はてなキーワード: さいころとは
46歳男性。3児の父です。
最近この先の人生の方向性に迷っており、何を目指して生きていこうかと日々悩み中なのでアドバイスをもらえたらうれしいです。
現在こんな感じです。
自分で書いてて別に何も不満に思うことないじゃん、という気もするし、「こいつすごく恵まれてるくせに何を言ってるんだ」という感じがします。感じ悪いです。読んで不快になった人もいるかと思います。ごめんなさい。
でも、「熱中できず、満足できなくて、日々鬱々としている」のです…。
究極的には人生なんてずっと暇つぶしなのだから、時間の無駄とか、自分の成長がとか言ってないで何か楽しいことをやって満足できればいいのだろうというのは頭ではわかっているのですが…。
小さいころからずっと、稼げるようになるために勉強しまくって、ブラックな職場でも頑張って仕事しまくって。子供ができてからは子供に時間をささげまくって。ひと段落しちゃってやることなくなって趣味に力を入れてみたけど、いろいろと思い通りにいかなかったり先が見えてきてしまって。
よく言う、仕事ばっかりやっていた人が退職した後にやりがい無くして…みたいな感じの軽いやつを今味わってる気がしてます。おそらく多くの人が状況は違えど多かれ少なかれこういう感じになる時期があるんじゃないかと思うのですが…。
こういう時ってどういう感じで思想を広げて、感じ方を変えていけるんでしょうか?
きっと、現状を変えるという手もあるけど、完全に今の状況のままで心穏やかに毎日満足しながら幸せに過ごせる感じ方に自分が変われればそれでよいのだと思うのですけれども。
頭ではそう思っててもなかなかそうはいかないんですよね。
同じように感じていたところから、感じ方が変わった人がいたら、どういう経緯をたどったのかなど教えてもらえると嬉しいです。
親がジャッキーチェンが好きで、小さいころに兄弟と一緒に家で見た覚えがあるような、ないような。
でも2は見ていない気がする。親は香港警察が好きで、兄弟はラッシュアワーが好きでそればかり見ていただからかもしれない。
どんな話だったかなぁなんて思いながら見ていたが、めっちゃ単純。
明らかな悪役、カメラが激しく揺れずにしっかり見せてくれる戦闘シーン、そうはならやんやろなっとるやろがいなギャグシーン。
コテコテの「どうぞ!コミカルシーンです!」って感じがあるのがいい。ドシリアスだと疲れてしまう。
ドロドロの裏切りとか、クソみたいな人間関係とか、めんどくさい恋愛とか、ややこしい悪役のバッググラウンドとかない。
最後、ジャッキーをすり潰そうとしているシーンなんてコテコテThe悪役で、一周回って良い。
プロジェクトA2で一番笑ったのは女性の家に3組も潜入されていて「潜入されすぎだろ!」って画面前で笑っていたらジャッキーが「どんだけ入り込まれているんだ!」って突っ込んで笑いが止まらなかった。
そして相変わらずNGシーンを見るたびに「よく死なないな…」と思うのである。
こういうのでいいんだよ、こういうので、って感じだった。
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今回のラインアップは「夢のお年玉箱2026 AIサーフェスPro(Snapdragonモデル)の夢」(15万円)や「夢のお年玉箱2026 iPadの夢」(4万円)、「夢のお年玉箱2026 PCモニタ(4K27インチ)の夢」(2万円)、夢のお年玉箱2026 プレイステーション5の夢(6万円)などがある。
小さいころ、飛行機が大好きでチャンバラが大好きで特撮が好きだった。
母は私にいつも「女の子らしくしなさい」と欲しくもない人形やかわいい洋服を勧める。兄の洋服がカッコイイから自ら兄の服のおさがりが欲しいと言った時、母がとんでもなく残念がったので仕方なく可愛い服を着ていた。甘いものが好きではなく、肉ばかり食べていたら「女の子がそんな野蛮に食いつかないの!」と言われた。かわいいスイーツを母が買って来ても興味なかった。
兄は女々しいものをいつしか「そんな女みたいなことするかよ」と言うようになった。昔は一緒に女児向けアニメを見ていたが、気が付いたら母がいない時にしか一緒に見られなかった。
月日が流れ、大学のゼミでスイーツ大好き・可愛いもの大好きな男性に出会った。毎回スイーツを食べているので、私は何も意識せずに
と言っていた。
男性は「なんで?」と言う。私はその意図がよくわからなかったが、「男性ってスイーツやゆるふわな物とか興味ないじゃん。むしろ嫌いにいしているような」と自然に答えた。
あ、今、私すごく失礼なこと言った。あんなに自分が「女でも男っぽいと言われるものが好きでもいいじゃん!」と思っていたのに、言ってしまっていた。
すぐにごめんと謝った。彼だって絶対嫌だったはずだ。私が昔、嫌だったなぁと思っていたことを言ってしまっていたんだ。
「増田さんがノンシュガートッピングなしのティーをゴンチャで頼んでいるのも、増田さんから見たら男性らしい女性らしいの括りになるの?」
私「そっか、そういう事になっちゃうか」
「好きなようにすればいいじゃん。気にする必要なくない?そっちの方がみんなハッピーでしょ」
スイーツビュッフェに男性がいたって、飛行機オタクの女性がいたって、女性向けアニメを見る男性がいたって、男性向けのご飯を食べる女性がいたって、なんたっていいよな。
それを「いいね」と言えず「珍しい」とか「男性or女性なら嫌いに決まっている」って思うのは、自分で自分を苦しめてしまうんだな。
小学生のころ、ゲームボーイアドバンスとかゲームキューブとかDSとかの全盛期の時代に、「ゲームをすると頭が悪くなる」という父の一声でゲームを与えられなかった。
まわりの友達はスマブラとかポケモン、マリオカートやモンハンの話題で盛り上がる中一切話題に入れなかった。
ゲームは一切与えられなかったがテレビを見るのは一切制限がないうえになぜかパソコンを与えられた。まあパソコンは後ほど取り上げられて週に1時間しか使わせてもらえなくなるのだが。
