(『ことばのハンドブック』P37、P81参照)

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