マンガも当然買ってもらえなかった。
何も娯楽が無かったので勉強に狂おうとしたのだが、高卒の両親に知識欲を理解してもらえず、小中学生の頃は教科書を読んでテストで高得点が取れるだけの勉強の仕方を知らないアホが生成された。
高校生になり携帯を与えられたとき、今まで十数年蓄積されたゲーム欲が一気に解放され、モバゲーとかのしょうもない携帯ゲームに狂ってしまった。小さいころにゲームをやって飽きるという経験がないまま育ってしまい、体力があるゲーム狂いが爆誕してしまった。
当然勉強は手につかなくなりテストで赤点を連発した。勉強の仕方を知らないためどうしたら遅れを取り戻せるのかもわからないまま先生方の恩情の追試で何とか高校は卒業した。
三年前、渋谷の桜丘町にある古いマンションの一室で月に一度だけ開かれていた読書会があった。
「Books & Beyond」とか「本と珈琲」みたいなカフェが並ぶあの界隈で、オーナーが趣味でやってるようなサブカル風の空間。壁にはカフカのポスターが貼られ、スピーカーからボサノヴァが流れていた。
六畳ほどの小さなスペースに八人くらいが座りそれぞれが持ち寄った本を紹介し合う。それが俺と彼女の出会いだった。
俺がその日持っていったのは『呪術廻戦』の第八巻。ほかの人たちが『中動態の世界』とか『そして誰もいなくなった』とか『サピエンス全史』とかを並べる中で、俺だけがジャンプコミックスを机に置いた。
でも当時の俺はそれを承知の上で、ある種の逆張り的勇気みたいなもので挑んでいた。会社では誰にも話しかけられず、Slackのアイコンもずっと初期設定のまま。それでも自分を注目して欲しいという欲求はあった。
「呪術廻戦のテーマは、“死の受け入れ”よりも“存在の肯定”にあると思うんです」
俺はそう言った。
それに対して、口を開いたのが彼女だった。白いマスクを外して冷静な目で俺をまっすぐに見た。
「でもそれって、“他者を媒介にしない存在”ってことですか?」
唐突にそんな言葉が出てきた。返す言葉に詰まった。彼女の声は低くて落ち着いていた。大学院で哲学を専攻していると言った。
その瞬間、空気が変わった。
みんなが「へえ〜」と頷いて、俺は笑ってごまかした。その笑いが妙に引きつっていたのを今でも覚えている。
そのあと彼女が言った。
「でも、面白いですよね。呪いって、社会の圧みたいなものですし」
その一言に、俺は救われた気がした。
彼女は俺を笑わなかった。
それどころか俺の話を拾って補足し、言語化してくれた。その会の後、俺たちは駅まで一緒に歩いた。
外は冷えていてコンビニの前のホットコーヒーの湯気が白く漂っていた。
「行く」と俺は答えた。
新宿御苑の近くに住んでいて、大学はお茶の水。彼女の持ってくる本はいつも背表紙が硬かった。
『悪について』
対して俺の持っていくのは『チェンソーマン』や『ブルーピリオド』。
彼女はよく笑った。
笑うときに、指先を口元に添える癖があった。
その仕草が上品で、俺はそれを見るたびに自分がどれほど下卑た生き物なのかを思い知らされた。
付き合うようになったのはその年の秋だった。
彼女が修論で忙しくなってから俺の存在が息抜きになったらしい。
「あなたと話してると、時間を忘れちゃう」と言われた夜、俺は人生で初めてコンビニの帰り道が輝いて見えた。ファミリーマートの青い光がネオンのように見えた。俺の中でなにかが初めて肯定された気がした。
イルミネーションが飾られてSNSでは「#冬の光2021」というタグが流行っていた。俺は寒くてポケットに手を突っ込んでいた。彼女は小さな紙袋を下げていて中には文房具店で買ったモレスキンのノートが入っていた。
彼女はそう言って笑った。そして突然立ち止まって空を指さした。
「ねえ、見える?オリオン座」
俺は空を見上げた。
そこには三つの星が斜めに並んでいた。
「……あれか?」
俺は正直何もわからなかった。
星はただの光の点にしか見えなかった。
俺の住んでいた葛飾区の夜空では、星なんてほとんど見えなかった。中学の帰り道、空を見上げてもあるのは街灯と電線だけだった。だから星座の名前なんて知る機会がなかった。
彼女がそう言った。
本当は行ったこともなかった。そんな余裕のある家庭じゃなかった。週末は母親がスーパーで特売の鶏むね肉を買って帰るのが恒例で、俺はその肉を味噌マヨで焼いて弁当に詰めてた。
星よりも肉の値段を見てた。だから空を見上げるという行為が俺には贅沢に思えた。
彼女は俺の顔を見て、少し笑った。
「かわいいね。知らないことがあるって」
それがなぜかすごく悔しかった。笑われたわけじゃないのに馬鹿にされた気がした。
俺は「そうだね」とだけ言って視線を落とした。
地面に落ちた枯葉を踏みつけた。カサッという音が、やけに大きく聞こえた。俺はあの夜自分が一生星座の名前を覚えないだろうと悟った。
通勤電車の窓に映る自分の顔は相変わらず冴えなかった。イヤホンからはYOASOBIの「群青」が流れていた。「夢を描くことが全ての始まりだ」なんて歌詞を聞きながら俺は窓の外を見た。
見たのは空じゃなく、線路だった。
陰キャは夜空を見上げない。
星の位置を覚えられる人間は、いつだって上を見て生きてきた人間だ。
図書館に通い、正しい敬語を使い、誰かに恥をかかされないように育てられた人間だ。
俺はそうじゃない。
俺の星座はコンビニの防犯カメラの赤い点滅と、タワマンの最上階で光る部屋の灯りでできている。
これは遺書だ。
俺はもう彼女と会っていない。
バレンタインだった。俺はその日会社で義理チョコすらもらえなかった。彼女からのチョコを待っていたわけじゃないけど期待してた。
「ねえ、今年はどんな本読んでるの?」
その一言が来るだけで救われたと思う。メッセージはもう既読にならない。
仕事帰りの山手線、品川から田端までの間イヤホン越しに呼び出し音が虚しく鳴った。ワンコール目、ふたつ、みっつ、……留守電に切り替わる。
録音された「この電話は現在使われておりません」という機械音声。それがまるで彼女の声に聞こえた。その瞬間息が止まった。ほんの数秒で胸が焼けた。
どうして?
俺のスマホには彼女の写真がまだある。表参道の青山ブックセンターの前で撮ったものだ。彼女は黒いコートを着て、手に『ロラン・バルト/恋愛のディスクール』を持っていた。俺は同じ日カバンの中に『チェンソーマン』の最新巻を入れていた。
その夜二人で神宮外苑のいちょう並木を歩いた。イルミネーションの下で彼女が「あなたはどんな未来を望むの?」と訊いた。俺は「普通に働いて普通に暮らせたら」と答えた。
俺は夢を語る勇気がなかった。陰キャは、夢を語ると笑われると思ってる。
それでもあの頃の俺は必死だった。休日には「丸善丸の内本店」で彼女が好きそうな本を探した。
『夜と霧』
『哲学の慰め』
表紙をめくっても内容の半分も理解できなかった。けど読んでるフリをすることに救われた。カフェ・ベローチェでブレンドを飲みながらマーカーで引いた単語をスマホで調べた。
「内在性」
「超越」
「主体性」。
どれも俺には関係ない言葉だった。それでも彼女の世界に近づける気がした。
夏になっても連絡はなかった。彼女のTwitterアカウントは鍵がかかりInstagramは削除されていた。
唯一Facebookだけが残っていた。プロフィール写真は変わっていなかったけど交際ステータスの欄が消えていた。俺は夜中の三時渋谷のファミマでストロングゼロを買って歩きながらそのページを何度も更新した。酔いで画面が滲み青白い光が夜風に揺れて、まるでオリオン座みたいだった。
俺は空を見上げた。
もしこれを読んで俺のことだと気づいたのなら、どうか連絡をして欲しい。俺はおまえが好きだ。おまえがいないと俺はもう駄目みたいなんだ。
たくさん本も読んだし勉強した。今なら話にだってついていけるし、楽しませることだって出来る。
これを俺の遺書にはさせないでくれ。
1982年の6月2日、ラリー・ウォルターズ(Larry Walters)は、
そこらへんにある安楽椅子と42個の観測気球で作った自作の気球で、45分空を飛んだ。
彼の「飛行機」は4200m(16000ft)の高度まで上昇し、上昇を始めたカリフォルニア州サン・ペドロ(San Pedro)から風に流されて、
着陸の直前には送電線にひっかかってしまったが、ウォルターズは安全に着陸することができた。
ローレンス・リチャード・"ラリー"・ウォルターズは小さいころから飛ぶことを夢見ていたそうだ。
「気球に取り付けられた椅子で到達した最高高度|highest altitude reached by a chair attached to balloons」としてギネス入り
いろいろあり、30歳を目前にして貯金が一億近くある。
正当に自分で手に入れたものなんだけど、能力があって社会的に成功して稼いだ金という訳でもないから、なんとなくあるだけのものとして認識している。
親を含めた親しい間柄の人間に金銭的に搾取されてきた経験があるから、親孝行しようとか、困ってる知人友人を一方的に助けてあげようとか、見も知らぬどこかで困っている子供たちのために大きい額を募金しようみたいな気に全くなれない。(お世話になった人へのお返しとか、対等な関係での金銭のやり取りは除く。)
出不精だしコミュニケーションが苦手で友達がいない。作る気も積極的には起きない。
fireするには少し早すぎるし額が小さいと思う。
株などで増やすには脳が足りない。
小さいころ、宝くじで大金が当たったらと夢想した経験は自分にもあったが、実際使いきれないほどの金を手にしても持てあますだけだった。
むしろ、ゲームをズルして早々にクリアしてしまったような無力感にずっと苛まれていて、心療内科に行ったら適応障害を診断された。
鬱を経験したことがあるからあの時ほどの苦しみはないが、それでもぼんやりとした無気力感と嫌気に苛まれている。
生きていて楽しくないと思う。
お金があるおかげで生活に苦しむことはないが、味をあまり感じることができない舌なのでご飯を含めた生活のランクを上げるとかもしようと思わない。
お金が無かったり病気で仕事もままならず困っている人からすれば、働かなくてもしばらくは生きていけるだけの金がある自分は贅沢者に見えると思う。実際苦しくはないし、つらくもないが、ただ人生が楽しくなくて、無気力で、この先の死ぬまでの長い人生を思うと嫌になってくる。
【追記】おい、まて、今日の、任天堂ダイレクト、おい、ありがとう、子供の頃の自分が聞いたら喜ぶよ。生きていてよかった。人生のバイブルでよかった。
ーーーー追記終わり
父が新しいもの好きの機械好きだったからゲームは小さいころから遊んでいた。でも母は気に入らなかった。だって勉強時間がゲームに奪われてるから。テレビも漫画も嫌な顔されていたのを覚えている。
でもゲームがなければ小学生の頃、楽しく友だちと遊んだ思い出はない。いじめられていた中でも、ゲームを持ってる人が遊んでくれた。無かったらどうだったろう。きっと不登校になっていただろう。
今もゲームが好きで好きすぎて自分で作るのが楽しいって思えるのはゲームをしていたからだと思う。イベントに出展して、新しい友人ができ、大事な存在になったというころにようやく母は「ゲームもまぁ、するのは構わないとは思う」と歯切れの悪い事を言う。「でもゲームがなければもっと頭がよくなって、大企業に入れたのよ」と続く。
母は私(やきょうだい)がハイレベル校に入れなかったのがどうしても嫌みたいだ。
じゃあ私らは底辺の学校に入ったのか?と街中の人に聞いたら2000人中1990人は「十分な学歴・良い学歴」と答えるはずの学歴である。母的には中堅未満らしいが。
会社だって大満足なのだが、母は「そんな名の知れない中小企業に入るなんて」と就活時期に言っていた。母の中ではしょぼい経歴らしい。
母は娯楽になんか興じず、難関校に入ったことをいつも自慢する。「本を読め」と言ってた。
だから小学生の頃にギネスブックが欲しいと言ったら「そんな遊びの本を読むな」と返された。小6でも絵本が好きだったのだが「ぷwこれ?w幼稚園児ねw」って馬鹿にされ、本を読むのが嫌になった。じゃあゲームしまぁ~す。何を読めばいいかと聞けば「どれでもいい」「自分で選びなさい」と言う。
よく思い出す。母が行かせたい学校へ私を連れて見学に行きまくっていたこと。
それに対して私が滑り止めにしか受からなかった時の「はぁ、ここしか受からなかったか」という顔。合格発表の時の「当然でしょ。こんなとこ落ちたら終わりよ」という喜びの無さ。(受験が悪ではない。むしろ受験はしてよかった。それは別の話)
でもその学校は私にあっていた。今でも仲のいいマブダチはできるし、最高の青春を送った。
学生ん時は成績が悪く反抗期が長かったため「こんな学校にいれたから…」とずっと言われていたのを私は覚えている。犯罪も非行もしていないのに。
父がゲームを勧めたのは「きょうだいで楽しく遊べると思って」という理由。
今思えば、きょうだい仲はそこまでよくなかった。母がこれなので勉強関係は互いに馬鹿にし合って喧嘩ばっかりなので。ゲームで遊び始めたころから仲良く会話していたと思う。「一緒に遊ぼう」とか「ここ苦手だからお願い」とか。母はゲームを買ってくる父によく怒っていた。でも父は「楽しい方がいいだろ?」と父とも一緒に遊んでいた。
「~しなきゃもっと頭がよくなったのに」と母は大人になった今も何度でも続ける。いい加減しつこいので「抑圧され過ぎて事件を起こす人がいるし、学歴ばかり見るのも…」と言ってしまった。(逆も然りなので、勉強が悪とは思っていない。勉強は大事だ。ただ20何年もずっと言われ続けていからもう嫌だった)
だってしつこいから。まぁまぁ仲いいから遊びに来た我が子に毎回毎回そんなことをいう母がムカつくから。
「そんなのは弁護士が無罪にさせたいからの方便。そんなの信じているの?騙されてるね、頭使いなさい」と返されて面倒くさくなった。
母の中でゲームや漫画はいまだに悪であり、その存在が私らの頭脳を愚かにさせたものとしか思っていない。
トップの大学に入った友人が小学生のころゲームを持っていなかったと言えば「なんて教育熱心なお母さま!」と喜ぶ。「でも中学時代からはゲーム三昧で徹夜、授業・受験期もゲームで一緒にゲーセンによく行っていたけど」と言えば「その人は地頭がいいだけ」。逆にゲームを禁止されてた友人は難関大学に受かってないし。それを話したら「その人がただ馬鹿なだけ」と言って友人を馬鹿にしたので喧嘩になったことはある。
地頭がいい=その両親も高学歴と言うのを信じて疑わない。でも上記の地頭がいいと言われた人の両親は高卒である。そういうと「レアなケース」と認めない。
ゲームを禁止した勉強時間が延びると本当に思っている。何度かゲーム機を没収されたが、私は児童館で卓球と工作ばかりしていた。勉強時間は延びていない。
ずっと心に残り、いつも不思議な気持ちにさせてくれるゲームがある。
人生感を一気に変え、エンディングで涙を流し、無限の感覚を浴びたWiiのとあるゲームが今でもバイブルだ。今見ても泣いてしまうエンディング。何度でも見たい。あの絵本のBGMで泣いてしまう。天文学を学ぼうとしたきっかけ。これは愚かなのか?悪なのか?
大人になってやったゲームで「姫様覚悟決まりすぎだろ…」ってボロボロ泣いたのは駄目か?「誉…この選択肢…」ってボロボロ泣いたのも駄目か?
母はそれでも私らをもっといい大学に入らせて、もっと上の大企業に勤めさせたかった(そもそも上って何だよ)。ゲームで感動?笑止な人。
今になって過去を責めてくる。自分が悪いのではなく、勉強しなかった我らが悪いとしたいらしい。
謝罪して「私が悪ぅございました。やっぱりゲームはクソです!今からたくさん勉強して、高難易度資格を取ります!大手企業に入ります!世界に羽ばたくエリートになります!()」って言えば満足か?
どーせもっと要求してくるわ、目に見えている。だってすでに「~さん(私と同い年)はアメリカで博士していて(チラッ」とかぬかしている。
小さいころから何年かに一度、とあるバスに乗っていて、カーブを曲がり切れず、そのまま湖(か川か海?とりあえず水辺)に転落する夢を見る。
他の乗客の悲鳴、宙に放り出されてグルグルとする車内。いつもリアルで、怖くて、苦しくて、死にそうになって飛び起きる。
だけど、その川というか景色は見たことがない。バスの中では家族はおらず、自分とあとは知らない人。おそらく友人という関係だけはわかった。だが顔は見たこともないし、私のことを別の名で呼ぶ。バスの内部もよく覚えている。
いつも起きてから「いろんな記憶が混じったとしても、似たような場所には行ったことないなぁ」と思いながら、夢だしそんなもんだよなと思っていた。
先日、暇つぶしにWikiを漁っていた。歴史系のページを見ていたら歴代のバス事故ページにたどり着いた。
Wikiには事故現場の写真が載っているのだが、見た瞬間にゾワッとした。よくみる転落事故の夢の景色似ている。
いやいやwそんなw偶然wと思いつつも一抹の好奇心がGoogleMapに指を動かした。
夢の中で見た景色、そのままだった。
自分はスピリチュアルなものや前世とか夢占いとか全く信じないのだが、恐ろしいくらいに夢とそのストリートビューの景色が同じなのだ。
じゃあ昔、ストリートビューで見たんじゃないのか?と思いつつも、この夢は小学生のころらか見ている。小学生の時なんてiモードが騒がれていたくらいで、パソコンなんて持っていない。携帯すら持っていない。
小学生のころから印象になった夢は夢日記にしている。だから絶対小学生のころには見ているのだ。
ちなみに夢日記から推測するに、「20代くらいになっている」「バスから湖が見える」「急にバスがよれ、カーブを曲がきれず落ちる」「水の中に落ちると目が覚める」
は確実である。
でもこんなことを誰かに言ったり、匿名じゃない場所でボヤいたら悲劇ぶっている痛い奴だ。偶然って言われたら偶然だが、そんな言葉で済むのならこの世に陰謀論なんて言葉は存在しない。
こんな馬鹿げたこととは思うけど、考え始めてしまうと止まらない。幼いころに宇宙の広さを考えて怖くなってしまう感覚に似ている。
でも本当に夢の景色そのままの場所だった。バスの中もまさか…と思い、その会社のバスを調べようかと思って止めた。これで本当にバスまで夢のままだったら、感情がよくわからなくなりそうだ。
それこそ夢の中で呼ばれている別の名前は調べていない。調べて当てはまっていたらどうするんだ。どうしようもない。無責任な気がする。
もし全部が全て夢と同じだったら?頭が痛い。
初潮なんてそれまでの短い人生の中では最も印象深い出来事の一つだろうに、全く覚えていない。私はこんな風に、たまに不安になるくらい子供のころのことを覚えていない。
でもまあ、中学の時点では始まっていたと思う。プールの授業を見学していた記憶があるから。
肌が弱かったので、蒸れたり濡れた感じがしたりというのが不快だった。ちなみに神アイテムのウィスパーは1986年に発売され、2018年に販売を終了したらしい。自分で生理用品を買うようになってからはずっと使っていて、でもこの記事にある通り近年はソフィとかの方が快適だったので買ってなかった。長年お世話になりました。
生理痛も出血量もひどい方だったと思う。高校時代、部活のお使いで生理2日目に電車ででかけたとき、あまりに生理痛がひどくてホームでしばらくうずくまっていたのをいまでもよく覚えている。貧血もひどくて、鉄剤を飲んでいたのでいつもお腹が緩かった。
高校時代は水泳部で、タンポンの使い方を覚えた。母親は何も教えてくれなかったので(聞かなかった私も悪いが)、生理関係は水泳部の友達にずいぶんと教わった。
大学時代の生理の思い出は特にないな。ただ、とにかく定期的に来ていたことは覚えている。ほぼぴったり28日周期。1日目が一番生理痛が重く、2日目が出血のピークで5日くらい続く。そんな感じ。生理痛はひどくても薬を飲むのに抵抗があったので我慢していた。いま思えば普通に病院に行って薬をもらっておけばよかったのだけど、自分のその状態が異常だとは思っていなかった。小さいころ薬で蕁麻疹が出たことがあり、よほどのことがない限り薬は飲みたくなかった。いまならためらいなくバファリンを飲む。マジで楽。
生理との付き合い方がガラリと変わったのは30歳直前、海外に出てからである。ある事情で2年ほど海外で過ごすことになり、薬局で普通に売られている低用量ピルを飲んでみることにしたのだ。
いやこれが楽。あり得ないほど楽。いままでの苦しみは何だったのかというくらい楽。血栓のリスクがあるのは分かっていたけど、結局帰国後も個人輸入して飲み続けた。この経験はのちに少しだけ役に立つ。
ピルをやめたきっかけは東日本大震災である。直接の被害はなかったものの家が被災して帰れず、それどころではなくなってしまった。まあ潮時である。
東日本大震災の時は奇しくも生理中で、避難させてもらった親せき宅に着くまで半日ほどナプキンが交換できずに膀胱炎になってしまった。避難先は病院が普通に機能していたので薬を処方してもらえてすぐ治ったものの、被災して膀胱炎に苦しんだ女性も多かったんじゃないだろうか。
ちなみにこのとき私はうつ病の治療中で、抗うつ剤と睡眠導入剤の減薬をしており、抗うつ剤は順調に減らせていたものの眠剤はなかなかやめられなかったが、自宅に帰った数日後にスッパリと辞めた。普通に震度5~6の余震が来るので、眠剤で眠りこけていたら死ぬからである。なによりも、日中気を張りすぎているのか眠剤が効いてくる前に眠れるようになっていた。でも余震が来ると一瞬でぱっちり目を覚ます。いま思い出してもあのころの精神状態は異常だった。
ピルを辞めてからも、生理はきっちり28日周期でやってきて、でも昔ほど生理痛はひどくなく、出血量も減った。ピルの影響なんだろうか。
出産後も割とすぐ生理は戻ってきた。母乳の出が悪く、産後1か月で完ミ(って久しぶりに書いたな!「完全にミルク」の略である)に移行したからだろう。
私はすさまじい産後うつで(そのときのことを増田に書いてバズった。皆さん暖かい言葉をありがとう。元増田は元気だろうか→https://anond.hatelabo.jp/20201012164343)、心療内科での投薬開始と同時に、生理前の気分の落ち込みがひどいということで、今度はちゃんと産婦人科でかつて飲んでいたピルと同じものを処方してもらった。不安なく飲み始められたのは若かりしころの経験のおかげである。ちなみに抗うつ剤も前と同じものを処方してもらった。こちらの方が恩恵がでかい。抗うつ剤は自分に合うものを当てるまでが大変だから(前回大変だったから)。
産後うつは投薬と休養、出産からの時間経過によるホルモンバランスの落ち着きにより2年ほどで寛解し、抗うつ剤ピルともに投薬終了。しばらくはまた規則正しく来ていて、生理痛は重かったり軽かったりだったが、5年くらい前、45歳から、周期が乱れ始めた。しかも、よりによって早い方に、である。
28日周期だったのが、26日、24日、23日・・と早まってきたのだ。普通に生理痛もあり出血量もあるのに、その頻度が増えたということ。おかげで旅行の予定がとても立てづらくなった。勘弁してほしい。
で、突然50日くらい来ないというときも出てきた。ついにあがったか?!と思ったらまた始まる。その繰り返し。若いころなら迷いなく病院に行く周期の乱れ方だが、この歳だと普通にあることなので判断が難しい。長年子宮頸が軽度異形成~異常なしをフラフラしていたので余計に心配だったが、定期検査では特に大きな異常はなかった。
そして、今年の4月26日、前回から21日後というだいぶ早い周期で生理が来て以来、今日まで101日間来ていない。
閉経の定義は、生理が1年間来なかったこと、だそうなので、正確にはまだ閉経とは言えない。ただ、なんとなく体型や気持ちの変化があり、もう来ないような気がしている。
正直、生理が来ないのは楽だ。ナプキンは信じられないほど進化しているとはいえ、不快なものは不快である。生理痛も、薬を飲めば落ち着くものの、ダルさまでは消えない。それがなくなったのだ。
ただ、これからは別の不安におびえることになる。まずは骨粗しょう症である。私はすでに同世代の91%ほどしか骨量がない。そして私の祖母はひどい骨粗しょう症で、90を過ぎて大腿骨を骨折したが骨がもろすぎてレントゲンに写らなくて固定ができず、でも折れた骨がこすれて痛いということで足を切断した。怖くてしょうがない。
ホルモンバランスの乱れというのもある。これは産後うつで嫌というほど感じたやつだ。2回もうつ病に罹っているんだから絶対にリスクが高い。
更年期障害も避けられない。どういう症状が出るかは分からないが、生活に支障をきたすようなのが来ないのを祈るしかない。
そして、いま強く感じているのは確実に死に近づいているという恐怖である。
出産後も感じたことだけど、明らかに生物としての役割を終え、後続に道を譲る時期が来ているのを感じる。
生理だけではない。関節は痛いし老眼は進むし、寿命にはまだあるかもしれないけど体はどんどん衰えていく。
子供を見ていると、年寄りから死んでいくのは全くもって正しいと断言できる。とはいえ死の恐怖が消えるわけではない。
だからいまは、せめて健康寿命を延ばそうと、せっせとストレッチしたり運動したりしている。
若いころからは考えられなかったが、1日に1時間は自分のメンテに当てている。
とりあえず自分の子宮および卵巣お疲れさま。13歳で初潮だとしたら、36年間、ブランクは多少あったもののずっと働いてくれた。こんな風に人生の途中から始まり途中で終わり、かつこれほど長い間続いたものは他にないと思う。無趣味だし。
不潔すぎてヤバい。具体的に言うといろんなものを食べてしまう。ほんとに気持ち悪いと思うので耐性ない人は読まないで。
・鼻くそ(当然食べる)
・目やに(食べるときもある)
・フケ(頭掻いたときに爪に溜まるフケを食べる)
・経血(指についてたら舐めることもある)
・爪(今はあまり食べないが、食べる時もある)
客観視するとヤバすぎる。小さいころ親に注意されたが、直らず隠れてずっとやってる。
類を見ないほど不潔なこと以外はいたって普通の人間なのがさらにヤバい気がする。そこそこ名の知れた大学を卒業し、ふつうに会社員をしている。
他の衛生観念でいえば、お風呂は毎日入る。次の日休みで外出ない場合は風呂サボりがち。シーツは一年くらい洗濯しない。服、下着などは一度着用したら洗濯する。バスタオルも一回使用するごとに洗濯。
彼らが最初メシマズ嫁を攻撃したとき、私は心の中で呟いていた。
嫁とは一度別れたものの復縁し、向こうからのプロポーズ催促でお互い30過ぎに結婚した。
働き者の良い嫁である。そこは素直に尊敬しているし頭が上がらない。
メシマズ嫁は料理を作りたがる。しなくてもいいと言っても作る。
やりたくないことを無理にやらせてるから上達しないんじゃなくて、自分から率先してやるのに同じ失敗を繰り返すのである。
私がスーパーで買ってきた弁当を食べようものならすねる始末だ。
「もう作らないからね」という言葉を聞いた覚えはあるが、未だ履行されていない。
うちのメシマズ嫁が料理を下手な理由には見当がついていて、分量を全然守らないのである。
失敗作を目にするたびに四次元殺法コンビの「王道が何故面白いか理解できない人間に面白い話は作れないぞ!」というコピペを思い出す。
電気炊飯器で精米を炊くことにすら上手い下手があるということを、私は彼女と同棲してはじめて知った。
嫁は「無洗米でも洗わないと気が済まない」と言うが、そんなことより水の量に気を遣って欲しい。
ふつうのお米だとぱさぱさだのガチガチな炊き立てご飯が出てきかねないので、今はもちもちの低アミロース米を選んでいる。
自分が炊けばいいのだが、仕事の都合手が回らないときもある。……嫁の夕飯は早い。休日など夕方5時過ぎに夕飯になる。うちの親は共働きだったので夕食は9時10時が当たり前だったし一人暮らしのときもそんな感じだった。生活リズムが合わないので間に合わないのだ。
肉も赤い肉が出てくる始末だ。びっくり!! 私の食卓もまっ赤っか! ダイロシアンか。
加熱調理がヘタならせめて薄い肉にすればいいと思うのだが、なぜだかいつも厚みのある骨付き肉を買ってきて失敗する。少しかじると赤みが出てくるのである。なお、骨付き肉という点も食べづらくて苦手だ。
嫁は冷食やカップ麺は体に悪いというのだが、絶対生焼けの肉のほうが命が危いと思う。嫁にもそう言っているのだが肉はやはり赤い。
外食に行くと嫁はユッケをよく頼むので、彼女の料理の火加減も半分は意図的にやっている可能性もある。
私は命を懸けてまでおいしいものを食べたいとは思わないので、ウェルダンが好きだ。
そもそも生食用に売られていない肉は加熱調理を前提としている。
私は別に冷食でいいと思っているのだが、たまたま嫁のいる時間帯にブッシュドノエルを焼いたことがある。
そしたら彼女は横から手を出してきて、用量を無視してボールにドバッと砂糖を入れてきた。
命の危険を感じるほど甘かったし、実際油断して一度に何切れも食べたら頭痛がした。
もう彼女のいるときに調理したくない。No more war.
さて、嫁は前職で上司に今後あなたに任せられる仕事はないと言われたらしく、憤慨して去年転職した。
実は障害者雇用では、法定雇用率というものがあるので雇いはするが、勤務時間が埋まるだけの仕事を割り振れなくて手持ち無沙汰にさせているという職場はけっこう多い。
雇用する企業や上司が適切に仕事を割り振る必要があるが、上司だって部署の成績に対して評価が付くからできる部下と仕事をやりたいものだ。相当価値観がアップデートされた企業とやる気がある障碍者の組み合わせでないと数合わせになりがちなのだ。
座ってるだけで給料がもらえるなんて羨ましいと思うかもしれないが、これまで幸運なことに、と言っていいのかどうか、業務をこなしながら勤めてきた彼女にとっては追い出し部屋行きにしか思えなかったのだろう。
職場の嫁を見たわけではないので本人には言えないが、私は彼女の働き方にも瑕疵がなかったとはいえないのではないか?と思っている。
家での彼女は家事を率先してやるが雑である。レシピや説明書きを守らない。
仕事が遅いのはまあそれを考慮したうえでスケジュールすればいい話だが、雑で修正が多いとなるとチェックに手がかかって大変である。兵は拙速を尊ばない。
嫁の前職は旧公社系の子会社だったし給料も障害者雇用では良い方だったので、彼女の親戚や友人は転職に反対したという。
彼女の普段の言動を考えても納得のいく反応である。嫁はいわゆる病み垢ほどではないが社会に対する被害者意識が感じられ、お嬢様育ちで世間知らずだ。
転職先でも実家暮らしだと思ってたと言われたそうだが、さすがに転職したばかりの職場でそう尻尾は出していないとは思うのだが、私もさもありなんと思う。
ただ、私は、彼女が前職で働きたくないと言っていた以上長続きしないだろうなと思ったし、それに軽度身体障害者の転職のしやすさも聞いていたので、嫁の意思に任せることにした。
どこぞの商材屋にでも感化されたのかフリーランスになれば年収1億円プレイヤーになれるかもと言い始めたときには、さすがにそんなうまい話ないと思うよとツッコんでしまったが。……どうも嫁は反冷食どころかディープなステートやら疑似医学にも弱いらしい。この間の選挙でもだいぶテンション上がってたので参○党かどこかに入れたんじゃないだろうか。怖くて聞けない。
転職した嫁は今度は職場が遠くてキツいというので、もっと交通アクセスの良い場所に引っ越すことになった。
一人暮らしをしていたころ私は引っ越し先を探すのにそう苦労した覚えがないが、彼女はいつも半年ぐらいかかっていたという。
結婚当初に住んでいた家については交通の便を捨てていたので気づかなかったのだが、改めて引っ越し先を検討していて彼女が物件探しに苦労する理由がよく分かった。
家庭の懐事情に生活の質を合わせるということを知らないのである。
嫁は山の手のお嬢様育ちなのでか友人は羽振りがいいらしく、彼女の友人の家には20畳近い部屋があるそうで、そんな家に住みたいといってくる。嫁が実際に引っ越し先候補として挙げてくる部屋はさすがにもっとコンパクトだが。
薄情な友人はなぜ彼女に良い男を紹介しなかったのだろうか? その謎を解明すべく、私はアマゾンの奥地へ向かった――
私は小さいころに父が事業に失敗して清貧な生活を余儀なくされていたので、生まれてから住んだ家の中で一番専有面積が広いのが嫁と暮らしている部屋だ。家族4人で借りてた部屋より夫婦2人の部屋のほうが広いって冷静に考えたらだいぶ贅沢だ。
実のところ私も、正社員の身分ではあるもの、彼女とそう年収が違うわけでもない。
家賃高いけど嫁も働いてるしまあなんとかなるかな……と思って申し込んでも入居審査NGとなることが続いた。
当たり前と言えば当たり前である。親元で家族4人で暮らしていた部屋より広いんだから、子ども作る予定もないのに。
嫁の理想をすべて満たす家に住みたいならもっと稼げる旦那さんを探してもらうしかない(これはうっかり口に出したことがあるが嫁からは軽く「むかつく」としか言われなかった)。
しかし、どうやら彼女に離婚する気はないらしい。転職して嫁の年収が下がってからは、私に転職を薦めてくることもなくなった。
私の給料は確かに世間的にはそんな高くはないが、もっとキツくて薄給の仕事をがんばっている方も世の中には大勢いらっしゃる。
老後2000万円問題(それが誤読ということは知っているが)もコツコツ働いていれば40代にはクリアできている見込みだし、もっと若いころには体を壊していた時期もあるので、私としては不足はない。
結局、現実に打ちのめされて嫁が折れるまで引っ越し先は決まらなかった。
引っ越したばかりの部屋に、嫁は狭いとため息をついた。
今はなんでも電子化・小型化されているので物も少なくて済むし、体感的にはその部屋は私が家族と住んでいた部屋よりずっと広い。
フィクションでは没落貴族のお嬢様は心が美しく権門のご令嬢はおごり高ぶっているものだが、現実はどうやら逆のようだ。
人は一度上がった生活の参照点をなかなか下げることができない。生活の質をそれより下げざるを得なくなった者は常に不満を抱えるしかないものらしい。
生まれてからこのかたずっと苦労知らずの人間は心に余裕がある(故に下級国民の余裕のなさを理解しづらいのだろう──「本当の弱者は助けたい姿をしていない」)。
平安の昔、末法の世にあっても、八条院領と呼ばれる広大な領地を相続し女帝候補であったとも言われる八条院暲子内親王はおおらかな性格で人望も篤かったという。
マッチングアプリで出会った彼に先月プロポーズされて、結婚の準備を進めている。
婚約者は専門卒の私と違って、大学院を出てしっかりした仕事につき安定した収入を得ていて、誰かに紹介しても恥ずかしくない社会性と清潔感もある。紹介した友達からはいい男捕まえたねーといわれる、まあ上昇婚だ。
私自身は彼の、いつも柔らかな口調で話して怒ったりしないところが好きで、今後も一緒に生活するならこういう人がいいなと、これは心から思っていた。
先週末の話である。先日ネットで買った物の説明書が英語しかなく、どうしても使い方がわからなかったので家に来た婚約者に説明書を読んでもらえるようにお願いしたところ、「英語くらい自分で読みなよ」という言葉が返ってきた。読めないからお願いしているのになんでそんな事を言うのかと聞くと、「高卒でも6年間は英語を勉強しているはずで、説明書に書いてある英語は中学生卒業レベルで読めるからそれを人に聞くのは本来恥ずかしいこと」で「少し大げさに言うと小さい子供に絵本を読んでとせがまれている気分」らしい。
私は小さいころから「学校の勉強なんて社会に出てからは役に立たない」と言われて育ってきたし、今更学校の勉強ができていないことが恥ずかしいと言われる意味がわからなかった。いつも優しい婚約者から出てくる言葉とは思えず、その日は早めに帰ってもらった。
その件があってから、私がこれまで(婚約者にとって)トンチンカンなことを言ったときに毎回、こいつは恥ずかしいやつだと心の中でバカにされていたんじゃないかと不安に思っている。一つ一つは思い出せないけど、婚約者が良く「来週はヒューストンだから会えないね」というのでヒューストンは国の名前なのかと聞いたときはキョトンとした顔をして少し笑った後、行き先はアメリカだよと言っていた。あれもアメリカの州の名前も知らないバカ女だと笑ってたんだろう。洗剤を薄めるときの計算がわからなくてお願いしたときも、義務教育レベルの計算もできない馬鹿だと思われていたんだろう。
あれだけ楽しみにしていた結婚も、婚約者との結婚生活も全然楽しみではなくなった。このまま結婚して、一生バカにされて生きていくは耐えられない。子どもができたら婚約者はちゃんと勉強をさせるだろうから、そうなったら子どもにも馬鹿にされるかもしれない。なんで大人になってまで、子供の頃に勉強ができなかったことを馬鹿にされないといけないんだろう。
幸いなことに、両親が結婚したのは、その女が捕まる前のことであった。
幸いなことに、両親が結婚したのは、その女が捕まった後のことであった。
前と後を間違えていた。
ーーー
ところどころ改変あり。
バブル期に結婚した両親がまだ新婚だったころの話。続柄は増田から見たときのもの。
ある日、父の勤め先にクレジットカード会社が営業に来た。
そのカード会社は、父の勤め先と取引がある銀行の子会社であった。
父を含めた同僚数名がクレカを作ることになったが、
父は、折角だからと母の分も家族カードとして発行することにしたという。
理由を先方に尋ねたところ、「奥様がブラックリストに載っていたので発行できない」という回答が返ってきた。
母と同姓同名で、漢字表記も生年月日も同じ女がかつて罪を犯し、服役中であったという。
当時は今ほど個人情報に厳しくなかったためか、あっさり教えてくれたのだとか。
勤め先経由で聞いたため、職場でも有名になり「変な奥さんを捕まえてしまったね」と父は冗談交じりで言われたという。
幸いなことに、両親が結婚したのは、その女が捕まった後のことであった。つまり、その犯罪が起きたとき、母はまだ旧姓であった。
戸籍の写しや結婚した日付の証明などをカード会社に送ることで、無事に疑念は晴れ、カードを発行することが出来たという。
以来、両親ともにカード発行や銀行口座開設を拒否されたことは無いと言う。
上の話は、両親の若かりし頃の思い出として、増田が小さいころから何度も聞かされてきた話である。
父も母も、当時は大変な思いをしただろうが、今となっては「あんなこともあったね」という「笑い話」の一つのようだ。
まだ孫は生まれていないが、両親はきっと孫にも話すだろう。